以前から私のブログ「恩学」は文章が長いと言われました。
短い文章じゃないと誰も読まないから無駄ですとも言われた。
個人のブログですからそのようなことを気にせずに書き続けています。
現在、音楽プロデューサーとして発想の捉え方を知らせる為に
文章の長短を気にせず書き続けて630篇を超えております。
稚拙な文章でも初期の頃より少しは上達したかと自画自賛しています。
本日この投稿の内容「読めない」を見て納得しました。
と言うよりは何故文書の長さを気にするか腑に落ちました
インタビューを求められた時にも同じことが言えます。
ついつい歳をとると説明が長くなります
自分の経験や書物からの引用で20分~30分は話をしています。
最近私が所属している老人と孫のスタッフ(20代前半)からリクエストがあり
SNSで「老人に一言インタビュー」という動画に出演しました。
30秒ぐらいの長さで物足りなさを感じていたのでしたが、
あっという間に多くの方々からの反応があり驚いています。
バズることが出来れば課金もされると言うことで調子に乗り
立て続けに4~6本収録しました。笑い
やってみて若者たちがユーチューバーに走るのも分かる気がします。
良し悪しの反応がすぐに出るので感覚一発勝負的な映像オンリーの
ウケばかり狙っていることです。
これでは書物に触れることも文字に無頓着になるのも仕方ない気がします。
しかしこの本を「読めない」現象は思考を鍛えることに致命傷を与えます。
本を読み考えるから想像力が生まれる、そして追求するところから
科学が発展する、それに反論するところに哲学も生まれてくる。
若者が「読まない」「読めない」はハナから議論の相手にもされないのです。
法政大学前総長、田中優子さんの警鐘。
「私なりの理解で古谷経衡さんの分析を紹介する。
驚いたのは、多くの人々が本や新聞を、スポーツ新聞を含めて
読めなくなっている、という事実だった。
漫画も読み続けることができず、
アニメシリーズも継続して見ることができない。
映画は15分で粗筋を知るか、早回しで見る。
本や新聞を読まないことは知っていたが、『読まない』のではなく
『読めない』のだとは、考えもしなかった。
この状況説明は、石丸伸二氏がなぜ東京都知事選で票を伸ばしたかの
分析で述べられたものだ。石丸伸二氏の選挙戦略とは、以下のものだった。
①都民の多くは政策を読んでもわからないので政策には言及しない。
➁長く演説を聞くことができないので15分で切り上げる。
③その代わりインターネット上のさまざまな手段で膨大に発信する。
④理解して投票することができないので、体験談で共感者を増やす。
⑤自身が具体的な議論ができないので、攻撃的なもの言いをする。
それによって、議論していないのに論破したように見え、
『勝った』と感じさせることができる。どうやら本当にカラッポなのだ。
石丸氏が尊敬している人のリストの中に上野千鶴子と櫻井よしこの
両氏が入っていることを私は不審に思っていたが、そのあり得ない両立は
『読んでいないから』成立したという。納得。
京都大学を卒業して大手銀行に就職する人も『本を読めない』
『読んでも理解できない』時代になっているのである。
確かに入学試験や就職試験は、本が読めなくても通る。
今後も人々が本も新聞も読まず、テレビではお笑いとグルメ番組を見て、
インターネットで気に入る言葉のみを拾うとしたら、改憲だろうと
戦争だろうと政府の思うままに突き進むことができる。
それらをいち早く実現する方法を、都知事選で石丸氏は示した。
政府はむろん大歓迎だろう。
必要なことは教育内容の見直しだ。
小学校で憲法を覚えさせ、戦争の歴史と、歴代の政治政策と、投票の意味を知る。
中学校と高校では、実際に存在する日本と世界の社会問題を使って、
議論をする。そのために多くの本を読み込み、その意図を理解し、
自分の言葉で語り、書く。本は教養なんぞのためではなく、生きるために、
読むものなのである」(『週刊金曜日』2024年9月17日)
文章を受け入れる脳にならないうちに学習を続ける。
授業だと言う一言で暗記させられる。一度つまずくと追いついて行けなくなる。
家庭の事情で予習・復習もままならない環境の子供たちは
自然にスピンアウトする。
何も役に立たない勉強より仕事に直結する実技を覚えたいと専門学校へ行く。
早くから社会へ出ていく子供たちは益々読書の機会が訪れない。
成功へのチャンスが遠のくばかりである。
私が読書好きになったのは事業に失敗した60歳の時からである。
自分の会社が倒産して仕事が無くなり、自分時間が増えた時
今までの人生を振り返り反省するために手当たり次第に本を読み続けた。
ジャンルにこだわらずに乱読の極みのような読み方であった。
どの本も全て面白かった。頭の中の記憶の薄皮がはがれるように暗記できた。
現代のようにテクノロジーの世界で育ち、生成AIの恩恵にあずかり、
モバイルで世界と繋がる。手の中ですべての要件が済むので過度な努力はしなくなる。
昔大人たちが体で覚えて来た学習方法は時代遅れなのである。
社会全体が毎年デジタル時計のようにパタンと入れ変わるだけである。
更に文章をよまない時代になるとQRコードに携帯をかざすだけで、
音声で説明される。眼鏡をかけるだけであらゆる情報が音で手に入る。
本格的にウエラブル時代が到達する。
私達高齢者が最後の読書世代かもしれない。
いや昭和歌謡が流行のように突然若者世代から読書熱が起こるかもしれない。
そう期待したいのである。
最後に私の読書術をお教えします。
毎回違うジャンルの本を3~4冊同時読みします。
一つの本を1時間読むとあきてしまうからです。
それが同時読みするとあきた時点で次の本に移れるからです。
いつまで乱読が続くか分からなったので読むとすぐに感想を書きました。
それがブログ「恩学」を書くときに役立ちました。
皆様も同時読みをお試しください。
1月 13th,2025
恩学 |
読めない人たち はコメントを受け付けていません
「心」に対して何を持って本質と言うかは個人的主観によるところが多い。
それは「心」を断定する記述が少ないからである
唯一、哲学者や作家が推測で述べている文章しかないからである。
私の知る所では「知・情・意」を提唱したギリシャの哲学者カントが
