泳ぎ方

 

人生を生き抜くためにはそれぞれの泳ぎ方を知らなければなりません。
どの泳法が良いかは人それぞれによって違うのですが、必ず自分に適した泳ぎ方があるはずです。

その為にクロール・バタフライ・平泳ぎ・立ち泳ぎ等から探し出さなければなりません。
しかし気を付けなければならないのは、泳ぐ場所によっても泳ぎ方が変わると言う事なのです。

一つの泳ぎ方で川も湖も海も泳ぎ切る事は出来ません。
泳ぎ切ったとしても理に適った泳ぎ方ではないので様々な不都合が生じるのです。
たった一回の泳ぎで疲れきってしまっては、次々に起こるアクシデントを乗り越える事は出来なくなります。

その為には泳ぐ場所の正しい判断と理にかなった泳ぎ方を学ばなければなりません。

人間関係も同じように置かれた場所で正しい人間関係が成立しなければなりません。
多くの方々との人間関係ですから上手に泳ぎきる方法を生みださなければなりません。

明るさと笑顔で他人の邪魔にならないように泳ぎ切ることが大切です。
しかし、私には私の好きな考え方があるから、他人の意見は聞かないという人がいます。
きっとその方はいままで波風の無い安定したプールのような状態の中でしか、

泳いだ事が無い人だと思います。

いつまでも周りに守られていた状態が続くのであれば構わないのですが、
実際の社会の中では千差万別の泳ぎ方で、臨機応変に泳ぎ切らなければなりません。

親や教師や数冊の書物の中で覚えた泳ぎ方で、人生を最後まで泳ぎきるのには無理があります。

少しぐらい不器用な泳ぎ方でも、常に社会の変化に応じて泳ぎ方を変えなければならないのです。
泳ぎ方を変えるには過去の呪縛にとらわれない事です。
間違った泳ぎ方で辛い経験があったとしても、すべて捨て去らなければなりません。

そして大切な事は無事泳ぎ切ったとしても、ゴールがどこかということを想定しなければなりません。
人生のゴールは短いようでもとても長いのです。
途中で息切れの無いように最後まで泳ぎ切らなければなりません。

有終の美を飾る為にも本当のゴールを目指すのです。

水泳の金メダリスト北島康介は以前「ゴール前に弱い」とコーチに言われたそうです。

良い記録がでそうなのに、ゴール前で失速してしまうそうです。
決して体力が持たないという問題ではありません。脳の機能の問題だそうです。

脳は「ゴールが間近だ」と思ったら失速を始めるそうです。
つまり、ゴールが見えると、脳はもう達成したかのように思ってしまうわけです。

顕在意識の中では必死で泳いでいるのですが、顕在意識よりも膨大な潜在意識が達成した感覚に満たされると、
発揮していた力が低下していくわけです。

ゴールが見えると低下してくるということは、ゴールまで最大の力を発揮してたどり着きたい場合、
本当のゴールをゴールと思ってはいけないということです。

そこで北島選手が助言されたのは、「壁をタッチし、振り返って電光掲示板を見るのがゴールだ」
ということを頭に刷り込ませたそうです。

つまり、北島選手の場合は、壁をタッチしてもまだゴールじゃないんです。
なので、タッチの瞬間まで最大限の能力を発揮します。

 
少しの成功で有頂天になっている経営者を多く見かけます。
才能もあって泳ぎ方も上手なのですが、本当の成功(ゴール)の前に失速してしまうケースがあります。

独走態勢で泳いでいたとしても安心することなくゴールまで力を緩めなければ失速しなかったのかもしれません。
彼等もまた北島選手がコーチからアドバイスを受けたように、

ゴールをゴールの遠く先においていれば良かったのだと思います。

切掛け

 

