青春とは愛と革命だ




まず紹介したい詩と書籍がある。
サムエル・ウルマンの「青春」と倉田百蔵の「愛と認識の出発」である。
若い時には難解で理解できなかったのが、経験を重ねると徐々に理解が
できるようになった。一般的に社会に出ると読書の時間を取るのが難しくなり
難解な本は避けるようになる。教養の研鑽が失われるのである。

プロデューサーは人を説得する仕事です。知識が信頼を生み、
情熱が引き寄せる力になります。ただの音楽好きでなく
世の中を変えていきたい革命家だと思わせることも大切な要素になります。
あらゆる知識と情熱を語る時、愛が基本的に無ければならない。
それは男と女の愛ではなく人道愛からくる優しさとして
語らなければならない。

この言葉「青春とは愛と革命だ」は瀬戸内寂聴さんの言葉です。
美輪明宏と俳優の藤原竜也さんとの対談記事に記載されていました。
昔から多用された言葉ですが、改めて今の時代に必要なメッセージだと思います。
今回の文章は長文になりますがお付き合いください。

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ
サムエル・ウルマンの詩の一節がよみがえってきた。

         青    春

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
 
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、
怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、
こう言う様相を青春と言うのだ。
 
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、
こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
 
年は七十であろうと十六であろうと、
その胸中に抱き得るものは何か。
曰く「驚異への愛慕心」空にひらめく星晨、
その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、
事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、
人生への歓喜と興味。
 
 人は信念と共に若く  疑惑と共に老ゆる
 人は自信と共に若く  恐怖と共に老ゆる
 希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる
 
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、
そして偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
 
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば
この時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。
「原作 サミュエル・ウルマン  訳詞 岡田義夫」

「愛と認識の出発」
この書を出版してよりすでに十五年を経ている。私の思想はその間に成長、
推移し、生の歩みは深まり、人生の体験は多様となった。
したがって今日この書に盛られているとおりの思想を持ってはいない。
しかし私の人間と思想とのエレメントは依然として変わりない。
そして「たましいの発展」を重視する私は永久に青年たちがそこを通って
来ることの是非必要なところの感じ方、考え方の経路を残しておきたいのである。

私は今や蕭殺たる君と僕との友情を昔の熱と誠と愛との尊きに回めぐらさん
との切実なる願望をもって、君の利己主義に対して再考を乞わねばならない。
君と僕との接触に対する意識が比較的不明瞭であって、
友情の甘さのなかに無批評的に没頭し得た間は、われらはいかに深大なる
価値をこの接触の上に払い、互いに熱涙を注いで喜んだであろう。

その大胆なる態度と、純潔なる思索的良心には私は深厚なる尊敬を捧げる。
僕だって君との接触についてこの問題に想到するとき
どれほど小さい胸を痛めたかしれない。始めから利己、利他の思想の頭を
擡(もたげ)なかったならばと投げやりに思ってもみた。
しかしこの思想は腐った肉に聚あつまる蠅のごとくに払えど払えど
去らなかったのである。このとき私の頭のなかにショウペンハウエルの
意志説が影のごとくさしてきた。

ああ私は恋をしてるんだ。これだけ書いたとき涙が出てしかたがなかった。
私は恋のためには死んでもかまわない。私は初めから死を覚悟して恋したのだ。
私はこれから書き方を変えなければならぬような気がする。
なぜならば私が女性に対して用意していた芸術と哲学との理論は、
一度私が恋してからなんだか役に立たなくなったように思われるからである。

私はじつに哲学も芸術も放擲して恋愛に盲進する。
私に恋愛を暗示したものは私の哲学と芸術であったに相違ない。
しかしながら私の恋愛はその哲学と芸術とに支えられて初めて価値と権威とを
保ち得るのではない。今の私にとって恋愛は独立自全にしてそれみずから
ただちに価値の本体である。それみずから自全の姿において存在し
成長することができるのである。私の形而上学上の恋愛論は
それが私に恋愛を暗示するまで、その点において価値があったのである。
倉田百蔵「愛と認識の出発」

そして我々世代は革命という言葉を聞くたびにフランス革命の時の
女性リーダージャンヌダルクを思い出す人も多いはずである。
救国の聖女と名高く、映画などの題材になるジャンヌダルク。
わずか16歳の頃に戦争へ身を投じ、国を救った彼女はどんな人生を
送ってきたのでしょうか。まずは彼女の生涯を簡単にまとめて紹介します。

ジャンヌは1412年頃、フランスのドンレミ村で農夫婦の家に生まれました。
いたって普通の村娘だったジャンヌは、12歳のときに神のお告げを聞きます。
「戦争に参加してイングランド軍と戦い、王太子シャルルを王にしなさい」
という内容の神のお告げに従い、ジャンヌは16歳になった頃にドンレミ村を出ました。

親戚のデュランと共に王太子のいるヴォークルールへと向かったジャンヌは、
当時の守備隊長であるボードリクール伯に、王太子へ謁見する許可を願います。
しかしボードリクール伯にとって、ただの村娘にすぎないジャンヌの話は
聞き入れられませんでした。

しかしジャンヌは諦めることなく、再びボードリクール伯と面談し、
「ニシンの戦いでフランス軍は敗北する」という予言をします。
予言は見事に的中し、ジャンヌは王太子シャルル7世に
謁見する許可を得られました。
ジャンヌはシャルル7世に、自身が受けた神のお告げについて話し
「私ならばフランスを救うことができます」と言いました。

ジャンヌが入ってから、フランス軍の快進撃が始まります。
ジャンヌが入隊してから、フランス軍は次々とイングランド軍の砦を落とし、
敵の手に落ちていたオルレアンを開放しました。
オルレアンの解放、シャルルの戴冠式などの功績が認められて、
ジャンヌの一族は貴族として迎え入れられます。しかし栄光は続かず、
1930年コンピエーニュ包囲戦でジャンヌは捕縛されてしまいました。

勢いのついたフランス軍は奪われていた領土を取り返していき、
ランスに到達します。そしてついに、1929年7月17日ランスにてシャルル
7世の戴冠式が執り行われました。
オルレアンの解放、シャルルの戴冠式などの功績が認められて、
ジャンヌの一族は貴族として迎え入れられます。しかし栄光は続かず、
1930年コンピエーニュ包囲戦でジャンヌは捕縛されてしまいました。
捕縛されたジャンヌは身代金と引き換えにイングランド軍へと引き渡されます。

当時は魔女や悪魔の存在が信じられており、神の声を聞いたというジャンヌは
異端者扱いされました。
ジャンヌは罠にかけられてしまい、男装をしていたのを理由に宗教裁判で
異端者認定されてしまいます。ジャンヌは、男装にはやむを得ない
事情があったことを訴えましたがすべて無視されてしまい、死刑判決を受けます。
死刑の中でも最も残酷と言われている火刑に処され、
ジャンヌは19歳という若さで亡くなりました。

最後に岡本太郎の言葉より
芸術家、岡本太郎とその秘書であり、養女であり、実質の妻であった岡本敏子。
二人の愛の言葉がつらぬく、はぐくむ、ひきあう、かさなる、ぶつかる
の項目で連なる。
「つらぬく」ことをしなければ愛は得れず
「はぐくむ」努力なしには愛は続かず
「ひきあう」者同士はやはり自然とひきあう
「かさなる」ことでより大きな変化や成長がある
「ぶつかる」ことは最も大切。
ぶつかりながら歩み続ける。

