脳は錯覚の臓器である
五感で認識すること全てが真実の出来事と勘違いをしている。
自分の意識を中心に見るもの聞くもの味わうものは直感的で現実だ。
しかし多くの人は教育で受けた人間の意識を元に全てを判断する。
たとえば「羞恥心」という言葉がある。
恥ずかしいという意識はどこから生まれるのだろうか?
江戸時代は一般の風呂屋で男女温浴は当たり前の風習があった。
女性が裸を見せることは「羞恥心」の領域では無かった。
勿論、武家や商人の金持ちは自宅風呂だったので人前で裸になることは無かった。
国や宗教や民族の掟からそれをしてはいけないという戒律がある。
イスラム教では女性は顔を覆い尽くすヒジャブを被り男たちの奴隷になる。
12歳を超えたら女子の教育は禁止される。日常会話と計算ができれば終わりである。
この掟を破ると街中で男たちに囲まれて鞭で叩かれる。
我々の常識から考えられない国が存在していることを知るべきである。
その真実を、その映像を見なければ脳には何も影響がないが
知ってしまったところから脳が勝手に判断をする。イスラム教徒は野蛮だ。
学校の教育で受けた知識が体を縛り付けて自分の意識と違うところで行動する。
自分の意識は自分で見つけなければ人間社会からはじかれる。
この意識が見つけられないからいつしか周りに流される人生が始まる。
一番恐れるのは怒りの発散する姿が想像をできないことである。
脳が「争いから生まれる解決方法はない」と勝手に制御するから、
無能な国会議員たちの不正の怒りをどこにぶつけて良いのかが分からず
民衆は財務省の前で右往左往するだけになっている。
ゲシュタルト崩壊・・・女性医師長岡美妃
バリのウブド、ベリーダンスのリトリートでの出来事だった。
「鏡の前で一番セクシーな顔、セクシーなポーズをして立つ。
そして5分間、その顔を見つめなさい。」
はじめは恥じらいや照れ臭さが脳を占めていたが、時間が経つにつれ
その考えに留まっていられなくなっていく。
そして鏡の中の自分を見つめることへの集中が高まる。2分経過、3分経過、
脳は私の姿形の全体像を捉えられなくなり、目の前の私が私ではなくなっていく。
「あなた、誰?」こちらをじっと見つめる鏡の中の私に尋ねる私がいる。
この時がデカルトの言う「我思う、ゆえに我あり」の我がベールを
潜って出てきた瞬間なのだろう。
小さな身体が私だと思っている。また小さな身体の中から世界を見ていると
思っている。しかしそれは錯覚であり、自分の身体を含む世界、
それを見つめている意識だけがあった。
世界とは鏡に映し出された模様であり、言語機能を持った
意識は鏡の中の模様を切り取り、各々に名前をつけて分割していく。
では「世界を映し出している鏡とは何か?」である。
意識が鏡を見つめている、と言ったがそれは本当だろうか・・・
いや、そうではない。それもまた錯覚であり、実は鏡そのものが
意識だったことに気づく。鏡に映る存在の最小単位の点が眼であるかのように、
存在の深淵から世界を観ている。つまり、意識即存在、存在即意識なのだ。
こうしてみると人間は幾重もの錯覚に陥っていることが分かる。
この深い錯覚世界の中では、自他の分離があり、身体の私がいるという
強烈な思い込みが起こる。
その為、私という存在は存在孤独と存在不安に陥るのだ。
大雑把な五感覚と言語のトリックを見破る時、人間は錯覚から
目覚めることができる。その為には「存在の最小単位」=「言語(要素命題)の
最小単位」を知ることなのだ。
21世紀になった今、その新学問が完成した。
それこそ、私たちがBest Being塾で伝えたい「認識技術 nTech」なのだ。
視覚で捉えたものを脳が認識をして判断する。
全ての人が同じ対象物としてとらえているわけでは無い。
信号機の赤や青・黄色も色盲の人には違う色に見えているだろうし、
虹の色も我々は七つと教えられているので七色の虹と認識するが、
海外では五色に見えたり、三色にしか見えないということもある。
言語も同じように脳で捉えるのだが発音によって感情の錯覚がおこる。
初めて韓国や中国へ行った時にこの国の人達は不機嫌な人ばかりだと勘違いした。
韓国語のパッチムの発音はとげとげしく、中国人のところ構わずに大声で叫ぶ
声は五月蝿いだけであった。
逆に海外の人達から見たら日本人はみなひそひそ話で、他人の悪口を
言い合っているように見えるらしい。
脳は一定の情報量で判断するので教育や暮らしの中から得たデーターで分析をする。
これは人工知能AIと同じである。過去のデーターの分析で判断するから
認識が間違うと危険な答えが出てきてしまう。
アメリカで空港や政府機関の出入りに顔認識機能を取り入れたところ、
白人より黒人の方が、警告音が出てしまうという統計が出された。
白い肌は安全で黒い肌は危険と認識しているからである。
人間の能も同じように統計的の答えを出してしまうのだが、
科学者や芸術家や設計者は統計に逆らえる能力を有している。
自分の能に知識より感覚で捉えることを優先させているからである。
SNSを頻繁に見ている若者たちや一般人はフェイクと分かりながらも
いたずらに拡散してしまう。脳がうける話に逆らえないからである。
常識ある大人は自分の興味のないところに手を出さない。
子どもは欲望でモノを欲しがり大人は必要なものを欲しがる違いである。
子どもがおもちゃ売り場で駄々をこねるのは本人の欲望を訴えたら
親がそれにどう反応するかを経験値として取り入れているのである。
これが成功すると子供は我儘なままに育ってしまう。
デジタル社会になり子供たちが簡単に犯罪や薬物や詐欺行為に加わるのも、
謝れば大人は赦してくれると勘違いしているからである。
脳科学者中野信子
「残念な脳」というのは、学校の成績や学歴とは別な問題です。
もちろん、ある程度は個人差もありますが、知性とは何か、もしそれを得たいと
思ったなら、どうすればいいのか・・・
退場な脳を持った私たちには、一生の課題かもしれません。
書いてあることを正確に読み取れないのも、快楽に溺れて冷静な判断ができなく
なるのも、たしかに「能のせい」ではあります。努力すれば改善するかというと、
もちろん限界もあります。これは、必ずしも「あなたのせい」とは言い切れない。
努力できるかどうかも人によって差があります。
そもそも人間には、毎日毎日24時間努力し続けるということは難しい。
努力し続けることが寿命を短くする可能性さえ指摘されているくらいです。
どんなに恵まれている人でも、天才でも、富裕層でも、脳内における快楽の仕組み
というのはそう変わらないというのはある種の福音かもしれませんね。
苦しい時にはだれでも苦しい。幸せな時にはだれでも幸せです。客観的な
物質の多寡にはよらず、脳内の化学物質のダイナミクスで決まるものですから、
外から見た境遇と、内的に感じている幸不幸は一致しないこともしばしばです。
「脳は錯覚の臓器」である。錯覚しないように注意して下さい。