北野武の言葉No2




(8)
いまのたった今の時点で
努力していない奴らは
死ぬときに必ず
オロオロするんじゃないのかって思う。
それまで何もやってきていないんだから。
なにひとつ
自分に満足していないんだよね。
駄目な奴は。
じゃあお前はどうだって言われると、
いったい何をしてきたんだろうか
って考えると、もう愕然としてくる。
強烈なんだ。その問いかけは。
どんなに素晴らしい人でも、
それは誰にでも当てはめて言えるわけだし、
これをしてきたって言える人間はいない。
やればやるほど、人間は抜けた部分に気づく。
だからやっぱり、
人間自分の目の前にあることを
一生懸命やるしかない。

(9)
マイホームパパだかなんだか知らないが、
いつもニコニコ笑っていて、
子供の気持ちがよくわかる、
物わかりのいい父親が理想だなんて
ことになった頃から、
どうも教育がおかしくなった。
駄目なものは駄目なんだと
父親が教えてやらなきゃいけない。
父親が子供に媚びを売ってどうする。
結局は自分が可愛いだけのことなんじゃないか。
父親は子供が最初に出会う、
人生の邪魔者でいいのだ。
子供に嫌われることを、
父親は恐れちゃいけない。

(10)
臭いものには蓋をする文化とでもいうか、
最近は世間がとにかくきれいごとの、
その場しのぎばっかりするようになった。
そんなものは、
差別用語の問題と同じ話で、
ものごとの本質には何も手を触れずに、
表面に覆いをかけて
誤魔化しているだけのことだ。

(11)
子供の教育で大切なのは、
タガのはめ方と、外し方なのだ。
タガを外しすぎれば、
桶はバラバラになってしまう。
タガをきつくはめすぎても長持ちしない。
自由に何でも好きなことをしなさい
と言われたって、
何をしていいかわからない
という子供が多いんじゃないか。
自由というのは
ある程度の枠があって初めて成立する。
なんでもやっていいよという
枠のない世界にあるのは、
自由ではなくて混沌だ。
子供に自由の尊さや、
喜びを教えたいのなら、
きちんとした枠を与えてやるべきなのだ。

(12)
金のことでつべこべ言うと、
母親にこっぴどく叱られたものだ。
誰だって、金は欲しいに決まっている。
だけど、そんなものに振り回されたら、
人間はどこまでも下品になるというのが
俺の母親の考えだった。
貧乏人のやせ我慢と言ったらそれまでだが、
そういうプライドが、俺は嫌いじゃない。

(13)
作法というのは、
突き詰めて考えれば、他人への気遣いだ。
具体的な細かい作法をいくら知っていても、
本当の意味で、
他人を気遣う気持ちがなければ、
何の意味もない。
その反対に、作法なんかよく知らなくても、
ちゃんと人を気遣うことができれば、
大きく作法を外すことはない。
駄目な奴は、
この気遣いがまったくできていない。
人の気持ちを考えて行動するという発想を、
最初から持っていないのだ。

(14)
どんなにワインに詳しくても、
ソムリエにワインのことを語ってはいけない。
そんなことをしたら、
ソムリエは何も大切なことを教えてくれなくなる。
「このワインはどうして美味しいの?」
と、聞くべきなのだ。

(15)
お金がないことを、
そのまま「下流社会」といってしまう下品さに、
なぜ世の中の人は気づかないのだろう。
「武士は食わねど高楊枝」
という気概はどこへ消えたのか。
うちは貧乏だったけれど、
母親は商店街で
投げ売りをしているような店には、
絶対に並ばなかった。
どんなに遠い店でも、
1円のお客を大切に扱う店に通っていた。

(16)
世代が違うと話が合わない
なんて言うのは間違い。
話が合わないんじゃなくて、
話を引き出せない自分がバカなのだ。
年寄りとお茶を飲んでいて、
「おじいちゃん、この茶碗は何?」って聞けば、
何かしら答えが返ってくる。
きっかけさえ作ることができれば、
思いもよらない話が聞けることもある。
相手はいい気持ちになれるし、
こっちは知らなかったことを知る。
相手が小学生だって同じだ。

(17)
俺は怒ったり、
命令したりはしない。
まずスタッフに聞く。
「こういうふうに撮りたいんだけど駄目かな?」
「このシーンはどうやって撮ればいい?」
最終的には自分のやりたいように
やっているのだが、
もしかしたら
もっといい意見が出るかもしれないから、
まず聞くのだ。
みんな映画が好きで
この仕事をしているわけだから、
意見を求められれば、
一所懸命考えて働いてくれる。
だから手抜きなんか絶対にしない。
スタッフの能力を
最大限に引き出すには、
これが一番だと思っている。

(18)
若いのが作法を学ばないのは、
手本になる大人がいないからだ。
少なくとも男にとっての作法は、
ある種の憧れだったり、
「あのときのあの人は格好良かったな」
という記憶だ。
身近にそんな人がいたら、
強制なんかされなくたって真似したくなる。
鮨の食い方にしても、
酒の飲み方にしても、
昔はそうやって
格好いい大人の真似をして覚えたものだ。
そう考えると、
年寄りが
「いまの若いのは作法がなってない」と言うのは、
天にツバするのと同じことかもしれない。

(19)
ワールドカップを観ていて
相変わらず
「感動をありがとう」なんて
言ってるやつはもうてんで駄目なんだよ。
ほんとうの感動は、
やった奴しか分からない。

如何だったでしょうか?
今回は長文でしたが2回に分けて掲載しました。
味のある言葉(蘊蓄)は何度も読み返して咀嚼してください。


北野武「感動」



私たちエンタテインメントの世界では常に「感動」という
言葉が多用されます。感動はあらゆる技術だけでなく
相手の情感をいかに引き出すかの技術が必要です。
これは知識から得られるものでは無く経験から取得しなければ身に付きません。

北野武監督がこのように「感動」を体系化して語る事ができる能力に脱帽します。
喜劇人としてだけではなく映画監督として数々の受賞歴が、
その才能を物語っています。

ほんとうの感動は、やった奴しか分からない。

北野武の言葉No1

(1)
努力すれば、きっとなんとかなるって、
そんなわけないだろう。
一所懸命やればなんとかなるほど
世の中甘くないってことは、
親とか周囲の大人が一番知ってんじゃねえか。
必死にやってもうまくいくとは限らなくて、
どうにもならないこともある、
それが普通で当たり前だってことの方を
教えるのが教育だろう。

(2)
鳥のように、自由に空を飛べたら、
魚のように泳げたら、なんて思わない。
自由を楽しむ生き物などいない。
生きて行く事は、つらく、悲しく、
目的も分からないものだ。

