日本と宗教




子どもの頃に浄土真宗系のお寺に一時預けられました。
将来は龍谷大学へ入り寺を継げとまで言われたのですが断りました。
その後父親から中学の時に強制的に創価学会に入信させられ、
何故か立正佼成会の会合にも連れていかれ訳が分からなかった。
当時多くの庶民が不安を取り除くために何らかの宗教団体に属していた時代です。
しかし赦せないのは幸福を名目に貧しい人から浄財を搾り取る新興宗教です。
創価学会も統一教会も集金の為の強欲団体でした。

また大学の時に歌の関係で知り合った友人が天理教の偉い人の子供でした。
奈良の教会へ行くと信者たちが全員一礼をして出迎えてくれるほどでした。
彼が奈良でフォークソングの団体を作りたいので援助するから、主宰者に
なってくれと頼まれ「奈良パークジュビリー」という名称で立ち上げました。
あの頃、京都には加藤和彦がいて、大阪には高石友也がいて、
神戸には谷村新司がいました。学生フォークソング全盛の時代でした。
奈良パークジュビリー第一回目のコンサートに杉田二郎が駆けつけてくれて、
「戦争を知らない子供達」を歌ってくれました。
わたしもユニットを組んで「ひとりぽっち」というグループで参加しました。

余談ですが、イギリスで有名なデザイナーから薦められてキリスト教の洗礼も
受けました。節操が無いと言えば、それまでなのですが基本的に
どの宗派も抵抗感が無く受け入れます。勿論それぞれの宗派の教義に違いがありますが、
それで幸福感を得られのであれば有難いことです。

子どもの頃は家の近くの神社が唯一の遊び場でした。神社へ行けば誰かが必ず
遊び相手をしてくれるからです。昔からお寺の庭や神社の庭は子供たちの
地域のコミュニケーションの場として解放されていました。
子供心に自然界の全てに神様は存在している、わたしたちは八百万の神々さまに
守られていると教えられました。周りにいる見知らぬ老人たちも温かな微笑みを
かけてくれるので子供たちは安心して暗くなるまで遊んでいたのです。

海外で仕事をしていると現地の人から「あなたの宗教はなんですか?」と
聞かれる事が多くありました。それと「文化・芸術は何が好きですか?」です。
この質問に多くの日本人は「私は無宗教です」「私は文化芸術には興味がありません」
と応えるのです。そうすると欧米人はこの野蛮人とは仕事以外では付き合えないと
判断するのです。それは、宗教から善悪マナーを学ぶからです。
そして芸術文化に関心がある人は貴族と同じクラスで尊敬されていました。
これを知らずに「私は無宗教で芸術文化には興味がない」と発言すると
野蛮人とみなされるわけです。今でも日本国内で日本人にこの質問をすると
同じ答えが返ってくるのではないでしょうか。

医師長岡美妃の投稿より
なぜ日本はここまで宗教を毛嫌いするようになったのか?
少しでも精神的なことを話しただけで「それ、宗教?」と言って眉を顰める。
まるで目の敵にするかの如く、とてつもなく危険なものの如く、、、
そう言う人たちは「宗教とは何か?」を知っているのだろうか。
ただ「精神的なもの=宗教」という短絡的な結びつきしかしていないのでは
ないかと思えてならない。

上杉謙信、武田信玄、伊達政宗・・・彼らの生き様を追っていると、
日本は精神を何よりも重んじた国だったことがわかる。
目に見えない世界と共に生き、目に見えない世界に支えられ、
それ故生死などをゆうに超えてしまう。物質的なものに執着することを恥とし、
何よりも目に見えない義というものを大切にした。
己の中に神を観、敵の中にも神を観る。もはや物質などないも同然だった。。。
そんな国がなぜこんなにも精神的なものに対して臆病になってしまったのだろうか?

