孫子とは




孔子の「論語」で襟を正し、孫子の「兵法書」と
「六韜三略」で戦略と戦術を学んだ。
また、孟子の「儒教思想」で人間学を学びいつも中国の書物を
座右の書として机のそばに置きました。中国人の大陸魂を尊敬していました。

ビジネスにおいてはナポレオンヒルの「思考は現実化する」で
セールスを学び、マーケティングにおいてはマズロー「五大欲求」や
エベレット・M・ロジャース「イノベーター理論」などが役に立った。
近代経営と経営戦略は「ハーバード・ビジネス・レビュー」のシリーズを
読みつくし、その中のW・チャン・キムの「ブルーオーシャン戦略」から
多くのヒントを得た。学びは「真似る」で学びになります。
古今東西の成功者の考えを真似るのです。

1974年に私は英国から戻りプロデューサーという定義を創り、
日本で最初の音楽プロデューサーとして活躍することが出来ました。
70年代のレコード会社は制作も宣伝もだいたいは広告会社に任せきり、
レコード会社の社員は普通のサラリーマンだったので、歌手の売り出しの
ノウハウもなく工場やレコード店への手配が主な業務でした。

そこに海外ではアーティスト管理はレコード会社ではなく
担当プロデューサーが仕切るのだと提案をしました。
新人の発掘、育成、制作、宣伝、営業、演出などを手掛けるのです。
もちろん大変な仕事ですが能力があれば楽しい仕事です。
私はリスクを想定しながら最大の効果を得るために
数多くの兵法書とビジネス書を読んだのです。

今回ご紹介する安恒理氏は「孫子の兵法」というビジネス書で、
私を、兵法を活用した体験者として取り上げてくれました。
私の音楽のヒットは独自にマーケティング・システムを作り、
そのマニュアルに従って作ることが出来たのです。
私なりの解釈で「孫子の兵法」から、商談は窓側に座る、
日差しを背にする、提案は結論から言う、相手が喜ぶ種を与え駆け引きをする、
などをお話したと思います。

ビジネス書ライター安恒理の記事より
「孫子」は戦乱に明け暮れた古代中国で著された兵法書のなかでも、
それらのエッセンスを凝縮した優れた兵法書だ。
それだけに時代を超えて、またビジネス現場などさまざまな場面で
応用できるようになっている。
また「孫子」は勝つための兵法書と受け取られがちだが、
実際は「負けないための兵法書」だ。
言葉を換えれば「生き残りのための戦略書」。

「孫子」では、まず前提として「いざ戦争となれば大きな犠牲を
払わなければならないから、できるだけ戦争避けるべき」としている。
そして目指すべきは「戦わずして勝つ」。

日露戦争は日本にとってもともと勝目の薄い戦いだった。
戦力、国力からみてもそれは明らか。
「孫子」がいう「算多きは勝ち、算少なきは勝たず」(計篇)は、
まさに戦力が 勝るほうが勝利を収めるという鉄則をいいあらわしている。
満州軍総参謀長の児玉源太郎は「なんとか五分五分の戦いでしのぎ、
作戦、戦術、戦略で何とか六分四分にもっていこう」という考えで、
その後の和平交渉を有利にしようとした。
まさに「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」(謀攻篇)で、
敵を過大評価するのも過小評価するのも敗因となりかねない。

日露戦争における序盤のクライマックスは旅順を巡る攻防戦だろう。
海の戦いではロシア艦隊を旅順港に押し込め(閉塞作戦)、陸の戦いでは
203高地を巡る攻防戦だ。
旅順攻略の指揮を採ったのは第三軍司令官・乃木希典中将。
そこからさかのぼること10年前、乃木は旅順をわずか1日で攻略した。
だから日露の戦いでも日本軍には楽観した気分が満ちていた。

しかし10年前とは違い、ロシア軍はそこに堅固な要塞を築いていた。
乃木軍はその要塞を真正面から攻撃した。これが最初の判断ミス。
孫子の教えでは高いところに位置する軍が有利で、しかも堅固な城
(要塞)は攻めてはいけないとある。本来の旅順攻略の目的、すなわち
旅を見下ろせるところを占領、そこから旅順港内のロシア艦隊を陸から
砲撃できた。それには二〇三高地と呼ばれた丘さえ占拠すればよかったが、
乃木は堅固な要塞(東方正面攻略 甲案)に固執し、二〇三高地主攻 乙案)
を排した。しかし東方正面は二〇三高地よりはるかに堅固、
そこに正面突破を試みたものだから多数の戦死者を出した。

