山川菊栄著「武家の女性」の中の一説に「子年のお騒ぎ」というのがあります。
水戸藩の内乱を描いた文章なのですが、どうしても忘れてはならぬ出来事があります。
幕末の動乱期の水戸藩での出来事の一節である。
水戸藩では改革派と保守派に別れて二大勢力が争っていた。
その改革派の中に急進派と漸進派の二派に分裂をしていた。
桜田門外の変は、彼ら水戸藩の急進派の武士によるテロで有った。
その急進派天狗党の中心人物であった武田耕雲の一家19人が死罪になったのである。
その出来事が忘れてはならぬ話である。
長子、彦左衛門の妻いくは、15歳、13歳、10歳の三人の男児と一緒に入牢中、子供達に「論語」を教えていた。
それを牢番が見て「どうせ死んでいく子に、そんなことをしても無駄だろう」というと、
いくは居ずまいを直して、「この三人のうち、ひょっとして一人ぐらいは赦されないとも限らない。
その時、学問が無くては困るから」と答えたと言います。
しかし、その期待も空しく、三人が三人とも斬られ、いくは牢内で食を絶って自殺してしまいました。
武田の妻は三歳の男児を抱いて入牢しましたが、
ある日珍しくお膳にお刺身が付いていたので、ハッとしました。
もちろんこれは死出の門出での、最後の御馳走の意味でした。
そうとも知らず、抱いていた子が手を出そうとすると、
「武士の子は首を斬られた時、腹の中にいろいろな物があっては見苦しいから」
と抑えました。
「哀れだったのは、十五になる耕雲の孫で、死を前にして母親から
「論語」を教えられていたあの子が、首切り役人に呼び出された時でした。
罪の軽い者から先に斬られるので、親よりは子供の方が先なのですが、
その子が何と思ったものか、「お母さんお先へいらっしゃい」
「まあそういわずにお前から先へ」「いいえどうぞお母さんから」と
先を譲って聞かなかったことでした。
どうせ斬られることは承知なのですから、母に嘆きを見せまいため、
男の自分が少しでもあとになろうと思ったのでしょう。」
「もっと小さな三歳の男の子は炭俵に入れておいて、
上からお菓子を見せてひょっと首を出したところを斬ったのでした。
その二歳の弟は餓死で死んだのですが、首切り役人は
「あの餓鬼も生きていれば一緒にやってやるのだった」といったそうです。」
このような事実が現実にあったという事です。
私が改めてこの文章を思い出したのは、母と子の関係です。
どのような状況でも学問を教え続けていた母親の気遣い。
子供は母親に哀しみを見せないようにする母へのおもいやり。
死を前にしての母子の気使いが深く脳裏に刻まれたのです。
この時代は藩や幕府に対する謀反は一族お取りつぶし、
または死罪が当然とされていた。
それを承知で武士の意地で已むに已まれず行動を起こしたのです。
処刑されるのは、一人や二人などの少数ではなく、何百人が同時に首を斬られる時代だったのです。
そんな残虐な行為が罷り通る歴史が二百年前にあった。
現在のように親子の関係が軽視され、
平気で子供を虐待死させる親には通用しない話である。
是は日本の歴史であり。忘れては成らぬ出来事なのです。
現在NHKで放送されている「八重の桜」はお隣の会津藩の物語です。
有名な「ならぬことはならぬものです」会津藩の子供は幼き頃より、
この什の掟を暗記するのです。
武士としての意地を子供の時から学ぶのです。
6月 25th,2011
恩学 |
忘れてはならぬ出来事 はコメントを受け付けていません
イギリスのフラットの女主人が、朝の紅茶を入れる時に「天使の為に一杯」と言いながら、
ひと匙多めに紅茶の葉を入れていたのが印象に残っています。
大きめのティーポットにお湯をたっぷりと入れて、葉が膨らむのを待ち濃いめにするのがイギリス風です。
それぞれのマグカップになみなみと注ぎ濃密な牛乳を加えるのです。
(日本の家庭用の牛乳に比べると数倍濃い感じがしました)
イギリスの朝食は香り豊かなミルクティーとカリカリのベーコンエッグが、とても良く合います。
そしてイギリス・ロンドンの水道水はカルシウム成分の多い硬水です。
硬水の独特のふくらみとまろやかさが紅茶の味を引き出すのです。
私は特にトヮイニング社のアールグレィが好きでした。
うす暗いフラットの食堂で天使と飲んだ紅茶は一生忘れる事が出来ません。
「親に孝」という中国の話があります。
とても貧しい家庭で子供が親に食事を用意します。
どのような時にでも父親が先に食べます。
その時に子供は必ず「美味しかったでしょうか」と尋ねます。
