みんな口癖のようにいう言葉。
「億劫」だから行きたくないと返事をする人。
最近では若者もよく使うが歳をとるとどうしても出てしまうのがこの言葉です。
もう面倒くさいことはやりたく無いと避けるようになって「億劫」がでてくる。
億劫とは「おっこう」が「おっくう」に
億劫(おっこう)とは、1劫の億倍ですから、とても想像できないほど
長い時間のことです。その億劫(おっこう)が、
どうして今日(こんにち)の億劫(おっくう)になったのでしょうか。
億劫とはとてつもなく長い時間ですが、「時間が長くかかるため、気乗りしない」
「時間がかかることは面倒くさい」ということで、長い時間の「おっこう」が、
今日の「おっくう」の意味で使われるようになりました。
ここで億劫とは、人間に生まれない前の過去世の果てしない
長さを表されています。この果てしない過去世から比べますと、
今、生まれてから死ぬまでの人生はあっという間、瞬間的なものです。
「ついこの間、あけましておめでとうございますと年が明けたと思ったのに」
と時の過ぎゆく速さへの驚きを、何度言ったり思ったりしてきたか
わかりません。あれよあれよと、時間は過ぎていきます。
時間は一方通行で逆戻りはありません。
さらに「劫」の永さを強調したのが「永劫(えいごう)」です。
一般には、「未来永劫」とか「永劫回帰」と使われますが、仏教では
「ようごう」と読みます。永劫も仏教から生まれた言葉です。
更に憶測(おくそく)とは
憶測には「自分で勝手に推し量ること」の意味があり、根拠なく、
いい加減に推量することをいいます。「憶」と「測」の漢字の意味を確認しましょう。
憶(臆): あれこれ思いを巡す、推し量る測: 予想する、推し量る
つまり「憶測」とは、似た意味の言葉から成り立っていることがわかります。
憶測は「根拠なく、いい加減に」という意味があるのに対して、
推測は「得た知識や情報をもとにして」という意味があります。
つまり憶測と推測とは、根拠となるものがあるかないかで使い分けることが
できるというわけです。
ある出来事に対してあれこれと意見が挙がったとしても、確実な根拠がなく
どれも信用できないという意味です。「事故原因について多くの意見が
出ているが、どれも憶測の域を出ないものばかりだ」などと使います。
憶測でものをいう
根拠がないにもかかわらず、あれやこれやとまるで真実であるかのように
話すことを言います。「憶測でものを言うのはやめなさい」などと使います。
今話題の仲居正広のSNS上における発言はすべて憶測によるものです。
憶測を生む・憶測を呼ぶ
ある出来事をきっかけに、根拠のない意見が多く出回ることを「憶測を生む」
「憶測を呼ぶ」と言います。「彼の死はさまざまな憶測を生んだ」
「その会社の倒産が、多くの憶測を呼んだ」などと使います。
先日行われたフジテレビの記者会見は「倒産」という憶測が生まれました。
憶測の類語・言い換え表現
憶測の類語は推測や予測のほかにもあります。いくつか見ていきましょう。
忖度(そんたく)
忖度とは「人の気持ちを推し量る」という意味の言葉です。忖度は2017年の
流行語大賞に選ばれたこともあり、聞いたことがあるという人も多いでしょう。
「根拠なくいろいろと思いめぐらす」という意味で、憶測と似た意味になります。
日本人は集団になると必ず「忖度」が生まれます。
ある意味ゴマすりと同じ感覚で使われています。
見做す(みなす)
見做すとは「そうでないものを、仮にそうだと決める」
「こうであると判断して決める」という意味の言葉です。
「返信のない方は、欠席だと見做します」のように使います。
「彼は貧しいから勉強しないと見做します」こういう風潮がありました。
当てずっぽう
当てずっぽうは「当て推量」が由来だとされています。この「当て」とは
「将来の見通し、見込み」のことで、つまり当てずっぽうとは、
「将来の見通しをいい加減に思いめぐらせること」という意味です。
女性週刊誌の売り方の手法で、最初はあてずっぽうで、
次は今の段階はこうです、最後に真実が明らかにされましたと、
一つの情報を三回に切り分けると有名なレポーターから聞いたことがあります。
揣摩憶測(しまおくそく)
あまり聞き慣れないかもしれませんが、「揣摩憶測」という言葉もあります。
「揣摩」とは「他人の気持ちなどを推し量る」という意味です。
勝手に想像し、あれこれ意見をいうことを「揣摩憶測が飛び交う」などと
表現します。しかし最近ではほとんど使われることはありません。
憶測の対義語は、断定、熟考、吟味
憶測の対義語には、断定、熟考、吟味といった言葉が挙げられます。
意味はそれぞれ、以下のとおりです。
断定: 物事にはっきりと判断をくだすこと熟考: 念を入れてよく考えること
吟味: 念入りに調べること、選ぶことこれらの言葉は、
「根拠があいまいなまま思いを巡らせる」という憶測とは、
反対の意味の言葉だといえるでしょう。
さて億劫と憶測の違いはお分かりになったでしょうか?
話し言葉は使う言葉を選ぶ時から意味を理解しなければ笑われます。
日常でよく使われるこの二つの言葉は年寄言葉かと憶測します。
みなさまも億劫がらずにこれからも勉強に励んでください。
私のSNSでの投稿「今日の一枚・今日の一言」でも「億劫」を紹介します。
そちらもお楽しみください。私のブログも億劫がらずに更新します。
1月 31st,2025
恩学 |
億劫とは はコメントを受け付けていません
日本の美を語るうえで必ず出て来る「真善美」
意味は朧気に理解していても本質を語ることは難しい。
「知性から真を得て、意思から善を得る」という発想が、
「真善美」の考え方が誕生する前にはありました。
日本の美に対する感受性の中心には、自然を尊ぶ思いが存在します。
古代の宗教観、特に神道においては、自然は神聖な存在とされ、
そのため自然の美しさや変化に魅了される心が日本人の精神に深く根付いています。
特に、山や川、木々、花々といった自然の要素は、日常生活や芸術表現において
なくてはならない存在です。
鎌倉時代に入ると、禅の影響により、より洗練されたシンプルな美意識が
確立されました。ここで「侘び寂び」という概念が登場し、不完全さや
静けさに潜む美しさが重要視されるようになりました。この影響によって、
茶道や庭のデザインにおいても自然とのバランスがさらに
強調されるようになりました。
近世においては、町人文化が栄え、一般市民の生活に根ざした新しい美意識が
芽生えました。浮世絵や歌舞伎といった身近で楽しめる芸術が流行し、
これまでにはなかった色彩や表現が盛り込まれるようになりました。
この時期は、「粋」や「雅」といった洗練された感覚が人々の生活に影響を与え、
多様性が生まれました。
つまり、信念のベースは、真実を判断する力を、学問を志して獲得し、
自分を意志の力で律することによって自分を正しい行動に導くことが
よりいい人としてのあるべき姿であるということになっています。
「真善美」という言葉は、感性から生じる「美」がこれにプラスされ、
社会的・自然的・倫理的に超越した存在というような意味合いで生まれました。
哲学的に「美」という概念についての考察が行われている。
明治維新以降、日本の哲学者たちは「言葉」「身体」「自然」「社会・国家」
といったテーマについて深く思索してきました。
特に「美」に関する探求は、私たちの日常生活に密接に関わっている
テーマであり、哲学の中でも重要な位置を占めています。
「真善美」という言葉でまとめられるように、真理や善の問題は難解であり、
容易に答えが見つかるものではありませんが、美については誰もが
経験しやすいものです。
美は単に見る対象に存在するのか、それとも見る側の主観に依存するのか、