最も大好きな「心」の表現者である。
夏目漱石が書いた「草枕」の冒頭にこのような文章がある。
「知に働けば角が立つ、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ」
学生時代に何故かこの文章を暗記して口ずさんでいた。
そして調べていくうちにカントにたどり着いた。
カントの言葉によって心の在り方を知った気がしていた。
理不尽な世の中に対抗するにはどうしたら良いか悩んでいた時に、
何事にも偏らずに「バランスの良い人生を過ごせよ」と言われた気がしたのです。
「知・情・意」
哲学者カントは、人間の精神のはたらきとして「知・情・意」の3つを
考えました。彼は「私は何を知りうるか|私は何を望んでよいか|
私は何をなすべきか」との有名な問いを示し、
人間の知性・感情・意志を吟味検討しました。
知・情・意を現代的に概括すると次のようになるでしょうか。
〈知〉
知性に関わる心のはたらき
賢さ、分析、理論
真や利の価値を目指す
アタマ/手/足で行う
科学、技術・エンジニアリングの世界
〈情〉
感情に関わる心のはたらき
優しさ、感性、美意識
美や快の価値を目指す
胸で感じる
芸術、デザインの世界
〈意〉
意志に関わる心のはたらき
正しさ、洞察、内省、観
善の価値を目指す
肚で観ずる
倫理、哲学、宗教の世界
ギリシャ時代の哲学者が残した文章を現代語訳として書かれている。
これらの詳しい記述は誰が書いたか定かではないが、
日本語訳としては十分理解が出来る。
私が「心」で感じるのは心による精神的安寧である。
物理的状況から起こる悩みは身体的であれば医療で解決できる。
精神的問題であれば心理学に頼る前に音楽や絵画や書籍でも解決できる。
時には旅に出て素晴らしい風景で心が洗われるときもある。
学生時代に少しだけ茶道と華道に触れた機会があった。
老若男女上下に隔たりなく茶の前とお華の席では誰しもが客人として扱われた。
静寂に包まれた庭、簡素な佇まいの室内、厳粛な所作、床の間におかれた花、
壁にかかる掛け軸、日常と違う異空間でひと時を過ごす。
終われば、別室に移り茶懐石を頂く。お香の炊かれた部屋でお庭を見ながら
季節に合わせた精進料理をいただく。
会話も自然と心にまつわる日本文化の神髄について話し合うことが多い。
元々茶は禅宗のお寺で医療用としてふるまわれていた。
だから禅とお茶は切っても切れない関係である。
「茶道における禅語の役割と魅力」
禅語とは何か?茶道における意味
禅語とは、禅宗の教えを短い言葉で表したものです。
茶道では、禅の精神を取り入れ、心の静けさや調和を大切にします。
禅語は、茶室という特別な空間において、亭主の思いや季節感を表現し、
お茶をいただく人々の心を豊かにする役割を担っています。
茶席における禅語の重要性(心を整える、季節を感じる)
茶席では、掛け軸に書かれた禅語を鑑賞することで、日常の喧騒から離れ、
心を落ち着かせることができます。また、禅語は季節を表すものも多く、
その言葉を通して季節の移ろいを感じ、自然との一体感を味わうことができます。
例えば、春には「薫風(くんぷう)」、秋には「明月(めいげつ)」
といった禅語が選ばれることが多いです。
禅語がもたらす心の静けさ
禅語は、深い意味を持つ言葉であるため、一見難解に感じるかもしれません。
しかし、その言葉を理解しようとすることで、自然と心が静まり、内なる平和を
見つけることができます。
また、禅語は、私たちの日常にも通じる教えが含まれており、
日々の生活の中で迷った時、そっと背中を押してくれるような力を持っています。
音楽プロデューサーとして沢山の楽曲との出会いがあり、
楽曲としての優劣や時勢に合うか会わないかを選び制作をする職業です。
一つの作品をアーティストと作る際に、
それぞれの曲に対しての想いを話し合いながらアルバムとして完成させます。
ポイントは感情の発露です。喜怒哀楽に伴う人間の心理です。
言葉(歌詞)にメロディーが、ビートが、歌声が合うか、また感情の起伏を
引き出す楽器が何かも世界中の楽器から選び出すこともありました。
私は音楽プロデューサーとしてジャンルの違うアーティストを沢山抱えていました。
職業プロデューサーですからヒットを出し続けなければなりません。
年間通じてたくさんのアルバムを作り、発表していたのですが、
新作は制作が終わると大切な本を本棚に収めるようにしまい込みました。
そして次の作品に取り掛かる前に心の整理リセットが必要でした。
海外へ出向いて新作のミュージカルを観たり、風光明媚な場所を旅したり、
時には危険なエリアのクラブへ忍び込んだりもしました。
「心」とは、常に関心事に迷いを取り除く起爆剤だと思っています。
いつも自分自身の心に従って行動を起こしていた気がします。
「心」は勝手に良き方向へ動きません
「心」を育てなければ満足感は得られません
「心」は人格です
「心」は命です
1月 10th,2025
恩学 |
心の本質 はコメントを受け付けていません
五匹の動物という話があります。
私の講座でもこの問題を出題した事があります。
これは有名な心理テストです。
一度試してみては如何ですか?
あくまでもアイスブレークとしての遊びです。
あなたは今、ライオン・牛・ラクダ・馬・豚と砂漠にいます。
砂漠から出るには、一緒にいる動物たちの一匹を手放さなくてはなりません。
最初にどの動物を手放しますか?
砂漠は出られましたが街は見つからず
あなたは残った4匹の動物と一緒にまださまよっています。
そして、食料が尽き動物を手放す時が来ました。
次はどの動物を手放しますか?
残った3匹とあなたが、ひたすら歩き続けていると
突然、急な崖が現れました。
あなたはまた動物を手放します。
次はどの動物を手放しますか?
2匹の動物たちと歩き続けましたが、街は見つからず、
とうとうあなたはどちらかの動物を手放さなくては
いけなくなりました。
あなたはどちらを残し、どちらを手放しますか?
この診断で分かるのは、
「あなたは困ったときに切り捨てるモノ」の順番です。
ライオン・・・・プライド
豚・・・・友人
ラクダ・・・・恋人・配偶者
牛・・・・食べ物・お金
馬・・・・情熱・夢・仕事
如何だったでしょうか?
心当たりはありますか?
