日本の美について




私が6歳の時に両親が離婚して家族がバラバラになった。
家系図の中での自分の立ち位置の場所、特定の場所が理解できずに、
民族・歴史・文化・芸術の居場所が分からず困りました。
民話から紐解くその土地における人物像・人間性・気質・食生活などです。
たとえば祖父母からおとぎ話や民話を聞きかされていたら
熱情的な郷土愛に目覚めたかもしれない。

美意識は育った環境から目覚めることも多いのではないかと思う。
山村で暮らしていた人と海辺で暮らしていた人とでは
美意識に大きな差が出るはずです。貧富の差も然りです。

海外へ出かけるようになり現地の人達からよく聞かれたのは
「日本の美」に関するものが多かった。
歌舞伎や能楽や茶道・華道から浮世絵、仏像の質問ばかりである。
日本人として曖昧な返答しかできなかったことを恥ずかしく思い、
そこからお茶とお花を少し体験して「日本の美」について学びました。

たとえば、
日本の伝統文化を貫く美意識を伝える便利な言葉がある。
「わび・さび・幽玄」である。もっと別の要素があることは
十分に承知しているのだが、そう答えると自分でも妙に納得してしまう。

能楽、茶道、俳諧などに見られる「日本的なるもの」の変遷を踏まえ、
「わび・さび・幽玄」が日本の美学の核心として語られるように
なっていく過程を考察する。

「わび」
茶道史研究家の熊倉功夫(1943年〜)氏の解説によると、
「貧粗(ひんそう)・不足の中に心の充足を見いだそうとする意識」とある。
「万葉集の時代、わびとは、恋が実らないで苦しむ状態を示すもので、
決して美意識を表現する言葉ではなかった」
平安時代以降、つらく惨めな気持ちを表すとともに、
もの寂しい情趣に近づき、中世になると枯淡、脱俗の心境を
「わび」と呼ぶようになった。

中世の人々は禅宗の影響もあって、満月よりも雲の間に見え隠れする
月の姿を愛(め)でるようになり、完全ならざるものの美を発見した。
「わび」もそうした中世的美の一つで、室町時代後期の町衆文化である
茶の湯と結びついて人々の意識の中に定着していく。
そして江戸時代になると、閑寂を尊ぶ茶の湯が「わび茶」と呼ばれるようになる。

「さび」
能・歌舞伎研究者の堀越善太郎(1937〜2004年)氏によると、
「さびとは、閑寂の中に、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる
美しさを表現する言葉」ということになる。
寂しく静かなものが一層静まるとともに、古くなったものがさらに枯れ、
あるいは凍(い)てついた景色の底に、かすかではあるが奥深いすがすがしさ、
豊かで広がりのある世界が現れてくる。

そうした表面的な華麗さとは相反する美が「さび」と呼ばれた。
「わび」と「さび」はいずれも「世間の俗事に煩わされないこと」
「執着せずあっさりしていること」を表す美意識として、
特に茶の湯を通じて重なり、通う合うことで相互に影響を与えるようになっていった。
そこには中世に盛んになった仏教、特に禅宗の精神性が多大なる影響を与えている。

「幽玄」
「わび」「さび」に対して、「幽玄」は漢語である。中国の仏教で
「深遠でたやすく理解できない仏の教え」を示す語として用いられている。
日本でも平安末期までこの意味を離れることはなかったが、室町時代には、
上品で「優美」な情緒、「妖艶(ようえん)」「花」などの意味が加味された
言葉として使われるようになっていった。
世阿弥の能楽論である「風姿花伝」の「花鏡(かきょう)」においても、
幽玄を「美しく柔和なる体」と規定している。

「わび」と「さび」と「幽玄」は互いに重なり合う部分も多いが、
それぞれが違う性質も持つ。とりわけ「わび・さび」と「幽玄」は
相当に乖離(かいり)している。「わび・さび」を閑寂枯淡の境地によって
得られる美意識とするならば、「幽玄」は背後に隠れた深い情趣を意味する点に
違いが認められる。
だが、それらが仏教、特に禅宗の説く「無」の境地と関係づけられ、
互いに重なり合うもの、通底するものとされていった様子がうかがえる。

現代人の多くは「わび・さび」は「茶道」の求道精神として、
千利休の時代から連綿として受け継がれてきたように思っている。
しかし、17世紀から現代に至る茶書をひもとくと、「わび・さびは一貫して
茶道が目指した根本理念ではなかった」と日本文化研究者の岩井茂樹(1969年〜)
氏は指摘する。

元禄期の茶書には「わび・さび」を語るものが多いが、江戸時代を通じてみると
少数でしかない。明治時代は「簡素・質素・質朴」、大正時代は「和敬清寂」
という言葉で茶道の根本理念が語られていた。茶の湯を国際的に知らしめた
岡倉天心の「茶の本」(1906年)においてさえ、その核心は「渋み」にあると
述べられている。

また、芭蕉の俳諧論の「さび」は江戸時代を通して
主流の美意識だったわけではない。
町人文化では「粋(すい)」や「いき」がもてはやされた。
能には「幽玄」の世界が展開されていると、よく言われる。
しかし、能を論じた江戸時代の文献に、「幽玄」をうたいあげたものはない。
そう言われるようになりだしたのは、20世紀以後である。
能楽の聖典とされる世阿弥の「風姿花伝」は大名家に秘せられ続け、
公刊されたのは1909(明治42)年。能の家元たちが「幽玄」を
語りだしたのは、戦後になってからである。

今日、3点セットの他に日本美を表す言葉として、「あわれ」「いき」などが想起される。「あわれ」は『源氏物語』の根幹をなす、王朝的な美意識として広く認識されてきたし、「いき」は九鬼周造の名著「いき」の構造などによって、
江戸町人文化のいなせな美学として市民権を得てきた。
さまざまな変遷を経て今日まで伝承されてきた「日本的なるもの」の美学を
後世に伝えるためにも、時代ごとの流行や趣味の移り変わりに分け入って、
こうした言葉と真摯(しんし)に向き合っていくべきであろう。
その変化を追ってみるのもなかなか面白いと思う。

如何だったでしょうか?
私もまだまだ修学の途上で「日本の美」に魅せられた者の一人です。
これからも追求して少しでも神髄に触れられることを望んでいます。