「不協和音」
耳障りの良い和音の中に違う音を加える事によって新たな和音が生まれる。
同じリズムや和音の中でちょっと違う音が混じる事を不協和音と言う。
当たり前のリズムや和音に不協和音が混じるとそれをきっかけに新しい展開が起こることがある。
専門的に解説するとこうなる。
「楽曲的な狭義な定義」
1)和音のうち、構成音の3度と5度の音程が協音程(長・短3度と完全5度)である和音を協和音とし、
それ以外の和音を不協和音とする定義。
この場合、コードで言えば、協和音となるのはメジャーコード(M、無表記)とマイナーコード(m)のみ。
音同士がぶっかっていないディミニッシュコード(dim)、オーギュメントコード(aug)も
この場合は不協和音に分類される。
2)ぶつかっている音を含む和音。一般的に、短2度(長7度)、長2度(短7度)の2音程
(もしくはそれらのオクターブ転回形)は音同士がぶつかって聞こえるこれらの音程を含む和音を不協和音とし、
含まない和音を協和音とする定義。
この場合のコードで言えば、協和音とされるのはメジャーコード、マイナーコード、ディミニッシュコード、
オーギュメントコード、ディミニッシュドセブンスコード(dim7)であり、それ以外のコードは不協和音とされる。
3)演奏者のミスなどによりハモって聞こえない和音。
和音の構成音のうち1つでもピッチがズレると、その和音はたいていハモって聞こえなくなる。
この状態の和音を不協和音と呼ぶことがある。この場合の「ピッチのズレ」音階的なズレの場合もあるが、
半音未満の微小な音のズレを指すことも多い。
お分かりになりましたでしょうか。
1)人間社会でも同じように名門の出身で一流大学を出て一流の会社に勤めている同士は協和音です。
あくどい商売をして金持ちになりセレブの仲間入りをしようとする人は見た目には協和音なのですが、
不協和音として嫌われます。
2)政治家や企業の派閥でぶっかっているのは不協和音ですが。それ以外の人間関係が良好であれば協和音としてみなす。
所謂、打算的に付き合っているなかで得とみなせば協和音とみなし、損とみなせば不協和音とするという事です。
3)低レベル知識や情報で堂々と人前で話す。間違っているわけではないのですが、何かがおかしい。
場の空気にそぐわない話題で外す事は残念ですが不協和音です。
難しい事は言わないでみんなと仲良く過ごせる人は協和音なのです。
お分かりになりましたでしょうか。
「ゆらぎ」
自然界の音を聞くと身心ともに心地がよくなります。特に川のせせらぎは人の生体に良い影響をあたえます。
数年前からその振動をとらえて「1/Fのゆらぎ」というようになりました。
音楽療法ではこの「ゆらぎ」を中心に音作りをします。
自然界の音と生楽器の音の組合せから、脳内のホルモンに刺激を与えて明るく楽しい健康な身体作りをします。
「ゆらぎ」自体をはっきり定義するのは難しいんですが、
ものの予測のできない空間的、時間的変化や動きといったら良いと思います。
予測は、規則性があるからできるので、言い換えるとゆらぎとは、ものの空間的、時間的変化や動きが、
部分的に不規則な様子ともいえますね。
ゆらぎは、世に存在するすべてのものに表れます。
例えば、風は突然吹いて、そして突然止まることもあります。
風は不規則な動き、いわばゆらぎの代表格の1つです。
1/fゆらぎは、自然界に非常に普遍的に見られる現象で、ものの集団の動き方の根本法則のようなものらしい、
ということまでは分かっています。
そのほか、1/fゆらぎが生体のリズムと同じだということも分かってきました。
初めてこのことを発見したのは人間の心拍のリズムです。
他に、目玉の動き方や脳波のα波の周波数ゆらぎもそうです。
生体に、心地よさなど快適な感覚を与えてくれるんです。人間を心地よくしてくれる刺激には、
1/fゆらぎをしているものが多いのです。
その典型的なものが音楽です。
音楽の特徴は音響振動数のゆらぎ方にありますが、ほとんどすべての音楽は振動数のゆらぎが
生体リズムのゆらぎと同じになるようにつくられているのです。
(東京工大名誉教授武者利光より引用)
不協和音とゆらぎは別なものなのですが、音の不規則的なズレが、身体に心地よさと快適さを生みだすのには、
何か共通した原理がありそうな気がします。
規則正しく機械的に作られた音楽からは決して心地よさが生まれません。
