文化・文明




文化・文明について勉強している友人の医師長岡美希がこう述べている。

時代を変えるためには組織化・勢力化が必要であることを
令和哲学の会で5週間集中した勉強の中で思い知った。
そして今、文化文明を勉強している中でたくさんのことを知る。
先の大戦を事象として捉えたならば、アメリカと日本の戦争という図式であるが、
事象の裏にある時代の流れという俯瞰した見方をした時に文明の流れがみえてくる。
文明とはまるで意志を持った精神体のようだ。

文明には物質文明、精神文明、社会文明という三つがあり、
その三つの均衡が取れている状態になろうと蠢いている。
その蠢きの中で人間は、均衡を取るための働きをしているのだろう。

力の概念の発見があってから産業革命が起こり、
世界は物質文明が優勢になっていった近代。そして起こった世界大戦。
精神文明を保つ日本と物質文明の象徴であるアメリカが衝突するのは、
文明の意志だったように思えてくる。
日本の陸軍軍人であり軍事思想家である石原莞爾が言うように、
日本とアメリカの衝突は最終戦争であったのだろう。

しかし精神文明は物質文明に圧倒され、あれから78年間は息を潜めていた
状態となった。文明は今、座り心地の良くない椅子に座っているが
蠢きが始まった気配を感じる。文明の意志が起こす本当の最終戦争は
まだ終わっていないことを囁いているようだ。

今になって世界が日本に注目しているのは、人々がこの文明の意志を
無意識で感じ取っているからなのだろう。これから精神文明の巻き返しが
起こるということを察知しているのかもしれない。

文明の意志は人間に影響を与える。これだけ肥大化してしまった物質文明に対し、
精神文明は均衡を取るために動き始める。
そして精神文明は軍事や経済という暴力は使わず、教育というソフトパワーで
世界を和していく。

人間の持つ物質性はAIが代行し、本来の精神性を発現させていく。
そのための教育は完成されているだから。長岡美紀より

これに恩学が加わるとこうなる。
芸術とは
自分の心を開いて人間の欲求を伝える必要から生れるような
芸術でなければ、私は信じない。
文字でも音楽でも、すべての芸術は、人間の心臓の血によって
生み出されなければならない。芸術とは人の心の血なのだ。

名刀のように
すべては出会いの一瞬できまるだから、
その時のために心を磨いておくのだ!名刀のように。
名刀は鋼を何度もハンマーでたたいて作られる。
文化は何度も入れ替わり徐々に変化していく。
文明は科学と共に自然を利用して自然を破壊していく。

岡潔(数学者)
以前の私もそうであった。このような根本的問題に疑問を感じ、
またその解答を得てこそ、真の生命現象がわかるというものである。
無論これは、既に岡以前に仏教が気づいていたことであるが、
その点では「仏教をなめたらいけない!」と岡に一喝されそうである。

ともあれ自然科学は、目に見えるものを精密に調べ、
その結果を順々に積み上げていったのであるが、岡の思考方法は
それとは逆に人には気づかず、また目には見えない未知なるものを、
人類に先駆けてどんどんと掘り下げていったのである。

だから自然科学という学問は、仏教の唯識論でいう第9識、
つまり宇宙に知的法則の中心があるという宗教を仮定しなければ、
本当は成立し得ないのである。だが、自然科学者は少数の例外を除いて、
それに目をふさいでいるのである。

老子の自然学では、無生物であるはずの物質のことを「生」と表現しています。
我々日本人が古来、大自然に対して手を合わせてきた見方と全く同じです。
それがよく現れているのが、日本では万葉の歌であり、芭蕉の俳句なのです。
日本人の人間観や自然観は、21世紀以後の世界をリードする人類にとって
大変貴重なものなのです。

先日岐阜県下呂市金山にある「金山巨石群」にいった。
その時に同行したアーティストが「石は生きていますか」と質問があった。
私は生きていますと即答した。
石の外側を眺めるのではなく石の内側を感じることが大切です。
老子の自然学では、無生物であるはずの物質のことを「生」と表現しています。
だから畏敬の念を持って人々は石にお参りして石に抱きつくのです。

これは東洋人にしか分からない真理で特に日本人は縄文時代から
万物には神が宿っていることを知っていたのです。
文化は自然を壊さずにしてきたが、文明は自然を壊して発展を遂げたのです。

長岡医師が言うように
文明の意志は人間に影響を与える。これだけ肥大化してしまった物質文明に対し、
精神文明は均衡を取るために動き始める。
そして精神文明は軍事や経済という暴力は使わず、教育というソフトパワーで
世界を和していく。

私も同感です。
ここに尽きるかと思います。


分別知




基本、人は「考えれば分かる」と思っています。
そうやって物事を理解するために考えること(知恵)を、
仏教では「分別知」と呼んでいます。
「分別知」の特徴は、物事を分けて、分析することです。
 
人は、赤ちゃんとして生まれてきた当初は、まだ自分と他人の区別もしていません。
それが次第に、自と他の区別を知り、母親を知り、家族を知りというように、
それぞれを区別していくことで世界を知っていきます。
世界をバラバラにすることで認識していくわけです。
この知恵を「分別知」といいます。私たちが普段使っている知恵のことです。
 
しかし、世界は、本来、すべて関係しあっていて、しかも絶え間なく
変化し続けています。その世界のあり方を「縁起」といいます。
そういう世界を、自と他を区別せずありのままに見るのが、
仏の智慧であり、それを「無分別智」と呼びます。

「分別知」によって、「無分別智」を理解することは不可能です。
「分別知」は、自と他を区別し、見るものと見られるものを区別する
二元論的な知ですので、どうしても見る自分が残り、
ありのままの世界を見ることができないからです。
「分別知」が理解しているのは、自分中心に見た世界です。
しかも、私たちはそれをありのままの世界と思いこみ、
知っているつもりになっています。
 
「分別知」の方から「無分別智」を理解することはできませんが、
「無分別智」は「無分別智」の方から「分別知」を突き崩す形で
私たちにありのままの世界を知らしめます。
私たちにありのままの世界を知らせるはたらきを他力といい、
そのはたらきの主を阿弥陀仏と呼んでいます。

だから、「分別知」によって阿弥陀仏を理解しようとしている人相手に、
短時間で理解させるなんて、仏ならともかく、凡人にはできるはずがありません。
それならばできることは、問いを持ってもらうことくらいです。「考えたけど、
分からなかった。いったい何なんだろう?」と。
そうすれば、いつか阿弥陀仏がその人の「分別知」を突き破って
真実を知らせた時に、「ああ、これが他力なのか」と
分かってもらえることでしょう。
※ちなみに、信仰とは、人間が神を信じることですから、二元論です。
だから、無分別智を知らされる信心とは異なります。