そして余分など無いのに「もう一膳如何でしょうか」と父親に言います。
父親は「有難う。お前たちも食べなさい」との会話が毎日続きます。
親も全てを察しているのですが、その子供の思いやりに感謝しながら言葉を返します。
食事以上に子供の気づかいが美味しかったでしょうね。
江戸言葉に「こぶしひとつ」があります。
つかの間のお付き合いに「こぶし腰浮かせ」をして席を空けるときの動作です。
皆がこぶし一つ分だけ詰めることによって一人が座れるようになるのです。
見知らぬ人同士の和やかな雰囲気が伝わって来ます。
混んだ電車でお年寄りを前にして眠ったふりをする人。
妊婦さんや身障者の方が近づくと冷たい雰囲気で席を立つ人。
横座りになって大騒ぎしながら席を占領している人。
「こぶしひとつ」の気持ちがあれば良いのですが、残念ですね。
山本兼一著作「利休にたずねよ」の「木守」の言葉です。
家康は膝のまえで、茶碗をながめた。
赤い肌に、おぼろな黒釉が刷いたようにかかっている。
家康が利休にたずねた「銘はなんというのかな」「木守でございます」
秋に柿の実を取るとき、来年も又豊かに実るよう、ひとつだけ取り残す実が、木守である。
来年の為にひとつだけ残す。眼に見えない神様や仏様にお供えをするのです。
こんな所にも「天使の為に一杯」が有ったのです。素晴しいですね。
一期一会の人生です。ひとつ何かをするだけで他人では無く自分が豊かになれるのです。
全ての人の心に「天使の為に一杯」の気持ちがあれば争い事は起こりません。
「天使の為に一杯」は日本人の思いやりの心に通じるものがあります。
6月 25th,2011
恩学 |
天使の為に一杯 はコメントを受け付けていません
人生は荒波の中を航海するようなものです。
その荒波の中を一緒に航海する家族という乗組員がいます。
父親が船長で母親が航海士です。子供達はさしずめ経験の少ない船員です。
港を出てからは何が起きても乗組員だけで解決をしなければならないのです。
穏やかな時も嵐の時も助け合って航海を続けるのです。
船長(父親)が航路を決めて舵を取ります。
航海士(母親)が海図を見て航路のチェックをします。
船員達は船の中で清掃や片付け等の雑用を担当します。
それぞれが責任を果たすことによって安全で快適な船旅が出来るのです。
しかし予期せぬアクシデントに見舞われる事もあります。
順調に航海を続けていた船が突然嵐に見舞われて停泊してしまったのです。
嵐は、船長(父親)と航海士(母親)のトラブル(離婚)が原因です。
その結果、船長が船を見捨てて出て行ってしまったのです。
残された乗組員は、船長のいない船を操縦して、安全な港に向わなければなりません。
航海士はただひたすら慣れない舵を握りながら船を前に前に進めて行きます。
船員たちはいままで船長と航海士に全て頼っていたので、
この危機をどのようにして乗り越えて良いかはまったく分かりません。
今更、船を見捨てた船長を恨んでも仕方が有りません。
そのうえ航海士に愚痴を言ってもなにも解決にはなりません。
自分達がやるべき事をやらなければ遭難の恐れもあります。
無事目的の港に着くまでは、乗組員同士の強い結束が必要に成ります。
どのような事があっても次の寄港地まで航海を続けなければならないのです。
そして、一端覚悟を決めた以上は昨日までの出来事は全て忘れて現実だけを見るのです。
つまらないプライドや知識や経験等を全て船室に放り込まなければなりません。
何もせずにこんなはずじゃなかったと嘆いてばかりでは解決の糸口は見つかりません。
先ずは目の前の荒波(問題)を乗り切る覚悟が必要です。
航海地図を確かめながら慎重に船を前へ進めて行かなければなりません。
港の明かりが見えるまでは気を抜く事は出来ないのです。
お互いの信頼関係は困難という出来事が磨きを掛けてくれます。
乗組員達には厳しい航海を乗り越えた後に、素晴しい達成感と強い絆が結ばれる事は確かです。
新しい港で新しい目的を見つける事も次への新しい船出になるのです。
人生という海では航海をしても努力なしの後悔はしないようにしましょう。
ここに航海で必要な「喫水線」という言葉が有ります。
船の荷物の満載喫水線が船体の横に記載されている。プリムソルマークです。
たとえば波の穏やかな熱帯域を航海する場合は、
荒れやすい冬季帯域や冬季北大西洋帯域を航海する時よりも、
上の喫水線が用いられ、勿論、荒れた海域では下の線を守らなければならない。