「能」の世界で使われる音楽様式に「序破急」というのがあります。
最初はバラバラから入り、途中からまとまり始めます。そして最後はテンポが速くなり完全に一つになるのです。
この音のズレから心地よく幽玄の世界に誘われるのです。
また古代楽器に石笛という楽器があります。
神を降臨させる時に使う楽器なのですが、決められた楽譜はありません。
その上に神事の際には練習もしてはならないのです。
自然界の音と一緒にゆらぐようにして吹き続けるのです。
いにしえの時代から人はこのゆらぎの法則で身体を癒し健康になって来たのだと思われます。
2月 5th,2013
恩学 |
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音楽家にとって一番大切なのは礼儀じゃなくて才能だ。
先ずは才能を引き出さなくて一方的に礼儀を教えると駄目に成る。
組織は若き音楽家に礼儀を教えることが多い。
音楽家に礼儀の謙虚さが身に付けば闘争心が薄れて一流にはならない。
音楽家の傲慢なほどの自尊心が唯一花を咲かす早道になることを知らないのである。
音楽家は音楽で全てを語れば良いのであって人柄で語る必要はない。
しかし、だからといって常識知らずでは一流にはならない。
世の中に認知されるまでには沢山の人の協力を得なければならない。
その際に大切なことは、人に接する礼儀の態度では無く、人に接する真摯な心が重要なのである。
自分の素直な気持ちを相手に伝えた時に、相手が不愉快にならない様にすることが最低限の常識である。
監督者が音楽家に伝えることは、音楽家の才能にあった作品(旋律)を引き出すことである。
音楽家の才能を引き出すということは、音楽家の才能のドアをノックするようなものである。
監督者がドアの外からノックするけれど、内(なか)から開けるのは音楽家本人である。
あくまでも選ぶのは監督者ではなくて音楽家本人なのである。
音楽家がドアを開けて才能が表(おもて)に出て来てはじめて次の段階に入る事が出来る。
楽典に沿った音楽的技術と本番での表現力を指導するのである。
難しいのは最初から一流のスタッフと仕事をさせると小技の技法を覚えてしまう事である。
素(もと)の部分より飾りの部分を気にするとオリジナリティーに欠ける作品をつくる恐れがある。
素とは根本の作品であって飾りとは他人を意識した作品である。
他人の技法と表現に感動すると模倣が始まる。
模倣が始まると本来の自分では無い表現を小技として取り入れてしまうのである。
音楽家は粗削りでも独自の表現がなければ音楽家としての存在の意味がなくなる。
他人と同じことをやっていては表現者としての進歩に繋がらなくなるのである。
血のにじむような創作の努力があってこそ初めて万人が喜ぶ感動が生まれて来るのである。
一流の音楽家になってもらうために教えることは基本的な音楽技術と表現力である。
それ以外に、創作のための思考方法、演奏時の表現方法、言語による伝達方法なども教える。
監督者はあくまでも音楽家の内面からわきあがる情熱と才能の創出をサポートするのが役目である。
現在スポーツ界で問題になっている「体罰」は、教えることと育てることの考え方の根本が間違っていると思う。
教える側が暴力をふるう行為を技術向上のための「愛情」と正当化してしまうところに危険が潜んでいるのである。
成長期の大切な若者達の心と身体に暴力で与えた教育は、反感はあったとしても感謝は絶対に無いと思う。
ましてや恐怖を植え付けた教え方に健全なスポーツ精神が養われることは絶対無いのである。
ここに一人のジャーナリストの「教育」についての言葉がある。
96歳のジャーナリスト、むのたけじ氏が教育についてこう述べている。
「教育という営みは、教えて育てているなんて無礼な行為ではない。
教育とはラテン語の「引き出す=エドゥカーレ」という動詞を母としているのです。
教育行為はまさにその引き出す情熱、その行為から始まる。
若者の内面にあるものを、丁寧に引き出して光を当てて吟味して改めるべきは改めながら、
あるゆる可能性を十分に伸ばして育つようにする。」
まさしく教える側がこれほどの謙虚さを持ち愛情を持って育てる事が大切なのである。
2月 5th,2013
恩学 |
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ある日突然思いがけない出来事で地位や名誉や財産等全てを失う人がいます。
