手入れとは?




私の好きな学者の一人が解剖学者養老孟子先生です。
沢山の書物から深い教養を知り、ユーチューブ・チャンネルで
人柄を知り、ますます好きになりました。
養老先生は子供のころから昆虫が大好きで、
時間があると山歩き森歩きをしていたそうです。

今回は私が人間の手入れに興味があり先生のサイトへ検索したところ
このような手記があり引用させていただきました。

人間が手入れした自然にこそ豊かな生命が宿る。
お化粧も子育ても同じで毎日手入れをする。
どういうつもりでどこにもっていくのかはわからなくても、
そうやってきたのが私たち日本人の生き方の特徴だ。
我が国独自の思想をはじめ、子育てや教育、都市化の未来、
死ぬということ、心とからだについてなど、
『手入れ文化と日本』について語る。

「みんな、体の声が聞こえなくなっている」
養老孟司さんが20年間都会と田舎の「参勤交代」を続ける本当の理由。
持続可能な社会のヒントは手入れして育てた里山にある。

「なんで山の手入れをするのか」その意味は何なのか?
環境保全とか多様性とかっていう漢字続きのお固い言葉を噛み砕き、
目の前の風景と照らし合わせるとどういうことになるか、
美しい里山の風景はどのように生まれ維持されているのか
山と日常生活との接点を感じることはあるか?

さらに、頭でっかちになりがちな「環境保護」ってやつをぶち壊し、
実際に体を動かして汗を流し、手入れというものが具体的には
どういうことなのかを竹引き(ノコギリ)と
自分の体を使って体験してもらった。
その汗の先に秋の実りがあることを、身をもって感じてもらえれば、
地域の小さな農はきっと復興するだろう、

川の水を汚す原因は、自然に汚れてしまう「自然系」の汚濁と、
人間が汚してしまう「人為的」の大きく2つに分類されます。 
1つ目の「自然系」というのは、枯葉や枯草、
動物や昆虫のフンや死骸と言った、野山の動植物が生きているうちに
川が汚れてしまうものです。
しかし、この「自然系」の汚れは川の水を汚す大きな原因ではありません。

川の汚れは、自然の中で流れていくうちに川の中の生き物
(バクテリア・ハミーバなどの目に見えないような小さな微生物)などに
よって分解されてきれいになっていきます。
これを自浄作用と言います。

「植生浄化法」:葦(アシ又はヨシ)などの抽水植物
(ちゅうすいしょくぶつ:水ぎわに生えている植物)が
密集している中を水を通して、植物に汚れの原因となる
「チッソ」「リン」を吸収(チッソ、リンは
植物が生長するために必要な栄養素です)させて
浄化する方法です。葦以外にも、水の中の汚れの成分を
すって成長する植物を植えたり、セリやクウシンサイなどの
食用の野菜を水耕栽培で栽培して
水をきれいにする取り組みなども行われています。

「森は熊で守られている」
ツキノワグマを殺してはいけない理由について
今年は堅果類いわゆる、どんぐりが全国的に凶作です。
一般に、四年に一度は凶作になりますが、昨年に続き、
今年も、です。
そのため、ツキノワグマが人里で沢山見られるようになり、
多くの個体が殺されています。

危ないから殺せ!
ちょっと、その考えに待ったをかけさせてください。
ツキノワグマを殺してはいけない理由が、あるのです。
それは、かわいそうだから、とか、かわいいから、とか、
頭が良いから、とかいう理由ではありません。

豊かな水源の森作り、
災害に強い森作りに欠かせない野生動物だから、なんです。
最も貢献している野生動物なんです。
なぜか。ツキノワグマは、調査されている中では、日本の野生の
生き物のなかで最も多くの植物の種を運んでくれるから、なんです。
しかも、最も遠くまで運んでくれるから、なんです。

ニホンザルをはじめとして、遠くまで移動しそうな野生動物ですが、
種子の散布としては500メートルくらいなんです。
それに比べ、ツキノワグマは、最大で22キロ先まで散布できる、
という調査結果があります。

ツキノワグマは、夏場はサクラなどの実を食べますし、
その他にも多くの植物の種を食べています。

そして、一日中動き回り、だいたい20 から40キロくらい
動き回ることができるのです。
人間が、いくら 森作り と言っても、せいぜい知れています。
ツキノワグマをはじめとする野生動物の営みに託すべきなのです。

ツキノワグマを殺すことは
多様性のある森を作ってくれる主役を殺してしまう事に他なりません。
多様性のる森が失われたことが、水害の大きな原因のひとつと言われる
昨今、ツキノワグマの役割は、ますます重要視されるべきです。

私たちの森作り事業、および野生動物の棲める場所作り事業は、
基本的には野生動物の営みに委ね、彼らが生きることのできる
環境づくりをすることにあります。
ツキノワグマを殺してはいけない理由が、あります。
人間の営みを脅かす森の荒廃を解決する主役、だからです。


お判りでしょうか?
手入れしなければならないところ、手入れが必要な理由、
むやみに手入れしないことです。
自然は人間が考えるほど無知ではなく、
とても優秀な学者であり開拓者なのです。

皆さんはこの文章を読んでどう思われたでしょうか?
養老先生の話は、里山が好きで、森が好きで、昆虫が好き、
なので分かりやすいと思いませんか。
自然と人間は共存共栄と言いながら人間のおごりで
勝手に自然を破壊して、さまざまな動植物が住めない世界を
作り出しているのです。
その為に自然災害が増えて熊も食料を求めて住宅街へ
出没するようになったのです。

これから子供の教育を森でする団体を作ろうと思います。
勝手に道具を渡して森に2~3時間放り込むだけで十分教育になります。
自分で発見する悦び、採集する悦び、道具を使う喜び、自然の中を
駆け回ることで体力作りと情操教育が出来るのです。

それに農業を加えてお米や野菜を作ることをすれば、
元気でたくましい子供が成長するのです。
生きる知識が身につけば、創造する知識も生まれます。

手入れすべきは金もうけに走り森を壊す大人たちです。


言葉によって生かされて




人が作った言葉に感動して、人が作った言葉で傷ついて、
人が作った言葉で慰められる。
人間に取ってコミュニケーションの最大の手段として言葉があります。
その言葉を悪用して人を大勢騙す人もいます。
それは詐欺師だけでなく政治家にも相通ずるものがあります。