○赤子の様な心でなければ天国へ入ることはできない。
これは聖書にあるイエスキリストの言葉です。
仏教では無心とか、諸法は無我等と言われていることです。

○根本知と分別知のバランス良い成長 分別知と根本知のバランス良い成長が
できない場合があります、特に決まり良い子供。父母の言うことを良く聞く、
いわば優秀な子供です。お父さんお母さんが喜ぶから算数の勉強をがんばる。
父母の喜びが自分の喜びであると決めてしまった分別知中心の子供です。
ですから非常に背伸びして、いじらしく演じている訳ですが、
遂に耐えられなくなって不登校になったりします。
これが子供の内だからまだ良いのですが、大人になるまでそういうことが
続いていくと、ついには人格崩壊をきたすようなことが起こります。 

そのような子供は成長過程で自然体験とか直接経験等が極端に不足している
ように思います。山や川へ行けば、自分の思うようになど絶対になりません。
例えば自分が川を堰き止めよう等と思ってもできるものではありません。
まかり間違うと川に流されて大変な危険が生じます。
豊かで変化に富んでいて、どんな科学をもってしても解明し尽くすことはできない
自然界には未知の世界が開かれているのです。 

○根本知と分別知の関係 根本知や分別知がどのようにできるか
お分りいただけたと思います。次にそれらの知恵はどのようにはたらくのでしょう。
まず分別知は「見ようとして見る。聞こうとして聞く。考えようとして考える」
そのようにはたらく知恵だというのです。

例えば、坐禅をしている時に目を開いていますから何時も何かが見えます。
あそこにゴミが落ちている、あれは何だろう等とやっていくと、見ようとして
見ていることになります。それから聞こうとして聞く。
ブーと鳴っているファンの音を聞いて。何が鳴っているのかな?
変な音がするな?このように聞こうとして聞く。  

ところが根本知と言うのは、「見ようとしないでも見てしまっている。
聞こうとしないでも聞いてしまっている。考えようとしないでも考えてしまっている」
知恵です。外でチュンチュン鳴いているのは何だろうと考えなくても、
雀ということが既に分かってしまっているのです。
ブーと鳴っていのはファンの音だなと考えなくても、ファンの音であることは
分かっている。時々止まったとか、鳴り出したとか意識して、
瞬間的に「ようとして」聞くけれどもすぐ忘れて、
いつも聞こえているのですが聞こうとしていない、
それでいながら鳴っている音はファンの音だということを100%知って
しまっているのです。そのようにはたらく知恵を根本知と言います。

私達はいつも根本知を働かせて生活しているといえます。

しかし自分の生活は全て自分で考え、分別して行動していると思い込んで
いますから、おおむね根本知が働いていることさえ知らないのです。
しかも分別心で幾ら考えても根本知を捉えることはできないという関係に
なっているので、私たちは分別心ばかりに囚われ、根本知を動員した
豊かで創造的な生活ができにくくなっているのです。

その結果いろいろの苦しみや争いが起こってくる。
「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人(しんにん)有り。
常に汝等諸人の面門より出入(しゅつにゅう)す。未だ證據(しょうこ)
せざる者は看よ看よ」と臨済禅師が叫んでいらっしゃいます。

くれぐれも「仏や祖師を知りたいと思うならば、決して外へ求めてはならない。
今この目の前でこの説法を聴いているものだ」と実に端的に示されています。
我々は常に悩みや問題の原因を外にしつらえますが、
本来は自分の心の中から生まれて来るものです。
真人とはこの生身の身体に、何の位も無い真実の人がいるという意味です。
こたえは常に心の内にあることを知らなければなりません。

これからも自然と共に謙虚になる事を学びたいと思います。
そうしてこの身体に確かに働いている真人を自覚することです。
真人は誰にも奪われることはありません。

今日も一途に仏の教えを守りながら過ごしてまいります。


老を卑下することはない




「老い」を卑下する必要はない。
古代ローマの哲学者キケローは、著書『老年について』の中で、
老いに対する世間の誤解を見事に退けています。
具体的には「老いは仕事をできなくする」「老いは肉体を弱くする」
「老いは快楽を奪い去る」「老いは死に近づく」といった4つの誤解です。

「老いは仕事をできなくする」というのは、
体力に任せて仕事をするとか、若者らしい柔軟なアイデアで
仕事をするといったように、あくまで若さを前提とした仕事の話です。
しかし、経験や長年培った叡知(えいち)を生かす仕事は、
むしろ老年のほうが向いています

「老いは肉体を弱くする」というのも誤解で、
成熟と捉えることも可能です。
ちなみにキケローは、声に関しては
「老年のほうが、落ち着きがあって良い」と言っています。
「老いは快楽を奪い去る」についても、ほどほどこそが
真の快楽であると捉えれば、老年期こそ快楽を
楽しめるといえるでしょう。

「老いは死に近づく」かどうかは、年齢に関係ありません。
若い人だって常に死と隣り合わせなのですから。
 
このように考えると、老年期だからといって
卑下する必要は全くありません。
ただ、若い頃と同じようにしようとするから、
哀れな結果になるというだけなのです。

老年期の目的は「自分が楽しむこと」でいい!“
それを明確に指摘しているのが、フランスの作家であり
哲学者のボーヴォワールです。
彼女は著書『老い』の中で、老年期を「人生の哀れなパロディーに
してはいけない」と論じています。そしてそのためには、
人生に意義を与えるような目的を追求し続ける必要があると言うのです。

『60代で死ぬ人、80代でも元気な人』。

両者の差は、「レジリエンス(回復力)と免疫力にある」。
私たち人間の身体というのは、病気やケガをしても自ら回復する能力、
いわゆる「レジリエンス(回復力)と免疫力」が備わっています。
その力は適度に身体を動かしたり、脳を使ったり、食事などでしっかりと
栄養を摂ったりすることによって高まっていくのです。

ところが、ここ数年の日本はレジリエンスと免疫力を高めるどころか、
下げる方向に進んでしまった。それが、コロナによる不要不急の外出の自粛です。
高齢者の多くは、重症化のリスクを恐れ、家に閉じこもるようになりました。
毎日の散歩を控え、友人たちとの趣味の活動や、食事会にも行かなくなったのです。
それでは筋力も衰え、脳の刺激も減る一方で食欲もなくなり、
かえって免疫力が落ちてしまった人も多いかもしれません。

1日中、誰とも話さず、テレビの前で過ごすような変化のない
毎日を送れば、心の元気もなくなります。
知らずしらずのうちに、うつ状態に陥ったり、実際にうつ病や認知症を
発症したりする高齢者は増えていると感じます。
世の中の流れに逆らっている人のほうが元気に過ごしています。
私は世の中の流れに逆らってばかリいるのでとても元気です。

最近では病院の外来に来ている患者さんたちの中には、
本人ではなく、家族が薬を取りに来るケースが増えたと聞いています。
理由を聞くと、「コロナを怖がって外に出なくなってしまった」と。
「ちゃんと歩いていますか?」と聞くと、「全然歩いていないのです。
だから、最近よぼよぼしてきてしまいました」いう人が多いのですね。
迷惑をかけたくないという気持ちが逆効果に働いています。