その原因は色々あったとしても高い地位にいた人がすべての責任を取るのです。
結果高い位置にいた人が職場を失い一番低い位置まで転げ落ちるのです。
今までは指示をするだけであらゆるものを動かしていたのですがその立場が逆転するのです。
尊敬の目で見ていた周りの人達も笑顔をなくし冷たい態度に豹変します。
人としてのプライドもズタズタになり味わったことの無い屈辱感が襲いかかります。
ストレスで頭の中が混乱をして睡眠不足になり食欲も無くなります。
最悪の場合は家族も友人も離れていき孤独な人生を送る事になるのです。
そのような境遇の人が試さなければならないのが「下座行」なのです。
たとえば不正を行った政治家や放漫経営で倒産させた社長や悪質な商売で失敗した金融関係者などが、
悔い改めて立ち直る為には「下座行」をしなければならないのです。
「下座行」とは、人と人が交わる場所を「清めて」、「提供しあう」ことを教えているのです。
また合わせて「下座行」を通して人同士の互いの心を清めあう事も教えているのです。
このことから「自他の利益」の思想が生きて来る。
「下座行」でもっとも基本的な事は、他人の履物を揃える事と、お便所の掃除です。
不浄な仕事をする事によって、多くの人の下になり、今迄の過去を悔い改めなさいという事です。
「下座行」は、通常お寺で行います。年を取ってからお寺の門をくぐるわけですから、
この「下座行」で反省の本気度が試されるわけです。
私はそれほど下等な人間では無いと口答えでもしたら即刻破門です。
綺麗事だけで生きて来た人間に取って、不浄な物を扱うのは耐えられない事だと思います。
しかしそこから這い上がって来た人間は、謙虚と謙遜を身につけて社会に復帰してくるのです。
私の周りにも「下座行」を体験した人がいます。
入門したわけではないのですが、過去を悔い改め身を清め禊の心で復活した人達です。
間違っていけないのは、失敗を単純に「不運」という言葉で洗い流してしまうことです。
そのような人は又同じ過ちを繰り返すのです。
私の大好きな哲学者森信三先生の言葉に「下座行」があります。
「そもそも一人の人間が、その人の真価より、はるかに低い地位に置かれていながら
それに対して毫(ごう)も不満の意を表さず、忠実にその任を果たすというのが、
この「下座行」の真の起源と思われる。
下座行とは、一応、社会的な上下階層の差を超えることを、体をもって身に体する「行」といえる。
例えば「高慢」というがごとき情念は、
自分の実力を真価以上に考えるところから生じる情念といってよかろうが、もしその人に、
何らかの程度でこの「下座行」的な体験があったとしたら、その人は恐らく、高慢に陥ることを免れうるのではあるまいか。
人の師たる人はとりわけ、この下座の体験者であり、下座の行者であることが、何より大事なことであることだけは、
このわたくしにも納得せられます。」
もし「下座行」を英語で書くとするとアンダースタンドとなります。
貴方の下に位置する事により、よく理解が出来ましたということになるのです。
2月 4th,2013
恩学 |
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2000年前以上の中国の教えが現代にも通用するのは、
基本的に人間の行為と思考法はあまり変化がないということだろうか。
荘子という偉い哲学者は出世欲が無い為に隠遁生活をしていたらしい。
そして竹藪の向こうから世の中に文句を言い続けたのである。
俗にいう、嫌われ者の頑固親父という事である。
昔の町内会に必ずこのような親父が一人いた。
学識はあるのに時代が合わず、世情の文句ばかりを言い歩く親父である。
しかし正論を唱えるので誰も反論はない。
痛いところを指摘されて怒る人間もいるが「あいつだけは関わるな」と周りから言われてしまう。
警察も学校の先生も坊さんも果ては任狭道の人達でさえ、道で会えば頭を下げて通り過ぎる。
難事の時の神頼み的な頼れる存在なのである。
特に冠婚葬祭などの祭事の時には必要不可欠な謎の大先生なのである。
荘子の思想は無為自然を基本とし人為を忌み嫌うものである。
荘子は徹頭徹尾世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢になっている。
