「録音技術」
録音技術の進化が音楽の進化につながった。
私がスタジオで働いているころはチャンネル数4ch~16chで太いテープを回して
録音した。その後64chになるまでさほど時間はかからなかった。
そして今はコンピュータにデーターを取り込む時代なで、無限大にチャンネル数は
増やすことができる。
最小2ch時代のビートルズはアイデアの実験を繰り返して最高の音楽を作り出した
のです。それは、各楽器の録り方、歌の入れ方、効果音の入れ方、ミックスダウンの
やり方などに、毎回工夫を凝らしたのです。
日本でもそれぞれが自由にアイデアを出して制作していた。
楽器の音色を高くするためにテープの速度を速めたり、低域を増やすためにバスドラの
中に座布団を入れたりもしたのです。有名なのはフォーククルセダーズが作った
「帰ってきたヨッパライ」です。深夜番組で放送されてから町中にこの曲が流れました。
吉田拓郎のオケの作り方。加藤和彦のサポート。企業秘密なので詳しくは書くことは
出来ないが、スタジオ内でのやり取りは大変学ぶことが多くありました。
ここでも参加ミュージシャンが協力して、アイデアを出し合ってよい音楽作りに
専念したのです。良い音楽を作ることは勿論ですが、聴衆が喜ぶような音の品質向上と
仕掛け作りも重要な時代でした。
「作詞家に依頼」
安井和美、荒井由美、松本隆、売野雅勇、川村真澄、秋元康との思い出がある。
当時大御所は手直しが出来ないと評判でしたが、私は構わずに自分が納得するまで
書き直しをお願いしました。
自称、私は日本一のプロデューサーを豪語していたからです。大笑い!
川村真澄は久保田利伸で、秋元康はおニャン子クラブでお付き合いしていただきました。
毎回打ち合わせの時に笑いが絶えなかったお二人でした。
「全体のイメージの作り方」
アーティストごとに時代に合ったテーマを考えて提案をしていました。
詩が先か、曲が先か、毎回アーティストに合わせた作り方をしました。
楽曲のイメージが見えてきたらジャケットのデザインを同時に考える。
帯原稿(レコードについていた紙の帯)と楽曲紹介を考えて宣伝文句も提案していた。
制作会議で営業から初回の枚数が発表される。品切れは絶対にNo!です。
プロデューサーとして取材から挨拶回りから地方営業まで全部仕切っていました。
何度もマネージャー代わりをしてアーティストと二人で挨拶回りをしました。
ご存じでしょうか?楽曲によって営業する最初の地域が違うのです。
北海道の人が好きな曲調と沖縄の人が好きな曲調は違うのです。
ヒットに火をつけるとはこのようなことを言うのです。
この戦略が功を奏して多くのヒットを生むことが出来ました。
「仮歌の思い出」
おニャン子クラブ会員ナンバー12番河合その子のデビュー曲は、
映画「慕情」からのイメージで「涙のジャスミンLove」が誕生しました。
「慕情」は香港を舞台にした大人の恋愛物語です。通常仮歌はラララで歌うか
シャララで歌うムムムのスキャットで歌うかそれとも仮詞で歌うかです。
私が急遽、その場で仮詞を作り歌ってもらったのが「涙のジャスミンLove」でした。
通常は手本として仮歌の歌手を代用するのですが、その時はその場にいた
河合その子が、私が直接歌いたいという事でテスト録音をしました。
この時の歌がフジテレビでもレコード会社でも高く評価されてデビュー曲になったの
です。仮詞が採用されることは滅多にないのですがこのままで発売しようとなりました。
その結果、その年の「レコード大賞作詞大賞」を受賞したのです。
「私の音楽の原点」
1969年~1971年の「中津川フォークジャンボリー」でした。
私も勝手に飛び入りで岡林信康の「友よ」を第二テントで歌い続けたのです。
あの頃は、関西フォーク全盛の時代。フォーククルセダーズ、五つの赤い風船、
赤い鳥などがいました。
東京勢は吉田拓郎を筆頭に六文銭や遠藤健司、斎藤哲夫がいました。
個人的には加川良の「教訓」が好きだった。若者文化のスタート期、何もかもが熱い
時代でした。この時の記憶が音楽プロデューサーを目指すきっかけとなりました。
「歌詞の作り方」
これはどれほどいろいろなドラマを持っているかが重要です。
本からも、映画からも、テレビからも、噂話からでも歌詞の素材を探し出すのです。
私の友人のある大物女性歌手はファミレスの中での女子大生の会話を聞きながら
歌詞を創作していました。だから彼女の歌詞は若い女性が共感するということで
人気でした。
例えば、それ以外に
*タイの保険会社のCM(人間ドラマが満載)。父親が危篤の時に莫大な治療費がかかり
退院間際の請求書の最後のページになぜか支払い済みのスタンプが押してあった。
それは昔、親の病気のために万引きをした男の子を父親が救ったことがある。
その後医者になった男の子が数十年後に治療費の恩返しをしたのです。
泣けるCMとして有名です。
*日本の男の子が五年生を担当してくれた先生への思い出を胸に、成人してから送った
結婚式の招待状に「私の結婚式に母親の席に座ってください」と書かれていた。
小学校の時に明るかった子が、母親が死亡して暗い性格となり成績も下がってしまった。
それに気づいた担任の先生が彼を救ったのです。誰も気づいてくれなかった自分の心を
救ってくれたのはその先生だけだったのです。SNSの投稿で話題になりました。
気づけば日常には様々なドラマが溢れています。
感動するドラマや映画のストーリーを覚えておくことによって、アーティストにも、
作曲家や作詞家にもイメージを伝えやすくなるのです。
「楽曲の作り方」
シングルでもアルバムを制作する意気込みで臨みます。
通常シングルなら2曲もあればOKなのですがアーティストから
30曲~40曲ぐらいは提出してもらいます。
吉田拓郎は10曲入りのアルバムを作るときには100曲以上を用意していました。
歌詞の世界は基本的に歌手の年齢とファンの年齢が近い方が良いです。
同年齢の方が、時代のメッセージが伝えやすいからです。
曲の構成、曲の長さ、リズムの決定、仮メロのはめ込み、必要な楽器などを話し合って
制作をしていくのです。
私は世界の民族音楽が大好きです。その国の歴史と人間性がよく分かるからです。
そして良い民族音楽は長年国民音楽として親しまれて来ているからです。
イタリアのカンツオーネ、フランスのシャンソン、ポルトガルのファド、ジャマイカの
レゲエ、韓国パンソリ、モンゴルのホーミー、アルゼンチンのタンゴなどである。
アーティストのメッセージを聞き、耳新しい響きとリズムを取り入れる。
勿論、民族音楽ではないが、英国のマージービートも黒人音楽のリズムアンドブルース
も大好きだった。私は情報の量が多いのが自慢でした。笑い
「時代の先読み」
5人の仲間達を大切にする。代理店、映画監督、出版社、アパレル関係者、放送局
などのプロデューサーと繋がりをもてれば翌年のトレンドがわかる。
これはマーケティングの手法であり、OODAとAIDMAの手法です。
OODAとはオリエント、オブザーブ、デシジョン、アクションの頭文字です。
情報を集めるオリエント、情報を分析するオブザーブ、方向を決定するデシジョン、
行動を起こすアクションです。これを何度も繰り返すのです。
AIDMAとは注目させるアテンション、興味を持たせるインタレスト、欲望を作る
デザイヤー、記憶をさせるメモリー、商品を購入させるアクションです。
私は日本で初めてそれらの手法を使ってヒット曲を作り出してきたのです。
常に5人の仲間たちとトレンド情報を話し合った。原宿ペニーレーンはその為の集会の
場所だった。仲間が集まる大人の秘密基地を持っことは重要です。笑い
「目指す位置」
アーティストやタレントをデビューさせる時にゴールを決めてから送り出します。
売れたからヒットではなく、どれぐらい売るかを想定してヒットを作るのです。
最初から売り上げ規模に応じて経費を算出すれば無駄が無いのです。
全てのアーティストは大ヒットを狙うが、その人間の持っている才能と能力と時代性と
目指す方向でおおよその売り上げ予想は出来るのです。
アーティストには大ヒットよりも中ヒットを連続して出す方が長く活動が出来るので、
そちらを薦めていました。逆にアイドルの方は早く花開く大ヒットを薦めていました。
「信頼関係」
アーティストの担当を約3年単位で代わった。それは情熱と信頼関係の問題です。
ヒットチャートに登り始めると事務所をはじめ、多くの関係者が増えてアーティスト
にいろいろと違った助言をします。その為にプロデューサーとの制作上の信頼関係が
維持しにくくなるためです。