(3)
成功の秘訣は、
いちばんなりたいものじゃなくて、
その人にとっては二番目か三番目の、
違う仕事に就くこと。
自分にはもっとやりたいことがあるんだけど、
今すぐにそれをできる能力はないから
違うことをやってます。
それぐらい自分を
客観的に見られるやつのほうが、
成功する可能性は高い。

(4)
物体は激しく動けば、
それだけ摩擦が大きくなる。
人間だって、激しく動くと熱を持つのだ。
はたから見れば、輝いている人間のことが、
きっと羨ましく見えるのだろう。
だけど、輝いている本人は熱くてたまらない。
星だって、何千光年という
遠くの地球から見れば、美しく輝く存在だ。
「いいなあ、あの星みたいに輝きたい」
人はそう言うかもしれないけれど、
その星はたまったもんじゃない。
何億度という熱で燃えている。
しかも、燃え尽きるまで、
そうやって輝いていなくちゃいけない。
これは真面目に、結構辛いことなのだ。

(5)
いまの社会は、人生とは何かとか、
人間の生きる意味は何か
みたいなことを言いすぎる。
若い人には、それが強迫観念になっている。
何かとそういうことを言う大人が悪いのだ。
自分たちだって、
生きることと死ぬことの意味なんか
絶対にわかってないくせに。
天国や地獄が本当にあるのかも、
神様がいるのかいないのかも、
誰も証明したことがないわけだ。
そういう曖昧な状態なのに、
生きる意味を探せなんてことを言われたら
誰だって迷うに決まっている。

(6)
自分の子供が、
何の武器も持っていないことを
教えておくのは、ちっとも残酷じゃない。
それじゃ辛いというなら、
なんとか世の中を渡っていけるだけの武器を、
子供が見つける手助けをしてやることだ。
それが見つからないのなら、
せめて子供が世の中に出たときに、
現実に打ちのめされて傷ついても、
生き抜いていけるだけの
タフな心に育ててやるしかない。

(7)
他人への気遣いで大切なのは、
話を聞いてやることだ。
人間は歳を取ると、
どういうわけかこれが苦手になるらしい。
むしろ、自分の自慢話
ばかりしたがるようになる。
だけど、自慢話は一文の得にもならないし、
その場の雰囲気を悪くする。
それよりも、
相手の話を聞く方がずっといい。


求めるから失われる




タライの中の水をおせば水は手前に流れてくる
しかしタライの中の水を引けば水は向こう側へ流れてゆく
求めるから失われ、与えれば増えて来る

日本文化は両手をついて「どうぞそちらから」と譲り合う
西洋文化は握手で引き寄せるか!逃げられないように抱きしめる
都合がいいように文化人のマナーというルールを作る西洋文化
好きなものは奪い取ろうとする略奪文化の外国人に対して
好きなものは与えることと教えられた日本文化は謙遜文化である

今個人の幸福感だけで社会がまわってしまっている
一番国民にとって大切な建国の意識がどこにも見当たらない
平和とは戦わないことでは無い!
その上何もしないで手に入るものでもない
今いる我々の国は「多くの若者たちが戦いの中で夢見た
未来に生きている」ことを忘れないで欲しい
明治維新も第二次世界大戦も普通の若者たちが兵士になった

正しい心の導き方
感情を呼び起こすストーリーとは!
人は物語で動くことを忘れていないか?
子供の時に聞いた童話から善悪を教えられ、
親から聞いた先祖の話や家族を含めた一族の話から
守ることと正しく生きていく方法を学んできた
国があって家族がいて動物もいて災難や困難を乗り越えてきた話に
耳を傾けて興奮したことを覚えているのだろうか
そこに物語があったから忘れられない記憶となったはずである

日本の童話は自然界からの話が多く民話として伝えられた物語である
西洋の童話は宗教から来たものが多く教義として伝えられた物語である
これらの物語を聞いて育った子供たちは成人になるとどうなるでしょうか?

学習とは何か?
意味のない方程式や一般常識を教えるだけなら教育は必要ない
国際社会と付き合うためにマナーや語学を教えることも必要ない
それよりも今日本が何をすべきかを教えるべきである
日本人が日本人として自立した意識を持つために過去の歴史を
教える必要がある

日本の教育制度は戦後アメリカが検閲を入れて作られたものである
その為に日本の歴史や日本を取り巻く地理や心の教えの修身が
削除されてしまった
代わりに誇り高く強い日本人を骨抜きにするために
娯楽やスポーツや自由恋愛を奨励した

現状の西洋文化崇拝主義を変えるために
今一度東洋文化を学ぶべきである
江戸時代は特に中国の教えをふんだんに取り入れて
日本は大きく変わることが出来た
寺子屋や多くの私塾は必ず「論語」を子供たちに素読させていた
人の在り方、医術、文化、兵法、儀礼、一般的教養など全般である
日本人はそれらを日本流に変えて確立させた

学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや、
朋あり遠方より来たる、亦た楽しからずや、
人知らずしていきどおらず、亦た君子ならずや、

学びを始めるならなるべく早い方が良い
若いうちに学べばそれを熟成させる期間が長く取れる
私が悔やむのは社会に出てから失敗で学んだので学習する時期が遅すぎた
「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」その通りである。
75歳を過ぎた今でも毎日読書に明け暮れている
勿論、AIを使いながら独自の読書法を取り入れている
若い時学びより経験が先と持論を繰り返したので後悔している

ウォルターオングの言葉
声の文化=オラリティーの世界を考える上で、何よりまず認識して
おきたいのは、その世界においては、ことばは音声に限られ、
そうであるがゆえに、ことばは表れたかと思ったと同時に消え去る
儚い存在であるということです。

人は声で話されることばを、文字として
書かれたことばのように保持しておくことができません。 
保持できないのですから、ことばを並び替えて別の意味を
創出させるようなことも、複数のことばを比較して分析するようなことも
むずかしいはずです。
音声のみで考えるということは、文字という記録ツールを使って考える
僕らが慣れ親しんでいる思考とはまったく別物です。

「音は、それが消えようとするときにしか存在しない」
声の文化ではことばに実体がないので、ことばを「見る」ことができない
われわれにとって声の文化を想像することが困難なのはそのためである
「音は、それが消えようとするときにしか存在しない……

「とどまる」ということばを口にするとき、「まる」と発音するときには
もう、「とど」という音は消えている、そして、消えていなければならない」 
視覚が得意とするのが静止画(われわれは物を置いてじっくり見る)のとは
対照的である。
 
声の文化にとってことばは力でありできごとである。
ほぼすべての口語文化が声を魔術としてとらえている。
名づけることはものに力を吹きこむこと、そのものを支配することも

