夢なんて持たなくていい




夢に向かって夢中になれ!
夢の解字は夕暮れ時に目を細めて遠くを見る。
はっきりと見えない様を表している。
焦点がぼやけている状態である。
ハッキリと見えずに手に入れられないものなら追いかける必要はない。
それなら夢ではなくタスクを持て毎日何をやるか「課題」を持つ事が重要です。

与えられた仕事に優劣をつけずに完璧にこなしていく。
今ある仕事に感謝して丁寧にこなしていく。
例えそれが便所掃除でも同じである。
便所掃除を嫌がり恥ずかしいと思った時点でチャンスが逃げていく。
辛い孤独な作業ほど他人は見ているものだ。

ある時に給料が少ないと上司に言ったら「仕事がつらいか?仕事がつらいから
給料が頂けるのだ。もしお前が仕事を楽しいと思ったら会社に給料を払うのだ」
と言われた。その言葉が妙に腑に落ちてそれ以来ベースアップを望んだことは
一度もない。給料なんてベースカーゴ(作業量)でそれ以上のものではない。
(ベースカーゴとは1回の航海において、その船舶輸送収入の中心あるいは
基礎となる貨物)

豊臣秀吉が信長の草履取りをしていたとき、どういう働きぶりをしていたか。  
よく知られている通り、どんなにつまらない仕事でも全気全念を集中して、
手を抜かずにやり遂げたからこそ大抜擢されたのだ。われわれ凡人は、
たとえば箒の使い方など、取るに足りないことは「いい加減にやっつけろ」
ということになりがちだ。ところが、取るに足らないと思われることさえ
できなくなって、どうして大きな仕事ができようか。これも積もり積もって
何のみのりもない一生が終わってしまうのである。
 
そのつまらぬことに対して、全気全念をもって立ち向かう健全純善なきの
習慣は、やがて確たる偉業を打ち立てることにつながるのである。
儒教でいう《敬》というのが、すなわち全気全念で事に従うことであり、
そして道教でいうところの《錬気(呼吸をととのえ心気を練る)》の
第一歩が全気全念を保持することなのである。
 
この造作もない日常のつまらぬことが、ちゃんとできるまでには
多少の修業が必要だ。しかし一度身につけたら、水泳と同じことで
水に入れば自然に体が浮かぶように、容易にできるようになるのだ。
机の前に座るだけが修行ではない。
日常一日中、何事をなすにも気を集中させるのだ。

暗闇の中で脱いだ下駄は暗闇の中でも履くことができる。
しかし全気を入れて脱がなかった下駄は明かりをつけても、
すぐにうまくは履けないものだ。 
 
何事においても、全気で取り組んだとき、どんな具合に進行展開して、
そしてどのような結果になったか見届けることだ。そうすることによって、
刹那・刹那、秒・秒、分・分、時々刻々に当面することと、
全気で対応することができるようになる。こうなるとしめたもの、
いつの間にか《散る気》の習癖は消え失せてしまっているであろう。

今の時代はタスクをどう見つけてどう解決していくのか、
更にそのタスクを磨き次のタスクの解決方法として残していくかが重要である。
指示された仕事を無難にこなすのではなく、指示された仕事の分析をして
いち早く処理する方法を考える。デジタルに囲まれた環境の中で悩みなく
仕事をこなすということは人間性を失うことを意味する。

人間とはどんな些細なことにも全気全念で取り組む事が出来る。
無駄だと思うことを真剣に取り組むのが人間である。
杓子定規に論理的に解決の糸口を見つけようとしている人は
遊び心がなくてはならない。
このような人にはロダンの「言葉妙」を勧める。

ジュディト・クラデル筆録
奇妙な事には正確な科学に全然属しているとわれわれに見える事物までが
同じ法規に置かれています。私の友だちの造船家が私に話したには、
大甲鉄艦を建造するには、ただそのあらゆる部分を数学的に構造し
組み合わせるだけではだめで、正しい度合いにおいて数字を乱し得る
趣味の人によって加減されなければ、船がそれ程よく走らず、機械がうまく
ゆかないという事です。
してみれば決定された法規というものは存在しない。
「趣味」が至上の法規です。宇宙羅針盤です。

しかしながら、芸術にある絶対の理法もあるべきです。
自然の中にそれがありまたそれは世界の護衛者ですから・・・

人間とはどんな些細なことにも全気全念で取り組む事が出来る。
無駄だと思うことを真剣に取り組むのが人間である。
杓子定規に論理的に解決の糸口を見つけようとしている人は
「遊び心」がなくてはならない。

論理的に物事を考えると答えの結論は想定できます。
しかし、どんなことにも遊びが無くては事故に繋がります。
車のハンドルは適当に「あそび」を持たせるのはその為です。
特に我々日本人は真面目過ぎて理論通りに進まないと反発が起こります。
職人や技術者なら正確な計測によるものづくりも大切かと思います。
そこにあそびを持たせるのは全てにおいてトップリーダーの役目です。

リフレーミングとういうマーケティングの手法があります。
一つの商品をあらゆる角度から見て消費者の気持ちになって作り変えることです。
老若男女、病気の人、健常者の人、外国の人の気持ちになり創造力を高めます。
形を変えたり、色を変えたり、素材を変えることで爆発的に売れることがあります。

これは人にも応用が出来ます「ジョハリの窓」というゲームです。
自分が考える自分、他人が考える自分、自分が知らない自分、可能性を見つける自分
などをゲームとして行うのです。これを心理学の教材として使うのは反対です。
いたずらにからかわれたりいじめの原因にもなるからです。

夢なんて持たなくていいは現実主義者に成れと言っているのではなく、
若い人たちが将来を考える時に2~3年で変わるデジタル社会において
必要なのは夢では無くてタスクを考えた方が良いとの発言です。


人間の一生




人間の一生とは「生老病死」の移り変わりです。
「生」とは生まれる先を選べず神に委ねるしかありません。
できるなら幸福な家庭に生まれてきたいと思います。
しかし不幸な家庭に生まれたとしても偉大な学者や成功者は大勢います。

福岡伸一先生提唱のエントロピーの法則では、
なぜ、私たちの体は絶え間なく合成と分解を繰り返さなければ
ならないのでしょうか。シェーンハイマーはその答えを出していません。
その後、「どうして生物が秩序を守り続けていられるか」について考察を
巡らせた物理学者のアーウイン・シュレディンガーも、そこには重要な
秘密があると感じていましたが、それを明確な言葉にはできませんでした。

現在の私たちも明確な言葉をもっていません。ただ、次のようには言えます。
生命現象は、例えば人間なら60~80年は生命の秩序を固体として維持することが
できます。それに対して、宇宙の大原則「エントロピー増大の法則(熱力学第二法則)」
があります。エントロピーは「乱雑さ」という意味です。

その中で、生命現象は何十年も秩序を維持し続けています。
これは法則の例外でしょうか? いいえ違います。生命現象は、
非常に特殊な方法で「エントロピー増大の法則」と必死で闘っているのです。

ある秩序を維持しようとする場合どうしたらいいか。
工学的な発想に立てば、頑丈にすればいいわけです。
高層マンションは「エントロピー増大の法則」から免れるため、
強力なパイルを地中深く打ち、風雪や風化から守るために腐食しない
セラミックタイルで覆います。しかし、どんな建物も20年ほどすれば、
大規模な修繕を行わないと立ち行かなくなります。