アーティストが宣伝・制作上で口答えをするようになった時点でプロデューサーとして
の関係は終わるのです。これは双方にとって健全であると思います。
アーティストの制作上の方向性が変われば自分で行うセルフプロデュースにするか、
違うプロデューサーと組めばよいのです。
辛いのですがハウスプロデューサー(メーカー所属)の限界もあるのです。
「プロデューサーの立ち位置」
① 音を聞き分ける、リズムを選ぶ、流れを作る能力。
② アルバム全体の構成を考える能力。
③ マーケティングに基づいた独自の売り方が提案できる能力。
④ コンサートステージ上の演出から衣装まで提案できる能力。
⑤ 売れるまでは絶対的な責任と権限があることを言える能力。
プロデューサーは売り上げ第一に考える。関係各位から仕事に文句を言われないためにも
ヒット曲を作り続けなければならないのです。能力のない肩書だけのプロデューサーが
多いのは確かです。素人バンドの付き添いがプロデューサーの肩書で名刺を出しても
私は絶対に受け取りません。
「海外レコーディング」
久保田利伸=ミネアポリススタジオ(プリンスの専用スタジオ)
SUNS=アビーロードスタジオ(ビートルズの専用スタジオ)
E-ZEE BAND=NYブルックリンスタジオ(クラブ音楽の専用スタジオ)
河合その子=フランススタジオ(パリの香りが満載のスタジオ)
女子十二楽坊=北京スタジオ(十二楽坊専用のスタジオ)
上記のスタジオ以外にもたくさんの海外スタジオを利用しました。
海外レコーディングのメリットはレコーディングに集中できることと、話題性の提供や
MVを制作できることです。勿論、ジャケットの表紙も撮影できるので便利です。
私は1990年に博多出身の「ショットガン」というロックグループのMV撮影で香港へ
行きました。トラックにバンド機材を乗せて演奏しながら街中を走り抜けたのです。
その為に逮捕されそうになりました。これが日本におけるMVの最初だと自負しています。
もっと危険だったのはNY在住のブルースシンガー大木トオルのMVを作った時です。
NYにあるマクサスカンサスというライブハウスで急遽スケジュールを入れて撮影する
ことになったのですが、キャンセルされたニューヨークドールというパンクバンドが
当日ヘルスエンジェルスを引き連れて乗り込んで来た時です。
私と大木さんは地元のマフィア・ドンキングに守られて逃げ出したのが記憶に残っています。
「最後にプロデューサーからの独り言」
CBSSONYというブランドの中で自由に活動が出来たのはラッキーでした。
いつも時代の先端を歩いていたので幅広くアーティストと交流が持てました。
メーカーの垣根や、事務所の垣根も飛び越えて、たくさんのアーティストと時代が求める
音楽作りに情熱を燃やすことが出来ました。
クリエイティブな仕事は多くのサポートが無ければ才能を発揮できないのです。
プロデューサーは他人と違うことを発想して良質な音楽を作るから認められるのであって、
CMやタイアップが付いたから売れたとは言われたくはないのです。
プロデューサーはリスクの多い仕事です。時間もお金も家族との交流も失い続けるのです。
これからプロデューサーを目指す人はけっして楽な仕事と思わないでほしい、
本気で人生をかけてほしい。そして最高にゴキゲンな音楽を作ってほしいのです。
今回のブログがプロデューサーを目指す人たちにとって、少しでも参考になれば
嬉しいのです。リスクをゲームのように楽しんでください。
12月 9th,2023
恩学 |
音楽の制作 はコメントを受け付けていません
親切な言葉や優しい言葉を使う時には注意が必要です。
悪戯に使いすぎると価値のない口先だけの言葉に聞こえてしまいます。
そして使う相手にも気をつけなければなりません。
親切な言葉も愛の言葉も曲解して捉える人もいるからです。
私の何かを奪われるのかと恐怖を抱き逃げ出す人もいます。
言葉を話す側が自分勝手な解釈で親切な言葉は誰もが喜ぶと思わないことです。
社交辞令の言葉も行きすぎると嫌味に聞こえてしまいます。
美辞麗句は巧みに美しく飾った言葉です。真実味のない言葉です。
私達は謙虚に自重する精神を学ばなければなりません。
人の運命は決められているものですから自分勝手に行動しても得られるものはありません。
① 私も成功して勢いがあった時期にはキャパシティーを超える仕事の量でした。
その為に30代後半に突然身体を壊してしまいました。
あの時にもっとセーブして仕事をこなせば人生が変わっていたのかもしれません。
➁そして期待される分だけのお返しをしていたのです。
折角頂いた数々の報酬も全部周りのスタッフに労働対価として払い続け、
気付いた時には一文無しになりました。
自分の分を超えた見栄を張りすぎたのです。
③ 先輩から後輩に対して制作の指導をしても厳しいことばかり言い続けていました。
その為に委縮した後輩は使い物にならず、結局自分で作業を行うことになったのです。
自分の能力を過信しすぎた為に後輩の育成に失敗したのです。
④ プロデューサーという仕事柄「美辞麗句」の言葉を多用してしまいました。
綺麗ですね、声も絶好調ですね、この曲最高ですね、この歌詞は泣けますね、
あなたのお陰でヒットになりましたなど、毎日言い続けていました。
最近知った「禅語」にこのような記述があります。
中国・宋の時代の禅匠、五祖法演禅師がわが弟子の晋山(一寺の住職として
入寺する)に当たっての心得として説いた4つの戒めの一つの語である。
第一に「勢い使い尽くすべからず」
第二に「福、受け尽くすべからず」
第三に「規矩(きく)行じ尽くすべからず」
第四に「好語(こうご)説き尽くすべからず」
「何が故ぞ、好語説き尽くせば人必ずこれを易しとする。
規矩(きく)行じ尽くせば、人必ず繁とす。福もし受け尽くせば、
縁必ず孤なり。勢いもし使い尽くせば、禍い必ず至る。」
一禅僧が承福寺に晋山するにあたっては先輩和尚たちから「新到3年生味噌を食わず」
ということを言われたものだった。禅門の新参者の3年間は一人前とは見なされず
何事においても自重し、古いしきたりや決まりごとに対してもまずはよくこれに従い、
よく観察し、いたずらに新たな改革を試みずによく学びなさいという教訓である。
一番目の「勢い使い尽くすべからず」。若い時というのはついつい、勢いにまかせて
調子に乗り、周囲の助言も聞かずに突っ走ることもある。若さの勢いでの未熟な者が
立場を得、権力を得たりすること危険なことも多い。調子の良い時、順調な時こそ自制し
慎重でありたいものである。「栄枯盛衰試練と思え」
言葉がある通り、調子の良い時こそ試練と受け止め自戒しなければならない。
第二番目の「福、受けつくすべからず」。福というものはその人物に応じた
生涯の福分があるともいう。福は陰徳、隠れた善行を多くおこなう人のところに
集まってくるらしい。だが、いくらその福分がたくさんあるからといって、
湯水のように無制限に使い過ぎればその徳分は失われ、金の切れ目は縁の切れ目
で人も寄り付かなくなり淋しい人生になりかねないだろう。
第三番目には、「規矩(きく)、行いつくすべからず」。規矩というのは戒律などの
決まり事である。戒律はこうだ、規則はこうだと大衆に無理やりにおしつけては、
人に嫌がられ人は逃げ出して行くことだろう。
第四番が、「好語(こうご)、説きつくすべからず」
いくら立派な教えや教義であっても微に入り細にわたって説くのは親切かも知れないが
あまり説き過ぎ、美辞麗句を使いすぎるのも、その言葉の価値が薄く、深みがなく
軽いものになって心に響かない。浅い川は音を立てるが、深い流れは音もなく悠然とし
て流れるようなものである。心貧しい人は語り過ぎ、豊かな人は言葉少なく
ピリッとした一言に重みがある。
人生の生き方として何事においても余白、余裕を大事にしたいものである。
驚きました。
これを若い時に学んでいれば失敗も少なくなっていたと思いました。残念です。
しかし不思議なことに若い経営者の集まりで講演を依頼されたときに、
自分の反省からここに書いている四つの戒めと同じことを言っていたのです。
人間の過ちは古今東西変わらないものだとつくづく思う次第です。
ビジネスセミナーの講師の時にも参考資料は紹介するのですが、先ずはどのように
理解したかを発表してもらいます。大切なことは「教えない・仕切らない・纏めない」
講師が答えを先に言えば生徒の学びの醍醐味を奪ってしまうことになるからです。
過去に講座を担当した時の参考例として、
エリックリースの「リーンスタートアップ」を教材にして失敗を恐れることなく
完成前に市場に出して顧客の意見を取り入れながら成長してください。
