音と音楽




3月 6th, 2024 再投稿(改訂版)

音は自然界の音と古代人が二足歩行になってから、手を叩き、石を叩き、
落ちている木を叩き、手当たり次第に叩き回って、音を出していたのでは
無いかと推測される。それは襲ってくる動物から身を守るためのものであり、
神への祈りでもあり、歓迎の儀式でもあったかと思われる。
現代でもアフリカの民族の中には同じ行動をする種族もいる。

中国雲南省の山の民族は歌いながら求愛行動をする部族がいるという事です。
山を隔てて若い二人が歌いながら愛を告白する姿は、
まるで鳥のようであると言われている。
スペインの原始人はアルタミラ洞窟の中で火を焚き朦朧とした中で
壁画に没頭して描いていたとされている。壁画が書き終わるまで、
穴の入り口では物を叩いて音を出し大声で叫んでいたのでは無いかと推測される。

楽器の原型はすでにギリシャ時代からあり音楽として発展したのは
中国が発祥では無いかと思われる節がある。
音楽の文化でわかっていることは、BC.4000年ころに、
西南アジアに住んでいたスメル人によって作られたといわれている。
ペルシャ湾に近いウルという町からは、黄金をちりばめた楽器や、
楽人が演奏している図らしい彫り物なども発見されている。
西南アジアの文化は、エジプト・アッシリア・バビロニアへと広がり、
さらにアラビア・インド・中国へと伝わっていった。

また原始時代は今に残る遺跡や文字等ができる以前の時代であり、
比較的小さな集団で地域に合った生活を営んでいて、音楽においても(楽譜)と
いうものは無く、その場で即興的につくられたものだったと思われる。

生活様式と音楽との結びつきは密接であり、(協同)で作業する人々は
合唱や合奏が上手で、あらゆる機会に音楽したと思われ,子守歌や愛の歌,
喜びや悲しみを歌ったもの, 神をあがめた歌や労働のときの歌があったと
考えられる。また、古代以前の人々には音楽に魔的な力があると考えられ、
呪術や医療などにも音楽が使われていた。

楽器についても当然使われていただろうと考えられる。草、木、土、石、
骨など自然素材を利用し、簡単な(笛)や(打)楽器が用いられたと思われる。 
古代文明は紀元前3000年頃から始まり、メソポタミアや(エジプト)の遺跡には
楽器を演奏している様子を描いたものが多くあり、そのことから、かなり進んだ
音楽をもち、公私にわたり音楽が重要な役割をはたしていたことがわかる。
また、そうした音楽に必要な楽器も、この時代にはある程度の形を整え、
機能的にも十分に使用に耐えるものになっていた。

日本では、楽器には、東洋独特のものがあり、曲や音の扱い方などにも特徴がある。
まず縄文時代 BC.5000年では、打製石器を使って狩猟漁労が始まった。
そして、動物型や土偶の中には、明かに音を出すことを意識して作られたものがあった。声をあげるのがおもで、そのあいまにごく簡素な楽器が奏でられたのだった。

今日出土しているのは石笛その他、土笛、土鈴を双口土器及び象形土製品等がある。
ついで弥生時代 BC.200年に稲と金属使用とともに農耕社会が形成され、
収穫期にはシャーマニズム信仰による儀式が行われ、その儀式に付随して簡単な
歌謡や舞踊がはじまった。始めは即興的なものであったとされている。

この歌謡の形が芸能として後世まで伝わったと考えられている。
その楽器のうちこんにち出土しているものは陶、琴、銅鐸である。
それからも音楽は依然として歌と舞が中心だったが出土する楽器は増え、
笛、鈴、琴、太鼓、鼓、四ッ竹、それと共に歌いながら踊る楽人の集団が
すでにそのころ発生していた可能性があるといわれている。 

また「うた」の音域はせいぜい5度以内で、リズムは2拍・4拍を楽器で
きざむか無拍節リズムといわれる自由リズムで、音の高低だけで
メリスマティック(1つのシラブルについていろいろと異なった高さの音を
用いて長く延ばして歌っていく、このような歌い方は、今日に至るまで
邦楽のごく一般的な歌唱である)に歌ったと思われている。 

「うた」と「ことば」は互いに密接に関連して切り離して考えられないもので、
江戸時代が終わるまで音楽を楽しむということは、歌を歌うことだった。
音律とは、音律の歴史をみると、古代ギリシャまでさかのぼる。
ピタゴラスが活躍した時代であった。古代ギリシャ時代には
こんにち私たちが使っている音楽理論の基礎の多くが、
ピタゴラスたちによってすでに開拓されていた。

音律もそうである。ピタゴラスが作った音律は「ピタゴラス音律」と呼ばれて、
古代ギリシャだけでなく、その後も単旋律の旋律を美しく響かせる音律として、
グレゴリオ聖歌が中心的な存在であったヨーロッパ中世から
13世紀にいたるまで幅広く支持されていたといわれている。
彼はモノコードという楽器で弦の長さを比較して、音がどのように
鳴り響いているのかを数学的に解明しようとした。
そして、弦の長さを半分にすると音は1オクターブ高くなることを発見し、
さらに弦の長さを3分の2にすると「ソ」の音が出ることを発見した。
また「ソ」の音の弦の長さを3分の2にして「レ」というふうにして
音を作っていき独自で音律を作った。音の起源より

今回の文章は学生から縄文時代にも音楽はありましたかと言う
質問から書いてみました。
先日、縄文時代の研究をしている会でも同じような質問があり、
私は持論として絶対ありましたと言い切りました。
真偽は定かではありませんが多少なりとも文献も残っています。

縄文土器の波型模様、三内丸山遺跡のやぐら、明らかに酒造りをした
壺も見つかり、神への祈りと共に収穫を祝う祭りが執り行われていた。
そこには絶対音楽が無くては成り立たないと言いました。

おそらく縄文土器の波型は音楽を聴きながら、
音符の様に作られたのではないかと推測します。
縄文人はうめき声のような声を発して歌も歌っていたと思います。

そして踊りを踊るダンサー(巫女)もその場を盛り上げたと思います。
古代史を想像すると話は尽きなくなりますね。笑い

音と音楽、未来はどのような進化があるのだろうか?
AIが作り出す楽曲がヒットを飛ばしている様子が目に浮かびます。


音楽プロデューサー




私が音楽に目覚めたのは中学3年生の時だった。
同じクラスの不良少女がビートルズの「A hard day`s night」を
ホウキ片手に歌っているのを見て衝撃を受けた。
ただの不良少女だと思っていたのにいきなりディーバーとして現れ
尊敬をしてしまった。私も勉強嫌いで不良では無かったが冷めた子だった。

高校生になってラジオからボブディランの「Blowin’ in The Wind 」が
流れてきた時には、ただただ憧れが心から湧き出てくるのを
止めることは出来なかった。
それと同時にこんなガラガラ声でも歌手になれるなら
自分にもなれるかと勘違いをした。
家には親父の古いアコスティックギターがあつたが弾き方は分からなかった。
早速楽器屋で譜面を買ってコードを覚えた。
耳から聞いた音をコピーし始めた。しかしあまり上達はしなかった。

高校のクラスメイトがPPM(ピーター・ポール&マリー)のコピーバンドを
組むので入ってくれと頼まれた。PPMはボブディランのカヴァーを
何曲もしていたので練習になると思いバンドメンバーになった。
何よりも楽しみはマリーパートの女の子が可愛かったことである。
工業高校は90%が男子で女の子に触れ合う機会が無かったから天国だった。
そこから歌とギターの猛特訓が始まった。

