学びとは
「吉田松陰の言葉」
安政元年三月二十八日、吉田松陰が牢番に呼びかけた。
その前夜、松陰は金子重輔と共に伊豆下田に停泊していた
アメリカの軍艦に乗り付け、海外密航を企てた。
しかし、よく知られるように失敗して、牢に入れられたのである。
「一つお願いがある。それは他でもないが、
実は昨日、行李(こうり)が流されてしまった。
それで手元に読み物がない。恐れ入るが、何かお手元の書物を
貸してもらえないだろうか」
牢番はびっくりした。
「あなた方は大それた密航を企(たくら)み、こうして捕まっているのだ。
何も檻の中で勉強しなくてもいいではないか。
どっちみち重いおしおきになるのだから」
すると松陰は、
「ごもっともです。それは覚悟しているけれども、自分がおしおきになるまでには
まだ時間が多少あるであろう。それまではやはり一日の仕事をしなければならない。
人間というものは、一日この世に生きておれば、一日の食物を食らい、
一日の衣を着、一日の家に住む。
それであるから、一日の学問、一日の事業を励んで、
天地万物への御恩を報じなければならない。
この儀が納得できたら、是非本を貸してもらいたい」
この言葉に感心して、牢番は松陰に本を貸した。
すると松陰は金子重輔と一緒にこれを読んでいたけれど、
そのゆったりとした様子は、やがて処刑に赴くようには全然見えなかった。
松陰は牢の中で重輔に向かってこういった。
「金子君、今日このときの読書こそ、本当の学問であるぞ」
牢に入って刑に処せられる前になっても、松陰は自己修養、勉強を止めなかった。
無駄といえば無駄なのだが、これは非常に重要なことだと思うのである。
人間はどうせ死ぬものである。
いくら成長しても、最後には死んでしまうことには変わりはない。
この「どうせ死ぬのだ」というわかりきった結論を前にして、どう考えるのか。
松陰は、どうせ死ぬにしても最後の一瞬まで最善を尽くそうとした。
それが立派な生き方として称えられているのである。
「どっちみち老人になればヨレヨレになるのだから、体なんか鍛えてもしょうがない」
「どうせ死ぬ前は呆けたりするのだから、勉強してもしようがない」
確かに、究極においては「しょうがない」ことだろう。
しかし、究極まで行くと、そもそも生きることに意味がなくなるのではないか。
吉田松陰は、少なくとも生きている間は天地に恥じないように、
何かに努めなければならないという心境だったのであろう。
それは生きている間は、一日の食事を摂って、一日の着物を着て、
一日の住み家にいるわけだから、そのことに対して恩返しをしなければならない
という考え方から出てきた心持ちであったようだ。
これは尊い生き方であると思う。
この文章を読んでいるときに山川菊枝の「武家の女性」の一説を思い出した。
<子年のお騒ぎ>の章である。
天保元年、水戸藩における改革派と保守派の争いの時に謀反の罪に
問われたときのはなしです。
武田耕雲は二人の大きい息子と一所に斬罪となりましたが、
年のいかぬ子供や孫、妻も嫁も合わせて男八人女三人、一家十一人が
この事件の犠牲となりました。
長子、彦左衛門の妻いくは、東湖の妹で、十五歳、十三歳、十歳の三人の男児と
一所に入牢中、「論語」を教えていたのを牢番が見て、
「どうせ死んでいく子に、そんなことしても無駄だろう」というと、
いくは居ずまいを直して、「この三人のうち、ひょっとしたら一人ぐらいは
赦されないとも限らない。その時、学問が無くては困るから」と答えたと言います。
しかしその期待も空しく、三人が三人とも斬られ、
いくは牢内で食を断って自殺しました。
武田の妻は三歳の男児を抱いて入牢しましたが、
ある日珍しくお膳にお刺身がついていたので、ハッとしました。
もちろんこれは死出のかどでの、最後のご馳走の意味でした。
そうとも知らず、抱いた子が喜んで手を出そうとすると、
「武士の子は斬られた時、腹の中にいろいろな物があっては見苦しいから」
と抑えました。
私はこの「武士の女性」と「特攻隊員」の母親に送った遺書を読むたびに、
日本の女性の凛とした精神力に涙して頭を下げずにはいられなくなります。
GHQに骨抜きにされた日本人。世界から尊敬されていた日本人の心が
根こそぎ奪われて軽佻浮薄な人間にされたことが悔しくてたまりません。
ここに「さんとう」という言葉があります。
電力の鬼と言われた 松永安左エ門の言葉だ。
「闘(とう)病、投(とう)獄、倒(とう)産」のような大きな挫折を
味わったことのない人間は、大したやつにはならない、ということ。
大きな挫折にあったときの態度や行動言動が、「人物」であるかどうかを決める。
最後の最後まで投げ出さずに努力や勉学の情熱を燃やし続けるのか、
はたまた自暴自棄になってやる気を失うのか。
「たとえ明日、地球が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える」
という マルティン・ルターの言葉がある。
たとえ、明日地球が滅びようとも、未来のために木を植える人でありたい。
人生は恩に始まり恩に終わるのである。
人として恩返しが出来なくては悔いが残るであろう。
命途切れる日まで学びは終わらない。