私達は100人対象の演説より、目の前の一人の一言で
人生が変わることを知るべきです。
どれほど美辞麗句な言葉を山ほど使うより、
素朴な一言に勇気が湧いてくるのです。

日々の悩みを、お酒を飲んで騒ぐより、カラオケで憂さを発散するより、
人に絡んで喧嘩するより、いい言葉の方が、効果が大きいのです。
しかしいい言葉ばかりを求めて、自分の口からいい言葉が出ないと
恥ずかしいですよね。もうふざけた話ばかりをするのをやめましょう。

大変とは大きく変わる時のことを言うのです。
苦難・困難・災難は難から逃れたい時に使う言葉で、
それは無難から出てくる言葉の「大変」です。
「無難」から逃げずに「有難」とすれば有難いになるよね。
一字違っただけで世界が変わる。大変じゃなくなる。

辛いという字に一本線を加えれば幸せになるよね。
この一本線が何か分かりますか?
現状の辛さから逃れる方法は、努力を一本加えるだけです。
それは、一つの笑顔でも叶いますよ。

愚痴を吐くという字も、散々愚痴を「吐」いてマイナスが
一本取れば「叶」うとなる。
たまには大声で「馬鹿野郎」って言ってごらん。
願いが叶うから。漢字を作った人は天才だね。

人は優しさや平和を求めるが本当に大切なことは感謝と謝罪である。
生命は生きる為に命を奪うことから始まり独占の心理が働く。
母親の体内から栄養を奪い母親を独占する行為もこれにあたる。
子供は成長するために多くの時間を母親から奪ってしまう。
感謝しなければバチが当たる。(バチとは太鼓のバチのことを言います)
そして母親に謝罪しなければ感謝の気持ちが生まれない。

もし平和の定義を求めるならば、最初になぜ人間は奪うことに
執着するのかを哲学的に宗教的に考えなければならない。
生物そのものが生命を維持するために弱者を征服しなければならない。
エントロピーの法則、動的平衡などによって解釈を深める。
常に細胞は入れ替わりまた別の細胞によってつくられる。

科学と芸術の関係は、科学が自然を破壊して進化を求めた人間のエゴです。
それを大変申し訳ないと思い芸術が謝罪しているのです。
大切なことは休みなく前へ進むばかりではなく地球に謝罪しながら、
少しでも地球の回復に努めなければなりません。
これからの化学は地球の修復のために使うべきです。

芸術とは生きていることが芸術です。人間の身体そのものが芸術です。
目の前の景色を見て考えて感動することが芸術です。
一分一秒、細胞が、生命が、躍動することが芸術です。
私たちはこんな素晴らしい芸術の人生を過ごしているのです。
喜びと感謝を毎日伝えなければなりません。

宇宙から届く光は何万年も前の光です。地球に届いた時には、
その星がすでに消滅している可能性もあります。
我々の短い人生の中で出会える人は限られています。
言葉も科学も芸術も一瞬だと思えば、1日も早く己の強欲から抜け出して、
生きて行ける時間を個人のために使わなければなりません。
強欲とは財を独占することでは無く、自分の時間を自由に使う事です。

どんな人生の重みも一つの言葉で軽くなります。
「愛語よく回転の力あり」(道元禅師)ですよ。
良き言葉はその人の人生を変える力があるのです。
そのためにも愛語を学ぶ必要があります。

仏教用語「涅槃寂静」

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)は、
仏教用語で、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、
静かな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。

無常の真実に目覚めないもの、無我の事実をしらないで
自己をつかまえているものの刹那を追い求めている生活も、
無常や無我を身にしみて知りながら、それを知ることによって
かえってよりどころを失って、よりどころとしての常住や自我を
追い求めて苦悩している生活も、いずれも煩悩による苦の生活である。

それを克服して、いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、
いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、
それこそ悟りであるというのが、「涅槃寂静印」の示すものである。

良き言葉を求めてください。
良き言葉が溢れて来ると人格が変わります。
人格が変われば人生が変わります。

今日も静かで落ち着いた人生をお送りください。


人相は心の顔



瀬戸内寂聴さんの顔は歳をとるごとに観音様のような優しい顔になっていました。
欲を捨て煩悩と縁を切り人々のために立ち上がった時から顔つきが変わったのです。
マザーテレサも歳をとるごとにマリア様のような顔つきになったのです。
世界中に慈愛の心を届けるたびにマリア像の笑みが現れたのです。

全て「和顔愛語」から生まれた穏やかな顔つきなのです。
誰しもが子供の時から人相は顔に出るから気をつけなさいと教えられた。
隠れて悪さをすると直ぐにバレてしまうのは親がしっかりと子供の成長と
顔を見ているからである。最近の親は家事をしながらデジタルモバイルに
夢中であまり子供の顔を見ていない。

今、問題になっている新宿の東横キッズ達の親が子供の変化に気づかずに
借金まみれになってから大慌てしている。毎日子供の顔を見ていればもっと
早く気づいても良かったのに体も心もボロボロになってから大慌てをしている。
悪徳ホストに捕まり売春をやらされて性病を移されて行き場の無い
どん底に追いやられる。彼女達は普通の家の子供達で不良では無いのです。

親たちはこのようになった時に「もっと子供に注意を払えば良かった」
と後悔します。中学生や高校生は多感な年代です。
毎日気分が変わり、表情も変わるのです。
子供の動向を追跡するのではなく見守ることが大切です。

何故このような不幸なことが起こるのか?
親たちも生きるのに一生懸命で考える時間が足りなくなっているのです。
人は皆多かれ少なかれ欲に縛られているのです。
欲しいものを手に入れたいためにローン地獄に陥り
毎月の支払いの算段で頭がパンクしそうなのです。

負の連鎖を止めるには欲を減らすしかありません。
ひとつ諦めるとひとつ笑顔が増えます。
ひとつぐらい諦めても不自由にはなりません。
子供にとって母親の笑顔ほど安心できる薬はありません。
笑顔の薬を与えることによって夜に繁華街に遊びには行かなくなるのです。

和顔愛語(わげんあいご)
意味:表情はおだやかに、言葉はやさしくありましょう。
つらいときや苦しいときは、つい表情も暗くなりがちです。
心に余裕がなくなって、言葉がきつくなるかもしれません。
そんなときこそ、あえて笑顔を作ってみましょう。
やさしい言葉をかけてみましょう。不思議と心は軽くなります。
まわりの人ともなごやかになります。お金も、特別な力もいりません。
いつも心の片すみにとどめておきたい言葉です。