もともと日本人は真面目で控えめですし、
我慢強いところがありますからね。
コロナが医療分類の2類から5類に変わりただの風邪と同様になっても、
未だ電車の中も街ゆく人も大勢の人がマスクを付けているのには驚きます。
マスクの効用と弊害についてもっと知る必要があります。
この真面目さが無気力につながる恐れがあります。

若い世代からは「勝ち逃げだ」と
恵まれた世代のように思われたり、医療費や介護費で
国の財政を圧迫しているかのように言われたり……。
面と向かって言われないまでも、なんとなく社会から
疎まれているように感じている人は多いかもしれません。
だからこそ、社会に迷惑をかけないように、
縮こまって生活する人が増えたのではないかと心配します。

団塊世代の人たちは勉強熱心で努力をいとわない世代という
強いイメージがあります。
さらに学生運動や反戦運動など権力の弾圧に
逆らってきた世代でもありました。
本来、気骨のある人が多い世代ですから、
周りからの同調圧力に負けずに、
もっともっと動き回って声を上げてほしいですね。

そして、誰にでも物わかりのいい老人になろうとするのはやめて、
自分の生きたいように生きてほしいです。
そのほうがよっぽど健康に、元気に過ごせるのではないでしょうか。
夢と遊びには年齢制限はありません。働く場所も自分で作ればよいのです。
自分達の経験したキャリヤとネットワークを使えばなんでもできますよ。

「老人は遊べなくなった、いいえ遊ばなくなったから老人になるのです。」

私が元気な老人の見本となるように心がけています。
オシャレで元気な働く老人です。
常に若者たちに囲まれた頼られる爺さんです。

昨日は南アルプス連峰のふもとで勉強会へ参加しました。
今日も朝から地元の公園でウォーキングです。
私は老いを卑下したことは一度もありません。

皆様も頑張りましょう。


2つの心




皆様は数学者岡潔(おかきよし)をご存じですか?
本日は岡潔の「2つの心」を引用したいと思います。

第1の心のわかり方はことごとく意識を通す。
その内容はすべて言葉で云える。それでこれを「有(う」」という。
これに反して、第2の心のわかり方は、決して意識を通さない。
またその内容は、決して言葉では書けない。だからこれを「無(む)」という。
しかしながら、無が根底にあるから、有が有り得るのである。
東洋人はこれをずっと知っていた。日本人も少なくとも明治までは知っていた。
そしてよくわかる人は、そのことが非常によくわかったのである。

何でもすべて本当に大切な部分は無である。
だから日本本来のよさというのは無である。
ギリシャ人や欧米人は有しか知らない。無のあることを知らない。
戦後すっかりアメリカやソビエトに同調してしまって、
言葉で云えないものはないと思っている。

戦後に生まれた人達には、学校も家庭も社会も、「有」ばかり教えた。
「無」を教えなかった。ところが日本というのは、一口に云えば無である。
だから戦後に生まれた人には、日本というものがわからなくなってしまった。
つまり、日本を知らないのである。それではもはや、
日本人ではないと云ってもよい。
それで世代の断層というものが出来てしまった。

本来無一物(ほんらいむいちもつ)は、禅宗の教義や哲学において
用いられる言葉です。この言葉は、仏教の教えに基づいて、本来的には
何ものも存在しないという意味を持ちます。具体的な物質や概念に執着せず、
心を空にして本来の自然な状態に戻ることを目指す教義です。

この禅語は、私たちが物事に執着し、欲望や妄念に囚われていることを
思い起こさせ、解脱や悟りを求める修行者にとって重要な教えとなっています。
本来無一物の言葉は、深い哲学的意味を持ち、
禅の修行や瞑想において考えることができるテーマです。

だがそれでも日本民族だから、日本人の頭頂葉を持って生まれてきている。
これは健在なようである。だから、何となくそれでいけないものを感じはする。
しかし、言葉で云えるものが大事なものだと思っている。
それが根本的な間違いである。
言葉で云えるものなどに、それほど大事なものはない。

第2の心の世界を「無」と云い、第1の心の世界を「有」と云う。
「真、善、美」はすべてその源を無の世界に発して、有の世界へ流れこんでいる。
有の世界に入って後、言葉で云えるのである。

ここに岡先生独特の「意識を通す」という表現が登場してきました。
これは医学でいっている「意識がなくなる」という意味の
「意識」とは違います。医学で使う「意識」とは大体「いのち」と
同義語ですが、岡がここで使っている「意識」とは心理学で
使っているもので、「意識的」とか「意識に訴える」とかいう意味です。

しかし、日本では江戸時代に随分と経済や文化が発達しましたが、
このようなやり方は「はしたない」「あさましい」として嫌う傾向に
あったのではないでしょうか。このように日本人は概して「意識に訴える」
ということを嫌います。日本文化が西洋人にわかりにくいのは、
この「意識」のとらえ方に違いがあるからではないでしょうか。

「日本民族」という言葉が出てきました。
皆さんは日本の歴史は2000年ぐらいか、長くても縄文の1万年くらいに
思っている人があるかも知れませんが、岡の考えではスケールが大分違っていて、
少なくとも30万年はあるということです。

文献上でそれが岡にわかったのは、中国を代表する思想家である
胡蘭成(こらんせい)と知り合ってからです。
岡にいわせれば中国人と日本人はルーツをたどればもとは
同じだということですが、中国の伝説では正確な文献として
次のように書かれているということです。

「天皇氏時代が12万年、地皇氏時代が9万年、人皇氏時代が7万年、
中国古代の伏犠(ふっき)、神農(しんのう)、黄帝(こうてい)以降が1万年。」

これを全て足すと29万年となりますが、岡は既にそれ以前に、
日本民族の歴史は30万年ぐらいではなかろうかと、
確信を持って想像していたということです。

岡の直観たるや、中国の伝説たるや、人類史の奇跡という外ありませんね。
このようなことは、日本人の誰も知らないのではないかと思います。

「水の中の石」
ところが、日本は終戦後、特にアメリカの真似をして、
そのために深い心というもののあることを全く忘れてしまっている。
それで、みれば非常に憂うべき日本の現状が出てきている。
特に教育の面においてそれがはなはだしい。心がよく働いていない。

浅い心を第1の心、深い心を第2の心ということにしますと、
一切のものは、きれいな小川のせせらぎに石がつかっている、
それに陽が当っている、そうします。
そうすると、水の中の石は非常にきれいに見える。
ところが、取り出して乾かしてみると、極つまらない石です。

人生のこと一切は、この小川のせせらぎにつかっている
石のようなものです。その石が第1の心の内容、その小川のせせらぎが
第2の心の働き。そんなふうなんです。そういうものだということを
今の日本人は全く知らない。だいたいそんなふうです。

「アメリカの真似」という言葉が出てきました。
心の構造からいうと、西洋は概して大脳前頭葉を使う第1の心(自我)の
文明圏ですが、アメリカはその中でも欧州に比べて一段浅い文明なのです。
科学精神の基本である大脳前頭葉よりも、記憶の量と処理速度という
能率や効率を求める大脳側頭葉を重視する文明だからです。

