人生というボードがあればその中の一片となる覚悟があるか?
初めから自分を中心に置くから活躍の場が見えなくなる。
そして絶望をする。
どの世界にも必要とされる部分(一片)があるが、
親も教師も中心になることを半ば強制的に教え込んでくる。
一番になることが尊いかのような教育は落ちこぼれを作るだけで、
勝ち組負け組など馬鹿な言葉も生まれてしまうだけである。
私は貧しい家庭で育ったので食べるのが精一杯の暮らしだった。
小遣もないので友達と楽しい思い出も作ることが出来無かった。
教室に行っても同級生が幼く見えてクラスで逸(はぐ)れるしかなかった。
かといって騒ぐばかりの悪ガキで無かったので結構人気があった。
今の境遇だと自分は社会の中心にはなれないから脇役を目指すことにした。
一流の脇役を目指す決心をしたから、悪い意味での「上を目指すだけ」の
意識は消えた。俺は俺はという意識を決して曲げなかった。
しかし、表面上は「言いなり」に徹した。
一見するとお調子者の馬鹿である。道化師に徹したのである。
その時に私の好きな言葉あった。
『われは 木偶(でく)なり 使われて 踊るなり』
これは、文化勲章を受章した画家・詩人、中川一政氏の随筆の中に
出てくる言葉です。
この言葉の木偶(でく)とは、『木の人形』という意味と、
『役立たず(でくのぼう)』という二つの意味が込められています。
『私は無能な人形であり、人に使われて踊らされるだけの、下卑た存在である』
自嘲的に解釈いたしますれば、上記のような意味合いではなかろうか…
と思うのですが、冒頭を『われ(我)』とせず、相手方を意味する
『われ(貴様)』と解釈いたしますれば、
逆に相手を侮辱する言葉と化してしまいます。
何れにいたしましても、自分や相手を中傷する意味の言葉のように
思う事しかできませんでしたが…
しかし…
この言葉は、自分を超えたところにあるものに対し、
己の全てを任せるという意味として解釈するべきでは…と、
思い直すことができる昨今の自分でございます。
意味を…『導かれるがままに、私は従う』
故に…『無心になり、やるべきことを一生懸命にやる』
この心境を得ることこそが、中川一政氏の綴った本来の目的ではなかったのか…。
そんなことを思いながら、未だに悩み苦しむ己の迷路に自ずと
道を開かせようとしている情けない自分。
われは 木偶なり、使われて 踊るなり
プロデューサーという脇役の道を選んだのだから心に悔いは無かった。
徹底的に脇役を目指したのです。
世の中は言わずとも多くの人の集合体です。
気の置けない仲間が集まれば大きな夢を叶えることが出来るのです。
世界的大ヒットの漫画&アニメの「ワンピース」は、
一人一人の能力を「組み合わせ」れば願い事は必ず叶う。
それを伝えたかったのだと思います。
今の時代は縦の組織ではなく横つながりの仲間の組織の時代です。
エンパワーメントが訴える個人の能力の組み合わせです。
先日、久しぶりに素晴らしいライブを見ることが出来ました。
2023年9月25日(月)fEAr Lounge ZERO
【ニシハラトマムとゆかいな仲間たち】
Dr.西原冬馬夢
[Special GUEST)
Dr.岡本郭男
Vo,伊丹谷良介
Vo, Momo Ando
Ba.日野 JINO賢二
Gt.MasaShimizu
Gt.Tommy
Gt.TakaU (from tUM€ GREAT:DAMN)
Ba.大河(from札幌 GREAT:DAMN)
Gt.藤田響心
Ba.加山桂護etc…
Drニシハラトマム・初プロデュースのライブでした。
彼とは何度か話をする機会があって、
多分チャンスがあるのならチャンスに乗るのも人生だよ。
辞めるのはいつでも出来るから、辞めない選択もしなさいと言った記憶がある。
先輩アーティスト伊丹谷良介の応援のもとチャレンジを続けなさい。
昨夜のライブは緊張と興奮の入り混じったスタートから、
仲間たち(素晴らしい先輩達)と後輩たちに見守られながらの
最高のステージを展開した。
ニシハラトマムの性格の良さが先輩も、後輩も、観客のみんなも
巻き込んでグルーブが一体となった。構成も選曲も自然の流れだった。
見事だった。
Vo、伊丹谷良介とMomo Andoの歌声に観客は酔いしれた。
最後まで惜しみない拍手を送っていた客席のみんなもステージの一員になった。
偶然、出会った世界的有名なカメラマン、ハービー山口さんと、
「日本でもこんなに良いライブが出来るようになったのだね」と、
印象をおなじにした瞬間である。
そして彼は立ち上がり手持ちのカメラで写真を撮り続けていた。
みんな「我一片なり」そのピースが集まるとこんなに素晴らしい、
感動的なコンサートが出来るのです。
「音は外しても客の心は外すなよ」
その日はしっかりとお客様の心を掴んでいました。
みんなのこれからの活躍を期待しています。
9月 28th,2023
恩学 |
我一片なり はコメントを受け付けていません
「知る」ということを会得する為には「読む、書く、話す、繰り返す」が必要です。
噂を耳にして知っているというのは、聞いたというだけで知ってはいません。
インターネットやテレビなどで流れて来る情報は、
聴いた!見た!というだけで記憶には残りません。騒音と同じです。
目標や目的も実行が伴わなければ「願う」ということだけです。
予定を組んだとしても行動が無ければ「無いものねだりの神頼み」です。
自身の経験や達成が積み重なることにより「叶う」になっていくのです。
「感即動」
興味があり感知した時には行動が伴わなければ「知る」機会を失います。
そして「知る」を会得したら「気づき」が起こるのです。
外部からの情報が無くても、自分自身の予知が出来るということです。
気づきは創造力が無ければ気づくことは出来ません。
世間でいうところの「人寄せ」は出会ったときに縁があると感じることです。
人の出会いは一瞬早からず又一瞬遅からず
出会うべき人には必ず出会う
しかし、求める気持ちが無ければ
運命の人も目の前を通り過ぎる