魔羅(マーラ) 
本来は梵語(ぼんご)のマーラだから、善法を妨げ修行をはばむもののこと。 
お釈迦さまの逸話にもマーラが登場する。たいてい「悪魔」と訳されているが、
これも考えようでは内魔が顕在化したものと見ることもできるだろう。
思い通りにならないことが悪魔の顔つきで現れるわけだが、
悪魔として憎んだとて根本的な解決にはならない。
マーラが健康のバロメーターでもあるように、魔とは内魔のことだと割り切り、
制御することこそ肝要ではないか。 

臨済宗(りんざいしゅう)中興の祖とされる白隠禅師(はくいんぜんじ)は、
晩年、講座のなかで「内魔動ずるとき、外魔便りを得る」とおっしゃった。
ここではおそらく、人知を超えた情報が「魔」と呼ばれている。
むろん、内魔もマーラのことじゃない。
このマーラは、そんな神秘とは関係なさそうにくつろいでいる。

悪徳ホストも被害にあった女性も、今世では許せない状況でも、
来世には幸福になる権利はある。絶対に忘れないで欲しいのは
加害者も被害者も心に傷として残るということです。
反省してから普通の生活に戻りたいと言っている子供達がいるが、
よほど努力しなければ世間は許してくれません。責任をとらされます。
あなたたちが思う程世間は優しくありません。

更生するには自然と触れ合い、良き学びを多くしてください。
哲学の本や宗教の本から自分たちと同じ経験をしている
先人たちの手記を読んでください。
自分の心に残る傷も大自然の前では取るに足らないことです。
自分が受け入れられる範囲と自分が納得する範囲で挑戦してください。
更生するために無理に受け入れなくても良いのです。
自分に合った方法で少しずつリハビリをすれば良いのです。

能楽で使用される面(おもて)があります。
その中に女性の面で般若(はんにゃ)というのがあります。
般若や生成(なまなり=般若になりかけの小さな角の生え始めた面)は、
鬼面の蛇類とも分類されますが、これは鬼神の面と異なり、嫉妬や怨み、
悲しみといった女性の感情から生まれる人間の鬼の表現となっています。
恐ろしくも悲しい人間の内面に棲む「鬼」の執心の凄まじさを造形にしています。

女性国会議員、女性大学の理事長、女性都知事の顔がときどき般若のようです。

立場的に鬼の形相になるのは仕方ないと思わないでください。
国の仕事や大学の理事長の仕事をしているから
怖い顔になるわけではありません。
国民の指示や学生の指示を得られなければ、
いくら優秀でも人はついて行きません。
国会答弁や記者会見の内容を聞く限りでは優秀さが微塵も感じられません。

若者たちよ!特に孫世代の子供達よ。
危険な道に入り込む前に相談に乗りますからいつでも来てください。
「恩学」を読んで「老人と孫」に立ち寄って、
質問してくれれば理解できるまで説明をします。

君たちが飛び込んでくるのを待っています。


未来から来た留学生




チベットの山奥で広場を囲んで人が集まる。
その真ん中で女の子が踊り始めた。
手拍子から始まり大声で参加する老人たちがいる。
ふとこの場面を見た時に頭に浮かんだストーリーがある。

「僕らが生きている場所」
僕らの村の学校で「世界」を教えられても皆目見当がつかない。
僕が生まれたこの村ではあまりにも「世界」は遠すぎる。
それでも僕らは国の規則で学ばなければならない。
でも何のための学びか分からない。
僕らの声は誰に届くか知らないけれど、
声を上げなければ僕らは消えてしまう。

僕らの村の僕らの先輩が教えてくれたことが正しいのに、
僕らは大人になるたびに「国の法律」に従わなければならない。
電車も通らないこの村で「世界」を相手にできるはずがない。
だから中心地の都会へ来ることが正しいと言われても
戸惑うばかりである。あまりにも「世界」は遠すぎる。

僕らの村には山に囲まれて川が流れて実りもたくさんあるのに、
コンビニの無農薬商品や飲料水を買うのは何故だか分からない。
都会の人と同じ洋服を着て、都会の人と同じ飲み物を飲み、
田んぼの畦道を歩く。こんな滑稽なことが許されずわけがない。
僕らが望んだ憧れの国はこんなものでは無い。

僕らは村で、変わり者で通っているのに誰も咎めない。
コンピューターでプログラミングをしただけなのに、
新しい時代の救世児だと言われても困ってしまう。
これからのこの国をどう思いますかと言われても、
クソ喰らえとしか言えない。
ただ注目を集めて大人が集まってきても
どうすれば良いのか分からない。

僕らは僕らの感じるリズムがある。
空の雲と鳥の囀りと川の流れと大地の響きが村全体に伝わり、
言葉では言えないリズムを感じる。
太陽の日差しを浴びて虫たちと同じリズムを感じる。
そう僕らは都会に憧れを持たない田舎の子供達である。

僕らを大人は出来の悪い子供達と言うけれど、
それで結構である。
これからの時代は僕たちが作るから心配ない。
理想なんてすぐ描けるから明日の未来を作るのは心配ない。
AIなんて田んぼの水すましと同じじゃないか?何を恐れる必要がある。
僕らが生きている場所を誰にも邪魔されたくないさ。

そして僕らの真実を伝えても勘違いも甚だしいと、
笑い飛ばす大人たちがいる。
AIという武器を使えばあなたたちを征服するのは簡単だ。
村に悪のイメージを定着化することは出来ない。
あなたたちは僕らから見ると敗北者なのだ。
言い訳ばかりの現状を見て周りをひとつも見ていない。

無駄な進化は思考の退化に通じる。
昨日までの技術は古くなると捨てられる。
同時に開発者もお役御免になり首を切られる。
いつまでもモルモットの回天車の中で、
走り続けるわけにはいかないのである。

無関心な子が増えて好奇心のない子も増えているという。
何故それがいけないのか分からない。
何も無くても関心を持たなければならないのか。
興味が無いのに好奇心を持たなければならないのか。
僕らはいつでも世界へ飛び出す準備が出来ている。

無関心と無意識の違いは何だろう。
人間として生きるのなら、
関心と意識が大切かも知れないが、
僕らは人として生きたいのだ。
だから無意識でも無関心でも平気なのだ。
人として立ち上がる時には立ち上がることが出来る。

無関心な状況はいつも愛が溢れている。
意識にとらわれずに感性で生きたいのだ。
感性で生きるとは周りの状況が
見えるので未来への道に迷わない。
僕らは人に対しても国に対してもボーダーレスなのだ。

チベットの子供たちのように
子供のころから家の手伝いが当たり前なら
それをするだろうし、村の規律で決まっているなら
それを守るだろう。
何かに意識することも、何かに無関心でも、
やらなければならないことは、
大人に言われなくても出来るのである。

子供は干渉されるから反抗するのであって、
何も言われなければ自分たちでどうにかする。
僕らが生きている場所では大人が暇なのである。
だから文句ばかり言い続けるのである。

僕らは未来から来た留学生なのだ!