また、顧客サービスに関してはトニーシェイの「ザッポス伝説」で痒い所に手が届く
サービスを参考にして考えてください。
ナポレオンヒルズの「思考は現実化する」をバイブルとしていた時期もありました。
また、サティ・アナデラ「Hit Refresh」やW・チャンの「ブルーオーシャン」も参考資料として提案していました。
そして必ずビジネスの話をした後に言う言葉がありました。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
たっぷりと稲の実をつけた稲穂は実るほどに頭を下げていきます。
多くの成功者は成功すると「私が・俺が・僕が」を連呼し背中をそり返します。
そしてここで謙虚になることが人から尊敬を受けることになります。
身近なスタッフや家族への感謝を忘れずに事業を展開してくださいと締めくくるのです。
私は自分の経験したことを嘘・偽りなく発表しています。
そしてブログ「恩学」を通じて多くの方にお知らせしています。
本日のタイトル「美辞麗句」は自戒の念も込めて書くことにしました。
座右の銘「愛語よく回天の力あり」も使い方を間違うと誤解を与えてしまいます。
助言する言葉には気を付けたいものです。
12月 9th,2023
恩学 |
美辞麗句 はコメントを受け付けていません
私は若い頃に日本のプロ・サーファーから手解きを受けてサーフィンを始めました。
その時に頂いたボードも使いこなすには難易度の高い、
ボルト社(稲妻マークで有名)のプロ仕様のショートボードでした。
しかしそのボードを抱えて砂浜を歩くとプロになったような気分になりました。
砂浜にいるサーファーたちから羨望のまなざしを受けたのは確かです。
そして同時に良い波に乗るための波の見極め方も教えていただきました。
オフシュア(陸から海に吹く風)の風は波が立つのでライディングするには最適です。
オンシュアー(海から陸に吹く風)の風はソープ(泡立って白い波)になるので
乗るには不向きであること、しかしオンシュアーが好きなサーファーもいると
いうことでした。
一番苦労したのはボードに立つことよりもパドリングでした。
上半身を鍛えなければならないので苦労しました。パドリングとは両手で
波を漕ぎながらポイントまで進むことです。
何度もボードの上で胸をそらしてパドリングをしながら沖に出ていくのです。
毎日、腕立て伏せとスクワットと走り込みでへとへとになりました。
その結果、見事に上半身の身体が鍛えられて黒マッチョになってしまいました。
一般のサラリーマンが真っ黒に日焼けした顔でサーファールックのままで
出勤していました。流石に朝波乗りをして出社した時には総務から呼び出されて
怒られてしまいました。
そして病が高じてハワイのノースシュアーまで波のレコードを作りに出かけたのです。
私の師匠のプロの背中にテープレコーダーをつけて(本格的なプロ仕様の録音機材で
あったために5kg~6kgの重量はあったかと思います)
ひたすら波の音だけを録音したのです。
また、同時期に写真家浅井新平氏の監修でウクレレを加えた「サーフ・ブレーク・
フロム・ジャマイカ」もファッション誌に取りあげられてそれなりに売れていたのです。
波のレコードは仕事場で聞く環境音楽の走りでした。
しかし当時はレコード盤しかなかった時代です。必ず途中でレコード盤を
A面サイドからB面サイドに変えなければならなかったのです。
私は、音質は悪くなるのですがカセットテープに取り込み聞いていました。
そうすれば自動再生で延々と聞くことが出来るからです。
しかし当時SONYの社長大賀典夫さんが大好きなクラッシックの音楽を
聴くときに演奏の盛り上がりのところで盤面を返すと音が止まるので、
技術者に指示をしてCDの開発を着手させたのです。
そうすることで盤面を変えずに75分間は聞き続けられるからです。
大賀会長は日本でも有名なオペラ歌手でした。学生時代にSONYのオーディオの
評価を求められたときに「こんな音では駄目です」と意見を言ったところ、
当時の社長であった盛田昭雄氏から卒業したらSONYに来いと要請されたのです。
大賀さんのお陰でCDが商品化されてクラッシックファンだけではなく、
多くの音楽ファンも歓喜の涙を流しました。
その数年前にSONYは歩きながらステレオを聞く「Walk Man」を発表していました。
世界的大ヒットになった商品です。
毎年1月に開催されるCBSSONY経営方針説明会で、その年に販売される新商品の
説明が大賀社長よりありました。オーディオ機器メーカー世界一のSONYに
入社できたことを誇りに思った次第です。
話を元に戻して波の種類を簡単に解説するとこのようになります。
オンショアは海から岸、陸に向かって吹く風のことを指します。オンショアの特徴は
海面が乱れやすくなることです。海に行ったことがある方は、海面が乱れて色んな
場所で白波が立っているのをみたことはありませんか?
このように白波が色んな場所で立っている場合は、オンショアが吹いている影響の
ことが多いです。オンショアの波は高くになりません。
オフショアはオンショアの反対、陸から海に向かって吹く風のことを指します。
同じ風でもオフショアは海面が綺麗になり、波に乗りやすい最適な
コンディションの条件の一つにもなります。オフショアの波は高くなります。
サーファーの中では面ツル(海面がツルツル)やグラッシーと言う方もいます。
ただこのオフショアも風が強くなると注意する事があります。風が強く吹きすぎると
波に乗る時に波の水しぶきが自分の方に向かってくるので、テイクオフ時に前が
見えづらくなります。波が大きくなればその水しぶきの量は多くなりほとんど
見えない状況になってしまいます。良い波を乗るためにも、是非風も意識して
みてください♪
今回何故「波乗り」の話になったかというと人生の比喩で取り上げました。
波に乗るまでの準備にかかる時間と体力作りと資金の確保です。
海のそばに住んでいるのならまだしも都会の真ん中から海まで移動する為には
車が必要になります。ボードを積みやすいワゴンかバンが必要になります。
素人が見た目だけで始めるにはハードルの高いスポーツです。
そして体力とテクニックが身についてもその日の風次第というのも面白いスポーツです。
朝、茅ケ崎で波が立たなければ伊豆か千葉の勝浦の波情報を聞いて場所を移動します。
ここで心配なのは地元のサーファーとのトラブルです。よそ者には自分たちの波に
乗ってほしくなくていろいろと難癖をつけてきます。
私の場合はプロ・サーファーか学生チャンピオンがいつも同行してくれていたので
トラブルに巻き込まれたことはありませんでした。
学校で教育を受けて社会に出る。一般常識程度は理解できてもまだまだ戦力にはならない。
個人的にビジネススクールへ通い専門知識を学んでもまだまだ使えるには時間がかかる。
早く戦力になろうと焦るのだが経験を積まなければ分からないことだらけである。
その上に上司から理不尽な言葉を投げかけられるとパニックにもなってしまう。
早く社会という海に出てうまく波に乗りたいのだがいつになるのか分からない。
社会の波に乗ると言う事は準備期間に時間を割き、知力・体力・気力を養うことです。
そしてパドリングをして小さな波から大きな波に乗るために失敗を繰り返すのです。
自分の目の前の波は自分だけの波なのです。先に波のポイントに着いたら、周りの
サーファーは場所を譲り邪魔をしないようにするのもサーフィンのルールです。
年に1回~2回のビッグウェーブに奇跡的に乗れれば伝説にもなるのです。
仕事でも前に立ちはだかっていた仲間や上司も伝説になれば邪魔をしなくなるのです。
数年が経ち部下が増えると仕事はできるようになったのだが、自分の望む方向とは
違うと思い始める。危険を伴う波乗りに明け暮れたあの頃を思い浮かべます。
全身を使い体力の限界まで追い込み波に溶けていく感触は忘れられないのです。
家族や会社のことを考えると自分勝手な夢に執着するわけにはいかないのだが、
しかしこのまま毎日満員電車に乗って人生を終わらせることは出来ないと
思うと、いてもたってもいられなくなるのです。
もう一度ギラギラした太陽の日差しの中で伝説の波をめがけて飛び込みたいのです。
近年では「男のロマン」という言葉が死語になって男たちが冒険をしなくなりました。
やはり強い男性がいて優しい女性がそばにいる方が男女の仲は上手くいきます。
現代のように細身で化粧をしてホストのような男が増えたことは嘆かわしいことです。
真っ黒に日焼けをして胸板の厚い海の男は時代遅れなのでしょうか?