愛に溢れた、愛しか詰まってない一冊。「愛する言葉」も参考にして欲しい。
これを紹介して文章を終わりにします。今夜も熱くなりました。


科学と音楽




一言で科学を言い尽くせる理論はない。

これをChatGPTで検索すると。
科学は、自然界や現象についての俊樹の体形化し、観察や実験、推論、
仮説検証などの科学的方法を通じて理解しょうとする学問の体形です。
科学は客観的なデーターや証拠に基づいて知識を構築し、その知識を利用して
現実世界の問題を解決し、技術や社会の進歩に貢献します。と1秒で出て来た。

現代文明の最も大きな特色は、科学・技術の急速な進歩と
それが人間生活に与えてきた多大な影響力である。
科学と技術は、人類の進化と共に、古くはそれぞれに互いに独立したもの
として進歩・発展したが、近代自然科学の手法が科学と技術を結びつけて
両者の飛躍的な進歩を促した。

さらに、今世紀に入って、現代物理学をはじめとする
自然科学の各領域における新しい展開とその急速な進歩に伴って、
科学と技術は、さまざまな面から相互にそのつながりを深めてきた
特に、現代自然科学の新しい成果から生みだされた技術は、
20世紀の後半に目覚ましい進歩を遂げて、人間の物質生活にも
精神生活にも多大な影響を与えるようになった。

それは音楽にも共通する人類の歓喜と英知である。
科学は音楽理論から音響工学の発展により、楽器の設計や
音楽の録音・再生技術が向上した。
また、心理学や神経科学の研究により、音楽の効果や、
人間の音楽に対する反応について深く理解されるようになった。
さらに、数学や物理学が音楽の構造や作曲に応用されることもある。
そのために、科学と音楽はお互いに影響し合い、相互に豊かな発展を遂げている。

「科学・技術の進歩とその意義」
科学も技術も、元来、人間が環境に適応する現象であり、
それは人間の能力を延長し強化する営みである。
科学・技術は、人間を飢餓、災害、変腐などからも救い、
人間実生活に多大な利益をもたらしてきた。

ごく一部の人々によって占有されていた高度な人類文化が、
多数の人々にまで及び、その成果が広く享受されることを可能にしたもの
科学・技術の進歩である。自由・平等という価値を形に表わして
人間社会に実現する上でも、科学・技術は大きな力を発揮し、
人類社会に多大な貢献をしてきたといえる。

古来、実生活における切実な必要が、多様な現象に共通する法則性の
発見と、その実利への適用としての技術の進歩を促してきた。
人類が受け継いできた科学と技術は、人間が生命を維持し
人間としての生活を保持するために、久しくことができないものである。
また、つねに普遍的法則を追究し新しい技術を開発し利用しようとすることは、
生命体としての人間の本性によるもので、科学・技術の進歩には、
人間にとって、その直接の効用以上の意味がある。

1 現代科学技術の人間への影響
現代科学技術は、まず、肉体的にも精神的にも労働と生活の質を変え、
大小の苦痛や困難から人間を解放し人間に多大な便益と満足を与えてきた。
しかし、それと同時に、多くの新しい問題も生みだした。
また、肉体的にも精神的にも人間を変え、人間関係の在り方と内容にも
大きな影響を与えた。

現代科学技術の開発によって、次のような人間間題が生じている 。
1. 技術至上主義、能率至上主義により人間性が見失われる。
技術のリズム(規模・速度などを含む)と生命体としての
人間のリズムの間に不一致・不開和が生じている 。
2 分業・複雑化・専門化によって、技術の内容や影響についての
理解が困難になり、そのことから技術および技術者に対する不言も生し、
また新しい科学技術の影響や予測される問題についての
見通しなども困難になってきた。
3 技術化できるものだけが偏重され、倫理・宗教・芸術などの
精神的な人間活動が二次的なものと見なされる傾向を生む。
4 価値が画一化され、総合的な判断力が弱まる。また、
機械の能力を根幹で補い活かす熟練の価値を見失い喪失しつつある。
5 人についても、物についても、精神的なつながりが希薄になる。
その結果として、精神の孤立化、虚弱化が起こる。
人間の肉体が虚弱化する。
我々はもっと科学の恐怖や弊害を調査しなければならない。

私がロダンの「言葉抄」で学んだのは、
芸術は科学の応用がより大事であるという事です。
芸術家たちは科学の理解が深まるにつれて、
自然界や人間の身体の構造などのテーマにより深く
掘り下げるようになれたのです。
画家の描く構図も科学の力を応用しているのです。

「彫刻を掘りあてるために、私は全力をつくし、できる限りのことをした」
と語ったロダン(1840年~1917年)には自ら書いた文章は少ない。
本書は、詩人の高村光太郎が折にふれて訳出したロダンの談話筆録を
編集し、詳細な注と全作品年表とを付して、ロダン研究の基礎的な
資料となるよう配慮したものです。

つまり、ロダンという近代西洋彫刻の父の言葉が、それに感化された
日本の彫刻家によって訳され、その後輩たちが解説を加えている、
「彫刻家の、彫刻家による・・」(と続くと「彫刻家のための本」と
結びたくなるところだが、ここは、)「全ての芸術家のための本」で括れるだろう。

これは、芸術家だけの内容ではない、万人に通じる美への手引き書である。
恩学でも引用された部分が多い。これからも引用するだろう。

科学の暴走を止めるのは芸術しかない。
科学は人間の倫理観の成長に伴う。
科学は人類の幸福を追求するために開発されるべきで、
兵器として開発すのは赦されないのである。

伊丹谷良介2024「うた」=科学=東京ライブ
4月13日(土)恵比寿BAR Voices 18:30open,19:00start
1月「ブッダ」2月「生命」3月「芸術」そして4月は「科学」

ロックミュージシャンが難解なタイトルでライブを行う理由は?
ロックは時代に応じたメッセージが含まれなければロックではない。
世界が混乱している中で伝えなければならない言葉がある。
E=mc2(アインシュタイン)
「ほんのわずかな物質にも、膨大なエネルギーが秘められている。」
科学の進歩が戦争に使われることには断固反対である。

ライブ終了後に観客と対話をする時間を設けている。
サロン形式を取り入れた自由討論である。

映像とナレーションを組み合わせた手法、その為の制作に費やす時間、
テーマに合わせた新曲制作、リハーサルと膨大な時間をかけて、
伊丹谷良介は毎月取り組んでいる。凄いエネルギーである。
E=mc2(アインシュタイン)は人間にも適用できるのである。

毎回チケットは発売と同時にソルドアウトである。

先月は東京と京都の2ケ所で開催した。今月は名古屋も含めて3ケ所になる。
全国各地どこでも呼ばれればライブ活動をおこなう。
もちろん海外でも呼ばれれば出向いていく予定がある。

2024年辰年にあわせて「うた」は空を駆けあがります。
戦場へ続くドラゴンロードを走り抜けます。
益々、ロックシンガー伊丹谷良介から目が離せない。
是非とも一度生ライブを鑑賞していただきたいと思います。


詩人




皆様も経験があるかもしれません。
美しい言葉とは感じる心と受け取る波長が
同じでなくては詩の本質を掴むことが出来ません。
また詩人の詩をいつでも同じように感じるかはその時の状況にもよります。
山に行ったことがない人が山にまつわる詩を読んでも心に響くことはありません。
海に言ったことがない人が海にまつわる詩を読んでも心に響くことはありません。
戦争の経験のない人が戦争にまつわる詩を読んでも心の響くことはありません。
しかしある時に見過ごしていた詩が腑に落ちることがあります。