大切なこと




先日紹介された青年実業家より、
「恩学」を読んだが素晴らしい文章ですね、
家族にも読ませていますとお褒めの言葉をいただいた。
毎日描き続ける気ままなブログである。
私が思いついたタイトルに文書を添えているだけだが、
心に響いてくれている人がいることを嬉しく思う。
そして、それが何よりも励みになる。

今や「人間学」が必要な時代である。
欲に溺れる人生よりも人間力を高める人生のほうが
どれほど素晴らしいかを伝えていきたい。

子供を叱りながら教育をする方法と
自立を促し誉めながら育てる方法では、
大きな差が出てくる。
明治・昭和と世界から学習能力の高い国として
評価されたのに、敗戦国になって
教科書にアメリカの手が入り、「歴史と地理と修身」が削り取られた。
その為に世界に名を遺す優秀な人材を輩出できない国となった。
残念である。

我々は戦わない愛国心教育を復活させるべきである。
教育を学問として体系化されたものを学校で学んできた人たちが教師になる。
人生経験のない無機質な授業内容で何を子供達に教えるのか、
時代に沿った内容でなければ教育者は不要でAIに任せるべきである。
国を愛する教育は敗戦国だから必要ないのだと思っているのだろうか?

学校で算数や国語を教えます。ついでにパソコンも英語も教えます。
しかしなぜ教えるのかを教えていますか?
日本の教育の欠陥は形を教えてその意味を教えません。
算数の必要性、国語の必要性、その上にパソコンと英語の必要性も!
教師が理解していないのです。

ここで間違ってはいけないのが一方的な教え方です。
子供の個性を無視した画一化された授業で教えたつもりになっている。
学校の都合で厳しいルールを課せているのは刑務所と同じである。
自分たちが管理しやすいようにプログラムを組んでいるだけである。

世界には子供の発想に任せて学びを教える教育法があります。
マリア・モンテッソーリ教育(イタリアの医師)自己教育力
ロドルフ・シュタイナー教育(ドイツの医師)総合芸術
レッジョ・エミリア教育(イタリア)幼児教育
A・S二イル・サマーヒル(イギリス)自己決定・個性化・体験学習
フルケ・ボイスコーレ(デンマーク)民衆の大学
子供が学びたいとこを選び、学ぶ方法も選び、学ぶ場所まで選ぶのです。
デンマークでは海外へ留学及び旅行も学習単位として認めてくれるのです。

子供主体の学校が成立するのか?
日本人なら誰しもがその疑問にぶつかります。
しかし日本でも海外の手法を取り入れて成功しているケースがあります。
「きのくに子どもの村小学校・中学校」です。
先生もいない、宿題もない、自由な発想のもとに
自分たちで学習法を作り出す。
驚くのは自分たちで畑を作って収穫の喜びと料理の楽しみを
実践していることです。
生きる教育を、身をもって体験しているのです。

しかし教育の元となることも教えなければならない。
子供は物作りを通して芸を磨くが知的思想までは到達できない。
せめて大学に入った頃に西洋と東洋の考え方や
物の見方を学ばなければならない。
これも基本的には押し付けるのではなく自然発生的な好奇心から
火をつけなければならないのです。

東洋と西洋の融合があるとすれば東洋の思想を啓蒙することが必要である。
東洋思想は、やはり根幹的な原理原則で、
道徳という意味では長けていますが、
欠点もまた多いのです。その欠点を補って余りあるのが
「西洋の芸」だというのです。「芸」とは「アルス(アートの語源)」、
すなわち、技術です。西洋の技術は非常に優れています。
それは、物事を普遍的にする力であり、今時の言葉では
「モジュール化」する能力に長けているということです。

したがって、東洋からは原理原則を提供し、普遍的に人類がこぞって
理解できるような広々としたものにしていくのは、
西洋に任せた方がいい。そうやって西洋と東洋が融合し、
新しい人類の指針を出していく時ではないかということです。

子供たちは未来から来た留学生である。
大人が古い教科書で教えることでは無い。

先ずは材料を揃えて自由な発想のもとに使わせてみるべきである。
子供達と対等に向き合うと大人が教えられることが多い。
一番は想像力の大きさである。コンピュータでは作り出せない未来を、
彼らは想像することができるのです。
その力を伸ばす環境を提供するのが大人たちの役目なのである。

利益競争の選手にするより、共存共栄を理解できる人間に育てる方が
大切だと思いませんか?

大切なことは全て愛から始まっているのです。


戦略ミス




「貞観政要戦略」とは。

羽生結弦くん。真実は本人たち以外には分からないのだが、
離婚騒動の裏には身内の姿がチラホラ見え隠れするのが気にかかる。
芸能界ではよくある話なのだが、
これらはステージママが全部を仕切っていることが多い。
自分の生んだ子だから、自分が育てた子だから、
私のモノよという意識が問題を起こす。
今回は結婚という隠れ蓑を利用して独占欲を満たそうとした。

これは別の世界でも起きている。
以前にはゴルフの石川遼が父親の言いなりになり
世界中から期待されていたのに、その才能の芽が摘まれてしまった。
こちらもいろいろと問題が起こった時期に結婚を利用して
話題をそらそうとしたのだが逆に裏目に出てしまった。

あらゆる人気商売はファンの応援があって成立するが、
人気が出てくると実力だけで頂点に達したと勘違いをする。
まさに裸の王様状態を身内が作り出すのである。
子どもの時から飼いならし本人の意思が無視される。