船舶の満載喫水線は、季節や水域によって異なります。
英国の政治家サミュエル・プリムソルが法案の起草者です。
私たちは常に人生の喫水線を確認しなければなりません。
どのような航海でも喫水線の注意を怠らないようにしなければなりません。
人生の航海は穏やかな時ばかりでは有りません。
もし途中で時化(シケ)にあい遭難しかかったとしても冷静に対処するしかないのです。
我々の喫水線は貯金で有り保険であり不動産なのかもしれません。
安全な時には気にしていなくても、いざ問題が生じたときにはとても重要になるのです。
安定した航海は常に万全な装備からうまれてくるのです。
いたずらに借金を増やして喫水線を越えてしまうといつ遭難するか分かりません。
そこを見誤って航海を続けるから転覆するわけです。
常に喫水線を確認して経験豊かな人達から正しい喫水線の見分け方を教えてもらう必要があります。
人生の無事安全な航海を祈るだけです。
6月 24th,2011
恩学 |
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窮地に陥った経営者の方々から相談を受ける事が有ります。
ほとんどの方はただ救われたいという思いで来るのですが、
この様な場合において大切な事は、「救われたい」という逃げる感覚を持つことではないのです。
ここから、また始めるには、どのような方法が有るのかという、「挑戦の意識」が無くてはならないのです。
どのような解決の方法があったとしても、最大の敵は「後悔」と「諦め」なのです。
事業の失敗を後悔しながら諦めてしまうと救われる道が閉ざされてしまいます。
多くの水難事故では、諦めた時点で心臓が止まり死ぬ事になると言われています。
自分は決して死ぬ事は無いと強く意識した人は、
少しぐらい海水を飲んでも生き残るのだそうです。その強い信念が必要なのです。
人生の海で溺れた時にも「諦め」は最大の敵です。
私の経験を含め絶対に最後まで「諦め」ないで下さいと伝えます。
現在、デフレ不景気で沢山の経営者の方々が事業の行く手を阻まれています。
大企業は国や銀行から守られているので会社は簡単に倒産する事は有りません。
しかし誰からも守られていない中小企業の倒産は増加の一途を辿っています。
今後、確実に中小企業の経営者の自殺者も増えて行く事になるかと思います。
経営者にとって自力で立ちあげた会社が、目の前でつぶれるのはとても忍びないものです。
運転資金が無くなり社員にも給料が払えず、業者にも支払いが出来ず、
その上に銀行や金融機関から執拗な催促に追われて途方に暮れるのです。
挙句の果てには高金利のお金にまで手を出して身動きが取れなくなってしまいます。
高利貸しの追い込みは夜討ち朝駆けでやって来ます。
完全に追い詰められてボロボロになってしまいます。
家族にそんな姿を見られたくない為に、また借金の被害に合わせたく無い為にも、
離婚を余儀なくされてしまいます。
しかし本当に戦う気持ちがあるのならば離婚などしない方が良いのです。
世界でたった一つの大切な家族です。
家族に精神誠意を持って説明すれば理解してくれるのです。
カッコ良い時のお父さんもカッコ悪い時のお父さんもお父さんには違いないのです。
そして、ここから私のアドバイスが始まります。
私のアドバイスは、一度このドラマ(事業)を終わらせましょうです。
その為にセット(会社)を一度壊します。社長(主役)という役も降りて下さい。
観客(債権者)からはどのように思われても、情けないだとか恥ずかしいとは思わないで下さい。
自信を持って舞台から降りて下さい。
新しいドラマをもう一度作る気力があれば必ず神様は協力してくれます。
過去に囚われず明るい未来を築く意欲があれば復活のドラマは訪れます。
ネバーギブアップ!頑張って復活すれば迷惑を掛けた方々に恩返しもできるのです。
ここで諦めると再起のチャンスを全て失います。
私の話に理解が出来た経営者の方は、すぐに弁護士と話し合い全ての整理に入ります。
即、行動に移す方から再起が早く訪れるのです。
しかし、世間体を気にして倒産に躊躇し、更に借金に走る経営者の方は、
完全に再起の機会を失います。どうにかなるのではないかという楽観的な感覚が、
大きく傷口を広げてしまうのです。絶ち切る潔さが必要なのです。
そして、再起を決心して前向きになった経営者の方に暫くしてから言う言葉があります。
これはエールとして送る言葉です。「鋼は叩かれて名刀になる」。