森信三
私は何度も若い時に偶然の出会いに恵まれました。
ジャズの伝説的な巨匠であるドラマーのエルビンジョン、
ギターリストのバニーケッセル、シンガーのジェームステーラー&アルスティワート。
レストランで紹介され、ジャズクラブで声かけられ、
百貨店で買い物途中に出会い、音楽キャンプで目の前に座っていた。
私が会いたいと思ったら会える。
勿論、英国に行かなければそんな偶然も起こりません。
憧れの人に会いたければその人の近くへたどり着かなければなりません。
たとえ会えなくても気持ちの上では出会ったと同じ満足感も生まれるのです。
禅門には「冷暖自知(れいだんじち)」という言葉があります。
自身が直接的に冷たい、暖かいということを体験し、実感する。
また、その体験した実のところは他者に伝えることができない」
という意味です。
例えば、ここに冷蔵庫で冷やされた水と40℃のお湯をお湯のみに入れて
二人の方の前に出したと致します。
それを眺めながら、「こっちがお湯で、あっちが冷水」
いや「こっちが冷水で、あっちがお湯だ」と互いが互いに検証し合ったところで
無駄に時間が過ぎてしまうだけでしょう。
理屈で証明できないことはありませんが、明確でしかも早いのは
それぞれのお湯のみの中身を飲んでしまうことではないでしょうか。
一口飲めば、冷水かお湯かは人から面倒な理屈で説明されるまでもなく、
どのくらい冷たい水なのか、どのくらい温かいお湯なのかを、
私自身が実感を伴って知り得るのです。
人からどんなに事細かに教えられたとしても、実感を伴って
私自身が知り得ることはありません。
この実感を伴って知り得ることが大切なのであります。
また、「冷暖自知」だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、
そのとき一所懸命に実感を伴って知り得ようとする姿勢であり続ける
ことが大切なのであります。
気安く知り得ていると思い込まない。謙虚に知り得ようとする姿勢であり
続けることで、より様々な体験・経験を積み重ね、気づき、
当たり前のことが実は有ることが難しいこと、すなわち有り難いことに気づいていく。
そうなりますと、今まで見えていた風景も違ってくるのではないでしょうか。
ある寺の禅僧が毎月お参りに伺うご高齢のお檀家さんがいらっしゃいました。
そのお檀家さんとの何気ない会話の中で「80は80なりの、
90は90にならなければ知り得ないところがある」といわれました。
若かったときの様々な苦労や楽しかったことを積み重ね、
そして今、身体の老いや親しい友人がいなくなるといった様々な苦しみや
寂しさを味わっている中だからこそ、あのときは見えなかったものが、
今では少し見えてくるようになり、目に見える風景も随分と変化するものだと
教えて下さいました。
自らが自らの体験・経験によって実感として知り、気づき、
会得することが「禅」では大切であります。
だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、
私自身が知り得ようとする姿勢であり続けることが肝要であります。
それが「知るということ」ではないでしょうか。
「知る」を邪魔するのは好奇心の欠如です。
そんなこと知っても時間の無駄だし何の役にも立たない。
あなた自身の心から興味を消しては駄目です。
触ってみなければ熱さ冷たさも分かりません。
9月 28th,2023
恩学 |
思考の先回り(気づく) はコメントを受け付けていません
高校生のアマチュア演奏家と話し合しあう機会がありました。
北海道から安いチケットを購入して東京のライブ会場に来たという事でした。
彼らがプロの演奏家の間に入り一生懸命演奏している姿に感動しました。
大勢のお客様の前でも物おじしないのにはびっくりです。
今は上手になる環境が整っているので驚くほど演奏が達者です。
ネットで憧れのアーティストの画像を無料で見ることが出来るので、
演奏スタイルを真似することが容易にできます。
その上に楽器の手入れから、機材の使用方法から、演奏テクニックまで
解説しているサイトもあります。
我々の時代では、レコードを聴いてコピーして覚えることしかできなかった、
そしてコンサート会場で指の動きや音の出し方を見て学ぶしかなかったのです。
それよりも高校生が東京へ行き、ロックのライブに出演したしたとなると、
紛れもなく停学の時代でした。ロックイコール不良だと決めつけられていた時代です。
アーティストの友人伊丹谷良介氏から一言アドバイスをしてもらえないか
ということで話をしました。
「自信を持ちなさい!好きなことをやっているのだから臆病にならず自信を持ちなさい」
今はとりあえず憧れの演奏家の真似を徹底的にしなさい。
そして、少しでも発表する場が出来れば、思い切りお客様の前で持てる限りの
テクニックを披露しなさい。その覚悟が必要です。
周りから何を言われても気にすることは無い、
自分の望んだことをやっているのだから自分をしっかりと見守りなさい。
一番大切なことは自分の演奏がお客様の呼吸感と同じようになることだ。
アマチュアは自分が気持ち良くなることで満足するが、
プロはお客様の気持ちを良くして満足する。
だから「音程は外してもお客様の気持ちは外すなよ」
呼吸感とは、自分が悩みを抱えているなら、お客様も同じような悩みを
抱えていると思いなさい。
雨の日は憂鬱になり、晴れの日は快適になる、
失恋すれば悲しいし、それぞれみんな悩みを持って生きているのだ。
お客様も音楽によって一瞬でも悩みを忘れたいと
遠いところから見に来てくれているかもしれない。
よい音楽は人の心を癒してくれるのです。
「練習は自分の為に本番はお客様の為に、
そして夢と喜びを提供するのがプロです」これを忘れないように。
そのような話をしている時にこのようなことを思い出しました。
参考に掲載します。
昔から「若いときの苦労は買ってでもせよ」ということわざは
皆さま方もよくご存じのことだと思いますが、