価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い、日常生活における有用性等の意味や意義に対して批判的である。
荘子漁夫篇第三十一(人間の「八つの欠点」仕事の「四つの心配事」)
「八つの欠点」とは、
自分の仕事でもないのにそれを自分の仕事にする、これをなんでも屋という。
ふりかえりもされないのに無理に進言する、これを口達者という。
あいての心を伺いながらそれに迎合した話しかたをする、これを諂(へつらい)いという。
正しいかどうかおかまいなく調子を合わせて話し込む、これをおもねりという。
すぐに他人の悪事をいいたてる、これを悪口という。
人の交際をひきさき親しい仲をひき離す、これを賊害(そこない)という。
褒めあげたうえでだまして人をおとしいれる、これを邪悪(よこしま)という。
善いか悪いかにおかまいなく、両方とも気にいったようにうけいれながら、
自分の望むところだけを抜きとって利用する、これを陰険(いんけん)という。
この八つの欠点があると、そとでは他人を混乱させ、内はわが身をだめにすることになって、
有徳の君子からは友だちにされず、聡明な君主からは臣下にされないものだ。
さて「四つの心配事」とは、
何かにつけて大きな仕事に手をつけ、ふつうのきまつたやり方を変更して、
それで功名をあげようとねらっている、これを強つくばりという。
考えることもかってなら仕事もかって、それで他人を侵害して自分の利益をはかる、これを貪欲という。
過失がわかっても改めようとせず、人に諌められるといっそうひどいことをする、これを臍(へそ)まがりという。
自分に同調する人をよしと認めるが、同調しないとたとえよい意見でもよいとは認めない、これを一人よがりという。
八つの欠点を除く事ができて、四つの心配事が行わないでおれるなら、そこで始めて真実を教えられるのだ。
「真実とは純粋誠実の極みだよ」純粋でなく誠実でなければ、他人を感動させることはできない。
だから無理に泣き叫ぶものは、つらそうであっても悲しみは伝わらず、むりに怒る者は、きびしくあっても威力がなく、
むりに親しむ者は、にこにこしていてもなごやかでない。
真実の泣き叫びは、声をたてなくても悲しみが伝わり、真実の怒りはきびしくなくても威力があり。
真実の親しみはにこにこしなくてもなごやかなものだ。
真実が内にたくわえられていると、微妙な働きが外にあらわれてくる、真実が貴重なのはそのためだよ。
読むたびに心が洗われる想いがする。溜飲がさがるのである。
正しくその通りと大声で叫びたくなるのである。
荘子を目指して学問に励み、世間から嫌われものになっても、正論を吐き続けたいものである。
2月 4th,2013
恩学 |
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ピーターノスコの「江戸社会と国学」原郷への回帰を読んだ。
今まで米国の日本近世思想史の優れた本は数多くある。
ヘルマンーオームス「徳川イデオロギー」ビクターコシュマン「水戸イデオロギー」などである。
第二次世界大戦直後には日本研究の名著「菊と刀」がルースベネディクトによって書かれている。
何故、他国に比べてこれほどまで米国で日本研究と分析が行われているのか不思議である。
「江戸社会と国学」の中に賀茂真淵の章がある。
特に気になった個所をここに紹介する。
日本の国学者賀茂真淵は「国家八論」の論争の中で、古代の社会と政治の中に生きる人々の調和は、
歌(万葉集)の発露によって支えられていたことが明らかとなる。
心にうれしみあり悲しみありし
こひしもありにくしみあり
こをしぬばぬときは言に出てうたふ
うたふにつけては五つ七つのことばなむ有ける
こはおのずから天つちのしらべにしあれは
真淵はそれより十年前に、歌を詠むことは激しい感情的な体験の表出になると記したが、
それは今や、韻律によって宇宙のリズムに順応し、そのリズムを写しとることを意味するようになった。
真淵は古代の歌の美しさを、古代の政治の静謐な断片であると見なした。
そして古代の政治とは、天地を調和しまたそれを満たし、そして「壮大で汚れのない道」を
制定する天皇を戴くものであった。
だからこそ、古代の完璧さは歌、政治、そして一人ひとりの人間の行動のいずれにも見い出すことができるのである。