今回ご紹介する詩人茨城のり子さんの詩を読んだ時に、当初、何を意図して
作られたのかは理解が出来ませんでした。しかし数年たってから読み直して
驚くほどの感動を覚えることが出来たのです。
私の経験と心の変化が理解できる脳になったのだと思います。

茨木のり子
1926年に大阪で生まれ、現・東邦大学薬学部在学中に空襲や勤労動員を体験し、
19歳のときに終戦を迎えた。1953年には川崎洋らと同人誌『櫂』を創刊。
彼女の詩集『自分の感受性くらい』『倚りかからず』などに綴られた
数々の名作は、今の時代も人々の心に響き続ける。

「内部からいつもくさってくる桃、平和」これは「内部からくさる桃」という詩。
1926年に生まれた茨木のり子にとって、かつて体験した戦争、敗戦、
その後の暮らしがとても重要で、詩やエッセイなどで折に触れ言及している。

この詩では夏に旬を迎える桃を取り上げたことで、同じく夏に終結した
第二次世界大戦、茨木のり子が体験した戦争を「平和」という単語の背景として
想起できる。そして「平和」は社会や世界という大きなところではなく、
自分自身を含む「ひとびと」の心の持ちように懸かっている。

毎年、桃が出回る時季になると、私はこのフレーズを思い出す。
果物の桃とは全く意味が異なるところで、平和というものはまさに桃の如く
内部から傷んでいくものというイメージを抱くようになった。
詩を読むことで受け取った警句として私の心に響いている。

茨木のり子の詩を通じて、描かれる「わたし」の輪郭の凛としたところに
感銘を受ける。自宅や街角、あるいは旅先で、手を動かし足を運ぶ日々の
営みによって言葉を醸していく方法は、日常の傍で一人考えながら
身近なものごとを見つめる孤独さと隣り合わせだと思うが、
そのような強さに憧れる。 そして好きな作品を一つ挙げるとしたら、
「波の音」(1977年刊行の詩集『自分の感受性くらい』収録)。

茨木のり子は「海」を心象風景として抱いていたようだ。
この詩でも波音が聴こえるが、内面に降りていくような静謐さがある。
茨木は夫を亡くした後に韓国語を始めたという。
この詩には、孤独でありながらも自分自身を支える時空間があるように思う。

詩人に問われるのは、まずはその作品だが、茨木のり子という詩人については、
その人格と詩とを切り離すことができず、存在まるごとが語り継がれる。
最後の最後、身の処し方までも含めて、一つの成熟した人格が、見事に生き切った
生涯だったと思う。

「波の音」という、一人、酒に酔う詩がある。
「波の音」
「酒注ぐ音は とくとくとく だが
カリタ カリタ と聴こえる国もあって

波の音は どぶん ざ ざ ざァなのに
チヤルサー チヤルサー と聴こえる国もある

澄酒を カリタ カリタ と傾けて
波音のチャルサー チヤルサー 捲き返す宿で

一人酔えば
なにもかもが洗い出されてくるような夜です

子供のころと 少しも違わぬ気性が居て
悲しみだけが ずっと深くなっていく

それを読むとこの詩人が、年々歳々、哀しみというものを、
深く熟成して生きた人だということがわかる。哀しみを知る人は、
人と深く出会った人でもあった。
誰かと「知り合う」のは簡単だが、深く「出会う」というのは
簡単なことではない。それは運命に属する恐ろしいことでもある。

「出会い」はいくつかの作品にもなっていて、たとえば韓国の
女性詩人との温かい友情は、「あのひとの棲む国」という素敵な一篇になった。
一番大きい出会いは、茨木のり子が49歳のときに亡くなった夫だったろう。
その人を恋う詩集が、茨木の死後に『歳月』という一冊にまとまっている。

「私」を慎んだ詩人の、秘められた官能が読み取れる。
しかし一篇を選ぶというなら、「わたしが一番きれいだったとき」
(1958年刊行の第二詩集『見えない配達夫』収録)を挙げたい。

「わたしが一番きれいだったとき」
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていった
とんでもないところから
青空が見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年をとってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね

高らかに歌うリズムは、焦土を闊歩する若い女性の靴音のよう。
明るい解放感とともに、戦争によって青春期を失った哀しみと、
空虚さが、青空に溶け、静かに詩の底を流れている。
戦後を代表する、もっとも美しくけなげな詩。今も私たちを、根底からゆるがす。

彼女が紡ぐ、飾らない真っ直ぐな言葉は温かく、そして力強い。
自立した精神性に惹かれる。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
というトドメの言葉に奮い立たされる。

部分的に日本近代文学研究者「矢部真紀」、詩人・小説家「小池昌代」の
対談から引用させていただきました。
余りにも私の感性と近くてどこをどう引用したのかが
分からなくなりました。笑い
ブログ上で勝手に3人対談といたしました。

皆様はどのように感じましたでしょうか。


人間とゴリラ




私はプロデューサーという立場から人が大きく変わる姿を何度も目撃している。
面接の時に目を合わせてくる子は可能性を感じるが、終始俯き加減の子は
どれほど音楽的才能があっても採用しない。
スターになる子は楽屋に集団でいても馬鹿騒ぎをしないで緊張を楽しんでいる。

私は本番の時、その子だけを見るのではなくて会場全体を見て、
楽器やバンドのメンバーの中にいる、その子の存在力を眺めるのです。
絵写りが良い子はスターになるチャンスを握っているからです。

オーディションに合格して暫くしてから会うと、
激的に変化をしている子がいる。
明らかに大勢の人間から選ばれた自信にみなぎっていて、
取材やラジオやテレビにゲスト出演をして常に見られる環境になり、
人を引き付けるオーラが身に付いてきたからです。

また作品が売れ出してきてファンから追いかけられる様になって
一段と変化する子もたくさん見てきました。

80年代おニャンコクラブというアイドルグループの女の子を
スターにしてほしいとテレビ局から頼まれて、
初めてアイドルの子をプロデュースしました。
それまではロック、フォーク、ブルース、R&B、などの
音楽専門のプロデューサーであった。
その為にテレビ局から白羽の矢が放たれたのです。
音楽専門のプロデューサーがアイドルを担当したらどうなるかです。

先ずは作曲家と打ち合わせをして楽曲のイメージを話し合い
「この不思議な女の子は異国に置くのがいい」と直感が働き、
香港を舞台にした映画「慕情」の設定で行こうと決めました。
丘の上からオープンカーに乗って街へ下るシーンと
悲しい恋の物語を歌にしました。

最初の歌合せの時に私が仮歌詞を書いて歌ってもらいました。
その楽曲を完成させて制作会議で関係者に聞かせたところ、
満場一致で採用になり、予定されていた大物作詞家の歌詞は
採用されませんでした。
そしてその年の「レコード大賞作詞家大賞」に選ばれたのです。
勿論、曲も大ヒットしたのです。

大勢のスターを輩出したということで
学校や企業から講演依頼が増えました。
時には相談役として呼ばれることもあります。
最初に学校の理事長や会社の社長と面談した時に
昔からの癖で「人」を見てしまいます。
その学校やその会社に魅力を感じても責任者に魅力がなければ
成功しない気がしてなりませんから。

初対面の時に挨拶と歩き方と言葉のイントネーションで
人間性が見えるのです。会社はトップの人間性で将来が決まるのです。
私は価値観を共有出来ない人たちとは仕事をしません。