物事を始める時に何か切掛けが無いと弾みがつかない。

いわゆる背中を押してくれるものが無いと進めないのである。
頭の中では行動を興したいのに身体が動かない。

周りからは怠惰な人間だと思われてしまうのだが、どうしてもいま一歩が踏み出せない時がある。

キッカケという言葉を辞書でひいたら、カタカナ表記の場合は、
歌舞伎で次の舞台進行に際しての合図となる動作やせりふのことをいうと書かれていた。

これを漢字表記で切掛けと書くと、気勢、意地、物事を始めるはずみとなる機会や手がかりと書かれている。
進行に際しての合図、物事を始めるはずみ、行動を起こす時の機会や手がかりとは、
瞬間に起こる発動、いわゆる精神的意志の決定である。

何事にも切掛けがあってそこから新しい物事が始まり変化が起こるのである。

歴史が動く時の切掛けは、国政の決断の切掛けは、経営の重要な採択の切掛けは、
そして個々の人生を選択する時の切掛けはと考えなければならない。
その上に切掛けの決断とは時間を掛けずに、一瞬にして行われなければならないということである。

切掛けが起こる主な要因は、宗教観から来る場合、哲学観から来る場合、国富論から来る場合、
幸福論からくる場合、経済的損得から来る場合とそれぞれである。

幕末の草莽崛起の切掛けは「尊王攘夷」である。
この尊王攘夷の言葉で徳川幕府が終焉を迎え、そして江戸城明け渡しに伴い
「大政奉還」という歴史的事実も作られたのである。

太平洋戦争の切掛けは真珠湾攻撃である。
海軍大将山本五十六の「対米戦においては開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべき
奇襲こそ勝利の道」と決断したからである。

第二次世界大戦終戦の切掛けは広島と長崎に投下された原爆によるものである。
1945年8月15日正午天皇陛下の玉音放送によって全面降伏が国民に伝えられたのである。

いずれにしても平穏無事な場合は、個人も国家も変化の切掛けを作る必要はないと考えるのが妥当である。

しかし求めざるとも時代は変わるものである。その流れと共に政治や経済も変動するのである。
人々は平和と安心の言葉を切掛けにして、あらゆる煩悩の欲を表面化して動き始めるのである。

それでは平和と安心はどのようなものでるかを考えなければならない。
ピーター・ノスコ著「江戸社会と国学」の中に、
「まず第一に、それはおのずから調和の保たれた社会である。そこに住む人間同士の調和だけでなく、
自然界における人間と他の動物との間の調和をも意味する。

第二に、そこには裏切りや不誠実な行為はそれが実行不可能であるかのように、全く存在しない。
そして社会生活は全世界を裨益する規範に自ずから従っている。
また、人々のあるゆる身体的な欲求は満たされている。

すなわち飢えも渇きもなく、あらゆることが足りている。また自然も人間の営為と同様に、
人間の最も根本的欲求を生み出すような環境を自ら生み出しているのである。

もちろん死は人間をある日突然襲う未知のものである。
しかしここでは人々の寿命は一般的に長く、死がもたらす苦痛は存在しない。
時は流れ、昨日も明日もなく、永遠に変化のない今が続くだけである。
したがって、このような理想的な状態においては変化は起こり得ないのである。」

本来の平和が確立されていれば変化を望む者はいないのである。
江戸時代の国学者の考えが現代でも通用するのではないだろうか。

これを切掛けに今一度正しい調和を考えるのも良いのではないだろうか。

 

幸福の持ち方

 

幸福とは地位や名誉や財産だけで語ることは出来ない。

宗教家の幸福、哲学者の幸福、政治家の幸福、成功者の幸福、男女の幸福、
年齢別による幸福等それぞれが提案する幸福がある。

しかし自分自身の運命を知り、生きる目的や価値が分かった時に、初めて真の幸福を実感できるのだ。

地位や名誉や財産以外に、人生の夢を幸福に置き換える人達や、健康であることを幸福と捉える人達もいる。
弱い者同士で助けう共存を本当の幸福と思う人もいる。

人間が人間らしく幸福感を持ちながら成長できたのは、
他人を守る意識が芽生えたことからだそうだ。

暗い穴倉の生活も火を発見したのも道具を作ったのも、
家族を含む他の人達が笑顔を見せる事に幸福を感じたからである。
最も原始的な幸福は、その日の食料を分け合うところから始まったのかもしれない。

