私が6歳の時に両親が離婚して家族がバラバラになった。
家系図の中での自分の立ち位置の場所、特定の場所が理解できずに、
民族・歴史・文化・芸術の居場所が分からず困りました。
民話から紐解くその土地における人物像・人間性・気質・食生活などです。
たとえば祖父母からおとぎ話や民話を聞きかされていたら
熱情的な郷土愛に目覚めたかもしれない。
美意識は育った環境から目覚めることも多いのではないかと思う。
山村で暮らしていた人と海辺で暮らしていた人とでは
美意識に大きな差が出るはずです。貧富の差も然りです。
海外へ出かけるようになり現地の人達からよく聞かれたのは
「日本の美」に関するものが多かった。
歌舞伎や能楽や茶道・華道から浮世絵、仏像の質問ばかりである。
日本人として曖昧な返答しかできなかったことを恥ずかしく思い、
そこからお茶とお花を少し体験して「日本の美」について学びました。
たとえば、
日本の伝統文化を貫く美意識を伝える便利な言葉がある。
「わび・さび・幽玄」である。もっと別の要素があることは
十分に承知しているのだが、そう答えると自分でも妙に納得してしまう。
能楽、茶道、俳諧などに見られる「日本的なるもの」の変遷を踏まえ、
「わび・さび・幽玄」が日本の美学の核心として語られるように
なっていく過程を考察する。
「わび」
茶道史研究家の熊倉功夫(1943年〜)氏の解説によると、
「貧粗(ひんそう)・不足の中に心の充足を見いだそうとする意識」とある。
「万葉集の時代、わびとは、恋が実らないで苦しむ状態を示すもので、
決して美意識を表現する言葉ではなかった」
平安時代以降、つらく惨めな気持ちを表すとともに、
もの寂しい情趣に近づき、中世になると枯淡、脱俗の心境を
「わび」と呼ぶようになった。
中世の人々は禅宗の影響もあって、満月よりも雲の間に見え隠れする
月の姿を愛(め)でるようになり、完全ならざるものの美を発見した。
「わび」もそうした中世的美の一つで、室町時代後期の町衆文化である
茶の湯と結びついて人々の意識の中に定着していく。
そして江戸時代になると、閑寂を尊ぶ茶の湯が「わび茶」と呼ばれるようになる。
「さび」
能・歌舞伎研究者の堀越善太郎(1937〜2004年)氏によると、
「さびとは、閑寂の中に、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる
美しさを表現する言葉」ということになる。
寂しく静かなものが一層静まるとともに、古くなったものがさらに枯れ、
あるいは凍(い)てついた景色の底に、かすかではあるが奥深いすがすがしさ、
豊かで広がりのある世界が現れてくる。
そうした表面的な華麗さとは相反する美が「さび」と呼ばれた。
「わび」と「さび」はいずれも「世間の俗事に煩わされないこと」
「執着せずあっさりしていること」を表す美意識として、
特に茶の湯を通じて重なり、通う合うことで相互に影響を与えるようになっていった。
そこには中世に盛んになった仏教、特に禅宗の精神性が多大なる影響を与えている。
「幽玄」
「わび」「さび」に対して、「幽玄」は漢語である。中国の仏教で
「深遠でたやすく理解できない仏の教え」を示す語として用いられている。
日本でも平安末期までこの意味を離れることはなかったが、室町時代には、
上品で「優美」な情緒、「妖艶(ようえん)」「花」などの意味が加味された
言葉として使われるようになっていった。
世阿弥の能楽論である「風姿花伝」の「花鏡(かきょう)」においても、
幽玄を「美しく柔和なる体」と規定している。
「わび」と「さび」と「幽玄」は互いに重なり合う部分も多いが、
それぞれが違う性質も持つ。とりわけ「わび・さび」と「幽玄」は
相当に乖離(かいり)している。「わび・さび」を閑寂枯淡の境地によって
得られる美意識とするならば、「幽玄」は背後に隠れた深い情趣を意味する点に
違いが認められる。
だが、それらが仏教、特に禅宗の説く「無」の境地と関係づけられ、
互いに重なり合うもの、通底するものとされていった様子がうかがえる。
現代人の多くは「わび・さび」は「茶道」の求道精神として、
千利休の時代から連綿として受け継がれてきたように思っている。
しかし、17世紀から現代に至る茶書をひもとくと、「わび・さびは一貫して
茶道が目指した根本理念ではなかった」と日本文化研究者の岩井茂樹(1969年〜)
氏は指摘する。
元禄期の茶書には「わび・さび」を語るものが多いが、江戸時代を通じてみると
少数でしかない。明治時代は「簡素・質素・質朴」、大正時代は「和敬清寂」
という言葉で茶道の根本理念が語られていた。茶の湯を国際的に知らしめた
岡倉天心の「茶の本」(1906年)においてさえ、その核心は「渋み」にあると
述べられている。
また、芭蕉の俳諧論の「さび」は江戸時代を通して
主流の美意識だったわけではない。
町人文化では「粋(すい)」や「いき」がもてはやされた。
能には「幽玄」の世界が展開されていると、よく言われる。
しかし、能を論じた江戸時代の文献に、「幽玄」をうたいあげたものはない。
そう言われるようになりだしたのは、20世紀以後である。
能楽の聖典とされる世阿弥の「風姿花伝」は大名家に秘せられ続け、
公刊されたのは1909(明治42)年。能の家元たちが「幽玄」を
語りだしたのは、戦後になってからである。
今日、3点セットの他に日本美を表す言葉として、「あわれ」「いき」などが想起される。「あわれ」は『源氏物語』の根幹をなす、王朝的な美意識として広く認識されてきたし、「いき」は九鬼周造の名著「いき」の構造などによって、
江戸町人文化のいなせな美学として市民権を得てきた。
さまざまな変遷を経て今日まで伝承されてきた「日本的なるもの」の美学を
後世に伝えるためにも、時代ごとの流行や趣味の移り変わりに分け入って、
こうした言葉と真摯(しんし)に向き合っていくべきであろう。
その変化を追ってみるのもなかなか面白いと思う。
如何だったでしょうか?
