音楽プロデューサー
私が音楽に目覚めたのは中学3年生の時だった。
同じクラスの不良少女がビートルズの「A hard day`s night」を
ホウキ片手に歌っているのを見て衝撃を受けた。
ただの不良少女だと思っていたのにいきなりディーバーとして現れ
尊敬をしてしまった。私も勉強嫌いで不良では無かったが冷めた子だった。
高校生になってラジオからボブディランの「Blowin’ in The Wind 」が
流れてきた時には、ただただ憧れが心から湧き出てくるのを
止めることは出来なかった。
それと同時にこんなガラガラ声でも歌手になれるなら
自分にもなれるかと勘違いをした。
家には親父の古いアコスティックギターがあつたが弾き方は分からなかった。
早速楽器屋で譜面を買ってコードを覚えた。
耳から聞いた音をコピーし始めた。しかしあまり上達はしなかった。
高校のクラスメイトがPPM(ピーター・ポール&マリー)のコピーバンドを
組むので入ってくれと頼まれた。PPMはボブディランのカヴァーを
何曲もしていたので練習になると思いバンドメンバーになった。
何よりも楽しみはマリーパートの女の子が可愛かったことである。
工業高校は90%が男子で女の子に触れ合う機会が無かったから天国だった。
そこから歌とギターの猛特訓が始まった。
そのころ人気の「YAMAHAのライトミュージック」のオーディションにも出た。
かなり上位に食い込んだ。なんとなくその気になってきた時、
京都のお寺の参道で練習していた時にドイツTVの取材まで受けた。
その時同席していたNHKの担当者とも仲良くなった。
取材の内容が結構評判が良かったと聞いたのでメンバーは喜んでいた。
少しだけプロの世界へ足を踏み込んだ気分になった
大阪で人気のあったラジオ番組ヤングタウンにも出演して盛り上がったのだが、
気分的には1人でボブディランをやりたかったので、その後バンドは解散した。
大学に入り本格的にボブディランのコピーを始めた。
自分でハーモニカーホルダーを作り、校庭でハーモニカーを吹きながら歌うと
学生たちが大勢集まってきた。外大の英米語学科だったので発音は気にした。
そして「アメリカン・フォークソング・クラブ」からお声がかかり入部した。
ここからオリジナル曲も作り出しコンサートに出演するようになった。
本格的に何も訓練をしていないくせに平気で人前で歌った。
大学の夏休みに一番衝撃を受けたのが70年中津川フォークジャンボリーに
行った時である。岡林信康や吉田拓郎や加川良に惹きつけられてしまった。
私も第二ステージの下で、飛び入りで「友よ」を歌ったら大合唱が始まり
益々調子に乗ってしまった。
もしかしたらプロとして活躍できるのではないかと錯覚をしてしまった。
大学3年で中退して学校近くの工事現場で1年間アルバイトをした。
当てもないが英国へ行き音楽の勉強をしたかったからだ。
一番安い行き方が北回りで船や飛行機や列車を乗り継いで行くコースだった。
愛読書であった五木寛之「青年は荒野をめざす」に書かれていたコースだ。
横浜から船に乗りソ連経由で北欧を通過して12日ほどでロンドンへ入国をした。
着いたその日のうちに住むところとバイトを見つけ英会話の学校にも登録をした。
英国へ到着した時入管でトラブルがあってビザが1か月しかもらえなかった。
銀行口座を開設して見せかけの貯金残高と在学証明書は必須だった。
早くすべての書類を整えて再申請しなれば不法滞在となってしまう。
あとは管理局へ出向きビザの延長をするしかなかった。
当たって砕けろ!何とかなるさ。なにも怖くは無かった。
ロンドンに着いて少し落ちついてきたところで、
アコスティック系アーティストのサマーフェスがあることを知り
飛び入りで参加しようと会場に乗り込んだ。
しかし控え室のテントの中で周りの出演者のテクニックを
目の当たりにしたら血の気が引いた。
ギターテクニックのオープンチューニングなど知らなかったからだ。
自分の未熟なレベルで出演したら日本のアーティストの恥になると思い
飛び入り参加は断念した。
今の自分のレベルで地下鉄や街角で歌うには良かったのだが、
ステージで歌えるレベルでないことに気づきショックを受けた。
それでも何故かバイト先で世界的有名なドラマーのエルビン・ジョンを紹介され、
デパートで時間を潰していたら目の前にアメリカの人気歌手
