ブータンの子ども




ブータンの学校での出来事
ブータンの学校に行ったときに、女の子や男の子に
「いじめはありますか?」と尋ねました。
「いじめってどんなこと?」ということで
「一人だけをのけものにしたり、ものを隠したり、ひどいことを
みんなで言うこと」というと、

ブータンの少年は不思議そうな顔で私に、
「どうして、なんのためにそんなことをするの?」と聞きました。
「そんなことをしたら、自分のことが好きになれない。
好きになれなかったら、誰のことも幸せにできない。
自分も幸せに生きられない。どうしてそんなことをするの?」
と尋ねられました。

そして、ブータンには泥棒がいないとガイドさんが言いました。
どうして?と尋ねると「そんなことをしたら、自分が恥ずかしいでしょう。
そしてそんな自分を誇れない」と。
私たちも昔、「誰が見ていなくても、お天道さんがみておられる」
と言いました。少年の言葉にもガイドさんの言葉にも涙が出ました。

そして、泥棒やいじめがあっても当たり前のように思っている
自分が恥ずかしくなりました。私も自分を好きでいたい。
自分を誇りに思いたい。自分に恥じないことをしていきたいと思いました。

ブータンの子供達の話を聞いてお釈迦様の言葉を思い出しました。
臨済宗円覚寺 横田南陵管長日記より

お釈迦様は今から二千五百年も前にお生れになって、
厳しい修行をして、みんなが幸せに暮らせるのはどうしたらいいか、
一つの方法を見つけましたと話をしました。

それは何かというと、
「自分がされたらいやだなあ、と思うことは人にもしない!」
ということです。この一つが実践できたら、世界はすぐ平和になります。
簡単なことですが、大人もできないのです。

自分がされたらイヤだと思っていることを、したくなることもあるのです。
叩かれたら痛いのです、いやなのです、だから人を叩いてはいけないのです。
悪口を言われたらいやなのです、だから人の悪口を言わないのです。
自分が嫌だと思うことは、人も嫌だと、人のことを思いやるのです。
この思いやる心が仏様の心です。

誰しも人はこの思いやる心、仏様の心をいただいています。
そのことを説いてくださったのがお釈迦様ですとお話したのでした。

通園している園児のおばあ様より聞いた話です。
子どもが三歳の時というのですから、五、六十年ほど前のことでしょうか。
あるとき、その子がいつも暴力を振るうガキ大将に叩かれて帰ってきたというのです。
お母さんは「あなたが悪くないのだったら、やり返しなさい」と言ったそうです。
「男の子は負けてもそのくらいの気概は欲しい」と思ったのでした。

ところが、その三歳の子が「お母さん、叩かれるとものすごく痛いんだよ、
僕が叩いたらあの子も痛いだろう、だから僕は叩かないよ」と言ったのでした。
僕が叩かれると痛いのだから、あの子も叩かれたら痛いだろうと、
これが思いやる心です。その心をうまれながらに持っていたのです。
親から教わったのではありません。
親から教わろうとしたのは、やり返しなさいということでした。
しかし、本来もって生まれた心は、思いやる心だったのです。

私は今「老人と孫」という対話集会に老人として参加しています。
何故この会が始まったかと言うと昔話に由来しています。
「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました」
多くの童話はこの言葉から始まります。
そして子どもは桃の中や竹の中から生まれてきたのです。
しかし、不思議なことにどの昔話にもお父さんやお母さんは出てきません。

それは何故かと言うと子供たちはおじいさんやおばあさんから、
幸せや、優しさや、平和を教えてもらえるからです。
お父さんやお母さんは頑張ることばかり教えて叱ってばかり。
その為に子供たちは本当の悩みはおじいさんやおばあさんにしか言わないのです。

「老人と孫」は回を重ねるごとに参加者が増えてきています。
保育士、介護士、栄養学士、彫刻家、ストリートダンサー、演出家、企業家
不登校児童、アーティスト、著作者、講演家、画家など
多彩な人たちが集まってきます。

毎回、孫たちから出てきた議題に老人たちが話を加えます。
決して説教でもなくお仕着せの理屈ではなく悩みを解決していきます。
老人たちも、煎茶道の元家元、著名画家、元証券会社役員、音楽プロデューサーと
自分達の経験を通して対話を楽しみながら話を進めます。
学校の先生も親も教えてくれなかった悩み事をお爺さん達に質問するのです。
それに呼応して参加者の中から手が上がり話をする人が続出します。

老人と孫が素直に話し合えれば争いは無くなります。
あらゆる内容で今後「老人と孫」の活動を広めていきたいと思います。
仏教の教えにあるような正道を伝えていきたいと思います。
平和活動にも貢献できるような対話集会へとすすめていくつもりです。
世界で一番暮らしやすいブータンのように日本もそうありたいと思います。

その為には、「小欲知足」を守ることです。
奪い合えば足りなくなり、分け合えば余る。
我々が生きる為にあらゆる植物、動物、水産物に感謝する。
全てのものは、3/1は自分のために、3/1は自然の為に、
3/1は未来の子供達の為に!ワンサードの精神です。
この心を忘れないようにしていきたいですね。

世の中の大半の人は自分が目立つ綺麗な花になろうとします。
学校の教育では何事も成功することが正しいと教えるからです。
お金持ちが成功者だとみんな勘違いして略奪が始まるのです。
その為には他人の土地を荒らし、自分の畑を広げることが平気になり、
大人も子供も奪うことに専念して人を平気で騙すようになる。

日本人の生き方はブータンの子供達と同じ様に昔は思いやり国家であった。
生きる為にお金は必要だが、お金のために生きることは、
恥ずかしいことであると教えられた。
自分が隠れてした良い行いも、悪い行いも「お天道様が見ているよ」と
教えられて来たのです。そしてそれが自然に身について来た時代がありました。

神社やお寺の境内で子供たちが「むすんでひらいて」を歌い続けたのは
日々神様や仏様への感謝の気持ちを遊びながら学んだのです。
むすんで」は高皇産霊尊(たかむすびのみこと)が、神々の世界と人間界を
「むすであげましょう」という意味で。「ひらいて」は仏からほどけ、
ほどけるから、ひらくとなったという説です。

日本には不思議な童謡が多くありその中の一つに「かごめかごめ」があります。
一説によるとかごめかごめの籠の網目は妊婦さんのお腹で子供がいつ出てくるの、
鶴と亀は長寿の象徴でそれが滑ったとなると子供が流産した?
「後ろの正面だ~れ」で誰かが後ろから押したと結ばれるとなっていました。
それほど子供が無事に産まれるのが大変だった時代だと思われます。

ブータンも日本も狩猟採集の国です。
自然と共に生活をして自然に感謝しながら暮らしてきた国です。
その年に収穫した分で暮らしてそれ以上のものは不要とした。
荒野で暮らす騎馬民族の様に他人の物を奪うことは必要なかったのです。
彼らは体力を温存させるためには肉類を主食としたのです。
その為に多くの動物も犠牲になったのです。
我々は正しく真っ直ぐに生きる正直の国なのです。

皆様もどうぞ、
美しい花になるよりも美しい花を咲かせる土壌になってください。
この言葉を忘れない様にしてくださいね。