私もまだまだ修学の途上で「日本の美」に魅せられた者の一人です。
これからも追求して少しでも神髄に触れられることを望んでいます。
1月 24th,2025
恩学 |
日本の美について はコメントを受け付けていません
中国の古い言葉に「益者三友」と言う言葉があります。
友としてつきあって有益な三種の友人の事です。
正直・誠実・知識のある三種の友人を指しています。
一人の人にこの三種を求めるのではなく、
それぞれの特性を持った三人との交流が大切ですと説いています。
またブッダは善友を求めよという。
善友は遊び仲間ではない、
親身に語り合える友のことをいう。
あえて苦言を呈することのできる人、
善友一人で人生が変わる
それでなければ犀(サイ)のように黙々進め
サイは群れることなく単独で行動する
強い意志の表れである。
善友を求めることと、単独で行動することとは、
進むべき道(使命)に向かうためのものである。
強い意志が伴わなければ犀にはなれない。
太宰治の書いた「走れメロス」は真の友情を描いた作品です。
この作品は、人間の根底にある心理を巧みに描きながら、
信頼とは何かを問う物語です。
妹の結婚準備のためシラクスの市を訪れたメロスは、
人づてに聞いた国王による残虐な行いに激怒し、城へ乗り込みます。
王に歯向かった罪で、メロスは処刑されることになります。
メロスは処刑を受け入れるものの、妹の結婚式のため3日間の猶予が
ほしいと述べ、親友のセリヌンティウスを人質にすることを提案し、
認められます。そして無事に妹の結婚式を見届けたメロスは、
親友の待つ城へ向かって走りだします。肉体的疲労や自身との葛藤、
度重なる障害を乗り越えて約束を守ったメロスの姿に、王は改心します。
その他にも友を描いた作品は沢山あります。
それ程、真剣に生きていくには真の友の存在が大きいということです。
良友は求めて手に入るものではありません。
自分自身が正直に誠実に知識を持って生きていなければ
巡り合うこともありません。
私の友人令和哲学長岡美妃先生の言葉です。
彼女は北海道の医師です。
人間が唯一切望するもの、それは真の仲間。
お金でもなく権力でもなく安定安寧な暮らしでもなく、繋がっている仲間。
同じ夢を共有し、同じ方向を見て共に走れる同志。
しかし現実世界では疑い、ジェラシー、相対比較、生存本能によって、
真の仲間を得ることは難しい。それでも子供の頃は、喧嘩し仲直りし
共に泣き共に笑い、真の仲間を作ろうと足掻く。
でも大人になるにつれ、「合わせる」「演技する」という小手先の手段を学び
お互いをとことん知ろうとする足掻きはなくなる。
何十年も共に暮らしてきた夫婦が「あの人のことをよく知らないのです」
と漏らす言葉に、人間の孤独をみた。
人間は孤独だ。どんなに多くの仲間に囲まれていようと、
どんなに長年付き合っていようと、結局はお互いの何を知れるというのだろう。
自分の思い描く相手を見ているにすぎず、それは他者も同じで、
他者の思い描く自分を見られているにすぎない。
その人が何を喜び、何を悲しみ、何を希望して生きているのか分からずに、
生存本能を満たすための薄っぺらい関係性がひたすら続く。
『ONE PIECE』などの漫画が世界中で読まれるのは、そんな人間の孤独が
理想の仲間を求めている証拠のように感じる。
お互いの精神-意識-意図がハッキリと見え、お互いがそれを尊重しながら、
自らの夢の上に仲間の夢を載せて行く。
お互いがお互いを宇宙の王として君臨する存在として認め合う。
決して仲間は自分の夢の道具でもなく、孤独を埋める手段でもないのだ。
人間には悟りが必要だ。そうでなければ、人間は閉ざされた宇宙の中で
孤独に生まれ孤独に死んでいく儚い存在で一生を終える。
しかし悟りは、閉ざされた宇宙をオープンして人間を脳から解放する。
そこに広がるのは1本の境界線すらない無限の「一つ」の世界。
もう出会っていたという安堵の感覚。
その「一つ」から目の前の友を眺めた時、友の精神が友の意識が友の意図が
明々白々に観えてくる。孤独の旅を繰り返し傷だらけの魂。
私はそれに向かって「終わらせよう。そして始めよう。真の人間としての生を。」
と語りかけたくなるのだ。
真の仲間と共に狂喜乱舞して生きる!それが人間なのだ!人間をなめるな!
自分をなめるな!
生きている間に出会う人の数は
およそ3万人。
その中で仲良くなる人は
300人くらい。
もし生まれ変わっても
世界中の全ての人に会うには
23万回生まれ変わらないといけない。
1秒に1人会ったとしても
200年以上かかる。
人との出会いって
奇跡だと思いませんか?
軽い気持ちで人と付き合うと軽い人間に出会う
真剣の気持ちで人と付き合うと絆が生まれる
人を疑うといつか自分も疑われることになる。
相手を信じて付き合うと尊敬される、大切される
相手されるうちは『ハナよ!』と言う言葉があります。
人間はいつか年を取り友達も少なくなります。
まず会話してくれる人間を大切に
出会いをどうするかは自分次第である。まず相手も自分も大切に・・・
誰にでも「知己朋友」はいると思います。
大切にしてください。
1月 23rd,2025
恩学 |
真の仲間とは はコメントを受け付けていません
先日他界した松岡正剛氏が著作した「連塾方法日本」に書かれている
正号負号は極と極・いずれ劣らぬ肯定だ
引き算と侘び寂び(夢窓・心敬から天心・九鬼へ?)
日本の美に興味ある方は是非とも読んでほしい。
参考文献松岡正剛「連塾―方法日本―Ⅱ」を推薦します。
日本には二つの対比するものを並立させるということが大変多いです。
たとえば「天皇と将軍」や「公家と武家」がずっと並立していた。
「漢字と仮名」があって、更にカタカナまで使われている。
そのごアルファベットも自在に混ぜて使っている。「にほんとニッポン」
自国の呼び方をふたつ持っている国は日本だけである。
日本はそのようなとき、対比軸のどちらかを排除するといったことは
あまりしてこなかった。むしろ両方を生かしていく。
西洋の二項分立のように「正義か悪か」「権力か無抵抗か」「自由か束縛か」
どちらかに偏った考えを決めることはしないのが日本なのです。
日本の美を考える時に「華美か質素か」それを「侘び・寂び」と対比して
選ばないのが日本の美の在り方だと思っています。
日本ならではの美意識を語るとき、「侘び寂び」と同じように、
「間」と「余白」という言葉も欠かせないものだ。
「間」は、主に演劇や音楽、対人関係の中で意識されるもので、
「余白」は美術やデザインなどの平面的なものにおいて、
頻繁に用いられてきた言葉である。
何もないことは豊饒
「間」や「余白」という意識には、仏教の「無」や「空」という概念との
繋がりが感じられる。キリスト教では、「無」とは「有」の対義語で、
何も無いことを意味するが、仏教では、何もないことは豊饒であり、
実は多くのものが含まれていると考えることがある。
これは、「間」や「余白」というものに、
何らかの意味を見出すことにも通じている。
例えば、花を生けるという行為は、西洋文化では花そのものをいかに
美しく表現するかに重きが置かれるが、日本の生け花では、
一輪の花であっても、その空間に溶け込んでいれば美しいと
感じることができる。
前章で述べた侘び寂びの「不完全であることの美」にも
通じるが、何か足りない部分があってこそ、美しさが際立つというのは、