音楽と言う音も一瞬の芸術である
今出た音は過去の音であり耳に残すことは出来ない
次の音が出た時点ですでに過去の音になる
ただ音楽の素晴らしさは余韻を脳に残すことが出来るので
次の音を連想させながら全体を記憶させることが出来る

一方的な演奏者の音は盥の水を引き寄せるのと同じで感情が流されていき
観客の感情を手前に引き寄せれば盥の水のように戻って来る
求めるから失われ、与えれば感動が増えて来る
大切な教えです。わすれないようにしてください。

「小欲知足」遺教経
奪い合えば足らず譲り合えば余る
世界のトップリーダーが学ぶべき教えです


プロの見誤り




ソムリエがワインの説明をする。
ボトルを見せながら産地、品種、評判、味わいなどを言う。
そこで最初に自分の飲んだ味わいを言わないのが礼儀である。
しかし客から問われれば詳しい味わいの感想は述べる。
私はいつもソムリエにあなたのこのワインに対する飲んだ評価はと聞く。
自分が飲んだことの無いワインを客に勧めるのは、単にソムリエの
儀式だけであって、本当の推薦にはならないからである。

ソムリエが最も陥りやすい誤りとは情報と知識(データー)に頼るからである。
そのデータが、最新のものか、使い古したものかは判断に大きく左右される。
大切なことはブドウの品質だけではなく、その時代の政治的背景や世相や
気候の状態なども含まれなければ片手落ちになる。
ワイナリーの歴史と開発者の意図と土壌の特徴が説明されても
まだまだ十分とは言えない。そこにはワイナリーの秘密が存在するからである。
それを聞いて口にするのがワインの醍醐味である。

ここにこのような文章がある。
「ストーリーで選ぶ」
作家塩野七生氏の心に響く言葉より…

私がワインを選ぶときはね、ぜんぶストーリーがある(笑)。
つまりねぇ、私は、その「心」であじわう。
なんども申しますけれど、多くのことは、
やはり「心」であじわうんですよ。

どのワインがいちばんうまいかってを
選ぶコンテストがありますとね、
イタリア人やフランス人は意外とだめなんです。
イギリス人が優勝したりして。

私なんかはワインのいい悪いって、
そんなに神経質になるような問題じゃないと思うの。
飲むときの空気、ヨットの上で飲んだとかね、
つまり潮風の香りとか、いろいろな要素がはいって、
おいしいとね、感じる…
それほど客観的な基準なんて、悪いけどないのよ。

要するに私たちは心であじわう。
そのために歴史や物語が助けてくれるんです。
◇『おとな二人の午後』(塩野七生&五木寛之)世界文化社

ワインのプロなら、産地や葡萄の品種、作った年代等の詳細なデータが頭に入り、
専門的な基準でワインを選ぶだろう。しかし世界中にワインがあふれている現代、
酒造メーカーを選ぶのも、商品を選ぶのも、そこに、愛好家の心に響き、
共感するような物語や歴史があるのかが最も大事になってくる。

その物語が、具体的で、真実味があればあるほど心に訴える。
プロではない一般の人たちは、客観的な基準という細かいデータや
スペックにはあまり関心がない。
全てのワインに、心に響く歴史や物語があると素敵だ。

私には友人から勧められた特別なワインがある。
そのワインはイタリアの小さなワイナリーで作られたものである。
そのワインの原料である葡萄の収穫方法に心惹かれた。
彼らは毎朝、葡萄畑へ向かってオーナーと農夫たち全員で
「今年も良いワインが出来ますように」と神に祈りを捧げていると聞かされた。
そのワインの名は「グランソール(偉大なる魂)」です。

コルクの栓を抜きそのコルクの匂いを嗅ぐ芳醇なチーズの香りがする。
グラスに少量注ぎ口に含み一口目を丁寧に味わう。
最初に土の香りを楽しむ。

フランスではワインの育った土壌はテロワールという言葉をつかい、
土壌、気候、日照、地形など、ブドウが育つ自然環境要因に
昔から重きを置いてきました。なかでも、ブドウ栽培において
土壌はとても大事な要素で、土壌がブドウの味わいに大きく影響を与えます。

例えば、海の近くの土壌で育つブドウで造られたワインは、
海水のようにほんのり塩味が感じられる。
ミネラルが豊富な味わいになったり、これは、貝などの化石を多く含んだ
石灰質の土壌で育つブドウに多くみられます。
このように、ブドウの味に直接影響を与える土壌は、
ワインの個性を生み出します。

ボトルからデキャンタにワインを移し十分に空気に馴染ませてから
お客様に振舞います。その日は妻の誕生日だったのでお客様は家内です。
口に含むたびに味が変化するので家内はとても喜んでくれました。
私は大好きなオリーブの実とブルーチーズで
ボトルが空になるまで堪能しました。

とても不思議なワインで飲み心地が良く毎年誕生日には購入しています。
しかし一般の店頭では販売しておらず申込によって購入が出来るワインです。

塩野七生さんの言うように私もワインを選ぶ時はストーリーを大切にします。
ロスアンジェルスで開かれたオークションでロスチャイルドの幻のワインを
2本購入して、近くのナパ・バレーで当時注目されていたワイナリーのオーナー
ロバートモンダミ氏にお会いして、新商品のオーパスワンを紹介して頂きました。
それ以外にも映画監督で有名なコッポラのワインもモンダミの68年?のワインも
試飲させていただきました。
ここに私なりのストーリーが作られるのです。

世界の最高級ワインと言われるロマネコンティや
シャトーペトリュスなども会員制の倶楽部で友人たちと楽しみました。
北京の友人たちにロマネコンティとダビドフ(高級葉巻)を紹介したところ
世界の市場から商品が消えたという話もありました。
その当時イタリアの高級車フェラーリも町中には溢れていました。
高度成長期の国ではよくある話です。

今は天下の素浪人になったので高級ワインを楽しむ機会は無くなりました。
貴族の嗜みのワインの知識も本棚の奥にしまい込んでいます。
今となれば良き経験をしたと満足しています。

知識は情報から学ぶか経験から学ぶかが大切です。
プロになるのであれば情報も経験も必要ですが、それ以上に会話の妙技も
必要になります。お客様の食事の満足度を誘導するのもソムリエの仕事です。
ワインだけの知識に頼りすぎるとプロとして判断を見誤りますよ。
お気をつけください。


日本的霊性




神田の古本市へ行って予てから念願の鈴木大拙全集を買い求めた。
といっても小本ばかりの六冊シリーズである。
禅の思想・禅問答と悟り・禅による生活・金剛教の禅・禅への道・禅百選・
禅堂の修行と生活・禅の世界。

今までも数冊愛読していたが古書の作品は初めてである。
見るからに古本の様相を呈して開くと独特のカビの匂いがした。
カビの匂いと、カビの胞子なのか鼻と目にまとわりつく。
マスクと眼鏡を着用しなければ読むことのできない曲者であった。
これも古本を読む醍醐味である。