そしてそれは、宇宙原理に適合している様々な要素が相互に補強し合うところにのみ起こりうる。
稀に見る現象であった。
真淵が主張した古代の政治、人々の行動、そして歌を詠むことの三領域は、
相互に依存しあっていたがゆえに、これら三つのうちの一つが壊れると、全組織の崩壊につながった。
これが、真淵が説く古代の完璧さの喪出と当代の堕落の理由であった。
ある失われた時代に対する感傷的な憧憬をノスタルジアという。
荷田春満・賀茂真淵・本居宣長の重要な関心はノスタルジアであり、
古典の文献学的研究を通してノスタルジックなイメージが育まれ、ついには愛国的なイデオロギーが創出された。
いにしえの「道」は再現可能であり、「まごころ」を再生することはできると主張して、
古代へのノスタルジアを喚起した賀茂真淵なのである。
「古代の完璧さは歌、政治、そして一人ひとりの人間の行動のいずれにも見い出すことができるのである。」
真淵の生きた徳川時代は、将軍のどもりを、自分だけが解釈できるという御用人に牛耳られていた。
この時代に真淵は古代の言葉の「素直」さと「直接」さについて注釈したのだった。
言葉の過剰さを不要とした古の心の誠実さと真実について論評したのである。
長く続いた平和の中で武士階級は総じて活力が落ち弱体化の兆候を見せていた。
この時期に真淵は古代人の雄雄しさと活力について記述したのである。
日本人が漢語及び漢語で書かれた作品に心惹かれ、そして心酔したことで、古代の政治、
人々の行動、歌よみの三位一体の完璧さが崩壊したのである。
真淵の理想化した古代についての記述、古代の歌を通して古代に再び入ろうとする試み、
また古代に付随する美徳の再生、国学者賀茂真淵のノスタルジックな考え方に賛否があったとしても、
時折、日本独特の歴史のルーツに触れるのも良いのではないでしょうか。
そこに「楽園のノスタルジア」が存在するかもしれません。
2月 3rd,2013
恩学 |
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人生は断崖に掛る古いつり橋のようなものかもしれない。
誕生というこちら側の崖から、死というあちら側の崖まで、
恐る恐る人生のつり橋を渡り続けなければならないのである。
何世代も渡って来た古いつり橋は、
ところどころ羽目板が外れており穴だらけである。
足を滑らせてしまえば奈落の底に一直線である。
その為に慎重に歩みを進めたいのだが、
後から後から人が押し寄せて来るので、 のんびりと渡ってはいられない。
そして不思議な事に前を見ると、
つり橋の上空から何本ものロープがぶら下がっている。
そのロープは神様から贈り物「救いのロープ」なのである。
つまり各人が前世で徳を積んだ分の「数」が与えられているのである。
それぞれが、つり橋の長さとロープの数を上手に使いこなして、
それぞれの方法で安全に渡り切りなさいという事なのである。
あまりロープに頼り過ぎて、 強く引っ張ると留め金が外れてロープは谷底に落ちて行ってしまう。
しかし優しく触れるようにしてロープを握り締めていても、 何等ロープは救いにはならない。
焦らずに欲を出さずに冷静に力加減をしながら、
自分の困難に適応させながら、 つり橋を渡って行かなければならないのである。
多くの人達は、慎重に一歩一歩歩みを進めて行くのだが、
つり橋の中間地点を過ぎた頃に、 気の緩みから
ロープの有り難さをすっかり忘れてしまう事がある。
その為に予期せぬ様々な危険にであう。
突然、谷底からの突風にあおられて吹き飛ばされそうになったり、
激しい雨で足を滑らして落ちそうになったり、
吹雪がつり橋を揺らして大きな事故を起こしたりもする。
安全の為のロープを疎かにした為に困難を引き寄せているのだった。
常に古いつり橋を渡りきる為には、 警戒心と緊張感を持続させなければならないのである。
誰しもが運命という天候には逆らえない。
しかし厳しい状況の中でも、気持ちが穏やかな時には、
つり橋渡りを楽しむ事もあった。
美しい山間の景色を眺めながら辛さを忘れ、
嬉しい出会いの喜び、新しい家族の誕生、
煌めく人生の夢に、 心から感謝する時であった。
途中些細な諍いやもめ事も数多くあった。
つまらない猜疑心から生れた嫉妬や裏切りから互いに傷つけ合いもした。