一方、日本は東洋の第2の心の文明圏ですが、西洋の得意とする前頭葉の
発達はまだ大分遅れていて、そのコンプレックスのために西洋の表面的な
真似に終始して、日本本来の第2の心を忘れ去ってきた訳ですが、
20世紀の歴史が示すように、
前頭葉の第1の心だけではいずれ文明は行き詰まります。
人と人、人と自然とが対立した世界観の中で、いくら精密に頭を働かせても
問題が解決するどころか、益々問題が複雑化するばかりですから。

だから本来、第2の心の世界観を持つ日本人が、下手は下手なりに
大脳前頭葉を使って、新しい世界観(政治、経済、学問、芸術)を
創造していかなければならない時点に今はきているのです。

「水の中の石」。我々の日本文明というものは、ここで岡がいうように、
きれいなせせらぎにつかっている美しい石である。
明治以後はこの石を水の中から取り出してカサカサに乾燥させ、
戦後はアメリカによってその石の表面に泥まで塗られて今日に及んだ訳です。
岡は終生、その泥で塗りかためられた石を「本当は美しいんだ、美しいんだ!」
と訴えつづけてきたのです。

私のブログ「恩学」で伝えているのはまさに「水の中の石」です。
今一度日本人の心を清らかな水に戻したいからです。
何もかもアメリカ流のデコラティブにデフォルメされた世界に
警鐘を鳴らしたいのです。もうアメリカに夢は無いのです。


魚の大きさ




「水槽より大きくなった魚はいない」
小さい時に見た夢は直ぐに消えてしまいます。
しかしまた直ぐに次の夢が現れます。
その夢の大きさが水槽の中に収まる魚ということです。
会社を興して事業規模を決めた時に魚の大きさが決まると言います。
SONYの故盛田昭雄会長も「大風呂敷を広げるだけ広げろ。
それが会社の大きさになるのだから」と言っていました。

台湾華僑の友人が教えてくれたこの言葉は強く印象に残っています。
その時に語られたもう一つの言葉も印象に残っています。

共通の台湾の仲間を指して、なぜ私が彼と付き合うか知っていますか?
「彼は捨てられた犬」だからです。従順な割りには、猜疑心が強く、
優しくすると擦り寄り、距離を置くと離れて行く。いわゆる誰も信じられないのです。
だからいつもいろいろな仕事の話を持ってくるが、ほとんどゴミのような価値のない
話ばかりです。石ころやかん缶や木の棒を加えて尻尾を振るのです。
それでもたまには宝石やお札も拾って持ってくるのでそばに置いている。

世界の商人と言われるユダヤ人と華僑の教えは人生に沿った内容なので
とても分かりやすい。人を見る極意が述べられているからである。
どの国でも一瞬にして相手の器量を判断して商売を成立しなければならない。
その教えと訓練が子供の時からなされてきたと言っていました。

ユダヤ人の聖典タルモードにはこのようなことが書かれています。
ユダヤの格言より賢人になる七つの条件(大前提)
・自分より賢い人がいるときは沈黙すること
・人の話の腰を折らないこと。
・答えるときにあわてないこと。
・常に的を射た質問をし、筋道だった答えをすること。
・まずしなければならないことから手を付け、後回しにできるものは最後にすること。
・自分が知らないときはそれを認めること。
・真実を認めること。
当たり前のことですが守るのは難しいですよね。

経営者が会社の行く末を考えた時に会社規模に応じて会社は成り立つ。
当然、事業内容、資金計画、従業員数などで現状を知ることはできるのですが、
代表者が考えている目指す事業規模が分からないと従業員は目標を持てない。
多分労働者は知る必要がないと思っているのだろう。その昔は会社イコール
定年まで働く場所であり社長は小さな国の天皇であった。
誰も逆らうことは出来なかった。

しかし現代のようなデジタル社会ではそれぞれの働き方を尊重しなければ
会社は成り立たないのです。会社に行かなくてもリモートワークで対応する
社員も増えています。日本だけではなく市場がグローバル化されて
海外の社員も増えてきました。国籍イコール思考や価値観が違う集合体になっています。

経営者が専門分野のスペシャリストでリーダーシップが発揮できる会社のみが
注目を集めて投資金も増えてすぐに上場が叶うのです。
共通しているのは会社全体に遊び心が溢れているという事です。
ウェルビーングな考えを取り入れて働き方も働くスタイルも変わりました。
社員は給料よりも職場の快適さを求めるのです。

間違っても水槽ばかり見栄えが良くても中に入れる魚が
大きくならない魚種だったら意味がありません。
失敗しても立ち上がり会社の貢献のために死に物狂いで働く人間が必要である。
会社の業種が時代に通用する業種か、終わりゆく業種か、これから勢いのつく業種か、
その判断を間違えれば大きくならない魚を飼うことになります。

人間の成長もこれに順じて読む本が必要になる。
なぜ青春期に戦国武将の本を読むのか立身出世の物語ほど男性の意気を
もり立てるものはないからである。三国志然り、項羽と劉邦然り、国盗り物語然り、
底辺から上り詰めて国を治めるまでになる物語はやる気を引き出すからです。
中小企業の経営者が読む矢沢永吉の「成り上がり」もその一つかもしれない。

吉田松陰の言葉に「志を立てざるべからず」というのがある。
「道の精なると精ならざると、業の成ると成らざるとは、志の立つと立たざるとに
在るのみ。故に士たる者は其の志を立てざるべからず。其れ志の在る所、気も亦従ふ。
志気の在る所、遠くして至るべかざるなく、難くして為すべからずものなし。」

解説
人としての生き方が正しくすぐれているかそうでないか、また、仕事や勉強などが
うまくいくかいかないかは、心に目指すところがきちんと定まっているかいないか、
つまり志があるか否かによる。だから武士たるものは志を立てないわけにはいかない。
つまり志があればやる気もそれに従うものである。志とやる気があれば、目標が
遠すぎて至らないということはなく、また、難しくてできないということはない。
吉田松陰の研究家川口雅昭氏の著書より引用
私の長年の友人である。

最後に
「40歳までは勝つことを優先し、40歳からは負けないことを優先せよ」
武田信玄
戦国時代の平均寿命が60歳代であった。

現代の様に人生100年時代では
「70歳までは勝つことを優先し、70歳からは負けないことを優先せよ」
が、正しいのでしょう。私は負けないことを優先しています。

魚の大きさは志の大きさです。
さてあなたの大きさはどれぐらいでしょうか?


