表層意識




ものごとの上部(うわべ)の点だけで生きている人が大半である。
情報化社会になって取り敢えずいち早く知ることだけに集中している。
物事の本質などお構いなしに上部だけで毎日を過ごしている。
ビジネス書、トリセツ、啓発書、処世術などの本を読んで
分かったつもりになる。しかもそれらの情報をデジタルで取り込み
他人にシェアする。共感力を試すかのようにグループチャットを組む。
そこに想像力を誘発する要因はなく上辺だけの点で面を見ている気だけになる。
今こそ我々は帯状のストライプのように縦線でつなげていく必要がある。

いわゆる思考も入力した時点でドットになるのです。
短絡的に二項対立でしか判断できないのです。好きか嫌いか、悪か善か、
儲かるか損するかと単純な判断に思考が奪われてしまうのです。
このようにパターンかすると花を見ても地下の根っこには
目もくれなくなるのです。温室で作られた野菜や果物も同じ形だから
迷わず買ってしまうのです。楽な方へ流されて逆らうことを忘れてしまう。

いつの時代でも力仕事も汚れ仕事も危険な仕事も誰かがやらなければならないのです。
農家の方や土木作業員や自衛官の協力が無ければ国がまわらなくなるのです。
親が表層意識で公共料金や給食費などお金を支払っているから
なにも問題ないと思えば子供にもうつるのです。お金で何事もことが済む。
内層意識のこころからの感謝が無ければ相手に失礼になる。

パターン認識、これが鍵なのだ。
宇宙の森羅万象にはパターンが隠されている。
そのパターンを認識することができれば、これほど複雑に絡み合っている
世の中の事象がシンプルにみえてくる。
哲学者ヴィトゲンシュタインは「世界は要素命題の塊である」と捉え、
要素命題の最小単位を見つけ出そうとしたのはこのためであろう。
世界の最小単位のパターンを見つければ、それ以降はすべてが
そのパターンのフラクタルに過ぎない。
それゆえ、世界が限りなくシンプルになるからだ。

こんな滑稽なことがなぜ起こっているのか?
その理由は脳の認識に依るところが多い。
脳は模様形として存在を捉え暗記していく。そのため応用が効かない。
ちなみに人間がAIの知能に劣る最大の理由である。
現在の人類は「模様形」の認識に留まっているため、
つまり人間もパターン認識できるように脳の改造が必要なのである。
そしてそれは「存在が動く」認識から「動きが存在させる」認識への
チェンジによって可能になる。

宇宙はとてつもないシンプルな動きひとつで成り立っている。
だから目の前に繰り広げられている世界は「あなたの物語」にすぎない、
これは映像であることが分かる。
そう、私たちは限りなく自由だったのだ。

日本の思想史家丸山眞男は「執拗低音」という定義をこのように発表している。
日本人の外来思想に対する精神態度を称して
「私たちはたえず外を向いてきょろきょろしていて新しいものを外なる
世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分は一向に変わらない」と。

そしてこうした日本人の「外来イデオロギー」に反応するときの国民的常同性を
丸山眞男氏は、「執拗低音(basso ostinato) 」と形容している。
かように「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める日本人のふるまい」
を見事に総括した点もすごいが、このbasso ostinatoという音楽用語で形容した
丸山眞男氏のセンスもまたみごとである。

このbasso ostinatoは、主旋律にはならないが、低音部分がostinatoに
繰り返されることによって、主旋律である外来イデオロギーを一定の音形が
見事に同じ音でからみつき、モディファイし、まざりあって響く、丸山眞男氏は、
その日本的なユニークな本質的な部分を喝破している。

そのbasso ostinatoは、中国大陸から外来イデオロギーを移入していた
時代から明治時代以降の欧米諸国から外来イデオロギーを移入していた
時代を経て、今日に至るまで全然変わっていないのである。

ここから、さらに話を発展させて、内田樹氏は面白い議論を展開している。
日本人は、「他国との比較でしか自国を語れない」という総括である。
その場において、自分より強大なものに対して、屈託なく親密かつ無防備に
なってみようとする傾向があり、おのれの思想と行動の一貫性よりも、
場の親密性を優先させる態度が日本人の深層にあるとの分析である。
いまの自民党等の永田町での動きも、こうした切り口から観察すると
なるほどと妙に納得できる。今回米国へ関税見直し交渉に出かけた
赤沢亮正経済再生担当大臣の言動からもそれが伺える。

最後に、内田樹氏は、「世界の中心たる絶対的価値体が、外部のどこかにあり、
もっぱらそれとの距離意識において思想と行動が決定される。」として、
日本人はその意味で昔も今も「辺境人」であると締めくくっている。

過去から現代に至るまでキリスト教に代表される西洋文化の侵入を
ことごとくはねのけた東アジアの辺境日本は独特の文化を構築してきているのである。
独自の伝承・伝統文化を維持しながら中国の思想を取り入れたのである。
和魂洋才といよりも和魂中才の趣の方が色濃く反映されている。

「私たちはたえず外を向いてきょろきょろしていて新しいものを外なる
世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分は一向に変わらない」と。
日本の強みは海外の文化や技術をすんなりと受け入れながら自国風に
アレンジする能力である。
他を認めながらも自分たちの意識を変えることは無い。

私が海外から持ち込んだシステムを日本人風にアレンジして
プロデューサーという概念を業界に染み込ませた。
日本人は目新しいものが好きである。しかし100%新しいと受け入れないが
ほどよいさじ加減で新しさを出せば必ず受け入れられる。

1980年代の頃に私なりにヒット理論を「肩越の文化論」と名付けた。
直接表面には出て来なくて海外の文化を肩越しにのぞき見しながら、
西洋文化の流行を真似して時代の先端を捉えながら商品化する。
音楽もパフォーマンスもメディアの露出もすべて計算して発表した。
中心軸は変えずに表層に変化をつけながら流行を作り続けたのです。

世の中はたった一つの言葉から認識が変わるのを知っていた。
面と向かって言われる言葉より肩越しに言われた言葉の方が印象に残る。
毎朝SNSで「一日一言」を発信しているのも脳内意識を変えるためである。
「門前の小僧経を覚える」とおなじように良い言葉を聞き続けると
自分の言葉のように使えるようになるからである。
四文字熟語はアナログ的感覚が無ければ意味を理解できない。

デジタル情報をモバイルから拾う癖がついた若者たちに
文字から生まれる意識の変化を教えたいのである。
日本の歴史と文化を紐解き日本人とは何者かにスポットをあてて
次の時代の世の中が何を必要としているのかを考えて行きたい。

世界を変えるのには表層意識だけに固執していると負けてしまう。
「執拗低音」を鳴り響かせながら次の時代の扉を開くことが必要です。