そのころ人気の「YAMAHAのライトミュージック」のオーディションにも出た。
かなり上位に食い込んだ。なんとなくその気になってきた時、
京都のお寺の参道で練習していた時にドイツTVの取材まで受けた。
その時同席していたNHKの担当者とも仲良くなった。
取材の内容が結構評判が良かったと聞いたのでメンバーは喜んでいた。
少しだけプロの世界へ足を踏み込んだ気分になった

大阪で人気のあったラジオ番組ヤングタウンにも出演して盛り上がったのだが、
気分的には1人でボブディランをやりたかったので、その後バンドは解散した。

大学に入り本格的にボブディランのコピーを始めた。
自分でハーモニカーホルダーを作り、校庭でハーモニカーを吹きながら歌うと
学生たちが大勢集まってきた。外大の英米語学科だったので発音は気にした。
そして「アメリカン・フォークソング・クラブ」からお声がかかり入部した。
ここからオリジナル曲も作り出しコンサートに出演するようになった。
本格的に何も訓練をしていないくせに平気で人前で歌った。

大学の夏休みに一番衝撃を受けたのが70年中津川フォークジャンボリーに
行った時である。岡林信康や吉田拓郎や加川良に惹きつけられてしまった。
私も第二ステージの下で、飛び入りで「友よ」を歌ったら大合唱が始まり
益々調子に乗ってしまった。
もしかしたらプロとして活躍できるのではないかと錯覚をしてしまった。

大学3年で中退して学校近くの工事現場で1年間アルバイトをした。
当てもないが英国へ行き音楽の勉強をしたかったからだ。
一番安い行き方が北回りで船や飛行機や列車を乗り継いで行くコースだった。
愛読書であった五木寛之「青年は荒野をめざす」に書かれていたコースだ。
横浜から船に乗りソ連経由で北欧を通過して12日ほどでロンドンへ入国をした。
着いたその日のうちに住むところとバイトを見つけ英会話の学校にも登録をした。

英国へ到着した時入管でトラブルがあってビザが1か月しかもらえなかった。
銀行口座を開設して見せかけの貯金残高と在学証明書は必須だった。
早くすべての書類を整えて再申請しなれば不法滞在となってしまう。
あとは管理局へ出向きビザの延長をするしかなかった。
当たって砕けろ!何とかなるさ。なにも怖くは無かった。

ロンドンに着いて少し落ちついてきたところで、
アコスティック系アーティストのサマーフェスがあることを知り
飛び入りで参加しようと会場に乗り込んだ。
しかし控え室のテントの中で周りの出演者のテクニックを
目の当たりにしたら血の気が引いた。
ギターテクニックのオープンチューニングなど知らなかったからだ。
自分の未熟なレベルで出演したら日本のアーティストの恥になると思い
飛び入り参加は断念した。

今の自分のレベルで地下鉄や街角で歌うには良かったのだが、
ステージで歌えるレベルでないことに気づきショックを受けた。

それでも何故かバイト先で世界的有名なドラマーのエルビン・ジョンを紹介され、
デパートで時間を潰していたら目の前にアメリカの人気歌手
ジェーム・ステーラーと偶然出会い、
ジャズクラブで声をかけてきたギターリストがバーニー・ケッセルという
凄いおじさんだったりして音楽から逃げ出せない運命だと気づいた。

これはプレーヤーとしては無理だがプロデューサーになるしか無いと
決心したのである。
そして1年7ヶ月滞在したロンドンを後にして日本へ帰国した。

日本には帰るところがなかったので、ホテルに2泊3日で泊まることにした。
チェックイン後すぐに音楽雑誌を購入して雑誌社へ電話をかけた。
ヤングギターの編集長から色々情報を聞き出し、一番良いとされたレコード会社
CBSSONYへ即電話を掛けた。

「ロンドンから先ほど帰国して才能があるから採用してほしい」
受けた相手は驚きながらも折角だからスタジオへ遊びに来たらどうですかと
誘ってくれた。今夜でも良いですかと返事したら六本木飯倉片町に
CBSSONYのスタジオがあるからどうぞと言われた。
生まれて初めて本格的な録音スタジオへ足を踏み入れたのである。

その時、私はロンドンから帰ってきたばかりである。
アフロヘアーにロンドンブーツ、破れたジーパンに毛皮である。
スタジオのドアを開けたらスタッフが目を丸くして迎えてくれた。

スタジオでのバイトが始まり数ヶ月してから正社員として採用された。
最初は勝手に宣伝プロデューサーと名乗り仕事をした。
すでにバイトの時に実績は認められていたので誰も反対はしなかった。
それはレコーディング中に聞いた楽曲「いちご白書をもう一度」を
独自の方法で宣伝して回ったら、その曲が大ヒットになったのである。
異色の業界-デビューであった。

それ以来、癖のあるアーティストはほとんど回されて来て担当になった。
しかしそのアーティスト達が時代の要求にはまり殆どがスターになった。
アーティストが売れると同時に私もプロデューサーとして評判がたかまった。
そして念願の制作プロデューサーとなってヒットを量産するようになった。
私の独自の売り出し方が評判となり取材を何度も受けた。

80年代後半に時代が変わりデジタル化になったことと
ハウスプロデューサーとしての興味が薄れ18年間勤めたCBSSONYを
退社して独立をした。その時に系列会社の社長にならないかと声がかかったが
もうサラリーマンは卒業ですと辞退した。

そして独立して10年間は苦労の連続だった。
やはりSONYという金看板は大きかった。付き合ってきた様々なメディアも
手のひらを返すように態度が変わった。仲の良かった作詞家や作曲家も離れていった。
私の強引さは独立した途端に傲慢な人物として嫌われたのです。
会社を辞めたら応援すると言っていたプロダクションの社長達も
訪ねていくと居留守を使われた。

冷ややかな時が過ぎていく中でアメリカのメーカーとの契約が突然切られた。
その時に倒産と破産を同時に味わった。

2000年絶望の淵からコンピューターのシステム会社へ転職した。
暫くは音楽を離れて苦手な業界へ身を置くことにした。
システム会社の取引先が韓国に有ったのでソウルへ何度も訪れた。
ホテルのテレビで見たドラマに興味を持ち日本へ紹介をした。
同時に配給会社も設立した。しかし日本での反応はイマイチであった。
その後NHKで「冬のソナタ」を放映したら爆発的に韓流ドラマの人気が出た。

同時期に中国の友人から中国の演奏家グループ女子十二楽坊を紹介された。
友人は各レコード会社から民族音楽は絶対売れないからと断り続けられたと言った。
友人から預かったビデオとデモテープを聞いて即北京へ飛んで契約をした。
その後女子十二学坊のプロデューサーとして参加して空前絶語の大ヒットを飛ばした。

プロデューサーは好奇心が旺盛で行動力がなければヒットは作れない。
私は常に「感即動」心で感じたら先ずは動いてみるがモットーです。
信念が変わらなければどんな分野に居てもチャンスは訪れるのです。

それらの経験を元に生き方や人生の醍醐味をノートに書き始めました。
常に人の心を見つめながら、感情の発露を気に留めてきました。
時代によって移り変わる人としての価値観、その価値観によって変わる感情、
自分から作り出す精神的な強さや脆さ、他人から影響を受ける感情の起伏、
それらをブログ「恩学」として書き始めたのです。
それが今や500作を超えています。恩から始まり恩に終わる人生です。