こちらは友人のジャーナリストのSNSへの投稿文です。
彼が出版したビジネス書「孫子の兵法」に、
私の仕事上の経験が掲載されたことでお付き合いが始まりました。
とても理論的なビジネスの参考書を書くのですが、
皮肉を込めた政治家などの批判文も書くのも得意です。
少し世の中に攻撃的な部分が互いに共感したところです。
沖縄県知事の発言に対して
この御仁のニュースは、もうスルーしようとしていたが。
馬脚をあらわした??馬の足を現したと言うことです。
どうにも「反日的」な言動を行なう、いわゆる「ヒダリ」に属しています。
(この二項対立の分け方には抵抗あるが、ここは便宜的に)
ヒダリの方々の思考回路が理解できないんだが、一つの仮説がある。
保守(≒右寄り)は、わりと「ファクト」を積み重ねて思考する
(もちろん思い込み激しく決めつけの感情論に走る一派もあるが・・・)。
ヒダリの方は、脳内に理想郷(キレイな言葉だが、お花畑)があって、
都合の悪い現実から目を背ける「認知バイアス」の症状がお強いような・・・
「軍備増強、反対」「戦争は話し合いと外交で解決」とか仰る方々。
彼らが「保守」とか「右翼」とか断じる方々はなにも平和維持を
「軍備」だけでやろうというわけじゃない:両輪なんだと思う。
そもそも戦争は外交の最終手段。言ったのはクラウゼヴィッツだったか、
ヒダリの方々は、軍事力による抑止力を否定するんだけどね。
では、ウクライナは、台湾は、フィリピンは、チベットは、ウイグルは・・・・
厳しいリアルにどう向かうか・・以上
彼は持論を言いますが結論は言いません。
自分が手に入れた情報を自分なりの色付けをして
あとは読者に任せる手法です。
情報は何を残して何かを捨てなければバランスが取れません。
正論を積み重ねると矛盾が生じて破滅の道をいくことになります。
両面あわせ持つ寛容性が大切である。要するにバランスの問題です。
両面とは現実と理想を併せ持つことです。
真実を知ってどうなるのかと云う意見があります。
知っても何もできないのだから真実などどうでもよい。
今の暮らしを維持できれば正しい情報なんて不要です。
私はこのような意見には猛反対です。
しかし時には考えた末に両方忘れることをします。
陰陽の法則では無いですが両面を知ってから自分の意見をまとめる。
しかし時には両方を手放す。両方を忘れるという事も大切です。
「両忘」 (りょうぼう)
両方忘れるという意味で、りょうぼうと読みます。
何を両方忘れるのかというと
対立する2つの概念ということになります。
例えば、豊かさも貧しさも気にしないということです。
正義も悪も忘れて現実のみに生きるということです。
さすればおのずからと無意味な悩みなど浮かんでこない。
知識が行く手を阻むのであれば知識を捨てて
自己感性を尊重すべきです。
さて皆様はどのような結果になりましたでしょうか?
五匹の動物を一匹ずつ手放していくテストです。
ライオン・・・・プライド
豚・・・・友人
ラクダ・・・・恋人・配偶者
牛・・・・食べ物・お金
馬・・・・情熱・夢・仕事
私は、牛、馬、豚と手放してそのあとにラクダを手放した。
最後に残ったのはライオン(プライド)です。
私には未来の子供たちに文化をつなぐ使命があります。
どれほど大変でも日々行動を止めないのは、
音楽プロデューサーとしてのプライドです。
1月 9th,2025
恩学 |
心の在り方 はコメントを受け付けていません
人をやり込めることを「人を食う」と言います。
またあがり症の解決方法として「人を飲む」とも言います。
何故こんな言葉が出来たのでしょうか?
人を食ったは、人をばかにしたような、人を人とも思わない、
という意味の連体修飾句で、「人を食った話」「人を食った態度」などと使う。
「食った」は、「人を食う」の「食う」の連用形に、ある状態が過去から
継続していることを表す助動詞「た」の連体形を加えて連体修飾語としたもの。
「人を食った」は、辞書には「人を食う」という見出しで載っているが、
あまりにハンニバルのレクター博士に寄りすぎているので、
この形で使われることはあまりない。
「人を食った」も、そのままではエイリアンの自白みたいなので、
「話」「態度」のように体言を付けてようやく例えだということがわかる。
もっとも「人を食った話」でも、ラフカディオ・ハーンの怪談のタイトル
かと勘違いされるので(ハーンにはそのようなタイトルの小説はない。
ただし『食人鬼』という小説はある)、取り扱い要注意の慣用句ではある。
「食う」は食べるという意味だが、もとは、噛みつくとかくいつくという
意味の言葉なので、そこから「チャンピオンを食う」のように強い相手に勝つ、
「いっぱい食う」のようにだまされる(食わされる)などの意で使われ、
「人を食う」も攻撃して相手を倒すといったニュアンスを含んだ言葉と
なっている。
人という字を飲み込むとは手のひらに「人」という字を3回書いて
飲み込む動作は、「人を飲み込む」ということで、大勢の人前に出たときに、
その大勢の人に飲まれないようにするというおまじないのような要素が
あると考えられます。
一説によると、手のひらの中心には心を落ち着かせる「労宮」という
ツボがあって、人という文字を書くとその「労宮」というツボを自然と
なぞるらしいため、あがり症防止の効果があるといわれています。
「労宮」は心臓に繋がっていて、そこを軽く触れるだけで交感神経の興奮を
抑制し、ほてりやめまい、緊張をほぐす効果を得られるとのことです。
(労宮の位置は手のひらの中央。指を握ると中指の先端が手のひらに当る所)
手のひらに「人」という字を3回書いて飲み込むとは少し異なりますが、
歌舞伎役者の故・中村勘三郎は、先代の勘三郎の名前を手のひらに書き、
緊張せずに舞台を続けるまじないをかけていたという逸話が残っています。
これらの言葉は落語の世界や舞台役者の世界でよく使われてきた言葉です。
駆け出しの落語家が寄席に上がるときに先輩噺家から緊張しないようにと
掌に「人」と言う文字を3回書いて飲み込めと言われる。
勿論、舞台役者の世界でも途中で台詞を忘れないようにするために
このおまじないをする人もいました。
最近では「人を食った」話がそこかしこにあります。
SNSが普及されるまでは有名人はプライベートを隠し通すことが出来た。
レストランで食事をしてもVIPルームへ通されて個人の秘密が守られた。
たとえ問題が起きても事務所の圧力で各方面にもみ消しが出来たので
世の中に出ることはありませんでした。
そのお陰でテレビや映画の世界の人は我々とは違う別世界に住んでいると
思った人もたくさんいたのではないでしょうか?