また、美は直感的に感じられるものなのか、それとも思考のプロセスが
関与するのかという問いも提起されています。
美の本質についての様々な考察が行われました。
多くの読者が、哲学が「美しいとは何か?」という問いに対して
明確な答えを示せていないと感じていました。
特に、哲学は形而上学的な遊びに過ぎず、実際の問題解決には
寄与していないとの意見がありました。
また、西洋美術史を引き合いに出し、時代によって美の概念が
変遷していることを指摘する声もありました。
これに対して、普遍的な美しさは存在するとしつつも、
それを言葉で説明することの難しさが強調されました。
「キレイ」と「美しい」の違いについての気づきも多く見られました。
ある意見では、見た目の美しさだけではなく、精神性や生き様が美しさに
必要だというものがあり、読者自身の価値観を反映した深い考察がなされました。
美とは何かを探求する中で、真理や感性についての議論もあり、読者は美を
理解することの難しさを感じていたようです。
美学とは、美とそれが人間の心身に及ぼす影響について研究する学問である。
科学的な観点から見ると、美学は心理学、神経科学、哲学、美術史などを
包括する学際的な分野である。
このセクションでは、美学の背後にある科学を探求し、それが美の知覚に
どのような影響を与えるかを検証する。
美学研究には長く複雑な歴史がある。古代ギリシャでは、プラトンや
アリストテレスといった哲学者たちが、美の本質と人間社会における
役割について議論した。
その後、ルネサンス期には、芸術家や思想家たちが美学をより深く
探求し始め、芸術理論や批評の発展につながっている。
今日、美学は進化を続ける活気ある研究分野である。
近年の神経科学と心理学の進歩は、私たちが美を感じるメカニズムに
新たな光を当てており、研究者たちは美学と人間の経験の複雑な関係を
探求し続けている。美学には普遍的な側面もあるが、
文化的・歴史的要因によって形成される側面もある。
美学の科学は複雑で多面的な分野であり、幅広い学問分野を
包含している。美の知覚における脳の役割、美的経験を構成する要素、
美学に対する文化的・歴史的影響を理解することで、人間の表現の
多様性をより深く理解することができる。
自然の美しさは複雑で多面的な現象であり、心を落ち着かせる効果、
遠近感を与える能力、多様性、季節の移り変わり、創造性とのつながりなど、
さまざまな要素を包含している。自然が私たちの生活に与える影響を理解する
ことで、未来の世代のために自然界を保全し保護することの重要性をより
理解することができる。
自然とアートの結びつきは多面的かつ複雑であり、インスピレーション、
自然素材、環境意識、科学、自然保護などを包含している。
このつながりを探求し、祝福することで、アーティストは見る人を鼓舞し、
感動させる作品を創り出すことができ、自然界の美しさと複雑さに対する
理解を深めることができる。
私たちが環境問題に直面し、より持続可能な未来に向けて努力し続ける中、
アートは私たちと環境との関係を形成し、保全活動を促進する上で重要な
役割を果たすことができる。
その為にデザイン思考で考える「アニマルSDGs」の提唱をしています。
我々は国連を通じてSDGs18番目を「未来の子供たちのために」の
運動を、世界のクリエイターや見識者と共に行動を起こしています。
日本的美学思考で人間と動物が手を組み循環型の環境再生モデルを
教育に取り組むように働きかけています。
日本には「知性から真を得て、意思から善を得る」という発想が、
「真善美」の考え方が誕生する前にはありました。
勿論、我々は生まれた時から四季の有る自然からたくさんの
「美」を享受していたのです。
1月 31st,2025
恩学 |
真善美とは はコメントを受け付けていません
マーケティング理論やマズローの5段階の欲求などで使われる手法です。
しかし、この「ハズバンド・ショップ」には驚きました。
さすがアメリカのマーケターの発想は素晴らしいと思います。
全世界に通じる話では無いのですがジョークの取り入れ方が朱越です。
NYに出来た「ハズバンド・ショップ」旦那ショップ
6階建てのお店で上に上がることはできるが下には降りられない。
上に上がるほど料金は高くなる。
1階の入り口には「仕事についている旦那」と書いてある。
勿論、それも大切だけど他の魅力も欲しいと思い上の2階に上がる。
その入り口には「仕事についていて、子供が好きな旦那」と
書かれていた。
どうせならその上の3階はどうなっているか気になり上に上がると
「仕事についており、子供好きで、かっこいい」と書いてあった。
これでも十分満足なのだが誘惑に負けてしまった。
勿論、その上の4階へも行きたくなり階段を上がると
「仕事について、子供好きで、かっこよくて、家事も手伝う」と書いてあった。
またまた欲は高まるばかりで満足いかないので上に上がった。
5階の入り口には「仕事について、子供好きで、かっこよくて、家事を手伝い、
ロマンチックな旦那」と書かれていた。
もうここまで来たら最後の階へ行きたくなり6階へと上がった。
「あなたで訪問者は31,000,456人目です。ここには旦那はいません」
このフロアには女性が満足できる旦那はいませんと書かれていたのである。
店に入る前に最初の注意書きに上には行けるが下にはいけないと書かれていた。
これはマーケティングの手法で世界的な時計メーカー・スオッチの
戦略として紹介されたのが最初である。お客様のニーズを聞いたのちに
こちらは最初に最上階の6階へと案内して美術品的な時計を見せる。
勿論、一般人には買えない高額商品である。
頭の中にはその価格が焼き付けられて、その後に5階へと移動する。
話題の時計がずらりと並べられているフロアは活気に溢れているが、
未だお金持ち以外は手が出せない価格である。
仕方なく4階へと移動すると一般的な高級時計に巡りあえる。
1階は観光客相手のお土産時計ばかりであることを知っているので、
2階まで降りて安い価格で決めるか、3階へ移動して拘りのビンテージ
時計を選ぶか悩んだ挙句に欲求と価格が合う3階で購入することにした。
アメリカの化粧石鹸の最大手ドゥーブが行った「リアルビューティー スケッチ」
雑誌、テレビ、広告、ソーシャルメディアなどで目にする、美しさの基準。
私たちはそんな”一般的”な価値観によって、自分自身の美しさを低く評価する
ことがあります。ダヴは、自分自身の容姿をもっと肯定的にとらえることが、
より幸せな毎日を送るための第一歩であると考えます。
そこで私たちは、ある実験を行いました。 「リアルビューティー スケッチ」
という大胆な実験は、米国連邦捜査局(FBI)の似顔絵捜査官のジル・ザモラ氏に、
女性の似顔絵を2枚ずつ描いてもらう、というものです。
まず、ひとりの女性に自分の容姿を描写してもらい、それに基づいてザモラ氏に
似顔絵を描いてもらいました。ザモラ氏に女性の姿は見えません。
次に、第三者の説明に基づいてザモラ氏が似顔絵を描き、本人と第三者の説明が
どう違うのかを観察してみました。その結果できあがったのは、2枚のまったく
異なる似顔絵でした。そして、第三者の描写に基づく似顔絵のほうが、美しく、
幸せそうで、事実に近い姿を表現していました。
あなたは、自分が思うよりも、ずっと美しい。世界中の多くの女性に、
自分の美しさに気づいてもらいたい。私たちはその願いを込めて、
女性が自分の似顔絵にどう反応し、自分に対する見方をどう変えていったかを
記録して、動画を制作しました。
マーケティングの手法に「返報の法則」と「フット・イン・ザ・ドア」
と言うのがあります。
返報性の法則とは、何かをしてもらった時に「自分もお返ししなければ」と