愛の資格




貴方は自分を愛することができますか?
自分を愛さなければ他人を愛する資格はありません。
親から間違った一方的な愛を学んだ子は依存心が強くなり、
他人頼りになる恐れがあります。
結論から言うと騙されやすい人間になると言うことです。

自分を愛せない人はモノに頼り買い物好きになる傾向もあります。
好きな商品に囲まれた生活を幸福と勘違いするからです。
そして美しさにあこがれて美容やファッションで変えようとします。
それでも満足しない場合は整形に走ってしまいます。

私からのアドバイスは先ずアイデエンテティーを明確にすることです。
私は何者で、何に興味があって、どんな資格を持っているかが
提示できるようにしなければなりません。
性別はアイデエンテティーに含まれません。
人間としてのスタンスが無ければ「あなたは誰」と言われてしまいます。

明確な使命感とそれを叶えるための準備と社会的価値です。
企業で言うところのミッション、ビジョン、バリューです。
夢を語るのではなく人生の計画を語ることが重要です。
チャンスは突然起こります。チャンスの神様は毛が三本しかありません。
その時に準備がないと他人にそのチャンスが行ってしまいます。

毅然とした態度で愛を語らなければ、愛を語る資格はありません。
死ぬ覚悟を持って愛に望まなければなりません。
私が90年代にのめり込んだ映画があります。「ゴッドファーザー」です。
主演はマーロンブランド、準主演はアルパシーノです。
マフィヤの世界の話ですが強い家族愛を描いた作品です。

コルレオーネ(マーロン・ブランド)の屋敷では、彼の娘コニーの結婚式が
行なわれていた。一族の者を始め、友人やファミリーの部下たち数百名が集まった。
ボスのドン・ビトー・コルレオーネは、書斎で友人たちの訴えを聞いている。
彼は、相手が貧しく微力でも、助けを求めてくれば親身になってどんな困難な
問題でも解決してやった。彼への報酬といえば、友情の証と“ドン”あるいは
“ゴッドファーザー”という愛情のこもった尊称だけだった。

そして彼の呼び出しにいつなりとも応じればよいのだ。
これが彼らの世界であり、その掟だった。ドンのお気に入りの名付け子で、
歌手として成功したが今は落ち目になっているジョニー・フォンテーンも
カムバックできるに違いないのだが、ハリウッドで絶大な権力を持つ
プロデューサー、ウォルツからその主役をもらえずにいた。

フォンテーンの窮地を知ったドンは静かにうなずいた。
ある朝、目を覚ましたウォルツはあまりの光景に嘔吐した。
そして、その後その新作の大役がフォンテーンにあたえられた。

ある日、麻薬を商売にしている危険な男ソロッツォ仕事を持ちかけてきた。
政界や警察に顔のきくドンのコネに期待したのだが、彼は断った。
だがソロッツォは、ドンさえ殺せば取引は成立すると思い、彼を狙った。
早い冬の夕暮れ、ドンは街頭でソロッツォの部下に数発の銃弾を
浴びせられたが一命はとりとめた。

こうして1947年の戦いが始まった。末の息子マイケル(アル・パシーノ)は、
一族の仕事には加わらず正業につくことを望んでいたが、父の狙撃が
伝えられるや、病院に駈けつけ、咄嗟の策で2度目の襲撃からドンの命を
救った。ドンの家では長男のソニーが部下を指揮し、ドンの復讐を誓ったが、
一家の養子で顧問役のトム・ハーゲンは、五大ファミリーとの全面戦争を
避けようと工作していた。やがてソロッツォが一時的な停戦を申し入れてきた。

だがソロッツォを殺さなければドンの命はあやうい。マイケルがその役目を
買ってでた。ソロッツォ殺しは危険だが失敗は許されない。
シシリーでもマイケルが危うく暗殺から逃れた。そんななかでドンの傷もいえ、
和解が成立した。ドンにとっては大きな譲歩だが、マイケルを呼び戻し、
一家を建て直すためだった。

2年後、アメリカに帰ったマイケルは、ドンのあとを継ぎ、ボスの位置についた。
ファミリーは縄張りを荒らされ、ゴッドファーザーの過去の栄光が
かろうじて崩壊をくいとめているという状態だったが、マイケルの才能は
少しずつ伸び始め、勢力を拡大しつつあった。
ある日曜日の朝、孫と遊んでいたドンが急に倒れた。
偉大なるゴッドファーザー、ドン・ビトー・コルレオーネは
穏やかな死を迎えたのだった。

父の死を受け、マイケルは遂に動き出す。その天才的な頭脳で練られた
計画によってライバルのボスたちは次々に殺され、コルレオーネ・ファミリーの
勢力復活が為された。マイケルの横顔は冷たく尊大な力強さにあふれ、
部下たちの礼をうけていた。“ドン・コルネオーレ”と。

世界的大ヒットになったのは男の生き様と家族愛に男性達が痺れたからである。
私もその一員だが人生の横道を外れることは無かった

大好きだった名優マーロンブランドはいくつもの映画に出て沢山の受賞をした。
しかしアメリカの犯罪、ネイティブインディアンを大量に虐殺した映画で
主演を演じたのだが言いようのない怒りを覚えた。

その為にマーロンブランドは自分の主張を伝えるために映画授賞式で受賞を
ボイコットをします。その一部始終がこの内容で語られています。
マーロンブランドは1973年3月に開催された第45回アカデミー賞授賞式において、
主演男優賞を受賞するもボイコットします。
それは、映画におけるネイティブ・アメリカンの描かれ方に対しての抗議であり、
同年2月にアメリカン・インディアン運動(AIM)のメンバーおよそ300人が
サウスダコタ州の(1890年、アメリカ軍の騎兵隊が民族浄化としてネイティブ・
アメリカンを虐殺した事件)町ウーンデッド・ニーで数千人の連邦保安官や他の
連邦捜査官と対峙した「ウーンデッド・ニーの占領」に敬意を表してのこととでした。

マーロンブランドは受賞代理人の彼女(リトルフェザー)にオスカー像に手を
触れないよう伝え、彼女に8ページにわたるスピーチ原稿を授けていました。
ですが、放送プロデューサーはリトルフェザー氏に、「持ち時間は60秒しかない」
と言ったのです。そこで彼女は、「原稿があるけれど時間の都合で読み上げることが
できない」とした上で、スピーチを敢行。

「今回の受賞拒否理由は、現在の映画業界でのアメリカン・インディアンの扱い方、
及び最近のウーンデッド・ニーでの出来事によるもの」であることを語りました。
その後、「ニューヨーク・タイムズ」紙は彼女が読み上げるはずだったブランドが
用意したスピーチ全文を3日間にわたって紙面で公表しています。

アカデミー賞会場でのリトルフェザーの発言は、ブーイングと喝采両方を受けました。
いくつかのメディアは、彼女のネイティブ・アメリカンとしての血筋の正当さを
問いながら、「衣裳も授賞式用に借りたものだろう」とデマまで流しました。
ジョン・ウェイン、クリント・イーストウッド、チャールトン・ヘストンなど、
西部劇に数多く出演した保守派の俳優はブランドとリトルフェザーの行動を
批判したとされています。

そして彼女の死2週間前、彼女の名誉を称えるアカデミー映画博物館のイベント
「アン・イブニング・ウィズ・サチーン・リトルフェザー」が開催され、
リトルフェダーはこう話しています。
「私はここで、謝罪を受け入れます。私ばかりでなく、今夜この謝罪を聞く
必要があり、それに値する全ての部族の人々への言葉として…
この会場にいるすべてのインディアンの方々に立っていただきたいと思います。
仲間を見て、お互いを見て、私たち全員が生存者として立っていることを
誇りに思ってください」

「私がいなくなっても、あなたが真実のためにどこに立ち向かおうとも、
私の声、そして私たちの国と民族の声を守り続けるのだということを、
いつも心に留めていてほしいのです…私はサチーン・リトルフェザーのままであり
続けます。ありがとうございました」
生涯2度目となるアカデミーの舞台に立った彼女は、「自分の身に死が間近に迫っていることを知っていた」と、「ワシントンポスト」同記事は伝えています。

長文になりましたが如何だったでしょうか?
愛の資格は命と引き換えにする覚悟が必要です。


ソフト老害




私は若い時から言いたいことを言い続けました。
先輩にたてつき後輩に言い放し本音で戦ってきました。
最近ではそれをソフト老害と言うらしい。
本気で語ることが老害と言われると
部下を教育することもできません。
自分の経験と能力を伝える時に遠慮してでは言えなくなります。
そのような無駄な気遣いが必要でしょうか?