日本や東洋ならではの独特な捉え方でもあるのだ。
引き算の美学
「間」という言葉を聞くと、日本では建築における「客間」や「床の間」
という言葉を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。元来、日本の建築では、
それぞれの空間が明確に区切られた「部屋」というものは存在せず、柱と柱で
囲まれた空間を「間」として認識してきた。この曖昧な空間に何らかの意味を求める
感覚が、日本人の美意識に大きく影響してきたのではないかと考えられる。
参考文献谷崎潤一郎「陰影礼賛」を推薦する。
「余白」という言葉は、そうした「間」の感覚を背景にして、
日本美術とともに発展してきた。日本の国宝である長谷川等伯の
《松林図屏風》や尾形光琳の《燕子花図》は、大胆な余白が用いられている。
また、酒井田柿右衛門の磁器は、余白を活かした花鳥図の絵付け表現で
国際的にも有名であり、これらは、「引き算の美学」とも言え、
余白を美しく感じるために、草花などが描かれているのではないかと思えるほどだ。
世界に広がる「間」と「余白」
現代において、「間」と「余白」という感覚は、独特な日本の美意識の一つとして、
海外でも認識されるようになってきた。海外では「MUJI」として知られる
無印良品は、余白を活かしたデザインで海外の人を魅了しており、
ユニクロのショップも内装や陳列方法などに、同じような美意識が埋め込まれ、
多くを語らずとも日本らしい空間だと感じることができる。
一般的には、こうした余白の多い日本のデザインは、物足りないと感じる
外国人が多いものだが、枯山水庭園が外国人から観光先として人気を
集めているように、その独特の美しさに魅力を感じる外国人も増えてきた。
英語では、「間」や「余白」と近い美意識として、「Simplicity」という言葉がある。
スティーブ・ジョブズがアップルの製品で、「Simplicity」を体現して以降、
世界のデザイントレンドの一つともなっている。ただし、
余計なものを削ぎ落とし、シンプルさを極めることと、
余白そのものに意味を見出すこととは似て非なるものだ。
間や余白というものは、「無」そのものに意識を傾けることであり、
また、有るもの同士の境界線を曖昧にするということでもある。
そのぼんやりとした表現こそが、日本的な美意識なのだろう。
参考文献乙川弘文「宿無し弘文」を推薦します。
工芸品は、日常の道具であり、日々の暮らしにおける佇まいも魅力の一つだ。
一つ一つをどのように置いて使うか、どのように収納するかは、とても大切な
作業であり、まさに、「間」というものをどの程度設けるかを考えていると、
間そのものが美しくなくてはならないと思うようになる。
置き方だけでなく、工芸品そのものが、人の手によって生み出されるものであるため、
完璧すぎることのない「余白」が存在する。複数の工芸品の組み合わせによって、
その余白を埋めたり、活かしたりすることも、楽しみの一つであろう。
そのゆとりこそが、現代に求められている感性なのかもしれない。
音楽を作る際に作曲家のイメージ通りに編曲者が譜面に起こしバンドや
オーケストラを入れてカラオケを作る。その際に大切なことは歌い手のテンポ
歌詞を乗せた状態でのリズム感、全体を通してのグルーブ感を考えます。
全てを取り終えた状態でミックスダウンを行います。
ミックスダウンとは楽曲全体のそれぞれの配置を整理することです。
私はプロデューサーとしていつも「間と余白」を念頭に置いていました。
たとえ高額な演奏料を支払っても不要だと思う音はどんどん切り捨てました。
ボーカルを邪魔する音域の音は排除していったのです。
一番大切にしていたのは聞き手の呼吸感です。
見えないオーディエンスの立場になって、声質と歌詞とメロディーとテンポの
一番心地よい「間と余白」を取り入れていました。
それに伴うジャケットデザインもきれいな写真よりも、メッセージが含まれる
時代の先をいくデザインを重視しました。その時代に洋書屋さんしか扱わない
「VOGUE」「L’UOMO」なども毎月購入して読んでいました。
テーマは「和魂洋才」の音の美の追求です。
勿論、ロックやポップスに美はあるのかと言う反論する方もいると思います。
私の持論はどのような商品でも機能性ばかり追求するのではなく
美が含まれていない商品は流行しないということです。
独りよがりかもしれませんがこれからも美を追求していくつもりです。
生きている限り美を追求します。
1月 21st,2025
恩学 |
間と余白 はコメントを受け付けていません
ココロ(脳)には、自覚できる顕在意識と自覚できない潜在意識があります。
驚くことに私たちが意識できるのは脳全体のたったの5%。つまり95%は
潜在意識で、毎日8万もの情報を無意識に考えているそうです。また、
潜在意識は“根本識”とも呼ばれ、ココロの根底をなしています。
潜在意識には、0歳から五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を通じて
体感したこと、過去の経験がすべて蓄えられており、情報を習得し処理する
力と、習慣化する働きがあります。
その潜在意識の基礎は、6歳頃までに思考パターン、感情パターン、
行動パターンが形成されると言われており、ここでの環境や経験であなたが
何を信じるか、いわゆる「信念」も形作られるとされています。
もしも基礎を形成する過程で自分に対する否定的なメッセージや、
自分ではない人からあなたを縛るイメージを押し付けられると、それも
ココロに残ります。
例えば今あなたが行動を起こそうとするとき
「〜してはいけない」や「〜しなければならない」「〜するべき」などの制限を
する考えが起こることが頻繁にあるようなら、それは過去に記録された
思考による思いグセのひとつなのです。
ありのままでいいと思えない自己否定感もしかり。
また、傷ついたココロを癒せないでいると「わたしなんて…」「わたしばかりが…」
とネガティブな思いグセがつきやすくなります。
でもそれは真実ではないはずです。人と比べるなどして自分を否定する
必要はないし、それぞれの個性が輝くから美しく、面白いのです。
それに気づけたのなら、今ここからありのままの自分を受け入れることを
選んで良いのです。
昔、在籍していたソニーの情報です。
「あなたの能力を最大限に発揮「潜在意識コントロール法」
私は、ソニー(株)で潜在意識の研究をしていました。
それはソニー(株)
創立者の井深大氏の、「20世紀は、物質的豊かさが重要な時代だった。
21世紀は心の豊かさが重要な時代となる。心の研究をせよ。」との
提言と共に、自らが所長となってソニー(株)生命情報研究所を設立したからです。
そして、私がリーダーとなり生命情報研究所での、心=潜在意識の科学的な
研究を始めました。この研究成果を活かし、私はこれまでの28年の間に
1万人以上の人の潜在意識に関するサポートをしてきました。
その中で、多くの経営者や起業家が「潜在意識」をコントロールし、
売り上げを右肩上がりに上げる等の大きな成果を出しています。
潜在意識を
コントロールしていくと、以下のような効果が得られるようになります。
1,潜在意識内の
性格のデータを探り変化させ、
ビジネスを思い通りに進められる。
2,潜在意識の奥底から、
ビジネスの発展のための良い
