落ち着くとは




2000年に米国のレコード会社から突然の契約解除を言われ倒産に追い込まれた。
そして代表者である私は全財産没収で自己破産を余儀なくされ、
身動きが取れなくなった。
不渡りを出した日から銀行や消費者金融の取り立ては昼夜を問わずやって来て
私と家族を悩ませた。
そして親しくお付き合いがあった取引先への未払いも起こりお叱りを受けた。
所属していたアーティストからもいろいろ心ない言葉を浴びせられた。

顧問弁護士の指示に従い家族とも別れることになりました。
後に判明したのですが全く必要のない協議離婚をさせられたのです。
今まで何もかも弁護士が正しいと思い違いをしていたのです。

家族とも別れて完全に無一文になりこれからの事を相談に乗っていただきたくて、
かねてから親交のある哲学の先生のところへ行き事情を説明したところ、
何故か最初に「おめでとう」と言われました。
全て失ったか!これ以上いき場のない底についただろう。
私に頼るな、自分に頼れ!
これでお前も「底に落ちて着いたから落ち着く人間となったのだ」、
これからは浮かれる事なく人生を落ち着いて歩めるぞ!
だから「おめでとうなのだ」と言われました。

変に倒産の事情を聞かれて慰められるよりその言葉がなぜか腑に落ちました。
底に着いたから上がるしかない人に救いを求めるのでなく
自力で這い上がれ、そうしなければまた同じ過ちを繰り返す。
凄く的を得たアドバイスに気持ちが楽になりました。
とりあえず生活費を稼がなければなりません。
今までの経歴も見栄もかなぐり捨ててとりあえずゼロからのスタートです。
どうせなら「下座業」もかねて自分が一番苦手な仕事を探すことにしました。
日当払いの夜中の道路工事の旗振りや、操業前の工場のLED蛍光灯の交換をしながら、
次の就職先を探したのです。辛い作業も希望への一歩と思えば楽しくやれました。
私は敢えて得意な音楽業界でなく違う業種で探していたところ、コンピュータのシステム
会社から、声がかかり入社しました。上場に向けての戦略室長の立場です。

100%絶望をすることが二度と絶望することのない希望となる。
中途半端な絶望は中途半端な希望を見出し人はその偽物の希望に縋りつく。
目の前のラッキーが次のアンラッキーとなることはよくある話で、またその逆も然り。
これは、中途半端な絶望と中途半端な希望が次々とループの中で起こっているのだから
当然のことである。

例えば、誰かに誤解されたとする。悲しみに打ちひしがれている時、
自分を理解してくれる人が現れる。このようなことはよくある話で
「捨てる神あれば拾う神あり」と世間では言う。
実はここに目覚めを妨げるトラップがある。自分を理解してくれる人と
思ったその人もまた、次の瞬間誤解していることが判明するのが世の常である。
そして人間の弱さは無意識に一縷の希望に縋らせる。
「もしかしたらあの人なら、あの人なら分かってくれるはず」
「世界は広い。自分を分かってくれるひとは必ずいる」などと
自分に言い聞かせながら。世間もその人も無責任に慰める
「きっとあなたを分かってくれる人が現れる」と。

しかしこの自分の内外で囁かれる囁きはトラップなのだ。
このトラップに掛かっているうちは、人間は100%の絶望ができない
宙ぶらりん状態に居続けることになる。

Hit the bottom!という言葉がある。1mmの希望も入る余地なく絶望し切った時、
ベクトルが変わる。その100%の絶望は五感覚の絶望ではなく、哲学的思惟による
絶望である。
「人と人とは100%分かり合うことはできない。」だ。
この「100%分かり合えない」という絶望と出会えた時、この世界に
散りばめられた「偽」のベールが剥がれ「真」を追求する一歩を踏み出すことになる。
そこから始まるのだ。そこからループからの脱出の流れが生まれるのだ。
そしてその流れにさえ乗れば、人は必ず100%希望そのものの世界と
出会うことができる。

剣を扱うサムライにとって体は、剣の延長であり剣同様に道具であるという
認識を持つ。剣の切先で世界を感じ、宇宙を感じ、相手の心を感じ取る。
切先の一点に己の全宇宙を没入させ、他者との境界線を解かしていく。
だから五感覚よりもはやく、光の速度よりもはやく反応することができるのだ。
それは柔道や空手とは違う剣独特の世界、サムライが禅に傾倒していく心は
そこにあるのだろう。

では、体が道具ならば道具を動かす主体は何か?という問いが生まれるのは
当然のこと。そしてその問いを持つサムライに悟人が多く輩出されるのも頷ける。
第一段階、体が自分ではないことを、剣を扱う者ならば誰もが感覚的に会得する。
もし剣のみを道具として扱うのなら五感覚の世界に捕われ、瞬時に負けが決まるだろう。
宮本武蔵が記した「観の目強く、見の目弱く」とはまさにこのことなのだ。
そして第二段階の思惟が始まる。体を道具として扱う主体、その主体は体と
剣だけではなく宇宙森羅万象をも動かしている・・・「お前は一体何者だ?」と。
「何者だ?何者だ?・・・」その問いが究極に達したその瞬間、何者もないことを
「知る」。自分と自分の宇宙が静かに消え、涅槃寂静を観る。

人間には2通りの生き方がある。

生命体として生きるのか、はたまな精神体として生きるのか。
その違いは「体が自分」と思っているのか、「心が自分」と思っているのかの
違いである。

ホモ・サピエンスの言語の発達により人間が動物を制圧してからは、
地球は人間の星である。その人間が生命原理で世界を認識している限り、
つまり物質世界として世界を見ている限り、地球は物質である。
現に人間は地球を物体として捉え、物質の開発開拓に力を注いでいる。
その象徴が科学技術である。

人類は今分岐点に立っている。ここで生命体に留まるか、
精神体へジャンプアップするか。
精神体へのジャンプアップは認識の変化から始まる。
有だったものが無に、無だったものが有に。さらには有もなし無もなし。
この認識で人類は「有限」の概念を突破できる。突破した先は心だけが実在する
精神体の視座である。
(令和哲学より抜粋)

何もかも失った時に見えて来るものがある。
そこでは自分の人間性を演技することも弁解することも無い世界である。
守るものがあるから見栄を張る。言葉で弁解するから嘘が生まれる。
過去の記憶が蘇るから苦悩が始まる。
「おめでとう底に着いたのだな」この言葉で吹っ切れた。
哲学的思考にシフトチェンジした瞬間である。

その後、悩みを抱えた経営者にアドバイスをする機会が何度かあった。
私と同じで金融関係と取引先から追い込まれて自殺まで考えていた時に
逢うことにした。その時に最初に発した言葉が「社長おめでとう」である。
「鋼は叩かれて、叩かれて名刀になる。しかし叩いているハンマーはいくら叩いても
名ハンマーとは言われない」今社長を叩いている人たちに感謝しなければならない。

絶望の時、悩みや苦悩に溺れてはなりません。浮き上がる事だけを考えれば
ほぼ問題は解決したと思ってください。