今、世界で話題の大谷翔平の場合は家族が一切マスコミに登場しない。
その上に結婚した女性もその姿を表に出さない。
すべてのマスコミやパパラッチから家族を守っているのである。
これには本当に頭が下がる思いです。
彼ほどのスターになれば世界中のマスコミが
追いかけているはずですから隠すのは大変だと思います。

「貞観政要戦略」の重要性とは
貞観政要とは中国の長い歴史で、国が最もよく収まっていたと言われている
「貞観の治」の時の皇帝、唐の太宗(李世民)の言葉や行動を書き残した本です。

「創業と守成 いずれが難きか」とは、太宗が家臣に創業と守成のどちらが
難しい時か尋ねた時に、房玄齢(ぼうげんれい)という家臣は
幾多の戦いを勝ち抜く命がけの困難がある創業が難しいと答え、
魏徴(ぎちょう)という家臣は帝王の地位を得てしまうと
つい安楽な気持ちになって国を衰えさせてしまうので、
守成の方が難しいと答えます。

比較するのが難しいこの問題に太宗は、房玄齢と魏徴の
それぞれの立場を立てたうえで、創業は過去のものになったから、
これからは守成をおろそかにしないようにしよう、と答え、
うまくその場をまとめるという話です。

ほかに「三鏡」という逸話も有名で、リーダーには
「銅の鏡」と「歴史の鏡」と「人の鏡」の3つの鏡が必要だというものです。
「銅の鏡」はいわゆる普通の鏡で、自分の部下が付いて行きたくなるような
いい表情をしているかをチェックする。
「歴史の鏡」は過去の歴史に照らして将来に備えることをいう。
「人の鏡」は部下の直言を聞き入れる、という3つの鏡で
自らの行いを正すのがリーダーの務めだといいます。

とりわけ、遠慮なく耳の痛いことを言ってきて
「人の鏡」になってくれるような部下は、
ついつい遠ざけてしまいがちですが、自分の悪いところを
率直に言ってくれる貴重な存在なので、
特に大切にしなくてはならないということです。

欲に縛られた人たちの起こす世襲の罪とは。
親は子供に権力を引き継ごうとして世襲制度が繰り返される。
家は3代で潰れるという話があります。
1代目が死ぬ気で作り上げた財産を2代目は苦労を見ているので
財産を慎重に扱う、しかし3代目になると1代目2代目の
苦労を知らず放蕩を繰り返す。
北朝鮮の金正恩がこれに該当する。

政治家の世界に世襲制度が行われているのは
亡国の兆しであることを誰も指摘しない。
なぜ、世襲議員は問題なのか。
そもそも親の地盤をそのまま受け継ぎ、票を獲得して当選、
というのは民主主義の基本に反している、という声もある。
小泉純一郎、堀内光雄、麻生太郎、安倍晋三などがこれに該当する。

逆に、「歌舞伎役者などみな世襲じゃないかという声もあるが、
子どもの頃から親の姿を見てきた二世、三世だからこそ、
安心して伝統もまかせられる」という意見も聞こえてくる。
芸事の技を磨くのはその家紋の秘伝を受け継ぐ重要な役割がある。
世襲ならばこそ、親子三代が舞台に上がることも可能になる。
名門市川團十郎がこれに該当する。

ただここでは本質的な政治論はせずに、
ちょっと違った観点からこの問題を見てみたい。

昔から、自分が築いてきたものを子どもに引き継いでもらいたいと
願う親は多かったはずだから、最近の“二世ブーム”の背景にあるのは、
やはりこの子ども側の変化と言えるのではないだろうか。
ひとことで言えば、エディプス・コンプレックス(無意識的葛藤)が
弱体化したのかもしれない。幼児期において起こる現実の状況に対する
アンビバレント(両価感情)な心理の抑圧のことをいう。

勿論、自分の後を継いでほしい、と願う親に従う素直な子供が
増えたこと自体を、とやかく言うことは出来ない。
とはいえ、古代から延々と人の心の奥に息づいてきた
エディプス・コンプレックスが、こうもあっさりと消えて良いものか。
それは時に親を悩ませ、さまざまなトラブルの原因にもなってきたが、
同時に「親を打ち負かし、乗り越える逞しさ」を与える材料にもなったはず。

問題を起こす親にも子にも、彼らに大谷翔平の爪の垢を
煎じて飲ませてみたいものである。
「驕るものは久しからず」「実るほど首を垂れる稲穂かな」「謙虚な姿勢」
日本語には素晴らしい教訓の言葉がたくさんあります。
知っているのでしょうか?

有頂天になると自分たちを支えてくれているファンを忘れがちになります。
やはり人には「銅の鏡」と「歴史の鏡」と「人の鏡」の
3つの鏡が必要だというものです。


アナログ世代とデジタル世代




アナログとは、連続した量(例えば時間)を他の連続した量
(例えば角度)で表示すること。デジタルが連続量をとびとびな値
(離散的な数値)として表現(標本化・量子化)
することと対比される。時計や温度計などがその例である。

デジタル世代は歌詞を聞きすぎる。アナログ世代は音を聞いていた。
音を聞いていたから洋楽でもカッコよかった。
何より歌詞の意味などどうでもよかった。
たとえば僕はロックンロールをよく聞いていたけど
元気つける歌詞なんて一つもない。お前に未来は無いって歌っているんだよ。
「ノー・フュチャー・ホー・ユー」
それ聞いて今日も学校へ行ってやろうと元気になった。

デジタルになると情報が綺麗に入って来ちゃって、
歌詞の文字を追い過ぎちゃっている気がする。
ぼんやりしていない、ぼんやりするとどこに焦点を合わせるかを
自分で選べる。しかしデジタルで歌詞をぺらんと一枚にされると、
みんなそれしか見れない。
ブルーハーツ甲本ヒロト談

私が初めてギターを手にしたのは中3の時、質流の安いギターだった。
もちろんエレキは変えずにアコスティックのギターであった。
チューニングの仕方も分からずに音を出してみた。もう最高だった。
まるでオーケストラの指揮者みたいに手を振るだけで音が鳴った。
楽器屋の店員にチューニングの仕方を教えてもらってなんとなく分かった。
髪を伸ばしてジージャンを着たらいきなりアメリカンになった気分を味わった。