しかし、それらの問題は過ぎてみれば、 すべてが良き思い出に変わっていたのである。
振り返れば、人生におけるあらゆる喜怒哀楽は つり橋の上で起こった一瞬の出来事だった。
そして、誰しもがゴールの崖が見える頃になってからふと気付く事がある。
「救いのロープ」の残りの本数が少ない事に。
多くの人は夢中で渡って来た為に、数が決められていた事を、
すっかり忘れてしまっていたのである。
ここで人生の結末に大きな差が出てしまうのである。
最後のロープを利用して安全に渡りきる人は、 人生の幸福を手に入れる事が出来る人である。
既に最後のロープを使い切ってしまった人は、折角の 人生の労苦を無駄にする人である。
つり橋の90%を渡り切っていたとしても、
残りの10%の所で過去を後悔し反省しても手遅れなのである。
最初から「救いのロープ」の数は決められていた。
それを忘れてしまったのは誰でしょうか。
人生は決して強く美しい安全舗装のハイウェーではありません。
誰しもが穴だらけの古いつり橋を平等に渡っているのです。
安全に渡って行く為には、 この「救いのロープ」の意味を理解しなければなりません。
神様がくれたロープを手離さないように、 無駄に使わないようにして、
最後まで渡り切って行かなければならないのです。
貴方はあと何本「救いのロープ」が残っていますか。
残念ですが「救いのロープ」の追加注文はできないのです。
2月 3rd,2013
恩学 |
救いのロープ はコメントを受け付けていません
貴方には沢山の愛の言葉が必要です。心の解放が必要です。
そしてすぐに愛が離れない様にすることも大切です。
今は耐える事が美しいのではなく解放する事が美しいのです。
貴方は自分を犠牲にする事ばかり考えて来たのです。
少しは立ち止まってもいい事を教えます。
少し止まると書いて歩くという字なのです。
貴方はゆっくりと深呼吸をして一歩ずつ歩いてみて下さい。
涙が出るぐらいの感動に浸ったままでいいのです。
貴方は素直なままに生きてもいいのです。
思いっ切り走って、思いっ切りころんで、思いっ切り立ちあがって下さい。
貴方は天真爛漫で元気な子供のような姿が似合うのです。
泣いたり笑ったりわめいたりしても構わないのです。
踏まれても咲く道端の小さな花の美しさがわかる人です。
貴方が笑顔で元気でいることが周りの人々を喜びへと誘うのです。
急がなくても大きなことを求めなくてもそっと幸福は訪れます。
貴方にはきらめきがあるから高価な物を手に入れなくてもいいのです。
貴方の優しい気持ちを必要としている人が一杯います。
貴方が少し手を伸ばせば老人達の笑顔が満ち溢れて来ます。
優しさを無理に作らなくてもいいのです。
笑顔も無理に作らなくてもいいのです。
素敵な出会いを無理に作らなくてもいいのです。
素直なままに!!!
大好きな人の側に居れば良いのです。
素直なままに!!!
生きる事が大切です。
2月 3rd,2013
恩学 |
素直なままに はコメントを受け付けていません
「感動」
いつもと変わらない朝を迎えて感動する。
朝露に濡れた草花に触って感動する。
ふと見上げた空の虹を見て感動する。
子供たちが子犬と戯れている姿に感動する。
心温まる話を聞いて感動する。
何気ない一日、素敵な言葉、素敵な音楽、素敵な映画で感動する。
感動は感動を受け止める心から生まれるのです。
魂のキャッチボールなのです。
感動を受け止めるグラブをいつも磨かなければなりません。
素敵な感動を取りこぼさないようにするのです。
「感激」
誰よりも強く生きようと思うから少しの痛みでも気になってしまう。
誰よりも幸福になろうと思うから身の回りの不足が気になってしまう。
自分の行いを正当化しようと思うから言い訳が多くなってしまう。
自分の行いで満足できないと思うから他人と比べてつい溜め息も出てしまう。
何かにしがみつきたいと思うから弱さが出てしまう。
何かが・何かが・何かがと思うから迷ってしまう。
だから死んでもいいやと思えば痛みなんて気にならない。
だから不幸でも大丈夫と思えば不足なんて気にならない。
だから他人の目はどうでもいいやと思えば気楽に過ごせる。
だから気にかけてくれている人がいると思えば笑顔も出て来る。
だから誰にもしがみつかなくてもいいやと思えば孤独から解放される。
だから必要な事だけを考えればやるべきことが分かって来る。