感じる心理のこと。例えばバレンタインにチョコレートをもらったら、
ホワイトデーにお返しをしなければと感じるのも、返報性の法則による
気持ちの変化です。お返しの文化は、日本人の常識として根付いています。
しかし返報性の法則が提唱されたのは、ロバート・B・チャルディーニ氏
(心理学・マーケティング学の教授)の著書『影響力の武器』の中。
年代も国籍も問わず、世界中で活用されている心理テクニックということです。
返報性の法則によるついお返ししたくなる気持ちは、マーケティングや
恋愛テクニックなど、あらゆる場面で活用されています。
例えば買い物でお店に入り階数ごとに案内されたら、その親切に応えなければ
ならないという心理が働き手ぶらでは帰れなくなる。
NYの「ハズバンド・ショップ」も「高級時計スオッチ」のケースも
顧客心理を見事に捉えています。
私は個人的に「リアルビューティー スケッチ」の手法に大賛成です。
本当のあなたの美しさは第三者が知っている。
素顔の美しさを保つために保湿石鹸「ダヴ」のキャンペーンは見事です。
フット・イン・ザ・ドア・テクニック(Foot-in-the-door technique)とは、
「最初に小さな要求を承諾させ、徐々にその要求を大きくしていく事で、
本当に承諾させたい要求へと近付けていく」
という交渉術であり、「段階的要請法」とも呼ばれます。
「フット・イン・ザ・ドア」という名前の由来は、
「セールスマンが玄関口から追い返されそうになった時に、
ドアと壁の間に足を挟んでそのドアを閉めさせないようにした」
という描写を語源とする、「get a foot in the door(上手く最初の一歩を踏み出す)」
から来ています。」
つまり、最初の小さな要求が「ドアの間に足を挟む」という事であり、
それを足掛かりにして「話を聞いてもらい」、最後には「セールス」という
本来の目的を達成しようとするテクニックだという事です。
原理:何故テクニックが有効なのか?
フット・イン・ザ・ドア・テクニックが実際に多くの人に通用する理由は、
「一貫性の原理」および「逐次接近法」によります。
一貫性の原理は、
「人は自分の信念や行動などに一貫性を持たせようとする」
という人の心理傾向です。
フット・イン・ザ・ドア・テクニックの場合は、最初に「小さな要求」を
承諾する事によって、後に「もう少し大きな要求」を提示された時に、
「前に似たような要求を受け入れたんだから、この要求も同じように
受け入れた方が良いんじゃないか・・・」と感じる事から、
「自分の行動に一貫性を持たせたい」という心理が働いていると言えます。
如何だったでしょうか。
くれぐれもお買い物時には相手の術中に嵌らないように注意して下さい。
1月 30th,2025
恩学 |
NYの不思議な店 はコメントを受け付けていません
「生」の行き着く先は「死」である。
紛れもなく人間は生まれた時より死を目指して生きている。
仏教のおしえ「生老病死」で書かれているとおりです。
少しでも生存するために科学が発展して死から遠ざかるように工夫がされた。
若い時に自由に使えてきた身体的機能を維持するためである。
よって老いるとは身体の自由が思うように働かなくなるということです。
70過ぎてから老いから始まる生活は未知の世界です。
身体的苦しみや痛みより心が弱くなることの方が怖くなります。
「万が一」予期せぬ病が発生したらどうしたら良いか、
「万が一」階段を踏み外したらどうなるのか悩むことです。
それと同時に同年代の人達の死亡のお知らせが届くたびに心弱くなります。
しかし、その分改めて健康についての意識が高まり食生活の改善や、
弱った筋肉のトレーニングにも励むようにもなります。
歩けるうちは自分の足で歩きたいですから苦にはなりません。
死とは恐れるものではなく安息の領域です。
いかに人生を後悔なく過ごしたかです。
いずれにしても我々は避けては通れぬ
「生老病死」の世界に取り込まれています。
しかし人間の執着心が未練がましく「性」に対して悔いを残すのです。
自分は何者で、この現実とは何なのか、生きるとは死ぬとは何なのか、、、
知りたい。これが人間の究極の欲動。
フロイトはこれを「リビドーである」と言った。
周りの弟子たちには理解されなかったかもしれないが、
人間の究極の欲動に「性」を見ていた彼の眼差しは鋭いと思う。
人間は五感覚を通じて世界を認識する。しかしこれでは世界の表象しか
見ることができず、五感覚の究極の先の一点、つまり感覚が一点に収斂する
ところの先に突破口を見出そうとしたのがフロイトのリビドーです。
彼の言葉にこのようなものがある。
「あらゆる生あるものの、目指すところは、死である」・・・
すべての五感覚から解き放たれる死の擬似経験こそ、性の究極。
人間はみな、「生きたい」という欲求の裏に「死にたい」という欲求を
隠し持っている。それは無意識に死がすべてを証してくれることを
知っているからだろう。
私たちは体を持っていろいろな経験をする。
寝てみる、起きてみる、怒ってみる、笑ってみる、泣いてみる、
悩んでみる、喜んでみる、生きてみる、死んでみる、、、
いろんな経験をして「みる」のは、自分とは何者なのか!!を
ただただ知りたい一心である。
そしてこれに対するAnswerと出会った時、私たちの傷ついた魂に癒しが
訪れる。すべてのトラウマから解放される。
魂の癒しに遠回りも近道もない。私たちはただ知るだけでいいのだ。
明治憲法下の日本 (= 大日本帝国 ) では、富国強兵・殖産興業が
国是でしたので、未来のある若者に対しては立身出世が強要され、
また青年たちに大和魂という名の自爆思想を植え付けることは
当然のこととされました。
太平洋戦争の後の日本の昭和時代にも、少しくらいは明治憲法下での
トレンディーが残りましたが、大日本帝国が滅亡したという現実の
後なので、日本社会全体は虚脱し、エコノミック・アニマルにでも
成り下がるしかありませんでした。
他方、第2次世界大戦の後の世界は東西冷戦時代であり、
全面核戦争が勃発する危険が本当にありました。
政治に可能なのはカオスやカタストロフを回避することだけであり、
それ以上のことは宗教の役割・任務になりますが、冷戦下の世界の
指導者たちは、なんとか全面核戦争を回避することによって、
その使命を果たしてくれました。
私などは草の根でノタくって生きているだけの人間なので、本当に感謝です。
大日本帝国の指導者たちには、カオスやカタストロフを回避する
能力が無かったので、全てがパーになり、全ての日本人がクルクルパーにでも
なるしかなかったのです。
如何でしようか?これは女性医師長岡美妃の檄文です。
彼女は今「令和哲学の会」のメインの責任者です。
主宰者No jes氏と共に哲学の勉強会と日本を元気にする活動を
全国で展開しています。BEST BEINGパレードです。
私はこの団体の活動に注目しています。
精神的つながりの強い団体は新興宗教の様相を呈するからです。
日本の若者たちが正しい道を歩んでいるのか見極めるためにです。
主宰者のNo jes氏は韓国人です。
とても日本贔屓であらゆる学問に精通しています。
独自にそれらを体系化して勉強会を繰り広げられています。
私も何度かオンラインの勉強会へ出席をしました。
私にはその独特の理論体系が合わずに接触を閉じることにしたのです。
しかし当時のメンバーとのつながりは続行しています。
今年2025年は全国に10,300校の塾を開講すると発表がありました。
気になる存在です。それにしても目標値の設定が凄すぎます。
老婆心ながら吉兆のご主人が言った言葉が蘇りました。
「店と屏風は広げ過ぎると倒れる」さてどうなりますやら?