男は一生のうちに一度あるか分からない波を待つのです。
それまでは鍛えながらも準備して生きるしかないのです。
伝説のビッグウェーブに乗るまでは我慢をするのです。
12月 9th,2023
恩学 |
波に乗るまで はコメントを受け付けていません
今日、我々現代人が説経を聞く機会は、全くといっていいほどなくなってしまった。
徳川時代の前半に刊行された「説教」の版本が数点残っており、それが書物として
流通しているので、わずかにそれを頼りに雰囲気の一端に触れることができるのである。
それでも、説経というものが持っていた、怪しい情念の世界が、現代人にも激しい
感動を呼び起こす。日本人の意識の底に、澱のようにたまっている情動のかたまりが、
時代を超えて反響しあうからであろう。
中世の民は、戦乱の中で抑圧され、この世に希望をもてないものが多かったに
違いない。そんな彼らに向かって、説経者たちは、抑圧と開放、死と再生、憎しみと
愛を語った。語りのひとつひとつは、時にはおだやかに、時には荒々しく、
人間の情念を飾りなく表現したものであり、当時の民衆の心に直接訴えかける
言葉からなっていた。
説経の主人公は、抑圧されたものであり、乞食同然の下層民として描かれている。
かれらは、重なる迫害に耐えながらも、自分の強い意志によって行動し、最後には
抑圧者に残酷な復讐を成し遂げる。聴衆は、説教のこんなところに、
自分の魂の開放を感じ取ったに違いない。
このように、説教というものは、演者と民衆との間の濃密な空間の中で語られる
ことにより、民衆のエネルギー、つまり愛や情念といったものを蓄積していったので
あろう。
その愛や情念が人間の本源を照らし出す限りにおいて、時代を超えた普遍性へと
つながっていったのである
国とは民の物であり、国家元首の物ではないことを説教者たちは訴え続けるのである。
国の有り様、武士の有り様が変化するとともに国学と言われる学問も変化しなければ
ならなったのである。
下河辺長流や釈契沖が武士の出身であったことが(契沖の家は加藤清正の遺臣だった)、
「国学ムーブメント」の大きな背景になっているということだ。
この時期の武士は宮本武蔵や由井正雪や丸橋忠弥がそうであったように、
たとえ「武の魂」を求めても、それをもはや戦場に生かすことができなくなっていた。
そこで、それを内乱か、それとも内面かに求めるようになる。
この「武の魂」が一途に「歌」や「文」に向かって昇華していったのが、
歌学の長流や契沖の国学化だったのである。ついでにいえば、談林をおこして
芭蕉に影響をもたらした大坂の西山宗因も、やはり武家出身だった。
いうまでもなく芭蕉も武家の出身である。 江戸初期、これらの魂の発揮は、
封じられ、転じて、磨かれて、江戸の歌学や俳文の骨髄となったのだ。
本居宣長は驚いた。空想の王国をつくらずとも、ありのまま、そのままの社会が
そこに歌われていけば、それが王国なのだと知ったのである。
そこで宣長が京都遊学中に書いたのが『排蘆小船』(あしわけおぶね)である。
「歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、
ただ心に思ふことをいふより外なし」と書いている。
では、その「心に思ふこと」はどこから生まれてきたのだろうか。
その「心に思ふこと」の本体をどう評価すればいいのだろうか。
ここから「もののあはれ」を論ずるには、宣長はたいして苦労をしていない。
賀茂真淵のものを読んでいたせいもあるが、ともかくもこのことだけは見極めたいと
いう思いで、記述しているからだ。それが『石上私淑言』(いそのかみのささめごと)
だった。
「すべて何事にても、殊にふれて心のうごく事也」「阿波礼といふは、深く心に
感ずる事也」が、宣長の「もののあはれ」のとりあえずの橋頭堡なのである。
ただし、このとき宣長は「わきまへしる」ということをメモしている。
この「わきまへしる」が「もののあはれ」と決して分断されないで、
一緒に動きまわってくれるかどうかということが、
このあとの宣長の命懸けになっていく。
現在「黄檗売茶流」先代家元の中澤弘幸氏と「老人と孫」なる討論会を展開しています。
元々は中澤氏がインタビューワーと二人で始めた企画ですが、
私の「恩学」のテーマである次の世代に残したい「歴史と文化と誇り」に通じるものが
あり、ゲストコメンテーターとして参加したところ出席者より大きな反響があり、
今後はレギュラーとして企画が進められることになりました。
他にグラフィックデザイナーの今野絢さんとスーパーサラリーマンの田畑瑞穂氏が
参加されて70歳以上の老人が孫世代の質問に答えていくという形式で
月一回の開催となっています。
時には老人からの捨て台詞として最後に「説教」をします。
孫たちに説教を聞く機会を与えています。
時代はデジタル社会になり質問は全てモバイルで検索すれば回答が出てきます。
しかしそこには個人の経験から積まれた知識が含まれていません。
AIが作る集積したデーターで回答が得られたとしても理解と納得は得られません。
正しい答えには過去と未来が描かれていなければならないからです。
例えば私が最初に受けた質問は「死ぬのは怖くないですか?」でした。
過去を紐解き仏教の世界の「生老病死」の話をして、
その後に私が経験したことを加えて自分自身が満足いく人生を過ごしたと思えば
「死ぬのは怖くありません」と回答しました。
「老人と孫」の良いところは1人の老人だけが回答するのではなく、
同時にその他の老人も回答に加わっていくので孫たちは様々な「死生観」を
聞くことが出来ることです。
お茶の世界で生きてきた中澤先代の話、音楽の世界で生きてきた稲葉の話、
世界の有名なアーティストのジャケットデザインをしてきた今野さんの話、
長年証券会社で勤めてきた田畑さんの話、それぞれが違う視点で説明をするので
孫たちは喜んで聞いてくれます。
その上で質問を投げ返して「君たち死は怖いのですか」と聞きます。
そこからまた新しい話が展開されるので我々も大変勉強になります。
そこには孫たちの未来の死生観が生まれて来るのです。
吉田松陰や松下幸之助を持ち出すまでも無く、昔は一家の大黒柱のおじいちゃんが
「生き方」を色々と教えてくれたものです。
時には近所のおじさんも質問すれば答えてくれたのです。
それのサポートとして私塾が盛んになりました。「老人と孫」もいわば私塾です。
文字を目で追うデジタルの回答よりも、言葉で話すアナログの回答の方が納得するのです。
男性老人中心の「老人と孫」の続編は、女性中心の「老人と孫」も企画中です。
私は以前、男性経営者中心の「男塾」を主宰していました。
しかしコロナの影響でやむなく閉塾してしまったのです。
今度は内容を改めて「説教塾」を開催したいと思います。
興味のある方はぜひ参加してください。
「孫を叱るな来た道だから、老人叱るな行く道だから」
12月 9th,2023
恩学 |
説教を聞く はコメントを受け付けていません
神田の古本屋で見つけた「日本事物誌」バジル・ホール・チエンバレン(英国人)
東京帝国大学日本語学教授・言語学者1873年~1905年滞在
海外の人から日本のことを質問されたことを辞書形式で書き記したのがこの本である。
私がチェンバレンを知ったのはこの言葉からである
「この国は貧乏があるが貧困は無い、金持ちはえばらず、貧乏人は卑下しない。
社会の隅々まで自由平等の精神がいきわたっている」
そこから明治時代に日本を訪れた外国人の書物を読み漁った。
イザベラ・バード「日本紀行」、ヒュースケン「日本日記」、シュリーマン「旅行記」、
ドナルドキーン「果てしなく美しい日本」、ハーバートポンティング「英国人写真家の
見た明治日本」、イワンゴンチャローフ「日本渡航記」、ジョルジュビーゴ「ビードが見た
明治ニッポン」、エメェアンベール「絵で見る幕末日本」など多数。
面白いのはビーゴもアンベールも後に紹介するモースもスケッチ形式で
当時の日本を紹介していることである。当時は未だ写真を撮るのは専門技術がなければ
写せない時代であったからだと思う
私の書棚にはモースの「日本の住まいと暮らし」スケッチブックもあります。