「サルとゴリラの違い」
地球環境の根源的な問題は、人間の文化の問題でもあります。
これは初代所長の日高敏隆先生がおっしゃったことです。
私は4代目で、その意志を受け継いでいます。
環境問題は文化の問題なのです。

「“対面”ができないニホンザル」
昔のものが再び人気になるのも、文化の変化によるものってことですね。
我々が衣食住の要としているものによって、環境はがらっと変わるんですね。
もう1つ言うと、ここ100年ばかり、人間は科学技術を神話のように
信奉し過ぎていた。科学技術や経済発展を優先する方向に進んできたので、
人間の体や心と環境との間にミスマッチが起こっています。
 
本来なら、環境を人間に合わせる必要があった。
人間が幸福になれる環境に、つくり変える必要があった。
ところが、逆をやってしまったんです。
技術や経済の視点で環境をデザインして、その環境に人間の体を合わせようと
したから、おかしなことになった。それをもう一度、人間の本性とは何か、
人間の体に合った環境とは何かということを考えましょうというのが、
我々の方針の1つです。

フェース・トゥ・フェースのコミュニケーションとリモートとでは、
情報量が圧倒的に違います。ゴリラ研究の視点からの、コミュニケーション
のお話が大好きなんですけど、ウィズコロナ時代のコミュニケーションに
ついては、どのように考えていらっしゃいますか。

人間は他の類人猿と違って、対面というコミュニケーションによって
この社会をつくってきました。例えば、ニホンザルは、対面ができないんです。
対面して相手の顔をじっと見つめるというのは、強いサルの特権なんです。

弱いサルは、強いサルに見つめられたら視線を避けないといけない。
要するに、“眼付(がんつ)け”。顔を見つめるのは「相手への威嚇」。
相手からは「自分への挑戦」だと見なされてしまう。これがサルの世界です。
 
しかしゴリラやチンバンジーなど、人間に近い類人猿では、
相手の顔を見つめることは威嚇にならない。
だから人間のコミュニケーションは、そこから出発したと思うんですよ。
対面するということから。
 
対面のコミュニケーションは、ただ顔を突き合わすだけじゃなく、
周囲の状況、例えば誰かが近くにいるとか、そこが川の近くであるとか、
山の中であるかとか、色々な状況が絡んでいる。
 
だから我々が言葉をしゃべるようになっても、言葉はコミュニケーションの
一部でしかなく、相手と自分の関係、その場の状況、コンテキスト(文脈)
というものにすごく左右されるわけです。
総合地球環境学研究所所長山極壽一の話より

視線と音と景色に交わる。
アナログでは当たり前の様に行われてきた人間の特性が、
デジタルになってからとても不器用になってしまいました。
例えば気になる人に好意を持って欲しくてその人の趣味などを聞き、
情報量を増やしていきます。そうすることによって会話が続き
目を合わせる機会も増えるのです。

デートに適した場所を選び、デートに誘って2人だけの会話から
好意を持っているか嫌われているか相手の声で判断したのです。
電車の中で、喫茶店で、送り届ける帰り道で、2人だけの景色を楽しむ。
いわゆる視線と音と景色を同時に味わうのです。

音楽にデジタルが入り込み音も映像もコンピューターが作り出す様になって、
プロデュースをすることに興味がなくなりました。
空気感のない中でのレコーディング、撮影も編集も処理作業で済ませる時代です。
人間の感性が必要なくなりコンピューターがプロデュースするのです。

皆様は便利な状況で人間関係が希薄になりドキドキしなくなる
社会が好きですか?私は苦手です。

だからいつでも旅に出るのです。そこにはアナログの関係性が無ければ
信頼も生まれず、最悪は危険にも見舞われます。

その内にサルやゴリラより劣る機械的な人間になることになるかもしれません。
目の前の人を見つめて声を聞いて背景の景色を楽しむのが人間ですよ。


武家の女性




モーパッサンの「女の一生」ではないが、
日本人女性、特に江戸時代の女性の一生に興味を持った。
その時に出会った一冊が山川菊枝著「武家の女性」であった。
男社会の武士道の話は山ほど書物としてあるが、
女性の目線で武家社会を扱った本は数少ない。

山川菊栄の「武家の女性」は、自分の母親とその家族を中心にして、
幕末・維新期の日本の武家の女性の生き方を描いたものだが、
単に女性にとどまらず、当時の武士社会の生活ぶりが生き生きと描かれている。
菊栄が生まれ育ったのは水戸藩で、水戸藩固有の事情も随分働いているとは思うが、
武士階級の置かれていた基本的な条件はさほど異なってはいないと思うので、
この本を読むと、幕末頃の武士の生活ぶりがよくわかるのではないか。

日本の人口は徳川時代を通じて、ほぼ三千万人前後で推移し、
大幅に増加することはなかった。それは生産力の限界があったからで、
その限界が人口の増加を許さなかったのである。
この限界は、農民階級の場合には耕作地の限界という形をとったが、
武士階級の場合には、禄高の限界という形をとった。

一部の例外を除いて、各藩とも禄高が増加することはなかったから、
その限られた禄高をもとに、武士団を養わねばならなかった。
水戸藩の場合には、二十数万石の禄高を以て約千人の武士とその家庭を養っていた。
そのうち百石に満たない貧しい武士が七割を占めていたということだ。
そんなわけで水戸藩においては、武家の生活は非常に苦しいものであった。
この苦しさが、水戸藩士を分裂させ、互いに血で血を洗うような
抗争に走らせた基本的な原因だと菊栄は分析している。

禄高が限られているために、少しでも収入を増やしたいと思えば、
藩の役職について役職手当をもらうほかに方法がない。
それゆえ水戸藩の武士たちは、この役職を求めて互いに争い、
それが高じて血で血を洗うような抗争に発展したと言うのである。

水戸藩に限らず、女性の力が日本の国力を底辺で支えた、と菊栄は思って
いるようだ。なかでも貧しい武家の女性たちが果たした役割は大きい。

そのことは、「日本の教育界に大きな貢献をした明治初期の女教員の
ほとんど全部が、田舎の貧乏士族の娘だったこと、また最初の紡績女工の
仕事を進んで引き受けた義勇労働者もそれらの娘たちだったこと」に現れている。
その一方で、没落した旗本の娘の中には、芸娼妓や妾奉公に出たものが
多かったと菊栄は言っている。

そうした女性たちを教育したのは、家庭での「しつけ」だったと言って、
菊栄は武家社会における家庭教育の重要性を強調している。
その教育の要諦は、女は己を空しくして人に仕えるという姿勢を
叩き込むことだった。そんなわけで女の子は男の子に比べて粗末に扱われた。
そうすることで忍耐心を養わせようとしたわけである。

女が粗末に扱われたという点では、結婚後も大きな変わりはなかった。
徳川時代には離婚率が非常に高かったが、離婚の理由には男の側の
勝手によるところが多かった。それにからめて、菊栄は「女大学」のなかの
離婚の原因を論じた部分(七去論)とそれに対する福沢諭吉の批判を
取り上げているが、それを読むと、夫人の権利がいかにないがしろにされて
いたかがわかるというわけである。

ともあれ、妻が一方的に離縁されるケースは維新後には大幅に減った。
それは新しい婚姻法の効果だと言って、菊栄は妻の地位が在来よりはるかに
安定したことを喜ばしいこととして評価している。
菊栄は言う、「封建時代の家族制度は、一面ではどういう時代にも必要な
勤労、節度、忍耐、規律への服従というような美徳を養い、
それを根強い伝統として発達させたと同時に他の一面では、
家の名で、今日から見て不合理な親権の濫用や、妻の地位の不安定によって、
かえって家族生活そのものを危うくし、子女の幸福を破壊する暗黒面をも
伴ったことは明白で、この点で、明治以来の社会の進歩は、日本の女性のため、
かつ国民全体のために祝福されなければなりません」