全国の若者たちだけではなく、一般の社会人や主婦まで参加している
熱気あふれる活動を行っています。
ご興味のある方は先ずはネットで検索して調べてみてください。
1月 29th,2025
恩学 |
フロイト性 はコメントを受け付けていません
2025年戦後80年からはじめる「世界平和アクション」
アースディ&ピースディ2025年新年交流会へ参加してきました。
今回の交流イベントは大きな社会課題に対し、コレクティブインパクトを
生み出す仲間づくりのためのイベントでした。
2025年は私たち日本人にとって第二次世界大戦が終結して80周年、
広島長崎被爆80年の節目です。世界の人々が皆、安心して暮らせる土台として
「地球環境」があるように、本来「世界平和」も一人ひとりの生活基盤であるはずです。
「16、平和と公正をすべてに人に」を含め、SDGsの目標はまさにそのように
設定されています。
今回の交流イベントでは「気候変動」「生物多様性」「エネルギー」「経済」
「農業」「教育」など、それぞれの分野で活躍するゲストを招き、多様な視点から、
改めて、それぞれの分野における「平和とは何か?」について問います。
私は役員を務める「動物かんきょう会議」から「アニマルSDGs」について
各方面の方々に紹介をしました。
それぞれの会は年配者が旗を振り、若者たちが活動をする理想的なスタイルです。
これから「平和と公正をすべての人に」のテーマに若者たちの熱い思いが
各地および各活動に注ぎ込まれると思います。
最近、関心事がある投稿をそのまま掲載します。
「国力と人口」です。
「残酷な現実」日本人なら絶対に知るべき2030年問題。
日本に未来はないのか?
あなたは2100年の日本の人口予測数を知っていますでしょうか。
国立研究所によると6300万人だそうです。
今が人口1億2000万人ですから、2100年には今の半分になってしまう訳です。
基本的な概念として人口は国力の源泉ですから、これからどんどんと人口が
減るに伴って、日本の経済にはますます逆風が吹くことが予想されます。
そして今回、この日本の人口動態においてさらにショッキングなニュースが
入ってきました。
それが2023年の出生数です。つまり「2023年の1年間で生まれた赤ちゃんの数」
ということですが、2月27日に厚生労働省が発表したデータによると、
過去最少の75万8000人を記録したそうです。
少子高齢化が進む日本において、年間の出生数が過去最少を記録するのは、
決しておかしなことではありません。ただ衝撃的だったのは減少ペースです。
それに伴って「2030年問題」が叫ばれ始めています。
その上地震に関しての2014年版の予測地図が発表されて、
実際に地震があった地点の確率を比較。
その結果、15年から9年間で震度6弱以上の揺れを観測した22地震のうち、
発生確率が高いとする6%以上の地域に影響があったのは9回だけだったとし、
「次は南海トラフだと思い込ませ、(予測地図は)罪が重い」と指摘した。
また予測地図に「確率が低くても安全とは限らない」「油断は禁物」と注釈を
入れている点を挙げ、試作品だと白状している。
そんなものを社会に出すこと自体が問題だと批判した。
南海トラフの発生可能性が高まったとみなされた場合に政府が発表する
「臨時情報」についても「ほとんどが外れる情報。国民が地震は突発的に
起きることを忘れないか懸念がある」とした。
調査委が2013年に南海トラフ地震の確率を発表した際の検討メンバー。
22~23年には本紙と共同で時間予測モデルの根拠となる古文書を調査し、
今年2月に「確率計算にモデルを使うべきではない」とする論文をまとめた。
音楽家・坂本龍一がこの世を去り、あっという間に1年が過ぎた。
Yellow Magic Orchestra(YMO)での世界的ブレイク、
ソロアーティストとしての活動やプロデュースワーク、
映画「ラストエンペラー」の劇伴で日本人初のアカデミー賞・
作曲賞を受賞するなど、その功績は今更言うまでもない。
“坂本”の音楽はこれからも世界中のリスナーを魅了し、
数多くのアーティストに影響を与え続けることになるだろう。
坂本は精力的な音楽活動を継続する一方、社会的な問題にもコミットし続けた。
2012年の原発反対派の集会に参加した際の「たかが電気のために、
この美しい日本、国の未来である子供の命を危険にさらすようなことは
するべきではありません」という発言で賛否両論を巻き起こしたことを
覚えている人も多いはずだ。
2000年代前半から少しずつ活性化してきたアクティビストとしての坂本龍一の活動。
その軌跡を追体験できるのが、「TBSドキュメンタリー映画祭2024」で公開される
映画『坂本龍一WAR AND PEACE 教授が遺した言葉たち』だ。
「筑紫哲也のNEWS23」(1989年~2008年)をはじめ、TBSの報道番組で
報じられた坂本龍一の活動やインタビューを1本のドキュメンタリー作品に
仕上げた本作。そこに映し出されているのは、葛藤を抱えながらも、社会的・
政治的な問題に関わり続けてきた教授の姿だ。
本作で取り上げられている最初のアクションは、モザンビークでの
地雷除去活動の取材をきっかけに生まれたユニット「N.M.L.」。
佐野元春、DREAMS COME TRUE、桜井和寿(Mr.Children)、
SUGIZO(LUNA SEA)、TAKURO(GLAY)、TERU(GLAY)ほか、
世界中のアーティストが参加し、2001年にシングル『ZERO LANDMINE』
を発表。収益は地雷撤去に使われた。
現在、環境破壊、森林伐採、水質汚染、自然災害、その上に戦争で
地球が傷みつけられて、世界が混乱をしている。
2015年「国連持続可能な開発に関するサミット」が世界各国の政府によって
採択された。
この「2030年アジェンダ」のなかに、SDGsの17の目標が示されています。
これらの17の目標を2030年までの15年間で達成することを目指して、
世界は2016年から取り組みを始めている。
SDGsが策定される以前から、世界は社会、環境、経済の問題に
それぞれ取り組んでいました。しかしSDGsは、それらの問題の目標を
一つにまとめたところが特徴的です。
経済発展だけに取り組むのではなく、環境や社会が抱える問題に
バランスよく取り組み、その根本的な解決によって、
世界を持続させることをSDGsは目指しています。
また、世代を超えたすべての国、すべての地域の人々が、
だれ一人取り残されることなく、尊重される社会を目指しています。
それ以前は世界開発ミレニアム開発目標としてMDGsに取り組んできました。
人口が減れば収入も減ります、それらを税金で補うとしても賄いきれません。
財政が減れば国力が弱まります。
何故この時点で人口減少の歯止めをかける対策が行われないのでしょうか?