音楽から離れない人生に感謝しています。
私は一生音楽プロデューサーです。


学びとは




「吉田松陰の言葉」

安政元年三月二十八日、吉田松陰が牢番に呼びかけた。

その前夜、松陰は金子重輔と共に伊豆下田に停泊していた
アメリカの軍艦に乗り付け、海外密航を企てた。
しかし、よく知られるように失敗して、牢に入れられたのである。

「一つお願いがある。それは他でもないが、
実は昨日、行李(こうり)が流されてしまった。
それで手元に読み物がない。恐れ入るが、何かお手元の書物を
貸してもらえないだろうか」

牢番はびっくりした。

「あなた方は大それた密航を企(たくら)み、こうして捕まっているのだ。
何も檻の中で勉強しなくてもいいではないか。
どっちみち重いおしおきになるのだから」

すると松陰は、

「ごもっともです。それは覚悟しているけれども、自分がおしおきになるまでには
まだ時間が多少あるであろう。それまではやはり一日の仕事をしなければならない。
人間というものは、一日この世に生きておれば、一日の食物を食らい、
一日の衣を着、一日の家に住む。

それであるから、一日の学問、一日の事業を励んで、
天地万物への御恩を報じなければならない。
この儀が納得できたら、是非本を貸してもらいたい」
この言葉に感心して、牢番は松陰に本を貸した。

すると松陰は金子重輔と一緒にこれを読んでいたけれど、
そのゆったりとした様子は、やがて処刑に赴くようには全然見えなかった。

松陰は牢の中で重輔に向かってこういった。
「金子君、今日このときの読書こそ、本当の学問であるぞ」
牢に入って刑に処せられる前になっても、松陰は自己修養、勉強を止めなかった。
無駄といえば無駄なのだが、これは非常に重要なことだと思うのである。
人間はどうせ死ぬものである。

いくら成長しても、最後には死んでしまうことには変わりはない。
この「どうせ死ぬのだ」というわかりきった結論を前にして、どう考えるのか。
松陰は、どうせ死ぬにしても最後の一瞬まで最善を尽くそうとした。
それが立派な生き方として称えられているのである。

「どっちみち老人になればヨレヨレになるのだから、体なんか鍛えてもしょうがない」
「どうせ死ぬ前は呆けたりするのだから、勉強してもしようがない」
確かに、究極においては「しょうがない」ことだろう。
しかし、究極まで行くと、そもそも生きることに意味がなくなるのではないか。

吉田松陰は、少なくとも生きている間は天地に恥じないように、
何かに努めなければならないという心境だったのであろう。

それは生きている間は、一日の食事を摂って、一日の着物を着て、
一日の住み家にいるわけだから、そのことに対して恩返しをしなければならない
という考え方から出てきた心持ちであったようだ。
これは尊い生き方であると思う。

この文章を読んでいるときに山川菊枝の「武家の女性」の一説を思い出した。
<子年のお騒ぎ>の章である。

天保元年、水戸藩における改革派と保守派の争いの時に謀反の罪に
問われたときのはなしです。

武田耕雲は二人の大きい息子と一所に斬罪となりましたが、
年のいかぬ子供や孫、妻も嫁も合わせて男八人女三人、一家十一人が
この事件の犠牲となりました。

長子、彦左衛門の妻いくは、東湖の妹で、十五歳、十三歳、十歳の三人の男児と
一所に入牢中、「論語」を教えていたのを牢番が見て、
「どうせ死んでいく子に、そんなことしても無駄だろう」というと、
いくは居ずまいを直して、「この三人のうち、ひょっとしたら一人ぐらいは
赦されないとも限らない。その時、学問が無くては困るから」と答えたと言います。

しかしその期待も空しく、三人が三人とも斬られ、
いくは牢内で食を断って自殺しました。

武田の妻は三歳の男児を抱いて入牢しましたが、
ある日珍しくお膳にお刺身がついていたので、ハッとしました。
もちろんこれは死出のかどでの、最後のご馳走の意味でした。

そうとも知らず、抱いた子が喜んで手を出そうとすると、
「武士の子は斬られた時、腹の中にいろいろな物があっては見苦しいから」
と抑えました。

私はこの「武士の女性」と「特攻隊員」の母親に送った遺書を読むたびに、
日本の女性の凛とした精神力に涙して頭を下げずにはいられなくなります。

GHQに骨抜きにされた日本人。世界から尊敬されていた日本人の心が
根こそぎ奪われて軽佻浮薄な人間にされたことが悔しくてたまりません。

ここに「さんとう」という言葉があります。
電力の鬼と言われた 松永安左エ門の言葉だ。

「闘(とう)病、投(とう)獄、倒(とう)産」のような大きな挫折を
味わったことのない人間は、大したやつにはならない、ということ。
大きな挫折にあったときの態度や行動言動が、「人物」であるかどうかを決める。

最後の最後まで投げ出さずに努力や勉学の情熱を燃やし続けるのか、
はたまた自暴自棄になってやる気を失うのか。

「たとえ明日、地球が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える」
という マルティン・ルターの言葉がある。
たとえ、明日地球が滅びようとも、未来のために木を植える人でありたい。

人生は恩に始まり恩に終わるのである。
人として恩返しが出来なくては悔いが残るであろう。
命途切れる日まで学びは終わらない。


音は心の中で音楽になる




音楽としての音がある。さまざまな音楽を聞く事によって、
楽しくなったり、悲しくなったり、嬉しくなったり、切なくなったり、
心の中にそれぞれの表象が現れる。
音楽としての音がある。美しい旋律と心地よいリズムと熱きメッセージは、
未来の願望であり、過去の記憶であり、現在の活力でもある。
音楽としての音がある。忘れたエピソードが音楽によって目覚めさせられる、
叶えられない恋も叶う気がしてくる、見果てぬ夢も捕まえられる気がしてくる。

音楽にはそれぞれの景色がある。視覚で捉えたイメージが記憶に残り、
その記憶は好みの音楽を聞く事によって蘇って来る。

音楽は絵画や彫刻とちがって時間芸術である。
演奏者と聴衆のあいだで常に交感をしなければ、
ただの音として消えて行くだけである。
一瞬のやり取りの中に鮮やかな景色が浮かび上がり、
その時に感じた心象風景と重なり合うのである。

音は心の中で音楽になる
大好きな人と大好きな音楽を聞く心を通わせながら 
ときめきの調べを聞く星も月も太陽も愛の賛歌に声を合わせる
悲しい出来事に涙して勇気を与え嬉しい出来事に微笑んで 
笑顔を与える心が穏やかだと聞こえる音すべてが優しくなる

そして音は心の中で祈りになる

また、音楽は脳や心にどのような影響を与えるかにこのような文章があります。
「文字文化を持たない社会はあるが、音楽文化を持たない社会はない」
といわれるほど、人にとって音楽は身近なものである。
音楽を聴くことで自然と気分が向上したり、リラックスしたりするということは、
おそらく多くの人に経験があるだろう。その経験からも分かるように、
音楽は人の心と身体にさまざまな影響を与える。

音楽には特定の感情を誘発させる効果や、“覚醒水準を調整する効果”があることが
多くの実験によって確かめられている。
覚醒水準を調整する効果とは、脳や神経の覚醒水準が高いときはそれを抑え、
低いときは高めるという働きである。すなわち、過度の興奮状態であれば
それを抑え、過度の落ち込み状態であれば気分を高める効果を持つ。
音楽は音の集合体です。澄んだ音であれば澄んだ音楽になります。