社会の進歩は、女性の地位の向上に加えて、武士を含めて、
人々の生活が楽になったことにもあらわれている。
徳川時代には、みな日々の生活に苦しみ、国全体として停滞していた。
それは人口が増えなかったことに現れている。
しかし明治時代になると、個々人の生活は楽になり、
また国全体も豊かになっていった。人口の増加はその最大のしるしである。
こういう面については、菊栄は素直に評価している。
武家の女性より
私が特筆する部分は「子年のお騒ぎ」の部分である。
幕府に対して謀反の罪を問われて切腹を命じられ家は断絶しました。
しかしひとしお痛ましいのはおもだつ人々の家族でした。
武田耕雲は二人の大きい息子と一緒に斬罪となりましたが、
年の行かぬ子供や孫、妻も嫁も合わせて男八人女三人、一家十一人が
この事件の犠牲になりました。

死罪が決定しているのに関わらず牢獄内で子供達に「論語」を学ばす母、
それを見て牢番が「どうせ死んでいく子に、そんなことをしても無駄だろう」
というと、この子たちの内に一人ぐらいは赦されて外に出た時に
学問が無ければ困るからと言い返した。

筵(むしろ)にくるまれて首を切られる場面では母親に先を譲り、
自分の切られている姿を見せるのは偲びないと子供心に気を使う。
何度読んでも母と子の処刑の部分は言葉が失う壮絶なものである。
日本人の残忍性を見てしまった恐ろしさが記憶に残る。
しかしこれは真実の物語である。

武家の女性の覚悟のすさまじさと美しさに感動を覚える。
戦後このような女性の姿が消えてしまったことに憂いを感じる。
現代のような自由平等は大いに賛成ですが
規律のない自由は「だらしなさ」に繋がります。
凛とした女性の覚悟も忘れないようにしてください。


科学の罪




「オッペンハイマー」

人間は本当に急激な進歩・進化を望んでいるのか疑わしい。
神から錬金術を受け継いできた人間の罠に陥っているだけかも知れない。
進化はあらゆるものを犠牲にして罪を作るが、その恩恵は誰にでも平等では無い。
映画「オッペンハイマー」を観てつくづく考えさせられました。

この時期(ウクライナ、イスラエル戦争)に、この映画を制作したのは
アメリカが世界に向けて牽制のために作ったのか、きな臭さが感じられる。
アメリカは原爆を日本へ投下した経験を持つ唯一の国である。

科学者の解く疑問は必要のないパンドラの箱を開けることになる。
その必要のない箱を利用する権力者たちは末代まで地獄に落ちる。
権力の上位に居続けることは誰よりも強い武器を持たなければならない。

日本は原爆開発者の試し撃ちで二発の原爆を落とされた。
広島は原爆の威力を確かめるために、長崎は二度と戦争に立ち上がれないように
見せしめのために行われた。その結果罪のない市民が「1945年8月の広島、
長崎への原爆投下では、広島で約14万人、長崎で約7万4千人が45年末までに
死亡したとされる。 子どもたちはどんな被害を受けたのか。
広島市のこれまでの調査では、0~9歳の7万3622人が被爆した。
2022/08/09発表」

PROMETHEUS STOLE FIRE FROM THE GODS AND GAVE IT TO MAN.
(プロメテウスは神々の炎を盗み人間に与えた)
FOR THIS HE WAS CHAINED TO A ROCK AND TORTURED FOR ETERNITY.
(この行為により彼は岩に繋がれて、永遠に罰せられた)

映画の見方
オッペンハイマー視点のカラー部分をFISSION(核分裂)、
ストローズ視点のモノクロ部分をFUSION(核融合)と
タイトルをつけているのもオシャレで格好良いですね。
深い意味がありそうで、実は無さそうで、でも一周回ってやっぱり
ありそうな雰囲気がいかにも監督ノーラン的です。

映画のあらすじ
1920年代。学生時代から理屈ではなくて感覚で量子世界の真理が見えていた
若き天才科学者オッペンハイマーは、ヨーロッパで大学を渡り歩き
ボーア(演ケネス・ブラナー)やハイゼンベルク(演マティアス・
シュヴァイクホファー)など当時の最高の物理学者たちから学び、
互いに影響しあって量子力学研究の第一人者になっていく。
またこの時期に、同じ米国人物理学者として生涯にわたって支えてくれる友人、
イジドール・ラービ(演デヴィッド・クラムホルツ)とも出会う。

原爆開発と投下
1945年10月。功績が認められてトルーマン大統領(シークレットゲスト!)
と面会したオッペンハイマーは弱気な発言を繰り返し、ロス・アラモスを閉鎖して
土地を原住民に返却しますとまで言い放ち大統領の不評を買ってしまう。
更にダメ押しで「手に血がついた気持ちです」と心境を吐露するも、
大統領から「被曝者は開発者のことなど考えもしない、恨まれるのは落とすと
決めた私だ」と啖呵を切られて、そのまま面会はバッサリ中断されるのだった。

1947年。オッペンハイマーがストローズと初対面した日。庭の池で遊ぶ
アインシュタインに近づくオッペンハイマー。アインシュタインは
旧友を笑顔で歓迎する。しかしアインシュタインは続けて、オッペンハイマーが
原爆という大量殺戮兵器を作ったコンセクエンス(決着)を受けるべきだと凄む。
「そして、いつか人々は君を十分に罰したと思ったら、もう許した証として
君を表彰するだろう。でも忘れるな。その栄誉は君の為ではない。
自分たちが君を罰したことを君に許させるための物なのだ。」

それだけ言って去ろうとしたアインシュタインを引き止めてオッペンハイマーが
話しかける。「いつか地球を燃やし尽くす核爆発の連鎖反応の話をしたでしょう、
あれですけどね、成功したと思います。」ドン引きするアインシュタイン。
言葉を失い、意識も朦朧として歩いて行く。だからストローズが話しかけても
無視してしまったのだ。(それを猜疑心からストローズが勝手に誤解していただけで)

以上、割愛したストーリーです。あとは自分自身の目で確かめてください。

どのような理由でも自分達の実験のために
多くの罪のない人々を殺した罪は大きい。
日本は敗戦を認めても原爆投下には断固反対すべきであった。
日本だけが世界に向かって原爆反対を叫べる国であることを
証明しなければなりません。

現在計画中のガザ地区の子供達を救う平和活動は
愛の武器を持って向かいます。
その為に一切の武器を持たずに戦地に向かうのです。
罪もなく親を亡くした子供達を日本の里親制度で守り、
成人になれば日本に留まるかパレスチナに戻るかを
決めさせれば良いと思います。

しかし日本政府が許可するか、日本の里親制度が機能するか、
乗り越えなければならない問題が山ほどある。
すでに一部の自衛隊隊員の中に賛成している者がいる。

戦火の中で親を亡くして苦しむ子供達を見過ごしてはならない。

映画の中でストローズが「人々は太陽に集まるが権力はシャドーに隠れる」
と言った言葉が全てを物語っています。
そしてもう一つの言葉は攻撃責任者の言葉「原爆投下の候補地から京都は外せ。
以前家内と行ったことがあるが素敵な街だから攻撃の候補地から除外しろ」
こんな理由から原爆投下の候補地を選んでいたかと思うと
広島と長崎の人たちは悔しくて・悔しくて怒りが収まらなくなるだろう。