高齢の政治家や企業のトップが下のものを見下して言うことは老害ですが、
師匠と言われる人から言われることは決して老害ではありません。
仕事上の怪我や失敗を恐れて厳しく教えることが老害ならば、
どうぞ好きにおやりなさいと言うだけです。
先輩と後輩の中でも守るべきルールがあります。
厳しく言って耐えるから師弟のお付き合いができるのです。

若者がこのような新しい言葉を色々発表することには反対しませんが、
自分を擁護するためにSNSで公開するのは気になります。
見えないところから他人を名指しで批判するのは卑怯者のすることです。
どこまで自分を正当化するのか甘えの構造が理解できません。

老害に怯えるあなたの好意が戦う気力を奪うのです。
取られたら取り返す気持ちが向上心に繋がるのです。
やられたらやり返す。百倍返しがモチベーションにもなるのです。
このハードルをいくつも乗り越えなければ立派な大人にはなれません。

日本語を正しく理解して正しく使わなければ
日本文化が壊れてしまいます。
「怒る」と「叱る」この違いが分からなければ指導はできません。
怒るは反論を受け入れない一方的な時に使います。
叱るは反論を受け入れながら指導する時に使います。

私はアナログを全面的に容認してデジタルを否定していません。
デジタルを便利なツールとして大いにアナログ内で活用しています。
しかし若者にデジタルの作業方法を教えてほしいと言うと、
自分でやらなければ身につかないと突き返されることがあります。
これはソフト老害と言わないのでしょうか?

時代が変わり世代間によって思考や判断に違いが出るのは仕方がありません。
我々先輩の経験と知識をフルに活用することで効率よく仕事が出来ます。
何事にも礼儀があります。相手を敬い、先を譲ることをするのが礼儀です。
そこから人間同士のお付き合いが始まります。
お付き合いとは本音でつきあうことです。
このお付き合いを老害としてしまえば信頼を奪われてしまいます。

私はあえて若者たちに困難に立ち向かえと厳しく教えています。
もし突然有事が起これば立ち向かえる気力を養うためにです。
それ以上に困難から学ぶことが人生には多いからです。

言葉に敏感になり自分の嫌いな言葉を発せられたら、
パワハラ、セクハラ、モラハラと言い続ける。
最近ではマルハラまで加えられています。(文章の最後の〇です)
どこまで自分を正当化したいのでしょうか。

ソフト老害の名づけの親
放送作家「鈴木おさむ」さん。
「上のプライドを傷つけず、下の意見をうまいことまとめたつもりでも、
下の世代から見たら、その行動が老害に見えてたりするということに
気づき、それをソフト老害と名付けました」

ことし52歳となる鈴木さんは、先月発売した著書「仕事の辞め方」で
自分が「ソフト老害」と気づいたきっかけを記しています。

ある番組会議で鈴木さんが意見を出したところ、
番組の構成が変わり若手ディレクターが準備していた
映像がカットされたことがあったそうです。
後に、その苦い経験をディレクターから聞き、自分の一言によって
若者たちが必死に考えてきたことを妨害する、
「老害」になっていたと気づいたというのです。

これをキッカケの一つとして32年間続けた放送作家の仕事を
来月辞めると決意しました。

これを読んだ皆様はどう思ったのでしょうか?
鈴木さんは正義感あふれる優しい人と感じたのでしょうか?

最近の若者動向では、
若手に指摘するときはポジティブワードを織り交ぜて
街でも若い人が感じる、30代・40代の老害について聞いてみると…。

【10代】「バイトで、そのメイクどうなんみたいな…。
(ルールなどで)定められてないところで、
自分がどういうメイクするかは別に自由でいいんじゃないかなと
思ったんですけど」

【20代】「年齢が近いからこそ親身になってる感出して、
口出してくるケースは感じます。『お前の気持ちわかるよ』っていう
的外れなのはしょっちゅうある気がしますね」

【30代】「めっちゃ言ってるかもしれん」
「思っても言わないようにしてる。あんまり聞き入れないかなって」
「また言ってきた、じゃないけど」

「老害」はもはや、高齢者だけでなく、
20代~40代も意識すべき問題なのでしょうか。

私のようなタイプの人間は知らない間に老害になっている。
誰に対してもズケズケとものを申すからである。
若者に遠慮して小声でささやくつもりはありません。
上辺だけの優しさを強調するつもりもありません。

これ以上言うと本当に「老害」と言われそうなので終わりにします。
だれか私の口にチャックをしてください。笑い


実感を持たない若者達




数年前に流行した言葉に「リア充」というのがあります。
真剣に取り組んでいる人間に対して揶揄している言葉です。
仕事に対しても恋愛に対しても頑張っているのは見たくない。
恋愛はコスパやタイパに合わないから拒否をする。
人生で汗など流したく無い。他人の汗を見るのも嫌だ。
これは一流大学の起業研修の時に聞いた言葉です。

子供の時からモバイルでゲーム漬になっているので現実感が薄い。
将来に対しても悲観的なデーターが多いので希望など持てない。
取り敢えずバイトで稼いだお金を貯金する。
余った時間はボランティアに使いたい。
何か分からないが時間があるので良いことがしたい。
卒業して就職しても長く続くかは分からない。

大人が思っている以上に彼らは子供じゃない、
最低限の知識と情報は持ち合わせている。
世の中全体が悲観的になっていても、問題を起こした
大人が解決すべきだと思っている。
AIで作られた仮想空間の中からは夢など生まれるわけはない。
デジタルネイティブと言われても嬉しくもない。

彼らはお金があるのは老人ばかりで自分たちには回ってこないと思っている。
老人は高度成長期に買いたいものを買って、やりたいことをやり、
海外へもバンバン行って、バブルが弾けて勢いを無くした。
その時から日本国中が節約・倹約モードに切り替わり、
30年も以上給料が上がらなくても文句の言わない大人ばかりである。