自分の心のなかの感激を置き去りにしないことである。
「感謝」
この絶望と孤独から逃れる方法は、何も“思わない”ことである。
そして絶望と孤独を乗り越えるには四つの忍耐がある。
それは「四耐」冷・苦・悶・閑である。
冷遇に耐える。苦労に耐える。煩悶に耐える。閑居に耐える。
その中でも特に高いハードルが「閑」である。何もしないで暇でいることである。
何もしないで閑を乗り越えられる精神力こそ本物である。
「小人閑居して不善をなす」ことのないようにしなければならない。
生かされていることに感謝を忘れないことである。
2月 3rd,2013
恩学 |
三感王 はコメントを受け付けていません
ある日突然あなたが虫に「変身」していたらどうしますか。
ベッドの下にうずくまる得体のしれない毒虫です。
家族や仕事仲間から追い詰められても声をあげては成りません。
暗闇の中でじっとしているのです。
聴覚と嗅覚を研ぎ澄まして逃げ道を探すのです。
誰も助けてくれません。
どのような手引書にも、その苦しみを、その現実を、その逃げ出す方法を書いているものはありません。
自分自身の生き抜こうとする力こそが未知なる世界へと導かれるのです。
見えない光が見え始めて、聞こえない音が聞こえ始めて、微かな匂いまで気付くようになるのです。
ふとした何気ない変化こそが脱出のヒントとなるのです。
敏感になるのです。
チャンスは必ず訪れるのです。決して諦めた心から脱出方法が生れることは無いのです。
毒虫になっても楽しみはあるかもしれないのです。
1952年に第一版が発表されたフランツ・カフカの「変身」という本が話題に成っています。
関連本でも4~5冊が本屋の推薦本として店頭に並んでいました。
つい最近読みなおしたばかりなので少し驚きました。
この地味な本が何故若者に流行っているのか不思議でなりません。
ネットで調べると、若者達の間でカフカがブームになっているのは、
長引く不況と望みの仕事に付けない閉塞感から、
この本に共感を得ているだと書かれていました。
「変身」の作者カフカはオーストリア・ハンガリー出身です。
当時そこには多数のチェコ人を少数のドイツ人が支配し、カフカが受け継いだユダヤ人は
その二重構造から載然とはずされていたのです。
「変身」はハンガリーの社会状況(二重構造)とユダヤ人であったカフカの心情が反映された作品です。
カフカは半官半民の労働災害保険協会に努め日々悶々とした中で、
人間とは何か、人間の存在とは何か、人間同士で何故差別が起こるのかと苦悩していたかと思います。
その苦悩の中で愚痴が妄想を生み「変身」が生まれたのです。
現在の日本でも若者達は仕事場でも家庭でも友人関係でも自分の居場所がどんどん無くなってきています。
格差社会の中で優遇される者と不遇な者の姿がハッキリと見えています。
若者達は言葉では言い表せない焦燥感に囚われているのではないでしょうか。
自分は確かに存在しているのに居場所が見つからない、何かをしたいと思いながらもやることがないのである。
だから虫に変身をしたカフカの心境と相通ずるものがあると云うのです。
全てを放棄して薄暗い部屋の片隅で、うずくまりながら物思いにふけるのは仕方のない事かもしれない。
そして若者と同時に、この作品に反応しているのがリストラや定年に差し掛かった中高年だと言います。
午後の昼下がり、オフィス街の近くの公園のベンチで、ボーッとしている中高年のサラリーマンを見ると、
まさに虫に「変身」しているのです。
職場でも家庭でも一切発言が許されずに虫のように蠢いているだけです。
「変身」とおなじようなカフカの別作品で「城」と云うのがあります。
こちらは、虫になって居場所が無くなるのではなく、居場所を求めて村中を徘徊する作品です。
仕事を依頼された測量技師が依頼主の城に出向いたのですが、どうしても目の前の城に辿りつけない話です。
城に招かれながら、城に辿りつけない。場所があるのに存在が無い。
当時のハンガリーのチェコ人とドイツ人とユダヤ人の関係にも似ていたのではないでしょうか。
同じ場所にいながら待遇が違うという事は、
ある意味正規雇用社員と非正規雇用社員との関係にも似ている気がします。
矛盾と理不尽の世界です。
カフカの作品は問題を定義するが解決は一切ないのである。
大騒ぎしても「届かない」「伝わらない」「初めから何もない」で終わってしまうのである。
