人生のクライマックス
人生のクライマックス(最高潮)を死ぬことと大げさに捉えるか、
仏教でいう「生老病死」のひとつとして淡白にとらえるか、
どちらにしてもお迎えが来れば身体は燃やされて無くなるだけである。
私は子供の時から死を恐れたことがありません。
やりたいことをやるだけやれば悔いを残す必要は無いと!
寺の住職から言われたからです。
いつか死が訪れたら元気に笑って「さよなら」を言うだけである。
年を取ると周りは勝手に「死」のイメージを作り可哀そうだのとのたまい、
老い先短いからと妙に親切にされてもありがた迷惑である。
ただ恐れるのはボケが入り足腰が悪くなり寝たきりになる事だけである。
そして予期せぬ転倒事故で歩けなくなるのは家族に迷惑をかけるので
階段の上り下りなど特に気をつければならない。
かといっていたずらに不安がっても仕方のないことである。
なるようにしかならないのである。
良寛和尚の「災難の逢う時節には災難に逢うがよく候死ぬ時節には死ぬがよく候」
の言葉通り、仏さまから与えられた宿命を潔く従うだけである。
私は行き当たりばったりの人生であったから、
成功した時には成功を楽しみ、失敗した時には失敗を受け入れて、
元気な時には健康を謳歌して、体が具合悪くなれば病院に入り手当てを受けるだけ、
ただそれだけのことである。
家族に言っていることは助かる見込みがない時に「がん治療と延命治療は絶対するな!」
そして死が近づいてきたらすべての臓器をドナーに提供するから、
早めに医者に伝えるようにと言ってある。
葬式もするな!お墓も作るな!しかし家系は閉ざすな!ときちんと伝えている。
なるようにしかならないのに不安がっていても仕方が無いことである。
多くの老人は死が間近に迫るとパニックになるそうだが、
楽な死に方の方法なんて看護師や医者に聞いても困るだけである。
医者はただ治療するだけの人である。宗教家ではないので生命を語ることは
出来ない。いわゆる肉体的な生命ではなく精神的な生命(魂)である。
SNSで医者からの投稿にこんな記事がありました。
外来で92歳の女性と話していた。
昨年末に娘さんを、今年2月にお嫁さんを立て続けに亡くした。
「自分はなんて業の深い女だろうね。」と目に涙を浮かべて話してくれた。
どんなお気持ちだろうと、彼女の悲しみは計り知れない。
しかしこうも言っていた。「でもね、どこかでほっとしているところもあるんだ。」と。
一昨年前から外来に来る度に娘さんとお嫁さんの病気のことを
話していた。92歳の小さな体全身で居た堪れなさを漂わせながら、
「いつ死んでしまうか、いつ病院から連絡が入るか、常に緊張している。」
と語っていたのを思い出す。
「生きる・死ぬとは不思議なものだ」といつも思う。
生きているものはどうして死ぬのか・・・有るものがどうして無くなるのだろう。
本当に無くなっているのか。
先日、父の七回忌だった。兄は本堂でお経をあげている時、時々背後から
父の視線を感じると言う。私も車の運転をしている時に父の声をリアルに
聞くことがある。死んだとは思えないほどリアルに。
一般的に生きるとは、姿形があり維持されていることを言う。
死ぬとは、姿形が維持できずに無くなることを言う。
しかし有ったものが無くなることなどあるのだろうか・・・
ただ五感覚で捉えられなくなっただけと考えた方が、理が通る。
有るものが本当に無くなってしまうなら、
92歳の彼女のように無くなる怖さに縛られながら生きるのは地獄の辛さがある。
…死は幻想なのだ。それと同時に生も幻想なのだ。生死が繰り返される
夢を見ているにすぎない。一つの壮大な幻想を80億の人間が作り出し、
それぞれが自分のポジションを一所懸命にやっている。
そこに人生最大のクライマックスである生死という事件を織り込みながら。
だから、もしこの世界への愛着があるならば、
たとえ死んでもポジションはあり続け、体がない状態でポジションをまっとうする。
ということは、体の自分ができることなど何一つない。
すべては壮大な幻想の中の自分のポジションが動かしているのだ。
歩くことも、食べることも、仕事をすることも、呼吸することも、
ポジションがやっている。そしてそのポジションを作り出したもの、
それが真の実在であり、真の意志である。
・・・それをパルメニデスは「有って有るもの」と言った。
そう、真実は永遠不変であり、失われるものなどなにもないのだ。
「不生不滅」、それが実在なのだ。
投稿文章はここで終わっていた。
勝手な想像に過ぎないが、若い時から自分の立場と損得にこだわる人は
死を恐れる傾向にある。その上に財産に執着する人は、死によって財産を
手放さなければならないことは耐えがたい苦痛を伴うのだろう。
私は子供のころから家が貧しかったせいで物には恵まれなかった。
そのせいか成人しても立派な家も高級車も欲しいと思ったことが一度も無い。
お金が入ればいつも海外へ旅に出た。一人旅ほど楽しいものは無かった。
他人と精神的満足を共有する必要が無く十分満足していた。
30代に音楽プロデューサーで成功したからといって、このまま音楽業界に
しがみつく気持ちも最初からなかった。
短い人生の中で沢山の仕事の経験を望んでいたのでそれなりの転職を繰り返した。
システム会社、映画会社、海外の音楽制作会社、専門学校の理事、セミナー講演者、
アパレルメーカー顧問などである。今ではその経験を活かして高齢者の支援や
子供たちの相談相手も率先して参加するようにしている。
人生は望めばそのようになるものである。
ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」そのものである。
やりたいことをやり続けたから死など恐れるものではないと思っている。
今とくに子供たちに言いたいことは正しい日本語を学びなさい。
自由は束縛の中からしかつかみ取れない。成功は失敗の連続から生まれる。
公平と平等の違いをしり、「小欲知足」奪い合えば足りなくて分け与えれば
余るという意味をしっかりと学び日本人としての誇りを持つことである。
漢字の意味が分かるようになればAIなんて恐れに足らずである。
上辺だけの常識を妄信すると情報が操作されてAIの奴隷になるだけである。
未来がこの先どうなるのか考えると死など忘れてしまう。
もしかすると人生のクライマックスは宇宙で迎えているかもしれない。
そうやすみやすみ死んでたまるか!
毎日がワクワクドキドキするような時間で溢れている。