昨今、なかなか聞かれることが少なくなったように感じます。
なんでも簡単にできてしまう現代社会において、身を以て経験し、
苦労をして体得することは時代遅れ、非効率、無駄なものとされているように
感じるからでしょうか。
そんな現代だからこそ、より一層大切なことに思います。
利休居士の訓(おしえ)をわかりやすくまとめた『利休道歌』に
「規矩(きく)作法、守りつくして、破るとも、離れるとも、本(もと)を忘れるな」
と記されております。
まずは師から教わった型を徹底的に真似て、学び、
「守る」ところから修業や鍛錬といった下積みが始まります。
そうして師の教えに従って、修業・鍛錬を積み重ね、その「型」を体得致します。
その後、師の「型」をはじめ、他の「型」も自身と照らし合わせ、
工夫し、悩み、もがき、苦しみを乗り越えることで、自分らしい「型」を模索し、
はじめて既存の型を「破る」ことができるのであります。
さらに修業・鍛錬を積み重ね、かつて教わった師の「型」と
自分自身で見出した「型」の双方に精通することで、
既存の型にとらわれない「型」から「離れ」、自在となることができるのです。
しかし、「本(もと)を忘れるな」とある通り、「型」を破り離れたとしても、
その奥深くにある根本の「本」を見失ってはならないのです。
まして、基本の「型」を会得しないままに、
いきなり個性や独創性を求めることは、いわゆる「形無し」なのです。
十八代目中村勘三郎さんの座右の銘
「型があるから型破り、型が無ければ形無し」といわれる所以です
中国の古書にも、
「一般的に百の技は功に始まり拙におわる功と拙が合わさり神妙となる」
名人と言われる人の作品ほど稚拙に見えることが多いのです。
その逆に未熟な人ほど技巧に走り派手に見せようとするから技が多いのです。
「型」を守り、「型」を切り離しても、「本」を忘れるなよということです。
好きな音楽も、良い音楽も、売れる音楽も、アーティストは、
お客様と対峙して感動を作り出すのが仕事です。
正しい「型」を習得しましょう。
9月 28th,2023
恩学 |
型をつくる はコメントを受け付けていません
憧れの人、憧れの職業、憧れの人物、憧れの生き方など様々な憧れが存在する。
それらの人に近づくには成りきるしかないのです。
ボーッとしている人生では、憧れは遠くて手に入れることは出来ないが、
憧れの人に成りきることで身近になりやがては憧れの人を追い抜くことにもなる。
子供は子供らしく、大人は大人らしく、男は男らしく、女性は女性らしく、父親は
父親らしく、母親は母親らしく、憧れの人を想定して、その人に成りきるしかない。
憧れの人と喜怒哀楽を共有すれば苦しみも辛さも乗り越えることが出来る。
生きるとは学ぶことではない、生きるとは真似ることなのだ。
先ずは「心と姿を真似よ」ということです。
例えば一流の料理人を目指す場合は目標とする料理人を探す。
出来る限りの情報から料理人の一挙手一投足までをデーター化する。
料理人の普段の生活から、食材の仕入れから、調味料の種類や適量を調べだす。
どのタイミングで調味料を加えるかも調べ上げ、使う調理器具から、
仕上がった料理を乗せる食器まで事細かく追及していく。
彼の繊細な性格は普段のくらしの中にも必ず反映しているはずである。
どのような暮らしをしているのか、どのような服装をしているのか、
どのような考えを持っているのか、ところから次の料理のレシピを考え
出しているのか事細かく調べ上げる。
勿論、彼の料理を何度も食べることは述べるまでもない。
例えば一流のカメラマンを目指すなら、目標とするカメラマンを探し出さなければなら
ない。
彼の作風の何に惹かれたのか、何が感動を作り出したのか、使っているカメラは
何処のメーカーの物か、フイルムは何処のメーカーの物か、現像は自分なのか、
それともお気に入りの現像所があるのか?
彼は写真で何を訴えようとしているのか?
彼がカメラに取りつかれたのは、どのようなきっかけだったのか、
いくつかの作品を見ながら答えを出していく。
沢山のカメラマンを目標とする必要はない。たった一人のカメラマンを追求すればよい。
私は一流のプロデューサーを目指すためにビートルズのプロデューサー、
ジョージ・マーティンやマイケルジャクソンの・クインシージョーンズを
少ない情報の中から調べ上げた。
プロデューサーが音楽を制作するのは当たり前だが、それらを売り込む手だてまで
考えていたのを知った。
そこには衣装からライブパフォーマンスまで、果てはステージの演出まで
アーティストを売り出すために彼らは多岐にわたる才能を発揮していた。
私がレコード会社に入った当時は、制作は作詞・作曲家と編曲者が作り、
売り込みは営業と代理店が行っていた。
全て分業と流れ作業による商品の販売だった。
私は日本で最初のプロデューサーとしての自負がある。
アーティストの発掘から、制作、宣伝、営業、地方への売り込みまで全部仕切ったのである。
愛情を持って育て上げたアーティストは、見つけた才能を見出した人間が、
担当するのは当たり前なのだが、日本のレコード会社のスタッフはそれが出来なかった。
一流の大学を出て音楽会社へ入ってきてもアーティストとのコミュニケーションが
苦手だった。
私は学生時代にバンドを組んで活動をしていたのと、ロンドンへ行って現地の
音楽シーンを生で目撃したのが功を奏したのだと思う。
先日の「老人と孫」のトークショーで主賓の煎茶道黄檗売茶流の先代中澤弘幸氏から
黄檗禅での「成り切る」について話がありました。
修行中の僧の見習いが幾らトイレ掃除をしても、先輩禅師から何度もまだきれいに
なっていないと言われて時の話です。お前は掃除をしているつもりでいるが、
一向に綺麗にならないのは、お前は見える汚れを取り除いいているだけだ。
「トイレ掃除はトイレの便器になりきれ」ということであったと伺い、
大変興味があり私なりに黄檗禅で検索をしたところ同じような記述見つけました。
「臨在禅・黄檗禅/公式サイト・臨黄ネット」より