若い夫婦が子供を欲しがらない、産んだとしても一人でいい、子育てのために
自分達の時間が取られるのは嫌だと様々な意見があります。
全ての国民が「国力と人口」を真剣に学ぶべきである。
近隣の国からいつ何時に戦争を仕掛けられるかもしれない時に、
戦争放棄した国だから大丈夫という呑気なことを言っていられない。
政府もメディアも国民の目をそらすための嘘情報ばかりを流している。
低レベルの犯罪のオンパレードやお笑い芸人のスキャンダルなど不要で
もっと真剣に国を守ることを議論してほしい。
1月 27th,2025
恩学 |
国力と人口 はコメントを受け付けていません
私が6歳の時に両親が離婚して家族がバラバラになった。
家系図の中での自分の立ち位置の場所、特定の場所が理解できずに、
民族・歴史・文化・芸術の居場所が分からず困りました。
民話から紐解くその土地における人物像・人間性・気質・食生活などです。
たとえば祖父母からおとぎ話や民話を聞きかされていたら
熱情的な郷土愛に目覚めたかもしれない。
美意識は育った環境から目覚めることも多いのではないかと思う。
山村で暮らしていた人と海辺で暮らしていた人とでは
美意識に大きな差が出るはずです。貧富の差も然りです。
海外へ出かけるようになり現地の人達からよく聞かれたのは
「日本の美」に関するものが多かった。
歌舞伎や能楽や茶道・華道から浮世絵、仏像の質問ばかりである。
日本人として曖昧な返答しかできなかったことを恥ずかしく思い、
そこからお茶とお花を少し体験して「日本の美」について学びました。
たとえば、
日本の伝統文化を貫く美意識を伝える便利な言葉がある。
「わび・さび・幽玄」である。もっと別の要素があることは
十分に承知しているのだが、そう答えると自分でも妙に納得してしまう。
能楽、茶道、俳諧などに見られる「日本的なるもの」の変遷を踏まえ、
「わび・さび・幽玄」が日本の美学の核心として語られるように
なっていく過程を考察する。
「わび」
茶道史研究家の熊倉功夫(1943年〜)氏の解説によると、
「貧粗(ひんそう)・不足の中に心の充足を見いだそうとする意識」とある。
「万葉集の時代、わびとは、恋が実らないで苦しむ状態を示すもので、
決して美意識を表現する言葉ではなかった」
平安時代以降、つらく惨めな気持ちを表すとともに、
もの寂しい情趣に近づき、中世になると枯淡、脱俗の心境を
「わび」と呼ぶようになった。
中世の人々は禅宗の影響もあって、満月よりも雲の間に見え隠れする
月の姿を愛(め)でるようになり、完全ならざるものの美を発見した。
「わび」もそうした中世的美の一つで、室町時代後期の町衆文化である
茶の湯と結びついて人々の意識の中に定着していく。
そして江戸時代になると、閑寂を尊ぶ茶の湯が「わび茶」と呼ばれるようになる。
「さび」
能・歌舞伎研究者の堀越善太郎(1937〜2004年)氏によると、
「さびとは、閑寂の中に、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる
美しさを表現する言葉」ということになる。
寂しく静かなものが一層静まるとともに、古くなったものがさらに枯れ、
あるいは凍(い)てついた景色の底に、かすかではあるが奥深いすがすがしさ、
豊かで広がりのある世界が現れてくる。
そうした表面的な華麗さとは相反する美が「さび」と呼ばれた。
「わび」と「さび」はいずれも「世間の俗事に煩わされないこと」
「執着せずあっさりしていること」を表す美意識として、
特に茶の湯を通じて重なり、通う合うことで相互に影響を与えるようになっていった。
そこには中世に盛んになった仏教、特に禅宗の精神性が多大なる影響を与えている。
「幽玄」
「わび」「さび」に対して、「幽玄」は漢語である。中国の仏教で
「深遠でたやすく理解できない仏の教え」を示す語として用いられている。
日本でも平安末期までこの意味を離れることはなかったが、室町時代には、
上品で「優美」な情緒、「妖艶(ようえん)」「花」などの意味が加味された
言葉として使われるようになっていった。
世阿弥の能楽論である「風姿花伝」の「花鏡(かきょう)」においても、
幽玄を「美しく柔和なる体」と規定している。
「わび」と「さび」と「幽玄」は互いに重なり合う部分も多いが、
それぞれが違う性質も持つ。とりわけ「わび・さび」と「幽玄」は
相当に乖離(かいり)している。「わび・さび」を閑寂枯淡の境地によって
得られる美意識とするならば、「幽玄」は背後に隠れた深い情趣を意味する点に
違いが認められる。
だが、それらが仏教、特に禅宗の説く「無」の境地と関係づけられ、
互いに重なり合うもの、通底するものとされていった様子がうかがえる。
現代人の多くは「わび・さび」は「茶道」の求道精神として、
千利休の時代から連綿として受け継がれてきたように思っている。
しかし、17世紀から現代に至る茶書をひもとくと、「わび・さびは一貫して
茶道が目指した根本理念ではなかった」と日本文化研究者の岩井茂樹(1969年〜)
氏は指摘する。
元禄期の茶書には「わび・さび」を語るものが多いが、江戸時代を通じてみると
少数でしかない。明治時代は「簡素・質素・質朴」、大正時代は「和敬清寂」
という言葉で茶道の根本理念が語られていた。茶の湯を国際的に知らしめた
岡倉天心の「茶の本」(1906年)においてさえ、その核心は「渋み」にあると
述べられている。
また、芭蕉の俳諧論の「さび」は江戸時代を通して
主流の美意識だったわけではない。
町人文化では「粋(すい)」や「いき」がもてはやされた。
能には「幽玄」の世界が展開されていると、よく言われる。
しかし、能を論じた江戸時代の文献に、「幽玄」をうたいあげたものはない。
そう言われるようになりだしたのは、20世紀以後である。
能楽の聖典とされる世阿弥の「風姿花伝」は大名家に秘せられ続け、
公刊されたのは1909(明治42)年。能の家元たちが「幽玄」を
語りだしたのは、戦後になってからである。
今日、3点セットの他に日本美を表す言葉として、「あわれ」「いき」などが想起される。「あわれ」は『源氏物語』の根幹をなす、王朝的な美意識として広く認識されてきたし、「いき」は九鬼周造の名著「いき」の構造などによって、
江戸町人文化のいなせな美学として市民権を得てきた。
さまざまな変遷を経て今日まで伝承されてきた「日本的なるもの」の美学を
後世に伝えるためにも、時代ごとの流行や趣味の移り変わりに分け入って、
こうした言葉と真摯(しんし)に向き合っていくべきであろう。
その変化を追ってみるのもなかなか面白いと思う。
如何だったでしょうか?