ところが生命は、もちろん徐々に老化はしますが、メンテナンスフリーで長期間
生き長らえます。それは生命が「頑丈につくる」という選択を諦めたからです。
生命現象は最初から「ゆるゆる、やわやわ」につくり、あえて自らを壊し続ける
ことを選択したのです。

全てが生まれ変わると新しい細胞が生まれて古い細胞は排出されるのです。
生まれた時から死に向かって生きていることこそ人生の醍醐味です。

「老い」とは一年一年歳をとります。20代をピークに老いることになります。
20代に社会へ出て仕事を覚えます。30代には会社で地位につき家庭を
持つことになります。40代になると大勢の部下を持ち指導者の立場になります。
50代になると社会へ貢献しなければならないと考えるようになります。
60代になるといよいよ老いを感じて慎重になります。
70代は肉体的には衰えが来ても精神的には円熟みを増して
人生を楽しむことが出来ます。

「病」とは長いようで短い人生の中で一番怖いものです。
今はいつ起こるかわからない不慮の事故も怖いですね。
病気は生まれつきのものと生活習慣から起こるものと二つあります。
生まれつきは致し方ないのですが、それ以外の病気には医療が発達して
長寿が当たり前になり、今や人生100年時代になりました。
私たちは肉体の病気も怖いのですが精神的な病気はもっと怖いです。
アルツハイマーや認知症などになり過去の記憶が失われるのは耐えられません。

「死」とは人生最後の場面ですが、これはもういつになるか
運命に任せるしかありません。
どんなに大成功しても死だけは避ける事が出来ないのです。
多くの偉人たちは異口同音に死と健康を結び合わせて辞世の句としています。
アップル社の創業者であるスティーブ・ジョブスも
最後に「もっと健康について学んでおけばよかった」と言葉を残しています。

脳科学者中野信子さんの対談の時の言葉をご紹介します。

人間の一生というのは、気づいたら高速道路を走らされている、
そんな状況に似ていると思う。ときどきおそろしくハイスペックな車に
煽られたり、ルールがわからないために馬鹿にされたりして、
もう走りたくないと思っても高速から降りることは絶対に許されず、
出口もわからず、どこまで走るんだろうと思いながらハンドルを握っている。

見よう見まねで交通ルールを覚えるんだけど、それも走っていくうちに
変わってしまったりする。出口を降りるときは、人生が終わるときでも
あります。でも私は、仮に自分が望んだわけではないにせよ、
せっかく走っているのだから、つまりどういうわけだかせっかく生というものを
与えられたのだから、その利益は最大化したいんですよ。
私はすごくケチな人間なので(笑)、
その生の価値を最大化する工夫はしたいと思っているんです。

自己責任という言い方に、なにかネガティブな結果に対してはペナルティを
負わないといけないといったようなニュアンスが含まれるとしたら、
それはちょっと違うかもしれない。後悔したっていいと思うんですよ。
失敗というのは、してはいけないものだからこそ、
それを失敗と言うわけですが、その定義も自分で決めて良いし、
実はとてもフレキシブルなものなんですよね。

例えば、私がなにか失態をおかして仕事を失ったとしたら、周囲からは
失敗だと見られるんでしょうけど、自分はもともと裕福な育ちではないから、
貧乏になったらなったでその生活を楽しむだけだし、
そんなに怖がることではないと思っているんです。

人間の一生と言えばモーパッサンの「女の一生」を思い浮かべる人も多いと思います。
1883年に発表したされた、ギ・ド・モーパッサンの長編『 女の一生』を紹介します。
モーパッサン(1850年〜1893年)は、ノルマンディーで生まれ、
パリで活躍した自然主義の作家です。短編小説が有名ですが、6つの長編小説を
残していて、日本では島崎藤村などが影響を受けたと言われています。
今回紹介する『女の一生』は、ロシアの文豪レフ・トルストイが、
「モーパッサンの著作の中で最高の小説というだけでなく、ユゴーの『レ・ミゼラブル』以降で最高のフランス小説」と絶賛した作品でもあります。
 
この物語の主人公ジャンヌは、12歳から修道院に入り、浮世のことを知らずに育ちました。17歳になり、恋や結婚に憧れを抱いて修道院を出ると、両親の所有している
海辺の街レ・プープルの家に住み始めます。そして間もなくミサで出会った子爵の
ジュリヤンに求婚され、結婚します。憧れの生活に入ったのもつかの間、
ジュリヤンの不倫や身近な人々の死によって、ジャンヌは徐々に人間への嫌悪を増し、
絶望していきます。苦難の人生をたどったジャンヌに、どのような結末が
待ち構えているのか、是非最後まで読んでほしい作品です。

この本を読むと「人の一生」とは中野信子さんが行っている言葉と重なります。
人間の一生というのは、気づいたら高速道路を走らされている、
そんな状況に似ていると思う。ときどきおそろしくハイスペックな車に
煽られたり、ルールがわからないために馬鹿にされたりして、
もう走りたくないと思っても高速から降りることは絶対に許されず、
出口もわからず、どこまで走るんだろうと思いながらハンドルを握っている。

自分で作り出していると勘違いしている人の一生は、運命に抗うことのできない
決められた道路を走り続けているのと同じである。
私も好き放題に自分勝手に生きていたと思っていたのは決められた道路上を
必死に走り過ごしてきただけである。
「生老病死」私に残されているのは最終章の病と死です。

少しは人の役に立ち潔く最期を迎えたいものです。
惜しまれて散りゆく桜に未練なし「恩から始まり恩で終わる」


死について




「老人と孫」の対話集会で最初の質問が「死ぬのは怖くないですか」でした。
私は未練のある人は怖いと思いますが、悔いのない人生を送った人には
怖さは起こらないと伝えました。
60歳までは積み重ねる人生で、60歳を過ぎてからは減らす人生だと思います。
それでは何を減らすのか?
そんな時に横田南陵老師のこんな言葉に触れました。

死というのは捨てていく営みだというのです。
はじめに趣味を捨て、金に対する執着を捨て、異性に対する関心も捨て、
家族との関わりも捨ててゆくというのです。
みな手放してゆくのだというのです。

最後に残るのは自然とのふれあいだと説かれていました。
窓を開けて心地よい風に吹かれたいとか、星を見たいと思うのだそうです。
ともあれ死はこの世のすべてを手放してゆくのです。
そこで幸せな最期を迎えようと思うなら、普段から手放すこと、
出すことを訓練しておくことだと仰っていました。
何かを得ることばかり考えるのではなく、与える生き方をするというのです。

特別な寄付をするというようなことだけでなく、日常の暮らしでも
笑顔を与えるというのもそうなのです。
なにか手伝ってあげるというのもそうです。
このように出すこと、手放すことに慣れていると、最期ににっこり微笑んで
迎えることができるというお話でした。
これはなるほどと深く受け入れることの出来るお話でした。

またこのような話もあります。
「お食いじめ」とはあまり聞き慣れないことばです。
お食い初めに対する造語だそうです。
お食い初めは、はじめて子供にご飯を食べさせる祝い事です。
お食い初めがあるのだから、お食いじめもあるだろうというのです。
人生の最期に何を食べたいのかということを考えるのです。
この最期の食事を支援するというのです。

