伝統を守ることと伝統を破ること




臨済宗大本山 円覚寺 官長横田南嶺様
私はこの文章を拝読してまさに膝を打つ思いでした。

「伝統を守るとは、伝統を破らなければならない。
伝統の玄人の域を脱してゆくこと、即ち玄人ではないものが現れることである。
総じて改革・革新・革命とゆうような事には、必ずそこに素人的なもの、
伝統的、玄人的でないものが働いて来るものである。」

さてみなさまはどのように思われたでしょうか?

端的にいえば、中国の禅は美の世界とは全く無縁であった。
まして造形美術とは何の因縁も持ちあわさなかった。
墨蹟、絵画、庭園、茶などが禅と因縁づけられることによって特殊の美の世界を
作ったなどということは、中国禅の歴史にはかつてなかったのである。

それが日本禅において、にわかに展開するようになったというのは、
いったいどういうことなのであろうか。
きびしくいえば、「むしろ禅の頽廃と断じる見方もありうるのではないか。」
というものです。

今世間で、禅というと、水墨画や墨蹟、あるいは最近禅画といわれるもの、
枯山水の庭、茶道などが思い浮かぶことが多いのです。
しかし、それらは決して中国由来のものではないというのです。

確かに墨蹟などは、中国のものが重んじられていますが、今日の日本で
尊ばれているように、禅の芸術としてみているのではなかったのでしょう。
相手に自分の気持ちを伝える書簡であったり、相手に教えを示す法語であったり、
それぞれ用途があってのものです。観賞用でなかったことは確かなのです。

枯山水の庭が禅だと思うと、中国の禅寺には無かったものでしょう。
伝統を伝えているといいながらも、決して中国のものを、
そのまま継承しているのではなく、そこに新たな発展があって、
今日の日本の禅となっているのです。

つまり伝統を伝えるということは、過去のものをそのまま忠実に守る
というのではないということであります。

「伝統を破ること、或はまた新しく創造することは、
伝統の玄人の域を脱してゆくこと、即ち玄人ではないものが現れることである。
総じて改革・革新・革命とゆうような事には、必ずそこに素人的なもの、
伝統的、玄人的でないものが働いて来るものである。

それは、素人には、自由な、過去の物に拘らない、
情実や殻を持たない理性の力が働くからである。

かくて、私は、禅についても、この素人的なものの出現することを望みたいのである。
そして、かかる点で従来の禅門に於いてあまり重んぜられなかった
学校教育が盛んになることを望みたいと思う。」

伝統の玄人というのは、尊ぶべきものであります。
そういう人によって伝統は伝えられているのであります。
しかしまた、この伝統の玄人が、伝統の世界を狭くしてしまっている
一面もありはしないかと考察することも必要であります。

禅の歴史は、常にこの玄人的なるものを打破してきたところにあります。
近世の禅にしても、至道無難禅師の仮名法語などをよむと、
この玄人ではない一面を持っておられたと思います。
正受老人もそういう一面を持っておられたと思います。

いやさかのぼれば、臨済禅師という方などは、伝統の仏教学からみれば、
玄人の域を脱したと言えましょう。

臨済禅師の説法は、「自由な、過去の物に拘らない、情実や殻を持たない
理性の力が働く」と言えるでしょう。

「禅では自己を仏とする。自己の外に仏というものはない。
何処までも生きた仏というものを本当の伝統とするわけである。
伝統とは決して、形のあるものを伝へて来るという事ではない。
伝統、特に禅の伝統は形のないものが形のないものを伝へる事でなければならない。」
というのであります。

もちろん今日の禅の芸術も尊く大事にしなければならないのですが、
禅の本質は、この形のないところにこそあります。

「つまり、この師資相承という、禅で最も重んぜられるこの伝統というもの、
而も禅ほどこの伝統が脈々と継がれているものは、他の宗旨に於いては
見られないと思うが、それは、形のないものが、形のないものを伝へる事である。
形のないものであるから一方でいうと伝へる事もないわけで、
伝へる事のないのが、禅の真の伝統であり、無伝統の伝統とはこの事である。」
と説かれているのです。

「伝統を常に破って、その伝統から絶えず抜け出て行く事が、
真の伝統を守る事になる」という言葉は肝に銘じたいものです。

「「無伝統の伝統」を実践し、公案以前の「独脱無依」の絶対無的主体に
立ち還らせる「主体的公案」を創造することこそが、
「禅学即今の課題」だというのである」とまとめてくださっています。

もちろんのこと、伝統を破るだけではなにもなりません。
かといって伝統を守るだけでも伝わらないのであります。

伝統を守ることと、伝統を破ることは、常にふたつ相俟ってこそ
伝統は守られ、継承されてゆくのであります。
そんな中でもっとも大切なことは何かを学ぶためにこそ、
たとえば『臨済録』という書物があります。

ただこれも伝統という枠組みの中で読んでいたのでは、
却って真意を見失うのです。
また室町時代の一休禅師という方も常に、この伝統を守ることと
伝統を破ることの二つを行って真の伝統を明らかにしようとされていたのでは
ないかと思います。

臨済宗大本山 円覚寺
官長横田南嶺

私から何も追記はありません。
敬服の至りです。
横田南嶺禅師から学びました。

今も南陵禅師のサイン入りの本を肌身離さず読んでいます。
感謝・合掌