多くの外国人が日本を褒めたたえる記述を読んで誇らしい気分になったことは
確かである。多くの外国の方々が日本へ来る前は、日本は清の属国である、
キリスト教は禁じられている、ましてや腹切りをするような野蛮な国である、
気候は熱帯性の湿気の多い国であるとか、間違った情報に日本を訪れる外国人は
こわごわだった思うのです。
それが美しい景色と優しい日本人の姿を見て驚くのです。街はきれいに整備されて
ゴミのない清潔な道を歩くと人々のモラルと教養が備わっていることに驚くのである。
老人たちの優し顔とその傍で遊ぶ子供たちの笑顔を見るとここは天国ではないかと
褒めたたえたのです。もちろんすべてが高い評価を得ていたわけでは無いが概ね
そのように書かれている。
そしてエドワード・S・モース(米国人)について書かれたこの文章を読んで、
縄文時代に興味を持ったのも確かです。
約1万6000年もの間、環境を破壊せず戦争をしなかった縄文時代は、
世界でも類のない平和な時代でした。
争いを好まず和を尊ぶ心、人を同じ仲間としてやさしく迎え入れる心、
富を独り占めにせず誰にでも平等に分け与える心、
個性や能力の差を認めながら調和できる心、
自然に対する感謝と畏怖の心、
日本に住む人の心には縄文の心が脈々と引き継がれてきました。
今から140年前の1877(明治10年)に東京大学の教授としてエドワード・S・モース
(Edward S Morse 1838-1925)がアメリカから来日しました。
モースは東京都大森貝塚を発掘調査した縄文(cord marked pottery)の名付け親です。
彼は持ち前の好奇心で庶民の生活用品のコレクションを集め、
膨大なスケッチと日記をのこしていました。
「明治・日本人の住まいと暮らし」紫紅社
モースは「日本その日その日」 (講談社学術文庫)で、次のように述べています。
『日本人は行儀がよく働き者で正直で、親切で微笑みを絶やさない。
日本人は生れながらに善徳や品性を持っている。』
『日本人の家は開放的で鍵をかけない、日本人の子供や召使(使用人)いは、
触ってならぬ物には決して手を触れぬ。
部屋に子供や召使いが何度出入りしても物がなくならない。泥棒や乞食が少ない。』
『貧しい家も清潔で品があるし、下流に属する労働者も正直、節倹、清潔だ。
最も貧しい寒村の子供は不潔だったが、野獣性も悪性も、また憔悴した絶望の表情も
なかった。子供たちは大事にされ物優しく育てられている。』
日本は子供達の天国でした。
『子供はうるさく叱られることもなく大切に育てられた。
日本の子供ほど、行儀がよくて親切な子供はいない。
また、日本人の母親ほど、辛抱強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。
他のどこの国の子供達よりも多くの自由を持っていた。
世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如くものはない。』
『日本人の暮らしぶりは見栄を張ることが全くない。
生活道具は少なく簡素だが洗練されている。』
『火事の災難にあっても涙を流す人も、いらだった様子の人も見ることはなく、
意地の悪い言葉も一切聞かなかった。そして持ち出した畳や襖をたて、
その中で小さな火で魚を焼いたり汁を作ったりして彼らは普段通り幸福そうに見えた。』
そしてゴミを出さないエコロジカルな都市だった江戸についてモースはこう述べています。
『日本人はある神秘的な方法で、彼等の廃棄物や屑物を、目につかぬように埋めたり
焼いたり利用したりする。
いずれにしても卵の殻、お茶のカス、その他すべての家の屑は、
綺麗にどこかへ持って行ってしまうので、どこにも見えぬ。』
『この地球の表面に棲息する文明人で、日本人ほど自然のあらゆる形況を
愛する国民はいない。嵐、凪、霧、雨、雪、花、季節による色彩の移り変わり、
穏やかな河、とどろく滝、飛ぶ鳥、跳ねる魚、そそり立つ峰、深い渓谷。
自然のすべての形相は、単に嘆美されるのみでなく、
数知れぬ写生図や掛け物に描かれるのである。』
『日本人の繊美な装飾芸術を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、
そして最大な芸術家であるかのように思われる。』
『衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、簡素で魅力に富む芸術、礼儀正しさ、
他人に対する思いやり、自然に対する愛これ等は恵まれた富裕な階級の人々ばかりでなく、
最も貧しい人々も持っている特質である。』
このように日本人の礼儀正しさや正直さを大いに賞賛したE・S・モースでしたが
日本の未来をこのように予言していました。
『この国のあらゆるものは、日ならずして消え失せてしまうだろう』
モースは西洋の近代化がもたらす弊害を見抜いていたのです。
1890(明治23年)に来日したハーン(小泉八雲)も近代化に邁進して、
しだいに近代合理主義に変わりつつある日本の姿に顔を曇らせていました。
霊も天使も悪魔も神々も今はいません。みな死に絶えました。
電気と蒸気と数学でできた世界は、がらんとして冷たく、虚ろです。
「金儲けがなされ、収入が高く、生活水準が絶えず上昇し、
必然的に無慈悲な競争が行われている所では、精神的・道徳的な弱者は、
他の地域におけるよりもっと恐ろしい極端な行動に駆りたてられる。
将来、日本の産業が発展すると共に、必然的に弱者の不幸の増加と、
その結果として起こる悪徳と犯罪の増加が危ぶまれている。」
明治に来日したハーンも今の日本の姿を予見していました。
ハーンの親しい英国人チェンバレン(東京大学教授)も、古き良き日本を慈しみモースと
同じように、日本の急激に西洋化される姿に危機感を抱いたのである。
近年、来日したウルグアイのムヒカ元大統領は「日本人は本当に幸せか」と問いかけました。
「今の日本はあまりにも西洋化してしまい。本来の歴史やルーツはどこにいってしまったのか」「西洋にある進んだ技術に対抗できないことを認め、彼らに勝る技術をつくろうと
頑張ってきたのだ。そしてそれを成し遂げてしまった。でも、そのとき日本人は魂を失ってしまったのだ」
「すごい進歩を遂げた国だとは思うけど、産業社会に振り回されていると思うよ。
本当に日本人が幸せなのかは疑問なのだ。西洋の悪いところをマネして、
日本の性質を忘れてしまったのだと思う。日本文化の根源をね」
「過去の歴史に自分のルーツを見つけ出す必要がある。
多くの障害を乗り越える強さを持っていた。それがあなたたち日本人なのです。」
縄文時代にまで過去を遡れば近代化のもとに西洋に追いつこうと物質的な豊かさを追い
求めて、お金の価値がなによりも優先されるようになって本来の自分を忘れてしまった
日本を取り戻すのです。
大きな時代のターニングポイントが訪れている、今こそ本当の自分を取り戻す
チャンスなのです。引用「よみがえる女神」ナチュラルスピリット
如何だったでしょうか?
皆様も時間のある時に「古き良き日本」を学んでみるのも良いかと思います。
歴史を学ぶことはその国の実態を知ることになります。
そしてこの恵まれた国に生まれたことに感謝の気持ちもおこります。
12月 8th,2023
恩学 |
古き良き日本(縄文時代) はコメントを受け付けていません
プロデューサーは誰よりも早く「新鮮な歌」を聴くことが出来る。
アーティストが新曲を作った時に一番早くその歌に触れることが出来るからです。
その曲はピアノだけであったりギターだけであったりした作られたものが多い。
(しかし今は時代が変わり完成形に近い状態でデモテープを持ってくる)
まだこの状態では完成形ではないので新鮮な歌ではありません。
デモ曲を聴きイメージが膨らんだ時にOKを出す。
そしてレコード会社の会議にかけて反応を見る。その結果で制作費を捻出する。
基本的には事務所に関係する音楽出版社と合意の上で原盤費を出すことが多い。
新人の場合はプロデューサーが資金集めをする。
レコード会社系列会社の事務所にも声をかける。
全てプロデューサーの「売れる」というひと声で作業が始まります。
アレンジャーは誰にするか?サポートメンバーは誰に頼むか?