まわりの家族などは、あなたのために食べさせたいと思い、
ご本人もまた大事な家族のために食べたいと思うのです。
60代の重い病の方の実例が紹介されていました。
最期にウナギを食べたいというのです。
家族は好きだったお酒も飲ませたいということでした。
奥様と娘さんと一緒にうなぎ重とお吸い物、
それにお酒で最期の食事会をなさったのでした。
奥様は新婚の頃からの思い出話をして、娘さんも幼かった頃の
思い出を語ります。

そろそろ食べようかと、お酒を一口さしあげ、ウナギも一口を
四回かけて飲み込み、もう一口を三回かけて飲み込まれて、
最後に有り難うと言われると拍手が沸き起こったという話でした。
ウナギをもって家族と写った写真は素敵な笑顔でした。
実に幸せな最期だったと感じました。

とても素敵な話だと思いますが、私は以前友人の神主さんに
言われた言葉を思い出しました。
あなたは死ぬ間際に何が食べたいですか?
同席していた友人たちは思い思いに「カレーライス、母親の手料理、オムライス」
などを言い、私も「家内の作るビーフシチュー」が食べたいと伝えました。

そして最後に神主さんが「死ぬ間際にまだ食べ物に未練がありますか?」
と言われたのです。どうせ明日死ぬのだったらこの食べ物を生きていく人に
譲るという気持ちが大切です。周りの人の気遣いを無下にするのは失礼だから
と言って無理やりに食べる必要は無いというのです。
この言葉を聞いてとても恥ずかしい気持ちになったことは確かです。

幸せな最期をどう迎えるのか、生前に考えておくことは大事であります。
しかし、人生はどうなるか分かりません。
いくら考えていても思い通りになるかどうかは分からないのです。
そこでやはりどのような死を迎えてもいいように死生観を持って
おくことの大切さをお聞きしました。

また井上義衍老師(曹洞宗師家)と横尾忠則さんの対談の話が紹介されました。
横尾さんが「老師には死の恐怖はありませんか」と問うと、井上老師は、
「死なんて、小便するのと同じことですわ、ただそうだったというだけ」
とお答えになったのでした。

死についてあれこれ考えていた私は、この言葉に衝撃を受けました。
実際はそのように、死というのはひとつの現象に過ぎないと言えるのでしょう。
ただそのように受け止められないので、あれこれと悩むのです。

山本玄峰老師は、お亡くなりになる前に葡萄酒をおいしそうに飲んで、
十分ほどのちに「旅に出る、きものを用意しろ」と言われて
亡くなられたそうです。

それから「生は寄なり、死は帰なり」という『淮南子』の言葉を紹介しました。
「人は天地の本源から生まれて暫くこの仮の世に身を寄せるに過ぎないが、
死はこの仮の世を去ってもとの本源に帰ることである」という意味です。

朝比奈宗源老師は、この「天地の本源」を「仏心」と説かれました。
「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る」のです。
そのことをしっかり受け止めておきさえすれば、柳宗悦さんが、
「吉野山ころびても亦花の中」と詠われたように、どこでどのような
死に方を迎えても、それは万朶の花咲くただ中なのだとお話したのでした。

最後には桜井先生が漢方医の立場からお話くださいました。
桜井先生は、幼少の頃から死について考え、西洋医学の外科医になり、
更に法医学も学ばれました。
法医学者として多くの悲惨な死もご覧になってきたそうなのです。
そしてひとつの確信を持たれたのでした。

見た目ではどんな悲惨な死を迎えたようでも、どんな状況であっても
死の祝福があるというのです。
どこでどういう状況で亡くなっても祝福されていると確信されたと
話をしてくださいました。
これは私の拙い話を裏付けてくれるもので有り難く思いました。

このように出すこと、手放すことに慣れていると、
最期ににっこり微笑んで迎えることができるというお話でした。
これはなるほどと深く受け入れることの出来るお話でした。
いろいろと学べて実りの多いほろ酔い勉強会でありました。
臨済宗大本山 円覚寺横山南陵老師

文章の途中で私の思いも書き添えましたが死は使い切ることでは無く
生の残りを分け与えることも大切だと思います。
皆様も機会があればご家族と死について話し合うことも必要ですね。
今回のタイトルは高齢者の方々の目に触れることを祈ります。
若い方でもご両親に紹介して頂くことになれば幸いです。


人間万事塞翁が馬




私は子供の頃から一筋の幸福の光を信じて生きてきました。
いつかはこの不幸から脱却して幸福になれると信じていました。
だからどんな困難にも対応できたのです。
登る山があれば下る山もある両方あるから楽しいのです。
小学校の高学年になりこの幸福感を信じて貫いて来たのです。

また幼き頃に聞いた言葉は忘れないものです。
お寺の住職から言われた言葉「真珠はな!石ころや貝殻を飲み込んで
痛いのを我慢するからあんなに素敵な玉になるのだよ。
お前も苦しみや哀しみをいっぱい飲み込んで素敵な大人になれ。」
いじめられた時にも「ありがとう」を言えばいいのさ。
そうすれば、相手はいじめるのを諦めてしまうからね。

苦しみはいっときのものです。苦しみを全部受け止めるのではなく
跳ね返すことが必要です。神様は心の弱い人へ大きな石を持たせます。
そこで騒いだり泣き喚いたりするともっと大きな石を持たせます。
この困難を与えてくれて「ありがとう」と言えば突然重い石が軽くなるのです。
人間に与えられる姿・形は一緒ですが心はそれぞれ違うのです。
辛い時には言葉一つで人生が変わることを覚えておいてください。

中国の古い諺です。
「人間万事塞翁が馬」は、「にんげんばんじさいおうがうま」と読みます。
「人間」を「じんかん」と読むこともありますが「にんげん」と読むのが一般的。
短く「塞翁が馬」ともいいます。

「人間万事塞翁が馬」にはどのような由来があるのでしょうか?
まず各言葉にはこのような意味があり、由来となったエピソードがあります。
・人間… 「世間」「世の中」
・万事… 「あらゆること」「すべてのこと」
・塞翁… 「塞(とりで)に住む老人」・馬… 「老人が飼っている馬」

「人間万事塞翁が馬」の由来となったエピソード
中国、前漢の学者である劉安(りゅうあん)編の思想書「淮南子(えなんじ)」。
そこに記されている「人間(じんかん)訓」では「人間万事塞翁が馬」
の由来となったエピソードを確認することができます。

「中国の国境の塞(とりで)の近くに、翁(老人)が住んでいました。
あるとき老人が飼っていた馬が隣の国に逃げてしまい、近所の人々は
同情しましたが、老人は『このことが幸運を呼ぶかもしれない』と言いました。
そしてその通りに、数ヶ月後、逃げた馬が立派な馬を連れて帰ってきたのです。
近所の人々は祝福しましたが、老人は『このことが不幸を引き起こす原因に
なるかもしれない』と言いました。その通りに老人の息子がその馬に乗り、
足の骨を折る怪我をしたのです。