鈴木大拙は日本人の精神の根本である「禅の世界」を英語版で
世界へ紹介した仏教研究家であり哲学者である。
鈴木大拙(だいせつ、1870〜1966)は、禅をはじめとする仏教、
広くは東洋・日本の文化や思想を海外に伝えたことで知られる。
本名は鈴木貞太郎だが、居士号の大拙「Daisetz」の「D」、貞太郎「Teitaro」の
「T」をとった英文表記「D. T. Suzuk」の方が、
ZENに関心を抱く欧米人にとってはなじみがあるだろう。

大拙の業績は、禅の紹介だけではない。
浄土真宗の宗祖・親鸞の『教行信証』を英訳した意義は極めて大きいし、
妙好人(浄土真宗の在俗の信者)に関する
研究成果は『日本的霊性』(1944)などにも現れている。

しかし、禅の真髄を欧米諸国に知らしめたことで、
ZENの紹介者として認知されているようだ。
海外では彼を禅僧だと思っている人も多いが、そうではなく、
そもそも布教の意図や禅の理論や哲学を語る意図は持っていなかった。
「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」、
つまり、全てのものを救おうという誓いに基づき、大拙は彼個人の
参禅体験から導き出された思想を生涯において語り続けたのである。

鈴木大拙は、霊性という言葉を宗教意識というような意味で使っている。
というのも大拙は、霊性という言葉を感性や知性と並列する形で
使っているからだ。
感性が感覚についての、知性が知的認識についての意識であるように、
霊性は霊即ち宗教的な対象についての意識であると考えているわけだ。

この霊性というものは、民族ごと宗教ごとに違う形をとると
大拙は考えていた。キリスト教的、インド仏教的霊性がある一方、
日本には日本人的な独特の霊性がある。
それを大拙は日本的霊性と名づけて、その生成と本質について議論する。
「日本的霊性」と題した著作がそれである。

この著作の中で大拙は、日本的な霊性が芽生えたのは
鎌倉時代だったと言っている。
それ以前の日本人には深い宗教意識はなかった。
仏教や神道が存在したではないかとの反論があるかもしれぬが、
仏教は上層階級に限定されて一般庶民とはあまり係わりがなかったし、
日本古来の神道は、宗教と言うよりは、
「日本民族の原始的習俗の固定化したもので、霊性には触れていない」。

ある民族が霊性に目覚めるためには、「ある程度の文化段階」に進む必要がある。
日本人の場合、鎌倉時代に至って初めてそのような文化段階に至り、
全民衆的な規模で霊性に目覚めたというのである。

鎌倉時代に目覚めた日本的霊性を大拙は、禅と浄土系思想がもっとも
純粋にあらわしていると考えた。
両者とも大陸から伝えられた仏教系の思想をもとにしているが、
鎌倉時代の日本人は、それを外来の思想として受け入れたのではない。

それらを日本人独特の宗教意識とマッチさせるような形で、内面化した。
ということは、外来の思想が日本人の宗教意識を高めたというよりは、
もともと日本人の中に潜在的にあった宗教意識が、
これら外来の思想を触媒として花開いた、というべきであると大拙は主張する。

そこで何故、鎌倉時代以降の日本人が、絶対者との超越的な係わりを
主題にした宗教を発展させるようになったのか、が問題となるが、
大拙はそこまでは触れていない。
終戦直前の1944年に出版された「日本的霊性」は、
一般に、大拙の代表作とされています。

つまり、禅は、日常の活動の中での悟りを重要する
動態的なものであるということです。
また、禅の思想を「無分別の分別」、禅の行為を「無功用」という
言葉などに代表させています。
単なる「無分別」ではなく、「分別」があること、
そして、それが行為において働きとなることがミソなのです。

人類が今、第一に優先すべきことがある。
それは地球温暖化を止めることよりも、核戦争の危機を回避することよりも、
闇の勢力が云々と言うよりも、目先のお金のことを考えるよりも大切なこと。
それは鈴木大拙が1945年焼け野原になった日本国土を見つめながら言ったこと
「日本には日本的霊性的自覚が足りなかった」、この言葉と繋がりであり、
今人類には日本的霊性的自覚が欠如している。

では日本的霊性とは何か?それは物質に対比した精神ではない。
物質-精神などという二元を超克した「一」の世界、無分別智である。
そこに繋がらない限り、人類はヤ・バ・イのだ。
そして特に日本人であるならば、日本的霊性的自覚に目覚めなければ
ならない使命がある。

日本は他国を真似してはならない。
他の国が武力や経済力で自国を守ったとしても、日本はその道を選ばない。
日本は徹底的に日本的霊性に繋がることを命とする。
だから1945年8月15日の昭和天皇の終戦宣言があったのだ。
過去の歴史の解析はいろいろとできるだろう。

しかし最も高い視座からみた時にはやはりこの国は「知っている」のだと
感心する。鈴木大拙が言っていた「二元論は対立理論であり、
それが世界を平和にできるわけがないのだ。」と。その通りである。
今人類がしなければならない唯一のことは、「一」との接続。
これに尽きるのだ。

そしてそれは難しいことではない。
何も痩せ我慢して悟った良き人のフリをすることでもない。
脳の錯覚世界と心の実在を明確に分け、
世界を脳で捉えるのではなく心で捉えるだけである。
そしてこの技術の秘密が「言語」にあるため、新しい「言語」を
習得するだけのことなのだ。

初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
この言葉は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
次の時代への鍵は間違いなく、「言語」です。
それは歴史を知り、日本的霊性を知り、無分別の分別を知るところから始まる。

言語と共に日本的霊性再認識の時代へ突入したのである。


心とは




心とは人間のどこにありますか?
よく交わされる問いかけである。
それは心臓だよと胸を指す人も大勢います。
またそれは頭の中だよと頭を指す人も大勢います。
いやいや腹だよと腹を指す人も大勢います。

老婆心、好奇心、心が折れる、魚心あれば水心と心を使う言葉は沢山あります。

心の語源には、「凝々(こりこり)」「凝々(ころころ)」「凝る(こごる)」
などから 転じたとする、「凝」に絡めた説が多くあるが、正確な語源は未詳である。
漢字の「心」は心臓の形をかたどったもので、中国語では心臓の鼓動と
精神作用が結びつけて考えられていた。

cetasika(チェータシカ:心所)は「心にあるもの」「心によるもの」で、
言い換えれば、心の成分のようなものです。心は必ず心所と共に生じます。
この場合の『心』とはパーリ語の citta(チッタ)のことで、「生きている」
というような意味です。仏教では、「心がある物体」を生命、「心のない物体」
を物質と言っています。