社長、今迄多くの方から随分叩かれましたが感謝して下さい。
名刀というのは鋼(はがね)が何度も叩かれて出来上がるのです。
叩いたハンマー(あなたを追い詰めた人)は、決して名ハンマーにならず、
叩かれた鋼(あなた)は名刀になるのです。自信を持って下さい。
これからは何も恐れることは無いのです。一度の失敗で人生は終わりません。
どんな時にでも支えてくれた、家族と友人には「感謝」を忘れないでください。
そして失敗のドラマを忘れずに、新しいドラマにチャレンジする心を持つ事です。
新しいドラマでは無謀な企画を考えるのではなく、
誰もが楽しめるような堅実なストーリーを考えましょう。
そして身近な人達の感謝が大きな感動を作りだすようにしましょう。
私と社長は涙を流しながら固く握手を交わします。
本当のアドバイスは、逃げ方を教えるのでは無く戦い方を教えるべきなのです。
6月 23rd,2011
恩学 |
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「月僊」げつせん(江戸中・後期の画僧)実話
月僊は絵を頼まれると、すぐ「潤筆料はいくらくれるか」と聞いた為に、
人々は絵の価値を認めながらも、金銭への執着を嫌って「乞食月僊」と卑しんだ。
たまたま伊勢の古市の遊女、松が枝が、さもしい根性をたしなめてやろうと、
ある日、月僊を招き、「和尚さんこれに描いて下さい」と投げだしたのは、白縮緬の腰巻だった。
「はいはい画料さえ頂けば、何なりとお描きいたします。一両二分でございます。」
といって腰巻を持ち帰り、三日ばかりで見事な花鳥を画いてきた。
このことは一層「乞食月僊」の渾名に拍車をかけた。
同じ頃、京に住んでいた池大雅が伊勢神宮に名をかりて月僊を訪ねてきた。
「貴僧の絵には心から敬服しておりますが、どうして乞食とまでいわれて金銭に執着されるのですか。
画料のことは、あまりやかましくいわぬほうがよろしかろうと存ずるが・・・」
月僊も、好意ある言葉に深く打たれた様子だったが、返事はしなかった。しかし依然として態度を改めなかった。
こうして月僊は、文化六年の正月、六十九歳で没した。
縁者達が遺品の整理をしたところ、そのなかから夥しい領収書や人夫の手間賃の控え、
土木の契約書、設計図などが出てきた。しかもことごとく参宮道路の修理と橋の普請に関するものだった。
そういえば、荒れはてた参宮道路や毀れた橋などが、時折、補修されたり、架けかえられたりして、
参拝者や付近の人々が喜んだものだ。
しかし誰しも、奉行所の仕事と思い込んでいた。
それが何ぞはからん、自分達が「乞食坊主」と罵った月僊和尚がやったことだとわかったとき、
人々はいてもたってもおられない気持に襲われた。なかなか味な和尚である。
「倫理御進構草案」の著者杉浦重剛が、
「己ニ倹ニシテ人ニ倹ナラズ、コレヲ愛トイウ。己ニ倹ニシテ人ニ倹ナル、コレヲ倹トイウ。
己ニ倹ナラズ人ニ倹ナル、コレヲ吝トイウ」と名言を遺している。
月僊はこの「愛」を「仏の慈悲」にまで昇華している。
「文はひとなり」という絵もまた人である。
大慈大悲の心が画面に滲み出て人を魅了するのは当然であろう。
村人達は月僊和尚によって真実の「恩」を学んだ事でしょう。
6月 21st,2011
恩学 |
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彫刻家ロダンの「ロダンの言葉抄」中に、
彫像をする場合は表面から見える部分の筋肉を彫るのではなく、
内側の盛り上がる筋肉を彫るようにしなければならないと書かれている。
職人の教えは言葉では表現できない部分が多い。
盗み見て・感じて・触って覚える。
技を頭(理屈)で捉えるのではなく身体(感覚)で覚えなければならない。
即ち指の皮膚で一つずつ記憶を積み重ねるしかないのである。
職人の技を文字にして伝承すれば簡単だと思うだろうが、
それだと諸動作が平坦になり核心部分を伝えきる事が出来ない。
実体験が無ければ理解するまでには程遠い話である。
学ぶ礼儀は師匠の奥義を取得するまでは諦めないという強い向学心である。
多くの親方は、最初から技術を教えない。
トイレ掃除や道具の手入れや、食料の買出し等、ありとあらゆる雑用から鍛えるのである。
此処で諦める子は決して一人前の職人にはなれない厳しい登竜門である。
黙々と言われるままに雑用に専念する。
気持も体も頭も「早く教えて欲しい」という渇望が学ぶ吸収力を高めるのである。