近所の人々は見舞いましたが、老人はまた『このことが幸運を呼ぶかもしれない』
と言いました。一年して隣の国が大軍で攻め入ってきました。多くの若者は戦争に
駆り出され、10人のうち9人が戦死しましたが、老人の息子は足の怪我の
おかげで戦争に駆り出されず命を落とさずにすみました」
このエピソードから「人間万事塞翁が馬」ということわざが生まれました。

「人間万事塞翁が馬だから、あまり落ち込まないで!」
このように、例えば落ち込んでいる友人や後輩を慰めるときに
使うことができます。
仕事のミスや何か失敗をしてしまったとき、落ち込んでしまうのは
仕方がないこと。ですが次のステップに進む必要もありますよね。
この後に訪れるであろう幸せを信じながら前向きな気持ちでいることが
大切なのかもしれません。

「人間万事塞翁が馬。油断しすぎるのは危ないよ!」
先ほどとは反対に、嬉しくて気持ちが舞い上がっている人に使うパターンも。
嬉しいことがあれば誰かに話をして自慢をしたくなるときもありますよね。
でもあまりにも舞い上がりすぎていたり、周りの空気を読めずに
その嬉しさが誰かを傷つけているなんてときも。
嬉しいことがあっても油断せずに過ごすことが大切なのかもしれません。

さて皆様はどのように受け止めたでしょうか?
私の体験を一つ紹介します。

2001年に韓国でオンデマンド配信の映画会社を立ち上げました。
韓国で日本の文化が解禁されたのは1998年から始まり映画やテレビドラマ
などが紹介された。アニメや日本の音楽が全面解禁されるまでに4回の
規制が解除されて全面的には2004年に解放されました。

私は2000年にコンピュータの会社へ入り事業部長として新規事業開拓に
努めた。会社の取引先に韓国の会社があり何度か韓国を訪れるように
なったのです。その際ホテルで韓国ドラマを観ているうちにこれを日本に紹介
しようと思い立ち役員を説得して映画会社を立ち上げたのです。
会社の立ち上げに参加した韓国側の人達は経済界の大物ばかりで安心をしていた
のですが、その時に韓国の人が日本に対する反日感情が強いことを意識して
いませんでした。後々会計を調べていくうちに不正が見つかりこのまま継続するか
悩みました。

会社を立ち上げた時に取材が多く入り大々的に韓国で発表されたことが
気になりました。しかしその事業に不信感を持ったので日本側は手を引く
決断をしました。私は大きな被害を会社に与えた為に引き留められたのですが
退社を決断しました。

その時に中国から新人の紹介があり手掛けたのが「女子十二楽坊」です。
友人を介して紹介されて直ぐに北京へ出かけていき個人契約を結びました。
これも一歩遅れていたら大手のレコード会社に取られていたのです。
その後は皆様もご存じのように世界的大ヒットに恵まれておしもおされぬ
スーパースターになったのです。
もし韓国の事業が継続されていたら、このような話が来ても中国へは出かけて
いませんでした。
これこそまさに「人間万事塞翁が馬」でした。

皆様も山あり谷ありの人生を楽しむようにしてください。


人間らしさ




私が6歳の時に母と兄妹と別れた町の神社の裏に「思川」という川があった。
家を突然出ていった父親と兄二人と岸辺で遊ぶ写真が手元に一枚ある。
私の悲しい記憶と川の名前の「思川」がいつも頭の中から離れなかった。
残された家族は結核を患っていた小柄な母親が毎夜裁縫で生計を支えていた。
私は6歳の時に父親側に引き取られて大阪へ行き母との交流は途絶えた。
大学生の時に母の死の知らせを聞いて栃木の実家に飛んで帰った。
私は母の死に顔よりそばに置いてあった笑顔の写真を見て泣き崩れてしまった。

小池光の最新歌集『思川の岸辺』は、短歌における「人間」を考える上で
きわめて示唆の豊かな歌集と言えるだろう。
何気ない歌がなぜかしみじみと読者の心を揺さぶる歌集である。
斎藤茂吉も小池光も家族の生老病死のかなしみ、また人間が背負う侘しさや
情けなさまで包み隠さず歌にした。
うなずける評言である。『思川の岸辺』は、妻の死を詠んだ挽歌集。
読んでいて、たしかに心が揺さぶられた。そして、人間らしい歌だと思った。
大森が「人間が背負う侘しさや情けなさまで包み隠さず歌にした」と評した
歌の数々を、自分は「人間らしい」と感じたのだ。

掃除機のコードひつぱり出す途中にてむなしくなりぬああ生きて何せむ

正座して鏡のまへに居りしきみ声をかければふりむくものを

十五歳夏のはじめの出会ひにて四十八年のちのわかれぞ

着物だつて持つてゐたのに着ることのなかりしきみの一生ひとよをおもう

われがことちよつと書いてある新聞を遺影のまへにたたみて置くも

小林秀雄が、子どもを亡くした親は、子どもの死に顔を思い出して泣くのでは
ない、元気に笑っている顔を思い出して泣くのだ、と書いていた。
奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、これらの歌には、そのような
人間の自然で健やかな感情が紛れもない。

鎌倉にある臨済宗円覚寺の管長であった今北洪川(いまきたこうぜん)は、
知り合いの老婆が亡くなった時、大声をあげて泣いた。
すると、他の僧が老師は大悟徹底したはずなのに、あんなにあられもなく
泣くとはみっともないと非難した。それを仄聞した洪川は、「悲しい時に
何のこだわりもなく泣けるようでなければ、何のための修行か」という
趣旨のことを言ったという。

ふつうに生きる人間の自然で健やかな感情が、
包み隠さず詠まれている歌を、自分は人間らしい歌だと思うのである。
挽歌のモチーフは、不在感であり、空虚感である。その感情の総量が、
すなわち喪ったものに対するいとしさの感情の総量である。

小林秀雄に倣っていえば、わたしたちは喪失感に胸を打たれるのではなく、
いとしさの深さに心を揺さぶられるのだ。小池光の歌が、情けないことも
包み隠さず詠むことについては、すでに山田富士郎が書いている。

長年連れ添った妻を亡くし、茫然自失と過ごす毎日。
偶然出会った思川はふしぎと安らぎを覚える川だった。
一筋の流れは時間であり、区切りでもあるのだろう。
死別から五年、再出発を期して送り出す第九歌集。

「肩の上にかくあたたかく雪つもる夢の中にて思ひあふれて」

「よろこびに満ちてふたりはただ居ればわが感情はしづかとなりぬ」

「こすもすの畑もとうに枯れはててくる白雪を待てるしづけさ」

「着物だつて持つてゐたのに着ることのなかりしきみの一生(ひとよ)をおもふ」

小池光さんの歌は苦手、と思っていたが、この歌集はあたたかい緑茶のように
染み入ってきた。妻を亡くし、子供たちも結婚し、猫と暮らす。
自らは次第に老いていく。妻の不在を思う。簡単に言うとそういう歌集
なのだけれど、淡々と読まれる日々の小さな思いが短歌の形式に
ぴったりはまり、何首読んでもぬくい気持ちになる。
多分それは猫の存在が大きいし、自らを抑え気味に表現する小池光さんの
力の強さが大きい。読み終わるのがもったいない歌集だった。
(大森静佳の書評より)