自分の大好きな音が集まればそれだけでも音楽になり脳にも心にも影響するのです。
子供の頃から大好きな人の話す声は音楽のように聞こえていた筈です。
そして大好きな人の表情は素敵な映画を見ている様だった筈です。
大好きな人と経験を共にすれば思い出が色あせても記憶にずっと残るものです。

日常の風景が全て音と繋がるのです。

「音は心の中で音楽になる」
谷口高士編著

内容説明
心理学の本を探せば音楽心理学のことがわかるかというと、
まずそんな項目は存在しない。それなのに、世間では「音楽心理学」とか
「音楽療法」などという言葉だけが、どこからともなく現われて目の前に
ちらついている。これでは、「音楽心理学って何?」とたずねたくなるのも
無理はない。特に最近は、「音楽」と「癒(いや)し」がセットになって
頻繁にマスコミに登場している。いったい「癒し」とは何か、音楽の何がどのように
人間に効果をもたらすのかということを曖昧にしたまま、音楽療法のなにやら
身近でとっつきやすそうなイメージだけが広まっている。

楽器を演奏できる人が、自分にも「音楽療法とやら」ができるのではないかと
勘違いしてしまう。そのような、音楽を知っているが音楽心理学に対しては
疑問や期待(あるいは幻想)を抱えている人のために、本書の企画は生まれた。
もちろん、これから音楽心理学研究を始めようという人にも役立つものである。

人はどうして音楽するのか? 音の集まりがどうして「音楽」として
感じられるのか? 音楽を聞き演奏する時に心や頭の中で何が起こっているか?
音楽にまつわる人の認識,思考,感情のメカニズムやプロセスについて研究する
分野の本格的入門書。

目次 はじめに
1章 音楽心理学の方法
 1節 観察法
 2節 実験法
 3節 質問紙法
 4節 各研究方法のまとめ
  メッセージ これから音楽心理学を始めようと思う人たちへ
2章 旋律(旋律の音高的側面)
 1節 楽音(音の高さ)の知覚
 2節 メロディ認知における(音高の側面の)群化・体制化
 3節 旋律線の処理
 4節 調性:調性的体制化
3章 リズム(旋律の時間的側面)
 1節 音楽心理学におけるリズム研究
 2節 時間構造の知覚に関する研究
 3節 拍節構造の知覚
 4節 関連するその他の研究
4章 音の響き
 1節 協和とは何か
 2節 うなりと差音,そしてバーチャル・ピッチ
 3節 音色は何で決まるのか
 4節 和音や音色の使用と評価
5章 音楽の聴取
 1節 音楽作品間での違いが気になる場合(刺激間要因を問題にする)
 2節 音楽作品内での違いが気になる場合(刺激内要因を問題にする)
 3節 聴取者間での違いが気になる場合(聴取者間要因を問題にする)
 4節 聴取者内での違いが気になる場合(聴取者内要因を問題にする)
6章 音楽の記憶
 1節 記憶と表象
 2節 リズムの表象
 3節 音の響きの表象
 4節 旋律(音系列)の表象
7章 演奏と作曲
 1節 芸術的逸脱
 2節 演奏技能の発達
 3節 創造的活動としての作曲
8章 音楽療法
 1節 音楽療法の概念
 2節 音楽の意義と音楽療法の目標
 3節 音楽療法セッションの実際と理論的基盤
 4節 音楽療法と即興演奏
9章 音楽と脳
 1節 脳の構造
 2節 機能局在
 3節 脳損傷研究──聴覚失認
 4節 画像研究

ご興味があればお読みください。
推薦します。


伝統を守ることと伝統を破ること




臨済宗大本山 円覚寺 官長横田南嶺様
私はこの文章を拝読してまさに膝を打つ思いでした。

「伝統を守るとは、伝統を破らなければならない。
伝統の玄人の域を脱してゆくこと、即ち玄人ではないものが現れることである。
総じて改革・革新・革命とゆうような事には、必ずそこに素人的なもの、
伝統的、玄人的でないものが働いて来るものである。」

さてみなさまはどのように思われたでしょうか?

端的にいえば、中国の禅は美の世界とは全く無縁であった。
まして造形美術とは何の因縁も持ちあわさなかった。
墨蹟、絵画、庭園、茶などが禅と因縁づけられることによって特殊の美の世界を
作ったなどということは、中国禅の歴史にはかつてなかったのである。

それが日本禅において、にわかに展開するようになったというのは、
いったいどういうことなのであろうか。
きびしくいえば、「むしろ禅の頽廃と断じる見方もありうるのではないか。」
というものです。

今世間で、禅というと、水墨画や墨蹟、あるいは最近禅画といわれるもの、
枯山水の庭、茶道などが思い浮かぶことが多いのです。
しかし、それらは決して中国由来のものではないというのです。

確かに墨蹟などは、中国のものが重んじられていますが、今日の日本で
尊ばれているように、禅の芸術としてみているのではなかったのでしょう。
相手に自分の気持ちを伝える書簡であったり、相手に教えを示す法語であったり、
それぞれ用途があってのものです。観賞用でなかったことは確かなのです。

枯山水の庭が禅だと思うと、中国の禅寺には無かったものでしょう。
伝統を伝えているといいながらも、決して中国のものを、
そのまま継承しているのではなく、そこに新たな発展があって、
今日の日本の禅となっているのです。

つまり伝統を伝えるということは、過去のものをそのまま忠実に守る
というのではないということであります。

「伝統を破ること、或はまた新しく創造することは、
伝統の玄人の域を脱してゆくこと、即ち玄人ではないものが現れることである。
総じて改革・革新・革命とゆうような事には、必ずそこに素人的なもの、
伝統的、玄人的でないものが働いて来るものである。

それは、素人には、自由な、過去の物に拘らない、
情実や殻を持たない理性の力が働くからである。

かくて、私は、禅についても、この素人的なものの出現することを望みたいのである。
そして、かかる点で従来の禅門に於いてあまり重んぜられなかった
学校教育が盛んになることを望みたいと思う。」

伝統の玄人というのは、尊ぶべきものであります。
そういう人によって伝統は伝えられているのであります。
しかしまた、この伝統の玄人が、伝統の世界を狭くしてしまっている
一面もありはしないかと考察することも必要であります。

禅の歴史は、常にこの玄人的なるものを打破してきたところにあります。
近世の禅にしても、至道無難禅師の仮名法語などをよむと、
この玄人ではない一面を持っておられたと思います。
正受老人もそういう一面を持っておられたと思います。

いやさかのぼれば、臨済禅師という方などは、伝統の仏教学からみれば、
玄人の域を脱したと言えましょう。

臨済禅師の説法は、「自由な、過去の物に拘らない、情実や殻を持たない
理性の力が働く」と言えるでしょう。

「禅では自己を仏とする。自己の外に仏というものはない。
何処までも生きた仏というものを本当の伝統とするわけである。
伝統とは決して、形のあるものを伝へて来るという事ではない。
伝統、特に禅の伝統は形のないものが形のないものを伝へる事でなければならない。」
というのであります。