ジェーム・ステーラーと偶然出会い、
ジャズクラブで声をかけてきたギターリストがバーニー・ケッセルという
凄いおじさんだったりして音楽から逃げ出せない運命だと気づいた。
これはプレーヤーとしては無理だがプロデューサーになるしか無いと
決心したのである。
そして1年7ヶ月滞在したロンドンを後にして日本へ帰国した。
日本には帰るところがなかったので、ホテルに2泊3日で泊まることにした。
チェックイン後すぐに音楽雑誌を購入して雑誌社へ電話をかけた。
ヤングギターの編集長から色々情報を聞き出し、一番良いとされたレコード会社
CBSSONYへ即電話を掛けた。
「ロンドンから先ほど帰国して才能があるから採用してほしい」
受けた相手は驚きながらも折角だからスタジオへ遊びに来たらどうですかと
誘ってくれた。今夜でも良いですかと返事したら六本木飯倉片町に
CBSSONYのスタジオがあるからどうぞと言われた。
生まれて初めて本格的な録音スタジオへ足を踏み入れたのである。
その時、私はロンドンから帰ってきたばかりである。
アフロヘアーにロンドンブーツ、破れたジーパンに毛皮である。
スタジオのドアを開けたらスタッフが目を丸くして迎えてくれた。
スタジオでのバイトが始まり数ヶ月してから正社員として採用された。
最初は勝手に宣伝プロデューサーと名乗り仕事をした。
すでにバイトの時に実績は認められていたので誰も反対はしなかった。
それはレコーディング中に聞いた楽曲「いちご白書をもう一度」を
独自の方法で宣伝して回ったら、その曲が大ヒットになったのである。
異色の業界-デビューであった。
それ以来、癖のあるアーティストはほとんど回されて来て担当になった。
しかしそのアーティスト達が時代の要求にはまり殆どがスターになった。
アーティストが売れると同時に私もプロデューサーとして評判がたかまった。
そして念願の制作プロデューサーとなってヒットを量産するようになった。
私の独自の売り出し方が評判となり取材を何度も受けた。
80年代後半に時代が変わりデジタル化になったことと
ハウスプロデューサーとしての興味が薄れ18年間勤めたCBSSONYを
退社して独立をした。その時に系列会社の社長にならないかと声がかかったが
もうサラリーマンは卒業ですと辞退した。
そして独立して10年間は苦労の連続だった。
やはりSONYという金看板は大きかった。付き合ってきた様々なメディアも
手のひらを返すように態度が変わった。仲の良かった作詞家や作曲家も離れていった。
私の強引さは独立した途端に傲慢な人物として嫌われたのです。
会社を辞めたら応援すると言っていたプロダクションの社長達も
訪ねていくと居留守を使われた。
冷ややかな時が過ぎていく中でアメリカのメーカーとの契約が突然切られた。
その時に倒産と破産を同時に味わった。
2000年絶望の淵からコンピューターのシステム会社へ転職した。
暫くは音楽を離れて苦手な業界へ身を置くことにした。
システム会社の取引先が韓国に有ったのでソウルへ何度も訪れた。
ホテルのテレビで見たドラマに興味を持ち日本へ紹介をした。
同時に配給会社も設立した。しかし日本での反応はイマイチであった。
その後NHKで「冬のソナタ」を放映したら爆発的に韓流ドラマの人気が出た。
同時期に中国の友人から中国の演奏家グループ女子十二楽坊を紹介された。
友人は各レコード会社から民族音楽は絶対売れないからと断り続けられたと言った。
友人から預かったビデオとデモテープを聞いて即北京へ飛んで契約をした。
その後女子十二学坊のプロデューサーとして参加して空前絶語の大ヒットを飛ばした。
プロデューサーは好奇心が旺盛で行動力がなければヒットは作れない。
私は常に「感即動」心で感じたら先ずは動いてみるがモットーです。
信念が変わらなければどんな分野に居てもチャンスは訪れるのです。
それらの経験を元に生き方や人生の醍醐味をノートに書き始めました。
常に人の心を見つめながら、感情の発露を気に留めてきました。
時代によって移り変わる人としての価値観、その価値観によって変わる感情、
自分から作り出す精神的な強さや脆さ、他人から影響を受ける感情の起伏、
それらをブログ「恩学」として書き始めたのです。
それが今や500作を超えています。恩から始まり恩に終わる人生です。
音楽から離れない人生に感謝しています。
私は一生音楽プロデューサーです。