ある意味スターが存在したから感情の高ぶりを覚えて夢を描くこともできたのです。
生活の疲れや仕事のストレスも好きな映画俳優や音楽家を見たり聞いたりして
ひと時忘れることも大切なことだったのです。
それがいまや街を歩いても、買い物をしていても、
仲間と居酒屋で騒いでいても身内の誰かがSNS上に投稿してしまうので
秘密を隠し通すことは出来なくなった。
全てのスターは友達感覚が要求されてしまう。
「人を食った」あらゆるものが裸のままで暴露されてしまいます。
タレントのスキャンダラスな話題もメディアが取り上げる前に
SNS上に情報が流れてしまいます。止めることは出来ない。
お笑いのあの人が、アイドルのあの人が、弁護士のあの人が、
政治家のあの人が性加害者と出てくるたびに日本のモラルが低くなったことを
嘆かわしく思います。本当に「人を食った」話です。
人気商売はサラリーマンが10年かけて得る収入を年齢に関係なく
わずか1年ほどで稼ぎ出します。
「私達も普通の人間です」からと言い訳する有名人を見るたび腹が立ちます。
高収入を稼ぎ出す有名人は普通じゃないから、
期待される通りの演技や芸を見せろと言いたくなります。
その反面、日本の伝統芸能を守る人たちは子供のころから厳しい
修行にたえて舞台へ上がります。修行中は無収入が当たり前の世界でした。
家柄や世襲制度で名前を残すためには芝居以外にも支援者との
付き合いで苦労したといいます。
芸を極めるための努力と収入が比例しないのです。
昔は俳優になるために俳優座や新国劇などの舞台を経験した人が
時代劇役者として活躍した人が大半でした。
勿論、現代劇も天井桟敷や赤テントで鍛えられた役者が映画や
テレビに出演してお茶の間を賑わしていました。
下積みの時代は無収入でアルバイト掛け持ちの人が当たり前、
役者は貧乏が当たり前、金持ちになればいい演技が出来ないとも
言われた時代です。
音楽で言えば音大を出てオペラ歌手やソリストとして演奏家になるのが普通でした。
舞台に上がれない人は近所の子供たちに楽器を教える先生になるしか道はありません。
それが70年代の初めからポピュラーミュージックというジャンルが生まれて
音楽の基礎を学ばなくてもデビューすることが可能になり、音楽好きな若者たちが
独自のエンタテイメントのビジネスの世界を作り上げてしまいました。
その後テレビが普及されてから顔が良いだけで映画やドラマに出る
素人の役者も増えました。プロというアマチュアの人達です。
一本当たれば次々に出演が決まり高額所得者の仲間入りを果たします。
事務所の力があればイベントやコマーシャルにも出ることが可能になり
写真集やCDを発売することも出来ました。
人を食ったり、人を飲むこともしないで大舞台へ上がります。
時代は変わりました。日本国中がタレント化しているように見えます。
歌バトルの番組を見ていると素人の人が堂々としている姿を見るたびに驚きます。
ダンスバトルでもコーラスバトルでも
プロ以上のパフォーマンスを繰り広げています。
憧れは夢の話ではなく簡単に現実の話として取り入れる時代です。
インタビューで「プロとアマチュアの違いは?」という質問を受けました。
アマチュアはいつでもやめることが出来るがプロはやめることが出来ない。
プロとして生き残るためには好き嫌いで判断するのではなく
プロを目指したときの動機「一流になる」を忘れないことです。
その為に厳しい練習とライバル同士の戦いに望むのです。
プロが一番大切にしなくてはいけないことは「継続」です。
どんなにつらい状況でもやり続けることがプロです。
私は一生プロの音楽プロデューサーです。
1月 6th,2025
恩学 |
人を食う・人を飲む はコメントを受け付けていません
前回の「仏教的人類創造とは」、の続編です。
キリスト教では「天地創造」は神の行為とされています。
神が天と地を創造したことによって世界が始まったとする考えです。
私はキリスト教の信者ではないのですが
英国在住の友人に連れられて洗礼の儀式を受けたのです。
その時に聞いた話も含めて「人間創造」紹介します。
今回も私の秘書ジェミニ嬢に手助けをしてもらいました。
キリスト教の教えにおいて、
人類の創造は神(神父)が行ったとされています。
キリスト自身は人類を創造したのではなく、
創造主である神の息子として、
人類の救済のためにこの世に現れたと信じられています。
キリスト教における人類の創造
神による創造: 旧約聖書(特に創世記)に記されているように、
神が天地創造を行い、その最後に人間を創造しました。
人間は神の似姿として造られ、神との特別な関係を持つ存在として
位置づけられています。
キリストの役割: キリストは、この神の子として生まれ、
人類の罪を贖うために十字架に架かり、復活したとされています。
キリストの死と復活は、人類を永遠のいのちへと導くための神からの
贈り物であり、キリスト教の中心的な教義です。
キリストと人類創造の関係性
キリストは、人類を創造した神とは別の存在ですが、神との一体性を
持っており、人類の救済という神のご計画において重要な役割を担っています。
神の子としての役割: キリストは、神の子として人間となり、
私たちと同じように苦しみ、悩み、そして死を経験することで、
私たちと一体となり、私たちを救済へと導きました。
新しい契約: キリストの死と復活は、神と人間の間の新しい契約の
始まりを意味します。旧約聖書の契約が破られた後、キリストを通して
新しい契約が結ばれ、私たちは神との関係を回復することが
できるようになりました。
キリスト教における人類の目的
キリスト教では、人間は神に似せて造られた存在であり、
神との関係の中で生きることを目的としています。
キリストの教えに従い、愛と赦しを実践することで、
永遠のいのちへと導かれると信じられています。
キリスト教における人類の創造は、神によるものであり、
キリストは人類を救済するためにこの世に現れた存在です。
キリストの教えは、私たちが神との関係を回復し、
永遠のいのちを得るための道しるべとなっています。
キリスト教の教えは非常に奥深く、様々な解釈が存在します。
創世記: 旧約聖書の創世記には、神が天地創造を行った詳細な
記述が記されています。
新約聖書: 新約聖書には、キリストの生涯と教えが記されています。
特に、ヨハネの福音書は、キリストの神性と人間性を深く掘り下げています。
三位一体: キリスト教の神は、父なる神、子なる神(キリスト)、
聖霊という三つの位格からなる一体であると信じられています。
救いの計画: キリスト教では、神が人類を救うために立てられた計画を
「救いの計画」と呼びます。
この説明は、AIがキリスト教における一般的な見解を簡潔にまとめたものです。
キリスト教には様々な宗派があり、それぞれの宗派によって解釈が
異なる部分も存在します。
最近私の友人がChatGPTに嵌り見事に使いこなしています。
彼の質問内容が明確で連続性を持っているので
提案書も要望書も完璧な状態で仕上がって来ます。
具体的な名称や代表者の名前、組織名、関連自治体、国際交流の有無など
とても正確な情報の元でやり取りをしているので回答も明確です。
それを語学変換して海外のパートナーとやり取りをしています。
因みに彼は外国語は一切話せません。