どこのスタジオをブッキングするかなどの手配をする。
そしてスタジオ入りして本格的なレコーディングに入る。
先ずはリズムセッション(ドラム・ギター・ベース・キーボード・パーカッションなど)
から録音してテンポの確認とリズムのノリを確かめる。
ここで簡単に仮歌を入れてみる。
その間アレンジャーと曲の構成をどうするか、全体のイメージはどうするか、
歌詞などの確認をして追加楽器の話し合いもする。
ストリングスを加えるかホーンセクションを加えるか、バンドと歌のイメージに
合わせて民族楽器なども取り入れるかです。
最初の日の作業としてはだいたいここまでです。
最後に確認のためコントロールルームでボーカル、メンバー全員で録り終えた
音源を聞き直す。私のいう「新鮮な歌」とはこの状況の中で聞く最初のテイクです。
お茶やコーヒーを飲みながら少し耳を休めて気合を入れて聞くのです。
ここでは音の手直しはしません。あくまでもボーカルの乗っかり方を聴きます。
カラオケにボーカルが心地よくおさまっているかです。
現役、最後の頃(80年代後半)はこれらの作業の半分はコンピューターを使用して
作り始めたのです。いわゆる打ち込みの作業(Mide)シーケンサーを使い、
基本音源を作っていたのです。
音楽はすでに情熱や緊張感から生まれるものではなく作られたリズムに音を重ねる
作業へと移行し始めました。
私のような音の職人には耐えられない作業である。
音のピッチを聞き分けて微妙な部分直しをしたことは過去の話である。
音色にこだわりギターだけLAで録音したこともあります。
しかし今は全てコンピューターが自動的に行うのです。
私の担当ではないのですがSuper Flyの「愛を込めて花束」(2008年)は、
そのようなアナログ的な録音方法で作られた作品だと思います。
私が一番得意とした楽曲作りを感じます。大好きな曲です。
「Super Fly」
愛をこめて花束を
二人で写真を撮ろう懐かしいこの景色と
あの日と同じポ-ズでおどけてみせて欲しい
見上げる空の青さを気まぐれに雲は流れ
キレイなものは遠くにあるからキレイなの
約束したとおりあなたと
ここに来られて本当に良かったわ
この込み上がる気持ちが愛じゃないなら
何が愛か分からないほど
愛をこめて花束を 大袈裟だけど受け取って
理由なんて訊かないでよね
今だけすべて忘れて 笑わないで受けとめて
照れていないで
昨日とよく似た今日は何気ない分かれ道を
分かって選びそびれた臆病のせいでしょう
私は泣くのが得意で
最初から慰めを当てにしてたわ
何度も間違った道 選び続けて
正しくここに戻って来たの
巡り巡る時を超え いつもあなたの所へと
この心 舞い戻ってゆく
無理に描く理想より笑い合える今日の方が
ずっと幸せね
violet, indigo, black nad blue
flame, yellow, purple, sky blue,
pink, yellow green, ash, brown…..
あなたに贈る色は……?
巡り巡る時を超え いつもあなたの所へと
この心 舞い戻ってゆく
ありがとうも言い出せずに甘えていた
今日ここへ来るまでは
愛をこめて花束を大袈裟だけど受け取って
理由なんて訊かないでよね
今だけすべて忘れて笑わないで受けとめて
本当の私を
いつまでもそばにいて
余談ですがMVも良くできています。
60年代のFlower Generationのサイケデリックのテイストが、
ふんだんにちりばめられています。
バンドメンバーもアーミッシュ・ファッションで独特の雰囲気です。
エンディングのサーカステント風の周りのジプシー風親子がいいね。
ノスタルジック大好き生音演奏家大集合です。
中国の安いスタジオを借り切って2~3か月かけて制作をしたいものです。
12月 8th,2023
恩学 |
歌の世界 はコメントを受け付けていません
心の痛みなら良き音楽を聴いてください。
体の痛みなら良き医者に聞いてみてください。
悩みの痛みなら良き哲学者の本を読んでください。
間違っていけないのは占い師や町医者に頼っていい加減な診断を受けないことです。
良き解答とは信頼できる専門家の意見です。
安易に痛みから逃れたいためにお酒やドラッグにも溺れないことです。
痛みは身体からの叫びです。例えば頭が痛ければ内臓や足からシグナルが発信されて
痛くなることもあるのです。頭痛薬を飲んでいっときの痛みから逃れても
何も解決はしません。薬はその部位の機能を鈍らせるだけで本来の解決には
ならないのですから。
いちばん危険なのはその痛みから逃れるために大量に薬を飲むことです。
最近10代から20代の若い世代を中心にオーバードーズが増加しています。
悩みを一人で抱えて自死を選んでも何も解決しません。止めてください。
漢方薬は効かないと言われる方がいます。
漢方薬はその人にとって弱まっている部位を復活させるために処方されるもので
あって、西洋薬のように痛みを誤魔化すために効果が出るものではないのです。
漢方薬は人間本来の持つ治癒力を刺激して長期にわたって改善するために、
先人達が自然の草や木や石から見つけたものです。その為に漢方薬治療には必ず
触診と言われる診断が行われます。触診とは身体をほぐしながら悪い部位を見つけて
行く方法です。リンパやホルモンの流れが滞っていたり、逆流していることもあります。
ハリ治療の鍼灸も取り入れて汚血(おけつ)を取り除くのです。
心の痛みの主な原因は、
愛する人と別れなければならない苦しみ。「愛別離苦」
嫌いな人と仕事などで一緒に働かなければならない苦しみ。「怨憎会苦」
目の前にある欲しいものが手に入らない苦しみ。「求不得苦」
健康で元気なのに思うように行動が出来ないない苦しみ。「五蘊盛苦」
この四つがストレスを与えて心に痛みを与えるのです。
私自身解決のための処方箋は「音楽」と「禅語」と「旅」です。
音楽は特にモーツァルトです。彼自身が癲癇持ちで長年苦しんできました。
その為にピアノの高音部分の連打で癒されたと言います。
ご存じでしょうか音楽療法で一番取り入れられるのがモーツァルトの曲です。
モーツァルトの音楽には3,500~4,500ヘルツという高周波音と、実に透明感にあふれる
純粋なゆらぎがバランスよく豊富に含まれています。この2つの特性に加え、倍音も豊富なため、
曲によっては15,000ヘルツ以上の高周波音も豊富に見られます。
これらの音楽特性は、バッハやヘンデル、ハイドンあるいはベートーベンなど、
他の古典派の作曲家が作った音楽と比較しても、非常に優れているのです。
モーツァルトの名曲の中で、特にバイオリン曲やオーボエ曲、
あるいはピアノ曲などは、およそ3,500ヘルツ以上の高周波音を豊富に含んでいるので、
延髄から大脳にかけての高次の脳神経系が刺激されます。
この結果、モーツァルトの音楽は健康を支えている脳神経系、ホルモン系、血液循環系
そして免疫系へとプラスの影響を及ぼしていくのです。
朝から聞くととてもリラックスした状態が得られます。
「禅」の考えがもっとも大事にするところは、まず「自分」ということになります。
言い換えれば「自分とは何か?」を明らかにすることが禅ということが出来ます。
その自分を見るという困難事を、少しだけ簡単にして、手助けしてくれるのが「禅語」
になります。「禅語」には、必ず表面の意味と、込められた意味がそれぞれあります。
一見すると「~な自分」と全く関係のない短い言葉ですが、その中に「~な自分」を
どうすればいいかが込められているのです。皆さんでも、どこが「~な自分」を
解決するキーワードなのかを考えてみてもいいでしょう。
禅語の解釈は一つではありません。そうすることで、「~な自分」がすべて本当の
自分ではないことに気付くと思います。本当の自分は「~な自分」に、すべて向き
合った後に自然に現れます。そしてそれは何か特別な力が具わった超人ではなく、
「~な自分」と向き合う前の自分と何も変わりません。ただあらゆる人や物が違って
見える、あれほど自分を悩ませていた人や物でさえも、という心境になるはずです。
そんな風に、皆さんの心の救いに、禅が役立つことを切に願います。
私は今までに世界各国へ「旅」をしました。勿論、観光ではなく仕事も兼ねた旅が大半でした。
その中でも特に印象に残っているのは初めて個人旅行で行った英国ロンドンです。
20代前半、片道切符しか持たずに、アルバイトの当てもなく、予備知識も少ない中で
一年半の滞在でした。
毎日の出来事も、毎日見る景色も、毎日出会う人にもドキドキハラハラの感動的な
体験をしました。
古い伝統と文化を守る気質と新しい音楽が生まれる土壌に日本では体験したことが
ないものばかりでした。ロンドンパブも、山高帽の紳士も、地下鉄も、
パンクファッションのお兄さんも大好きでした。
それ以外にはハワイが一番リラックス出来る場所でした。家族旅行と仕事で10数回は
訪れました。オープンカーにボードを積んでハンバーグを口に加えて、
ウルフマンジャックのFMを聞きながらノースシュアーまでドライブするのが
大好きでした。
(ちなみに私は無免許なのでいつも友人かカミさんが運転してくれていました)大笑い
毎回ハワイの人たちの笑顔と親切な行為に楽園の王様になった気分になります。
仕事を忘れられる唯一の天国のような場所でした。
今でも成田や羽田で出国の手続きをするといきなりハイテンションになります。
私はイミグレーションジャンキーです。感情が狂ってしまうのです。笑い
心のスイッチを切り替えるには「旅」が最高です。
痛みの根本を取り除く為にそれぞれの対処法を持つことをお勧めします。
AIには解決できない自分だけの隠れた解決方法です。
痛みを理屈で考えないようにしてください身体からの情報を信じてください。
これからも元気な身体と心を維持していきましょう。
12月 8th,2023
恩学 |
痛みの根本 はコメントを受け付けていません
日本人は世界から見ると清潔で勤勉で働き者と映ります。
しかし多くの外国人は日本人と友達になりにくいと言います。
それは、日本人は形通りの生活を繰り返すだけで本音の自分を出さないからです。
何がやりたいのか、何を仕事としたいのか、何を目的に生きていくのかが
全くわからない。だから友達になっても楽しくないと思われるのです。