早速アメリカのフォークシンガーボブディランのコピーをした。
金物屋で太めの針金を買ってハーモニカーホルダーを作った。
彼はいつも肩からかけたハーモニカを吹いて演奏をしていた。
それを真似したのである。
ボブディランのレコードを買ってきて取り敢えず楽譜を耳で覚えた。
ドンシンクトワイス・イッツ・オーライとハード・レインと
マスター・オブ・ワーを覚えた。
高校の時にはエレキを買ってタートルズのハッピー・トゥゲザーを
コピーした。
そのあと何故かPPM(ピーター・ポール&マリー)にのめり込んだ。

大学生の時、学生運動が盛んになり自分の居場所が無くなった。
近くの工事現場でバイトして横浜から船に乗ってイギリスへ行った。
仕事も住むところも無く行き当たりばったりの人生を選んだ。
アフロヘアーでパンタロンを履き毛皮のコートを着たらロンドン子になった。
まるで「時計じかけのオレンジ」を体感しているような世界であった。

今まで予定調和の人生なんて考えたことも無い。
自分の人生は自分で切り拓くことしか頭になかった。

人は皆強いようで弱い
肉体を纏った生命は儚い

今朝この言葉を友人の投稿で見た。
何気ない言葉なのだがこれがアナログの表現であってとても良い。
旅に出ている写真や食事に行った写真やペットと遊ぶ写真はデジタルである。
ただ投稿のためのストーリーでデジタル社会の生んだ産物である。
私もSNSで行動範囲をお知らせするだけで心までは表現しない。

これからはアナログとデジタルを共有する社会を生きていかなければならない。
企業の詭弁であるSDGsとお客様本位の考えを中心に経営しますという嘘も、
政府も子供が安全で老人の幸福を一番に考えますと言いながら
税金を上げる嘘も、もううんざりである。
市場では直ぐに壊れる安価な商品、色も鮮やかな毒入りの食品、
人をものとして扱う人材派遣会社、
利益追求のものばかり。そこには愛はない。

ロックシンガー伊丹谷良介のライブ「うた」はデジタルを屈指するが、
表現はストレートなアナログである。
毎月のテーマは「ブッダ」「生命」「芸術」「科学」と続く。
そして毎回自作の絵を数点飾る。その上にテーマに沿った新曲が加わる。
このライブは古い言い方をすれば「魂の叫び」のような歌声で客を魅了する。
そこにデジタル音は気にならず、言葉の意味も分からずとも、
伊丹谷良介の存在そのものがリアルに残るのだ。

恵比寿の小さなバーを会場として選んだのは、観客と同じ目線で
テーマを語り合いたかったからである。
このシリーズが完成すればどこでもライブは出来る。
幼稚園でも学校でもお寺でも集会所でも人が集まる場所なら、
どこでも演奏会が出来る。
時代はデジタルを使ってアナログの表現を待っているのである。

甲本ヒロトが言うように歌詞の意味などわからなくても、
興奮した音楽の世界を体験すべきである。
興奮したらステージに上がり叫べば良い。ライブ終了後に話し合っても良い、
メールでのやり取りで自分の思いを伝えれば良いのである。

負けるなよ人間!俺たちは一緒に興奮する奴らを仲間として呼び込みたい。
そこに時代の変化が生まれてくる。あなたも目撃者になれるのだ!

感情は連続した量から生まれてとびとびの時間からは生まれて来ない。
とびとびの時間から生まれるのは伝える行為のみである。


新人類Z世代(蛙化現象)




「Z世代2096年~2015年生まれ」

情報の取り過ぎで起きた若者たちへの弊害。
コンピュータの中の世界が正しいと判断した場合に、
現実とのギャップが引き起こす障害。
自分の選択した情報に自分がコントロールされてしまう。
その上にChatGPTで問いかけて出て来る答えに満足してしまうと、
苦労して学ぶ意識が薄れて努力する意味も失われてしまう。
真実か虚偽かは関係なく自分に対する甘えが生まれて来るのです。

大槻祐依女史談より
Z世代をはじめとする若者の間で2023年に一気に流行した
言葉の1つに、「蛙化現象」が挙げられます。
蛙化現象とは、好きだった相手に好意を持たれた途端、
嫌悪感を抱いてしまう現象のことです。

一方、Z世代の間では「好きな人のささいな行動で気持ちが冷めてしまう」
ことの意味合いで使われることも多く、これまでの使われ方と
若干ニュアンスが異なるように感じます。 
これは、働き方や生き方から自分の将来像まで、あらゆる物事の理想が
Z世代の中で具体的に想像できるようになったがために、理想と現実との
ギャップが生じた際に、落胆したり嫌悪感が増したりしてしまうことが
起きやすくなっていることが考えられます。
 
さらに深掘りすると、Z世代は「失敗しないために深く吟味する」
「自分の理想を基準として物事を判断し、理想に満たないと
わかったら時間を無駄にしないように早めに切り替える」
側面があるのではないかという1つの仮説にたどり着きました。

今回は、Z世代の価値観で捉える蛙化現象について考えてみます。
背景
Z世代と切っても切り離せないものがSNS(交流サイト)です。
SNSはZ世代の間で蛙化現象を加速させた大きな要素の1つでしょう。
SNSは、自身の日常を気軽に発信できるプラットフォームです。
基本的にSNSで見せるものはキラキラとしており、
「周りに見せたい面」しか投稿しないケースも少なくないでしょう。

そうした「キラキラしたSNS」に慣れ親しんだZ世代だからこそ
幻想を膨らませやすく、嫌な側面がほんの少し見えただけで幻想が
裏切られることが許せず、蛙化現象を加速させた可能性があります。
 
Z世代を中心に盛り上がりを見せる「推し活」も、
こうした状況の延長線上にあると言えます。
自分の好きな対象(=推し)をつくり、SNSを通じて
「推し」を崇拝する時間が増えていく中で、
ますます自分の中の理想が堅固なものへと確立されていきます。
ただ面白いのは、推し活ならではの特徴として、蛙化現象の対極にある
「蛇化現象」と呼ばれるものが起きていることです。
 
蛇化現象とは、推しがやることならネガティブなことでもOKという、
相手のどんな行動でもすてきに見えてしまう現象のことです。
蛇化現象は推しに対して起きやすく、逆に蛙化現象がリアルの好きな人や
恋人に対して起きやすいのは、現実社会で一緒に過ごす時間や、SNSとの
ギャップを感じやすい瞬間の多さが関係しているのではないでしょうか。
その意味で、蛙化よりも蛇化の方が、SNS文化と密接に関わっていると
考えられます。
 