自分一人だけの満足なら限界がある。
住むところも衣服も食料も囲い込むならば動物とまったく同じ状態である。

力のあるものが弱い者の為に生きる喜びを感じた時から双方に幸福感が生まれたのである。

その為に人としての規律が宗教からうまれ、人としての生き方に哲学がうまれ、
人として安全に暮らす為に政治がうまれたのである。

ダン・ギルバート曰く、
「不幸が生じるのは、自分の人生において自分が迷い、自分が決めている時に起こりやすい。
一方、それが辛い出来事や苦しい出来事だとしても、自分以外が運命を決め、自分の決定から離れている場合、
我々は結局のところ幸福を感じてしまうようなのだ。」

ダン・ギルバートは、不幸は自分の決定によって引き起こされた現象であり、
幸福は他人に決定を委ねる所に感じるものであると言っている。

友人同士の悩みの共有は相手が解決の判断をすれば幸福を感じ、
自分が解決の判断をすれば不幸を感じるというのだろうか。私には理解できない。

ラ・ロシュフコオは「どんな不幸な出来ごとでも、有能な人ならば、そこから何か利するところがあるし、
またどんな幸福な出来ごとでも、思慮のない人ならば、災いを転じて禍となすことがあるものだ」と言っている。

第一級の貴重な箴言である。

魯迅の「阿Q正伝」の中で、「阿Qは独自の精神勝利法という考えを持っていた。
「お前らのような下等な人間から幾ら叩かれても痛くも痒くもない。俺はお前らよりも高等な人間なのだ」
阿Qは最下層の生まれで教養もなく、容姿も最悪で、村人から常に虐められていた。
しかし、殴られている最中にでも、阿Qは腹の底では勝利者として笑っていたのである。」
他人から受ける屈辱を逆に幸福として捉えたのである。

中国の歴史は常に列強大国から虐められていた。
その弱く貧しい中国が苦しい時代を乗り切った精神として高く評価された作品である。

しかし魯迅は中国の愚民の姿を阿Qに描いたのであって、
中国人の内面に潜む情けなさを曝け出しただけであると言っている。

いじめや体罰で苦しんでいる子供達が、このような強かな考え方を持てば、
加害者は不気味で手を出せなくなる。加害者は逃げるから喜ぶのである。

歎異抄には「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもっと、そらごと、たはごと、
まことあることなきに念仏のみぞまことにおはします。」仏教は絶望ということを知らない。

「火宅」私を含めて人間がどれ程堕落していてもかまわない。社会がどれ程混乱していようとも少しもかまわない。
なぜか。それは人間の世界は混乱しても、それを包む大きな世界の働きかけは無限でありやむことがない。
あらゆる煩悩の中で生きている私達、まるで燃えさかる家の中にいるようである。

激しく移ろいやすいこの世界は、全てが嘘・偽りで絵空事である。
そこには南無弥陀仏だけが真実なのである。仏教は救いでは無い。

真実を知って学んだ者だけが幸福を得られるのである。

世の中には声にも出せない不幸な人達が大勢いる。
老人ホームのお年寄り達、都会の片隅で孤独死をする人達、ガード下のホームレス達、延命処置をされた病人達、
人種間の差別を受ける人達、未だ戦火が衰えない国の人達、飢餓でなくなるアフリカの子供達。
数限りない不幸が目の前には広がっている。

現代社会における典型的な苦しみは、
「俗物主義がつくりだす無責任な嘲笑に振り回されて、
不幸を感じその不幸の結果を全て自分の責任にしてしまうこと」である。

逃げ場を失った人達が行きつく先に辿りついた結果が自己反省など納得はできない。

幸福は分けあうところから始まっているのです。
笑顔を見るところから始まっているのです。

人工的な幸福を振りまく資本主義社会に踊らされては、本当の幸福を手に入れる事は出来ないのである。

辿る道

 