偶然に私の思い出と小池光の最新歌集『思川の岸辺』と重なった。
何気ない歌がなぜかしみじみと読者の心を揺さぶる歌集である。

人は何気ない情景の中に人間らしさを曝け出す。
うたの歌詞も日常の移り変わりの中で寂しい気持ちや懐かしい気持ちを表現
するものが多い。若い人の歌詞は自分中心で吐き出す様に表現する作品が
多い気がする。

小池光の歌集を読んでこの歌を思い出した。
今回の文章は私の思い出と大森静佳さんの書評から書き添えました。

小椋佳の書いた「白い一日」
作詞:小椋佳 作曲:井上陽水

真っ白な陶磁器を 眺めてはあきもせず
かといってふれもせず そんな風に君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく

目の前の紙くずは 古くさい手紙だし
自分でもおかしいし 破りすてて寝ころがれば
僕の一日が過ぎてゆく

ある日踏切のむこうに君がいて
通り過ぎる汽車を待つ 遮断機が上がり振りむいた君は
もう大人の顔をしてるだろう

この腕をさしのべて その肩を抱きしめて
ありふれた幸せに 落ち込めればいいのだけど
今日も一日が過ぎてゆく

真っ白な陶磁器を 眺めてはあきもせず
かといってふれもせず そんな風に君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく

秋風が吹けば人生の儚さが蘇ります。
温かなお茶を飲みながら最後の一葉に想いを寄せています。



初心と本性




75年間の人生で色々な出会いがあり色々な別れがあった。
自分一人の人生だったと勘違いをしていたが多くの支えがあって今日がある。
これまでいくつかのでこぼこ道や坂道があり何度も失敗をして立ち止まった。
私なりに地位や名誉や財産を築くことなく平凡な人生だと振り返る。

工業高校を卒業して外大に入り3年の時に中退して英国へ行った。
憧れのロンドンはファッションも音楽も街並みも最高だった。
まともな英語も覚えずに音楽三昧で1年半過ごして帰国することにした。
日本へ戻る飛行機の中で「俺は日本一のプロデューサーになると決めた」
本気で人生の生きる道を決めた時「初心」という言葉を胸に刻んだ。
これからは何があっても初心を貫き通していくと誓った。

「初心」という言葉は、仏教用語の「初発心(しょほっしん)」に由来します。
初発心とは、初めて悟りを求める心を起こすこと。つまり、
人が初めて真理を探求し、その道に進むと決心したときの志を表しています。
仏教の経典『華厳経』には、「初発心の時、すなわち正覚(しょうがく)を成ず」
との一節があります。これは「初めて悟りを求める心を発した時に、すでに正しい
悟りへの道が開かれている」という意味です。
このように、真理を探求しようとする、その心がすでに求める真理を内包して
いると説くのは、それほど最初の決心や志が大切であると考えているからでしょう。

世阿弥が語る「初心忘るべからず」とは?
さらに味わい深いエピソードをご紹介します。
「初心忘るべからず」と最初に語ったのは能楽の大成者・世阿弥(ぜあみ)です。
興味深いことに、世阿弥が語る「初心」は、「最初の決心」や「初志」とは
少し違う意味を含んでいます。彼は『花鏡(かきょう)』という能楽の理論書の中で、
次のように3つに分けて初心の大切さを論じました。

「是非初心を忘るべからず」
これは、まだ未熟だった頃の芸を忘れず、成長した今の実力を正しく認識し
向上させることが大切だと述べる一節です。

「時々の初心を忘るべからず」
この一節は、どの年齢であっても新しいことを始めるときには初心者であり、
未熟であることを忘れてはいけないと説明しています。つまり、
いくつになっても自分にはまだ学べることがあると受け入れることが
大切だという意味です。

「老後の初心を忘るべからず」
さらに世阿弥は、老後であっても新しいことを学ぶ意欲を持つことが
大切だと語っています。年を取ったから完成ということはなく、
一生涯をかけて学び続けることが大切だという意味です。
この考え方は、「初心忘るべからず」という言葉に、「あの頃の謙虚な気持ちを
忘れるな」という訓示以上の積極的な自己成長と学びの姿勢を付け加えている
ように感じます。

「初心」とはいつまでも自分を磨き続けるための道しるべ。
何かを始めたときの新鮮な気持ちを折に触れて思い出すことは、
自分を成長させるうえでとても大切です。しかしそれだけではなく、
いつでも「初心者」のような気持ちで学び、吸収することができれば、
さらに人生が充実したものになるような気がします。

「初発心の時、すなわち正覚を成ず」という言葉が指し示すように、
自分を磨いていこうとする気持ちを持ち続けていれば、その人本来の能力や
才能の原石が輝きを失うことはないのかなと思います。もしかすると、
人間の成長とは、何か新しい技術や考えを自分に「付け足していく」作業ではなく、
すでに自分の内にあるものを「洗練し、磨き上げていく」ことなのかもしれません。
そんな自己探求の道しるべともなる言葉、「初心忘るべからず」について綴りました。

人生において最も大切なものは「初心」である。
医師長岡美妃より

どんな芸術的な絵画も、真っ白なキャンバスに打たれる一点から始まる。
そしてその一点に絵画完成の意志がすべて込められている。
人生においてこの一点を「初心」と呼ぶ。

人生で何かを始める時、それは事業でも入学入社でもお付き合いでも
結婚でも、、、あらゆる事件が始まる時には初まりの点を打つ。
そこにどれだけの決断と覚悟があるかによって、その事件が生み出す
世界は変わる。中途半端な決断覚悟なら、生み出される世界も
中途半端なものになるだろう。いい加減な点を打ったなら、
己を取り巻く世界はいい加減なものになるだろう。
始まりにないものは終わりにもない。

もし美しい清らかな世界を生み出したいのなら、美しく清らかな点を
打つべきである。「初心忘るべからず」という諺が言う通り、
己が打った点を忘れないことだ。

それでも人は少しづつ少しづつ点をずらしてしまう。欲得、損得、貪欲、
多欲にまみれ、初めの点が何だったのかを忘れていく。
純粋な点が環境の影響によって不純物が混じっていくように。。。
だから、初心を貫く為にも「諦め不可能な夢」を持つことが何よりも
大切になってくる。「諦め不可能な夢」は裏を返せば、人間ならば誰もが
やるべきことに繋がるものである。

人間には知るべきこと、やるべきこと、期待すべきことがある。
そうではなく、知りたいこと、やりたいこと、期待したいことを
希望するから欲に翻弄されてしまうのだ。
長岡美妃先生のブログより抜粋

「初心」の意識と潜在的に存在する「本性」について考察する。

本性を語る時重要なのは盲信する自分と疑う自分が同時に
存在しなければならない。盲信するだけならニーチェのように
壊れてしまう。
疑うとは否定ではなく別の角度から見てどのように受け止めるかを
確認することである。
哲学者も宗教家もこの追求を途中で諦めて力尽きてしまうことが多い。

優しさの裏側の冷酷さ、愛することの残忍さ、信頼の中の裏切り、
聖職者の冒涜、平和に向かう戦争、笑顔と殺戮など心の中には
複雑な組み合わせが存在する。それを本性という。
純粋な気持ちで初心を描き残す。何度も失敗を重ねて不純な心が育つ。