アイデアを得ることができる。
3,潜在意識を通じて、
思い通りの優良顧客や優秀な社員を
引き寄せることができる。
4,顧客や社員の心をつかみ、
信頼関係を深め、ビジネスを
発展させていくことができる。
顕在意識(表面意識)とは、自分が自覚、認識することができる意識のことをいいます。
日常の中で自覚することができる意識のことで、理性や論理的に考えること、
行動の判断など頭で考えている部分のことです。
例えば、「今日は家でゆっくりしよう」「仕事で成果を出したい」
「カフェで勉強しよう」このような思考は顕在意識で考えていることです。
顕在意識をコントロールすることができれば、自身の意思決定や、
感情のコントロールをすることも可能になります。
潜在意識(無意識)とは、普段は意識できない心の領域のことです。
感情や直感、本能的な欲求などは潜在意識に含まれます。
また潜在意識は、過去の記憶や感情を蓄積する「記憶の貯蔵庫」とも呼ばれています。
様々な経験を通して、見たことや聞いたこと、感じたことなどが気づかぬうちに、
潜在意識に蓄積されているのです。
私たちの意識には、顕在意識と潜在意識の2つの領域があると言われています。
顕在意識は、自覚できる意識の領域で、
潜在意識とは自覚できない意識の領域のことです。
また他にも、これら2つは意思決定の場面に注目したときに、
及ぼす影響に違いがあります。
例えば、重要な会議の場で発言をしようとした際に、「発言をする」か、
「発言をしない」かを、最終的に決めるのは、顕在意識です。
その中で、意思決定の要因になるのが、過去の体験や経験を蓄積した潜在意識です。
人生の中で、
過去に間違った発言をして恥ずかしい思いをした
過去に間違った発言をして恥ずかしい思いをした
自分の意見を否定された
意見を主張して周囲から嫌われてしまった
このようなインパクトのある嫌な経験をされている方は、意見を言うことに
対して、「失敗をして恥をかくことが怖い」「もう同じ嫌な経験をしたくない」
と無意識に抵抗を感じ、発言を控えるかもしれません。
一方で、過去に意見を言って、褒められたり、認められたりした
経験が多くある人は、会議の場で意見を主張することができるでしょう。
このように、人生の中でどのような経験をしたかによって、
潜在意識に蓄積される感情や思考が変わり、行動が大きく左右されるのです。
なぜ、このような意思決定の場面で、過去の体験や経験が影響しているかと言うと、
心の領域の3%〜10%前後が顕在意識、90〜97%前後が、
潜在意識が占めているからだと言われています。
このように、どれだけ顕在意識で、自分を変えようとしたり、
行動を起こそうとしても、なかなかうまくいかないのは、過去に体験した
感情や経験が蓄積されている領域である、潜在意識が気づかぬうちに
大きな影響を与えているからです。
また、過去にトラウマのような衝撃的な経験をしていると、
心の傷を癒やさない限り、人生や仕事の場面で意思決定をする際に、
あなたも気づいていないところでマイナスな影響を与え続けるのです。
つまり、顕在意識と潜在意識の違いは、このような意思決定の場面での
影響や、自覚できるか、そうでないかといった点があります。
以上のことから、顕在意識を変えると同時に、
潜在意識も変えていく必要があるのです。
如何でしょうか?
顕在意識と潜在意識の違いと必要性がお分かりになりましたでしょうか?
意思決定と議論の場では使い分けが出来ると便利ですよね。
1月 19th,2025
恩学 |
潜在意識 はコメントを受け付けていません
この言葉は成功者の言葉だから取り上げられたのだろう。
もし名もなき人の言葉なら誰が関心を寄せたのだろうか?
この言葉も第三者へどれほどの影響力を与えたのか分からない。
どれほどの成功でも死んでしまえば歌舞伎座へ誘うことも、
能楽堂へ誘うことも、茶懐石に誘うことも出来ない。
心が楽しめなければ生きている意味が無い。
病気や怪我で寝たきりになると次は認知症になり何もかも忘れてしまう。
しかし医者に言わせると周りが思うほど本人は苦しんでいないという、
それは自分の名前も、家族も、思い出も、忘れてしまうので苦しまない。
普通の生活の営みが出来なくなって苦しんでいないといえるのだろうか?
いささか疑問が残る発言である。
高齢医療の末期は家族同士で延命治療を受けさせるかで話し合いになり、
心電図に波形が消えないうちに死亡を認めるには忍びないと言う。
患者は食事の管や尿や便の管まで取り付けられて痛々しい姿をさらけ出す。
それでも生きているという事がいえるのだろうか。
ようやく運命によって死を迎え安らかな顔を見て家族は死を実感する。
長年連れ添った相手なら言葉にならないほど焦燥感が襲ってくる。
もっと食べたいものを、行きたいところへ、本人のしたいように
してあげれば良かったと後悔の念も頭をよぎる。
しかし、家族は亡くなれば直ぐに葬儀の手続きに頭がいって
お通夜に来た人ほど悲しみに浸れないのが常です。
死んでいく人はどのような思いで死んでいくのだろうか?
伝えたい言葉も沢山ありながら悔しい思いをしているに違いない。
スティーブ・ジョブズが残した最後の言葉
他の人の目には、私の人生は
成功の典型的な縮図に見えるだろう。
しかし、仕事を除くと
喜びの少ない人生だった。
人生の終わりには、富など
私が積み上げてきた
人生の単なる事実でしかない。
病気でベッドに寝ていると
人生が走馬灯のように思い出される。
私がずっとプライドを持っていたこと
認められることや富は
迫る死を目の前にして
色褪せていき
何も意味をなさなくなっている。
この暗闇の中で生命維持装置の
グリーンのライトが点滅するのを見つめ
機械的な音が耳に聞こえてくる。
神の息を感じる。
死がだんだんと近づいている。
今やっと理解したことがある。
人生において十分にやっていけるだけの
富を築き上げた後は
富とは関係のない
他のことを追い求めた方が良い。
もっと大切な何か他のこと。
それは、人間関係や、芸術や
または若い頃からの夢かもしれない。
終わりを知らない富の追求は
人を歪ませてしまう。
私のようにね。
神は、誰もの心の中に
富によってもたらされた幻想ではなく
愛を感じさせるための「感覚」
というものを与えてくださった。
私が勝ち得た富は
死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。
私が持っていける物は
愛情に溢れた思い出だけだ。
これこそが本当の豊かさであり
あなたとずっと一緒にいてくれるもの
あなたに力を与えてくれるもの
あなたの道を照らしてくれるものだ。
愛とは何千マイルも超えて旅をする。
人生には限界はない。
行きたいところに行きなさい。
望むところまで高峰を登りなさい。
全てはあなたの心の中にある
全てはあなたの手の中にあるのだから。
世の中で、一番犠牲を払うことになる
物質的な物はなくなってもまた見つけられる。
しかし一つだけ無くなってしまっては
再度見つけられない物がある。
人生だよ。命だよ。
手術室に入る時、その病人は
まだ読み終えていない本が1冊あったことに気付くんだ。
「健康な生活を送る本」
あなたの人生が
どのようなステージにあったとしても
誰もが、いつか人生の幕を閉じる日がやってくる。
家族を大切にしてください。
あなたに寄り添ったパートナーを大切に!