科学者たちの開発は戦争を止めることになったとしても、
多くの罪の無い市民を虐殺したことには変わりがない。

科学の罪を考えることのできる秀逸な映画作品です。


愛こそすべて




イタリアのファッションメーカーブルネロ・クチネリ。
オーナーの経営に対するフィロソフィーが紹介されている。
高級生地を使いスタイリッシュな洋服が生産されても、
大切なことは羊を飼育している人も、それを糸に紡ぐ人も、
工場で縫製に関わる人も、店頭で販売する人も、中心にあるのは、
「愛こそすべて」の理念を共通の価値観として保有していることです。

世界各地で続く戦争や紛争、実生活にも影響を及ぼしている
気候変動やインフレーションなどにより、混乱著しい世界情勢。
では、そんな現代にあって、ファッション業界における存在感が
より際立っているのがブルネロ クチネリである。
独立企業としての体制を保ち、他と一線を画す人間性重視の企業姿勢と
モノづくりがグローバルな成功を収めているのだ。

そしてブルネロ・クチネリの語るヒューマニズムや愛の大切さが、
業界の垣根を超えて今、大きな反響を呼んでいる。

「私たちの企業活動、あるいは私自身の人生における基本的な動機づけ
となっているものは、すべて愛してやまないイタリアのルネサンスに
よって育まれたといえます。それは素晴らしい人文主義に基づいた、
伝統的な芸術や卓越した文学、そして私たちが誇る“美しい国”をかたちづくった、
尊敬に値する職人の創造性です。今も世界の人々を魅了する、

イタリアの天才たちが生み出したそれらが示すのは、
すべての仕事は倫理的な労働によって成され、
あらゆるものの尊厳を尊重しながら、きちんとした製品が製造されるべき
ということ。そして、そのためには「愛」が不可欠ということです。
それはいわば“サステナブルなヒューマニティ”であり、
“人間主義的資本主義”と名付けた私の哲学なのです」

人々が求める愛ある服の証し
世界中で進む核家族化やITの進化によるコミュニケーションの
変容により、家族間をはじめとした人間関係の希薄化が懸念されている
現在。そうした社会情勢にパンデミックや戦争が追い打ちをかけ、
人心の荒廃やヒューマニズムへの無関心が懸念されている。
その根本にあるのは、家族愛や人間愛、つまり愛の欠落ではないだろうか。
そうした社会にあって、人間性重視の企業姿勢を貫くブルネロ クチネリの
服が求められ、企業や教育機関がクチネリの言葉を聞きたがるのは、
そこに本物の愛を感じるからではないだろうか。

「今、私たちがインスピレーションを得ているのは、
新しいサステナブルなヒューマニズムであり、人間中心の資本主義です。
それと同時に、人文主義の偉大なる師たちが、時を超えて
私たちに与えてくれた助言、イタリア・ルネサンスが育んだ人間の尊厳を
大切にする文化なのです。

その代表が、ルネサンス期の人文学者ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・
ミランドラの著書『人間の尊厳について』です。
同書はまさにルネサンスのマニフェストと言うにふさわしい、
すべての学校で読み直すべき名著といえるでしょう。

私たちも、世界の美をひととき守る守護者として、謙虚な人間が生み出す
美しい文化のために、服を通して人間性や愛を伝えられれば
幸いと改めて思っています」

“欲望の世紀”といわれた二十世紀が幕を閉じ、
早くも20年以上が経過した現在。
世界各国で経済格差が拡大を続け、強欲な資本主義の問題点が
指摘されている。
そんな現代社会で評価されるブルネロ クチネリの服、
そしてその背景にあるヒューマニズムと博愛精神は、
新時代の資本主義が向かうべき道を指し示しているといえそうだ。

家族愛を重視する国イタリア。ブルネロ・クチネリの基盤も
拠点のソロメオでともに暮らす家族だ。

日本の各地にある職人たちの暮らしも同じようなものである。
伝統を引き継ぐというのは大変な作業であるが、そこに愛が無ければ続かない。

私が昨年まで顧問をしていた株式会社カインドウェアは創業128年の
宮内庁御用達のフォーマルウェアの会社である。
その製品を扱うのが栃木県那須にある自社工場である。
夢工房と名付けられて地元に住んでいる人たちの協力のもとに
伝統が引き続けられている。工場の真ん中に託児所があり働きやすい
環境を最初に取り入れられた縫製工場として注目されていた。

1973年設立以来、宮内庁御用達の儀礼服の生産から始まり、
高度な技術を要するタキシードやモーニングの縫製技術を備えた工場に
発展しました。設立当時カインドウェアが英国王室御用達のハンツマンと
技術提携を結んでいたことにより、縫製技術と礼装の近代化を取り入れていました。
さらに1985年に来日した元ラルフ・ローレン ボストン生産工場社長の
レオ・ロッジ氏から学んだイタリアのレディメイドスーツの縫製工法を
ベースに、上質で着心地の良いスーツを日々生み出しています。

洋服は第二の皮膚と表現します。そこに愛が無ければただの布切れです。
社交文化は洋服から生まれたと言っても過言ではないと思います。

良い服は何世代にわたっても引き継がれて着ることが出来ます。
皆様も愛ある洋服に出会いますように祈ります。


自分売り込み




商品を売るためにマーケティングが生まれて物流全般の改革が行われて来た。
効率を科学で判断して世界に流通網を築いた。
どこの国の商品も生産量に合わせて欲しい国へ売ることが可能になった。
マーケティングの知識はハーバード大学で集約されていると言っても過言ではない。
私もハーバードビジネスレビューを座右の書として何冊も愛読して来た。
経営の知識はMBAで鎬を削って世界中から経営者の息子と娘が学んだ。
これらは学校の権威ではなく完全に教育ビジネスの先端を行く仕事である。
結局人間の購買意欲を高める方法を教えてくれるだけです。

日本のビジネスマンが自分を売り込むのが苦手で、
勤め先の説明から始めると相手から信用されない。
自分に自信のない人間だと思われるからである。
一般的に世界情勢や文化的な話から始めると評価が高くなる。
おしなべて日本人は自分自身の売り込みが苦手である。

特に女性は奥ゆかしさが美徳とされて教育されて来たので、
人を押し除けてまで自分を売り込むのが苦手である。
幸福の定義や生き方のスタイルを知らないで年齢を重ねる。
自分の魅力も知らないうちに将来の伴侶を探すのは危険である。
最近では適齢期と言う言葉は使われなくなったが、周りの友人が
結婚し始めると急に焦り始める。

一番大切な売り込みは好きな人を射止めるマーケティングである。
理想のタイプを決めて、何処に出没するか、どんな友人と交流しているか、
着ている服装や持ち物などでセンスを探る。人間性の調査です。
例えば絵の趣味を持っている男性とお付き合いをしたいと思えば、
出会いは絵画館でスタートするのが良い。
また好みの商品はそれを売っている場所から探すのです。市場調査です。

勿論、それ以上に自分磨きは怠ってはいけません。
自分が一番得意とする趣味や習い事に時間を取ることです。
一度身に着いた教養は奪い取ることが出来ません。(ユダヤの聖典より)
やりての男性は容姿端麗より才色兼備を好むことを知らなければ
無駄な時間と無駄な美にお金を使うことになる。
あなたは今の自分が好きですか?