私もまだまだ修学の途上で「日本の美」に魅せられた者の一人です。
これからも追求して少しでも神髄に触れられることを望んでいます。
1月 24th,2025
恩学 |
日本の美について はコメントを受け付けていません
中国の古い言葉に「益者三友」と言う言葉があります。
友としてつきあって有益な三種の友人の事です。
正直・誠実・知識のある三種の友人を指しています。
一人の人にこの三種を求めるのではなく、
それぞれの特性を持った三人との交流が大切ですと説いています。
またブッダは善友を求めよという。
善友は遊び仲間ではない、
親身に語り合える友のことをいう。
あえて苦言を呈することのできる人、
善友一人で人生が変わる
それでなければ犀(サイ)のように黙々進め
サイは群れることなく単独で行動する
強い意志の表れである。
善友を求めることと、単独で行動することとは、
進むべき道(使命)に向かうためのものである。
強い意志が伴わなければ犀にはなれない。
太宰治の書いた「走れメロス」は真の友情を描いた作品です。
この作品は、人間の根底にある心理を巧みに描きながら、
信頼とは何かを問う物語です。
妹の結婚準備のためシラクスの市を訪れたメロスは、
人づてに聞いた国王による残虐な行いに激怒し、城へ乗り込みます。
王に歯向かった罪で、メロスは処刑されることになります。
メロスは処刑を受け入れるものの、妹の結婚式のため3日間の猶予が
ほしいと述べ、親友のセリヌンティウスを人質にすることを提案し、
認められます。そして無事に妹の結婚式を見届けたメロスは、
親友の待つ城へ向かって走りだします。肉体的疲労や自身との葛藤、
度重なる障害を乗り越えて約束を守ったメロスの姿に、王は改心します。
その他にも友を描いた作品は沢山あります。
それ程、真剣に生きていくには真の友の存在が大きいということです。
良友は求めて手に入るものではありません。
自分自身が正直に誠実に知識を持って生きていなければ
巡り合うこともありません。
私の友人令和哲学長岡美妃先生の言葉です。
彼女は北海道の医師です。
人間が唯一切望するもの、それは真の仲間。
お金でもなく権力でもなく安定安寧な暮らしでもなく、繋がっている仲間。
同じ夢を共有し、同じ方向を見て共に走れる同志。
しかし現実世界では疑い、ジェラシー、相対比較、生存本能によって、
真の仲間を得ることは難しい。それでも子供の頃は、喧嘩し仲直りし
共に泣き共に笑い、真の仲間を作ろうと足掻く。
でも大人になるにつれ、「合わせる」「演技する」という小手先の手段を学び
お互いをとことん知ろうとする足掻きはなくなる。
何十年も共に暮らしてきた夫婦が「あの人のことをよく知らないのです」
と漏らす言葉に、人間の孤独をみた。
人間は孤独だ。どんなに多くの仲間に囲まれていようと、
どんなに長年付き合っていようと、結局はお互いの何を知れるというのだろう。
自分の思い描く相手を見ているにすぎず、それは他者も同じで、
他者の思い描く自分を見られているにすぎない。
その人が何を喜び、何を悲しみ、何を希望して生きているのか分からずに、
生存本能を満たすための薄っぺらい関係性がひたすら続く。
『ONE PIECE』などの漫画が世界中で読まれるのは、そんな人間の孤独が
理想の仲間を求めている証拠のように感じる。
お互いの精神-意識-意図がハッキリと見え、お互いがそれを尊重しながら、
自らの夢の上に仲間の夢を載せて行く。
お互いがお互いを宇宙の王として君臨する存在として認め合う。
決して仲間は自分の夢の道具でもなく、孤独を埋める手段でもないのだ。
人間には悟りが必要だ。そうでなければ、人間は閉ざされた宇宙の中で
孤独に生まれ孤独に死んでいく儚い存在で一生を終える。
しかし悟りは、閉ざされた宇宙をオープンして人間を脳から解放する。
そこに広がるのは1本の境界線すらない無限の「一つ」の世界。
もう出会っていたという安堵の感覚。
その「一つ」から目の前の友を眺めた時、友の精神が友の意識が友の意図が
明々白々に観えてくる。孤独の旅を繰り返し傷だらけの魂。
私はそれに向かって「終わらせよう。そして始めよう。真の人間としての生を。」
と語りかけたくなるのだ。
真の仲間と共に狂喜乱舞して生きる!それが人間なのだ!人間をなめるな!
自分をなめるな!
生きている間に出会う人の数は
およそ3万人。
その中で仲良くなる人は
300人くらい。
もし生まれ変わっても
世界中の全ての人に会うには
23万回生まれ変わらないといけない。
1秒に1人会ったとしても
200年以上かかる。
人との出会いって
奇跡だと思いませんか?
軽い気持ちで人と付き合うと軽い人間に出会う
真剣の気持ちで人と付き合うと絆が生まれる
人を疑うといつか自分も疑われることになる。
相手を信じて付き合うと尊敬される、大切される
相手されるうちは『ハナよ!』と言う言葉があります。
人間はいつか年を取り友達も少なくなります。
まず会話してくれる人間を大切に
出会いをどうするかは自分次第である。まず相手も自分も大切に・・・
誰にでも「知己朋友」はいると思います。
大切にしてください。
1月 23rd,2025
恩学 |
真の仲間とは はコメントを受け付けていません
先日他界した松岡正剛氏が著作した「連塾方法日本」に書かれている
正号負号は極と極・いずれ劣らぬ肯定だ
引き算と侘び寂び(夢窓・心敬から天心・九鬼へ?)