拙寺に於きましては先住職の時代(昭和40年~60年頃)、高校生を中心にして、
30名程が毎月一度、金、土、日曜日の2泊3日、寺へ泊まり込み、
盛んに坐禅会が行なわれていました。
私はまだ小学生でしたが、坐禅会の日がくると一緒に坐っていた
というか、坐らされていたというのが正直なところで、大変苦痛でありました。
最終日の日曜日になると粥座後の作務で坐禅会が終了ということになるのですが、
今になって考えてみますとまだまだ16、17、18歳の高校生です
修行僧のように徹底して作務に集中することなどできません。
ただ箒を持って突っ立っている者、うろうろしている者、草を引いているのか
喋っているのかわからない者、
雑巾を濡らしているだけの者、さまざまであったように思います。
そういう時によく先住職が大声で学生に言っていた言葉が、”成り切れ”と
いうことでした。「箒を持てば箒に成り切れ、雑巾を持てば雑巾に成り切れ、成り切れんから喋るんじゃ、掃けんのじゃ、拭けんのじゃ」と、作務に成り切れということでした。
私もその頃少年ソフトボール部に入っており、先住職は少年ソフトボールの選手に向かい
「おまえさんバットで打とうと思うとるじゃろ。
バットを持ってこのバットで打とうと思うとるから打てんのじゃ、
おまえさん自身がバットにならにゃいかん、
自分とバットが別々だから打てんのじゃ。バットを持てば自分がバット、
バットが自分となって、ピタッと一つになったら打てる」と答えを出しました。
その後この学生が打てるようになったかは知りませんが、
これも”成り切れ”ということであったと思います。
“成り切る”とは、物と心が一つになるということです。
人馬一体などといわれますが、人と馬が一つになってこそ良い結果が生まれてきます。
車と一つになればこそ安全な運転ができるのです。
靴と一つになればこそ、脱いだ瞬間無意識に玄関の履物は揃っていることでしょう。
服を脱げばきちんと片付けられているでしょう。そういう日々を送っていきたいものです。
それが禅的な生活(くらし)ではないでしょうか。
私の「成り切る」の経験と禅の世界での「成り切る」が偶然一致した瞬間でした。
相手を思いやることも大切ですが、相手の気持ちに成り切ることがもっと重要です。
そして成功を計画するのなら、失敗も想定してください。
憧れの世界へ入っていくのですが、成功体験を目指し過ぎると思わぬ落とし穴に
陥ることにもなります。形では問題なくとも環境や時代性や物流のやり取りが
違うからです。
それでも憧れの世界へ入りたいのなら失敗も想定するべきです。
事前にうまくいって成功した場合と、うまくいかなくて失敗した時の状況を
作っておくのです。そうすることによって万が一の場合も慌てることは無くなります。
いくつになっても挑戦は楽しいものです。皆様も「成りきり」ながら
毎日を楽しく過ごしてください。
9月 26th,2023
恩学 |
成り切る はコメントを受け付けていません
倒れたら倒れたなりに咲かせる花がある ~下載清風~
禅の言葉に「下載清風」(あさいのせいふう)という教えがあります。
今にも沈みそうなほど荷物を載せた船は重々しく、
思うように前に進むことができません。
重荷を港に下ろして軽くなった船は、追い風を帆に受けて前に進みます。
夏が過ぎお彼岸が近づいてくると、彼岸花が土から芽を出し天に向かって
鮮やかな赤い花を咲かせます。鮮やかなその花の色だけではなく、
神秘的なその姿は「曼珠沙華」=「天界の花」として仏教でも親しまれてきました。
妖艶なその形姿に目を奪われた方も多いのではないでしょうか。
臨済禅・黄檗禅公式サイトより
高校三年生の秋、ラグビーをしていた私は、
高校生活最後の大会に向け日々汗を流していました。
最後の大会が始まる二ヶ月前の九月のこと、
私は練習中に右の足を骨折してしまいました。
私は、「レギュラーとして最後の大会に出るために、これまで励んで
練習してきたのはなんだったのだろうか。」と、
まるで暗闇に突き落とされたかのように深く落ち込み、
ラグビーボールを見ることすら嫌になってしまいました。
何も考えられず呆然と数日過ごしている内に、やがて台風が来襲してきました。
強風が吹き荒れ、木の葉や枝があちこちに散乱し、
チラホラと咲き始めていた彼岸花も根元からなぎ倒されてしまいました。
その数日後のことです。松葉杖を突きながら境内を歩いていると、
台風で根元から折れた彼岸花が先端を再び天に向け、
倒れながらも燃えるように鮮やかな赤い花を咲かせていたのです。
私はその時、胸がぐっと熱くなったのと同時に「あーっ、これだ!」と心の中で
叫んだのです。そして、心が折れたまま何もできない自分を恥じたのです。
それまで「高校最後の大会までレギュラーでいたい」ということに
執着していましたが、倒れても尚、上を向いて一生懸命に花を咲かせる
彼岸花の姿をみてレギュラーでいるこだわりがスッと消えて
心が軽やかになったのです。
それからは、練習はできなくてもチームの為に練習前にボールに空気を
入れることができるのではないか、
練習中にチームメイトが飲むドリンクを準備することが
できるのではないかと気付き、
積極的に裏方の仕事ができるようになったのです。
すると、今まで当たり前のように蹴っていたボールも、
喉が渇いた時に当然のように飲んでいたドリンクも、
人並みに走ることができたこの脚も、
すべて有り難いことだったのだと気付くことができたのです。
高校生活最後の試合にグラウンドに立つことは叶いませんでしたが、
倒れたら倒れたなりに咲かせる花があることを、
あの彼岸花から学んだ気が致します。
わたしたちはついつい余計なこだわりや執着にしがみつき、
気付けば重たい荷物を背負ってしまいがちです。
その重たい荷物を下ろしてしまえば、心に清々しい風が吹き足取りも
軽やかになるのではないでしょうか。
現状の地位や名誉にこだわり縛られる人生を解放しませんか?
私たちは何のために生きて、何ために死んで行くのでしょうか?