長年付き合ってくれた友人を大切にしてください。
そして自分を丁寧に扱ってあげてください。
あらゆる人を大切にしてください。
最後の言葉は笑顔で伝えてください。
1月 16th,2025
恩学 |
最後の言葉 はコメントを受け付けていません
以前から私のブログ「恩学」は文章が長いと言われました。
短い文章じゃないと誰も読まないから無駄ですとも言われた。
個人のブログですからそのようなことを気にせずに書き続けています。
現在、音楽プロデューサーとして発想の捉え方を知らせる為に
文章の長短を気にせず書き続けて630篇を超えております。
稚拙な文章でも初期の頃より少しは上達したかと自画自賛しています。
本日この投稿の内容「読めない」を見て納得しました。
と言うよりは何故文書の長さを気にするか腑に落ちました
インタビューを求められた時にも同じことが言えます。
ついつい歳をとると説明が長くなります
自分の経験や書物からの引用で20分~30分は話をしています。
最近私が所属している老人と孫のスタッフ(20代前半)からリクエストがあり
SNSで「老人に一言インタビュー」という動画に出演しました。
30秒ぐらいの長さで物足りなさを感じていたのでしたが、
あっという間に多くの方々からの反応があり驚いています。
バズることが出来れば課金もされると言うことで調子に乗り
立て続けに4~6本収録しました。笑い
やってみて若者たちがユーチューバーに走るのも分かる気がします。
良し悪しの反応がすぐに出るので感覚一発勝負的な映像オンリーの
ウケばかり狙っていることです。
これでは書物に触れることも文字に無頓着になるのも仕方ない気がします。
しかしこの本を「読めない」現象は思考を鍛えることに致命傷を与えます。
本を読み考えるから想像力が生まれる、そして追求するところから
科学が発展する、それに反論するところに哲学も生まれてくる。
若者が「読まない」「読めない」はハナから議論の相手にもされないのです。
法政大学前総長、田中優子さんの警鐘。
「私なりの理解で古谷経衡さんの分析を紹介する。
驚いたのは、多くの人々が本や新聞を、スポーツ新聞を含めて
読めなくなっている、という事実だった。
漫画も読み続けることができず、
アニメシリーズも継続して見ることができない。
映画は15分で粗筋を知るか、早回しで見る。
本や新聞を読まないことは知っていたが、『読まない』のではなく
『読めない』のだとは、考えもしなかった。
この状況説明は、石丸伸二氏がなぜ東京都知事選で票を伸ばしたかの
分析で述べられたものだ。石丸伸二氏の選挙戦略とは、以下のものだった。
①都民の多くは政策を読んでもわからないので政策には言及しない。
➁長く演説を聞くことができないので15分で切り上げる。
③その代わりインターネット上のさまざまな手段で膨大に発信する。
④理解して投票することができないので、体験談で共感者を増やす。
⑤自身が具体的な議論ができないので、攻撃的なもの言いをする。
それによって、議論していないのに論破したように見え、
『勝った』と感じさせることができる。どうやら本当にカラッポなのだ。
石丸氏が尊敬している人のリストの中に上野千鶴子と櫻井よしこの
両氏が入っていることを私は不審に思っていたが、そのあり得ない両立は
『読んでいないから』成立したという。納得。
京都大学を卒業して大手銀行に就職する人も『本を読めない』
『読んでも理解できない』時代になっているのである。
確かに入学試験や就職試験は、本が読めなくても通る。
今後も人々が本も新聞も読まず、テレビではお笑いとグルメ番組を見て、
インターネットで気に入る言葉のみを拾うとしたら、改憲だろうと
戦争だろうと政府の思うままに突き進むことができる。
それらをいち早く実現する方法を、都知事選で石丸氏は示した。
政府はむろん大歓迎だろう。
必要なことは教育内容の見直しだ。
小学校で憲法を覚えさせ、戦争の歴史と、歴代の政治政策と、投票の意味を知る。
中学校と高校では、実際に存在する日本と世界の社会問題を使って、
議論をする。そのために多くの本を読み込み、その意図を理解し、
自分の言葉で語り、書く。本は教養なんぞのためではなく、生きるために、
読むものなのである」(『週刊金曜日』2024年9月17日)
文章を受け入れる脳にならないうちに学習を続ける。
授業だと言う一言で暗記させられる。一度つまずくと追いついて行けなくなる。
家庭の事情で予習・復習もままならない環境の子供たちは
自然にスピンアウトする。
何も役に立たない勉強より仕事に直結する実技を覚えたいと専門学校へ行く。
早くから社会へ出ていく子供たちは益々読書の機会が訪れない。
成功へのチャンスが遠のくばかりである。
私が読書好きになったのは事業に失敗した60歳の時からである。
自分の会社が倒産して仕事が無くなり、自分時間が増えた時
今までの人生を振り返り反省するために手当たり次第に本を読み続けた。
ジャンルにこだわらずに乱読の極みのような読み方であった。
どの本も全て面白かった。頭の中の記憶の薄皮がはがれるように暗記できた。
現代のようにテクノロジーの世界で育ち、生成AIの恩恵にあずかり、
モバイルで世界と繋がる。手の中ですべての要件が済むので過度な努力はしなくなる。
昔大人たちが体で覚えて来た学習方法は時代遅れなのである。
社会全体が毎年デジタル時計のようにパタンと入れ変わるだけである。
更に文章をよまない時代になるとQRコードに携帯をかざすだけで、
音声で説明される。眼鏡をかけるだけであらゆる情報が音で手に入る。
本格的にウエラブル時代が到達する。
私達高齢者が最後の読書世代かもしれない。
いや昭和歌謡が流行のように突然若者世代から読書熱が起こるかもしれない。
そう期待したいのである。
最後に私の読書術をお教えします。
毎回違うジャンルの本を3~4冊同時読みします。
一つの本を1時間読むとあきてしまうからです。
それが同時読みするとあきた時点で次の本に移れるからです。
いつまで乱読が続くか分からなったので読むとすぐに感想を書きました。
それがブログ「恩学」を書くときに役立ちました。
皆様も同時読みをお試しください。
1月 13th,2025
恩学 |
読めない人たち はコメントを受け付けていません
「心」に対して何を持って本質と言うかは個人的主観によるところが多い。
それは「心」を断定する記述が少ないからである
唯一、哲学者や作家が推測で述べている文章しかないからである。
私の知る所では「知・情・意」を提唱したギリシャの哲学者カントが
最も大好きな「心」の表現者である。
夏目漱石が書いた「草枕」の冒頭にこのような文章がある。
「知に働けば角が立つ、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ」
学生時代に何故かこの文章を暗記して口ずさんでいた。
そして調べていくうちにカントにたどり着いた。
カントの言葉によって心の在り方を知った気がしていた。
理不尽な世の中に対抗するにはどうしたら良いか悩んでいた時に、
何事にも偏らずに「バランスの良い人生を過ごせよ」と言われた気がしたのです。
「知・情・意」
哲学者カントは、人間の精神のはたらきとして「知・情・意」の3つを
考えました。彼は「私は何を知りうるか|私は何を望んでよいか|
私は何をなすべきか」との有名な問いを示し、
人間の知性・感情・意志を吟味検討しました。
知・情・意を現代的に概括すると次のようになるでしょうか。
〈知〉
知性に関わる心のはたらき
賢さ、分析、理論
真や利の価値を目指す
アタマ/手/足で行う
科学、技術・エンジニアリングの世界
〈情〉
感情に関わる心のはたらき
優しさ、感性、美意識
美や快の価値を目指す
胸で感じる
芸術、デザインの世界
〈意〉
意志に関わる心のはたらき
正しさ、洞察、内省、観