自ら選んだ道を探し出し、ただひたすらその道を歩き続ければ必ず目的地には到着をする。
しかし、その道は本当に自分が求めている道だろうか。

間違って砂漠で森を探している事になっていないだろうか。
山あいで海を探している事になっていないだろうか。
大空に城を築く事になっていないのだろうか。

辿る道を間違えれば目的の場所は永遠に見つからないのである。
冷静に判断をして、正しい辿る道を探さなければならないのである。
注意せず、あれやこれや気を多くしていると、辿る道をすべて見失ってしまうのである。

気が多いとは、小さな庭に沢山の果実の苗木を植える様なものである。

それぞれの苗木に適した環境も生育方法も実りの時期も知らないで、
ただ闇雲に植えただけでは苗木は枯れてしまうのである。

先ずは庭の土壌の質を知り、肥料を与え、害虫を殺して、苗木の管理をしなければ、
豊かな収穫には至らないのである。

たとえ気が多すぎて色々な果実の苗木を植えたとしても
少ない大地の滋養を奪い合い育たなくなるのである。

しかし選んだ場所が恵まれない環境で有ったとしても、
その道が果実に取って望む道で有れば本気で辿るしかない。
その為には、生育の正しい知識と正しい努力に基づいて行わなければならないのである。

そしてその努力には必ず光の活路が見えて来る筈である。
辿る道は「楽」をして通り過ぎる為の道では無い、

自分の夢を叶える為の「必要」な道であることが大切である。

ワインの専門用語に「テロワール」という言葉がある。

ワインの味や香りに深い影響を与える、その土地に由来するワインの特長をテロワールと呼ぶ。
このテロワールでは肥沃な土地より、
むしろ痩せた土地に育ったブドウの方が極上のワインになる事が多いと書かれている。

乏しい養分を求めてブドウの根は地中深くまで張り巡らされる。
その結果としてブドウは土壌中の様々な微量の元素を取り込み、
味や香りがより複雑で奥行きの有るものになるという分けである。

果実の苗木は大地を選ぶ事は出来ない。しかし持ち主は大地を選ぶ事が出来るのである。
環境に恵まれるという事は決して良好な場所だけにあるものでは無く、
その望むものに適した場所にあるという事である。

芳醇なワインを作るには大地と持ち主の知識に裏付けされることが多いのかもしれない。

自分に適した「辿る道」を探すのには大変な時間と苦労が伴います。
しかし道を探すのも選ぶのも自分で見つけなければなりません。

時間が掛ったとしても諦めずに学びながら、地道な努力の中でしか見つける事は出来ないのです。
理想を夢とせず現実を夢として歩み続けるしかないのです。

貴方が選ぶ辿る道が最悪な場所でも、努力次第では最高の場所にする事も出来るのです。

信念

 

ここに信念という名のボールがあります。

いつかは投げなければならないボールです。

もう迷いはありません。

いまからまっすぐにボールを投げます。

ただひたすらにボールをまっすぐに投げます。

最初は緩めにそして徐々に早くしていきます。

変化球は投げません。

自分のボールを受けとめてくれる未来へ、

ボールをまっすぐに投げます。

周りを気にせずに投げます。

魂のキャッチボールです。

だから変化球は投げません。

ただひたすらにボールをまっすぐに投げます。

いつかこのボールがもどるまで。

 

ここに信念という名のボールがあります。

いつかは投げなければならないボールです。

不器用だけれど大丈夫です。

力が足りないけれどまっすぐに投げます。

ただひたすらにボールをまっすぐに投げます。

左右バラバラの不揃いかもしれません。

届くまで投げ続けます。

自分のボールを受け止めてくれる貴方へ

ボールをまっすぐに投げます。

気取った言葉は言えないけれど気にせずに投げます。

飾りの無い本音のボールです。

だから直球しか投げる事ができません。

ただひたすらにボールをまっすぐに投げます。

いつか二人のグランドができるまで。

 

全てを受け入れる

 

竹筒に大きな石と小石と砂利を詰めて、
その間にシュロの葉や木炭を詰めれば即席のろ過装置が出来ます。
とても濁った水を入れてもその竹筒を通過すれば澄んだ飲み水になるのです。