日本の美に興味ある方は是非とも読んでほしい。
参考文献松岡正剛「連塾―方法日本―Ⅱ」を推薦します。
日本には二つの対比するものを並立させるということが大変多いです。
たとえば「天皇と将軍」や「公家と武家」がずっと並立していた。
「漢字と仮名」があって、更にカタカナまで使われている。
そのごアルファベットも自在に混ぜて使っている。「にほんとニッポン」
自国の呼び方をふたつ持っている国は日本だけである。
日本はそのようなとき、対比軸のどちらかを排除するといったことは
あまりしてこなかった。むしろ両方を生かしていく。
西洋の二項分立のように「正義か悪か」「権力か無抵抗か」「自由か束縛か」
どちらかに偏った考えを決めることはしないのが日本なのです。
日本の美を考える時に「華美か質素か」それを「侘び・寂び」と対比して
選ばないのが日本の美の在り方だと思っています。
日本ならではの美意識を語るとき、「侘び寂び」と同じように、
「間」と「余白」という言葉も欠かせないものだ。
「間」は、主に演劇や音楽、対人関係の中で意識されるもので、
「余白」は美術やデザインなどの平面的なものにおいて、
頻繁に用いられてきた言葉である。
何もないことは豊饒
「間」や「余白」という意識には、仏教の「無」や「空」という概念との
繋がりが感じられる。キリスト教では、「無」とは「有」の対義語で、
何も無いことを意味するが、仏教では、何もないことは豊饒であり、
実は多くのものが含まれていると考えることがある。
これは、「間」や「余白」というものに、
何らかの意味を見出すことにも通じている。
例えば、花を生けるという行為は、西洋文化では花そのものをいかに
美しく表現するかに重きが置かれるが、日本の生け花では、
一輪の花であっても、その空間に溶け込んでいれば美しいと
感じることができる。
前章で述べた侘び寂びの「不完全であることの美」にも
通じるが、何か足りない部分があってこそ、美しさが際立つというのは、
日本や東洋ならではの独特な捉え方でもあるのだ。
引き算の美学
「間」という言葉を聞くと、日本では建築における「客間」や「床の間」
という言葉を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。元来、日本の建築では、
それぞれの空間が明確に区切られた「部屋」というものは存在せず、柱と柱で
囲まれた空間を「間」として認識してきた。この曖昧な空間に何らかの意味を求める
感覚が、日本人の美意識に大きく影響してきたのではないかと考えられる。
参考文献谷崎潤一郎「陰影礼賛」を推薦する。
「余白」という言葉は、そうした「間」の感覚を背景にして、
日本美術とともに発展してきた。日本の国宝である長谷川等伯の
《松林図屏風》や尾形光琳の《燕子花図》は、大胆な余白が用いられている。
また、酒井田柿右衛門の磁器は、余白を活かした花鳥図の絵付け表現で
国際的にも有名であり、これらは、「引き算の美学」とも言え、
余白を美しく感じるために、草花などが描かれているのではないかと思えるほどだ。
世界に広がる「間」と「余白」
現代において、「間」と「余白」という感覚は、独特な日本の美意識の一つとして、
海外でも認識されるようになってきた。海外では「MUJI」として知られる
無印良品は、余白を活かしたデザインで海外の人を魅了しており、
ユニクロのショップも内装や陳列方法などに、同じような美意識が埋め込まれ、
多くを語らずとも日本らしい空間だと感じることができる。
一般的には、こうした余白の多い日本のデザインは、物足りないと感じる
外国人が多いものだが、枯山水庭園が外国人から観光先として人気を
集めているように、その独特の美しさに魅力を感じる外国人も増えてきた。
英語では、「間」や「余白」と近い美意識として、「Simplicity」という言葉がある。
スティーブ・ジョブズがアップルの製品で、「Simplicity」を体現して以降、
世界のデザイントレンドの一つともなっている。ただし、
余計なものを削ぎ落とし、シンプルさを極めることと、
余白そのものに意味を見出すこととは似て非なるものだ。
間や余白というものは、「無」そのものに意識を傾けることであり、
また、有るもの同士の境界線を曖昧にするということでもある。
そのぼんやりとした表現こそが、日本的な美意識なのだろう。
参考文献乙川弘文「宿無し弘文」を推薦します。
工芸品は、日常の道具であり、日々の暮らしにおける佇まいも魅力の一つだ。
一つ一つをどのように置いて使うか、どのように収納するかは、とても大切な
作業であり、まさに、「間」というものをどの程度設けるかを考えていると、
間そのものが美しくなくてはならないと思うようになる。
置き方だけでなく、工芸品そのものが、人の手によって生み出されるものであるため、
完璧すぎることのない「余白」が存在する。複数の工芸品の組み合わせによって、
その余白を埋めたり、活かしたりすることも、楽しみの一つであろう。
そのゆとりこそが、現代に求められている感性なのかもしれない。
音楽を作る際に作曲家のイメージ通りに編曲者が譜面に起こしバンドや
オーケストラを入れてカラオケを作る。その際に大切なことは歌い手のテンポ
歌詞を乗せた状態でのリズム感、全体を通してのグルーブ感を考えます。
全てを取り終えた状態でミックスダウンを行います。
ミックスダウンとは楽曲全体のそれぞれの配置を整理することです。
私はプロデューサーとしていつも「間と余白」を念頭に置いていました。
たとえ高額な演奏料を支払っても不要だと思う音はどんどん切り捨てました。
ボーカルを邪魔する音域の音は排除していったのです。
一番大切にしていたのは聞き手の呼吸感です。
見えないオーディエンスの立場になって、声質と歌詞とメロディーとテンポの
一番心地よい「間と余白」を取り入れていました。
それに伴うジャケットデザインもきれいな写真よりも、メッセージが含まれる
時代の先をいくデザインを重視しました。その時代に洋書屋さんしか扱わない
「VOGUE」「L’UOMO」なども毎月購入して読んでいました。
テーマは「和魂洋才」の音の美の追求です。
勿論、ロックやポップスに美はあるのかと言う反論する方もいると思います。
私の持論はどのような商品でも機能性ばかり追求するのではなく
美が含まれていない商品は流行しないということです。
独りよがりかもしれませんがこれからも美を追求していくつもりです。
生きている限り美を追求します。
1月 21st,2025
恩学 |
間と余白 はコメントを受け付けていません
ココロ(脳)には、自覚できる顕在意識と自覚できない潜在意識があります。
驚くことに私たちが意識できるのは脳全体のたったの5%。つまり95%は
潜在意識で、毎日8万もの情報を無意識に考えているそうです。また、
潜在意識は“根本識”とも呼ばれ、ココロの根底をなしています。
潜在意識には、0歳から五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を通じて
体感したこと、過去の経験がすべて蓄えられており、情報を習得し処理する
力と、習慣化する働きがあります。
その潜在意識の基礎は、6歳頃までに思考パターン、感情パターン、
行動パターンが形成されると言われており、ここでの環境や経験であなたが
何を信じるか、いわゆる「信念」も形作られるとされています。
もしも基礎を形成する過程で自分に対する否定的なメッセージや、
自分ではない人からあなたを縛るイメージを押し付けられると、それも
ココロに残ります。
例えば今あなたが行動を起こそうとするとき
「〜してはいけない」や「〜しなければならない」「〜するべき」などの制限を
する考えが起こることが頻繁にあるようなら、それは過去に記録された
思考による思いグセのひとつなのです。
ありのままでいいと思えない自己否定感もしかり。
また、傷ついたココロを癒せないでいると「わたしなんて…」「わたしばかりが…」
とネガティブな思いグセがつきやすくなります。
でもそれは真実ではないはずです。人と比べるなどして自分を否定する
必要はないし、それぞれの個性が輝くから美しく、面白いのです。
それに気づけたのなら、今ここからありのままの自分を受け入れることを
選んで良いのです。
昔、在籍していたソニーの情報です。
「あなたの能力を最大限に発揮「潜在意識コントロール法」
私は、ソニー(株)で潜在意識の研究をしていました。
それはソニー(株)