善の価値を目指す
肚で観ずる
倫理、哲学、宗教の世界
ギリシャ時代の哲学者が残した文章を現代語訳として書かれている。
これらの詳しい記述は誰が書いたか定かではないが、
日本語訳としては十分理解が出来る。
私が「心」で感じるのは心による精神的安寧である。
物理的状況から起こる悩みは身体的であれば医療で解決できる。
精神的問題であれば心理学に頼る前に音楽や絵画や書籍でも解決できる。
時には旅に出て素晴らしい風景で心が洗われるときもある。
学生時代に少しだけ茶道と華道に触れた機会があった。
老若男女上下に隔たりなく茶の前とお華の席では誰しもが客人として扱われた。
静寂に包まれた庭、簡素な佇まいの室内、厳粛な所作、床の間におかれた花、
壁にかかる掛け軸、日常と違う異空間でひと時を過ごす。
終われば、別室に移り茶懐石を頂く。お香の炊かれた部屋でお庭を見ながら
季節に合わせた精進料理をいただく。
会話も自然と心にまつわる日本文化の神髄について話し合うことが多い。
元々茶は禅宗のお寺で医療用としてふるまわれていた。
だから禅とお茶は切っても切れない関係である。
「茶道における禅語の役割と魅力」
禅語とは何か?茶道における意味
禅語とは、禅宗の教えを短い言葉で表したものです。
茶道では、禅の精神を取り入れ、心の静けさや調和を大切にします。
禅語は、茶室という特別な空間において、亭主の思いや季節感を表現し、
お茶をいただく人々の心を豊かにする役割を担っています。
茶席における禅語の重要性(心を整える、季節を感じる)
茶席では、掛け軸に書かれた禅語を鑑賞することで、日常の喧騒から離れ、
心を落ち着かせることができます。また、禅語は季節を表すものも多く、
その言葉を通して季節の移ろいを感じ、自然との一体感を味わうことができます。
例えば、春には「薫風(くんぷう)」、秋には「明月(めいげつ)」
といった禅語が選ばれることが多いです。
禅語がもたらす心の静けさ
禅語は、深い意味を持つ言葉であるため、一見難解に感じるかもしれません。
しかし、その言葉を理解しようとすることで、自然と心が静まり、内なる平和を
見つけることができます。
また、禅語は、私たちの日常にも通じる教えが含まれており、
日々の生活の中で迷った時、そっと背中を押してくれるような力を持っています。
音楽プロデューサーとして沢山の楽曲との出会いがあり、
楽曲としての優劣や時勢に合うか会わないかを選び制作をする職業です。
一つの作品をアーティストと作る際に、
それぞれの曲に対しての想いを話し合いながらアルバムとして完成させます。
ポイントは感情の発露です。喜怒哀楽に伴う人間の心理です。
言葉(歌詞)にメロディーが、ビートが、歌声が合うか、また感情の起伏を
引き出す楽器が何かも世界中の楽器から選び出すこともありました。
私は音楽プロデューサーとしてジャンルの違うアーティストを沢山抱えていました。
職業プロデューサーですからヒットを出し続けなければなりません。
年間通じてたくさんのアルバムを作り、発表していたのですが、
新作は制作が終わると大切な本を本棚に収めるようにしまい込みました。
そして次の作品に取り掛かる前に心の整理リセットが必要でした。
海外へ出向いて新作のミュージカルを観たり、風光明媚な場所を旅したり、
時には危険なエリアのクラブへ忍び込んだりもしました。
「心」とは、常に関心事に迷いを取り除く起爆剤だと思っています。
いつも自分自身の心に従って行動を起こしていた気がします。
「心」は勝手に良き方向へ動きません
「心」を育てなければ満足感は得られません
「心」は人格です
「心」は命です
1月 10th,2025
恩学 |
心の本質 はコメントを受け付けていません
五匹の動物という話があります。
私の講座でもこの問題を出題した事があります。
これは有名な心理テストです。
一度試してみては如何ですか?
あくまでもアイスブレークとしての遊びです。
あなたは今、ライオン・牛・ラクダ・馬・豚と砂漠にいます。
砂漠から出るには、一緒にいる動物たちの一匹を手放さなくてはなりません。
最初にどの動物を手放しますか?
砂漠は出られましたが街は見つからず
あなたは残った4匹の動物と一緒にまださまよっています。
そして、食料が尽き動物を手放す時が来ました。
次はどの動物を手放しますか?
残った3匹とあなたが、ひたすら歩き続けていると
突然、急な崖が現れました。
あなたはまた動物を手放します。
次はどの動物を手放しますか?
2匹の動物たちと歩き続けましたが、街は見つからず、
とうとうあなたはどちらかの動物を手放さなくては
いけなくなりました。
あなたはどちらを残し、どちらを手放しますか?
この診断で分かるのは、
「あなたは困ったときに切り捨てるモノ」の順番です。
ライオン・・・・プライド
豚・・・・友人
ラクダ・・・・恋人・配偶者
牛・・・・食べ物・お金
馬・・・・情熱・夢・仕事
如何だったでしょうか?
心当たりはありますか?
こちらは友人のジャーナリストのSNSへの投稿文です。
彼が出版したビジネス書「孫子の兵法」に、
私の仕事上の経験が掲載されたことでお付き合いが始まりました。
とても理論的なビジネスの参考書を書くのですが、
皮肉を込めた政治家などの批判文も書くのも得意です。
少し世の中に攻撃的な部分が互いに共感したところです。
沖縄県知事の発言に対して
この御仁のニュースは、もうスルーしようとしていたが。
馬脚をあらわした??馬の足を現したと言うことです。
どうにも「反日的」な言動を行なう、いわゆる「ヒダリ」に属しています。
(この二項対立の分け方には抵抗あるが、ここは便宜的に)
ヒダリの方々の思考回路が理解できないんだが、一つの仮説がある。
保守(≒右寄り)は、わりと「ファクト」を積み重ねて思考する
(もちろん思い込み激しく決めつけの感情論に走る一派もあるが・・・)。
ヒダリの方は、脳内に理想郷(キレイな言葉だが、お花畑)があって、
都合の悪い現実から目を背ける「認知バイアス」の症状がお強いような・・・
「軍備増強、反対」「戦争は話し合いと外交で解決」とか仰る方々。
彼らが「保守」とか「右翼」とか断じる方々はなにも平和維持を
「軍備」だけでやろうというわけじゃない:両輪なんだと思う。
そもそも戦争は外交の最終手段。言ったのはクラウゼヴィッツだったか、
ヒダリの方々は、軍事力による抑止力を否定するんだけどね。
では、ウクライナは、台湾は、フィリピンは、チベットは、ウイグルは・・・・
厳しいリアルにどう向かうか・・以上
彼は持論を言いますが結論は言いません。
自分が手に入れた情報を自分なりの色付けをして
あとは読者に任せる手法です。
情報は何を残して何かを捨てなければバランスが取れません。
正論を積み重ねると矛盾が生じて破滅の道をいくことになります。
両面あわせ持つ寛容性が大切である。要するにバランスの問題です。
両面とは現実と理想を併せ持つことです。
真実を知ってどうなるのかと云う意見があります。
知っても何もできないのだから真実などどうでもよい。
今の暮らしを維持できれば正しい情報なんて不要です。
私はこのような意見には猛反対です。
しかし時には考えた末に両方忘れることをします。
陰陽の法則では無いですが両面を知ってから自分の意見をまとめる。
しかし時には両方を手放す。両方を忘れるという事も大切です。
「両忘」 (りょうぼう)
両方忘れるという意味で、りょうぼうと読みます。
何を両方忘れるのかというと
対立する2つの概念ということになります。
例えば、豊かさも貧しさも気にしないということです。
正義も悪も忘れて現実のみに生きるということです。
さすればおのずからと無意味な悩みなど浮かんでこない。
知識が行く手を阻むのであれば知識を捨てて
自己感性を尊重すべきです。
さて皆様はどのような結果になりましたでしょうか?
