狂気なき天才とは
才能がある一般人と特別な能力を持つ天才との違い。
天才たちが必ずいう言葉は「天才とは努力の積み重ねが結果として
現れたもので、何もしなくて天才という人間は生まれない」
天才とは努力の積み重ねを言う。しかし多くの天才は克服の追求者で
あることには間違いない。自己実現型ではなく自己追求型である。
天才の顔つきは共通点が有る。どこか一点を睨め付けているような顔である。
そして一様に寡黙な顔つきで喜怒哀楽の表情を表さない。
天才は年齢に関係なく頑固者が多い。
何があっても信念は変えない一途な顔をしている。
天才に言葉は必要ない。しかしインタビューに答えるために
いつも目が動きキョロキョロしているのは精神的な不安と、質問者から
愚問を投げかけられた時に答えに窮して戸惑った表情になるからである。
以前、IPS細胞の研究をしている山中伸弥先生にお会いした時に感じた事がある。
山中先生といえば2006年にマウスの皮膚細胞から、2007年にはヒトの
皮膚細胞から人工多能性幹(IPS)細胞の作製成功を発表し、
新しい研究領域を拓く。これらの功績により、2010年に文化功労者として
顕彰されたことに続き、2012年には文化勲章を受章。
2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
お話上手で人の良い印象を持ったのですが、その眼光は鋭く目標に向かって
曇りない一点を見つめている顔が印象的でした。一度は研究発表を話された時、
また別の機会では支援金を集めるためのコンサート会場でお見かけしました。
ノーベル賞受賞者自ら資金を集めなければならない現実に少し驚きました。
ここに日本政府の文化芸術及び医学の研究者に国の宝として援助する気持ちが
無い事です。
過去と現代を比べてみると天才のスタイルが大幅に変わって来ている。
野球の大谷翔平選手や将棋の藤井聡太八冠といった、常人の想像を超えた
前人未到の道を切りひらいている“天才”の姿に日本中がわいている。
特定の分野に愚直に向き合い、それを楽しんでいる彼らの姿が、
いっそう私たちの好感度を高めている。
一方で、「天才と狂気は紙一重」という
言葉で表現されるような特徴は、かつての天才に欠かせぬものだった。
精神科医で批評家の斎藤環さんは「天才が持っているダークサイドに
今や人々が興味を失っている」と分析する。
天才像の変容について聞いた。
たとえば、19世紀の天才画家・ゴッホの人生はトラウマだらけです。
他にも天才的な詩人・宮沢賢治も妹を早くに失うなど、トラウマ的な
経験のなかで、激烈な創造性を発揮しています。
彼らが経験した厳しい逆境を踏まえるなら、最近の作家や制作者たちは
天才を“キレイ”に描いているなと思いますが、それはすなわち、
今や人々は天才の持つダークサイドに興味がないことの裏返しだと思います。
天才のダークサイドを描いても、人々に響かない時代になりつつある。
トラウマ的な経験のなかで、激烈な創造性を発揮してきたかつての天才たち。
AIの時代に入ると勝手にコンピューターが天才を分析してしまう。
少年時代、青年時代、世の中に登場した時代を理路整然と語る。
大谷翔平のように高校時代の計画表であるマンダラマップが提示されて
天才の凄さを見せることが簡単にできてしまう。
しかし波ならぬ練習方法や肉体改造の苦労までは書かれていない。
その上にSNSの影響で簡単に自宅が紹介されて奥様とのプライベート迄
毎日書き込まれてしまう。下品なのはそれをメディアが取り上げることである。
正式に取材できない部分SNSの情報を大衆に流してしまう。
モラルの低下とプロとしてのプライドの無さにはあきれてしまう。
過去には天才と称された画家山下清がいた。
<山下清(やました・きよし)> 1922〜71年。東京・浅草生まれ。
知的障害児教育施設「八幡学園」で貼り絵と出会い、顧問医らの指導で
才能を開花させた。18歳の時、学園を脱走。放浪生活を繰り返す。
戦後、各地で作品展が開かれ「日本のゴッホ」と評された。
徳川夢声との対談などでの発言「兵隊の位に直せば…」が流行語となる。
山下清に対する美術の専門家たちの評価は今も昔も散々です。
中身がない、深みがない、踊らされているだけ…。
彼を支援するはずの福祉の専門家からも「一人の天才を称賛するのは、
障害者の教育・支援の方向として間違い」と批判されます。
共通しているのは、山下への忌避感。専門家、職業人といわれる人たちが、
自分の地位の土台である「芸術は、福祉はこうあるべきだ」という固定観念が
揺らぐ危険を感じ、排除しようとしたとさえ感じます。
特に、美術の専門家たちの反応には、「高尚で洗練された」美術制度とは
無縁の山下のほうが大衆的には人気が高かったことへのねたみや怒りが見てとれる。
表面上は見えないように繕ってきた偏り、ゆがみ、傲慢(ごうまん)さが
見えてしまう。山下はまるで魔鏡のようです。
それでは山下の作品をどう見るか。正直、今でも正当に評価されているとは言い難い。
構図や色の選択はある意味で「凡庸」。絵はがき的と思えるかもしれません。
しかし、よく見ると常人には不可能な超絶技巧で作られています。
その技術の冴えだけでも一見の価値はある。
加えて、その描かれた時空間の独特さ。一瞬を写したような作品なのですが、
そこには山下が経験した長い時間が凝縮されて閉じ込められています。
それは写実のようで写実でない。克明に描かれた風景なのに、その中に入って
行ける気がしない。ギリギリのところで拒絶されているような、夢の中にいるような、
不思議な非現実感、距離感があります。
かと言って生気がないというわけではなく、山下が体感した現地の空気感も
生き生きと描かれています。
山下とは何だったのか。それが分からないから魅力的なのだと思います。
美術の世界でも福祉の世界でも外側に置かれてきた。
障害がある人たちの独特な美術作品が「アウトサイダーアート」として
注目されていますが、少年期に受けた美術教育の痕跡を色濃く残す山下の作品は、
そこにも居場所がない。
皆様は天才のダークサイドをどのように印象としてとらえたでしょうか?
私にとって天才とは狂気と努力の中から生まれるものと思っています。