もちろん今日の禅の芸術も尊く大事にしなければならないのですが、
禅の本質は、この形のないところにこそあります。

「つまり、この師資相承という、禅で最も重んぜられるこの伝統というもの、
而も禅ほどこの伝統が脈々と継がれているものは、他の宗旨に於いては
見られないと思うが、それは、形のないものが、形のないものを伝へる事である。
形のないものであるから一方でいうと伝へる事もないわけで、
伝へる事のないのが、禅の真の伝統であり、無伝統の伝統とはこの事である。」
と説かれているのです。

「伝統を常に破って、その伝統から絶えず抜け出て行く事が、
真の伝統を守る事になる」という言葉は肝に銘じたいものです。

「「無伝統の伝統」を実践し、公案以前の「独脱無依」の絶対無的主体に
立ち還らせる「主体的公案」を創造することこそが、
「禅学即今の課題」だというのである」とまとめてくださっています。

もちろんのこと、伝統を破るだけではなにもなりません。
かといって伝統を守るだけでも伝わらないのであります。

伝統を守ることと、伝統を破ることは、常にふたつ相俟ってこそ
伝統は守られ、継承されてゆくのであります。
そんな中でもっとも大切なことは何かを学ぶためにこそ、
たとえば『臨済録』という書物があります。

ただこれも伝統という枠組みの中で読んでいたのでは、
却って真意を見失うのです。
また室町時代の一休禅師という方も常に、この伝統を守ることと
伝統を破ることの二つを行って真の伝統を明らかにしようとされていたのでは
ないかと思います。

臨済宗大本山 円覚寺
官長横田南嶺

私から何も追記はありません。
敬服の至りです。
横田南嶺禅師から学びました。

今も南陵禅師のサイン入りの本を肌身離さず読んでいます。
感謝・合掌


沈黙の春




解剖学者で昆虫好きな養老孟子さんがこのようなことを言っていました。
昔は高速道路を走っていると窓ガラスに虫がバンバン当たってきて
すごく汚れていたのに、最近その汚れが少なくなってきたと思いませんか。
虫が減っていることには、気候以外にもいろいろな要因がありそうで、
相当深刻な問題だと感じています。1990年から2020年までの30年間で、
世界中で昆虫の8・9割が消えてしまったと言われています。

つまり生き物が増えなくなっている。
増えにくい環境を作ってしまっているのではないかと。
虫の変化を見ているだけでも、相当な危機が迫っていることがわかります。
虫がここまで減ると、次に鳥が減りますから。
虫が減ると植物が実らなくなって、山で食べられるものが少なくなります。

昆虫が居なくなると山の生態系が崩れるので動物たちの食糧が無くなる。
最近、鹿や熊が町中に出てきて餌を探すようになったのはそのこともある。
それをくい止めるのは犬を放し飼いにすることが一番効果であるが、
今の日本では無理な話であろう。
昔より地域住民のつながりが弱くなったから難しいのだと言います。
養老孟子

「センス・オブ・ワンダーを授けて」
海洋学者レイチェル・カーソンが残した言葉。

私たちは大人になって、つまらない人工的なものに
夢中になっていないだろうか。
自然の中に身を投じ、「センス・オブ・ワンダー」すなわち
「神秘さや不思議さに目を見張る感性」を子どもたちに授けることが、
今後、地球を守っていく私たちの使命だ。『沈黙の春』の著者
レイチェル・カーソンの最後のメッセージ。 

1962年に出版された名著『沈黙の春(Silent Spring)』は、
出版されるやいなや社会を揺り動かした。
なぜなら、急速な経済発展に伴い、農薬や化学物質が次々と開発されていた時代に、
その乱用の危険性を先駆的に鋭く訴える内容だったからだ。
こうした化学物質は、動植物の食物連鎖によって生体内に濃縮して蓄積され、
やがて環境汚染を引き起こす。

レイチェル・カーソンは、最後は人間まで汚染される
と警告したのだ。人間が自然の生態系を大きく壊しているという
彼女の告発は、当時のアメリカ大統領をも動かし、
のちに環境保護庁が設立されるきっかけとなった。
もし、この時、彼女が警鐘を鳴らさなかったら、
地球環境は今よりもさらに汚染が進んでいただろう。

「静かに水をたたえる池に石を投げこんだときのように
輪を描いてひろがってゆく毒の波。石を投げこんだ者はだれか。
死の連鎖をひき起こした者はだれなのか」

「沈黙の春』が出版された2年後、彼女は癌でこの世を去った。
56歳だった。亡くなった翌年に出版された彼女の遺作
『センス・オブ・ワンダー(The Sense of Wonder)』の中で
レイチェルは、幼い甥のロジャーとアメリカ・メイン州の森や海岸を
一緒に探索した美しき日々を回想している。

ある秋の夜、彼女は当時1歳8ヶ月だったロジャーと海に出かけ、
ゴーストクラブを探しに行く。ロジャーは海辺に轟く波の音、風の歌、
暗闇に怖がることなく、自然の力に包まれた世界を幼子らしい素直さで受け入れる。
雨の日は森へ散歩にいき、水を含んでキラキラ輝く苔や、色とりどりのキノコなど、
豊かな自然からの贈り物を子どもに届ける。
毎年、毎年、素晴らしい光景を幼い心に焼き付けていたロジャーは、
ある日レイチェルの膝の上で満月を眺めながら、「ここにきてよかった」と
言ったそうだ。

この本の中には、とりわけ<はっと>させられる一節がある。
「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、
驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは
大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの
直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

もしも、わたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける
力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない
『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性』を
授けてほしいとたのむでしょう」

環境問題を考える日々の中で、今一度私たち大人も、森の声、海の声、
地球の声に耳を傾けてみてはどうだろう。
私たち大人は果たして、レイチェルのように自然の尊さに対する
子どもの純粋な感性を守ることができているだろうか。
彼女の言葉を胸に行動しよう。「地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、
生命の終わりの瞬間まで生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう」

自然環境の劣化は天候だけの問題ではなく、殺虫剤や除草剤などをまき散らすから
多くの昆虫が殺されるわけです。そして昆虫と共に鳥たちもいなくなる。
自然に対する人間の畏敬が無くなり、山や森を開発することが
文明だと勘違いをしている。これは神をも畏れぬ冒涜である。
今や森だけではなく世界中の海も、生活汚染水、工場排水、原子力処理水、
海上開発などで汚れてしまっている。
最も深刻なのは家庭用ごみから出て来くるプラスティックや発泡スチロール類である。
釣り具から出る針や釣り糸も魚や亀に絡まって深刻な問題となっている。

悪事を行っている人間もそれを見逃している人間も同罪である。
一度壊れた大自然は二度と戻ることは無い。


子どもとは?