自然の中には一切の無駄が無いのです。

捨てられている小石と葉っぱと炭でもひとつになると役立つ事が出来るのです。
動物も植物も鉱物も手を取り合って自然の調和が保たれるのです。

人間社会もこれと同じです。

同じタイプの人間だけを集めてグループを作ると、
一見まとまっているように見えるのですが、実はいざこざが絶えないのです。
それは同じタイプだと考え方や判断が一緒だからです。

考え方や判断が一緒だと、自分がやらなくても、誰かがやってくれているという、
他人本位の甘えが生じてくるのです。

結果、互いに何も発展が無いことからいざこざが起こるのです。
いざこざが起こると人間関係も隙間だらけになり、
その隙間から大切な物がどんどん流れ落ちて行ってしまうのです。

反対に違うタイプの人間同士だと一見バラバラの様に見えても、
バランスの取れた良い関係になるのです。
バランスの取れた良い関係とは、相手が気になる事でも自分は気にならないし、
自分が求める物でも相手には不要な物だったり、
やりたい仕事も遊びもぶっかり合う事が少ないという事です。

違うタイプの人間同士だと、考え方も判断も違うわけですから、
常に話し合いが生まれて共存の意識が生まれて来るのです。

しっかりとした人間関係では、隙間が少ないので大切な物がゆっくりと流れます。
たとえいざこざや問題があったとしても、多くの人間関係を通過することで,
いつのまにか解決しているのです。

川の水は雨が森や山に降り注ぎ、枯れ木や木の葉が落ちた大地に沁み込み、
岩の隙間から湧水となって一筋の流れになるのです。

川は自然界に存在するあらゆるものに触れて、全ての生物の命の恵みとなるのです。
湧き水から川になり大海原までの長い旅で多くの埃や塵や汚れを含んでしまいます。

しかしいついかなる時にでも母なる海が全てを浄化してくれるのです。
全てを受け入れることの大切さが、自然界では当たり前のように行われているのです。

そしてまた海水が蒸発して雨となり山々に降り注ぐのです。

思い通りに進まない人生では、悲しみも,喜びも,憎しみも,憐れみも,
全てが混ざり合っています。

しかし愛というろ過装置があるから少しずつ幸福が滴り落ちて来るのです。

希望という小石を一杯詰め込んで、不幸を避けるのではなく不幸も受け入れて、
ゆっくりとろ過すればすれば甘露な水になるのです。

天台宗大阿闍梨酒井雄哉は「ムダなことなどひとつもない」と言う本の中で、
「どろどろに汚れた友禅だって、川にポンと置いたら水にさらされて、
泥がいつの間にか消えちゃってきれいになる。

それと同じで、人間も、清流の流れの中にじっとしていたら、いつの間にか清い状態になってくる。
そういう、自然の原理やリズム中心にものを考えたら、うまくいくんとちがうかな。」

自然の原理やリズムを中心に考えるという事がとても大切です。

全てを受け入れていれば、汚れた人生も美しい清流のような人生になるということです。

芸術家

 

本来芸術家は大自然を崇拝して何も無い空間に音や映像を描き出すのである。
その表現方法は色彩を通して旋律を通して形状を通して行うのが常である。

隠された景色の中に、隠された動作の中に、隠された物象の中に、見えないものを見て、
聞こえない音を聴いて、一般的法則で表現されている真意の裏側を読みとるのが芸術家である。

モーツワルトは父親にあてた手紙の中で
「自分は音楽家だから、思想や感情を、音を使ってしか表現できない」と伝えている。

モーツワルトは幼児期の頃より多動性症候群とてんかんの病で苦しんでいた。
彼は言葉や文字を使って意志の伝達をするよりは、ピアノを弾き音色を通じての方が
コミュニケーションを図り易かったのかもしれない。

ロダンはゴシック建築を見て「真の芸術家は創造の原始的原理に透徹しなければならぬ。

美しきものを会得する事によってのみ彼等は霊感を得る。
決して彼等の感受性の出し抜けな目覚めからではなく、のろくさい洞察と理解とにより
辛抱強い愛によって得るのである。心は敏捷であるに及ばぬ。
なぜといえばのろい進歩はあるゆる方面に念を押す事になるからである。」

