西洋精神




西洋精神の土台は「神」
医師長岡美妃の考え
(素晴らしい内容ですので皆様にご紹介します)

これは東洋に生きている人間からすると想像できないほどの
揺るぎない概念として根付いていることを知る。
西洋哲学とは、この「神」概念を超えようとする挑戦のように見えなくもない。
近代哲学の祖と言われるデカルトも、また現代にも多大な影響を
与えているカントも「神」の要請をした。

そしてカントは「神」の存在論証を次の4つで分類した。
1. 目的論的証明(自然神学的証明):世界が規則的かつ精巧なのは、
神が世界を作ったからだ。
2. 本体論的証明(存在論的証明):「存在する」という属性を
最大限に持ったものが神だ。
3. 宇宙論的証明:因果律に従って原因の、原因の、原因の・・・と
遡っていくと根本原因があるはず。この根本原因こそが神だ。
4. 道徳論的証明:道徳に従うと幸福になるのは神がいるからだ。
つまり、物自体、絶対精神などと言葉の変換はあるが、
やはりそこに人智を超えた存在をみている。

その後、ニーチェは「神は死んだ」と言い放ったものの、
それを代行する思考土台を提唱できず、ある意味中途半端な概念破壊に留まった。

現代は西洋文明が引っ張っている時代である。
東洋は西洋に追従し、知らず知らずに西洋の思考方式を絶対として考えている。
合理主義、民主主義、物質主義が正しく、それに即わない考えはおかしいと
一笑に付す。しかしどうだろうか・・・東洋、特に日本においては
一神の神を全面的に受け入れている人は多くないのではなかろうか。
西洋が、特にアメリカが言うならば、それも良しだね。という具合の人も
かなりのいるのではなかろうか。
(ここで断っておくが「神」がいる・いない、の議論をしているのではない。
時代精神の主軸はどうなっているのかの話である。)

西洋哲学をみていて思うのだが、「神」に至った途端に
思考停止になるように感じる。
天才的な思惟を積み重ねてきて最後の最後「神」で括る。
またはヴィドゲンシュタインのようにそこには触れないというスタンスを取る。
ということは、コインの表(現実世界)から裏(神)に至ったらおしまい!である。
だから「人間とは何者か?」「この現実とは何か?」という
コインの裏から表の仕組みには至らない。
そしてこれが現実の悲惨さ残酷さを生み出している元凶なのだ。

現実とは何かがわかった時、人間の心にある不足感は雲散霧消する。
人間とは何かが誰もがわかった時、人間の世界に争いは無用となる。

・・・世界にある様々な危機問題の根本はここにある。
人類は今、「神」の概念すなわち「有」の概念を完全に超え、
新しい「動き」の概念を共通土台として持つに至る必要がある。
そしてそれをリードするのは東洋であり、その中でも「動き(心)」を
実生活に応用活用した武士道のある日本であることは間違いない。
日本の勇気、それが問われているのだと感じる今日この頃である。

22歳の若者と話していた。
「何をしたらいいのか分からない。」途方に暮れた顔をしていた。
とりあえず手っ取り早くお金を稼いで、東京ドームのVIPルームを借り切って云々…。
私は問う「それやってどうするの?」と。
「そうなんすよ。だから何?って感じです…
でも何をしたらいいのか分からないです。マジで」

私はそこでサルトルの言葉を思い出す。「人間は自由の刑に処せられている」
封建社会の時は生まれた時からやるべきことが決められていた。
だから迷うことはなく、豆腐屋は豆腐屋に、武士は武士に、大名は大名に。
それぞれのポジションを全うすることだけを肝に銘じて生きればよかった。
しかし現代は、人間は平等になり横一列に並ばされた。そこには親子の序列も、
先生・生徒の序列も、目上の人を敬うということもなくなった。
そう、ポジションなき自由を与えられたのだ。