子どものことを調べようとしてこの文章を思い出した。
「小林秀雄全作品」の第24集に入っている「考えるという事」で
こう言っています。

宣長は、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。 
彼の説によれば、「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、
「かれとこれとを、比較アヒムカへて思ひめぐらす意」と解する。
それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」
という意になろう。「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」で
あると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、
物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、
そういう経験をいう。『身交ふ』(むかう)

考えるとは、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、
こちらで 観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な
関係に入り込む、 それが考えることなのです。人間について考えるというのは、 
その人と交わることです。そう思ってみると、信ずることと考えることは、
ずいぶん近くなってきやしませんか。 

そして、身交う、交わるの達人が、私たちの親、わけても母親だという。
「子を見ること親に如(し)かず」というだろう。親は子どもと長いあいだ
親身につきあっているから、子どもについていちばんよく知っているのです。
この「知る」は、学問的に考えて知るのではない。本当の「知る」ということ、
「考える」ということは、そういうことなのです。

学問的に考えて知るとは、あるひとつの観点を設けて、その観点に立って
対象となるものを観察し、解釈する、そういう知り方である。
しかしこれでは、その観点のフレームの中に入ってくるものしか観察できない。
フレームのすぐ外に前代未聞の現象や物体が現れていてもそれをそうと見てとる
ことはできない。何であれ物事を本当に知るためには、観点など取り払わなければ
駄目なのである。

母親は子どもに対して、観点など持っていません。
彼女は科学的観点に立って、心理学的観点に立って、子どもの心理を
解釈などしていません。母親は、子どもをチラッと見たら、
何を考えているかわかるのです。そういう直観は、交わりからきている。
交わりが人間の直観力を養うのです。

純真無垢な心を持つ子どもたちは見るもの、聞くもの、触るものから
人間としての自覚を覚えていきます。
母親の顔を見て裸で抱かれて乳を飲みます。母乳から得られる免疫力によって
健康に育っていくのです。大声で泣きながらいつも飢えを訴えるのです。
そして見る世界から始まって自分の訴えを聞いてもらおうとして簡単な言葉を
覚えていきます。徐々に手足が自由に動かせるようになり、訴えが強くなります。
自分をもっと構ってくれとせがむのです。

それを見ている祖父母も両親もみんなで喜び笑うのです。
それに呼応して子供もおもいっきりの笑顔で返すのです。
不思議なことに母親が出産して、母親のものの考え方が変わり
性格も変わるのです。それが自然に身につく母性の始まりです。
親は子を育てるのですが子も親を育てるのです。

「子どもは真実を映し出す鏡である」
彼らにはおごりも、敵意も、偽善もない。もし思いやりに欠け、
嘘つきで乱暴な子どもがいたなら、罪はその子にあるのではなく、
両親や教師や社会にあるのです。
これは、インドの独立運動家であるガンジーの言葉です。

子どもは成長過程の中で色んな問題行動や間違ったことをします。
ですが、それは多くの場合、周りの大人のマネや大人の言動でそうせざるを
得なかったなど、周りの影響を受けてそうなっています。
このことを、大人としては真摯に受け止めなければいけません。
『人を変えたければまずは自分が変わる』という言葉がありますよね。
それは子育てにおいても全く一緒で、“子どもに変わってほしい”と思うのであれば、
まずは“親である私たちの行動や考え方を見直して改善していく”ことが大事です。

ご両親は今日も沢山子どもたちと触れ合ってください。

伊丹谷良介5月「うた」ライブ テーマは「こども」
2024年5月12日(日)18:30開場・19:00開演(終演21時予定)
恵比寿 BAR Voices

今回も新曲制作、ナレーション、カラオケ、スクリーン映像を含め
作業は200時間強を費やした。個人の作業量としては当に限界を超えている。
それでも何故やり続けるかと言うと、混迷の世の中にロックシンガーとして
やらなければならないという使命感からです。と伊丹谷は述べる。
ロックをサロン形式で一つのテーマに沿ってお客様と対話する。
そこから生まれる共通認識を、それぞれが
自分なりに考える機会を作るためにです。
本来のロックは市民活動の中にあると信じているのです。

5月のテーマは「こども」です。

V1序章・M1うた
V2こども・M2未来の華
V3自然とこども・M3覚悟の白富士
V4虫とこども・M4 wo ai ni
休憩(ぶきとまんもす)映像
V5ブッダとこども・M5愛と光に導かれて
V6生命とこども・M6 we are the one
V7科学とこども・M7愛の原子記号
V8母とこども・M8 MOTHER
アンコール「みんなでスティホーム」

母子で参加している方が数組いました。
M8の「MOTHER」では何人もの人が涙を流していました。
初めてロックライブに参加した人も
このようなライブがあるのですねと驚いていた。
応援してくれる人も増えて来た。
独自の主催でライブを開催したいとの申し込みもあった。
伊丹谷良介を見守る会「ガーデナー」も誕生した。

来月6月のテーマは「音楽」です。
奮ってご参加ください。何が起こるか分かりません。
私達は益々伊丹谷良介から目が馳せない。


一途な思い




私はこの「恩学」のブログの中で沢山の良き言葉と物語を紹介してきました。
良き言葉の出会いで人生が大きく変わり発奮することもしばしばあります。
私の座右の銘である道元禅師の言葉「愛語よく回天の力あり」を身をもって
実践できるように「ただひたすら」一途な思いで書き続けて500編になりました。

「ただひたすら」は相田みつを氏の代表的な言葉です。
こんごは毎日書き続けるのではなく書きたいときにだけ投稿をしたいと思います。
これからもただひたすらに「愛語」の人生を歩み続けて参りたいと思います。
よろしくお願いいたします。

道元禅師の言葉として有名な「只管打坐」は「しかんたざ」と
音読みになっています。「一心不乱」に坐り続けることの意ですが、
それが「仏行」に通じるという思考の連鎖があります。
「一寸坐れば一寸の仏」と言われるように、線香一寸分の時間を坐禅に
熱中している間は、仏になっているという表現が禅宗にはあります。

禅師の行仏・仏行の教えにもそういう理屈があります。
坐ったら坐っただけの時間は、我々は仏と寸分違わぬ仏そのものになっている
というのです。それ故、只管に坐禅することは喜んでなすべき行為です。
もちろん、禅師は坐禅をしているときだけというのではなく、
行住坐臥の全てにわたって、正法に従って生きることこそ仏行であり、
それを行じている修行者は行じている仏なのだとおしゃっています。
 
ところで、「ひたすら」な行為というものは集中力を要することも事実です。
だが、その行為が習慣化した場合のもう一つの効果があるように思えるのです。
それは集中力が持続しなくなった時の効果です。
これをしないと気分が悪くて一日調子がでないという程ではないのですが、
落ち着いた覚醒への準備時間は「イイ感じ」なのです。こういうことは毎日散歩や
ジョギングをする習慣のある方々には理解してもらえると思うのです。

私たちは、習慣は多くの場合、知らぬ間に(無意識に)
「身に付く」ものと考えます。
それはそうなのでしょうが、意識的行動が習慣化に影響を
与えることもあると思います。
私たちは「生活習慣」を自分で選び取ることができます。
食生活や健康管理に留まらず、読書習慣や学びの姿勢、神仏を畏敬する気持ちや
社会ルールを重んじる道徳的態度など、個人の生活習慣の形成には、
意識的行動が大きな要因になるところがあると思います。
ひたすらに何かをするというのは、最初は意識的な行動ですが、
それが習慣となってゆくというところに不思議な面白味があると考えます。

『正法眼蔵』の中に「諸悪莫作」(しょあくまくさ)の巻があります。
よく知られたことですが、この「七仏通誡偈」の初句の解釈は、
修行者の成熟度によって異なる解釈が成り立つと説かれています。
即ち、初心者には「諸悪を作(な)すな」という絶対的命令として
受けとられるのが当たり前で、それが正しい解釈だが、この命令に従っている
うちに、修行者自身が「諸悪を作(な)すことなし」という状態に
いつの間にかなっていて、そうした段階に到れば、この句の意味内容は
命令ではなく、その人の身心の実状の表示になっているというのです。
これは大変面白い考えですが、「只管打坐」の語の意味もそういう
動態的解釈が成り立つと考えられます。