また若き芸術家たちに「芸術は感情に外ならない。しかし量と、比例と、色彩との知識なく、
手の巧みなしには、きわめて鋭い感情も麻痺されます。

そして最も偉大な詩人でも言葉を知らない外国ではどうなるでしょう。

新時代の芸術家の中には、不幸にも、言語を学ぶ事を拒絶する多くの詩人があります。
やはり彼等も口ごもるより外にはありません。芸術家の資格はただ智慧と、注意と、誠実と、意志だけです。

芸術は内の真実があってこそ始まります。
すべての君たちの形、すべての君たちの色彩をして感情を訳出せしめよ」と言っている。

小林秀雄の文章の中にも「ニイチェはワグネルを、「微小なるものの巨匠」と呼んでいる。
彼に言わせればワグネルという人は、非常に苦しんだ音楽家だ、おし黙って悲惨に言葉を与え、
苛まれた魂の奥に音調を見出す自在な力を持っていた。

「隠された苦痛、慰めのない理解、打ち明けぬ告別のおどおどしたまなざし、
そんな音楽にもならぬものまで音楽にする才を持っていた。」

「実な微細な顕微鏡的なもの、言わばその両棲動物的天性の鱗屑」を表現した巨匠であると言っている。

又小林秀雄は、詩人に対して「人間を、事物を正確に観察し、それをそのまま写し出す。
対象の世界はいくらでも拡がります。観察している当人の主観と言えば、これ又心理学の発達により、
心理的世界と云う対象に変じます。

観察の赴くところ、すべてのものが外的事物と変ずる、
作者は圧し潰して中味を出そうにも、中味が見当たらなくなる。
極端に言えば、自己は観察力の中心となり、言葉は観察したものを伝達する記号となる。
こういう傾向が非常に強くなった文学が、ナチュラリズムの小説とかレアリズムの小説とかだと考えると、
そこで言葉というものの扱われ方が、詩人の場合とはまるで異なっている事に気付く筈です。

詩人は、ワグネルが音楽を音の行為、混然とした音の塊Tatと感じたように、
言葉を感覚的実体と感じ、その調整された運動が即ち詩というものだと感じている。」

芸術家にも様々な分野と形がある。

理屈なしの才能と才能があるから偏る才能がある。
真の芸術家は表現が卓越しているだけでは無く独特の個性があるから評価されるのである。

一般的法則で表現されている真意の裏側を読みとるのが芸術家である。

私は「私の幼児期の体験により脳内に眠る記憶がよみがえり、
その力を通じて他人とは違う創造物を創り出す事が出来た。
自らの苦悩を取り除くために、また依頼者の虚栄と満足を叶える為に、
絵や音楽や芝居が必要であった。」

それが私と云う人間の存在の証でもあった。

プロデューサーや演出家は芸術家と違って個人の記憶と体験で想像力を働かせる仕事である。

「私は、ある体験をした。私は、あるものを見た。私は、あることに耐えて生き延びた。
そして、その事が私にとって重大だったように、あなたに、とっても重大なことかどうか知りたい。」
ぞれの芸術作品をとうして、これを観客に問うているもの。

「芸術家の使命は人間の心の奥底に光明を与えることである」 シューマン

さとり

 

晴れた日には両手広げて陽射しをあびる

雨の日には何もしないで本を読む

嵐が来れば風除けに隠れ、雷雨になればひと眠り

曇った日には酒を飲み、昔日片手に歩き出す

道端の草木小虫に声をかけ、吹く風のように通りすぎ

 

晴天満天の屋根に囲まれて、山頭火気分でなすがまま

金あれば豪快に使い、金無くなれば質素に暮らす

借金取り来れば逃げ出して、表札隠して苦笑い

昔の友にはやさしくて、変わりは無いと嘘をつく

祭りの後は騒がない、疲れた男は哀れでいい

 

