魂とは




魂とは覚悟の代名詞、何世代前の辛い状況を乗り越えた時の記憶の甦り。
肉体は滅びても魂は滅ぶことはありません。輪廻転生を繰り返し
過去を忘れないようにする為の残された記憶の炎です。
現生では未経験の場所や事柄をふと思い出すことをデジャブーと言います。
これはまさしく何世代前の魂が経験したことを思い出すことです。
感動した時に「魂が震えた」と言いますが、その時の魂は何処に
あるのでしょうか?「心が震えた」と言わないのは何故でしょうか?
「魂」の字の部首「鬼」は,日本語でのおそろしい「おに」とは限らず,
「亡くなった人のたましい」の意味で,それに関係する文字が同じ部首に
属しています。云と鬼の組み合わせが「魂」です。

魂とは過去にあった民族の怒りや個人の憎しみが混ざり合った
塊ではないかと思うことがあります。
酷い仕打ちを受けた人たちは魂という言葉を多用します。
しかし裕福な人や成功者の口からは魂の話は聞いた試しがありません。
ですから魂は人間の怒りの原点ではないかと思うのです。
世界の民族音楽には怒りを乗り越えるための力強い歌が多数残されています。

魂とは肉体と相対するところにあるものです。(Spirit&Soul)
日本人は魂を身近な物体に預けることもします。
武士の魂を刀と言います。
調理人の魂は包丁と言います。
職人の魂も鉋との鑿と言います。

三つ子の魂百までは性質・性格を言います。
誕生した瞬間に神様が赤子にフット息を吹きかけるそれが魂と言われています。
神様から分け与えられた時のものは魂ということでしょう。
また霊というのは魂の昇華したのちの高次元の世界にある時の
呼び名「霊魂」と考えると言われています。

うたライブ5月テーマ曲「魂の叫び」作詞作曲伊丹谷良介。
宿命と運命、自分とは何なのか育てあげられてゆく魂の叫び
天命と必然、真我とは何か磨き続けていく魂の叫び
自問自答の末にたどり着く魂の叫び

魂の叫びとは身代わりの象徴ではないのか?
天皇が国の象徴と言われても皆目内容が理解できない。
私の魂論は自分の心の預かり場所、いわゆる実態のない抽象概念。
空気を読む研究者山本七平のようにその場の雰囲気で忖度する独特の観念。
第二次世界大戦の最高指揮官は昭和天皇である。日本人に取って天皇は神そのものです。
その下の最高指揮官山本五十六が言うから東條英機が言うから意見を覆せない。
日本の武力とアメリカの武力を比べて敗戦すると分かっていても
止めることができなかった。みんな今回の戦争も神風が吹くと信じていたからです。

魂は残り続ける
宿命(変えることができない)
運命(変えることができる)
天命(使命を与えられた人生)
寿命(与えられた人生の期間)

各国に代表される魂の歌。
米国ソウルミュージック、Earth Wind &fire、スリーデイグリース、ダイアナロス
韓国パンソリ、日本鳥取県貝殻節、ポルトガルファド、

黒人のブルース、リズム&ブルース、(歌は魂の叫び、魂の吐口)、
これに白人のカントリーウェスタンを取り込んだエレビス・プレスリー。
農業革命→産業革命→情報革命→2025年霊性革命(魂が入れ替わる時代)

まず、今日の無宗教の人たちに多いのは、
死んだら無になるという考え方です。
宗教でいえば、儒教は、現世についての教えで、
死後については知りません。
西洋哲学では、古代ギリシアで、デモクリトスが万物の根源は
目に見えない小さな粒々だと考えました。これをアトムと呼びます。


つまりすべては原子からなる物質できているということです。

そのため精神は存在しないといいます。
仮に霊魂のようなものがあったとしても、
それも原子でできていて、人間が死んだら散っていくそうです。
従って死んだら無になります。
このような、この世は物質のみからできている
という考え方を唯物論といいます。

ヘレニズム期になると、エピクロスが唯物論を継承し、死んだら無であり、
すべての宗教は迷信だと考えました。
その後、西洋では、霊魂を説くキリスト教が優勢になり、唯物論は
鳴りを潜めました。
ところがキリスト教の勢力が衰えてきた19世紀のドイツで、
このデモクリトスとエピクロスに関する論文を書いて学位をとったのが
マルクスです。マルクス主義は唯物論なので、
死んだら無になりますし、
宗教を民衆のアヘンだといいます。

プラトンの対話篇について、それがどのように哲学になるか、
もっといえば、「プラトンが対話篇において哲学をしている」とは
どういうことかを考えてきました。

そして、結局、問いが投げ出されているわけですが、それは、
「私たちはむしろ問いの中に投げ込まれている。その中で答えが与えられない。
ただソクラテスが吟味する言葉だけが与えられている」ということです。
そうした対話篇として書かれた対話を読んだ私たちは、
一体どのように哲学を始めるべきなのでしょうか。
これを最後に考えていきたいと思います。

これまで対話という言葉を使ってきましたが、これはギリシャ語の
ディアロゴス(英語のダイアログ)で、ロゴスとは言葉のことです。
ディアとは「何々を通じて」という接頭辞です。
つまり、言葉が人と人との間で行き交うこと、それが対話というものです。

対話という言葉は、プラトンにとって非常に重い言葉だと思いますが、
対話を交わすということはどういうことかというと、少しおどろおどろしい
言葉に聞こえるかもしれませんが、2つの魂が出会うことです。
つまり、決して私のこの体のこの喉が震えて何か言葉が出て、
それを耳の鼓膜を通じて聞くという話ではなく、私の魂が発するロゴスを、
別の魂、例えばあなたの魂がそれを受け止めるという営みが対話なのです。
つまり対話とは、まさに2つの魂が成立する場所だと、プラトンは
考えているのです。

私は、対話についてプラトンが書いている箇所を見ながら、
「対話とはそうした意味でソクラテスが交わしているのだな」と
読み解くわけですが、そのときに対話がどう成り立つのかが重要です。

ソクラテス、プラトン、アリストテレス、新プラトン派など代表的古代中世
哲学者、キリスト教、イスラームの思索を題材にして、魂という空間の奥深さ、
流動性、神秘性に思いを致すきっかけを与えることを目差します。
魂の部分すなわち諸能力の分け方、魂の定義、共通感覚論、潜在意識、
魂の物象化を避ける考察法、自己認識、神秘体験、啓示宗教への依存の有無、
魂論と形而上学体系との相即などが主要なトピックになるでしょう。

いずれにせよ魂は個人の信念の塊であることには違いない。
そしてアニミズムのように大地に岩に木々に全てに魂は宿っているのです。
私は毎朝大自然に宿る八百万の神々に世界平和の祈りを捧げています。
敬虔な祈りと共にざわついた魂が静まり返ります。