つまり、この語も初歩の者には「一心不乱に坐禅すべし」という命令に
聞こえるのが自然なのですが、修行が進むにつれて「習い、性となる」で、
それは努力目標でもなく、「ひたむきに黙々と坐るのみで、それをただ愉(たの)
しむ風情」を表現している言句ということになるのではないでしょうか。
坐禅堂でひたすら坐ることが苦にならず、苦もなくできてしまう参加者の
皆さんは「只管打坐」の実践者と言えましょう。
 
また、こんな相田みつを氏の詩がありました。「ただ」という題名です。
ただひたすらにただひたすらに
ひたすらにただ坐るだけ
ただおがむだけただになれない人間のわたし
 
『人間だもの』の中では「花はただ咲く、ただひたすらに・・・」と
詠われています。また「泣」という題の詩には「ただひたすらに泣けばいい」
と詠っています。「ただひたすらに」のフレーズは相田氏の
お気に入りでありましょう。

相田氏の筆書きの詩は、行の一筋ごとに文字の大小があり、
そこにも思いが込められています。それを活字では充分に表現できませんが、
この詩の最後の二行だけは他の行よりも明らかに小さい文字になっていて、
そっと控えめに囁いているようでした。そこは作者自身の
ちょっと照れくさそうな告白の言葉に見えました。
 
さて、この詩は題名そのままに「ただ」という言葉がテーマです。
「ただ」とは「ありきたり」「ふつう」という意味があります。
また「ひたすら」の意味もありますから、こうなると「ただひたすら」という
言い方には重複があることになりますが、言葉の響きはとてもいいと思います。
ここでは普通に何の他意もなく、一心不乱に坐禅すること、拝むこと、
「ただそれだけということが難しいのだ」と言われている。

自然に掌を合わせて無心の刻(とき)を「ただひたすらに」拝んで過ごすのです。
四六時中こういう時間の中にいることはできないので、
そういう意味で相田氏の言うように、私たちは「ただになれない人間」なのですが、
ひたすらに何かをなす時間を忘れないでゆきたいものです。
(臨済宗円覚寺派管長横田南陵老師講和から一部抜粋)

この投稿が500回記念になりました。
私の心の師である横田南陵老師の道元の言葉と大好きな相田みつを氏の言葉で
しばしペンを置くことにします。

長い間ご愛読していただき感謝申し上げます。
2024年5月5日


真夜中のよもや話




自分と対話するには真夜中が良い。
周りの音が全て消える時間に宇宙と繋がれるから。
人間の身体は小さいが思考は無限に広がる大きさがある。
生きてきた年数とこれから生かされる年数を考えて深い闇をむかえる。
81億に近い人々が暮らすこの地球で祈りが一つになると見えない交信が始まる。
欧米の大国は神を恐れずに、自然を破壊し続ける、人を殺し続ける、
弱者から金銭を搾取続ける、このような蛮行が、いつまで続くのか想像が出来ない。
恐らく地球が破壊するまで同じ行為を続けるのであろう。

自然界の全てのものに命を吹き込む。
命を吹き込むのはどうすれば良いのだろうと考えていたら
次のような記事を見た。まったく脈絡が無いが半導体の話である。
思考が飛ぶ真夜中なので許して欲しい。

1980年代に、アメリカ人は日本のことをこう呼んでいたそうです。
「カシャ、カシャの国」これは、日本を馬鹿にした呼び方でした。
というのも、この言葉は、写真を撮るように技術を盗み、
なんでも丸写しにするという意味だったんです…
「日本人の仕事が丁寧すぎて、アメリカの半導体が全然売れない」

実は、1990年代になると、
日本は世界の半導体シェアが、脅威の49 %とされ、
世界の半分を占めていました。
なぜなら、アメリカの半導体大手の経営幹部が、
日本製とアメリカ製の半導体の性能を調査すると、
アメリカ製の半導体が、馬鹿にしていたチープな日本の半導体よりも、
4.5倍も故障率が高かったことがわかったんです。

それが判明してから、高くて故障ばかりしているアメリカ製の半導体は、
全く売れなくなってしまいました。
しかし…あなたもご存知の通り、
その後の「半導体戦争」に勝ったのはアメリカでした。
Apple、Google、マイクロソフト、半導体の力を駆使して、
世界のトップ企業に立ったのは全てアメリカ企業です。

そして、今では日本の世界における半導体シェアは、
49%から6%まで下がってしまいました…
では、いったいなぜ、そんなに半導体のシェアが下がってしまったのか?
1980年代に、日本とアメリカの間で何があったのか?
テレビや新聞は報じない、アメリカが日本に仕掛けた罠とは?
ライズアップジャパンより

私の推測では1985年のプラザ合意が頭に浮かぶ
ドル高を是正するため、1985年9月のG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)
で発表された為替レートの安定化に関する合意のこと。
これにより協調して円高・ドル安に誘導されました。
この公の報道の裏にいつもディープステート(闇の政府)が思い浮かぶのです。
プラザ合意とは開催場所となったニューヨークのプラザホテルにちなんで
プラザ合意と呼ばれているのです。

ここで米国から強制的に仕掛けられて日本が半導体部門から撤退を
余儀なくされた。あくまでもこれは推測に過ぎないがほぼ間違いは無い。
熊本にできた台湾企業の半導体工場TSMCも半導体市場では二番手の
メモリー用の半導体製品である。一番手はロジカル系の精密半導体である。
現在は台湾系の企業が半導体シェアの大部分を占めている。
これも尊敬する大学の教授から聞いた話なのだが真意は確認していない。

見えないところまで気を使うのが日本人の職人の仕事なのです。
納得がいくまで改善と改良を加えて完成品を作り出すのです。
八百万の神が住む国では誰が見ていなくても神様は見ていると感じるのです。
手を抜くことはろくでなしの行為だと蔑むのです。

一神教しか信じない欧米では働くことは神への奉仕で、働く質までは
教えていないのです。だから個人主義が蔓延して意識が仕事に向かないのです。

岡潔(おかきよし)数学者
晩年の主張は超高次元の理想である「真善美」妙を大切にせよというもので、
「真には知、善には意、美には情」が対応し、それらを妙が統括し
智が対応すると述べた。
一方で日本民族は人類の中でもとりわけ情の民族であるため、
根本は情であるべきとも語った。

また日本民族は知が不得手であるため、西洋的なインスピレーションより
東洋的な情操・情緒を大切にすることで「分別智」と「無差別智」の
働きにより知を身につけるべきと提唱している。
さらに現代日本は自他弁別本能、理性主義、合理主義、物質主義、共産主義
などにより「汚染されている」と警鐘を鳴らし、これらを無明と位置づけ、
心の彩りを神代調に戻し生命の喜びを感じることで無限に捨てるべきと述べた。

日本の未来をいつも憂えていた。
漫画家の東海林さだおとの対談は最初断っていたが、実際には盛り上がった。
『ショージ君のにっぽん拝見』によると「最近の人間は頭頂葉を使わずに、
前頭葉ばかり使っています。自然科学的なものの考えの元は前頭葉にあります。
西洋人は前頭葉ばかり使ってきました。だから物質第一主義となったのです」

「最近の女性は、あれはいったいなんですか。性欲まる出しにして
尻ふりダンスなどしておる。まったく情操の世界から逸脱しておる。
仏教では親が子を生むのではなく、子が親を選ぶのだといいます。
ですから男女のまじわりは気高く行なわねばなりません」などといい、
特に“そして「頭頂葉」といわれるたびに頭のテッペンをバシッとたたかれる。

