夢より米
「ゆめ」より「こめ」と言った人がいます。
どんな素晴らしい夢を語っても飯の食えない状況じゃ説得力を持たない。
夢を語るには夢を語るだけの、
背景がしっかりとしていなければならないと言ったのです。
成功者は「ゆめ」と「こめ」を手にしている人です。
江戸時代の儒学者佐藤一斉は「私欲の制し難きは、
志の立たざるに由る、志立てば真に是れ紅炉に雪を点ずるなり。
故に立志は徹上徹下の工夫たり」人が自分の欲望をおさえられないのは、
志が確(しっ)かり立っていないからである。
志が立っていさえすれば、欲望なんかは真っ赤に燃えている
炉の上に雪を置いたようなもので、直ちに消えてしまうものだ。
だから立志ということは、上には道理を究明することから、
下には日常茶飯事に至るまで上下全てに徹するように工夫することである。」
全てに対して襟を正し、克己復礼を胸に、学問に精をだせば
欲が起こらず志が立つということである。
志が立てば煩悩は消え去るということである。
佐藤一斉の弟子、吉田松陰も松下村塾で若者達を教育しながら、
改革の熱き夢を熟成させていたのである。
その結果行動を起こし囚われの身となって
「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」と
思想家らしい句を読んだのである。
彼自身が残したかったメッセージは理不尽な幕府に対してではなく、
後に続く若者達に向かってだった。
知識が有っても行動をおこさなければ何も意味が無い、
「至誠にして動かざる者は未だこれに有らざるなり」、
そして死をも恐れない気持ちがなければ革命等できないということを伝えたかったのだと思う。
そして吉田松陰の弟子高杉晋作は、
「友の信を見るには、死・急・難の三事をもって知れ候」と革命家らしい句を読んだ。
信頼のおける友達というのは、いざという時には命をかけて急場に駆けつけ、
共に難事を乗り越える気概のある人間をいうのである。
そして27歳の時に肺結核の病で亡くなったのである。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」と辞世の句も読んでいる。
自由奔放に生き抜いた高杉晋作らしい生き様である。
しかし、以前から気にかかっていた事が一つある。
幕末の志士が紹介される度に、彼等はどのようにして生活費(こめ)を手に入れていたのかである。
それでなくても禄高の少ない下級武士の次男坊、三男坊が多かった筈だからである。
中には武士でなく貧農の百姓の子や一般の貧しい家の子もいたと思われる。
彼らに取って飯と寝るところの確保は重要な問題であり苦労が多かったのではなかろうか、
それとも志を同じくする者同士で助け合ってなんとかやり過ごしていたのだろうか。
それとも心ある篤志家達からの援助を受けていたのだろうか、この辺りのことが書かれている書物は一切ない。
歴史も人物史も表面上の成功譚がおおく、その内面の生活する苦労話が少ない気がする。
革命を起こすという「ゆめ」があれば「こめ」の話をしてはいけないのだろうか。
「武士は食わねど高楊枝」苦労を表に出す事を恥とする風潮が有ったことは確かである。
しかし私の記憶の中には一冊の書だけが「ゆめ」と「こめ」の両立の厳しさを描いているのがある。
それは中国の孔子の物語である。
孔子が国をでて諸国巡遊の旅の途中で食糧が尽き餓死する寸前まで追い詰められた話である。
陳国から負函をめざす旅の途中、陳国辺境の小さな集落に辿り着き、
大きな池の周辺で陣取ってみんな腹をすかして仰向けに倒れていました。
そのとき弟子から「君子でも窮することはあるのですか」と問われ、
孔子は「君子固(もと)より窮す。小人、窮すれば斯(ここ)濫(みだ)る」と答えた。
それを聞いた弟子達は泣きながら全員地に伏せたという。
そして翌日子貢がどうにか食料を手に入れて来て難を逃れた話である。
当然このような状況は想像に難くない。
50を過ぎた無職の人間が弟子をひき連れて職探しの旅である。
まわりの人間からは「能書きばかり言って飯もろくすっぽ食えないじゃないか」と笑われていたのである。
まさに「夢」より「米」なのである。
その後孔子は弟子を引き連れて魯の国に戻り72歳までの一生涯を教育に専念したのである。
喜劇王チャールズチャップリンの名言
「人生に必要なものは、勇気と想像力。それと、ほんの少しのお金です。」
「夢」を目指すから「米」が必要なのである。「米」をたらふく食べたいから「夢」を見るのでは無い。