どのような時にでも置かれた場所で花咲くことを忘れないようにしましょう。
私は帰国後CBSSONYで初めて仕事をした時に最初に考えたのは、
「人の嫌がる仕事」を率先して行うことでした。
英国帰りが気取るのは簡単ですが、そうでなくて新人は新人らしく、
仕事に没頭したのです。
スタジオの散らばったコードの片付け、コントロール・ルームの
汚れたテーブルの片付け、灰皿やゴミの片付けなど率先して行ったのです。
時にはお客様のお弁当の手配から送迎のタクシーの手配までしました。
今の自分は人並みの仕事をこなすことは出来ないから、
人の嫌がる仕事は全部引き受けようと思ったのです。
大切なことは指示されたから動くのではなく、指示されなくても、
スタッフの一員として出来ることを自ら探して行うことです。
その当時、同僚から笑われたり、馬鹿にされても気にはなりませんでした。
何故なら自分の生きる目標はこんな低いところには置いてなかったからです。
一日も早くいい仕事はしたいけれども未熟な自分は手伝うことしか出来ないからです。
何もしなくて手を挙げなければ誰もあなたに注目はしません。
英国で学んだことは常に自分の意思は、
自分で伝えなければ見過ごされてしまうことです。
今ある場所でどんな仕事でも一流になれば、必ず次のステージとつながります。
大切なことは何事においても真剣にベストを尽くさなければ成功にはつながりません。
逆境に花咲くことが最も大切です。風に押し倒されても立ち上がる精神が必要なのです。
下載清風(あさいのせいふう)
風に倒されても負けずに天を向くことが大切です。
この気持ちがあれば辛い人生も楽しく過ごせます。
曼珠沙華の花咲く季節にて
9月 26th,2023
恩学 |
~下載清風~ はコメントを受け付けていません
願いはこうありたいと思うことであり、祈りは手に届くことのない無限の世界です。
希望の学校へ入学する、望む会社へ就職する、
好きな人と結婚するは願えば叶うことである。
しかし、世界から戦争や貧困がなくなれば良いと思うのは祈りなのです。
環境問題にしても個人が、団体が、国家が努力しても解決できない問題である。
自分たちでは解決できないことは神や仏に祈るしかないのです。
しかし、あまりにも願いや祈りに囚われてしまうと、
心身ともに身動きのできない状態になる恐れがある。
解決の行動無くして意識だけを働かせるのは無意味である。
困った時の神頼みのように、その場限りの祈りでは何も叶わないのである。
無心になること。
目の前の欲に囚われてジタバタすることのないように無心になること。
日々解決しなければならない雑事に意識を向けるから、
幾ら目標や目的を設定しても叶うことは無い。
無心の願いの先には終わりのない願いがあるのである。
一番恐れなくてはならにないのは、いくら悩んで立ち止まっても、
大切な時間が過ぎるということである。
人生の貴重な時間が何もしないうちに消えていくことである。
世間の常識で生きているとつねに「見栄を張る」ことに時間が使われて、
本来の自分が求めることに時間が使えなくなる。
金銭に溺れて、愛情に溺れて、あらゆる欲望に溺れてしまわないように、
自己の確立を図るのである。
その為に禅という世界があり、禅は悩みの相談口なのである。
人間の頭では解決できないことを、
一心に修行を積み重ねた禅僧の言葉にこそ解決の糸口がある。
臨在禅・黄檗禅公式サイトより
俗世間的な願いには時間的な制限がある。つまり、その願いが叶ってしまえば、
その願いはそこで終わりであり、また次の別の願いが生まれる。
その瞬間、前の願いは過去のものとなり、そこに捨て置かれるというのです。
一方、永遠の願いには、文字どおり終わりがありません。
叶うことのない願いなど意味がないように思えますが、逆に言うと、
これは叶う叶わないことを超越しているということです。
願いは当然、叶えることが目的にあるのですから、
そこに向かって進んでゆくことになりますが、
その願いが一旦成就されると、
その歩みはそこで止まってしまいます。
目的地を設定している以上は、目的地に到達してしまうと、
当然、その旅路はそこで終わりとなります。願いがあったということは、
もともとそこには何かしらの理由や思いというものがあったはずです。
しかし、目的地に到達することしか意識しないようになると、目的地に到達した瞬間、
その出発点や道中にあったものは、どうしても忘れ去られてしまいます。
無心の願いとは、それを嫌っているのです。
ゆえに禅では目的地を設定しません。目的地に到達することよりも、
その歩みそのものが重要なのであって、且つ願いとその道程は不可分であるという
のです。
山登りをして頂上に到達したとしても、その道中がなかったことには
なりませんし、帰りの下山がないことにはなりません。
無心の願いは、たとえ願いが成就してもその歩みを止めることはありません。
成就してなお、その願いは自分の中に生き続けます。
願いの叶う叶わないを超越するとは、その成就に固執してしまい、
人生の本質を見失ってしまうことを忌避することを意味しています。
これを鈴木大拙は「成就することのない永遠の願い」と言うのです。
私たちの人生を鑑みてみると、子供から大人になる過程で、高校受験や大学受験を
目標に勉強することもあるでしょう。では、晴れて受験に合格して入学できたら
それで終わりかというと、もちろん違います。
入学のあとの卒業や就職が最終目標かというと、これももちろん違います。
人生とは、終わりのない道のりです。限定的な目的や低い目標は、
自分の限界を決めてしまいます。
自分の限界を決めるとそこで成長は止まってしまいます。
大拙は続けます。どうしても手の届かぬところのあるものが祈りなのです。
いくらやっても駄目だから、よそうというような祈りでは、限りある世界でこそ
意味あるかもしれぬが、駄目なものをくり返し、くり返しやる心、
その心は実に、弥陀の本願の世界に生きているものでないと分からぬのである。
(鈴木大拙『無心ということ』
北海道の高校生2人がギターとベースを抱えてやって来た。
勿論、LCCの格安チケットを手に入れてやって来たのだから、
眠る場所も漫画喫茶のような深夜営業の店で眠るしかない。
(実際には当日先輩アーティストが自宅に留めて観光案内もしていた)
しかし、彼らはもう何か月前から計画をして、友達といろいろ話し合いながら、
興奮して銀座のライブハウスに辿り着いたのである。
彼らにとっては東京が目的地であった。それを叶えたのである。
田舎育ちの少年たちにとって東京は別世界であったに違いない。