第三軍参謀だった津野田是重は第一回強襲の失敗について次のように
書きしるしている。
「単に地形、敵状況により考察すれば初より二〇三高地方面に向けて活動する
を得策としたことは之を否認すべき余地はない。然るに将軍(=乃木)が当時
断然乙案(二〇三高地主攻)を排して甲案(東方正面)を採られたことは
その間に重大の理由なくしてはならぬ」として次のように続けた。
「攻撃の主体は北方面(奉天)であるから、旅順などは副産物に過ぎない、
だから一刻も早く片付けるべき」と三軍のなかにも乃木に総攻撃を迫った
者がいる、と。

そのため後に攻城砲兵を展開し攻め落とすことになるが、
戦果を急いだあまり白襷隊のような肉弾戦でいたずらに戦死者を出す
結果となってしまった。
津野田自身も「予の如きは初は正に肉弾主義の一人であったが」現地の状況を
みるにつけ、「悲観論者と急変した」。
問題はそのあとだ。
「然し不幸にして未だ信念をもって議論を闘はすだけの勇気はなかった」
参謀としていかがなものか。ただ弁護するなら、次案の二〇三高地も
「敵の防備は比較的薄弱であったが」けっして楽に攻められるものではなかった。

さらに乃木以下第三軍の悲劇となったのは、大本営と総司令部が総攻撃を
急にせよと督促したこと。後衛は現地の状況を知らない。
大本営や総司令部は、回航してくるバルチック艦隊が旅順のロシア艦隊と
合流すれが、戦況は一気に悪化することだけを恐れていた。
こうして大きな犠牲を強いることとなった。完

日本軍の最大の敗因は常に上に対する忖度と空気である。
山本七平の「空気の研究」にこのような文がある。
「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。
一種の「超能力」かもしれない。何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、
「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、
強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行ったかを一言も
説明できないような状態に落とし込んでしまうのだから」

日本人特有の付和雷同的組織が成立してしまった。
上官の命令は絶対であるから疑問があっても了解しなければならない。
あえて苦言を呈する発言は黙殺される場合が多い。
「聞く耳を持たぬは敗軍の将の常なり」。

私が組織を離れて独立したのは1991年である。
友人の半分はお前の能力なら絶対成功する。しかしもう半分は時期が悪い
男の厄年の40歳でそれもバブルが弾けて景気が不安定だ。
もう少し会社に所属して時期を考え直した方が良いと言ってくれたのです。
しかし、退職することを半ば公言としてしまって協力者もレコード会社も
募ったばかりでした。
最終的に前者の友人の言葉に促されて無謀にも独立してしまったのです。
一度あげた手を下せなくなりあとは苦労の連続でした。

折角築いてきた経歴も財産も10年間ですべて失いました。
ここで兵法三十六計にある「反客為主」を思い出し、
一旦は音楽業界から退いて異業種のシステム会社にもぐりこんだのです。
2001年にシステム会社の経営戦略室の室長として韓国へ行く機会が増えました。
そこで目にした韓国ドラマを日本へ紹介するためにソウルに映画会社を作りました。
しかし韓国側の役員とトラブルがあり僅か一年余りで日本側は撤退をしました。

その後システム会社も退職して次の計画をする間に、
日本で中国のアーティストをプロデュースすることになりました。
初めて聞く音色、二湖奏者のウエイウエイウーさんとの出会いが
運命を変えました。奇跡の始まりです。
ある日突然、中国本土にいるアーティストの話が飛び込んできました。
私の大好きな孫子の故郷である中国へ行って仕事をする可能性が生まれました。
早速胸躍らせて北京に飛びオーディションをしました。それが「女子十二楽坊」です。
所属事務所の代表と個人的に契約書を結び帰国後にレコード会社を探しました。
そこから瞬く間に世界トップクラスのアーティストを育て上げたのです。

「賢者は歴史に学び・愚者は経験に学ぶ」
これからも様々な経験を積んでいきます。
勿論、片手には孫子の兵法を携えて歩むことになると思います。