一途な思い




私はこの「恩学」のブログの中で沢山の良き言葉と物語を紹介してきました。
良き言葉の出会いで人生が大きく変わり発奮することもしばしばあります。
私の座右の銘である道元禅師の言葉「愛語よく回天の力あり」を身をもって
実践できるように「ただひたすら」一途な思いで書き続けて500編になりました。

「ただひたすら」は相田みつを氏の代表的な言葉です。
こんごは毎日書き続けるのではなく書きたいときにだけ投稿をしたいと思います。
これからもただひたすらに「愛語」の人生を歩み続けて参りたいと思います。
よろしくお願いいたします。

道元禅師の言葉として有名な「只管打坐」は「しかんたざ」と
音読みになっています。「一心不乱」に坐り続けることの意ですが、
それが「仏行」に通じるという思考の連鎖があります。
「一寸坐れば一寸の仏」と言われるように、線香一寸分の時間を坐禅に
熱中している間は、仏になっているという表現が禅宗にはあります。

禅師の行仏・仏行の教えにもそういう理屈があります。
坐ったら坐っただけの時間は、我々は仏と寸分違わぬ仏そのものになっている
というのです。それ故、只管に坐禅することは喜んでなすべき行為です。
もちろん、禅師は坐禅をしているときだけというのではなく、
行住坐臥の全てにわたって、正法に従って生きることこそ仏行であり、
それを行じている修行者は行じている仏なのだとおしゃっています。
 
ところで、「ひたすら」な行為というものは集中力を要することも事実です。
だが、その行為が習慣化した場合のもう一つの効果があるように思えるのです。
それは集中力が持続しなくなった時の効果です。
これをしないと気分が悪くて一日調子がでないという程ではないのですが、
落ち着いた覚醒への準備時間は「イイ感じ」なのです。こういうことは毎日散歩や
ジョギングをする習慣のある方々には理解してもらえると思うのです。

私たちは、習慣は多くの場合、知らぬ間に(無意識に)
「身に付く」ものと考えます。
それはそうなのでしょうが、意識的行動が習慣化に影響を
与えることもあると思います。
私たちは「生活習慣」を自分で選び取ることができます。
食生活や健康管理に留まらず、読書習慣や学びの姿勢、神仏を畏敬する気持ちや
社会ルールを重んじる道徳的態度など、個人の生活習慣の形成には、
意識的行動が大きな要因になるところがあると思います。
ひたすらに何かをするというのは、最初は意識的な行動ですが、
それが習慣となってゆくというところに不思議な面白味があると考えます。

『正法眼蔵』の中に「諸悪莫作」(しょあくまくさ)の巻があります。
よく知られたことですが、この「七仏通誡偈」の初句の解釈は、
修行者の成熟度によって異なる解釈が成り立つと説かれています。
即ち、初心者には「諸悪を作(な)すな」という絶対的命令として
受けとられるのが当たり前で、それが正しい解釈だが、この命令に従っている
うちに、修行者自身が「諸悪を作(な)すことなし」という状態に
いつの間にかなっていて、そうした段階に到れば、この句の意味内容は
命令ではなく、その人の身心の実状の表示になっているというのです。
これは大変面白い考えですが、「只管打坐」の語の意味もそういう
動態的解釈が成り立つと考えられます。

つまり、この語も初歩の者には「一心不乱に坐禅すべし」という命令に
聞こえるのが自然なのですが、修行が進むにつれて「習い、性となる」で、
それは努力目標でもなく、「ひたむきに黙々と坐るのみで、それをただ愉(たの)
しむ風情」を表現している言句ということになるのではないでしょうか。
坐禅堂でひたすら坐ることが苦にならず、苦もなくできてしまう参加者の
皆さんは「只管打坐」の実践者と言えましょう。
 
また、こんな相田みつを氏の詩がありました。「ただ」という題名です。
ただひたすらにただひたすらに
ひたすらにただ坐るだけ
ただおがむだけただになれない人間のわたし
 
『人間だもの』の中では「花はただ咲く、ただひたすらに・・・」と
詠われています。また「泣」という題の詩には「ただひたすらに泣けばいい」
と詠っています。「ただひたすらに」のフレーズは相田氏の
お気に入りでありましょう。

相田氏の筆書きの詩は、行の一筋ごとに文字の大小があり、
そこにも思いが込められています。それを活字では充分に表現できませんが、
この詩の最後の二行だけは他の行よりも明らかに小さい文字になっていて、
そっと控えめに囁いているようでした。そこは作者自身の
ちょっと照れくさそうな告白の言葉に見えました。
 
さて、この詩は題名そのままに「ただ」という言葉がテーマです。
「ただ」とは「ありきたり」「ふつう」という意味があります。
また「ひたすら」の意味もありますから、こうなると「ただひたすら」という
言い方には重複があることになりますが、言葉の響きはとてもいいと思います。
ここでは普通に何の他意もなく、一心不乱に坐禅すること、拝むこと、
「ただそれだけということが難しいのだ」と言われている。

自然に掌を合わせて無心の刻(とき)を「ただひたすらに」拝んで過ごすのです。
四六時中こういう時間の中にいることはできないので、
そういう意味で相田氏の言うように、私たちは「ただになれない人間」なのですが、
ひたすらに何かをなす時間を忘れないでゆきたいものです。
(臨済宗円覚寺派管長横田南陵老師講和から一部抜粋)

この投稿が500回記念になりました。
私の心の師である横田南陵老師の道元の言葉と大好きな相田みつを氏の言葉で
しばしペンを置くことにします。

長い間ご愛読していただき感謝申し上げます。
2024年5月5日