先輩アーティストの声かけに応じて東京お客様の前で演奏できるのは、
まさに天国に登る気持ちであったに違いない。
そしてそこからまた新たな目標が始まったのである。
彼らの願いが叶った瞬間に立ち会えたことに感動を覚えた。
純粋な少年たちはこれからが人生の旅の始まりである。
9月 26th,2023
恩学 |
願いと祈り はコメントを受け付けていません
人間関係は全て「想像力」に基づいて行われています。
何事にも想像力を働かせなければならないということです。
言葉が伝達のツールだと教えられて、言葉の持つ力を過信してしまうと、
おもわぬ誤解を生むことがあります。
なぜならなら他人(ひと)は自分の聞いた言葉を自分なりに解釈するからです。
そしてその言葉の意味に捕らわれて行動すると、発信者の意図してないことをする恐れがあります。
東北震災の時に流された家屋の手立てとして仮設住宅を大量に作り被災者を住まわせることにしました。
一見するととても大切な行為なのですが、それ以上に心のケアの方が先にしなければならなかったのです。
一瞬にして家族や思い出を奪われた人たちにとっては住むところも大切ですが、プレハブハウスに送り込んでしまった結果、たくさんの人が自殺で亡くなりました。生きるためには衣食住は大切ですが、生きる希望が無ければ頑張る理由が消えてしまうということです。世界中から多くの義援金や物資が届きましたが、
心の支援ももっと届けば良いなと感じていました。
ここでの「想像力」は人助けのために何が必要かの順番を間違わないことです。
日本の「思いやり」の精神も想像力から生まれてくるのです。
相手のことに関して自分も同じような経験をしていれば少しは理解出るのですが、
海外のお客様となればまったく未経験の白紙状態です。
その国の習慣や価値観、および宗教上の規律も視野に入れなければなりません。
少なからずとも学びと想像力は鍛えることが出来るのです。
思いやりというのは結局「想像力」なのです。想像力で相手の辛さを理解して、
想像力で相手を助けようとする。つまり、「想像力イコール思いやりイコール愛」だと思うのです。
そして、もともと想像力というのは、みんな生まれてきた時に同じように持っているのです。
そういう能力を神様からもらってきているのですよ。
だけどそれは、生きている間に、どんどん育つ人と、だんだん失われていく人が
いるのですね。で、どうやったら想像力が育つかと言えば、一番いいのは本を読むこと。とにかくどんな本でもいいから読みましょうねと言っているのです。
そうすると、想像力ができて、自分以外の人がどう思っているかとか、何かに悩んでいるらしいとか、わかってくるでしょう。そうすると、あの人は何だか嫌な顔しているけど、どこか痛いんじゃないとか、そういうことがわかるじゃないですか。
それが「思いやり」ということですよね。思いやりは愛です。
失恋した人の悲しみは、失恋しないとわからないでしょう?貧乏したことのない人には、貧乏人のつらさはわからない。飢えたことのない人は、飢えた人の悲しさなんて理解できません。
でも、簡単にわからないからこそ、もっともっと「想像力」を使って、相手を思いやろうとしないといけないのです。
「相手のつらさを全部、想像力で理解することなんてできない」と自戒しながら、それでも、ちょっとずつ、そのつらさを理解しようと思うことが大事なのです。
瀬戸内寂聴の言葉より
「小善は大悪に似たり」
「小さな善行」が、結果的にはかえって「大きな悪」に転じてしまうという意味です。
一緒になって悲しむ事は、もちろん「善」なのですが、
私にはそれが「悪」になることがあるかもしれないと思うのです。
「大善は非情に似たり」被災者にいつまでもめそめそしないで、などと言えば、
なんと非情な言いかたか、お前はそんなに冷たい人間なのかと言われるかもしれませんが、
今はその冷たいことをあえて言ってでも、生きていく気力を奮い起こさせることが、真の愛ではないかと思うのです。
稲盛和夫の言葉より
想像力の無い親切は「悪魔の笑みを持つ善行」になります。被災地の人を助ける気持ちで、家庭にある使わなくなった衣料や、賞味期限切れまじかの食料や、履き古した靴などを送る人がいます。それを運ぶお金は、それらを仕分けする人は、それらを求める人はと考えなければ、ゴミを被災地に送ることになります。
ありがた迷惑な話になります。
このように中途半端な善意はかえって被災地の人に迷惑をかけることになるのです。
相手の気持ちを考えて受け入れ先の体制も十分なのか確認をしてから行動してください。
例えば「暗黙知」という教えがあります。親方の背中を見て弟子が学ぶことを言います。
親方は言葉で教えると言葉通りに従って自由な発想の妨げになるから何も教えません。
弟子は親方の道具箱の中を見て、親方の背中の動きを見て、一連の流れを覚えていくのです。
そこには好奇心と逞しい想像力が無ければ十分に理解する事は出来ません。
親方の作った完成品を手に取り、何を伝えたかったのかをじっくりと考えるのです。
それも創造力のなせる業です。そこが理解できなければ一流の職人にはなれないのです。
「想像力イコール思いやりイコール愛」は別々ではなく関連しているのです。
思いやりと愛を感じるのは創造力があるからこそ感じることです。
勘違いをして思いやりをサービスと捉えてしまうと、愛も勘違いをして押し付けになる恐れがあります。
やさしさならなんでも受け入れてくれると思わないでください。
時にはきつくたしなめて突き放すことも「思いやり」には必要です。
9月 25th,2023
恩学 |
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忘己利他(もうこりた)と読みます。
己を忘れて他人の利を考えることです。
私が発表した5つの仕事というのがあります。
20代では「仕事」を覚えなさい。30代では「支事」を出来るようになりなさい。
40代では「私事」で家族を守りなさい。50代では「志事」に徹しなさい。
60代以降は己を捨てて「死事」で周りの事を面倒みながら、
迷惑のかからないように生きなさい。
20代30代では私利私欲に溺れても仕方が無い。
そこで人生を学ぶ事は貴重な経験として後に役立つことになる。
しかし40代からは社会の一員として国を守ることも考えなさい。
それはいつしか家族も守ることになるからです。
50代では今一度学び直して人としての志に気づくようにしなさい。
もうここからは私利私欲ではなく利他の心を持って他人の喜びを
求めるように成りなさい。
60代以降は「欲の欲するところ矩を超えず」の通り、身の回りを清潔に保ち
