心のあり方
人間と動物の違いは時間軸と思考軸である。
人間は自然の中にある暦を利用して時間を知った。
狩猟や採集の経験から生まれた知識を他人とも共有できた。
そしてそこから言語が生まれた。
動物には時間という観念が無い。空腹になれば餌を求めて行動するだけ。
仲間と情報を共有することもないので言語も生まれない。呻くだけである。
動物は武器も作れないので人間の侵略には無抵抗状態で常に絶滅の危機を強いられる。
心はどこにあるのか?心臓にあるのか?頭の中にあるのか?腹の中にあるのか?
心は経験から生まれた知識とは違い感性から生まれるので「心のあり方」が
重要である。自分の「欲」の為の心でなく「義」の為の心でなくてはならない。
私は昔からなりふり構わずあらゆるものに挑戦して来た。
失敗すると元も子もなくなるのだがそんなことはどうでも良かった。
他人からチャレンジャーとかドリーマーと言われても嬉しくはなかった。
その時の感情で心の赴くままに冒険を重ねて来た。
幸い幸運なことにいつも運がついてきた。この運は行動が無くては現れないし、
どんな状況でも人を憎まず、人を騙さず、人に尽くす、ことを忘れなければ
必ず運は付いてくる。
「多種多様な人間の心がある」
好奇心に飛び込むタイプ、石橋を叩くタイプ、とにかく挑戦するタイプ、
とにかく疑うタイプ、現状を好むタイプ、現状打破を試みるタイプ、etc.
どのようなタイプであったとしても身体の人間はいつか消える。
これは100%の確率で起こる絶対。
では一つの大いなる宇宙を持たされた人間という存在は消える時に
何を思うだろう?
「挑戦して良かった!」と冒険に満ちた人生を振り返る者もあれば、
「騙されなくて良かった」とつつがなく過ごした人生を振り返る者もある。
人生とは未知との出会いであると思う。私は死の間際に前者でありたいと
思うのだが、人によっては後者であろうと世界に対し疑いの目を光らせて
生きる。まるで騙されなかった自分という勲章を彼岸のコレクションに
するかのようだ。
しかし本来の人間というものを考えた時、
人間は一体何に騙されるというのだろうか?
人間は環境の奴隷ではない。環境を作り出す主人である。
それにも関わらず、自分が作り出した対象に騙されるとはどういうことなのか?
ここで人間には二段階の意識の爆発が必要であることが分かる。
一段階、「自分」とは宇宙を創造破壊する
心そのもの(一元)であるということを知ること。
それを知った時、環境の奴隷ではなく環境を統制できる「自分」に変容する。
そして次に二段階へ進む。不二一元の境地である。つまり「自分」の物語を
生きるということ。というのも、一段階で環境を統制できることを
知ったとしても、ただ生きるのでは主導権を環境に呆気なく取られてしまうだろう。
環境を統制するためには、「自分」の物語を積極的に能動的に生きるということが
必要なのだ。それによって生死を超え環境を統制する尊厳として
今ここに立つことができる。
古今東西の英雄と呼ばれる人たちはただ生きた人たちではない。
時代に合った自らの物語を、その主人公として積極的に能動的に生きた人たちである。
彼らを見ていると、環境の奴隷であることを断固拒否し環境を統制しにいく
気概を感じる。
人間の人間たる理由とはここにあるように思う。ただ生きるというと
動物となんら変わらない生き方ではなく、神にも仏にもましては他者にも
隷属しない尊厳の「自分」を演出することこそ、「私は人間である」と
全宇宙に号令をかけられる存在として有ることができるのだろう。
不思議なことにこの文章「多種多様な人間の心がある」は私の作ではない。
まるで文章を読むと自作のような錯覚に陥ってしまった。
私の文章の作り方と構成が全く同じである。
投稿後に見た人から「これは私の文章です」と言われれば素直に認める。
昔から何か事を始めようとすると頭の中にマニュアルが現れる。
自分の記憶にも経験も無いのにやりかたが手に入る。
別段、特別に能力や学力があるわけでも無いのに、
高校も大学も一流会社の就職も高い壁とはおもわずにすんなり進んできた。
そのうえ音楽の素養があるわけでも無いのにプロデューサーになって
ヒット作を連発した。時代の波に乗ったとしか言えない。
勿論、音楽制作は大勢のスタッフがいて作品が作られるので
私の力など微々たるものであるがプロデューサーということで
多くのヒット賞をいただいた。
子どもの頃は勉強嫌いというよりもあまりにも貧しくて勉強する環境が無かった。
さほど劣等生ではなかったが容易に進学できるレベルでも無かった。
いつも進学も就職もここしか行くところが無いという気持ちで臨んだら
その通りになった。決して努力のたまものでは無かった。
学校も会社も色々受けるほどの選択権が無かったからである。
いわゆる「背水の陣」で自ら逃げ場を無くしたのです。
常に心の在り方、心の置きどころ、心の決心、に誰よりも強い思いがあった。
「武士道」新渡戸稲造著から学ぶ日本人の美しい心
「武士道教育の精神について」
日本の一般的な学校には宗教教育がありませんが、海外では「善悪の基準を
宗教による宗教教育」により子孫に道徳教育を授けています。
ベルギーの法学者に「日本人は何をベースに道徳教育を授けているのか?」
という問いに答えられなかった新渡戸稲造が、日本の道徳観を世界に伝えたのが
「武士道」という道徳教育でした。
1900年に英文で発表された「武士道」は世界的ベストセラーとなりました。
「武士道の「義」の精神」
『打算や損得を超越し自分が正しいと信じる道を貫く』武士道の中心となる
良心の掟を「義」の精神といいます。
「義」とは人間としての正しい道、つまり正義を指すものであり武士道で
もっとも厳格な徳目です。
義を貫く…武士道の基本はフェアプレイの精神であり、卑怯なやり方を嫌います。
幕末の志士、真木保臣がいうには「義は体に例えるならば骨である。
骨がなければ首も正しく胴体の上につかず手も足も動かない」つまり、
たとえ才能や学問があったとしても「義の精神」がなければ
武士ではないということです。
「武士道の「勇」の精神」
「勇」とは、義を貫くための勇気、正義を敢然と貫く実行力です。
孔子が論語の中で「義をみてせざるは勇なきなり」つまり、勇気とは
正しいことを実行することだと述べています。
勇気といっても、わざと危険をおかし討ち死にすれば単なる「犬死に」であり、
武士道ではこれを「匹夫の勇」と呼びさげすみました。
武士は幼少の頃から「匹夫の勇」と「大勇」の区別を学びました。
「武士における「大勇」とは?」
「勇気とは、恐れるべきことと、そうでないことがわかること」と、
古代ギリシャの哲学者プラトンはいいます。
「本当の勇気とは、生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬことである」と
徳川光圀(黄門さま)もいいます。
以上のことから、勇気の精神的側面は冷静さであると理解できます。
武士にとって「犬死に」はつまらない行為ですが、自分が間違いと思うことに
対しては、ためらうことなく命をかけて戦わなければなりませんでした。
「文武両道の精神」
「勇」をまっとうするためには、肉体的強さが不可欠でした。
義の精神を机の上で学んでも自分より強い相手に怯えて実行できなければ
無意味でした。そのため、武士たちは精神修行と同時に肉体も鍛えました。
武士たちは文と武の両立、つまり文武両道を追求していました。
たまには日本人として心の在り方を「武士道」から学んでみては如何でしょうか?