名誉も金も消え失せて、裸になって人になる

都会暮らしの片隅で、今宵も独杯月揺れる

世間の噂に惑わされず、力を入れずに酔っぱらう

海辺の側で見る夢は、漣と笑って踊るだけ

周りの幸福妬むより、自分の不幸と遊ぶだけ

 

予期せぬ事が人生には起こります。幸福と不幸の札が入れ替わります。
そして不幸のどん底で悩みの渦に巻き込まれます。判断を誤れば最悪の事態が待っています。
解決方法は一つしかありません。慌てず騒がずもがかない事です。

失敗を恥ずかしいと思うから無理な所に力が入るのです。
みじめな姿を見られたくないから暗闇に逃げ込むのです。
失ったものを追い求めるから涙が浮かぶのです。

そのような状況から良き答えは見つかりません。人間本来は「無一物」と思う事です。
裸で生れて来た人間が又裸になったと思えば気が楽に成ります。

気楽に体力を温存して下さい。人生の休みを少し多めに頂いたと思えば良いのです。

今日も人として生かされている事に感謝する事です。

人生の目的とミッション

 

仏教の世界では生きる目的はと聞かれれば死ぬ事ですと答えるのが正解です。

生まれた時には既に「生老病死」の四苦を持っているからです。
現世(いまの世)が不幸な人は前世(まえの世)の行いが悪かった為に不幸に成ったのだと言われます。
その為には現世で徳を積まなければ来世(来る世)も不幸に成る宿命を授かると教義に書かれています。
輪廻転生の世界です。

徳とは自分本位では無く他人本位で生きる事です。
俗に言う利他心の気持ちを持って他人と接するということです。
富や名誉や色欲に溺れず奉仕の気持ちを持って生きる事です。

又人は同時に生きる使命を全うしなさいとも言われます。
生きる使命はミッションです。

魚屋は魚屋、大工は大工、八百屋は八百屋と家業の仕事に従事しなさいという事です。
勿論、職業に対する日々の勉強と責任と誇りを持って努めなさいという例えの話です。
仕事で社会に貢献することを使命にしなさいという事です。

現代は職業選択の自由があります。その中で天職と思える仕事に巡り合う事も大切です。

日本には仏様以外に八百万の神がいます。
山にも森にも小川にも小石にも海にも空にも至る所に神様が住んでいるのです。
その神様たちが見守るから貧富職業貴賤なく全ての人と仲良く暮らすのだと言われて来ました。

我々日本人のミッションは互助精神を基本とする助け合いの心で暮らす事です。

アメリカの作家リチャード・ライダー曰く「人生の目的とは生まれて来た目的を果たす事にある。」
又別の作家ジャックキャンフィールドは「私達は皆、それぞれ独自の人生の目的を持って生れて来ている。
私達は皆、理由があってここに存在している。それぞれは周りに貢献する為ここに居る。
貴方が人生の目的に沿って生きている時、あなたの行動全てに最高の喜びと達成感を感じる事が出来るだろう。」
運命宿命論である。

又、人生の目的とはその人の現世においての個人課題です。
何度も生まれ変わり魂の成長が遂げるそれが人生の目的と課題となります。

ミッションとは他の魂を宇宙の進歩に対して果たす役割の事を指します。
こちらは人生の目的が個人的課題であるに比べて、周りに対する貢献にあたります。

ある人は周りに愛を降り注ぐミッションを持って生れてくるそうです。
周りの人が自分自身を発見する手助けをするミッションを持っています。

個別の課題である目的と周りの貢献であるミッションを持って生れてくるそうです。
意識しようとしなくても魂のレベルで設定されているのです。

ヴェトナム人のディク・ナット・ハンという禅僧が仏の教えを全世界に広めています。

「世界の苦しみと関わりをもち、苦しみに動かされるとき、私達は苦しんでいる人たちを救うために、
前に向かいます。すると、みずからの苦しみが、なんということなしに、消えてしまうのです。
数百万の人達が飢えている状況において、富を蓄えてはならない。