もう1つ、蛙化現象が流行した背景には、Z世代の持つ「タイパ」
「コスパ」の価値観が大きく関係している可能性があります。

Z世代は、時間・費用対効果を意識する傾向が非常に高いことでも知られて
います。その観点で考えると、Z世代にとって蛙化現象とは、単に異性に
対して冷めてしまう体験を指すのではなく、「その人が時間とお金を投資するに
値するのか」を判断する1つの指標として機能している可能性が考えられます。
その基準を「理想」とし、理想よりも一定以上下がった時に「今後一緒に
過ごしたくない」と判断した結果、感情の表れとして嫌悪感=蛙化が
生じるのかもしれません。(FinT 代表取締役社長大槻祐依談より)

これを一概に「今どきの若い者」と言い切ってしまうと
世代間のギャップが生まれます。
デジタルネイティブのZ世代は大人が作った環境の中を
生きているだけで、逆らっているわけでは無いのです。

絶対に間違ってはいけないのが現象の先端はマイノリティーの
一部の人たちの姿であって、マジョリティーである多くの声は
反映されないという事です。しかし、この一部の人たちの声は
リアルな社会の姿を反映していることが多いのも確かです。

デジタルでつながるZ世代には国境がありません。
今起こっている現象が日本の子供達だけの問題ではなく
アメリカも含めた世界中の共通認識と捉えた方が正しいと思います。
デジタルは世界の国境を無くしたことは確かです。

多くの企業は新たにZ世代を意識した商品の開発に躍起になっています。
しかしそれは一部のスマホ・ゲーム・アプリの開発会社での話です。
鉄鋼関係や建築機材関係などの開発には関係しません。

一番気になるのはZ世代へのマーケティング上の販売計画です。
昔からマーケティングの基本として「AIDOMA」(アイドマ)と
「AISAS」(アイサス)という言葉があります。(説明は省きます)

その商品についての詳しい説明や、口コミ、似ている他の商品との
比較などをインターネットの検索エンジンやSNS、チャットツールでの
知り合いとのコミュニケーションなどによってありとあらゆる方法で
情報取集をします。彼らはそれぞれの用途に応じて、Tic Tok、Twitter、
Instagram、YouTubeなどを使い分けるのです。

私のマーケティング講座で実例を挙げて詳しく教えてきました。
メインターゲットへのアプローチとヒット商品の作り方です。
時代が変化してもまたどのような商品でも市場分析は必ず必要です。

近々に新しい形で塾を開講します。
ご期待ください!


夢を叶える




夢を叶えるために人生の計画を立てたことがありますか?
1年毎に、3年毎に、10年毎にマイルストーンを立てるのです。
今年やること、3年後には明確にすること、10年後には後悔のない
位置にいることなどを書き出して計画を立てるのです。

計画を立てなければ達成はありません。偶然に願いが叶うことはないのです。
人生を宝くじのように考えていては外れる確率のほうが高いのです。

ここに2つの例を挙げて説明します。

仏教では、
心願成就の意味と由来
あなたは今、どんな夢を抱いていますか? キャリアアップ、
新しい趣味の習得、家族との幸せな時間。
私たちは日々の忙しさの中で、これらの目標や夢に向かって
一歩一歩進んでいますね。

意味
心願成就は「しんがんじょうじゅ」と読みます。
大願成就(たいがんじょうじゅ)とも言い、どちらも同じ意味で使われます。
「大願」も「心願」も、神仏にかける願いのことです。
仏教で多くの人々に悟りを得させるという大きな願望を指します。
「成就」は成し遂げること。転じて一般に「大きな願望が成し遂げられること」
を意味します。

由来
この言葉は、仏教用語でもあり、日本の伝統的な文化や宗教的な
背景から生まれたもので、願い事が叶った時の喜びや達成感を表現しています。
例えば、仕事での昇進、新しい家族の誕生、長年の夢の実現など、
人生の大きな節目でよく使われます。

また夢を叶えるで有名なスピーチがあります。
スティーブ・ジョブズ「伝説のスピーチ」スタンフォード大学より。

皆の時間は限られているから誰か他の人の人生を生きることで
時間を無駄にしてはいけない。教条主義の罠にはまってはならない。
教条主義とは他の人々の思考の結果に従って生きることです。
他の人の意見という雑音に自分自身の内なる声をかき消されないようにしよう。
そして最も重要なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。
心と直感は本当になりたい自分をどういうわけか既に知っています。
その他すべてのことは二の次です。

私が若い頃、全地球カタログという驚くべき出版物がありました。
私の世代の必読書の一つでした。
スチュアート・ブランドという人物が、ここからそう遠くない
メンロ・パークで制作し、詩を思わせる作風を施して世に送り出した
1960年代後半でパソコンもそれによる印刷もなく、
タイプライターとはさみとポラロイドカメラだけで作られていました。

グーグル誕生の35年前のペーパーバック版グーグルのようなものです。
理想に満ちていて、巧妙な道具や偉大な概念が溢れています。
スチュアート達は全地球カタログの版を幾つか重ね、自然な成り行きとして
最終版を迎えました。

それは70年代半ばで私は皆の年齢でした。
最終版の裏表紙は朝の田舎道の写真で、冒険好きがヒッチハイクを
していそうな場面です。その下にこんな言葉があります。
「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ」。

これはスチュアート達が活動を終えるに当たっての別れの言葉です。
ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。
そして私は常にそうありたいと願ってきました。

そして今、皆が卒業して新たに歩みを始めるに当たり、
皆もそうあって欲しいと思う。
「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。」

普通のサラリーマンをやりながら、趣味のツーリングを楽しみながら、
長年の夢を叶えたギターリストが居ます。
1年半をかけて制作された自身のギターアルバムreverb「Color of note」を、
いただき早速聞きました。

そんな彼に視聴後すぐに感想を伝えました。

須崎充さんへ

昨日いただいたCDの感想です。
私の時代はインストルメントギターといえば、
サンタナとジェフベックの時代でした。
日本では少し遅れて高中正義、山本恭司、Char、武田和夫、
高見沢俊彦へと続きます。
ちなみにヤングギターの初代編集長山本隆さんは長年の友人です。

サラリーマンをやりながらツーリングをして音楽活動、
1年半かけてアルバムの制作最高の人生ですよね。
ギターのテクニックも充さんの人間性が溢れています。
結構ロマンチストですよね。笑い