私たちが自分で「心」と感じているのは心(citta)ではなく
心所(cetasika)です。「私は悲しい」と言うときは、心を悲しませる
心所が心にあるということです。
「私は悲しい」ということは決して事実ではありません。
『私』という存在があるわけではなく、実際にあるのは心と心所なのです。

悲しんでいたのは私だし、勉強をしていたのも私だし、今ふざけているのも
私だし…やはり『私』がいる、と思うのですが、それはただ心の作用に
悲しい波や楽しい波などいろいろな波があっただけのことです。
遊んでいる、勉強している、悩んでいる、考えている、怠けているなど
私たちの状態や動作を表す言葉はすべて心所に基づいて言っている言葉です。

心とは何かということですが、それは具体的に理解できるものでしょうか。
簡単に考えると、心というのは、身体という物体とくらべて考えれば
より分かりやすくなります。身体というのは、この地球から借りたただの
物質のかたまりなのです。とはいえ、その辺にある岩とか、池とか、
道路などとくらべるとどこかで違うのですね。

この岩と、自分の身体をくらべると、どちらも地球の一部だから
同じだけれど、どこか違うところもあるのではないかと気が付くはずです。
その違うところは「心」と見ましょう、「心」という言葉で一応確認して
おきましょう。では何が違うのか探してみます。
たとえば私はしゃべっている。岩はしゃべっていない。
それで喋るということは「心」の働きとします。

ではスピーカーも喋っているのですか。そうではありません。
スピーカーは音というエネルギーを作っているだけで、決まった振動を
送りだしているだけです。一方的で相互的ではないのです。反応はしません。
「こんにちわ」といっても反応はありません。私は話をしていますが、
皆さんがつまらないと言って出て行ったら、話す相手がいないのですから
話をやめる。そのような動きをするのが「心」なのです。

また、この部屋は涼しいとか暑いとか、私達は感じます。岩は感じません。
暑さ寒さを感じるのも、心の働きのひとつなのです。ものを見る。
それから面白いと思う、つまらないと思う、楽しいと思う。
いろいろなことを感じます。岩を棒切れでたたけば、岩は割れるかも
知れませんが、それ以上の反応はありません。
しかし、人の身体が殴られたら、反応はまた違うのです。痛いと思ったり、
あるいは気持ちいいと思ったり、また、何をするのだと怒ったり、
いろいろな感情的な反応をするわけです。

このように、物体と違うところ、それが心なのです。
心は隠れているものではありません。ものすごく巨大な動きです。
それが、この身体の中にあるのです。
人と喋ったり、喋る相手がなければ頭の中でいろいろなことを考えたり、
またいろいろなものを作ったり、さらに、自然を破壊したり、
自然を破壊しながら自然を守っているのだと嘘をついたり、
それらすべては「心」の働きです。
(余談ですが、本当に自然を守っているのは自然そのものなのです。)

しかし自然はぜんぜん自慢しませんしね。植物も、石も山も雲も、川も海も
ちゃんと自然の循環を守っているのですが、海が自慢するのを、
一度も聞いたことがありません。
「私がいなければ地球はもうダメですよとは誰も言いません。」でも、
人間だけは自然を守っていると自慢するのです。自慢もこころです。
また、動物も、生きるためにいくらかは自然を破壊します。

ですから、動物にも心はあるのです。動物も反応します。
泣いたり、痛がったり、嫉妬したり、喧嘩したり、また子供を作ったり
するすべての生き物は、人間と同じように「心」を持っているのです。
すべての行動には知性よりも感性で行われます。
危険を察知する能力も心が反応して次の動作に写るのです。

その中でも最も顕著に表れるのが「愛」の感情表現ではないでしょうか?
好意を寄せる、守ってもらえる、子孫を残す、家族として群れる。
「心」は「本音」と比較されることもあります。
「心のない言葉ではなく本音で話をしてくれ」と恋人同士は詰め寄ります。
大切な愛の確認をしなければ心の底から心ある物体として満足が出来ないからです。

最後に今一度心とは
心所は「心にあるもの」「心によるもの」で、言い換えれば、
心の成分のようなものです。心は必ず心所と共に生じます。
この場合の『心』とはパーリ語のチッタのことで、「生きている」
というような意味です。仏教では、「心がある物体」を生命、
「心のない物体」を物質と言っています。

「心」は肉体を動かす原動力なようなものです。
直観で集めた情報をまとめて、次の行動に移るために
必要なエンジンの役目を心が担っています。

心は善意の塊です。心が悪の為に動くことは無いのです。
心を失わなければ善意の物体人間となるのです。
濁りのない子供のような心を「純心」と言います。
聖母マリアの「けがれない心」を意味しています。
本来は「純真」と表記するのですが東京純心女子学園の
シスター江角ヤスさんが女子教育の理想として「純心」を掲げたのです。


リスペクト尊敬




・道路を渡れない老人を見て子供が走り寄り手を引いた。
・片手を包帯で巻いた人の靴紐がほどけてホームレスが結んであげた。
・エスカレーターに乗るのを躊躇っている人に少女が腕を組んだ。
・座るところを探している老婆のもとに妊婦が席を譲った。
・マクドナルドで商品を受け取って席に着こうとして客が転倒した。
 それを見ていた学生が食べていない自分のハンバーガーを渡して店を出た。
・ファミレスで子供がうるさいと怒鳴る男性に向かって横にいた女子高生が
 そうですね。うるさいですね。あなたがねと男性に向かって言った。

このような光景を見てあなたは何をしていますか?
簡単なことなのに言葉をかけないのは何故ですか?
恥ずかしいからですか?
それとも関わりたくないからですか?
戸惑っている間にも時間が過ぎてしまいます。
見て見ぬふりをするのは卑怯なことなのです。
面倒なことに巻き込まれたくないと思いで視線を逸らす。
しかし、確実に周りの子供はその光景を見ているのです。

マドリード:スペインの国防大臣は土曜日、
マドリードがパレスチナ国家を承認する決定を下したことで
イスラエルとスペインの関係が悪化する中、
ガザでの紛争は、「真のジェノサイド」であると述べた。

イスラエルは、国際司法裁判所において南アフリカが提起した、
パレスチナ人に対するジェノサイド(大量虐殺)であるとの
非難を強く拒否しており、ハマスに対して戦争であると述べている。

スペインのマルガリータ・ロブレス国防大臣が国営テレビ
TVEのインタビューに答えたこの発言は、
スペインのヨランダ・ディアス副首相が今週初めに述べた、
ガザ紛争をジェノサイド(大量虐殺)だとする
コメントと呼応するものだった。