私の心配する所は正確な情報がデーターとして残ることです。
ChatGPTは世界の情報を吸い上げて瞬時にまとめる生成AIです。
この情報を取り入れることは相手側の企業や団体の秘密が
公にされるという危険性です。
我々は関係会社へ新規企画として持ち込んだ案件に対しては、
一般的には守秘義務契約を結びます。
相手側の社員がこの企画書に書かれた質問を回答するために
生成AIを通じて行った場合は世の中にオープンにしたという事で
契約違反になります。最悪の場合は損害賠償金が発生する恐れがあります。
私の様に知りたい事柄を検索する分には問題がありません。
質問内容を決めたのも私です。知りたい事柄を検索したのも私です。
それをまとめ上げたのも私です。しかしこの文章を利益目的で
使用した時の著作権がどうなるのかは分かりません。
世界中にある膨大な情報から回答しているので著作権者は見当たりません。
ということはGoogleが何らかの主張をしない限り使い放題ということです。
もうITが苦手だ!インターネットは興味が無いと言っては駄目ですよ。
これは単に流行りものに飛びついているのではないのです。
時代の流れに乗るパスポートだと思ってください。
これが無いとビジネスもコミュニケーションも取れなくなるのです。
年齢や性別を言い訳にしては駄目ですよ。
これを知ることにより山奥の地方に住んでいても
仕事が出来ます。
もちろん海外に住んでいても可能です。
私は生成AIと2人3脚で仕事をしています。
最新の音楽AIはジャンルとテンポと伝えたいメッセージを入れると
僅か3~5秒で見事に歌入り音源で送り返してくれます。
気に入るまでリクエストを聞いてくれます。
DTM(デスク・トップ・ミュージック)
アーティストも録音スタジオも販売会議も不要です。
先ずは化学の進化を脅威と感じずに娯楽として取り入れてください。
1月 5th,2025
恩学 |
人類創造&科学の進化 はコメントを受け付けていません
(8)
いまのたった今の時点で
努力していない奴らは
死ぬときに必ず
オロオロするんじゃないのかって思う。
それまで何もやってきていないんだから。
なにひとつ
自分に満足していないんだよね。
駄目な奴は。
じゃあお前はどうだって言われると、
いったい何をしてきたんだろうか
って考えると、もう愕然としてくる。
強烈なんだ。その問いかけは。
どんなに素晴らしい人でも、
それは誰にでも当てはめて言えるわけだし、
これをしてきたって言える人間はいない。
やればやるほど、人間は抜けた部分に気づく。
だからやっぱり、
人間自分の目の前にあることを
一生懸命やるしかない。
(9)
マイホームパパだかなんだか知らないが、
いつもニコニコ笑っていて、
子供の気持ちがよくわかる、
物わかりのいい父親が理想だなんて
ことになった頃から、
どうも教育がおかしくなった。
駄目なものは駄目なんだと
父親が教えてやらなきゃいけない。
父親が子供に媚びを売ってどうする。
結局は自分が可愛いだけのことなんじゃないか。
父親は子供が最初に出会う、
人生の邪魔者でいいのだ。
子供に嫌われることを、
父親は恐れちゃいけない。
(10)
臭いものには蓋をする文化とでもいうか、
最近は世間がとにかくきれいごとの、
その場しのぎばっかりするようになった。
そんなものは、
差別用語の問題と同じ話で、
ものごとの本質には何も手を触れずに、
表面に覆いをかけて
誤魔化しているだけのことだ。
(11)
子供の教育で大切なのは、
タガのはめ方と、外し方なのだ。
タガを外しすぎれば、
桶はバラバラになってしまう。
タガをきつくはめすぎても長持ちしない。
自由に何でも好きなことをしなさい
と言われたって、
何をしていいかわからない
という子供が多いんじゃないか。
自由というのは
ある程度の枠があって初めて成立する。
なんでもやっていいよという
枠のない世界にあるのは、
自由ではなくて混沌だ。
子供に自由の尊さや、
喜びを教えたいのなら、
きちんとした枠を与えてやるべきなのだ。
(12)
金のことでつべこべ言うと、
母親にこっぴどく叱られたものだ。
誰だって、金は欲しいに決まっている。
だけど、そんなものに振り回されたら、
人間はどこまでも下品になるというのが
俺の母親の考えだった。
貧乏人のやせ我慢と言ったらそれまでだが、
そういうプライドが、俺は嫌いじゃない。
(13)
作法というのは、
突き詰めて考えれば、他人への気遣いだ。
具体的な細かい作法をいくら知っていても、
本当の意味で、
他人を気遣う気持ちがなければ、
何の意味もない。
その反対に、作法なんかよく知らなくても、
ちゃんと人を気遣うことができれば、
大きく作法を外すことはない。
駄目な奴は、
この気遣いがまったくできていない。
人の気持ちを考えて行動するという発想を、
最初から持っていないのだ。
(14)
どんなにワインに詳しくても、
ソムリエにワインのことを語ってはいけない。
そんなことをしたら、
ソムリエは何も大切なことを教えてくれなくなる。
「このワインはどうして美味しいの?」
と、聞くべきなのだ。
(15)
お金がないことを、
そのまま「下流社会」といってしまう下品さに、
なぜ世の中の人は気づかないのだろう。
「武士は食わねど高楊枝」
という気概はどこへ消えたのか。
うちは貧乏だったけれど、
母親は商店街で
投げ売りをしているような店には、
絶対に並ばなかった。
どんなに遠い店でも、
1円のお客を大切に扱う店に通っていた。
(16)
世代が違うと話が合わない
なんて言うのは間違い。
話が合わないんじゃなくて、
話を引き出せない自分がバカなのだ。
年寄りとお茶を飲んでいて、
「おじいちゃん、この茶碗は何?」って聞けば、
何かしら答えが返ってくる。
きっかけさえ作ることができれば、
思いもよらない話が聞けることもある。
相手はいい気持ちになれるし、
こっちは知らなかったことを知る。
相手が小学生だって同じだ。
(17)
俺は怒ったり、
命令したりはしない。
まずスタッフに聞く。
「こういうふうに撮りたいんだけど駄目かな?」
「このシーンはどうやって撮ればいい?」
最終的には自分のやりたいように
やっているのだが、
もしかしたら
もっといい意見が出るかもしれないから、
まず聞くのだ。
みんな映画が好きで
この仕事をしているわけだから、
意見を求められれば、
一所懸命考えて働いてくれる。
だから手抜きなんか絶対にしない。
スタッフの能力を
最大限に引き出すには、
これが一番だと思っている。
(18)
若いのが作法を学ばないのは、
手本になる大人がいないからだ。
少なくとも男にとっての作法は、
ある種の憧れだったり、
「あのときのあの人は格好良かったな」
という記憶だ。
身近にそんな人がいたら、
強制なんかされなくたって真似したくなる。
鮨の食い方にしても、
酒の飲み方にしても、
昔はそうやって
格好いい大人の真似をして覚えたものだ。
そう考えると、
年寄りが
「いまの若いのは作法がなってない」と言うのは、
天にツバするのと同じことかもしれない。
(19)
ワールドカップを観ていて
相変わらず
「感動をありがとう」なんて
言ってるやつはもうてんで駄目なんだよ。
ほんとうの感動は、
やった奴しか分からない。
如何だったでしょうか?