心身ともに健康でいるようにしなさい。そして隣人を愛しなさい。
新しく求めるものは物ではなくて知識以外には必要ないのです。
忘己利他の精神を生活の中に取り入れると、争いごとはなくなり、
ありがとうと感謝の言葉が増える。最後には死ぬことにドタバタせずに
寿命を受け入れるということです。
天台宗の開祖である最澄(さいちょう)さんの言葉に『己(おのれ)を
忘(わす)れて他(た)を利(り)するは慈悲(じひ)の極(きわ)みなり』
という言葉があり、そこからきているようです。
忘己利他とは、自分を忘れて他人のためにつくすことを言います。
「己を忘れて他を利するは、慈悲の究極なり」と最澄は述べているが、
世界宗教といわれるもののなかで、この精神を否定するものはない。
ヨーロッパのノブレス・オブリージュも同じ精神である。
人間同士がうまくやってゆくための秘訣は相手を尊敬し、
相手を第一に考えることである。
すなわち、忘己利他の精神である。しかし、実はそれが一番難しい。
自分がかわいいからどうしても、自分を第一に考え、自分が得をしよう、
自分が楽をしようという気持ちが先に立つ。相手を気づかう気持ちは二の次
三の次になる。
しかし、考えてみれば自分一人がうれしいというのは、そこで完結してお終いである。
それに対して、相手が喜ぶのを見てこちらがうれしくなるというのは
大人の喜びであるともいえる。
桶に水を張り、ぽちゃんと小石を投げ込むと波紋が同心円状に広がる。
その輪はやがて縁にあたり、また真ん中に戻ってくる。
相手を喜ばせてあげると、やがて自分のもとに喜びが戻ってくる。
ただし、他人に利益を与えるからといって、見返りを期待する気持ちは持っては
ならない。「情けは人のためならず」という言葉もあるが、これには(密かに)
見返りを期待する心情が感じられ、忘己利他ほどには精神が高尚ではない気がする。
忘己利他はあくまでも見返りを期待しないのだ。根本のところで忘己利他の心があるか、ないか。そのことが、その人の品格を決めるといってよい
長きにわたって縄文時代が平和だったのは、自然に忘己利他で暮らしていたからである。
狩猟・採集・漁労で得た獲物は村人の全員と分け合っていたので争うことが無かった。
奪うことが無ければ戦いは起こらず、分かち合えば平和になる。
その平和を天空の神々や地上の神々に感謝として祈りを捧げてきたからである。
その後、おおくの渡来人により稲作が持ち込まれ、弥生時代から争いごとが
多くなったのは、収穫を己の財産として保存したからである。
その為の交渉のために言葉が生まれて貨幣も生まれた。移動しながら暮らしていた縄文人が土地を耕して定着するようになり、争いも増えたという。
アイヌの教えに「ワンサード」というのがあります。
狩猟・採集・漁労したものを、1/3は自分のために、1/3は自然のために、
1/3は未来を受け継ぐ子供達のためにという教えです。
奪い合えば足りなくなり争いが増える、分け合えば有り余って平和になる。
忘己利他の精神こそが平和を維持できるのです。
9月 24th,2023
恩学 |
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音楽プロデューサーとして生きてきた中で、常に人の心を見つめながら、
感情の発露を気に留めてきました。
時代によって移り変わる人としての価値観、その価値観によって変わる感情。
自分から作り出す精神的な強さや脆さ、他人から影響を受ける感情の起伏。
喜怒哀楽は個人の中にあり、それぞれが喜怒哀楽のガラスの針を持っているのです。
些細な事で喜んだり悲しんだりするのは、そのガラスの針が左右に振れるからです。
感情の発露とは「人間の心の動きを感じる、知る」ということです。
若い時には理性が足りなくて感情だけで行動してしまいます。
好きになるときも別れる時も、花が咲くときも枯れる時も、心に「あはれ」と感じるものがあります。
ここで生まれる「あはれ」とは何でしょうか?
本居宣長はこのように伝えています。
「もののあはれを知る」とは何でしょうか。人は嬉しいときや悲しいときに、
心が揺れ動きます。その心が感極まったときには、「あぁ」というため息が漏れます。
この「あぁ」が「あはれ」です。本居宣長は、こう述べています。
「『あはれ』といふは、もと、見るもの聞くもの触るる事に、心の感じて出づる歎息(なげき)の声にて、
今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」
つまり、「もののあはれを知る」とは「人間の心の動きを感じる、知る」という意味になります。
なお、現代では「哀れ」という漢字のイメージから哀しみに対する心の動きだと誤解されることがありますが、
嬉しいときの「あぁ!良かった!」という心の動きも「あはれ」です。
宣長は、人が物語を読む目的も、和歌を詠む目的も、この「もののあはれを知る」つまり「人のこころを知る」ためだといっているのです。そしてこの「こころ」という言葉には、「情」という漢字があてられています。
「情」という字を使った熟語には、感情・情熱・風情(ふぜい)などがありますね。
人間は生きていくうえで、そういったものを大事にして生きていこうよと宣長はいっている気がします。
物書きも音楽プロデューサーも「もののあはれ」を知らなければ成り立ちません。
何故なら作品のテーマは喜怒哀楽が元になるからです。
ものの成り立ちの瞬間は人間の誕生および自然界の花開く時に感じる喜びの心です。
そして叛逆と改革の変化を求める精神です。いわゆる怒りの心です。
そして「あはれ」へとつながります。いわゆる「あはれ」「哀れ」の心です。
最後には「生老病死」の病や悩みから解放され気持ちが落ち着くことです。
いわゆる死を意識した楽の心です。
仏様は目に見えなくなったものの、この世界に溶け込んでおられるのは間違いないのです。
問題はその事実に気づく事ができるかどうかなのです。
仏は常にいませども
現(うつつ)ならぬどあはれなる
人の音せぬ暁に
ほのかに夢に見え給ふ
(梁塵秘抄)
目に見えないものと有りもしないものは、似ているようで全く違います。
仏さまは常にお傍にいらっしゃるのに、目に見えないのが残念ですが、目に見えないからこそ尊いのです。
見方を変えれば、彼岸というのは遠く離れた特別な世界ではありません。既に私達は彼岸にいるのに、気付いていないだけなのです。
感情の発露とは「人間の心の動きを感じる、知る」ということです。
目に見えないものは第六感で受け止めるしかないのです。