おにぎりを食べたい人にフレンチ料理を作っていませんか?
ある女子大の人気教授がいて女子学生達は彼の心を射止めるのに
躍起になっていた。特にその中でも容姿端麗のS子が人目を憚らず
結婚を公言していたので、誰しもが教授を射止めるのは彼女だと思った。

しかし、数年経って教授が結婚に選んだのは一番大人しいA子だった。
S子は夢や理想を語り自分がどれだけ教授に相応しいかをアプローチしていた。
しかし、何故教授がA子を選んだのか謎だった。
後日、最も親しい友人にA子が語ったのは、私から結婚の言葉は一切使わなかった。
「先生のそばにいて一生お手伝いをさせてください」と言っただけである。

海外の講演会にも呼ばれるほどの忙しい教授である。
一息つきたい時にそっとお茶を出してくれる女性がいても良いと思ったのである。
S子のように語学堪能で社交的で美しい女性は教授には必要がないのである。
A子のような心が休める清楚な女性が求められていたのだった。
A子は教授が求めるおにぎりを差し出したのです。

皆さんも相手がおにぎりを食べたいのに、
フレンチ料理を出そうとしていませんか?

女性の地位が向上すると共に料理や育児に専念することがなくなり、
男性も家庭のことはシェアして料理も掃除も子育てもしなければならない。
家族全員がお友達の様に仲良く暮らすことが幸福だと思っている。
しかしこの流れが確立されると国が弱体化して、国力を支える為に、
海外から労働者も兵士も賄うことになる。
2050年(日本の人口が半分)には、自分達の財産を身内だけで守れない時代が来る。

鎌倉時代に雇い入れた力自慢の警備員が武士になり、
いつの間にか主人よりも権力を握るようになった。
ヨーロッパの箴言「ラクダと商人」の物語。
砂漠の夜に主人のテントにラクダが「頭が寒いので」
テントに入れさせてくれと頼み込んで頭を入れた。
次は「肩が寒いので」そして「お腹も寒いので」と次々に要求が
エスカレートして最後は主人をテントから追い出してしまう。

海外からの移民・難民を人道上の理由で受け入れていたらこの危険性がある。
日本人の優しさが国を奪われることになる恐れがあるということです。
英国もアメリカもカナダも同じ悩みを抱えている国です。
これは日本国民全員で話し合うべき問題です。

新人アーティストやタレントを売り出す時にどのような売り込みが良いか、
又どのタイミングが良いか考えるのがプロデューサーの役目である。
群雄割拠するほどの芸能界である。
モタモタしていると売れるものも売れなくなる。

私が狙うのは
① 市場があるか?
② 機が熟しているか?
③ ライバルがいるか?
④ 突破口は見つかるか?
⑤ こちらの魅力を伝えることができるか?
などを考えてタイミングを見て売り出すのです。
やみくもに発売してもヒットにはつながりません。
求めるお客様が増えたところで一気に販売します。

「啐啄同時」ひな鳥が卵から出る時に親鳥が殻をつつくタイミングと
つつく箇所が同時に起こることを言います。
ヒットと婚期を一緒にするのは失礼かと思いますが、
その瞬間を逃さないことです。

女性のあなたは結婚以外にも自分を売り込む場面は多々あると思います。
決して安売りはしないで下さい。
相手に合わせすぎると安っぽい女性に見られますよ。
就職先の会社も表向きだけで判断すると
中に入ってから苦しむことになります。
女性に優しいウェルビーングな会社は簡単に見つかりません。

憧れという字は心が幼(童)いと書きます。
早く大人の女性として成長してください。
いわゆる自分の魅力に早く気づいた人から幸運は巡って来ます。
まずは自分の魅力を知るところから始めてください。

教養は顔に出ます。
プライドは歩き方に出ます。
自信は声に出ます。
女性らしさは指先に出ます。

自分売り込みの為に自分磨きを怠らないようにしてください。


承認欲求




美しさのこだわり

マズローの欲求階層説
マズローの欲求5段階説とは、人間の欲求を5つの階層に分け説明した
心理学理論です。生理的欲求・安全の欲求・社会的欲求・承認欲求・
自己実現の欲求の5つがあり、最下層の生理的欲求から満たされるという
特徴があります。

先日不登校の中学生から聞いた言葉「承認欲求」です。
あなたが一番大切で不必要なものはと言う質問に答えてくれました。
彼女は世間から認めてもらいたいと言うよりは、
自分の心を満たしたいためにこの「承認欲求」を使ったかと思われます。
「私は誰ですか?」その答えを求めたのだと思います。

多くの若者が自分の空間に居場所がなくなり孤独を感じています。
その孤独を満たすために架空の世界を作り出し閉じこもるか過激な行動に走ります。
彼らはお金が目的ではなく自分を必要としている場所が欲しいのです。
ホストにハマる子も、闇バイトで犯罪に走る子も、中学生から美にのめり込む子も、
みんな寂しいのです。

最近気になったのは自撮りの写真を思いきり加工修正する子が増えています。
みんなアイドル系の似た顔で可愛く一枚に収めてしまいます。
その写真から自己満足の世界へと入ると言うことです。
パパ活「頂き女子」りりちゃんなどは典型ですね。

このような記事を読みました。
スマホの普及で気軽にできるようになった「自撮り」。
そこでついやってしまいがちな行為に負の側面があるという。
ドイツのある研究によると、自撮り写真を「加工」する人ほど、
自分をモノとして認識。他者との比較を気にしすぎたり、自尊心が低下する
可能性があると発表した。
さらに、行き過ぎると自分の身体や美しさに極度にこだわる危険性も。
「加工なしの自分の顔が嫌すぎて、かわいくないなと。自分でも見たくないし、
人にも見せられなかった」と話すねむさんは、“醜形恐怖症”に陥りかけた1人。

ねむさん
「なりたい理想のイメージは全くなくて、ただかわいいと思われたい、
誰かに認めてもらいたいという気持ちだけで加工していた。
承認欲求がどんどん満たされないまま(基準が)上がっていった」
長い時には1時間かけて加工を行い、撮る写真もかわいさよりいかに
加工がしやすいかを優先するほどに。
「最終的にプリクラを加工するまでになっていた。
それを見た時に“誰?”となり、これはダメだと思った」と明かした。

そんな中、Z世代の間では無加工・ノンフィルターが流行しているという。
リスクもある自撮りについて考えた。

渋谷トレンドリサーチによると、高校生がよく使うアプリは
1位がノーマルカメラ(49%)、2位がInstagram(40%)、
3位がBeautyCamとSNOW(3%)。
さらに、盛れないSNS「BeReal.」がZ世代のトレンドになっている。

醜形恐怖症当事者のあみさんは、「無加工が流行っているけど、本当に無理だ」
とコメント。加工をするようになっていった経緯について、「スマホアプリがない
時代から、パソコンでPhotoshopを使って加工していた。現実の顔が好きではなく、
画像の中では思ったどおりになれるので、のめり込んでいった」と明かす。

「醜形恐怖症」とは
米ボストン大学の研究者が発表した論文では、日常的に加工するのは
モデルや俳優だけだったのが、アプリなどにより誰でも同じようにできるように
なったと指摘。摂食障害や感情面に問題を持つ人が増える可能性や、
美容整形手術を受けたい人の増加につながることを弊害としてあげている。

加工の境界線について、あみさんは「めちゃめちゃ別人にはならないように
気を付けている。でも、私がちょっときれいにしたと思っていても、
周りからは全然顔違うと思われるかもしれない。程度は難しい」と語った。