そのありさまは、ほんとにバシッという感じで、先生の腕時計が、そのたびに、
カチャカチャと音を立てるほどなのである”という位の興奮ぶりだった。

また画家の坂本繁二郎と対話したのを契機に、日本人の精神統一法について
思考を巡らせている。繁二郎が「馬」を描いていた若い頃は、「分別智」の雲が
途切れる瞬間「無差別智」の閃光が差し込むインスピレーションを主とする
純西洋型精神統一法を用いていたが、「月」を描くような年頃になってからは、
分別智の春雨と無差別智の明かりによる情操・情緒を主とする
日本的西洋型精神統一法を用いていたという。

岡自身も三つの大問題の解決にあたりインスピレーション型(花木型)
→梓弓型→情操・情緒型(大木型)と移行してゆき、この日本的西洋型精神統一法と
無差別智のみの禅型精神統一法を使い分けることで老後の日常生活を乗り切って
いたと語っている。

一方最晩年になると世間智については使ってはならないと語っているが、
西洋の理性はすべて「世間智型平等性智」であるため、
理性を使わなくてよい社会を建設しなければならないとも語っている。

そろそろ眠くなってきたのでこれで終わります。
真夜中のよもや話にお付き合いくださいましてありがとうございます。


伝説のスピーチ




1992年のブラジル、リオでの地球環境サミットでセヴァン・スズキという
日系四世の12歳の少女が「伝説のスピーチ」を行いました。
という紹介があって、どうしてもこの伝説のスピーチが知りたくなり、
YouTubeで見る事が出来ました。先ずは圧倒されます。
理路整然とした内容に、抑揚をつけた声でハッキリとスピーチしています。
原稿が素晴しい。自分の意志が十分に盛り込まれていて、この内容を誰に伝えたいのか
が明確に分かる。良く通る声である。舞台役者でも敵わない表現力である。

スピーチ中の彼女の表情からは、12歳という年齢と少女という甘えは微塵もない。
聞いている各国の政治家や研究者達が圧倒されてしまい唖然としている姿が
映し出されている。「どうやって直すかわからないものを、こわしつづけるのは
もうやめてください。」学校で、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、
世のなかでどうふるまうかを教えてくれます。

「ならばなぜ、あなたがたは、私たちにするなということをしているのですか。」
あなたがたはいつも私たちを愛しているといいます。
「もしその言葉が本当なら、どうか、本当だということを行動でしめしてください。」
世界の代表者を相手に対等の立場で発言しているのです。
大人は言葉を組み立てるのが上手です。しかし組み立て過ぎて本質を失います。
子供は言葉の組み立てが未熟です。しかし飾りなき言葉だから胸を打つのです。
彼女は現在32歳、環境問題活動家として活躍を続けている。
正にフランス革命のジャンヌ・ダルクのようです。

「2009年エルサレム賞村上春樹氏の授賞式スピーチ」
わたくしは今日、小説家として、つまり嘘を紡ぐプロという立場でエルサレムに来ました。

という言葉から始まった。小説家の嘘は大きければ大きいほど評価される。
ましてやそれを非道徳的と批判の対象にはならない。

今回の授賞式出席にはかなりの数の日本人から出ないように言われた。
出席すれば不買運動を起こすと警告する人さえも居ました。
これらはもちろん、ガザ地区での戦闘の為でした。1000人以上の非武装の市民が
命を落としたのです。この賞を受賞するという事はエルサレムを支持している事に
繋がらないかとても心配をしたのですが、反対者があまりにも多いので敢えて
私は出席することにしたのです。

凄いですよね、小説家として大成功して巨万の富を得ても真実を探る為に敢えて
危険な場所に出向くのですから。それもガザ地区に攻撃を仕掛けているイスラエルの
首都エルサレムでのスピーチです。私が最も感動した言葉は、
「非常に個人的なメッセージです。私の心の壁に刻まれているものなのです。
それは「高くて、固い壁があり、それにぶっかって壊れる卵があるとしたら、
私は常に卵側に立つ」その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、
私は卵サイドに立ちます。」正直言ってこの言葉を聞いた時には驚きました。

エルサレムの中でこの様な発言をして大丈夫だろうかと心配しました。
「そして今我々の前には「システム」と言われる堅固な壁に直面している
壊れやすい卵なのです。勝利の希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や
他者の独自性やかけがいのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることの
できる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。

「システム」がわれわれを食い物にすることは許してはなりません。」
この言葉は世界に同時に配信されたのです。「システム」という言葉を色々な言葉に
置き換えてみると、村上春樹が伝えようとした真意は分かるはずです。
この発言こそ私自身が感じる日本人の「誇り」なのです。
弱者救済の教育を受けた国民にしか出来ない行為なのです。
多勢に無勢で採決することを良しとしない国民だからです。
全ての弱者を排斥する考えが起これば世界の破滅の序章になります。
大切なのは遠くから発言するのではなく、互いの温もりが伝わる距離での発言です。

「2010年ハーバード大学白熱教室、マイケル・サンデル教授の講義」
「一人殺せば五人が助かる状況だったら、君ならその一人を殺すか」
豊かさが常に正しいという考え方を持つアメリカの、権威有る大学ハーバード大学での
講義である。その中から「今正義について考える」は大きな話題となった。
富の分配について富裕層から貧困層に再分配するのは弾圧だと
哲学者ロバート・ノージックは言う。

しかし国家が決定した事だから正しいという意見と、多数の人が選んだり
決めた事が全て正しいと判断するのは可笑しいと、反論する意見が出て来る。
それに対してサンデルは民主主義を否定するのかと追及してくる。
多くの教育者は自分の考えを押し付けようとする中で、サンデルの手法は
学生達と議題を共有し、意見を戦わしながら答えを見つけ出していく。

議論こそが民主主義の原点である事を教える。
まさにギリシャ時代の市民会議を彷彿させるのではないか。
目の前にアリストテレスやカント等の哲学者が出現するような緊張感漂う
授業風景である。ここで学生達はスピーチの重要性を学んでいく。
主張する事によって自分自身の「正義」を表明するのである。

日本人にとつて「正義」は道徳として当たり前に存在するが、他の国では
「正義」程、難しいものない。「正義」とは道徳的な生活に必要な判断力で、
誰もが必要とする能力だという。民族的、宗教的、国家的な考えからおこる
「正義」は多種多様な意味合いを持つ事になる。

世界の戦争のほとんどが宗教から来る「正義」の主張である事が許せない。
道徳を武器にして戦う事が非道徳な行為だと理解できないのが不思議である。
サンデル教授の授業に参加をしたいものである。
世の中には沢山の名スピーチがあります。スピーチから学ぶ事は多くあります。
それはこのような議論の機会に巡り合えて、討論を積み重ねることこそ
名スピーチの発言者となるのです。

これからも気付く限り数多くの名スピーチを紹介して行きたいと思います。
そして最後にこの言葉を刻みます。
「スピーチの上手な人は偉業を達する。偉業を達した人はスピーチが上手だ!」

読者の皆様もお時間があればもう一つの伝説のスピーチを調べてみてください。
「ハングリーであれ。愚か者であれ」スティーブ・ジョブス。
2005年3月米スタンフォード大学卒業式にて。
多くの人が感動して、今も語り継がれるスピーチです。

私もスピーチの達人になるためにこれからも精進するのみです。


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