決してこの本は娯楽で読むべき本では無い。
2月 3rd,2013
恩学 |
未知の世界「変身」 はコメントを受け付けていません
恋に悩み恋に苦しみ恋に溺れている人の話を聞いた。そしてこの書を薦めた。
ドイツの文豪ゲーテが書いた「若きウェルテルの悩み」である。
この小説が発表されるや否や、ドイツの読書界は深刻な衝撃を受け、賛否両論の渦が巻き起こった。
それはこれまでの小説の常識を完全に打ち破る作品だったからである。
十八世紀の小説は、恋愛小説にせよ、旅行小説にせよ、
読者に娯楽を提供し教訓を与える事を目的としていた。
すなわち十八世紀は芸術や文学の本質的機能を、人を「娯のしませることと有益であること」に見ていたのに対して、
「ウェルテル」は根源的に人間の生き方そのものを問題にしようとした。
読者の思念は主人公がなぜ自殺しなければならなかったのかという点に拘わりあわざるをえない。
従来の小説では、愛が人間の自由意志によって死に結びつくなどということは、考えられないことだったのである。
彼は全人的な愛を求めた。しかし彼の宿命的な恋人ロッテは、
やがて人妻となることは最初からわかっているし、また人妻に対する恋は、浮世の掟が許さない。
そういうどうにもならない状態から脱出して、愛を永遠化するために彼に残された唯一の道は、
すなわち死だったのである。
青春のエネルギーのすべてを、もっぱら自己の内部に向けるのみで、現実の社会に適応して、
そこに自己の生活を築きあげる事を、知らない青年の悲劇が「ウェルテル」なのである。(訳者高橋義孝)
人が生きる上で愛の囲(かこい)を無視して語る事は出来ない。
愛があるから自分以外の人を守る意識が働き、愛を育み継続させようとして、愛ある環境を整えようとする。
愛があるから全ての芸術が生まれ、全ての芸術は愛の存在の証明になるのである。
愛は青年の自立を促し、向上心を煽り、独占欲と共に、未来の生きる方向性を見つけ出してくれるのである。
しかし現代では一概にそのように考えるのは難しいのかもしれないのである。
リアリティーよりもバーチャル世代で育った若者は、
愛の本質を知らずにゲーム感覚で愛を捉えているかもしれない。
愛も喜びの数あるアイテムの一つとして必要な時には使うがそれ以外では使わないのである。
愛の本質は相手をいたわる事であり、愛する事は相手の趣向も未熟さも
全てを受け入れる事から始まるのである。
リアルな愛は四六時中相手の事を考えなければならない。
愛する相手と頻繁に連絡をとり、常に愛の確認を取らなければならない。
その上に愛を育むためには、食事に誘い映画を見て旅行にも連れて行かなければならないのである。
愛する行為は現代の若者達とって、時間とお金の無駄使いと考えている節がある。
無機質な教育で植え付けられた知性が、
人間としての感情を押しのけて淡白な人生設計をしてしまう危険がある。
そのような生き方からは倉田百三の言う
「愛は謝罪を持ってする」という意味を理解する事は不可能だろう。
愛する事は一筋縄ではいかない事である。
倉田は「私は恋愛を迷信する。この迷信とともに滅びたい。この迷信の滅びる時私は自滅する外はない。
ああ迷信か死か。真に生きんとするものはこの両者の一を肯定することに怯懦(きょうだ)であつてはならない」
まさに生きるべきか死ぬべきかなのである。
ウェルテルの一方的な横恋慕で始まった恋は、経済的な理由から許嫁アルベルトに軍配が上がり、
ウェルテルの純粋な恋は叶わぬままに終わりを告げたのである。
そして恋の結末としてウエルテルは自ら死を選んだ。
ロッテはウェルテルの死を予測しながらも、ウエルテルの従僕にピストルを渡したのである。
純情可憐なロッテも許嫁アルベルトとの結婚が約束された時点で、情熱的なウエルテルが眼ざわりになったのかもしれない。
天真爛漫なロッテも魔性の女としてウェルテルとアルベルトと天秤にかけていたのだろう。
恋愛が一筋縄でいかない理由がここに在る。
結婚において情熱をとるか財産を取るか二者択一では、多くの女性は財産なのである。
それは、情熱はすぐに冷めるが財産はすぐに冷めないからである。
美しい恋の結末としての死は、永遠の愛を勝ち取ったのかもしれない。
そうなれば勝者は許嫁アルベルトでは無くウェルテルに軍配が上がった事になる。
2月 2nd,2013
恩学 |
ウェルテルの横恋慕 はコメントを受け付けていません