このような話を子供が聞いたら世界が動かないことを不思議に思うのです。

私が最近見た「2040年子供がジェノサイドを見て」という
映像の中で、「お爺さんはこの時何をしていたの」と質問する場面です。
その時に関心を持たなかったおじいさんは恥ずかしそうに下を向くだけです。
同じようにおばあさんも申し訳なさそうに下を向くだけでした。
世界中の平和を邪魔するのは国民の無関心なのです。
世の中から正義が無くならないのも我々の責任なのです。

以前ブログに書いた文章を思い出します。
ある大学の法学部の授業で教授が理由もなく女子学生を教室から追い出します。
そのやり取りを見ていた周りの学生たちは何も行動を起こしません。
そして授業が再開されて教授が「正義」とは何か、「法」とは何かを
順番に学生へ質問していきます。
流石に法学部の優秀な生徒たちはよどみなく答えを述べていきます。
そして、一通り回答が終わった時に教授はこのような言葉を述べたのです。

さきほど意味もなく女子学生を追い出した。彼女は涙を浮かべながら
教師室を出て行ったのを全員が見ていたはずなのに。
誰も何もしなかった。その訳を聞かせてほしいと問い詰めました。
君たちは正しい答えを知っていて、それを使わなかったのは、
知識は知っているが行動の起こし方を知らないのだ。
法廷だけで使う法律なら知っていても役に立たない。
行動を伴わない法律ならあっても役に立たない。
教室がシーンと静まり返りました。

道路を渡れない老人を見て素通りしていく人間が、
法律を学んでも何にも役立ちません。
盗みを働いている現場を見ても行動に起こさない人間が
法律を学んでも役に立ちません。
学問とは知識を記憶するだけの行為なら、
今後はAIがすべて行うので人間は必要なくなる。

人間は感情の動物であり理性で瞬間に行動を起こせるのです。
結果は過去の分析では何もできないのです。
AIは予測できても現状の解決には役に立ちません。
人間との連係プレーが活かされなければ効果が出ません。
そんな時代が目の前に来ていることを知らなければなりません。

争いごとに目を背ける人は争いに巻き込まれた時に何も出来ません。
普段から条件反射の如く動く訓練をしなければなりません。
多くの人がスマホの画面に釘付けで周りの状況を見ていません。
自分の事も他人の事も無関心すぎるのです。

正義の行為は誰も見ていなくても自分は見ています。
情けない自分を正当化しないでください。
関わりたくないと思わないでください。
日本の倫理意識の中に「お天道様は見ているよ」という言葉があります。
誰も見ていなくても自分の心は見ているよという意味です。

ニュースでは毎日悲しい事件を取り上げて報道します。
コメンテーターは井戸端会議の野次馬です。
へらへら笑って悲惨な事件を読み上げている。
放送作家が作った原稿を読むだけです。
駄目なものは駄目と自分の意見を言うべきです。

正しい発言や行動する人は面白味が無いから採用しない。
政府やマスコミを批判する過激な評論家はすぐにおろされる。
それよりも安くて美味しい店を探すグルメ情報や、
動物のズッコケ写真を探す方が、視聴率が上がるので採用される。
騒音おばさんやゴミ屋敷のおじさんを取材して
お笑い芸人出身司会者の解説を入ればバラエティー番組になる。
そうして国民は問題の本質から目をさらされて茹でガエルになる。

日本の歴史の中で一番多く使われてきた言葉「尊敬」。
アジアの国々の人が尊敬に値する国は日本だけとまで言わしめた言葉。
今は尊敬(リスペクト)と言う言葉はカバンの中に収めたままである。

2024年辰年は世界が揺れ動く年と言われていました。
正にその通りになり自然災害の猛威も、いまだ終わらない戦争も、
不正を働く政治家たちも、経済不況も原因がすべて暴露された時代です。
そして来年2925年は巳年過去を脱皮して新しい時代を迎える。
その時に必要なのは進化したテクノロジーではなく、
人として尊敬に値する人がリーダーシップを発揮しなければならない。
リスペクトの時代です。

私達は誰かが命がけで守った未来に生きている。
自分達が未来を作っているのではなく、
未来はいつも誰かの犠牲の上に成り立っていることを忘れないでください。


人は群れる




仲の良かった同級生、同じ大学の同窓生、故郷の同郷人と
何か事ある毎に集まり酒を飲んで語らい肩を組んだ。
会社の同僚、近所付き合い、親戚付き合いなども
新入社員歓迎会、町内会の集まり、冠婚葬祭があれば必ず顔を出す。
なぜ人は群れたがるのか?

人間にとって一番辛いのは悩みを抱えた時の孤独なのである。
人から相手にされなくて無視されるのが、人間も動物も生きる気力が
奪われてしまうので死よりも恐れたのである。
恐怖は恐れるから付き纏われるのであって恐れなくなれば恐怖は薄らぐ。

私は少年時代から孤独との戦いの中で恐怖を知った。
その為に付き合う喜びよりも、別れる悲しみを恐れていたのである。
恋愛感情が芽生えても距離を置いて様子をうかがった。
本音は群れたいのに群れることが出来なかったのである。

ここにこのような文がある。
人間というのは、つくづく群れる生き物なんだなあと思う。
南の海の水中映像とかに、よく小魚が何千匹と群れている様子が写される。
みんなが右を向けば右、左を向けば左と、小魚たちは見事なくらいに
一斉に向きを変える。
そうやって、捕食者である大きな魚から身を守っている。

皆で群れていれば、一匹で泳いでいるよりも捕食者である
大きな魚に食われる確率を減らせる。
他の魚が左を向いたときに、もし右を向いてしまったら、
自分一匹だけが取り残される。

捕食者にガブリと食われる危険は、一気に高まる。
だから必死で群れの動きに合わせる。
人間も同じことをしている。

みんなが流行のバッグを買えば、自分も同じバッグを買う。
誰かが麻薬で捕まれば、みんなで叩きのめす。
誰かがヒーローということになれば、みんなで褒めまくる。
みんながどう思っているかが大事で、そのバッグだの
タレントだのを自分が好きとか嫌いとかは、二の次なのだ。

あるいは、自分が好きかどうかなんて、
考えすらしないのかもしれない。
見る目のある人間なら、笑いが止まらないはずだ。
網をしかけて、その小魚を根こそぎ捕まえるのは
ちっとも難しいことではない。

まあ、人間の場合は食われるわけじゃない。
おそらくそのまま網の中で生かされて、何も気付かないまま
搾り取られるだけ搾り取られることになるのだろう。

そういう生活が嫌じゃないという人には、
別に何も言うことはない。
けれど、そこから逃げ出したいのなら、
周囲の群れの動きをよく観察することだ。

そしてみんなが右へ動いたら、何があっても
その方向にだけは行かないようにする。
群れから抜け出して、自分のいた群れを、
離れた場所からもう1回よく眺めてみるといい。