今回は長文でしたが2回に分けて掲載しました。
味のある言葉(蘊蓄)は何度も読み返して咀嚼してください。
1月 4th,2025
恩学 |
北野武の言葉No2 はコメントを受け付けていません
私たちエンタテインメントの世界では常に「感動」という
言葉が多用されます。感動はあらゆる技術だけでなく
相手の情感をいかに引き出すかの技術が必要です。
これは知識から得られるものでは無く経験から取得しなければ身に付きません。
北野武監督がこのように「感動」を体系化して語る事ができる能力に脱帽します。
喜劇人としてだけではなく映画監督として数々の受賞歴が、
その才能を物語っています。
ほんとうの感動は、やった奴しか分からない。
北野武の言葉No1
(1)
努力すれば、きっとなんとかなるって、
そんなわけないだろう。
一所懸命やればなんとかなるほど
世の中甘くないってことは、
親とか周囲の大人が一番知ってんじゃねえか。
必死にやってもうまくいくとは限らなくて、
どうにもならないこともある、
それが普通で当たり前だってことの方を
教えるのが教育だろう。
(2)
鳥のように、自由に空を飛べたら、
魚のように泳げたら、なんて思わない。
自由を楽しむ生き物などいない。
生きて行く事は、つらく、悲しく、
目的も分からないものだ。
(3)
成功の秘訣は、
いちばんなりたいものじゃなくて、
その人にとっては二番目か三番目の、
違う仕事に就くこと。
自分にはもっとやりたいことがあるんだけど、
今すぐにそれをできる能力はないから
違うことをやってます。
それぐらい自分を
客観的に見られるやつのほうが、
成功する可能性は高い。
(4)
物体は激しく動けば、
それだけ摩擦が大きくなる。
人間だって、激しく動くと熱を持つのだ。
はたから見れば、輝いている人間のことが、
きっと羨ましく見えるのだろう。
だけど、輝いている本人は熱くてたまらない。
星だって、何千光年という
遠くの地球から見れば、美しく輝く存在だ。
「いいなあ、あの星みたいに輝きたい」
人はそう言うかもしれないけれど、
その星はたまったもんじゃない。
何億度という熱で燃えている。
しかも、燃え尽きるまで、
そうやって輝いていなくちゃいけない。
これは真面目に、結構辛いことなのだ。
(5)
いまの社会は、人生とは何かとか、
人間の生きる意味は何か
みたいなことを言いすぎる。
若い人には、それが強迫観念になっている。
何かとそういうことを言う大人が悪いのだ。
自分たちだって、
生きることと死ぬことの意味なんか
絶対にわかってないくせに。
天国や地獄が本当にあるのかも、
神様がいるのかいないのかも、
誰も証明したことがないわけだ。
そういう曖昧な状態なのに、
生きる意味を探せなんてことを言われたら
誰だって迷うに決まっている。
(6)
自分の子供が、
何の武器も持っていないことを
教えておくのは、ちっとも残酷じゃない。
それじゃ辛いというなら、
なんとか世の中を渡っていけるだけの武器を、
子供が見つける手助けをしてやることだ。
それが見つからないのなら、
せめて子供が世の中に出たときに、
現実に打ちのめされて傷ついても、
生き抜いていけるだけの
タフな心に育ててやるしかない。
(7)
他人への気遣いで大切なのは、
話を聞いてやることだ。
人間は歳を取ると、
どういうわけかこれが苦手になるらしい。
むしろ、自分の自慢話
ばかりしたがるようになる。
だけど、自慢話は一文の得にもならないし、
その場の雰囲気を悪くする。
それよりも、
相手の話を聞く方がずっといい。
1月 4th,2025
恩学 |
北野武「感動」 はコメントを受け付けていません
タライの中の水をおせば水は手前に流れてくる
しかしタライの中の水を引けば水は向こう側へ流れてゆく
求めるから失われ、与えれば増えて来る
日本文化は両手をついて「どうぞそちらから」と譲り合う
西洋文化は握手で引き寄せるか!逃げられないように抱きしめる
都合がいいように文化人のマナーというルールを作る西洋文化
好きなものは奪い取ろうとする略奪文化の外国人に対して
好きなものは与えることと教えられた日本文化は謙遜文化である
今個人の幸福感だけで社会がまわってしまっている
一番国民にとって大切な建国の意識がどこにも見当たらない
平和とは戦わないことでは無い!
その上何もしないで手に入るものでもない
今いる我々の国は「多くの若者たちが戦いの中で夢見た
未来に生きている」ことを忘れないで欲しい
明治維新も第二次世界大戦も普通の若者たちが兵士になった
正しい心の導き方
感情を呼び起こすストーリーとは!
人は物語で動くことを忘れていないか?
子供の時に聞いた童話から善悪を教えられ、
親から聞いた先祖の話や家族を含めた一族の話から
守ることと正しく生きていく方法を学んできた
国があって家族がいて動物もいて災難や困難を乗り越えてきた話に
耳を傾けて興奮したことを覚えているのだろうか
そこに物語があったから忘れられない記憶となったはずである
日本の童話は自然界からの話が多く民話として伝えられた物語である
西洋の童話は宗教から来たものが多く教義として伝えられた物語である
これらの物語を聞いて育った子供たちは成人になるとどうなるでしょうか?
学習とは何か?