名声、利益、富、官能の楽しみを、人生の目的としてはならない。
簡素に生きて、時間、エネルギー、物質的資源を、困っている人たちに分ちなさい。と言っています。

仏教的慈悲の心に包まれてミッションを果たしています。
人に尽くす事によりみずからの苦しみが解放されるのです。

それぞれの人達が人生の目的とミッションを遂行すれば世界の平和は守られます。

 

眼横鼻直

 

あたり前の事実を、ありのままに見て、
しかも、そのままである事実を頷き取る。
悟りに近いこの心境を道元禅師でさえ四年の歳月がかかったのである。

易しくて、難しい事実です。私達は果たしてすべてを、
あるがまま、見るがまま、聞くがままに受け取っているのでしょうか。

一休禅師(1394~1481)に面白い話があります。

ある日、一休さんは一本の曲がりくねった松の鉢植を、人の見える家の前に置いた。
「この松をまっすぐ見えた人には褒美をあげます」と、小さな立て札を鉢植に懸けたのである。

いつの間にか、その鉢植の前に人がきができた。
誰もが曲った松と立札を見て、まっすぐ見えないかと思案した。
だが誰一人として、松の木をまっすぐ見ることはできなかった。
暮れがた、一人の旅人が通りかかった。その鉢植を見て、
「この松は本当によく曲りくねっている」と、さらりと一言。

それを聞いた一休さん、家から飛び出てきて、その旅人に褒美をあげたという。

その旅人だけが松の木をありのままに見たのである。
他の人は一休さんの言葉に惑わされてしまった。
褒美に目が眩み、無理に松の木をまっすぐ見ようとしたのである。

(『大法輪』昭和六十三年二月号、藤原東演「臨済禅僧の名話」参照)

さあ、どうでしょうか。私達は「眼横鼻直」のように、あるがままに受け入れているのでしょうか。
他人の意見、自分の主義主張にとらわれて、本当の姿を見失っているのではないでしょうか。
眼は横に、鼻は直に、じっくり味わいたい句です。

子供の時にはあるがままの姿を見る事が出来たのに、
何故大人になるとあるがままの姿を見る事が出来なくなってしまうのでしょうか。
それは大人になると「邪」(よこしま」な心が生まれるからです。
その邪な心が見る物を自分の都合のよい物や形にしてしまうからです。
邪な心とは打算的です。見栄です。駆け引きです。傲慢です。

本来持っている素直な気持ちを押し殺して、その場の状況に応じて変化させるのです。
変化は浅薄な知識と強欲な心によって強調されます。
咄嗟の質問に対して見栄を張り、裏読みしすぎて答えに窮するのです。
もっと素直にあるがままの姿を、見たままに応えれば良いのですが曲解してしまいます。

それを成熟した大人と言って良いのでしょうか疑問です。

日本人は小さな村社会で全ての問題を合議制で決定して来たからでしょうか。
自分の意見よりも他人の意見を尊重する傾向にあります。
年配者や目上の者には暗黙のうちに了解する慣習があります。
丸く収める為には他人と違った意見は言わない事なのです。

村の長から「黒い」物を「白い」と言われても「黒い」と言ってはならないのです。

「眼横鼻直」はアンデルセンの童話「裸の王様」と同じです。

目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。
王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。
家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。
王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。

見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、
その中の小さな子供の一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだ。

正しく一休禅師の「松の鉢植え」と同じですね。

知識や経験が人間を成長させるとしても、その間に得た情報から打算が生れて来るからです。
善悪よりも損得が働くから、目で見て耳で聞いた事よりも、頭の中の計算が働いてしまうのです。
少しでも利益になるのなら曲解もありの話なのです。

「善」とは何か、「正義」とは何か。ハーバード大学マイケルサンデル教授では無いのですが、
資本主義の数の論理から、又自由主義の多数決から全てを判断しては成らないと思います。

政治的・経済的圧力を行使する人達から、真実の言葉を摘み取られない様にしなければなりません。

弱くて正直な大人達を邪魔者扱いにするような世の中はあっては成らないのです。