そこには2つの理由が考えられる。一つは人類の集団トラウマ。
第一次二次世界大戦を通して「絶対的真理」を怖がるようになった。
ファシズムが台頭した時代、一人の絶対者に付き従い痛い目にあった経験を持つ。
日本も然り。もう一つはGHQによって発令された神道指令。
国家神道こそが軍国主義・超国家主義思想の源泉だと刷り込まれた。
その時日本は自らの精神性を断ち切り「神道は邪教だ」と変換し、
更に「精神世界=危険思想」にすり替えていった。
世界広しと言えど、日本ほど宗教を毛嫌いする国はない。

しかしこれからの精神文明は、物質やエネルギーは泡であり精神のみが
実在であることを受け入れなければならない。
これだけのトラウマを抱えた人類が特に日本がどのように受け入れていくのか。
現代人の大半はこれだけの情報の海に浴しているため、信仰という盲目的に信じる
無邪気さは霞の如くだ。神、アラー、ブラフマン、空、天、、、
それらに依存させることはもはや出来ない。
ならば宗教を超える知が必要となるであろう。
「不立文字」と言って逃げずに、「語り得ぬものゆえ語るな」と諦めずに、
人間の持つ最上位概念である「有」を突破させる道がある。
その道に信仰は必要ない、疑っても疑っても疑いきれない確固不動な知によって
人間の認識が変わるのだ。

日本が宗教をこれだけ毛嫌いすることは先の2つの理由で理解できる。
しかし、確固不動な知を全人類に伝えようとするNoh Jesu氏はまた別の解析をする。
「日本は真理の魂だから中途半端は受け入れない。日本が100%この道だ!
と思えた時、日本は真の日本に戻る。強く美しい日本に立ち返る。
その時をじっと待っているんだよ。」と。

なるほど、日本の宗教嫌いはそんなところから来ているのかと、
日本人の私が負っている日本のトラウマが癒やされていくのを感じた。

今回の参議院選挙で政局がガラリと変わった。与党である自民党と公明党が大幅に
議席を減らし野党が躍進した。あまりにもやりたい放題の自民党に国民の怒りの
答えが今回の投票で現れたのである。それでは野党の各政党が正しいこと言って
いるのかというと若干疑問が残る。しかし溺れた時に浮き輪を選ばないと同じで
国民はとりあえず無我夢中で浮き輪を掴んだのである。

アメリカの人類学者のルース・ベネディクトが書いた「菊と刀」。
英国人の言語学者バジル・ホール・チェンバレンが書いた「日本事物誌」
この二人の書いた本は全世界で発売されて日本人研究の資料として重宝がられた。
私達は「徒然草」「日本書紀」「国学」などで日本を学んできたが、戦後GHQから
多くの貴重な書物が禁書とされたために日本の歴史と地理と修身が消されてしまった。
この占領地政策が今でも続いていてアメリカへ行くと日本は属国扱いされている。

私達が本当に守らなければならないのは美しいお寺や神社じゃない。
世界の中の日本という地理的位置と歴史に中に潜んでいる真実と
世界がとくにアメリカが一番恐れている「大和魂」である。
国を守るために10代から20代の若者たちが帰りの燃料を入れずに
ゼロ戦で飛び立ち敵国の戦艦に体当たりをする「大和魂」である。

なぜ日本人が宗教嫌いになったのかはアメリカから精神性を
塗り替えられたからである。
でも本来の日本人は決して宗教嫌いではない。
お正月にはお寺にお参りをして、七五三では神社に行って、富士山詣でに行き、
伊勢神宮や出雲大社へもお参りをして、奈良の大仏へも観光で行く。
多くお寺社仏閣と離れられない関係性があるからです。

どんなに西洋かぶれをしても農耕民族としてのDNAは変わらないのである。
祈りをして種を播き、苗を植え、祈りをして収穫をする、農産物の取れ高、
魚介類の豊漁に感謝して秋には盛大に神々に感謝して村祭りが行われる。
その中から能楽の歴史が歌舞伎の誕生が茶の嗜みから世界に誇る絵画が生まれ、
芸術文化が嫌いな民族でないことは証明されている。
これからは堂々と「宗教はあります」「芸術文化は大好きです」と応えてください。
これが日本人の誇りです。