本性は生まれ落ちた環境で決まる。
誰しも無垢な心で生まれるのだが、その時に与えられた環境で人間性が育つ。
幼き子が生き残る為に野生の本性であらゆる手を尽くす。
最大の武器は笑顔である。動物には無い人間の最大の武器が笑顔である。

人間の本性とは人間を人間とするものであり、それは獣や他の被造物と異なり、
私たち人間は理性や感性をもっています。人間以外にこれらの能力を持っている
存在はありませんし、これらの能力が神からの賜物である事は明確です。
私たちの理性は私たちが自らの本性や神のご性質について考え、
神の被造物(クリーチャー)に対する御心を知る事を可能にしています。
他の被造物に理性はありません。

聖書には神が人を神のかたちに創造されたと書いてあります。
それは神が私たちに御自身についての理解といくらかご自分と同じ性質を与えて
下さったという事です。私たち人間の本性は神のご性質を少しながら表しています。
私たちが愛するのは神が愛だからです。

私たちは神のかたちに創造されているから、私たちはあわれみを持ち、
誠実で、正直で、親切で、寛容で、義しく生きる事ができるのです。
これらの神からの性質が、堕落によって曲げられながらも
私たちの内にはあるのです。

本性とは人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを指す概念である。
社会学、社会生物学、心理学では特に進化心理学と発達心理学が人間の本性を
明らかにしようと科学的な取り組みを行っている。
哲学者、倫理学者、神学者もまた古くから議論していた内容です。

今回は私なりに人間の根本を探り当てようとして論じてみました。
異論反論多々あると思いますが、みなさまはどのように受け取ったでしょうか?
ブログ「恩学」は思考のきっかけを作るために書いております。


人間性とは




人間性とは性格なのでしょうか?
それとも個人の思想なのでしょうか?
行動の結果として生まれるものでしょうか?
自分の能力に対する他人の評価なのでしょうか?
周りと同一の価値観を持たなければ、
人間性が欠けているというのでしょうか?

親が子を手放す!子は生きる為に大人との順応性を身に付ける。
最初は周りが受けいれてくれなくて仲間外れにあう。
同じ境遇の子供達が群れの中に入れと言い寄って来る。
ここで楽な道を選べば一生後悔することになる。
まともな人間性など作れたものじゃない。

弱い犬が人間に飼われて吠えることを忘れる。
警戒心の強い猫が腹を見せて横たわる。
餌を与えられた猿が街に出てウロウロ徘徊する。
殴られても蹴られても鹿は公園をのんびり歩く。
人に飼われて野生の本能を失いペットとして順応性が身につく。

誰しもがほんの一瞬「自分は何者であるかを知る」時がある。
「自分はこういう人間だから」という思い込みをなくす。
未来への可能性の中で「自分はこうありたい自分」と確信を持つ瞬間である。

平井 正修(ひらい しょうしゅう)
臨済宗国泰寺派全生庵住職

そうですね。禅に限らず仏教ではよく「仏(ほとけ)」とは「ほどける」
ことであると説かれます。例えば、ここに水の入ったコップが置いてあれば、
ほとんどの人は水を飲むためのコップだと認識するでしょう。
しかしそれに一輪の花を活けて花瓶にする人もいる。
水があってちょうどいいと、灰皿にする人もいるかもしれません。
ある人はコップ、別の人は花瓶、もう一人は灰皿だと言う。

このように同じものを見ても人それぞれ「これはこうだ」と思い込むものです。
世の中の争いのほとんどは、そうした思い込みに起因しているのでは
ないでしょうか。そのような思い込み、固まった心のもつれがほどけて、
「これはコップでも花瓶でも何にでもなるじゃないか」ということに
気づけば、争いの種はなくなります。
心が平らかで整った状態、つまり「ほとけ」というものになる。

マインドフルネスとは、そういう思い込みをいったんすべて流してしまう
ことをめざすものではないでしょうか。対して禅は、仏教ですから、
取り除いたあとに自分の心の中にある「自在な仏なるもの」に気づくことを
めざすのです。お釈迦様は悟りを開いたとき、「一切衆生悉有仏性
(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」、生きとし生けるものは
みんな生まれながらにして仏になりうるとおっしゃいました。

しかし、いろいろな煩悩や固まった心が、内なる仏の存在に気づくことを
妨げているのです。それらを修行によって取り除いていけば、いちばん底に
仏が残るということに気づく。ここがやはり仏教である禅の精神の核です。

ころころ転がるから「心(こころ)」なのだとも言われますが、
心は水のように形を変える自由自在なものです。
それを好き嫌いや損得、是非や善悪で呪縛して、嬉しい、悲しい、
苦しいといった状態で固めてしまうから不自由になる。
その固まりをほどく方法を教えてくれるのが、仏教であり、
禅であると考えています。

坐禅をすれば無心になれるわけではないとも書かれていますね。
「無心」とは「何も考えない」ということではないと。
「何も考えない」というのは不可能ではないでしょうか。
これも言葉の難しさですが、私は無心というより「一心(いっしん)」になると
表現しています。一心とは、今、自分が行っていることに対して集中する、
心と体が一つになっている状態です。

あるいは「初心に還る」と言ってもいいかもしれません。
山岡鉄舟先生は「剣術の妙處を知らんとせば、元の初心に還るべし。
初心は何の心もなし」と書いておられます。
仕事でも坐禅でも、最初に「さあやるぞ」と思った心には雑念がありません。
「人から見られるからうまくやってやろう」とか、逆に「なぜこんなことを
しなければいけないのか」といった雑念や疑いの念がない
「素直な心」が初心です。

われわれは修行道場へ行くと、まず徹底的に叱られるのですが、
修行とはまず「自分」というものを否定し、捨てることから始まるからです。
「自分が」という心の固まりをほどくことで、多少揺れ動いても最後には
元の場所へ還る、自在でぶれない心を養うことができるのです。

「人間性」とは、「人間として生まれつき備えている性質」や「人間らしさそのもの」
を指す言葉です。その人自身がもつ思想信条や社会的なステータス、外見などとは
関係ない、人としての「本性」を示し、「あるべき理想の姿」の意味でも用いられます。

具体的に言うと?「人間性が高い」といわれる人の「特徴」
「人間性」という言葉は、私たちが「あるべき理想の姿」を意味する言葉でもあります。「人間性が高い人」とは、「目指すべき理想像」、つまり「人格者」であると
言うことができるでしょう。そのため、周囲から「人間性が高い」との評価を
受けるのは、愛情の深さや他者への気遣い、知性や品格などが備わった人であることが
多いようです。とはいえ、本来「人間性」のとらえ方は、個人や社会、時代によっても
異なるため、優劣をつけるべきではありません。

私なりの「人間性」の捉え方は単純に動物と人間を区分するために作られた
言葉かと思っています。
その中でも「人間性が高い」と言う人は自分の価値観と考え方と行動が
一致している人をいうのです。
常に柔軟性を持った思考で価値観を固定するのではなく、
環境に合わせて人間関係を築ける人を「人間性が高い」と評するのです。