創立者の井深大氏の、「20世紀は、物質的豊かさが重要な時代だった。
21世紀は心の豊かさが重要な時代となる。心の研究をせよ。」との
提言と共に、自らが所長となってソニー(株)生命情報研究所を設立したからです。
そして、私がリーダーとなり生命情報研究所での、心=潜在意識の科学的な
研究を始めました。この研究成果を活かし、私はこれまでの28年の間に
1万人以上の人の潜在意識に関するサポートをしてきました。
その中で、多くの経営者や起業家が「潜在意識」をコントロールし、
売り上げを右肩上がりに上げる等の大きな成果を出しています。
潜在意識を
コントロールしていくと、以下のような効果が得られるようになります。
1,潜在意識内の
性格のデータを探り変化させ、
ビジネスを思い通りに進められる。
2,潜在意識の奥底から、
ビジネスの発展のための良い
アイデアを得ることができる。
3,潜在意識を通じて、
思い通りの優良顧客や優秀な社員を
引き寄せることができる。
4,顧客や社員の心をつかみ、
信頼関係を深め、ビジネスを
発展させていくことができる。
顕在意識(表面意識)とは、自分が自覚、認識することができる意識のことをいいます。
日常の中で自覚することができる意識のことで、理性や論理的に考えること、
行動の判断など頭で考えている部分のことです。
例えば、「今日は家でゆっくりしよう」「仕事で成果を出したい」
「カフェで勉強しよう」このような思考は顕在意識で考えていることです。
顕在意識をコントロールすることができれば、自身の意思決定や、
感情のコントロールをすることも可能になります。
潜在意識(無意識)とは、普段は意識できない心の領域のことです。
感情や直感、本能的な欲求などは潜在意識に含まれます。
また潜在意識は、過去の記憶や感情を蓄積する「記憶の貯蔵庫」とも呼ばれています。
様々な経験を通して、見たことや聞いたこと、感じたことなどが気づかぬうちに、
潜在意識に蓄積されているのです。
私たちの意識には、顕在意識と潜在意識の2つの領域があると言われています。
顕在意識は、自覚できる意識の領域で、
潜在意識とは自覚できない意識の領域のことです。
また他にも、これら2つは意思決定の場面に注目したときに、
及ぼす影響に違いがあります。
例えば、重要な会議の場で発言をしようとした際に、「発言をする」か、
「発言をしない」かを、最終的に決めるのは、顕在意識です。
その中で、意思決定の要因になるのが、過去の体験や経験を蓄積した潜在意識です。
人生の中で、
過去に間違った発言をして恥ずかしい思いをした
過去に間違った発言をして恥ずかしい思いをした
自分の意見を否定された
意見を主張して周囲から嫌われてしまった
このようなインパクトのある嫌な経験をされている方は、意見を言うことに
対して、「失敗をして恥をかくことが怖い」「もう同じ嫌な経験をしたくない」
と無意識に抵抗を感じ、発言を控えるかもしれません。
一方で、過去に意見を言って、褒められたり、認められたりした
経験が多くある人は、会議の場で意見を主張することができるでしょう。
このように、人生の中でどのような経験をしたかによって、
潜在意識に蓄積される感情や思考が変わり、行動が大きく左右されるのです。
なぜ、このような意思決定の場面で、過去の体験や経験が影響しているかと言うと、
心の領域の3%〜10%前後が顕在意識、90〜97%前後が、
潜在意識が占めているからだと言われています。
このように、どれだけ顕在意識で、自分を変えようとしたり、
行動を起こそうとしても、なかなかうまくいかないのは、過去に体験した
感情や経験が蓄積されている領域である、潜在意識が気づかぬうちに
大きな影響を与えているからです。
また、過去にトラウマのような衝撃的な経験をしていると、
心の傷を癒やさない限り、人生や仕事の場面で意思決定をする際に、
あなたも気づいていないところでマイナスな影響を与え続けるのです。
つまり、顕在意識と潜在意識の違いは、このような意思決定の場面での
影響や、自覚できるか、そうでないかといった点があります。
以上のことから、顕在意識を変えると同時に、
潜在意識も変えていく必要があるのです。
如何でしょうか?
顕在意識と潜在意識の違いと必要性がお分かりになりましたでしょうか?
意思決定と議論の場では使い分けが出来ると便利ですよね。
1月 19th,2025
恩学 |
潜在意識 はコメントを受け付けていません
この言葉は成功者の言葉だから取り上げられたのだろう。
もし名もなき人の言葉なら誰が関心を寄せたのだろうか?
この言葉も第三者へどれほどの影響力を与えたのか分からない。
どれほどの成功でも死んでしまえば歌舞伎座へ誘うことも、
能楽堂へ誘うことも、茶懐石に誘うことも出来ない。
心が楽しめなければ生きている意味が無い。
病気や怪我で寝たきりになると次は認知症になり何もかも忘れてしまう。
しかし医者に言わせると周りが思うほど本人は苦しんでいないという、
それは自分の名前も、家族も、思い出も、忘れてしまうので苦しまない。
普通の生活の営みが出来なくなって苦しんでいないといえるのだろうか?
いささか疑問が残る発言である。
高齢医療の末期は家族同士で延命治療を受けさせるかで話し合いになり、
心電図に波形が消えないうちに死亡を認めるには忍びないと言う。
患者は食事の管や尿や便の管まで取り付けられて痛々しい姿をさらけ出す。
それでも生きているという事がいえるのだろうか。
ようやく運命によって死を迎え安らかな顔を見て家族は死を実感する。
長年連れ添った相手なら言葉にならないほど焦燥感が襲ってくる。
もっと食べたいものを、行きたいところへ、本人のしたいように
してあげれば良かったと後悔の念も頭をよぎる。
しかし、家族は亡くなれば直ぐに葬儀の手続きに頭がいって
お通夜に来た人ほど悲しみに浸れないのが常です。
死んでいく人はどのような思いで死んでいくのだろうか?
伝えたい言葉も沢山ありながら悔しい思いをしているに違いない。
スティーブ・ジョブズが残した最後の言葉
他の人の目には、私の人生は
成功の典型的な縮図に見えるだろう。
しかし、仕事を除くと
喜びの少ない人生だった。
人生の終わりには、富など
私が積み上げてきた
人生の単なる事実でしかない。
病気でベッドに寝ていると
人生が走馬灯のように思い出される。
私がずっとプライドを持っていたこと
認められることや富は
迫る死を目の前にして
色褪せていき
何も意味をなさなくなっている。
この暗闇の中で生命維持装置の
グリーンのライトが点滅するのを見つめ
機械的な音が耳に聞こえてくる。
神の息を感じる。
死がだんだんと近づいている。
今やっと理解したことがある。
人生において十分にやっていけるだけの
富を築き上げた後は
富とは関係のない
他のことを追い求めた方が良い。
もっと大切な何か他のこと。
それは、人間関係や、芸術や
または若い頃からの夢かもしれない。
終わりを知らない富の追求は
人を歪ませてしまう。
私のようにね。
神は、誰もの心の中に
富によってもたらされた幻想ではなく
愛を感じさせるための「感覚」
というものを与えてくださった。
私が勝ち得た富は
死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。
私が持っていける物は
愛情に溢れた思い出だけだ。
これこそが本当の豊かさであり
あなたとずっと一緒にいてくれるもの
あなたに力を与えてくれるもの
あなたの道を照らしてくれるものだ。
愛とは何千マイルも超えて旅をする。
人生には限界はない。
行きたいところに行きなさい。
望むところまで高峰を登りなさい。
全てはあなたの心の中にある
全てはあなたの手の中にあるのだから。
世の中で、一番犠牲を払うことになる
物質的な物はなくなってもまた見つけられる。
しかし一つだけ無くなってしまっては
再度見つけられない物がある。
人生だよ。命だよ。
手術室に入る時、その病人は
まだ読み終えていない本が1冊あったことに気付くんだ。
「健康な生活を送る本」
あなたの人生が
どのようなステージにあったとしても
誰もが、いつか人生の幕を閉じる日がやってくる。
家族を大切にしてください。
あなたに寄り添ったパートナーを大切に!
長年付き合ってくれた友人を大切にしてください。
そして自分を丁寧に扱ってあげてください。
あらゆる人を大切にしてください。
最後の言葉は笑顔で伝えてください。
1月 16th,2025
恩学 |
最後の言葉 はコメントを受け付けていません