五匹の動物を一匹ずつ手放していくテストです。
ライオン・・・・プライド
豚・・・・友人
ラクダ・・・・恋人・配偶者
牛・・・・食べ物・お金
馬・・・・情熱・夢・仕事
私は、牛、馬、豚と手放してそのあとにラクダを手放した。
最後に残ったのはライオン(プライド)です。
私には未来の子供たちに文化をつなぐ使命があります。
どれほど大変でも日々行動を止めないのは、
音楽プロデューサーとしてのプライドです。
1月 9th,2025
恩学 |
心の在り方 はコメントを受け付けていません
人をやり込めることを「人を食う」と言います。
またあがり症の解決方法として「人を飲む」とも言います。
何故こんな言葉が出来たのでしょうか?
人を食ったは、人をばかにしたような、人を人とも思わない、
という意味の連体修飾句で、「人を食った話」「人を食った態度」などと使う。
「食った」は、「人を食う」の「食う」の連用形に、ある状態が過去から
継続していることを表す助動詞「た」の連体形を加えて連体修飾語としたもの。
「人を食った」は、辞書には「人を食う」という見出しで載っているが、
あまりにハンニバルのレクター博士に寄りすぎているので、
この形で使われることはあまりない。
「人を食った」も、そのままではエイリアンの自白みたいなので、
「話」「態度」のように体言を付けてようやく例えだということがわかる。
もっとも「人を食った話」でも、ラフカディオ・ハーンの怪談のタイトル
かと勘違いされるので(ハーンにはそのようなタイトルの小説はない。
ただし『食人鬼』という小説はある)、取り扱い要注意の慣用句ではある。
「食う」は食べるという意味だが、もとは、噛みつくとかくいつくという
意味の言葉なので、そこから「チャンピオンを食う」のように強い相手に勝つ、
「いっぱい食う」のようにだまされる(食わされる)などの意で使われ、
「人を食う」も攻撃して相手を倒すといったニュアンスを含んだ言葉と
なっている。
人という字を飲み込むとは手のひらに「人」という字を3回書いて
飲み込む動作は、「人を飲み込む」ということで、大勢の人前に出たときに、
その大勢の人に飲まれないようにするというおまじないのような要素が
あると考えられます。
一説によると、手のひらの中心には心を落ち着かせる「労宮」という
ツボがあって、人という文字を書くとその「労宮」というツボを自然と
なぞるらしいため、あがり症防止の効果があるといわれています。
「労宮」は心臓に繋がっていて、そこを軽く触れるだけで交感神経の興奮を
抑制し、ほてりやめまい、緊張をほぐす効果を得られるとのことです。
(労宮の位置は手のひらの中央。指を握ると中指の先端が手のひらに当る所)
手のひらに「人」という字を3回書いて飲み込むとは少し異なりますが、
歌舞伎役者の故・中村勘三郎は、先代の勘三郎の名前を手のひらに書き、
緊張せずに舞台を続けるまじないをかけていたという逸話が残っています。
これらの言葉は落語の世界や舞台役者の世界でよく使われてきた言葉です。
駆け出しの落語家が寄席に上がるときに先輩噺家から緊張しないようにと
掌に「人」と言う文字を3回書いて飲み込めと言われる。
勿論、舞台役者の世界でも途中で台詞を忘れないようにするために
このおまじないをする人もいました。
最近では「人を食った」話がそこかしこにあります。
SNSが普及されるまでは有名人はプライベートを隠し通すことが出来た。
レストランで食事をしてもVIPルームへ通されて個人の秘密が守られた。
たとえ問題が起きても事務所の圧力で各方面にもみ消しが出来たので
世の中に出ることはありませんでした。
そのお陰でテレビや映画の世界の人は我々とは違う別世界に住んでいると
思った人もたくさんいたのではないでしょうか?