しかしそれによって失われたものもある。それは何かと言うと、
敢えて不自由の中に身を投じるという自由さである。
人間の本質は無限の自由である。
しかしその自由には歓喜の爆発という演出はない。
ただただ続く無限の自由。だから本質は敢えて不自由を創ったのだ。
究極の不自由さの中にあるエクスタシー。サムライの忠義とは義務ではない。
それは能動的な明け渡し、自我の放棄。それこそが真の自由。

家庭も学校も自由平等を旗印に歩んできた戦後教育。あれから80年経った今、
若者たちは壊れた羅針盤のようになっている。
人間とは何者なのか?生きるとは何か?…その本質的な問いを持ち、
その答えを持って生きさせなければ大変な時代になっていく。
若者との会話からそんな危機感を感じた1日だった。

山鹿素行の「中朝事実」を知る。
吉田松陰、乃木希典が読み込んだとされる「中朝事実」である。
明治維新の精神はこの全2巻の著書によって貫かれていると言っても
過言ではないのではなかろうか。

日本は強かった…素直にそう思う。それは国体への仁があり、
天皇への忠があり、己のポジションへの義があったからであろう。
しかしそれだけではなく、日本という国は超現実主義で、
武は神武不殺をうたっていた。

神武不殺とは、「武の真髄は殺すにあらず、先に攻撃するのではなく、
相手の出方にどう対処するかに練磨の主体をおく、
相手を殺傷する技術を持ちながら、できるだけ殺傷しない
日本武道の永遠の理想」である。
つまり完全に勝てる準備は怠らず、しかしそれは自分も相手も殺さない
道を行くためということ。

ことわざに「負け犬の遠吠え」というのがある。それは神武不殺とは正反対。
何の準備もせず、或いは準備を怠っていることを棚に上げ、不甲斐ない結果に
クヨクヨしている姿が透けて見える。真の強さとは、完全に勝てる道を持ちつつ
余計な戦いをしないことだ。しかしいざ戦いになれば、容赦せずに断ちにいく。

今の日本、「二度と軍事戦争はしない!」「核は持たない!」私も大賛成。
ならば、誰もが戦争不可能な状態にしてしまう(教育)戦争の完璧な
準備をしておくことが必要なのではなかろうか。

ここ1ヶ月、儒教を勉強していた。
特に新儒教と言われる「朱子学」とそのアンチテーゼとして出てきた
「陽明学」について。

陽明学は日本の最大の事件である明治維新の倒幕の志士たちが貪るように
学んだ思想哲学である。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、など、
あれだけの行動力の根底には陽明学あり。
人間はどんな思想哲学を入れるのかによって
行動が変わることを歴史の事実を通して教えてくれる。

さて、あれから160年。そのちょうど半分のところに1945年8月15日があり、
その時日本は日本精神を自ら無きものにしたという大事件が起こっている。
それは一つに日本を日本たらしめていたもの、儒教であり、古学であり、
国学であったのだが、それらを封印したのだ。
エリート教育は悪の根源とばかりに、暗記や技術習得が教育と化し、
リーダーに必要な哲学や倫理を教えることはなくなった。
その結果…日本は日本でなくなっていったのではなかろうか。

しかし儒教が、明治維新を起こした陽明学が両手をあげて素晴らしいと
言っているのではない。やはり世界をリードする日本になるためには、
人間完成に到らせる教育とその実践が必要である。
そしてそれはnTechが担える。

今回儒教を勉強していて、朱子学と陽明学のハイブリッドがnTechのように
思えてならなかった。孔子も朱熹も王陽明も、文明のパラダイムシフトに
やって来ているな、と彼らの意思を感じていた。

長岡先生の言葉は時代の核心をついているし思考の本質である。
特に現代人は教養として本を読むことが少なくなり、
哲学者の名前も宗教の本質も理解できなくなっている。

私もこのブログ「恩学」で極力それを伝えようとしている。
私は思考のきっかけを読者に与えることが目的で始めました。
今回の長岡先生の文章から何を読み取ることかが大切です。
何度も繰り返して読んでみてください。