私達も地位や名誉や財産に執着する成功者よりも、貧富の差別をすることなく、
老若男女だれとでも話が出来る人間性の高い人になることを目指しましょう。


幸福のアート




以前、学生からアートは人生に絶対必要ですかと聞かれたことがある。
その時に私が言った言葉は「絶対必要です」と回答した。
そして黒板に五つのスペルを書いた。

Earth(地球)我々の地球上には
Heart(思い)いろいろな人の思いが重なり
Smart(賢い)賢くなり集う
Party(集まり)様々な人たちと交流が始まり
Start(出発)ともに船出を楽しむ

この英語のスペルの中にはすべてARTの文字が入っています。
我々が生きて仕事をして生活をして暮らしていく中に
アートは無くてはならないのです。と答えた。

その時に巡り合えた文章があります。

他人の期待に応えることをやめるがいい!
それはあなたが自殺することになり得る唯一のやり方だからだ。
あなたは誰かの期待に応えるためにここにいるわけではない。
そして他の誰もあなたの期待に応えるためにここにいるわけではない。
決して他人の期待の犠牲になってはいけない。
そして誰もあなたの期待の犠牲にしてはいけない。
 
これが、私が個人性と呼ぶものだ。あなた自身の個人性を尊重し、
他人の個人性を尊重するがいい。決して誰かの生を干渉してはならないし、
誰にもあなたの生を干渉させてはならない。
そうして初めて、いつかあなたは精神性の中へと成長することができる。
 
さもなければ、99パーセントの人びとは、ただ自殺するだけだ。
彼らの生全体は、緩慢な自殺以外の何ものでもない。この期待、
あの期待に、応え続ける……ある日は父親の、ある日は母親の、
ある日は妻の、夫の期待に応え続け、そして子どもが生まれ、
彼らもまた期待する。
それから社会、聖職者と政治家。まわり中の誰もが期待している。

そしてかわいそうなあなたがいる、ただかわいそうな人間が――全世界が
あなたに、これをやるように、あれをやるようにと期待している。
そしてあなたは彼らの期待すべてに応えることはできない、
なぜならそれらは相反しているからだ。

あらゆる人の期待に応えようとして、あなたはおかしくなってしまった。
そしてあなたは、誰の期待にも応えなかった。誰も幸せではない。
あなたは道に迷い、疲れきってしまい、そして誰ひとり幸せではない。
自分自身と共にいて幸せでない人びとは、幸せになり得ない。
あなたが何をしても、彼らはあなたに不満を感じる方法を見つける。
なぜなら彼らが、幸せでいることができないからだ。

幸福とは、人が学ばなければならないアートだ。それは、あなたが何をやるか、
やらないかには関係がない。人を喜ばせる代わりに、幸福のアートを学ぶがいい。

ここでいうアートは芸術のアートではなく、自分自身の人生計画を
どれほど美しく完成させられるかという事である。
心が満足しなければ美しさの完成はあり得ない。他からくる抑圧も精神的圧迫も
拒否できない立場なら中途半端にキャンバスに向かうのではなく、
一旦絵筆を置き白紙に戻すことは出来るだろうか?

人は追い詰められた時に一番美しくなることを知っているだろうか?
幸福な時よりも姿かたちに声に緊張の張りが出て来る。
獲物が敵から追い詰められた時にその緊張から来る研ぎ澄まされた状況の時に
一番美しさが滲み出て来る。

この文章に共感して心に火が付いた。
私の人生も子供の頃に描いた人生計画がアートそのものであるからである。
この不幸を幸福に持っていく道筋を素敵な物語にするために時間を費やした。
哀しければ悲しいほどに物語はドラマチックになった。

転校先でいじめられた時にも、高校で担任の教師と喧嘩した時にも、
工業高校から外大に入った時にも、工事現場で働いて英国へ行った時にも、
帰国して一流のレコード会社へ入った時にも、プロデューサーとして活躍した時にも、
自分の物語が完成していくのを興奮して見守った。

哀しいというのはどういうことなのだろうか?
苦しいとはどういうことなのだろうか?
嬉しいというのはどういうことなのだろうか?
楽になるとはどういうことなのだろうか?

人は心の中のスイッチを切り替えることだけで、気持ちが切り替わり
価値観が切り替わり、幸福のイメージを作り変えることが出来る。
まるでキャンバスに向かって絵筆を振るい、色を塗ることにより、
景色全体がカラフルになり、悲しいことが嬉しいことに、切ないことが喜びに、
辛いことが幸福に生まれ変わらせることが出来るのである。

音楽プロデューサーは目の前の現象をアートのようにとらえて作品作りをする。
失恋した状況を悲しいと表現するのではなく、希望の第一歩として明るく表現
することもしなければならない。人の気づきは一瞬のメロディーでも、
一つの言葉でも刺激を受けて覚醒するのです。
それぞれの多種多様な精神世界を描き出すことによりヒット作品が生まれるのです。

あなたの今の人生を塗り替えることが出来るのはあなたしかいないのです。
他人の描く期待に一切応える必要は無いのです。
人生をアートで捉えると心に翼が生えたように自由になれるのです。

私は今もなお人生計画の続編を書き続けています。


衆生とは人間とは




以前友人から頂いた本に心を奪われた。
「法華経の新しい解釈」庭野日敬著作
仏教にそれほど強い関心があった訳ではないが何度も読み返した。
私が少し理屈ぽいのは他人が読まない本に関心を寄せるからである。

よくこのような物語で仏教の世界を描けるということに驚くばかりです。
各宗派によってもニュアンスは変わるがほぼ同じである。
根本は仏陀いわゆるお釈迦さまの言葉から発せられたという。
そこに側近の弟子の解釈が加わり宗派が枝分かれをしていく。
しかしどの宗派も人を救う為の救済の書であることには間違いない。

ここに抜粋した文章を現代に置き換えて新解釈をしてみたい。
西洋の哲学書を読むよりは日本人には理解しやすいと思う。

「信解品」
幼い頃父の家を出て、五十年も諸国を放浪している貧しい男がいた。
父は、一人しかいない幼い子を探し続けたものの、どうしても見つからず、
自分もある町にとどまり、成功して大きな財産を築いていた。
そんなある日、貧乏のどん底にあえぐその男が、父の屋敷とも知らず、
雇ってもらおうと門の前まできたものの、あまりの豪華さに圧倒されて、
走り去る。父は、「息子にちがいない」と思いその男を屋敷へつれてこさせた。
使用人を使って「便所やドブの掃除を一緒にやらないか」ともちかけて、
安心して働かせ、息子を観察しずける。
二十年も働いていると、男は本来の素直な心を取り戻してきた。
父は、病気になると、蔵の管理を息子にまかせ、臨終が近づくと、
親戚一同を集め、初めて、父子の名乗りをあげ、全財産を息子にゆずり
渡すのである。大長者の父は仏であり放浪する息子は衆生なのだ。 

息子は自分が仏の子であり、仏性をそなえていることを知らずにさまよい
歩いている衆生を、仏は、その卑屈な心を自然に温かく導いて、
自己の本質に目覚めさせ、その尊さに気づかさせるのである。
「信解品」の魅力は実に大きい。
困っている時にこそ手をさしのべるのが慈悲なのだ。
人々は、人生の大切な時間を、やたらと自分の欲望のままに、
無意味なことに消費していないだろうか。と記されています。

