自分に憧れる
子供の頃、誰かに憧れを持ったことがありますか?
経営者、政治家、スポーツ選手、映画俳優、大物歌手などですか?
私は大学の時にアメリカの歌手ボブディランに憧れました。
それまでの時代は美しい声と美しいメロディーが主流でした。
しかし突然現れたダミ声の彼が衝撃的でかっこいいと感じたのです。
そして政治的メッセージが音楽になる事を教えてもらいました。
最初に聞いた曲、「風に吹かれて」&「戦争の親玉」にはしびれました。
それからボブディランに憧れて、自作のハーモニカーホルダーを首につるし、
へたくそなギターを弾きながら大学の校庭で何度も歌いました。
あっという間に人だかりが出来て大勢の学生が私を取り囲んだのです。
1969年は学生運動が盛んな時で、学生を教室に入れないように
過激な学生によってバリケードが組まれていました。
授業を受けに来た学生は廊下や食堂に溢れ、
何をすることもなく時間をつぶしていました。
そんな暇を持て余した学生たちが私の歌を聞きに来てくれたのです。
しかし困ったのは学生運動家が自分達の集会でボブディランを歌ってくれと
頼みに来たことです。私は彼らの主張には共感したのですが行動が嫌いでした。
年老いた教授を一方的に取り囲んで断罪を迫る行為は見ていられませんでした。
そんな彼らも卒業と共に髪を切り普通のサラリーマンになったことも許せませんでした。
ある時に京都のお寺の参道でバンドの練習をしていたら、ドイツのテレビ局が
取材をしたいと言ってきました。その時の練習曲は「イムジン河」でした。
朝鮮の反戦歌です。ラジオで流れていたのを聞いてコピーをしていました。
「何故、日本はドイツと同じ戦争に負けてもこれほど経済が発展したのですか?」
という質問にわたしは「サムライスピリット」と答えた気がします。
「自分たちの誇りが相手を憎むのではなく相手を慈しむのです」と言った気がします。
同席したNHKの職員が通訳をしてくれて感動してくれました。
私が入学した関西の私立の外国語大学は裕福な家庭の子供が多く
真剣に学業を修めようとする雰囲気があまりないような感じでした。
私もこれが大学生活なのだと適当に時間を過ごしていました。
私はアメリカン・フォークソング・クラブに籍を置きコンテストや
ラジオ番組に出演して2年間は適当に過ごしていました。
しかしボブディランの歌詞に強く影響されて自分も世の中を変えようとして、
大学を3年で中退して1年間大学近くの工事現場でバイトをして旅費を作り、
横浜から船に乗り北回りの安いチケットでロンドンにたどり着きました。
しかし英国の入国審査で入国拒否にあい苦肉の策で持っていた尺八を吹いて、
一か月だけの滞在VSAを頂きました。強制送還ギリギリでセーフです。
ロンドンに着いたその日に英会話の学校に入学の手続きをして、
(これは学生書を発行してもらうため海外の若者が必ず使う方法です)
それから朝食付きの短期アパート(フラット)B&Bを見つけ一息つきました。
次の日からレストランを何軒も周りバイト先を探したのです。
その途中で見た名門のデパートハロッズにも面接に行きました。
しかし労働VISAを持っていないために採用はされませんでした。
毎日レストランの裏口に回り「Give me job」を言い続けました。
そして採用されたレストランで皿洗いをして生活費を稼ぎながら、休みの日は
ロンドンの地下鉄の通路で歌ったのです。ギターも未熟で歌も下手なのに
「時代が変わる」&「天国の扉」を披露したのです。
ほとんどの人が目もくれずに通り過ぎましたが、
なかにはギターケースに小銭を投げ入れてくれる人も大勢いました。
そのお金でロンドン名物の「フィッシュ&チップス」を帰りながら食べたのです。
無謀な挑戦でしたが恐れるものは何もありませんでした。
帰国後ボブディランが所属するレコード会社CBSSONYに就職しました。
電話一本で乗り込みアルバイトから半年足らずで正社員になったのです。
後にも先にもお前みたいなやつは初めてだと笑われました。
私はいつもボブディランの「Don’t think twice it’s all right」(くよくよするな)
精神です。悩む時間があれば挑戦しろ!失敗してもくよくよするな!
バイト期間中に人の3倍は働き、夜はレコードのプロモーションにも出かけて
「イチゴ白書をもう一度」を大ヒットに繋げました。
予想通り本社から採用するからと声がかかり入社になったのです。
当初、洋楽部門から声がかかったのですがボブディランに会えるのかと
聞いたら会えないと分かり、邦楽のプロデューサーになることを決心しました。
そして数年も経たずにヒットプロデューサーになることが出来ました。
売れないと言われた気難しいアーティストを担当したおかげです。
プロデューサーは売れないからこそ売れるようにするのが仕事です。
その頃はプロデューサーの定義が無く誰も目指していなかったので
私は勝手に「一流のプロデューサー稲葉」と名乗っていたのです。笑い
あれから40数年が経ちましたが今でも現役です。
50歳を過ぎたロックアーティストのプロデュースをしています。
一般的に年齢を重ねると若い時ほど憧れは無くなります。
色々な人生経験をして単純な憧れよりも現実の方が大事になり
つかみどころのない夢よりも現実のお金と健康が気になるせいでしょうか?
私はそれでも年齢に関係なく夢と希望と情熱を持ち続けています。
私はナルシストではないのですが日本で最初のプロデューサーを定義したので
仕事も遊びもスタイリッシュでありたいと願ったのです。
一流のプロデューサーになるために猛烈に働き、世界中を駆け巡り
沢山のヒット曲を作る仕事をしてきました。
どんな時にでも音楽プロデューサーとしてのスタイルは崩しませんでした。
その為の個人投資に多額の資金を使いました。家族にはおおきな迷惑を掛けました。
私の役目はヒットを作るのが仕事です。自分勝手な思い込みで作品に
難癖つける事もあります。その為に何度も録音のやりなおしの作業をしました。
これには原盤会社(制作費を出す会社)も頭を痛めていました。しかし
作品がヒットするので面と向かって誰からもクレームを受けたことはありません。
現在、76歳になり年相応の活動をしています。
今まで日本にはいなかった老人スタイルを作っています。
若者たちの悩みを聞きながら全面的にサポートをしています。
なによりもこの年齢になってもアーティストが頼りにしてくれます。
嬉しい限りです。一生情熱と才能が枯れない老人を目指しています。
皆様も他人に憧れを持つのではなく自分に憧れを持ってください。
自分の人生は自分の物語で最後まで埋めたくありませんか?
世界にたった1人の自分を愛してください。
徹底的に愛する事です。他人を愛することから切り替えてください。
自分に憧れてください。