これらを音に乗せ言葉に乗せてよき音楽が成り立ちます。
勿論、これらの文字に感情を乗せれば名著と言われるよき本になるのです。
9月 24th,2023
恩学 |
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「恩学」の恩とは、さまざまな人生を歩んだものが、最後にたどり着くところに
生まれるものです。今まで人生に関わってくれた人に対して、素直に感謝の気持ちを伝えるものです。
全ては「愛」から始まり、恩返しの「返恩」で終わります。
多くの「愛」で関係が始まり、終わりは悔いを残さぬように「恩」で締めくくるのです。
日本語のア行の最初の言葉「あ」から始まりワ行の最後の言葉「ん」で終わるのです。
「与えし恩は水に流し、受けた恩は石に刻む」ことが日本人の美徳の現れです。
「恩返し」も「恩送り」も感謝の気持ちがなければただの儀礼でおわります。
我々日本人は言葉を大切にする民族です。そして、その言葉の流れも美しくなければなりません。
「恩学」はそれら「恩学び」のお手伝いをさせていただくのです。
仏教の言葉に「代受苦」(だいじゅく)というのがあります。
ほかの人に代わって私が苦しみを引き受けますという意味です。
菩薩様やお地蔵様の慈悲を指しますが、人間にもそういう貴い人がいるのです。
キリストやガンジーやマザーテレサなどがそうですね。
ある意味「代受苦」は「恩」を返す以上の、究極の返礼かも知れません。
主君が受けた屈辱は、我々が引き受けますと、立ち上がったのが赤穂浪士なのです。家族・一族に災難が降りかかると知りながら「武士の誇り」を捨てられなかったのです。家臣たちは、罪はすべて我々が引き受けますからと「代受苦」を受け入れたのです。
「愛」も「思いやり」も創造力から生まれます。この二つの言葉に定義はありません。
相手の環境や現状を創造しながら、求めていることはこうなのではないかと、思いつくことが大事です。
見た目のイメージで、こうしてあげれば喜ぶのではないかという行動は、ただのお節介となります。
正しい創造力を鍛えるためには学習が必要です。
そのポイントの一つはたくさんの良書に親しむことです。
全ての物語は愛と憎しみと非情と慈しみが描かれています。
そしてあらゆるものに恩を感じることによって読者が恩を習得するのです。
あらゆる艱難辛苦を乗り越えて幸福にたどり着く人、同じ運命でも不幸のままで終わる人。
またどん底の人生から再起を図る人など千差万別ですが参考にはなります。
例えば倉田百三の「愛と認識の出発」を読むことを薦めます。
旧制の第一高等学校(現代の東京大学)の学生たちが、最も愛読した書物は何か?
同校で行われた調査で連続第一位となったのが「愛と認識の出発」なのです。
倉田は「国民」ではなく「人間」としての自己を見出すのですが、それと同時に
「他人は本当に存在するのか」という唯我論に陥ってしまう。
「愛と認識の出発」はそのような状態から出発し、唯我論を克服し、他者との
かかわりの持ち方を学ぶ過程が描かれているわけです。思想的自伝というのでしょう。
「異性の内に自己を見出さんとする心」
例えば大野の黎明に真白い花のパッと目覚めて咲いたように、私らが初めて因襲と伝説とから脱してまことのいのちに目醒めた時、私らの周囲には明るい光がかがやきこぼれていた。……
しかしながら私らがひとたび四辺を見まわすとき、私らはわたしらと同じく日光に浴し、空気を吸うて生きつつある草と木と虫と獣との存在に驚かされた。
さらにわたしらと共に悩ましき生を営みつつある同胞(Mitmensch)の存在に驚かずにはいられなかった。
実に生命の底に侵徹して「自己」に目ざめたるものにとっては自己以外のものの生命的存在を発見することは、ゆゆしき驚きであり、大事であったに相違ない。
ああ私は恋をしているんだ。これだけ書いた時涙が出て仕方なかった。
私は恋のためには死んでも構わない。私は初めから死を覚悟して恋したのだ。
私はこれから書き方を変えなければならぬような気がする。
何故ならば私が女性に対して用意していた芸術と哲学との理論は、
一度私が恋をしてから何だか役に立たなくなったように思われるからである。
私は実に哲学も芸術も放擲して恋愛に盲進する。私に恋愛を暗示したものは
私の哲学と芸術であったに相違ない。しかしながら私の恋愛はその哲学と芸術に
支えられて初めて価値と権威とを保ち得るのではない。
今の私にとって恋愛は独立自全にしてそれ自ら直ちに価値の本体である。
倉田百三「愛と認識との出発」
『女の一生』(おんなのいっしょう、原題・Une vie)は、主人公の少女ジャンヌが
成長するにつれて人生における様々な不幸を経験していく様を描いた
著者ギ・ド・モーパッサンの代表作である。
修道院を出て両親と共にレ・プープルの屋敷で暮らし始めた17歳の少女ジャンヌは、美しく素晴らしい人生が自分の前にあると心躍らせ、美青年ジュリアン子爵と結婚する。だが結婚すると夫はジャンヌに対する愛情を無くし、金に執着するようになる。
夫はジャンヌの乳姉妹のロザリや、友人のフルヴィル伯爵の妻とも関係を持ち、
さらにジャンヌの母もかつて父の友人と不倫関係にあったことを知り、ジャンヌは人生に対する希望を失っていく。妻の不倫を知ったフルヴィル伯爵は、ジュリアンと伯爵夫人が逢瀬している移動小屋を斜面から突き落とし、二人は死ぬ。
未亡人になったジャンヌは息子ポールを溺愛するが、ポールは外国で女と暮らし、金の無心にしか手紙をよこさなくなる。両親も死に、ひとりきりになったジャンヌの元に、屋敷を追い出されたロザリが戻ってくる。ロザリの助力でジャンヌは財産を整理し、屋敷を売って小さい家に移り住む。やがて、ポールから、恋人が子供を産んで死にそうだと手紙が来る。
ロザリはポールの元に行き、女の子の赤ん坊を連れて戻り、明日ポールも帰ってくるとジャンヌに告げる。
これら二冊の本が何を述べたかというと、自分を見失いながら愛の苦悩に溺れる青年と、
幸福を夢見た少女が恵まれながらも悲惨な人生を歩む姿です。
今の世の中は、短絡的に成功して、短絡的に結婚して、短絡的に人生を過ごすのです。
今の時代に比べると不自由な時代だったかもしれないが、思索の時間が十分にあったということです。
悩み苦しみ葛藤して倒れては起き上がり、人間とは、愛とは、人生とは、と答えを求めて生きていたのです。我々が普段使わなくなった言葉の表現方法が、感情の学びには必要です。
多くの書物の中から「愛」を見つけ、「恩」を学ぶ事が大切です。
そして創造力を鍛えてください。
9月 21st,2023
恩学 |
愛と恩 はコメントを受け付けていません