名演説
名演説とジーンズ
「名演説」出石尚三作
歴史に遺る名演説といえば、ゲッティスバーグでしょうか。
もちろん、エイブラハム・リンカーンの。
「人民の、人民による、人民のための政治が、
この地球上から滅びることがないよう、
堅く決心することである。」
これが結びの言葉。この少し前に。
「世界は私どもがここで話すことを、ほとんど注意しないであろうし、
またながく記憶しないであろう。」
こんなふうに語ってもいるんですね。ところがそうではなかったこと、
ご存じの通り。昔、英國のある文人が言ったそうです。
「アメリカにたったひとつ美文がある。それはゲッティスバーグにおける
リンカーンの演説である。」
あまりにも有名なこの演説、ニ、三分のことであったという。
これに対して、エヴェレットの演説は、二時間。
エドワード・エヴェレット(1794~1865年)は政治家にして、
名弁論家と謳われたお方。
はじめにエヴェレット、次にリンカーンが話した。
翌日、リンカーンはエヴェレットに宛ててお礼の手紙を。
それに対するエヴェレットの返事。
「小生の二時間の演説が、閣下の五分間のお話の要点に、
少しでも近づくことができていれば、望外の光栄と存じます。」
リンカーンが写真でよく見るような、フロック・コオトを着るように
なったのは、1835年頃のことなんだそうです。
リンカーン、二十六歳ころのこと。それまでのリンカーンは、
質素な身なりで平気だったという。
麻のシャツに鹿革のズボン、麦藁帽の出で立ち。
まあ、今の時代に置き換えれば、
Tシャツにジーンズといったところでしょうか。
堂々と胸を張れる素晴らしいジーンズを穿いてみたいものです。
でも、演説はできませんがね。
私が推薦する「名演説」とは。
亡くなったスティーブ・ジョブズ氏は多くの印象的な言葉を残した。
中でも2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは、
自らの生い立ちや闘病生活を織り交ぜながら、人生観を余すところなく語り、
広く感動を集めた。「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」。
世界でもっとも優秀な大学の卒業式に同席できて光栄です。
私は大学を卒業したことがありません。実のところ、きょうが人生でもっとも
大学卒業に近づいた日です。本日は自分が生きてきた経験から、
3つの話をさせてください。たいしたことではない。たった3つです。
まずは、1つ目は点と点をつなげる、ということです。
私はリード大学をたった半年で退学したのですが、本当に学校を去るまでの
1年半は大学に居座り続けたのです。ではなぜ、学校をやめたのでしょうか。
私が生まれる前、生みの母は未婚の大学院生でした。母は決心し、私を養子に
出すことにしたのです。母は私を産んだらぜひとも、だれかきちんと大学院を出た
人に引き取ってほしいと考え、ある弁護士夫婦との養子縁組が決まったのです。
ところが、この夫婦は間際になって女の子をほしいと言いだした。
こうして育ての親となった私の両親のところに深夜、電話がかかってきたのです。
「思いがけず、養子にできる男の子が生まれたのですが、引き取る気はありますか」
と。両親は「もちろん」と答えた。生みの母は、後々、養子縁組の書類に
サインするのを拒否したそうです。私の母は大卒ではないし、父に至っては
高校も出ていないからです。実の母は、両親が僕を必ず大学に行かせると
約束したため、数カ月後にようやくサインに応じたのです。
そして17年後、私は本当に大学に通うことになった。
2つ目の話は愛と敗北です。
私は若い頃に大好きなことに出合えて幸運でした。共同創業者のウォズニアックと
ともに私の両親の家のガレージでアップルを創業したのは二十歳のときでした。
それから一生懸命に働き、10年後には売上高20億ドル、社員数4000人を
超える会社に成長したのです。そして我々の最良の商品、マッキントッシュを
発売したちょうど1年後、30歳になったときに、私は会社から解雇されたのです。
私の人生をかけて築いたものが、突然、手中から消えてしまったのです。
これは本当にしんどい出来事でした。
1カ月くらいはぼうぜんとしていました。私にバトンを託した先輩の起業家たちを
失望させてしまったと落ち込みました。デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、
台無しにしてしまったことをわびました。公然たる大失敗だったので、
このまま逃げ出してしまおうかとさえ思いました。
しかし、ゆっくりと何か希望がわいてきたのです。自分が打ち込んできたことが、
やはり大好きだったのです。アップルでのつらい出来事があっても、
この一点だけは変わらなかった。会社を追われはしましたが、もう一度
挑戦しようと思えるようになったのです。
そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、
人生でもっとも幸運な出来事だったのです。将来に対する確証は
持てなくなりましたが、会社を発展させるという重圧は、もう一度挑戦者に
なるという身軽さにとってかわりました。アップルを離れたことで、
私は人生でもっとも創造的な時期を迎えることができたのです。
その後の5年間に、NeXTという会社を起業し、ピクサーも立ち上げました。
そして妻になるすばらしい女性と巡り合えたのです。
ピクサーは世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画
「トイ・ストーリー」を製作することになり、今では世界でもっとも成功した
アニメ製作会社になりました。そして、思いがけないことに、
アップルがNeXTを買収し、私はアップルに舞い戻ることになりました。
いまや、NeXTで開発した技術はアップルで進むルネサンスの中核となっています。
そして、ロレーンとともに最高の家族も築けたのです。
アップルを追われなかったら、今の私は無かったでしょう。
非常に苦い薬でしたが、私にはそういうつらい経験が必要だったのでしょう。
好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください。
決して立ち止まってはいけない。本当にやりたいことが見つかった時には、
不思議と自分でもすぐに分かるはずです。すばらしい恋愛と同じように、
時間がたつごとによくなっていくものです。だから、探し続けてください。
絶対に、立ち尽くしてはいけません。
3つ目の話は死についてです。
私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、
その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。
それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に
問いかけるようにしているのです。
「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。
1年前、私はがんと診断されました。朝7時半に診断装置にかけられ、
膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。
私は膵臓が何なのかさえ知らなかった。医者はほとんど治癒の見込みがない
がんで、もっても半年だろうと告げたのです。
医者からは自宅に戻り身辺整理をするように言われました。
つまり、死に備えろという意味です。これは子どもたちに今後10年かけて
伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。
家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。
別れを告げなさい、と言われたのです。
あなた方の時間は限られています。
だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。
ドグマにとらわれてはいけない。
それは他人の考えに従って生きることと同じです。
他人の考えに溺れるあまり、
あなた方の内なる声がかき消されないように。
そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。
あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。
ほかのことは二の次で構わないのです。
「ハングリーであれ。愚か者であれ」私自身、いつもそうありたいと思っています。
そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。
ハングリーであれ。愚か者であれ。
ありがとうございました。
スティーブ・ジョブズ氏が2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で
行ったスピーチ原稿の翻訳。