人生の長さ




あなたに人生の長さを教えてくれた人がいますか?
昔ならお爺さんか親戚のおじさんが家族の系譜を見ながら教えてくれました。
私は6歳の時に家族兄弟と別れ、預けられたお寺の住職から
「泣いても笑ってもわずか70年の人生」と教わりました。
お前はこれから笑って生きるか泣いて生きるのか選びなさいと言われ
「僕は笑って生きていきます」と答えて初めて人生の長さを決めました。

そこからいつも70年を逆算で生きてきた気がします。
逆算の方程式を身に着けると試練が試練でなくなります。
逆境が当たり前で順境は避けるようになります。
何をするにしてもゴールからスタートを見る様になりました。
一般的にスタートからゴールを見ると問題ばかり目につきます。
しかし不思議なことにゴールからスターを見ると何も問題はありません。
麓から頂上見るのと頂上から麓を見るのと同じです。
下から見ると難攻不落な山も上から見ると多くの抜け道のルートが見えるのです。

そして自分の目的を決めて歩き出す時にどこを目指しますか?
スタートからワクワクだけを期待しながら歩き出すとかならず失敗します。
学生時代に故郷を目指して京都から栃木まで歩き出したところ
45kmを超えた時点から足に水膨れの豆ができて歩けなくなりました。
裸足でスニーカーを履き肩掛けのバッグと手にはギターを持っていたのです。
見た目にはカッコ良いのですが思いがけない落とし穴があったのです。
真夏の炎天下で常に頭から水を浴び足にも水をかけて歩いていたところ、
足裏全体が水膨れではれ上がり一歩を踏み出すことが出来なくなりました。
とりあえずその日は街道のガソリンスタンドの裏で野宿をして一泊を過ごしました。

翌朝から名古屋を目指して歩き出したのですが、これほど過酷な旅になるとは
思ってなく自分の計画の甘さに後悔をしました。足を引きずりながら
歩く姿を見てトラックの運転手から「途中まで送るから乗れ」と言われて
人生初めて味わった親切に涙が出るほど嬉しかったことを思い出します。
それからは体力のある時には歩いて限界が来たらヒッチハイクで旅を続け
横浜までどうにか辿り着きました。

早朝疲れ果ててベンチで寝ていたところ見知らぬ女性が弁当とお茶を
差し出してこれ食べなさいと声をかけられました。
その言葉を聞いて今までの疲れと嬉しくて泣きながら弁当を食べた
記憶が今でも鮮やかに思い出します。朝まで働いていたという女性ですが、
ベンチで眠る私を見て疲れ果てて食事もしていないんだろうと
思って近くのコンビニで買ってきたということでした。
親切は理屈でも打算的でもなく感情で行うもので、そこに羞恥心や
躊躇いなど一切なく心の豊かさで行うものだと気づきました。

東京を抜けて埼玉を抜け一気に栃木県小山市まで辿り着きました。
6歳の時に出た町ですから19歳の記憶には朧げにしか分かりませんでした。
勿論、自宅のあった場所も分かりません。商店街と神社と魚屋が家の近くにあった
ことしか思い出せませんでした。ギターを抱えた薄汚れた青年に誰も見向きもしません。私は故郷に足を踏み入れたことで満足でしたので、しばらくブラブラして
京都に帰ろうと思っていたのですが、突然目の前に少女が立ちはだかり
私の顔を見て走り出しました。
あとで分かったのですが私が6歳の時に別れた妹だったのです。
当時彼女は3歳の時ですから兄だという確信が持てなかったのでしょう。
しばらく商店街をブラブラしていたらいきなり腕を掴まれて
「たっちゃんだよね」と生き別れた母親と再会したのです。

人生の長さが分かれば一日も無駄にできません。明日が来る約束は
誰もしてくれません。自分に悔いのない生き方をしなければ勿体無いと
思いませんか。6歳の時から一人で笑って生きる決心をしたから
何も怖いものが無くなったのです。自分を守っている人は失うことに
恐れを持っている人です。何もなければ目の前の景色をしっかりと
見ることができるのです。

人生を80年として考えた場合、27年間が睡眠・10年間が食事・5年間がトイレ、
残り38年間が仕事と個人の時間。仕事は1日8時間×5日間(週間で40時間)
22歳から働き65歳の定年で43年間、ここに大切な個人の時間が加わると
あっという間の80年の人生です。

私は私の人生を誰から指示されることもなく一人で歩いてきたのです。
流石に、小学校・中学校・高校までは引き取ってくれた親父に頼らなければ
無理でしたが、大学からはバイトをしながら自立して生きてきました。
大学を中退して英国へ渡ったのも帰国後に一流会社に就職したのも、
学生時代の彼女と結婚したのも全部自分ひとりで決めて歩んできました。

その後40歳を過ぎてサラリーマンを辞めて独立をしたのです。
無我夢中で10年間頑張ったのですが私の判断ミスで契約が切られ倒産をしました。
自己破産して家族とも別れて行き場を失い路頭に迷ったのもつかのま
次の就職先が決まりシステム会社へ入社して新しい人生を歩みました。
そのシステム会社の出資で韓国に映画の配給会社を立ち上げて韓流映画ブームの
先駆けとして日本へ紹介したのです。
それと同時に中国の音楽会社からデモテープが届き北京まで新人に会いに行き、
出会ったのが女子十二楽坊でした。私はプロデューサーとして参加して
世界的大ヒットを作ることが出来たのです。

私は人生に追い詰められると自然に次のチャンスに恵まれます。
子どもの時から自分で判断してすぐに行動をすることを、
モットーとしていたので何も怖いものはありません。「感即動」です。
勿論私だけの力ではなくいつも誠実に対応すると応援者が現れてくるのです。

紆余曲折アップダウンの激しい人生でしたが判断ミスの後悔は一度もありません。
自分の決めたことは良くも悪くも全部自分の責任であると思っています。
私は2011年3月11日東日本大震災から生き方が変わりました。
自分の理想の為に生きるのではなく少しでも困っている人たちに
自分をサンプルとして多くの方々に勇気を与えることが出来ればと
ブログ「恩学」を開始しました。
セミナーや講演会にもゲストスピーカーとしても数多く参加しました。

自分には財産も無いのですが積極的に寄付活動とボランティア活動に
参加して子供たちからお年寄りまで幅広く相談に乗ることにしたのです。
いまでもビジネス上の色々な大型案件が届きますが、残り少ない人生を
ただのプロデューサーとしての役割で時間を使うことはしないことにしています。

昨年から今年にかけて毎朝投稿を開始した、「一日一枚・一日一言」
四文字熟語でひもとく日本語の勉強です。
温故知新、時代に応じた言葉の意味の変化を私の経験から教えていく塾も始めました。
子供たちとの対話集会も「たつじいと孫たち」で始めています。
老齢期になり残り少ない人生の長さを無駄なく過ごしたいと思います。
皆さまとは勉強会で再会できることを願っています。