例えば音楽学校やバレイ学校から世界的なコンテストで入賞した人が、
海外へ留学をして最初は優秀なので注目されるが1年後から立場が逆転するのです。
それは、基礎はできているが楽しく演奏やバレイをしていないのが原因である。
好きな気持ちを表に出さず、教師から言われた通りに発表しているだけで、
音楽やバレイを心から楽しんでいないのが指摘されるのです。
私が初めて中国で雑技団や演奏家を見た時、とても技術はあるのだが、笑顔が全く
なかったことに違和感を覚えました。強制的に指導を受けて技術力はあるのだが表現力に
欠けるのが気になりました。共産圏だから仕方ないのかと思いながら悲しい気分になったのは事実です。
これと同じように日本人も世界では一緒に見られているのです。
学校はその人の個性は認めずに技術優先で感情表現の教育が後になるからです。
マニュアル的な作り笑いは嫌いだが、もっと感情をあらわす生の表情も、早くから
訓練すべきである。好きなことを楽しみながらすると笑顔は自然に生まれるのです。
自分の心がワクワクドキドキしないことに全力を投球する必要は無いのです。
そこから感動は絶対に生まれません。
勿論、死に物狂いで金メダルを獲得しようとしているアスリートの皆さんには
失礼かも知れませんが、目くじら立てて鬼の形相でプレーするは如何なものかと
思うのです。そして最近では海外のアスリートの真似なのか、スタートする前に
観客を煽(あお)り立てる行為は日本人には合わない気もするのです。
我々の世代では人前で「喜怒哀楽」の表情を出すのは下品とされて無表情が
奨励された時代です。これはあらゆる「道」の教えから来るものだと思うのです。
茶道、華道、剣道、柔道、能楽、雅楽などの教えを受ける時に笑いは禁物である。
そのままの行儀作法の習慣が残っているからだと思います。
でも、私はやはり何事にも動じない凛々しい日本人の顔が大好きです。
枠組みからの脱出は、今ある常識という枠から出ていくことです。
世の中の伝統文化は古いままを継承しているものがほとんどです。
習い事でも古い教科書で古い形のままを教えることが多いのです。
本来は古い形を残しながら新しい形を取り込まなければならないのです。
それが伝統後継者である弟子の役目です。
戦後の常識はアメリカが作ったもので純然たる日本製ではないのです。
強い日本を否定して弱い日本にするために作られたルールです。
日本の教育から「地理と歴史と修身」を取り除き腑抜けにしたのです。
近頃では学校の教師も平和ボケしていて歴史の真実を教えることが無くなりました。
日本人の我々が、平和外交を中心に、世界の混乱において何をしたいのか、
海外に向けて明確に主張をすべき時なのです。
理想的な教師のスタイルとして、
①凡庸な教師はただしゃべる。
➁良い教師は説明する。
③すぐれた教師は自らやってみせる。
④偉大な教師は心に火をつける。
と言われています。
理想的なリーダーのスタイルとして、
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」
山本五十六の名言である。
いつの時代にも子供達には真実を教えるべきです。
自分たちの判断でこの国をどう作るのかを考えてほしいのです。
強い国が存在して経済活動があるのです。そして幸福が存在するのです。
60年代70年代は大学生が先頭に立って政治改革のデモ行進をやり続けていました。
機動隊とぶつかり合いながら安保反対を訴え続けたのです。
私も大学生の時に新宿西口でデモ隊に参加したのです。
5月には毎年春闘といって労働者も待遇改善のデモ行進をしていたのです。
そして女性たちも男女平等を訴えてエプロン姿でデモ行進をしていたのです。
あの頃は日本人が日本の国を良くする運動が盛んに行われていました。
今は日本中「見ない、聞かない、言わない」の3匹の猿になっているのです。
私は不可能という枠組みから何度も脱出を試みました。
失敗も挫折も傷つきも山ほど経験をしました。そのお陰でオピニオンリーダーとして
少しだけ人より前に進むことが出来たのです。
息を殺して嵐の通り過ぎるのを待っても何も起こりません。
しっかりと見て、はっきりと聞いて、大声あげて立ち上がりましょう。
あとからくる者のために枠組みから脱出して素晴らしい未来を残しましょう。
坂村真民「あとからくる者のために」
あとからくる者のために
あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ
あとからくる者のために
しんみんよお前は
詩を書いておくのだ
あとからくる者のために
山を川を海を
きれいにしておくのだ
あああとからくる者のために
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々(それぞれ)自分で出来る何かをしてゆくのだ
社会の人々への「それぞれが少し我慢をして、少し苦労をして、自分にできる
なにかをしてゆこう」という真民の叫びかけがより届く詩だと思います。
私たちもこのような気持ちを持って生きて行きましょう。
12月 7th,2023
恩学 |
枠組みからの脱出 はコメントを受け付けていません
あなたは空中の何もないものを掴むことができますか?
頭で掴もうとするとつかめません。しかし意識で掴めば簡単につかめます。
論理的に無理だと決めつけるあなたは、言葉をつかんだことがないからです。
それは身体の耳でしか言葉を聞いていないから分からないのです。
言葉には言霊の波長がありそれを心の耳で感じて掴むのです。
すると言葉は空気のようなものと思っていたのが重量を感じるのです。
「愛してる」「寂しい」から出る波長を感じるのです。心が反応してあなたの
気持ちを伝えることができるのです。相手にではなくあなたの心にです。
あなたの感受性を大切に育てていると、その言葉一つに心が揺れ動くのです。
「ありがとう」は一瞬の言葉ですが心に響くのは何故でしょうか?
それは意識の中で平和に対するキーワードだから安心するのです。
あなたと私の間に敵意は何もありませんというコミュニケーションの扉だからです。
どんな言葉でも、いったん口に出すと、その言葉が自分に様々な影響を与えます。
昔の人は、言葉には呪力があるとし、「言霊(ことだま)」と言ってきました。
発せられた言葉によって、幸福にも不幸にもなり得るからです。
「そらみつ 倭国(やまとのくに)は 皇神(すめかみ)の厳しき国 言霊(ことだま)の
幸(さき)はふ国と語り継ぎ 言い継がひけり」と万葉集にあるように、
日本は、言葉の呪力によって幸福がもたらされる国でした。
仏教では、人間の行動を「業(ごう)」という語で括り、業には身・口・意の三種が
あるとしています。私たちは身(=体)を動かすことによって何かをしていますが、
意(=心)すなわち精神活動が、身体にそのような動きをさせているのです。
一般の動物は言語を持ちませんから、身と意だけでしょうが、人間には言語があります
から、口から出る語つまり言葉が重要な部分を担うことになります。
人間が心に何かを思ったとき、それが言葉になり、行動を起こさせます。例えば、
「有り難い」と思えば「ありがとう」という言葉が出、頭を下げるという動作を引き
起こすように、身・口・意の三種の業が深く関わりあって、一連の行為となっているの
です。人間にとって、言葉は相手に意思を伝えるばかりでなく、「人となり」を伝える
ものでもあります。「言霊」によって幸福を招きたいと願ってやみませんが、
くれぐれも「口ばかり」にならないように、気をつけたいものです。
高野山真言宗管長の松長有慶師は、『密教』(岩波新書)において空海が次のような
主旨のことを述べていると仰っています。
「現象世界で発せられ声も、宇宙のエネルギーである本源的な声のあらわれであり、
名もその本源的な声とつながる。だから名も単なる符丁ではなく、名を呼ぶことは
実在を動かすことになる」と。
また、柿本人麻呂の有名な歌に、
「しきしまの 大和の国は 言霊の さきはふ国ぞ まさきくありこそ」
(この日本という国は、言霊が助けてくれる国である。幸多かれ)とあるように、
言葉には霊力があると万葉の昔から信じられてきました。
美しい言葉、力強い言葉、祝福・賛嘆の言葉で、まわりの人や自然や物に呼びかけ、
いや栄えの幸多き人生を招来しましょう。
私が思うところの日本の伝統文化には所作と同時に言葉を操る技法を受け継いで
いるような気がしています。多くのことを語ることなく所作と同時に短い言葉の中に
まさしく「言霊」が宿っており、客人の心の中で共感と感動を呼び覚ますのです。
お能は鎮魂歌です。天下泰平と安寧を祈る祈祷が中心軸にあります。
村人たちの苦しみも悲しみも凶作も取り除く儀式から始まっています。
散学も猿楽も田楽も曲舞も様々ありますがそれを統一したのが観阿弥と世阿弥親子です。
世阿弥はお能をその根本において完成させるために、みせものから芸術に一躍させる
ために、あらゆる手段をいといませんでした。ある場合は自己の内にある芸術家を
おさえつけてまでも、芸を生かすことをあえていたしました。自己を殺してまで芸を
生かす、その精神はどこまでもお能をつらぬいています。世阿弥の作り出したお能の
発生は今から700年前の室町時代から始まっています。世阿弥は、お能の源を
あめのうずめの命(みこと)にまで遡らせました。ここに祈りの原点があるのです。
私の座右の銘「愛語よく回転の力あり」道元
良き言葉にも言霊の力が宿っていなければ意味がありません。
私も他人の人生を変えるぐらいの言葉を、魂の気迫を持って伝えていきたいと思います。
いつでも良き言葉を求めている人がいれば、どこへでも出向き伝えていきたいのです。
良き言葉を求める人に大切なことは受け取る力です。
言葉を受け取る力とは受け取る準備が整っている人です。
どのような言葉も前触れなしに突然言われても感じることはありません。
その時のおかれた心境で臨む言葉であれば心が敏感に反応するのです。
例えば、私が人生最悪の経験をしたときに言われた言葉があります。
会社も家族も財産も失い、哲学の師と仰ぐ方の元へ助言を求めに行きました。
先生私は人生のどん底へ落ちてしまいました。どうすれば良いでしょうか?