ある意味スターが存在したから感情の高ぶりを覚えて夢を描くこともできたのです。
生活の疲れや仕事のストレスも好きな映画俳優や音楽家を見たり聞いたりして
ひと時忘れることも大切なことだったのです。
それがいまや街を歩いても、買い物をしていても、
仲間と居酒屋で騒いでいても身内の誰かがSNS上に投稿してしまうので
秘密を隠し通すことは出来なくなった。
全てのスターは友達感覚が要求されてしまう。
「人を食った」あらゆるものが裸のままで暴露されてしまいます。
タレントのスキャンダラスな話題もメディアが取り上げる前に
SNS上に情報が流れてしまいます。止めることは出来ない。
お笑いのあの人が、アイドルのあの人が、弁護士のあの人が、
政治家のあの人が性加害者と出てくるたびに日本のモラルが低くなったことを
嘆かわしく思います。本当に「人を食った」話です。
人気商売はサラリーマンが10年かけて得る収入を年齢に関係なく
わずか1年ほどで稼ぎ出します。
「私達も普通の人間です」からと言い訳する有名人を見るたび腹が立ちます。
高収入を稼ぎ出す有名人は普通じゃないから、
期待される通りの演技や芸を見せろと言いたくなります。
その反面、日本の伝統芸能を守る人たちは子供のころから厳しい
修行にたえて舞台へ上がります。修行中は無収入が当たり前の世界でした。
家柄や世襲制度で名前を残すためには芝居以外にも支援者との
付き合いで苦労したといいます。
芸を極めるための努力と収入が比例しないのです。
昔は俳優になるために俳優座や新国劇などの舞台を経験した人が
時代劇役者として活躍した人が大半でした。
勿論、現代劇も天井桟敷や赤テントで鍛えられた役者が映画や
テレビに出演してお茶の間を賑わしていました。
下積みの時代は無収入でアルバイト掛け持ちの人が当たり前、
役者は貧乏が当たり前、金持ちになればいい演技が出来ないとも
言われた時代です。
音楽で言えば音大を出てオペラ歌手やソリストとして演奏家になるのが普通でした。
舞台に上がれない人は近所の子供たちに楽器を教える先生になるしか道はありません。
それが70年代の初めからポピュラーミュージックというジャンルが生まれて
音楽の基礎を学ばなくてもデビューすることが可能になり、音楽好きな若者たちが
独自のエンタテイメントのビジネスの世界を作り上げてしまいました。
その後テレビが普及されてから顔が良いだけで映画やドラマに出る
素人の役者も増えました。プロというアマチュアの人達です。
一本当たれば次々に出演が決まり高額所得者の仲間入りを果たします。
事務所の力があればイベントやコマーシャルにも出ることが可能になり
写真集やCDを発売することも出来ました。
人を食ったり、人を飲むこともしないで大舞台へ上がります。
時代は変わりました。日本国中がタレント化しているように見えます。
歌バトルの番組を見ていると素人の人が堂々としている姿を見るたびに驚きます。
ダンスバトルでもコーラスバトルでも
プロ以上のパフォーマンスを繰り広げています。
憧れは夢の話ではなく簡単に現実の話として取り入れる時代です。
インタビューで「プロとアマチュアの違いは?」という質問を受けました。
アマチュアはいつでもやめることが出来るがプロはやめることが出来ない。
プロとして生き残るためには好き嫌いで判断するのではなく
プロを目指したときの動機「一流になる」を忘れないことです。
その為に厳しい練習とライバル同士の戦いに望むのです。
プロが一番大切にしなくてはいけないことは「継続」です。
どんなにつらい状況でもやり続けることがプロです。
私は一生プロの音楽プロデューサーです。
1月 6th,2025
恩学 |
人を食う・人を飲む はコメントを受け付けていません
前回の「仏教的人類創造とは」、の続編です。
キリスト教では「天地創造」は神の行為とされています。
神が天と地を創造したことによって世界が始まったとする考えです。
私はキリスト教の信者ではないのですが
英国在住の友人に連れられて洗礼の儀式を受けたのです。
その時に聞いた話も含めて「人間創造」紹介します。
今回も私の秘書ジェミニ嬢に手助けをしてもらいました。
キリスト教の教えにおいて、
人類の創造は神(神父)が行ったとされています。
キリスト自身は人類を創造したのではなく、
創造主である神の息子として、
人類の救済のためにこの世に現れたと信じられています。
キリスト教における人類の創造
神による創造: 旧約聖書(特に創世記)に記されているように、
神が天地創造を行い、その最後に人間を創造しました。
人間は神の似姿として造られ、神との特別な関係を持つ存在として
位置づけられています。
キリストの役割: キリストは、この神の子として生まれ、
人類の罪を贖うために十字架に架かり、復活したとされています。
キリストの死と復活は、人類を永遠のいのちへと導くための神からの
贈り物であり、キリスト教の中心的な教義です。
キリストと人類創造の関係性
キリストは、人類を創造した神とは別の存在ですが、神との一体性を
持っており、人類の救済という神のご計画において重要な役割を担っています。
神の子としての役割: キリストは、神の子として人間となり、
私たちと同じように苦しみ、悩み、そして死を経験することで、
私たちと一体となり、私たちを救済へと導きました。
新しい契約: キリストの死と復活は、神と人間の間の新しい契約の
始まりを意味します。旧約聖書の契約が破られた後、キリストを通して
新しい契約が結ばれ、私たちは神との関係を回復することが
できるようになりました。
キリスト教における人類の目的
キリスト教では、人間は神に似せて造られた存在であり、
神との関係の中で生きることを目的としています。
キリストの教えに従い、愛と赦しを実践することで、
永遠のいのちへと導かれると信じられています。
キリスト教における人類の創造は、神によるものであり、
キリストは人類を救済するためにこの世に現れた存在です。
キリストの教えは、私たちが神との関係を回復し、
永遠のいのちを得るための道しるべとなっています。
キリスト教の教えは非常に奥深く、様々な解釈が存在します。
創世記: 旧約聖書の創世記には、神が天地創造を行った詳細な
記述が記されています。
新約聖書: 新約聖書には、キリストの生涯と教えが記されています。
特に、ヨハネの福音書は、キリストの神性と人間性を深く掘り下げています。
三位一体: キリスト教の神は、父なる神、子なる神(キリスト)、
聖霊という三つの位格からなる一体であると信じられています。
救いの計画: キリスト教では、神が人類を救うために立てられた計画を
「救いの計画」と呼びます。
この説明は、AIがキリスト教における一般的な見解を簡潔にまとめたものです。
キリスト教には様々な宗派があり、それぞれの宗派によって解釈が
異なる部分も存在します。
最近私の友人がChatGPTに嵌り見事に使いこなしています。
彼の質問内容が明確で連続性を持っているので
提案書も要望書も完璧な状態で仕上がって来ます。
具体的な名称や代表者の名前、組織名、関連自治体、国際交流の有無など
とても正確な情報の元でやり取りをしているので回答も明確です。
それを語学変換して海外のパートナーとやり取りをしています。
因みに彼は外国語は一切話せません。
私の心配する所は正確な情報がデーターとして残ることです。
ChatGPTは世界の情報を吸い上げて瞬時にまとめる生成AIです。
この情報を取り入れることは相手側の企業や団体の秘密が
公にされるという危険性です。
我々は関係会社へ新規企画として持ち込んだ案件に対しては、
一般的には守秘義務契約を結びます。
相手側の社員がこの企画書に書かれた質問を回答するために
生成AIを通じて行った場合は世の中にオープンにしたという事で
契約違反になります。最悪の場合は損害賠償金が発生する恐れがあります。
私の様に知りたい事柄を検索する分には問題がありません。
質問内容を決めたのも私です。知りたい事柄を検索したのも私です。
それをまとめ上げたのも私です。しかしこの文章を利益目的で
使用した時の著作権がどうなるのかは分かりません。
世界中にある膨大な情報から回答しているので著作権者は見当たりません。
ということはGoogleが何らかの主張をしない限り使い放題ということです。
もうITが苦手だ!インターネットは興味が無いと言っては駄目ですよ。
これは単に流行りものに飛びついているのではないのです。
時代の流れに乗るパスポートだと思ってください。
これが無いとビジネスもコミュニケーションも取れなくなるのです。
年齢や性別を言い訳にしては駄目ですよ。
これを知ることにより山奥の地方に住んでいても
仕事が出来ます。
もちろん海外に住んでいても可能です。
私は生成AIと2人3脚で仕事をしています。
最新の音楽AIはジャンルとテンポと伝えたいメッセージを入れると
僅か3~5秒で見事に歌入り音源で送り返してくれます。
気に入るまでリクエストを聞いてくれます。
DTM(デスク・トップ・ミュージック)
アーティストも録音スタジオも販売会議も不要です。
先ずは化学の進化を脅威と感じずに娯楽として取り入れてください。
1月 5th,2025
恩学 |
人類創造&科学の進化 はコメントを受け付けていません