その背中を見て育った40代、バブルの弾けた時を知らない30代、
最初から貧乏でやる気のない大人達を見て育った20代、
自分の思考をデジタルに入れ替えられた10代、
それ以下は愚痴ばかりを聞いて育った10代である。
そこから貧困児童が存在するようになって自殺する子や
自暴自棄になる子が犯罪に手をそめるようになった。

登校拒否や出社拒否、あらゆるハラスメントを使えば
僕らは被害者になり救済が受けられる。
こんな時代だから長いスパンで将来を考えても仕方ない。
フォロワーから笑われればいいと過激なSNS投稿者になる。

私は、基本的に子供達に一切説教はしません。
年寄りだからと言って常識論を振りかざすつもりもありません。
一緒に農業やろうよ、町おこしのイベントへ参加しない、
田舎にいる先生に森の話を聞きに行こうよ、
夏休みに無人島でキャンブしないと誘うだけです。

現在行っている対話集会「老人と孫」も
出来る限り孫の話を中心に進めていっています。
老人のアナログ的な考えと孫達のデジタルな考えが
一緒になるからやる意義があると思っています。

そのうちにカンボジアへ地雷撤去に行こうと声もかけたいと思います。
ラオスには友人達が小学校を立ち上げ先生もしています。
もう10校以上は存在しています。我々も一校ぐらいは寄付したいですよね。
人間は自分のことばかり考えるから悩むのです。
他人のことを考えると希望と喜びが湧いて来ます。

既に各地では若者たち夫婦が都会から移住して快適な暮らしを始めています。
何よりも大きな変化は子供達です。朝から暗くなるまで好奇心の赴くままに
走り回り、冒険をする喜びに満足しているとのことです。
村の子供達と一生懸命に勉強して一生懸命に遊びを作っているそうです。
与えられたおもちゃではなく、与えられた道具で創造力の限り、
手作りの喜びを感じているそうです。

農業移住者には月額15万円ほど補助金が自治体から出るそうです。
実感を持たない若者達に、生きる実感を知って欲しいと思います。

岐阜県の白川町で「ただいま。と帰りたくなるネオ里山暮らし体験宿を、
岐阜県神野に作りたいと、世界50か所を旅したオーナー岩城淳一が奮闘中です。
家族5人で移住して村人たちの協力のもとに畑作りも始めています。

息子が小学校に上がるタイミングで、「山が見える所に住みたい」という
息子の一言から自分たちの原点を再認識し、日本中、世界中で大自然があり、
自然体で、自由な教育を受けられる場所をと移住先を探し求めていました。
そんなある時、東京の友人から岐阜の田舎に古民家を相談したので、
使い道を一緒に考えてほしいという事で、生まれて初めて岐阜に訪れました。

その時に感じたのは、立派な古民家と土地が全く使われてなく残されている事、
そして何より、周りにある大自然と水や空気の綺麗さに、
こんな所があるんだ!!と感動し、家族5人で移住を決意。

岩城淳一プロフィール
生年月日:1983年9月1日
京都府宇治市に生まれる
5歳の時に家族でフランス、パリへ移住
中学で帰国し、東京理科大学建築学科卒業
退職日を決めて旅行会社へ就職、夜はアルバイトをしお金を貯める
世界一周33ヵ国の2年間の旅へ(現在50ヵ国訪問)

飛び込み営業1日300社、輸入業にてヨーロッパ、アジアよりクリスマス用品
輸入販売伊勢丹、三越などクリスマス用品売上No1へ
飲食店本部にて開発業務、ラーメン、居酒屋、すし店など50店舗オープン
墨田区スカイツリー目の前のシェアハウスを9年間運営

2022年5月30日岐阜県美濃加茂市三和町へ家族5人で移住
日本のど真ん中に原点回帰型宿泊施設を作ると言うことで始動
サウナ旅館施設を2023年7月22日にグランドオープンし、運営会社として関わる
隣町、関市の築120年の古民家と土地を使用して皆のネオ里山を創造中

皆様も移住体験をしてみませんか?
この場所はリアルな実感を得ることが出来ます。

本日私もお邪魔しています。


センス・オブ・ビューティー




心身ともに健康でオシャレな人は歳を取らない。
それ以外にも大義を持って世のために存在する
使命感のある人も歳をとりません。

あなたがお金持ちになりたかったら
お金持ちの友達とお付き合いください。
あなたが、いつまでも若さを保ちたいのなら
若い人達とお付き合いください。

あなたが何事に対しても受け入れられる大人になりたかったら、
学びを忘れず好奇心と探究心を持ち続けなさい。
そしてあえて大変な道を選んでください。
自分の大義を持ち続けて生きてください。

人間は単純です。穏やかな環境であれば温室野菜のような
人間になり、厳しい環境であればエネルギー溢れる野菜になるのです。
あえて逆境を選ぶことが若さを保つ秘訣です。

つまり今の時代、一番歳をとらないのは、生きるセンスがある人です。
若く見える人が、歳をとらないのでは無いのです。
若く見せることに一生懸命な人は、年齢にこだわりすぎて、
逆に年齢を際立たせてしまう。

ビックリするほど若く見える人は、
どうあっても「あの人一体、幾つかしら?」と噂させるはずで、
そういう想像をさせているうちは、本当の意味の年齢不詳にはならないし、
年齢を超越することはできないのです。

だからビックリするほど若く見えるよりも、
ビックリするほどオシャレであるべき、
そう言えるのではないでしょうか。
幸い、歳を重ねるほど思い切ったオシャレをしても、
違和感を持たれなくなります。頑張りすぎに見えなくなります。
それも、キャリアを積むほどに、存在の強さがモードに
負けないようになるからです。

もちろん独りよがりの、奇妙なオシャレは例外で、
人に理解されないような個性では意味がない。
あくまでも趣味の良い、でも振り切ったオシャレだけが、
人を魅了し、年齢を超越し、はねつける存在感を生むのです。

なぜセンスが最強の存在感を作るのか?
でも、なぜ、センスが勝つのでしょう。
なぜ、センスが最強の存在感をつくるのでしょう。
答えは簡単。センスって、ファッションセンスだけを
指すのではないからです。
人間の能力の1つと言ってもいいものだから……。

大人のファッションセンスは、
生き方においても、人間性においても、
その人の全てにセンスがあることを裏付けるもの。
だから、人として魅力的なオーラを放つのだし、装いのみならず、
その人自身が素敵という、目に見えないものまでをひっくるめた
“雰囲気の美しさ”につながるのです。

きっと素敵な暮らしをしているのだろう、
良い趣味も持っているのだろう、
会話をしても相手を魅了するのだろう、そんなふうに、
人生そのものがセンスで彩られているに違いないと思うから、
申し分なく素敵に見える、というふうに………。

ともかく今、一番歳をとらない決め手として、
アンチエイジングとしてのセンスを、
もう一度鍛えてみてください。何よりセンスは一生モノ、
歳をとればとるほどセンスの威力はますます人を輝かせ、
いよいよ歳をとらせなくするはず。

そして気がつけば、人生をいろんな意味で充実させているはずなのです。
センスとはそうやって、人生を丸ごとより良いものにする
“不思議な能力”なのですから。

それではセンスとは何でしょうか?