その時の先生の言葉が「どん底へ落ちたか良かったな」です。
私は耳を疑いもう一度聞き直しました。「これが良かったのですか」
そうです「どん底に落ちて底に着いたな」「落ちて着いたから落ち着いた人間になるのだ」
「落ち着いた人間になったのだ」と言われたときに、それまでの苦労と将来に対する不安が
一瞬にして無くなりました。
言霊の持つ力の凄さを身をもって体験したのです。
空中に飛び交う数々の言葉を聞き逃すのではなく、心の耳で聞き直せばあなたにも
言霊の波長が伝わります。試してみてください。
あなたは空中の何もないものを掴むことができますか?
頭で掴もうとするとつかめません。しかし意識で掴めば簡単につかめます。
論理的に無理だと決めつけるあなたは、言葉をつかんだことがないからです。
それは身体の耳でしか言葉を聞いていないから分からないのです。
言葉には言霊の波長があり、それを心の耳で感じて掴むのです。
12月 7th,2023
恩学 |
言霊の掴み方 はコメントを受け付けていません
恩を学び、恩を返していく。誰しもが人生の中で恩を受けて生きている。
恩返しや恩送りはもちろんのこと恩情、恩恵、恩寵、恩徳などを忘れない
ためにも「恩」を繰り返し伝えていきたい。
文章を書くということは善意の行為だという自負がある。
しかし私にそれだけの力はあるのかと疑問も湧く。
毎夜、頭の中に言葉の啓示があり、それに従って書いているだけなのだが、
私は一体何をしようとしているか分からない時がある。
この恩学の文章は誰のために書いているのか、そして誰かの役に立っているのだろうか?
残りの人生の時を費やしても書く意味があるのだろうか?
しかし、過去の多くの哲学者は同じ悩みを持ちながらひたすら書き続けてきた。
この様な疑問を持つことは未だ修行の途中なのに未熟者が勘違いをしていることである。
今、この時を大切に生きていかなければならない。
「温故知新」過去を温めて、新しきを知る。新しきとは未来もさす意味もある。
伝統を大切にして、そこから学んだ経験を、時代に応じた形で表現をしていく。
今を大切にしなければ古きも新しきも無いのである。
東京大学の名誉教授である勝俣鎮夫先生の研究によりますと、日本語表現において、
未来のことを「アト」過去のことを「サキ」と表現する場合、「後からやる」
「後回しにする」と言った言葉は未来を表わし、「先程は」「先日は」と言った
表現は過去を表わす言葉となります。
逆に過去のことを「アト」、未来のことを「サキ」と表現することもあります。
「先送り」や「先々のことを考えて」と言うと「サキ」は未来のことで「跡をたどる」
と言うと「アト」は過去を表わす表現になるわけです。
ところが戦国時代までは「サキ」は過去、「アト」は未来と決まっていたそうです。
現代人は未来の方向を指差す時必ず前の方向を指しますが、戦国時代は背中の方を
指差していました。江戸時代になって平和が訪れたことで人々は、
「明日も同じように暮らしていくことができる。未来は制御可能である」という
自信を得て「未来は私たちの前に広がっているのだ」という思いを持つように
なったからではないかというのです。
明日がやってくることは、今の世では当然のことです。しかし昔の武士達にとっては
今を生きるしかなく、明日が来ることは特別なことであったわけです。
大河ドラマの中で、毎週のように人が死んでしまうことは、何も特別なことではなく、
「人が死ぬことは常」という当時の価値観なのでしょう。
「生死事大、光陰可惜、無常迅速、時不待人」という禅の教えがあります。
死は、いつ、どんな形でやってくるのか分からない代物です。
だからこそどう生き、どう死を捉えるのかが重要であり、まだまだと思っている間に
時間は過ぎ去ってゆく。この世は常に移り変わる、形あるものは壊れ命あるものは
尽きる。時は人を待ってはくれない 時間を無駄にせず、しっかりと生きるのだ。
ということを禅は強く諭しているのです。
正受老人(道教慧端)の「一日暮らし」という教えを思い起こします。
人はとにかく一日を良く暮らせば、その日は過ぎていく。決して一日をおろそかに
してはいけない。今日の勤めを今日行うことが大切、どんなに苦しくても今日一日の
辛抱と思えば耐えることができる。どんなに調子が良いことがあっても、
それにふけることもない。長い一生と思うとかえって大事なことを見失う。
一生は今日一日、今日一日を勤める他ない。
大事なことは今日、ただ今の心であるという教えです。
「今日限り、今日限りの命ぞと、思いて今日のつとめをぞする」(道歌)
小生、齡74になり職を離れ、次の使命が来るまで恩学を書き続けている。
誰かの役に立つ、立たないかでは無く、これが我が使命だと認識をしている。
手を挙げなければ、声を出さなければ、付き合いをしなければ、周りから自然に
人は離れる。しかし、これは孤独では無い強い意識の中の単独なのである。
禅の修行の様にたった1人の修行なのである。
誰に評価されなくても良い、誰からも褒められなくても良い、私は私なりの道を
歩むだけである。漸く、哲学者の思いが少し分かり始めてきた。
限度という器があれば溢れでてしまう行為は意味をなさない。
敵わない夢を追い求めて生活を放棄するなど言語道断である。
自分の欲を超える欲求は百害あって一利なしである。
度が過ぎると破滅の道を歩むことになる。
座右の銘「愛語よく回天の力あり」道元
「面(むかい)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくする。
面わずして、愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ず。
愛語よく回天の力あることを学すべきなり。
面と向かって優しい言葉をかけられれば、自然と顔に喜びがあふれ、心が楽しくなる。
また、人づてに優しい言葉を聞いたら、その言葉が心に刻まれ、魂がふるえる。
それは、愛語が人を愛する心から生まれ、人を愛する心が、他人を大切に思う、
心の中から芽生えてくるものだからです。
本当に、優しい言葉というのは、世界を変える力があるのだということを、
私たちはよくよく学ばなければいけません。
恩学より
デジタル社会になり人の心が無機質状態になり、感情で表現することが苦手になっています。
人間の声は大きな力を持ち、強いメッセージを伝える大切な役割を担っているのです。
我々はその声で「愛語よく回天の力を」発信していくのです。
先ずは愛語良く回天の力ありを学すべしなのである。
私は一体何をしようとしているのか?
これからこの先も「恩学」の世界を全うしたい。
12月 1st,2023
恩学 |
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