自分がどんなに恥ずかしいことをしていたかが、
はっきりと見えるだろう。
周りの人間がみんな、王様の衣装は素晴らしいと言っても、
自分の目に裸に見えるのなら、王様は裸なのだ。
そこで自分の抱いた違和感に蓋をして
王様の服が見えるふりをしていたら、
いつまでも群れからは抜け出せない。

ただし、そこで実際に自分の感じていることを口に出して、
「王様は裸だ!」と言うかどうかはまた別の話だ。

いったんそれを言ったが最後、後戻りはできない。
周りの人間に叩かれようとも、その道を行かなきゃいけなくなる。
それがつまり、俺のやってきたことで、
自分のことだからよくわかるのだけれど、
それで喰えるという保証はどこにもない。
のたれ死にすることになっても、俺に文句は言わないように。
出典「超思考」 北野 武 幻冬舎

ビジネスの世界だけでなく、スポーツでも芸能界でも、成功している人は
人と同じことはしない。人と違うことをするから一歩先んじることができるし、
生き残ることもできる。
皆が右を向いたときに、左も見ることができる人は、冷静に自分を
客観視することができる。多くの人が熱狂の中にいるときほど、
「待てよ」と違う選択肢を考えることができる。

それは、一発あててやろうというような派手なことを目指すのではなく、
むしろ地味でコツコツと報われない努力の方が多い。
だからこそ、人と違う道を行くには勇気と覚悟が必要だ。
「人は群れる」あえて、違う道を進む勇気を持ちたい。

哲学者森信三の言葉に「たとえ99人が川の向こう岸で騒いでいても、
自分一人はわが志した川上に向かって、歩き通す底の覚悟が無くてはなるまい」     というのがある。私はいたく感動した。
何故なら私は子供の時から変わり者で通っていたから
誰も私とは群れたがらなかった。好都合であった。
しかし何故かクラスの中では人気者であった。

高校生の時にはロックバンドを結成した。
タートルズのコピーバンドである。
大学生の時にはソロではボブディラン
グループではPPMのコピーバンドを組んでいた。
神戸には谷村新司がいて京都には加藤和彦がいて大阪には高石友也がいた。
奈良が空席だったので一時面倒を見てくれと頼まれて主宰をした。
奈良パークジュビリーと命名して初のコンサートを開いた。
ゲストは「戦争を知らない子供達」の杉田二郎だった。

何故か群れたがらない私にいつもお誘いの声は多かった。
今でもそうである。色々な団体の理事を仰せつかっている。
もうそろそろ諦めて群れるしかないか!笑い


誘い水




今の人には馴染みがないので分からないと思います。
ポンプ式の井戸を掘った時に最初上から水を入れて押さないと
下から水が上がってこないのです。それを誘い水と言います。

また呼び水と言う地域もあります。
映画やアニメなどでポンプ内に水を入れているシーンがあります。
あれって何のためにいれているんだろうか、そんな疑問をもつ方が多いようです。
まず、ポンプを使用する前に水を入れることを呼び水といいます。
呼び水は、水によって隙間を埋めて配管内の気密性を高めるために行います。
これによって、配管内部からの空気を抜き取り、必要な真空状態をつくりだします。
まさに水が水を呼ぶわけですが、魔法のようですね。

話し上手な人は必ず会話の合間に合いの手(誘い水)を入れて
相手の会話を誘導します。最近ではこれを傾聴の上手な人と言いますが、
これは間違いです。聞く以上に難しいのが引き出すテクニックです。
会話を途切れさせずに話題の本質へと誘い出すのです。

大人が子供に接する時に意識せずとも頭ごなしに命令をしてしまいます。
子どもは言っても分からないだろうという前提で話をするからです。
学校でも家庭でも子供が話をしたくなるような状況に誘い、
関心を持って話をさせると思いがけない本音を聞くことができます。

昔の私は一方的に持論を繰り返すアジテート的な話し方でした。
音楽業界の古い体質を批判して、新しい時代へと誘導するために
いつも大声を上げていたのです。
海外へ出かけても「日本人を馬鹿にするな」と
強気の発言ばかりしていました。大きな勘違いでした。

ある時に哲学の先生より頭の悪い奴ほど大声で理屈を言う。
気の弱い奴ほど偉そうな態度になる。自信のない奴ほど他人を気にする。
等と言われて最後に「実るほど首を垂れる稲穂かな」を勉強しろと
怒鳴られました。今お前は注目されているが、そんなもの長くは続かないぞ
もっと謙虚になれと言われたのです。

その直後に友人から詐欺にあい多額の金を奪われたのです。
弁護士から詐欺にあうのは、俺は絶対詐欺にあわないと自信を持っている
人が一番多いと言われました。
家族や社員にも迷惑をかけてしまい反省しきりでした。
どれほど謝罪しても許されない過ちです。

それ以来意識しながら誰にでも「謙虚」の心で接するようになりました。
ここから数年私なりに「下座業」が始まったのです。

ここに北野武さんの言葉があります。
とても参考になる話です。

作法というのは、
突き詰めて考えれば、他人への気遣いだ。
具体的な細かい作法をいくら知っていても、
本当の意味で、他人を気遣う気持ちがなければ、
何の意味もない。

その反対に、作法なんかよく知らなくても、
ちゃんと人を気遣うことができれば、
大きく作法を外すことはない。
駄目な奴は、この気遣いがまったくできていない。
人の気持ちを考えて行動するという発想を、
最初から持っていないのだ。

他人への気遣いで大切なのは、
話を聞いてやることだ。
人間は歳を取ると、
どういうわけかこれが苦手になるらしい。
むしろ、自分の自慢話ばかりしたがるようになる。

だけど、自慢話は一文の得にもならないし、
その場の雰囲気を悪くする。
それよりも、相手の話を聞く方がずっといい。
料理人に会ったら料理のこと、
運転手に会ったらクルマのこと、
坊さんに会ったらあの世のことでも何でも、
知ったかぶりせずに、
素直な気持ちで聞いてみたらいい。

自慢話なんかしているより、ずっと世界が広がるし、
何より場が楽しくなる。
例え知っていたとしても、一応ちゃんと聞くのだ。
そうすれば、専門家というものは、
きっとこちらの知らないことまで話してくれる。

井戸を掘っても、誘い水をしないと水が湧いてこないように、
人との会話にも誘い水が必要なのだ。
北野武より

高齢になると気を付けなければならない基本が書かれています。
頭では理解できても態度に表す人は少なく感じます。
若い人とコミュニケーションが大切だと言う人ほど自慢話が
多い気がします。私も気を付けなければなりません。

