社会への属性




アブラハム・マズローの「欲求五段階説」の下から三番目に
「所属の欲求と愛の欲求」がある。
生理的欲求と安全欲求が満たされた場合は次に社会の中における存在である。
地域社会や会社、学校などのコミュニティに所属したい。
友人や家族、恋人との関り受容されたいといった欲求です。

しかし人は集団や組織に個性を潰されると思うのは無理ないことである。
というのも、一人一人が自由闊達に行動したら、必ず摩擦衝突が起こるの。
だから暴力やお金の力を使って人は他者を黙らせることで秩序を保ってきた。
人は皆、違う世界を見て違う物語を生きており、忍耐我慢の結果として
共同体は作られるというのが当たり前だった。

そして今や「忍耐・我慢はしたくないから集団や組織には属さない」
という若者たちが増えたのも確かだ。
しかし人間は一個人になった時にはあまりにも弱い存在となる。
社会が安定しているうちは社会システムが守ってくれているかもしれないが、
完全な社会システムなどお金同様に幻なのだ。そこに実在はない。
故に個人の不安や孤独は増し、社会システムを批判しながら
そのシステムに依存するようになる。

しかしこれから来るAI時代は待ったなし。
そんな捻くれも通用しなくなる。
存在の局所実在はあり得ないことが証明された今、
個人では生きていけないことを知る。
人間を人間らしくするのは、2人以上の集団になった時である。
1人でいる時は何も始まらない。どんな高尚なる思想を得ようが、
どんな悟りを得ようが、1人ならば何の意味も持たない。
それを他者に伝達してはじめて動きとなる。
なぜなら2人以上で「間」が作られるからだ。
人間とは「間」こそ重要で会って、進化発展の登竜門である。

ではここで本題に入る。
集団や組織に個性を潰されない方法はあるのか?
一人一人が自由闊達に行動しても摩擦衝突が起こらないことはあり得るのか?
ある。そのたった一つの道は一人一人が一元を悟り知ることである。
実在するものは心しかないことを「知る」ことである。
そのことを「知った」時、世界を見え方が一変する。
人生の意味価値が変わる。

この世界に「自分」はある。しかし真の自分はこの世界には属していない。
見ても見ていない。聞いても聞いていない。喋っても喋っていない。
生まれても生まれていない。
だから、世界とは誰にとっても自分の個性を爆発させる遊び場となる。
摩擦衝突は起こりっこない。
なぜなら誰もが何をしても何も起こっていないことを「知っている」からだ。

一元を悟り知るコンテンツは完成されている。これは修行で開眼するものではなく、
論理体系的な教育として誰もが悟り知る時代になったのだ。
だから世界ではじめて真の共同体の完成が作られる日も遠くない。

貧しくて能力のない人間が一般的な社会へと馴染むことは容易ではない。
自分のプライドと自分の真意を押し殺してでも虚像の社会へ溶け込むしかない。
いわゆる人気者となり衆人環視の中で実績を残さなければならない。
例えばボクサーやロックシンガーなどは社会に馴染めないがチャンピオンになり
スパースターになれば社会の方からすり寄ってくる。

驚くのは野球の大谷翔平や将棋界の藤井聡太である。
劣悪な環境からではなく恵まれた環境から類いまれない才能が開花されたのである。
野卑な驕りもなく、偉そうにするのでもなく、インタビューでは優等生の回答をする。
大谷翔平は両親の愛情から指導者の教えから素直に学び、その中で将来の夢を
プランとして書き出し、忠実に守り切った。
藤井壮太はAI将棋と戦う内にAIの思考を学び、その裏をかくことを訓練してきた。
現在の将棋中継はAIの予想も入れるので解説者はそれを説明する。
しかし、何度もAIの予想を裏切り藤井聡太は土壇場で逆転勝利をつかみ取る。

古い社会の属性に入り込むより新人類たちは全く違った価値観の
社会の属性を生み出しているのである。
アナログ思考の大人たちの意見よりもデジタル思考のAIに頼る方が満足をする。
子供たちの大好きな鬼滅の刃を残虐だとかグロテスクだとか言う大人は、
彼等の属性には絶対入れないのである。

つまり、以前は愛情や友情などには無関心で見向きもしなかった人でも、
ひとたびこの欲求が頭をもたげれば、孤独であることや仲間外れにされること、
あるいは他者に拒否されることだったり存在価値を見出せる場所がないこと、
頼れる人がいないことなどに非常に苦痛を感じるとマズローは言っているのですね。
これも多くの方が同意できる話なのではないでしょうか。

孤独感や疎外感に悩まされたこと、誰かに否定されたり拒絶されたりして
傷ついたことなどは、誰しもに経験があると思います。
あるいは、表向きはそれを出さないように我慢してはいるものの、心の奥底では
真の信頼関係で結ばれた誰かとの繋がりがないことをずっと苦痛に感じている人も
珍しくありません。
「一人ぼっち」自体が悪いことではありませんが、そのことに恐怖心や不安を
感じやすいのが我々人間です。

つまり、どのような関係性であれ、人との繋がりを求める欲求が
「所属と愛の欲求」であると解釈できるでしょう。
そういった意味では、これは広い意味で「人間関係の欲求」とも言えるかも
しれませんね。
いずれにしろ、これは人間が社会的な生物であるがゆえに他の生物に比べ
特に顕著に求める欲求であると言えそうです。

また、あえてこの欲求を感情と紐づけてみると、「寂しい」「淋しい」という
心情に結びつくものと言えるのではないでしょうか。
そして、このような感情もおそらくほとんどの方が人生で一度は経験した
ことがあるものだと思います。
そういった意味でも、「所属と愛の欲求」とは、これまで生きてきた
どこかのタイミングで、誰しもが一度はつまずいたことのある欲求で
あるとも言えるでしょう。

むしろ、もし一度も「所属と愛の欲求」を切望した経験がないという人は、
それはただ単に自分の中にあるその欲求を見て見ぬふりをしているだけなの
ではないでしょうか。
もちろん、人によってその頻度の差やスパンの長さや強弱の度合いに個人差は
あるにせよ、その欲求と向き合うことを放棄しなければ、人生において必ず
一度は深く関わらざるを得ない欲求が、この「所属と愛の欲求」なのだと思います。

というか、この欲求は長い人生において環境や価値観の変化に伴いどんどん
形を変えるものなので、向き合う回数は一度や二度ではすまないといった方が
正確かもしれません。

仕事かプライベートかは問わず、大切な人や愛しい人との死別・離別や、
お気に入りのコミュニティから離れざるを得なくなったり、大事にしていた
チームやグループ自体が無くなってしまうことは人生において往々にしてあり得る
ことです。むしろ人によっては、物心ついてから今までずっと苦悩し葛藤し続けて
きたのが「所属と愛の欲求」であったという人もいるでしょう。

社会は生き物のように姿かたちを変えていきます。
喜怒哀楽に包まれた人間がデジタルと手を組むようになって無機質な関係に
成ろうとしています。効率を求めるあまりコンピューターに感情を預けて
好きか嫌いかの判断も検索で求めるようならば「所属の欲求・愛の欲求」も
現代版に書き換えなければなりません。

近年マズローはこの欲求の五段階に二つ書き加えています。
それは「認知の欲求」と「審美的欲求」です。
ここに新たな欲求を加えたのにはどのような意図が隠されているのでしょうか?
みなさんで考えてみましょう!