意味のない方程式や一般常識を教えるだけなら教育は必要ない
国際社会と付き合うためにマナーや語学を教えることも必要ない
それよりも今日本が何をすべきかを教えるべきである
日本人が日本人として自立した意識を持つために過去の歴史を
教える必要がある
日本の教育制度は戦後アメリカが検閲を入れて作られたものである
その為に日本の歴史や日本を取り巻く地理や心の教えの修身が
削除されてしまった
代わりに誇り高く強い日本人を骨抜きにするために
娯楽やスポーツや自由恋愛を奨励した
現状の西洋文化崇拝主義を変えるために
今一度東洋文化を学ぶべきである
江戸時代は特に中国の教えをふんだんに取り入れて
日本は大きく変わることが出来た
寺子屋や多くの私塾は必ず「論語」を子供たちに素読させていた
人の在り方、医術、文化、兵法、儀礼、一般的教養など全般である
日本人はそれらを日本流に変えて確立させた
学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや、
朋あり遠方より来たる、亦た楽しからずや、
人知らずしていきどおらず、亦た君子ならずや、
学びを始めるならなるべく早い方が良い
若いうちに学べばそれを熟成させる期間が長く取れる
私が悔やむのは社会に出てから失敗で学んだので学習する時期が遅すぎた
「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」その通りである。
75歳を過ぎた今でも毎日読書に明け暮れている
勿論、AIを使いながら独自の読書法を取り入れている
若い時学びより経験が先と持論を繰り返したので後悔している
ウォルターオングの言葉
声の文化=オラリティーの世界を考える上で、何よりまず認識して
おきたいのは、その世界においては、ことばは音声に限られ、
そうであるがゆえに、ことばは表れたかと思ったと同時に消え去る
儚い存在であるということです。
人は声で話されることばを、文字として
書かれたことばのように保持しておくことができません。
保持できないのですから、ことばを並び替えて別の意味を
創出させるようなことも、複数のことばを比較して分析するようなことも
むずかしいはずです。
音声のみで考えるということは、文字という記録ツールを使って考える
僕らが慣れ親しんでいる思考とはまったく別物です。
「音は、それが消えようとするときにしか存在しない」
声の文化ではことばに実体がないので、ことばを「見る」ことができない
われわれにとって声の文化を想像することが困難なのはそのためである
「音は、それが消えようとするときにしか存在しない……
「とどまる」ということばを口にするとき、「まる」と発音するときには
もう、「とど」という音は消えている、そして、消えていなければならない」
視覚が得意とするのが静止画(われわれは物を置いてじっくり見る)のとは
対照的である。
声の文化にとってことばは力でありできごとである。
ほぼすべての口語文化が声を魔術としてとらえている。
名づけることはものに力を吹きこむこと、そのものを支配することも
音楽と言う音も一瞬の芸術である
今出た音は過去の音であり耳に残すことは出来ない
次の音が出た時点ですでに過去の音になる
ただ音楽の素晴らしさは余韻を脳に残すことが出来るので
次の音を連想させながら全体を記憶させることが出来る
一方的な演奏者の音は盥の水を引き寄せるのと同じで感情が流されていき
観客の感情を手前に引き寄せれば盥の水のように戻って来る
求めるから失われ、与えれば感動が増えて来る
大切な教えです。わすれないようにしてください。
「小欲知足」遺教経
奪い合えば足らず譲り合えば余る
世界のトップリーダーが学ぶべき教えです
1月 3rd,2025
恩学 |
求めるから失われる はコメントを受け付けていません
ソムリエがワインの説明をする。
ボトルを見せながら産地、品種、評判、味わいなどを言う。
そこで最初に自分の飲んだ味わいを言わないのが礼儀である。
しかし客から問われれば詳しい味わいの感想は述べる。
私はいつもソムリエにあなたのこのワインに対する飲んだ評価はと聞く。
自分が飲んだことの無いワインを客に勧めるのは、単にソムリエの
儀式だけであって、本当の推薦にはならないからである。
ソムリエが最も陥りやすい誤りとは情報と知識(データー)に頼るからである。
そのデータが、最新のものか、使い古したものかは判断に大きく左右される。
大切なことはブドウの品質だけではなく、その時代の政治的背景や世相や
気候の状態なども含まれなければ片手落ちになる。
ワイナリーの歴史と開発者の意図と土壌の特徴が説明されても
まだまだ十分とは言えない。そこにはワイナリーの秘密が存在するからである。
それを聞いて口にするのがワインの醍醐味である。
ここにこのような文章がある。
「ストーリーで選ぶ」
作家塩野七生氏の心に響く言葉より…
私がワインを選ぶときはね、ぜんぶストーリーがある(笑)。
つまりねぇ、私は、その「心」であじわう。
なんども申しますけれど、多くのことは、
やはり「心」であじわうんですよ。
どのワインがいちばんうまいかってを
選ぶコンテストがありますとね、
イタリア人やフランス人は意外とだめなんです。
イギリス人が優勝したりして。
私なんかはワインのいい悪いって、
そんなに神経質になるような問題じゃないと思うの。
飲むときの空気、ヨットの上で飲んだとかね、
つまり潮風の香りとか、いろいろな要素がはいって、
おいしいとね、感じる…
それほど客観的な基準なんて、悪いけどないのよ。
要するに私たちは心であじわう。
そのために歴史や物語が助けてくれるんです。
◇『おとな二人の午後』(塩野七生&五木寛之)世界文化社
ワインのプロなら、産地や葡萄の品種、作った年代等の詳細なデータが頭に入り、
専門的な基準でワインを選ぶだろう。しかし世界中にワインがあふれている現代、
酒造メーカーを選ぶのも、商品を選ぶのも、そこに、愛好家の心に響き、
共感するような物語や歴史があるのかが最も大事になってくる。
その物語が、具体的で、真実味があればあるほど心に訴える。
プロではない一般の人たちは、客観的な基準という細かいデータや
スペックにはあまり関心がない。
全てのワインに、心に響く歴史や物語があると素敵だ。
私には友人から勧められた特別なワインがある。
そのワインはイタリアの小さなワイナリーで作られたものである。
そのワインの原料である葡萄の収穫方法に心惹かれた。
彼らは毎朝、葡萄畑へ向かってオーナーと農夫たち全員で
「今年も良いワインが出来ますように」と神に祈りを捧げていると聞かされた。
そのワインの名は「グランソール(偉大なる魂)」です。
コルクの栓を抜きそのコルクの匂いを嗅ぐ芳醇なチーズの香りがする。
グラスに少量注ぎ口に含み一口目を丁寧に味わう。
最初に土の香りを楽しむ。
フランスではワインの育った土壌はテロワールという言葉をつかい、
土壌、気候、日照、地形など、ブドウが育つ自然環境要因に
昔から重きを置いてきました。なかでも、ブドウ栽培において
土壌はとても大事な要素で、土壌がブドウの味わいに大きく影響を与えます。
例えば、海の近くの土壌で育つブドウで造られたワインは、
海水のようにほんのり塩味が感じられる。
ミネラルが豊富な味わいになったり、これは、貝などの化石を多く含んだ
石灰質の土壌で育つブドウに多くみられます。
このように、ブドウの味に直接影響を与える土壌は、
ワインの個性を生み出します。
ボトルからデキャンタにワインを移し十分に空気に馴染ませてから
お客様に振舞います。その日は妻の誕生日だったのでお客様は家内です。
口に含むたびに味が変化するので家内はとても喜んでくれました。
私は大好きなオリーブの実とブルーチーズで
ボトルが空になるまで堪能しました。
とても不思議なワインで飲み心地が良く毎年誕生日には購入しています。
しかし一般の店頭では販売しておらず申込によって購入が出来るワインです。
塩野七生さんの言うように私もワインを選ぶ時はストーリーを大切にします。
