美談
湾岸戦争時にこのような美談がありました。
1985年3月17日、48時間の猶予期限以降に
イラン上空を飛ぶ飛行機は無差別に攻撃すると
サッダームフセイン大統領が突如宣言した。
この宣言後、イランに住む日本人以外の外国人はおのおの自らの国の航空会社や軍の輸送機によって
順次イランから脱出して行った。
ところが、日本においてはそうでなかった。
ただちに日本航空にチャーター便の派遣を依頼したのだが、
日本航空のパイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、組合員の安全が保障されない事を理由に
いずれもこの要請を拒絶した。
その間、在イラン日本大使館では手を尽くして救援機を派遣した各国と交渉したものの、
いずれの国も自国民の救出で手一杯であり、希望者全てを乗せてもらうことは到底かなわず、
いまだ200名を超えるイラン在留邦人が全く脱出方法が見つからずに生命の危機に瀕する状況にあった。
なお、当時の政治情勢では自衛隊を国外に派遣する事は難しかった。
だが、土壇場で個人的な親交に一塁の望みを託した野村豊在イラン日本国特命全権大使が、
イスメット・ビルセル在イラントルコ特命全権大使に救援を要請したところ、
トルコ政府が応じ、トルコ航空の自国民救援のための最終便を2機に増やしてくれたので、
215名の日本人がそれに分乗して期限ぎりぎりで危機を脱することができた。
なお、トルコは近隣に位置することから陸路でも脱出もできるので自国民に優先して
日本人の救出を計ってくれ、実際この救援機に乗れなかったトルコ人500名は陸路自動車でイランを脱出した。
このようなトルコ政府とトルコ航空の厚情の背景には、1890年(明治23年)
日本に親善訪問した帰途、和歌山沖で遭難したフリゲートエルトゥールル号救助に際し
日本から受けた恩義に報いるという意識もあったと言われている。
日本人救出に際して迷うことなく決断をしてくれたトルコ政府、
それに不平を言わず従ったトルコの達にも頭の下がる思いがする。
補足だが、2年前の東北大震災時にもトルコ政府から救援隊が派遣されたことは言うまでもない。
今回起きたアルジェリアのテロリスト事件では日本人がゲリラの標的になり10人が帰らぬ人となった。
しかし助かった人の中には同僚のアルジェリア人が、ターバンとマフラーをつけてくれて連れだして貰った人もいる。
今、なにをなすべきかという時に迷わず手を差し伸べる勇気こそが、
政治や宗教を超えて人々の絆になるのではないだろうか。
そして美談はどのような歴史よりも深く人々の心に刻まれるのだ。
人を助けることがいかに大切なことかはこの言葉に集約されている。
「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。
仕事を残して死ぬ者は中だ。
人を残して死ぬ者は上だ。
よく覚えておけ。」
後藤新平の言葉。(明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家)