「三車火宅」
この比喩は、父親が留守の間に邸宅が火事になるという話です。
父の大邸宅が燃えているのに子供達はその中で遊んでいる。
その子供達とは我々無明に悩む衆生で、大邸宅は娑婆の世界なのです。
この比喩は火宅の中に居ながら、それに気づかぬばかりか、
そこにしがみついて苦しんでいる衆生の姿をリアルに描いている。
火宅の中で貪・瞋・痴の炎を燃やして遊んでいるのが、
世間の人々のことなのだと、釈尊が教えているのを知ることが出来る。
火宅の衆生は皆世間の欲心に惑わされて、つまらない事に執着し、
自分で自分の人生を苦しいものにしまっているのです。
「諸苦の所因は貪欲これ本(もと)なり」なのです。

衆生は欲望を追い求めて、執着する心が深いので、「仏の知恵」を
聴こうとしない。そういう人々に心の平安はない。
釈尊は衆生の苦しみを少しでも取り除いて、平安な人生を生きるようにと
願って下さっているのです。

人生の過ごし方は色々な生き方があると思う。苦しみばかりの人生だと
言って、自分の運命を恨んでみても、何も変わりはしない。
恨みにとらわれていては、心が狭くなり、ゆがんでしまう。

今の人生がどん底ならば、そこから人間として正しく生きる道へ
はいあがり、それをひたすら実践していくことです。
釈迦は四諦の法を説き十二因縁さらに八正道の実践を説いたのです。
そうすれば必ず苦を乗り越えた境地に達することが出来るのだ。
と言っています。

八正道とは、真理に即した八つの正しい道
「正見・正思・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定」の事です。

「真実」と「事実」の意図。「事実」とは、「事柄」です。
花が咲いたり鳥が鳴いたりする目前の現象、事柄のことです。
「真実」とは、世間の通念では、嘘でない本当のことですが、
仏教用語では、さらに「真理がありのままに、隠すことなく事実に
あらわれている」と言う深い意味になります。

「真実とは、事実の奥にひそむ真理」となります。
リンゴが地に落ちる現象は、誰の目にも見える「事実」です。
この事実の奥に万有引力の法則(真理)がひそんでいると理解するのが
「事実」を知る一例です。事実は目に見えても、心理は目に見えません。
しかし、詩的な心をもってすれば、目に見えるリンゴの落下に、
目に見えない引力を見ると表現できましょう。

我々人間にこのようなことが理解できる能力が備わっていることに
感謝するのみです。我々は常に仏の加護の元に生きているのです。
私も今は何もわからずに経本の文字を追い続けるだけです。
そしていつか「朝露の道を歩けば知らずとも衣濡れる」のように
深く真理が身につくと願うばかりです。


全てを語る詩とは




2024年8月12日私が敬愛する知の巨人松岡正剛氏が逝去した。
友人から紹介されて一度お会いしたことがある。
たしかその時は工作舎で発行していた「游」の編集長だったと記憶している。
あらゆることに精通していて継承したままを伝えるのではなく、
自分の意見も取り混ぜて話されたことに驚かされた。

松岡氏に会うまでは知の師匠として敬愛していたのは、丸山眞男・小林秀雄・
山本七平などであるが特に山本氏の出版物は数えきれないほど読んだ。
特に日本の歴史と日本人の考え方とあるべき姿を卓越した文書から学んだ。

学生時代は金がなくアルバイトばかりの生活だったので
真剣に読書をしたことが無い。それならば文字に縁遠い仕事は何かと
考えた末にたどり着いたのが音楽の世界だったのです。
しかし、プロデューサーとして多方面から文章を求められて本を読み始めた。
本屋の店先に置かれた山積みになった最新本は毎月読み漁った。
海外のファッション誌も取り寄せていた。
イタリアの「ルオーモ」フランスの「ヴォーグ」などです。

私が思う良書とは深い洞察力と未来予測と作家の思いが明確に書かれた本である。
そして一流の作家(研究者)は詩人の様に短い言葉で時代を表現できる。
その上に人々を引き寄せる吸引力がすさまじいほどある方が多い。
丸山眞男、小林秀雄、山本七平などは読むたびに引き込まれた。

70年代後半から80年代にコピーライターという専門の職業が生まれた。
アーティストのキャッチコピーやバイオグラフィーでも大いに参考になった。
糸井重里や仲畑貴志がブームの火付け役だった。彼らが紡ぎだす言葉は
若者たちのこころの代弁を簡潔に短い文字で表したのです。

時代が変わり私たちが夜通し覚えた知識がAIの登場によって役に立たなくなっている。
本棚を探らなくてもChatGPTやGeminiを使えば瞬時にして文章が出て来る。
文字離れも甚だしいが難解な哲学書を読み解く面白さを味わって欲しい。
過去の経験で言うとハイデガー「存在と時間」と森信三「恩の形而上学」や
道元「正法眼蔵隋文記」などである。
その独特の文体と用語の難しさに頭脳が翻弄させられた。
しかし難攻不落な文章を頭の体操として度々読み返している。
まだどの本も完全理解には至っていない。

「美学・文学・哲学」
なぜ、これら人文知の価値を、日本人のほとんどが忘れてしまったのでしょうか?
論理的であることや合理的であることがもてはやされ、
ロジックで詰めたり論破したりするようなあり方が、
さもビジネスパーソンとして、大人としてあるべき姿で
あるかのように言われています。

確かに、論理的な話や科学的な話をしていなければ、納得されず、
バカにされ、変わった人扱いされてしまう風潮も一部にはあります。
しかしながら、「答えのない時代」と言われて久しいこの社会で、
論理性や科学的知識だけでは限界があると直感している人たちも
少なくありません。

では、そのような感性を持った方が最終的に行き着くものは何か?
それが「詩」です。

アリストテレス曰く!
「詩は歴史よりも優れ、またより哲学的である。何となれば、
詩は普遍を表現するが、歴史は特定をのみ表現するからである」
また、ウィリアム・ワーズワース曰く!
「詩は、あらゆる知の始まりであり終わりである」
そして、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン曰く!
「そもそも哲学は詩のように語ることしかできない」

昔から「詩」はあらゆる知の上澄みとして知られていました。
・なぜ、詩は特別視されてきたのか?
・人生の答えを教えてくれる詩とは、どのような詩なのか?
・科学全盛の時代にあってなお解き明かせない世界の本質を、
詩を通して受け取れる理由とは?
詩を通して真の美について考えることで見えてくるものがあります。
その思考の上澄みを掬うような思考空間に興味はありませんか?

「物質的には豊かになったけれど、心は貧しくなってしまった」
昔から言われていることではありますが、これはある意味で
現代日本人のありようを捉えている指摘であり、耳を傾けるべき言葉です。
(東京美学俱楽部より)

東京美学倶楽部が普及に務める知的体験とは、答えのない問いに向き合うこと。
それは分断や対立を乗り越えた先の普遍的な美の可能性を信じ、
その在り処へと思考をめぐらせること。
嘘偽りのない純粋な言葉を志向すること。
今はまだつかみどころのない内容に思えるかもしれませんが、
唯一無二のたおやかな体験となることはお約束いたします。

私も時間を見つけて「東京美学倶楽部」が普及に務める知的体験に
参加したいと思います。
もう一度本質を学び直したいと思います。
思考の行きつく先は「人間」にたどり着くと思います。
壮大なテーマ「人間」とは何か?興味が尽きません。