私が行儀作法にこだわるのは言葉にしない挨拶の形だからです。
どのような場所にもマナーがあります。
そして相手には個人の歴史があります。
職人さんだけに限らず働く人すべてに敬意を表さなければなりません。
正しいマナーと謙虚さがあれば丁寧に応対していただけます。

海外へ出かけても飛行場の係員に、ホテルの従業員に、カフェの店員に
出来る限り話しかけるようにしています。そうすることによって
私は安全な人間ですよとアピールできるからです。
自然に彼らもサービスの質を上げてくれます。

仕事の上でも通常の人間関係でも、もちろん家族との関係も
すべておいて「誘い水」は必要です。
あなたの一言で会話が弾むことになるでしょう。
毎日良い言葉を使うようにしましょう。
「愛語よく回天の力あり」道元


心の居場所




私を知る人たちは一様に子供の時の話を聞いて「苛酷な人生だったね」
と言います。そして悲しんでくれるのですが、私はそれほど辛いという
意識は無かったのです。

6歳の時に母親と兄弟と離れて父親に引き取られました。
故郷から遠く離れた大阪で後妻家族と一緒に暮らしていました。
絶望的な孤独を味わいましたが、それは一瞬で解決しました。

いつまでも悲しんでいるわけにはいかず自立する決心をしたのです。
信じられないでしょうが事実なのです。幼心でそう決めたのです。

それは父親の姉が嫁いだ寺の住職から言われた一言で変わったのです。
「泣いても笑っても人生70年!おまえは泣いて生きるのか?笑って生きるのか?」
この場で決めろと言われて「笑って生きます」と答えたんです。
その瞬間に何か気持ちが楽になり迷いが吹っ切れました。

言葉の力です。真実の言葉は子供にも強い影響力を与えるのです。
子どもだからと遠慮することはありません。ハッキリ伝えてください。
言葉の意味は分からなくても理解はできるのです。
「愛語よく回天の力あり」良き言葉は人生を変えるほどの力があるのです。

「涅槃寂静へのブッダの教え」
ブッダは悟りを開いたのち、この世のものはすべて移ろいゆく「諸行無常」、
「人生で変わらないことはないという「諸法無我」など、
多くの人々・門弟たちに煩悩を消すための教えを伝えています。
人々が苦しむ原因を明かし、物事に執着する自我を自覚してその考え方を改め、
正しい行いを続けることで悟りへの道が開けることを指し示してくれました。

そのブッダが煩悩を消すために説いていたのが、「四苦八苦」をなくすための
考え方である「四諦」(したい)と正しい行いをするための
実践法「八正道」(はっしょうどう)です。
あわせて「四諦八正道」(したいはっしょうどう)とも伝えられる
この教えは、現在の仏教の根本的な教えとして伝えられています。

皆さんには「居場所」と呼べる場所がありますか?
それは家族の中であったり、友だちや恋人との関係かもしれません。
それでは「心の居場所」はどうでしょうか?
心の居場所、という言葉を聞くと何を思い浮かべるでしょうか?

心の居場所、という言葉は、1990年代の子どもの不登校問題の中から
出てきた言葉のようです。
大人にとっては子どもが学校に復帰をするということをゴールとしても、
不登校の子どもはそれを望んでいないかもしれません。
子どもが望んでいるのは、自分の存在感を実感できて、精神的に安心できる
場所=心の居場所なのではないか、ということが言われるようになったのです。

これは子どもに限らず、大人にとっても必要な場所ではないでしょうか。
つまり、心の居場所とは、自分が自分らしくいられる場所
気持ちが落ち着いて、安心できる場所であると言えるでしょう。

あなたにとっての「心の居場所」は?
考えてみると、「居場所」と「心の居場所」は必ずしも一致しないことも
あるのではないでしょうか。
たとえば家族は居場所の1つかもしれませんが、心の居場所と自信をもって
言えるでしょうか。
家族の関係はお互いの距離が近いからこそ、助け合える部分もありますが、
一方でうっとうしく思うこともあると思います。

それだけなら良いのですが、暴力を振るわれるのでは、
安心できる場所ではありません。
また親の前では1つ仮面をかぶらなければ接することができない、
というのも、自分らしくいられないことを意味しています。
もちろん自分らしく、そして安心できる関係があれば、その人といることが、
心の居場所だと思います。しかしそんな人が見つからないからと言って、
心の居場所がない、と嘆く必要もないと思います。

心の居場所は、自分自身が作り出しても構いません。
つまり、自分らしくいられる場所は自分で作れば良いですし、
安心できる環境は自分だけで作っても良いのです。
たとえばそれは芸術や創作の世界に没頭する、と言うことがあると思います。
誰かと比較したり、認められようと思ったりせずとも、自分の中に
落ち着く世界を作り出せば良いのです。
そうやって落ち着いて、自分らしくいられる心の世界を持っている人は、
自然と輝き始めることができます。輝いている人のもとには、
いつの間にか人が集まってくるようになります。
「桃李成蹊」良き人のそばには道が出来る。

そして、そこが自然と「心の居場所」になっていくのではないかと思います。
時間はかかるかもしれませんが、少しずつ自分らしくいられるものを
見つけていけば良いのです。

居場所は実際の人との関係の中にあるものですが、
心の居場所は実は自分の心の中にあるのではないでしょうか。
自分の心の中に、自分らしくいられる気持ちがある人は、
自分を肯定できます。
誰かと一生懸命繋がろうとして疲れてしまった人は、
まず自分の心の中で、自分を認めてみましょう。
自分で自分を認められること、ここから心の居場所探しは始まることでしょう。

子どもの頃に「心の居場所」を探したことがあります。
小・中で優しくしてくれた担任の先生に求めたことも、
中・高で仲良しになった友達の家庭に求めたことも、
大学の頃は実の兄弟に求めたこともありました。
しかし、他人にそれを求めても無駄だということに気づいたのです。

それから自分の居場所探しに一人で海や山や寺社仏閣巡りをしました。
夜中に公園に寝そべって星空を見ながら探したこともありました。
そこで到達したのは読書と音楽の世界でした。
高校生の後半から音楽の世界で働くことに心の居場所を求めました。

大学を中退して英国に行き帰国後音楽プロデューサーになりました。
多くのアーティストやタレントは同じような経験をしたことがあるので、
意思の疎通が容易にできました。心の痛みが少し分かり合えたからです。

今で言うなら「ワンピース」の世界です。
それぞれ問題を持った人間でも宝の地図を目指して助けあえる、
それが仲間として本当に大切なことなのだという事です。

皆様も是非良き書物と良き音楽に触れてみてください。
世界が広がります。間違っても第三者へ期待してはいけません。
そこには「心の居場所」はありません。
「心の居場所」は自分で作り出すのです。