自撮り講座を行うWSC世界自撮り協会創始者で国際和装モデルのさなんさん。
笑顔の神様さんは、無加工トレンドについて「アップしたものと鏡で見た自分が
違うということで、落ち込んでうちに来る方もいる。心理カウンセラー、
メンタルトレーナーとして軽くカウンセリングすると抜け出す方も
多い」と述べる。

自撮りの上では、まずライティングと加工しないアプリを勧めているという。
「リーダーシップのある肉付き、人のことをしっかり聞く顔付きなど、
環境や状況、内面によって顔は変わっていく」。

無加工の写真を他人に共有することへの抵抗感
醜形恐怖症になりやすい人の傾向として、精神科医・形成外科医の中嶋英雄医師は
「不適切な親子関係で育ち、正常な成長過程を過ごせない」
「他人に対する信頼感、安心感が持てず、レジリエンス(ストレスに対する逆境力)
が弱い性格」「成績の良さよりかわいさなどが評価された経験」
「形、容姿のわずかな変形や非対称性に気づきやすい。美に対して強い
こだわりがあったり、見た目に関して敏感」といったことをあげている。

さなんささんは「“見せているものと自分が違う”と悩み出したところがポイントだ」
とした上で、「ナルシストはネガティブに思われるが、私は“自分はかわいい、
かっこいい”という声がけを自分にし続けてほしいと言っている。
脳は自分のピックアップしたものを広げてフォーカスして拾ってくる性質がある。
鏡を見て“かわいくない”と言うとそっちを探してしまうので、良いほうにピントを
合わせてほしい」と促した。

若い時は誰しもが容姿にこだわることがあります。
特に女性なら仕方のないことです。
カッコよく見せたい、美しく見せたい、かわいいと言ってほしいなら
海外で暮らしたら如何でしょうか?
日本人女性が好きな国はたくさんあります。
アメリカでもヨーロッパでもオーストラリアでも
日本人顔が好きだという国はたくさんあります。
しかし自分とは分からないような盛写真は発信しない方が良いですよ。

誰かに認めて欲しいという「承認欲求」は普通の感情です。
若い皆さん表面の美しさより心を磨いた方が承認されますよ。


ミニマリスト




先日お会いした方から私はミニマリストなのですと打ち明けられた。
勿論、言葉は知っているのですが若い人たちの流行だと思っていました。
少しお年を召した素敵な女性だったので意外だなと思いました。

日本人はどちらかというと一カ所一住を希望されている方が
多いので意外だなと思うのです。
その昔、家は長男が継ぐもので、それ以外の子供達は家を出ることが
決まりでした。それでほとんど持ち物がない状態で出るわけですから
自力で家具などを買い揃えなければなりませんでした。
その結果、年配になると家の中には物などが溢れてしまうのです。

私が若い時に住んでいた英国のアパート(フラット)は、家具や食器が
全部揃えてあり自分の身の回りの服だけで、引越ししたその日から
普通の暮らしができます。
今のフランスでも最近ミニマリストが増えたと聞きますが、
これはあくまでも若い世代の節約観念から使われている言葉です。
EUで簡単に海外へ行けるようになり、少ない持ち物で暮らすことが、
普通になり、年間を通じて大好きな服が5~6着あれば済むという感覚です。
本来のミニマリストと少し違います。

日本には昔から伝統的に断捨離があります。不要ものは廃品回収業者に
取りに来てもらい、それを他の人へ譲り再利用してもらっていたのです。
リサイクル、リユース、リデュースは当たり前に行われていました。

日本は戦後世界でも類を見ない勢いで経済大国になりました。
アメリカ型の生活に憧れて家も車も家電も洋服もローンで買い漁ったのです。
GDP世界第2位にまで駆け上り国中が新商品に埋め尽くされてしまいました。
いまやコロナ禍、戦争、自然災害、円安不景気を経験して大量消費の時代が
ようやく終局を迎えようとしています。
安いからといって無駄なものまで買い揃える文化は無くなってきたのです。

ミニマリストとは、『ミニマル(minimal : 最小の)』+
『ist (接尾辞 / 〇〇な人、主義者)』を組み合わせた言葉で、
必要最低限のもので生活する人・ライフスタイルを指します。
2010年前後、大量消費社会への疑問を背景に
海外の富裕層に使われ始め、その後日本にも広まりました。

ミニマリストのゴールは自分の生活に余分なものをそぎ落とすことで、
質の高い生活を送ることにあります。
そのため、主にものを減らすことに焦点が当てられますが、
ものに限らず情報や行動、人間関係に関しても厳選の対象になります。
自分の大切にしている対象のみに時間やお金をかけることで、
心豊かな生活の実現を目指すのが、ミニマリストなのです。

そして断捨離は「物を減らす行為」そのもの
「不要なものを減らす」と聞いて断捨離を思い浮かべる方も
少なくないでしょう。「ものを手放す」という点では共通している
ミニマリストと断捨離ですが、
それぞれの言葉が指している対象が異なります。

断捨離とは、「断(新しいものを断つ)」「捨(不要なものを手放す)」
「離(ものに対する執着をなくす)」の三つを掛け合わせた単語です。
ミニマリストが、ものを厳選して必要最低限のもので暮らすことに
価値を見出している「人・ライフスタイル」を意味するのに対し、
断捨離はものを厳選する段階での「行動・手段」
そのものであるということがわかります。

ミニマリストの対義語:マキシマリスト
ミニマリストの対義語「マキシマリスト(maximalist)」とは、
『マキシム(maxim:最大限の)』+『ist (接尾辞:〜な人、主義者)』を
組み合わせた言葉です。より多くの物に囲まれて生活することに
価値を見出している人、ライフスタイルを意味します。

しかし「マキシマリスト=散らかっている・汚い部屋で暮らしている人」
ではありません。多くの物を所有しながら、いかにまとまった
自分好みの空間に仕上げるかという観点がある人がマキシマリストです。
ミニマリストとマキシマリストは自分の大切なものを大切にする点では
共通でありながら、ものの多さ・少なさやどちらに豊かさを感じるのかで
違いがあります。

昔、読んだ本で感動したことがありました。
中里恒子さんの「時雨の記」という本です。

夫と死別して一人けなげに生きる多江と、実業家の壬生。
四十代の女性と五十代の男の恋は、知人の子息の結婚式で二十年ぶりに
再会したことから始まった。はじめて自分の本音を話せる相手を見つけた男と、
それを受け止めてなお甘えられる男に惹かれて行く女。
人生の秋のさなかで生涯に一度の至純の愛にめぐり逢った二人を描き、
人の幸せとは、人を愛するよろこびとは、を問う香り高い長篇小説。
雅びな恋愛小説を数多く遺した中里恒子の作品です。

このストーリーの中で特に大好きだったのがこの部分です。
「秋風が吹き出しました。夏から秋へ、移るのを待って、多江は、
壬生が、泊りがけで来る日に茶道具をしらべて貰うことにしました。
多江は、壬生にもちものをさらけ出すことで、自分の生涯、
身の上の説明にはなるだろうかと考えました。金目のものはないのです。
好みのものを見てもらうつもりでした。
「がらくたも出しておきました、あやしいのは、この際処分したいので」
「そうね、ぼつぼつ探してあげるから、つまらぬものは、捨てるんだね」
死をまじかに控えた壬生の最後の思いやり
「好きな女性には本物だけを残して欲しい」つまらぬものまでとっておく必要は無い。」

子どもは欲しいものを手に入れるが、大人は必要なものしか手に入れない。
今の時代だからこそ「自分に不必要なもの」まで側におくのはやめましょう。