分別知
基本、人は「考えれば分かる」と思っています。
そうやって物事を理解するために考えること(知恵)を、
仏教では「分別知」と呼んでいます。
「分別知」の特徴は、物事を分けて、分析することです。
人は、赤ちゃんとして生まれてきた当初は、まだ自分と他人の区別もしていません。
それが次第に、自と他の区別を知り、母親を知り、家族を知りというように、
それぞれを区別していくことで世界を知っていきます。
世界をバラバラにすることで認識していくわけです。
この知恵を「分別知」といいます。私たちが普段使っている知恵のことです。
しかし、世界は、本来、すべて関係しあっていて、しかも絶え間なく
変化し続けています。その世界のあり方を「縁起」といいます。
そういう世界を、自と他を区別せずありのままに見るのが、
仏の智慧であり、それを「無分別智」と呼びます。
「分別知」によって、「無分別智」を理解することは不可能です。
「分別知」は、自と他を区別し、見るものと見られるものを区別する
二元論的な知ですので、どうしても見る自分が残り、
ありのままの世界を見ることができないからです。
「分別知」が理解しているのは、自分中心に見た世界です。
しかも、私たちはそれをありのままの世界と思いこみ、
知っているつもりになっています。
「分別知」の方から「無分別智」を理解することはできませんが、
「無分別智」は「無分別智」の方から「分別知」を突き崩す形で
私たちにありのままの世界を知らしめます。
私たちにありのままの世界を知らせるはたらきを他力といい、
そのはたらきの主を阿弥陀仏と呼んでいます。
だから、「分別知」によって阿弥陀仏を理解しようとしている人相手に、
短時間で理解させるなんて、仏ならともかく、凡人にはできるはずがありません。
それならばできることは、問いを持ってもらうことくらいです。「考えたけど、
分からなかった。いったい何なんだろう?」と。
そうすれば、いつか阿弥陀仏がその人の「分別知」を突き破って
真実を知らせた時に、「ああ、これが他力なのか」と
分かってもらえることでしょう。
※ちなみに、信仰とは、人間が神を信じることですから、二元論です。
だから、無分別智を知らされる信心とは異なります。
○赤子の様な心でなければ天国へ入ることはできない。
これは聖書にあるイエスキリストの言葉です。
仏教では無心とか、諸法は無我等と言われていることです。
○根本知と分別知のバランス良い成長 分別知と根本知のバランス良い成長が
できない場合があります、特に決まり良い子供。父母の言うことを良く聞く、
いわば優秀な子供です。お父さんお母さんが喜ぶから算数の勉強をがんばる。
父母の喜びが自分の喜びであると決めてしまった分別知中心の子供です。
ですから非常に背伸びして、いじらしく演じている訳ですが、
遂に耐えられなくなって不登校になったりします。
これが子供の内だからまだ良いのですが、大人になるまでそういうことが
続いていくと、ついには人格崩壊をきたすようなことが起こります。
そのような子供は成長過程で自然体験とか直接経験等が極端に不足している
ように思います。山や川へ行けば、自分の思うようになど絶対になりません。
例えば自分が川を堰き止めよう等と思ってもできるものではありません。
まかり間違うと川に流されて大変な危険が生じます。
豊かで変化に富んでいて、どんな科学をもってしても解明し尽くすことはできない
自然界には未知の世界が開かれているのです。
○根本知と分別知の関係 根本知や分別知がどのようにできるか
お分りいただけたと思います。次にそれらの知恵はどのようにはたらくのでしょう。
まず分別知は「見ようとして見る。聞こうとして聞く。考えようとして考える」
そのようにはたらく知恵だというのです。
例えば、坐禅をしている時に目を開いていますから何時も何かが見えます。
あそこにゴミが落ちている、あれは何だろう等とやっていくと、見ようとして
見ていることになります。それから聞こうとして聞く。
ブーと鳴っているファンの音を聞いて。何が鳴っているのかな?
変な音がするな?このように聞こうとして聞く。
ところが根本知と言うのは、「見ようとしないでも見てしまっている。
聞こうとしないでも聞いてしまっている。考えようとしないでも考えてしまっている」
知恵です。外でチュンチュン鳴いているのは何だろうと考えなくても、
雀ということが既に分かってしまっているのです。
ブーと鳴っていのはファンの音だなと考えなくても、ファンの音であることは
分かっている。時々止まったとか、鳴り出したとか意識して、
瞬間的に「ようとして」聞くけれどもすぐ忘れて、
いつも聞こえているのですが聞こうとしていない、
それでいながら鳴っている音はファンの音だということを100%知って
しまっているのです。そのようにはたらく知恵を根本知と言います。
私達はいつも根本知を働かせて生活しているといえます。
しかし自分の生活は全て自分で考え、分別して行動していると思い込んで
いますから、おおむね根本知が働いていることさえ知らないのです。
しかも分別心で幾ら考えても根本知を捉えることはできないという関係に
なっているので、私たちは分別心ばかりに囚われ、根本知を動員した
豊かで創造的な生活ができにくくなっているのです。
その結果いろいろの苦しみや争いが起こってくる。
「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人(しんにん)有り。
常に汝等諸人の面門より出入(しゅつにゅう)す。未だ證據(しょうこ)
せざる者は看よ看よ」と臨済禅師が叫んでいらっしゃいます。
くれぐれも「仏や祖師を知りたいと思うならば、決して外へ求めてはならない。
今この目の前でこの説法を聴いているものだ」と実に端的に示されています。
我々は常に悩みや問題の原因を外にしつらえますが、
本来は自分の心の中から生まれて来るものです。
真人とはこの生身の身体に、何の位も無い真実の人がいるという意味です。
こたえは常に心の内にあることを知らなければなりません。
これからも自然と共に謙虚になる事を学びたいと思います。
そうしてこの身体に確かに働いている真人を自覚することです。
真人は誰にも奪われることはありません。
今日も一途に仏の教えを守りながら過ごしてまいります。