ロスアンジェルスで開かれたオークションでロスチャイルドの幻のワインを
2本購入して、近くのナパ・バレーで当時注目されていたワイナリーのオーナー
ロバートモンダミ氏にお会いして、新商品のオーパスワンを紹介して頂きました。
それ以外にも映画監督で有名なコッポラのワインもモンダミの68年?のワインも
試飲させていただきました。
ここに私なりのストーリーが作られるのです。
世界の最高級ワインと言われるロマネコンティや
シャトーペトリュスなども会員制の倶楽部で友人たちと楽しみました。
北京の友人たちにロマネコンティとダビドフ(高級葉巻)を紹介したところ
世界の市場から商品が消えたという話もありました。
その当時イタリアの高級車フェラーリも町中には溢れていました。
高度成長期の国ではよくある話です。
今は天下の素浪人になったので高級ワインを楽しむ機会は無くなりました。
貴族の嗜みのワインの知識も本棚の奥にしまい込んでいます。
今となれば良き経験をしたと満足しています。
知識は情報から学ぶか経験から学ぶかが大切です。
プロになるのであれば情報も経験も必要ですが、それ以上に会話の妙技も
必要になります。お客様の食事の満足度を誘導するのもソムリエの仕事です。
ワインだけの知識に頼りすぎるとプロとして判断を見誤りますよ。
お気をつけください。
12月 30th,2024
恩学 |
プロの見誤り はコメントを受け付けていません
神田の古本市へ行って予てから念願の鈴木大拙全集を買い求めた。
といっても小本ばかりの六冊シリーズである。
禅の思想・禅問答と悟り・禅による生活・金剛教の禅・禅への道・禅百選・
禅堂の修行と生活・禅の世界。
今までも数冊愛読していたが古書の作品は初めてである。
見るからに古本の様相を呈して開くと独特のカビの匂いがした。
カビの匂いと、カビの胞子なのか鼻と目にまとわりつく。
マスクと眼鏡を着用しなければ読むことのできない曲者であった。
これも古本を読む醍醐味である。
鈴木大拙は日本人の精神の根本である「禅の世界」を英語版で
世界へ紹介した仏教研究家であり哲学者である。
鈴木大拙(だいせつ、1870〜1966)は、禅をはじめとする仏教、
広くは東洋・日本の文化や思想を海外に伝えたことで知られる。
本名は鈴木貞太郎だが、居士号の大拙「Daisetz」の「D」、貞太郎「Teitaro」の
「T」をとった英文表記「D. T. Suzuk」の方が、
ZENに関心を抱く欧米人にとってはなじみがあるだろう。
大拙の業績は、禅の紹介だけではない。
浄土真宗の宗祖・親鸞の『教行信証』を英訳した意義は極めて大きいし、
妙好人(浄土真宗の在俗の信者)に関する
研究成果は『日本的霊性』(1944)などにも現れている。
しかし、禅の真髄を欧米諸国に知らしめたことで、
ZENの紹介者として認知されているようだ。
海外では彼を禅僧だと思っている人も多いが、そうではなく、
そもそも布教の意図や禅の理論や哲学を語る意図は持っていなかった。
「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」、
つまり、全てのものを救おうという誓いに基づき、大拙は彼個人の
参禅体験から導き出された思想を生涯において語り続けたのである。
鈴木大拙は、霊性という言葉を宗教意識というような意味で使っている。
というのも大拙は、霊性という言葉を感性や知性と並列する形で
使っているからだ。
感性が感覚についての、知性が知的認識についての意識であるように、
霊性は霊即ち宗教的な対象についての意識であると考えているわけだ。
この霊性というものは、民族ごと宗教ごとに違う形をとると
大拙は考えていた。キリスト教的、インド仏教的霊性がある一方、
日本には日本人的な独特の霊性がある。
それを大拙は日本的霊性と名づけて、その生成と本質について議論する。
「日本的霊性」と題した著作がそれである。
この著作の中で大拙は、日本的な霊性が芽生えたのは
鎌倉時代だったと言っている。
それ以前の日本人には深い宗教意識はなかった。
仏教や神道が存在したではないかとの反論があるかもしれぬが、
仏教は上層階級に限定されて一般庶民とはあまり係わりがなかったし、
日本古来の神道は、宗教と言うよりは、
「日本民族の原始的習俗の固定化したもので、霊性には触れていない」。
ある民族が霊性に目覚めるためには、「ある程度の文化段階」に進む必要がある。
日本人の場合、鎌倉時代に至って初めてそのような文化段階に至り、
全民衆的な規模で霊性に目覚めたというのである。
鎌倉時代に目覚めた日本的霊性を大拙は、禅と浄土系思想がもっとも
純粋にあらわしていると考えた。
両者とも大陸から伝えられた仏教系の思想をもとにしているが、
鎌倉時代の日本人は、それを外来の思想として受け入れたのではない。
それらを日本人独特の宗教意識とマッチさせるような形で、内面化した。
ということは、外来の思想が日本人の宗教意識を高めたというよりは、
もともと日本人の中に潜在的にあった宗教意識が、
これら外来の思想を触媒として花開いた、というべきであると大拙は主張する。
そこで何故、鎌倉時代以降の日本人が、絶対者との超越的な係わりを
主題にした宗教を発展させるようになったのか、が問題となるが、
大拙はそこまでは触れていない。
終戦直前の1944年に出版された「日本的霊性」は、
一般に、大拙の代表作とされています。
つまり、禅は、日常の活動の中での悟りを重要する
動態的なものであるということです。
また、禅の思想を「無分別の分別」、禅の行為を「無功用」という
言葉などに代表させています。
単なる「無分別」ではなく、「分別」があること、
そして、それが行為において働きとなることがミソなのです。
人類が今、第一に優先すべきことがある。
それは地球温暖化を止めることよりも、核戦争の危機を回避することよりも、
闇の勢力が云々と言うよりも、目先のお金のことを考えるよりも大切なこと。
それは鈴木大拙が1945年焼け野原になった日本国土を見つめながら言ったこと
「日本には日本的霊性的自覚が足りなかった」、この言葉と繋がりであり、
今人類には日本的霊性的自覚が欠如している。
では日本的霊性とは何か?それは物質に対比した精神ではない。
物質-精神などという二元を超克した「一」の世界、無分別智である。
そこに繋がらない限り、人類はヤ・バ・イのだ。
そして特に日本人であるならば、日本的霊性的自覚に目覚めなければ
ならない使命がある。
日本は他国を真似してはならない。
他の国が武力や経済力で自国を守ったとしても、日本はその道を選ばない。
日本は徹底的に日本的霊性に繋がることを命とする。
だから1945年8月15日の昭和天皇の終戦宣言があったのだ。
過去の歴史の解析はいろいろとできるだろう。
しかし最も高い視座からみた時にはやはりこの国は「知っている」のだと
感心する。鈴木大拙が言っていた「二元論は対立理論であり、
それが世界を平和にできるわけがないのだ。」と。その通りである。
今人類がしなければならない唯一のことは、「一」との接続。
これに尽きるのだ。
そしてそれは難しいことではない。
何も痩せ我慢して悟った良き人のフリをすることでもない。
脳の錯覚世界と心の実在を明確に分け、
世界を脳で捉えるのではなく心で捉えるだけである。
そしてこの技術の秘密が「言語」にあるため、新しい「言語」を
習得するだけのことなのだ。
初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
この言葉は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
次の時代への鍵は間違いなく、「言語」です。
それは歴史を知り、日本的霊性を知り、無分別の分別を知るところから始まる。
言語と共に日本的霊性再認識の時代へ突入したのである。
12月 29th,2024
恩学 |
日本的霊性 はコメントを受け付けていません