アルバムの内容は良質なギターサウンドと馴染みやすいメロディーだなと
率直感じました。とても良い作品だと思います。

これほとんど全部自分で制作しましたか?
それとも全編バンドが参加していますか?
納得するまで何回も録りなおした形跡が伺えます。

それにしてもこのCDをかけながら夏の海岸をドライブしたら最高でしょうね。
これからも頑張って作品作りに励んでください。

稲葉より

夢を叶えるために多くの人が見えない努力を続けています。
惜しみない拍手とエールをお送りします。


芸術とは




芸術とは「本音」と「足跡」と「未来へのメッセージ」である。
人間としての本音、人生の足跡、後世に残るメッセージを総称していう。

「古代人の壁画」
先史時代のヨーロッパで洞窟に暮らしていた人々は、
壁画を描く際、幻覚を見るために自らを酸欠状態にしていたことが、
明らかになった。研究者たちは長年にわたり、世界の太古の壁画の多くが、
なぜ洞窟の入り口から遠く離れた真っ暗な場所にあるのか、
疑問に思っていた。

「後期旧石器時代の人々は、深い洞窟の内部を日常的な生活には
ほとんど使わなかったようだ。そうした活動はもっぱら野外や岩陰、
洞窟の入り口付近で行われていた」
さらに「壁画は、洞窟の深くて暗い部分だけで描かれたわけではないが、
そのような場所で描かれたものには極めて印象的な側面があり、
そこに焦点を当てて研究を行った」と付け加えている。

論文の共著者であるラン・バルカイ(Ran Barkai)は、
洞窟内を明るく照らすために火を使うと、
同時に酸素濃度も低下させることになったはずだと言う。
このような状況で絵を描くことは、万物とつながるための
手段として意図的に行われていたと指摘する。

壁画を描いた人々は、岩肌がこの世と豊かさや成長を象徴する
あの世とつなげる入り口だと考えていたのだろうと、
バルカイは語っている。さらに、壁画が一種の通過儀礼にも
使われた可能性があることも示唆している。

アルタミラ(スペイン)やラスコー(フランス)の岩窟に描かれた壁画、
これらのすばらしい壁画は、およそ4万年前から1万4千年前のものであり、
マンモスやバイソン、アイベックスなどの動物が描かれている。

「縄文土器」の名前の由来は、大森貝塚を発掘したアメリカの
動物学者、エドワード·S·モースが、報告書で「cord marked pottery
(縄目をつけられた土器)」と記したことに始まり、
日本語訳されたことで縄文土器といわれるようになります。
日本の新石器時代は、縄文土器にちなんで縄文時代と
名付けられていますが、縄文時代の土器すべてが縄目文様を
もつわけではなく、さらに縄文時代を通じて土器に縄文を施さない
地域もあるため、約1万6000年前~約2400年前まで続いた
縄文時代に作られた土器を縄文土器と呼ぶことが一般的です。

旧石器時代には常に移動を繰り返しながら
狩猟採集の生活を送っていましたが、
縄文時代になると定住生活が始まります。
これは気候の温暖化が進み、食べ物が豊富となったからと考えられています。

そして土器が発明され、狩猟採集で採った食料の調理や
貯蔵に利用されたのです。
土器の利用により定住が可能となり、また逆に定住生活に
伴って土器の保持や使用が可能になりました。

信仰や祭祀にまつわる土製品も多数見つかっています。
信仰に関わる土製品には代表的な土偶のほか、土器片を再利用して
人形状土製品や鏃状土製品、土製円盤、土器片錘などが作られました。

土偶とは人物をかたどった土製品です。女性像が多いのは、
豊穣や子孫繁栄と関係する呪術的な儀式の対象として、
安産や獲物の豊富なことを願うために使用されたという説があります。

縄文土器は縄目をつけた文様が代表的ですが、
縄文土器の文様は、世界の先史時代土器のなかでも
その多種多様な装飾性の高さが特徴的とされています。
植物繊維を撚った縄を、器の表面に押し付けたり
転がしたりしてつけたものが、縄目文様です。
縄目文様以外に、爪で模様を付けた爪形文やササの茎·
動物の管骨などを使った竹管文、貝殻を使った貝殻条痕文などがあります。
まさに実用性もさることながら芸術性の高さにも驚くばかりです。

芸術を難しくとらえる必要はありません。
個人の感情が人々の暮らしの中から沸き起こる作業が芸術です。
常人では想像つかない構図と技法を使い本音をぶつけるのです。
またそれらはその時代には評価されず後世になって初めて評価されます。
まさしく未来に残すメッセージだったのです。

最後に岡本太郎からの一言
芸術の三原則、芸術は「きれいであってはいけない。
うまくあってはいけない。心地よくあってはいけない。」
分かりますか?とても蘊蓄の有る言葉です。
伊丹谷良介もこの言葉を引用して芸術を語っています。

昨日3月9日(土)18:30分開場・19:00開演
恵比寿 BAR Voices
伊丹谷良介「うた」3月のテーマは「芸術」
M-1うた、M-2未来の華、M-3Hello Mr Asian、M-4デジタリアンラヴ
M-5生命、M-6月光浴、M-7Wo Ai Ni、M-8愛の銃弾、
M-9愛と光導かれてM-10、Yes、M-11、life is Art芸術は長く人生は短し
少人数のファンを対象にロックサロン「うた」を毎月開催。
それはメッセージ性の高いライブを終えた後に観客と対話を楽しむ為。
我々はこれを新しくサロンスタイルのライブと名付けたい。

伊丹谷良介は自身の心情と価値観を忠実にロックで表現している。
アーティストとしてではなく一人の人間として世の中に問い続けているのである。
1月「ブッダ」、2月「生命」、3月「芸術」これらの難しいテーマを、
映像とナレーションを絡み合わせて、シーケンス音源にギターとピアノの弾き語り。
今月で3回目のライブになるが毎回グレードアップをしている。

商業的なライブであれば完全に赤字である。
その為に全てを独りで作り出している。
並々ならぬ制作能力と豊富な知識がなければ完成されないライブである。
このライブの醍醐味は参加してみないと分からない。
静かに音楽のマグマが動き出しているのを現場で感じてください。
昨日のライブは芸能と芸術が大きく変わる予感のする感動がありました。

毎回、告知と同時にチケットは完売します。
次回の予約もお早めに!!
次回のテーマは「科学」です。


←Older