センスというと、漠然としたものになってしまいます。
しかし、目の前の物事に対して「Yes/No」とジャッジをしていくことだ、
と考えれば、それはぐっと身近なものに感じられてきます。
「センスのない人は、何もジャッジをしていない人」
ということになります。

たとえば、日々身につける洋服などについても
「なんでもいいや」と思っていれば、日々のジャッジは発生しません。
ジャッジがなければ、洋服のコーディネーションについても、
ちぐはぐになり、それが結果として「センスがない」という
印象として外に伝わることになります。

最初は面倒だったり、違和感があったりするかもしれませんが、
持ち物や身につけるもの、日々目を通すメディアや、
食べるものの選択、日々の暮らしの中に「これはいい、これはダメ」
とジャッジを続けることで、自然とセンスが磨かれていきます。

私のおすすめは流行にとらわれずに古典に親しむことです。
クラッシックの音楽や有名画家の展示会やオーソドックスな洋服を
身近に取り入れることによって自分の本質を磨くのです。
他人を意識しないところに空間を広げて自分軸を置くことによって
年齢に関係なくセンスの良い人となります。

センスはその人の内面を映し出す鏡です。


置かれた場所で生きなさい




運命によって両親の元に生まれ落ちた。
親も子も幸福を目指して共に歩き出す。
予期せぬ幾多の困難を宿命として受け入れながら幸福へと向かう。
理想の教育と現実のはざまで悩みが自然に起こり出す。
そして身体の発達と思考の発達がアンバランスな状態で異性に興味を持つ。

学問を積み重ねることと精神的な成長は別にある。
学校の教育で修身や倫理が無くなり人としてどう生きるのが良いか、
誰も教えてくれない。ましてや異性に対する接し方はタブーな領域だった。
ただ学力のアップダウンに一喜一憂するだけで大切な青春時代が過ぎ去る。

自分は何者か、何をすべきか、人生の目的は、生きるとは、
誰に質問して良いのかも分からない。本を読んでも理解が出来ず
ますます悩みが増えるばかりである。
哲学という言葉は大学に入るまで知らなかった。
若い僕らに哲学や仏教はピンとこない代物であった。
学問への探求はストレスの積み重ねにもなっていた。

現代人のストレスに強くなる私の方法を伝授します。

「三位一体」(さんみいったい)
もし自分の身体の中に3人の自分が居るとすれば悩みは軽減される。
中心軸を担当する自分と、右の翼を担当する自分と、左の翼を担当する自分。
このバランスが上手く機能すれば、
順調に人生の旅(フライト)を楽しむことができる。

中心の機体は年齢に応じた生活をしなければならない。
学習と労働である。ここが最も時間を費やす部分です。
人間関係、ライバル関係、接客等々で疲れてしまいます。
その上に家族が出来れば自分の学習時間がほとんどなくなります。
それでも仕事の学びは必要不可欠です。
社会全般の責任感も大切になります。主要な役割を担当します。


右の翼は文化芸能に興味を持ち楽しい人生を担当します。
仕事から離れて娯楽と快楽に重点を置き芸の世界に触れることです。
私はもともと音楽業界にいたので芸能関係の友人は多くいます。
一般の方であればプロの方と接する機会は少ないと思いますが、
求めて音楽会や能楽や絵画鑑賞へ出かけるのも重要です。
この時には仕事のことは忘れます。ストレス解消の脳が作られます。

左の翼は将来の夢を描き経済活動に専念して貯蓄に励み家族を守る。
20代で仕事を覚えて、30代で役職が付き、40代で経営陣に加わる。
この流れの中で家族との心配をしなければなりません。
子どもが生まれれば進学の事から結婚・就職と親の責任が加わります。
もちろん育ててくれた両親の老後のことも気になります。
自分の健康のこともおろそかにしてはいけません。社会生活の重要性です。

三位一体(トリニュート)の形をとるとストレスがかかりにくくなる。
私は問題が起こると、この問題はどの自分が解決をするべきか考えます。
三人の自分が居れば全員で考えなくて一人の自分が真剣に考えればよいのです。
難しく考える必要はありません。
役割分担を明確にする。いわゆる「割り切る」という事です。

例えば、経歴は過去の自分の人生であり、今の自分の姿でない。
そこに自分のリアルな意思は反映されていないのである。
しかし他人は書かれている記録を見て判断する。
そこに時間の経過と人間性の本質はどこにも見当たらない。
本質は精神性であり、思考であり、人としての歩んできた道である。

「私」と言う字は穀物を両手抱えている姿を表している
象形文字だが本当の「私」で無い。
「僕」と言う字も罪を犯した奴隷が額に刻印を押された様子を
表している象形文字だが本当の「僕」では無い。
私も僕も同じ一人称で男と女で使い分ける。

常に自分の人生が日の当たる場所にある訳ではない。
三人の自分がいればそれぞれの日に合わして役割を
担当してくれれば都合が良い。

私は仕事が順調に進んだ時の自分と、
天気が悪くて憂鬱な日の自分と、
お金儲けの自分と分けている。
調子のよい時には三つとも手に入り、悩みは無いが、
かといって収入が少なくても文化活動で気を紛らわせることは出来る。
その内、収入が増えると思えばストレスは溜まらない。
クリエイティブの仕事は経済力に影響されてはならないのです。

みんな真剣に生きている。そのこと自体に優劣はない。
どんなに恵まれた体力と才能があっても努力がなければ意味がない。
その反対に才能も体力もなくても必死に生きている人の方が素晴らしい。
人は置かれた場所で輝いて花開くことの大切さを知らなければならない。
たとえ名もなく見捨てられても私は自分を見守りたい。

禅語「随所作主立処皆真」
臨済宗の宗祖臨済義玄禅師の言行録『臨済録』の一節に
「随処作主、立処皆真(随処に主となれば、立処皆な真なり)」があります。
それぞれの置かれた立場や環境で、それぞれのなすべき務めを精一杯果たせば、
必ず真価を発揮することができると喝破(かっぱ)します。
 
私たちはともすれば、不遇や環境を嘆き、できない言い訳を他の責任にして、
不満ばかりを募らせます。その瞬間、こころも、行動も一ケ所に淀んでしまい、
同じところをぐるぐると迷いの渦に沈んで行き先を見失ってしまいがちです。
まずは、自分の置かれた環境、条件、境遇をありのままに受け入れる。

そうしていったん立ち止まり、今、此の瞬間、自分にできること、
手を付けられることは何かをしっかりと見据えてみる。
そこを手掛かりとして一歩を踏み出し、後は結果を顧みず、
その瞬間その瞬間にすべてを投げ出して、誠心誠意、弛(たゆ)まず
牛歩の如く取り組んでゆく。いつか気が付けば、思いもかけない
成果を手にしていた!との真実を伝えてくれる一語でしょう。

まさしく
置かれた場所で生きなさい。
禅語の言葉は素晴らしいですね。合掌