ようやくここから「暗黙知」の第一歩が始まるのである。
目が鋭くなり手先が敏感になり微妙な感も働くようになる。
師匠の空気が感じるとでもゆうべき所だろうか、
職人の技が少しずつ理解できるようになる。
親方の教えが無くなくても、材料・素材・加工時期・仕上げ時期等、
常に一定の法則では進まない事を覚えていく。
作る状況に応じても変化させる事が理解できなければならない。
多くの匠といわれる人達もこの語れない「暗黙知」で一流の職人になって来た。
日本の職人は重箱の隅をつくように完成させていくから、
その繊細な仕上がりは、他国では真似が出来ないのである。
日本の職人の拘りには限界が無いのである。
暗黙知と言う表現は日本独自のものだと思っていたのだが、
このような書が異国にもあることを知った。
「暗黙知」、マイケル・ポランニー(ブタペスト出身)
同じ包括的存在の認識を、二人の人間が共有している状況=一方がそれを作り、
他方がそれを理解する=を考えてみよう。
たとえば一方がメッセージを作り、他方がそれを受け取るという場合である。
しかしこの状況独自の特性をもっとよく知るためには、
一方の巧みな行為を他方が理解していく仕組みを考察してみるとよい。
観察者は、行為者が実践的に結合している諸動作を、まずは心の中で結合してみる、
そして次に、行為者の行動パターンをなぞって諸動作を結合しなければならない。
二種類の内在化が、この地点で、遭遇する。行為者の方は、身体の諸部位としての
諸動作の中に内在化することによって、自分の諸動作を調和的に取り仕切っている。
他方、観察者は、外部からの行為者の諸動作の中へ内在化しようとして、
その諸動作を相互に関連づけようと努めることになる。
観察者は行動者の動作を内面化することによって、その動作の中へ内在化するのだ。
こうした探索的な内在化を繰り返しながら、弟子は師匠の技術の感触を我がものとし、
その良きライバルとなるべく腕を磨いていくのである。(高橋勇夫 ちくま学芸文庫)
正にその通りである。
以下は日本の名工(匠)といわれた人達の言葉である。
「大仏師」松本明慶
仏像を彫る時には<木を痛がらせない><木の邪魔を振り払う><そして仏が自然に生まれる>
木を見れば仏が浮かぶ。デッサンで仏を彫ろうとすると、木の大きさを探すようになる。
「法隆寺宮大工」西岡常一
木の癖を知ることによって木を活かす事が出来る。木を買うな山を買え。
東西南北それぞれの方向によっても木の癖が違う。
「茶師」前田文男
茶葉を選ぶときに一瞬臭いが横切る。仕入れの時に伸びる茶が良い。
合組は茶葉のブレンドを言い、各種の茶を組み合わせてオリジナルの茶を作る。
茶を見る。欠点ある茶を組み合わせる事によって長所を引き出す。
「萩焼」名前不詳
窯の奥に入れてある色見と呼ばれる焼き見本、見込み穴から引き出し、
釉薬の溶け具合などを確認する。
薪をくべるタイミングや「色見」を引き出すタイミングは、すべて窯の中の炎を見て行う。
以上の事は全て師匠の背中を見て学ばなければならない。
最後に一つこの言葉も薀蓄があるので紹介します。
ロダンの言葉妙より
私の友達の造船家が私に話したには、大甲鉄艦を建造するには、
ただそのあらゆる部分を数字的に構造し組み合わせるだけではだめで、
正しい度合いにおいて数字を乱し得る趣味の人によって加減されなければ、
船がそれ程よくは走らず、機会がうまくゆかないという事です。
してみれば決定された法規というものは存在しない。
「趣味」が至上の法規です。宇宙羅針盤です。
一流の職人の教え「暗黙知」は真実を探求する基本です。
6月 20th,2011
恩学 |
暗黙知 はコメントを受け付けていません
場の空気を読む、話の先を読む、間のタイミングを計る。
全体の流れ(場の空気)を判断して自分の表現を抑えたり出したりする。
人の感情の起伏の中に入り込む間のタイミングを計る。
話の展開を予測しながら先手を打つ。
話の先を読む為には想像力を働かさなければならない。
想像力とは物語を作る力である。
前頭葉に溜め込んで置いた情報を使って、空白の中に形を作りこんで行く。
それでは前頭葉の情報はどのようにして作られていくか?
幼児教育の中に「つ」の教育というのがある。
一つから九つまでの「つ」である。
子供は生まれた時に、明るいか暗いかの明暗の判断と、清潔化不潔かの浄化の判断を自然に身につける。
それから暖かいか冷たいかの温もりを覚えるらしい。
母親が幼児教育で大切なのはそれからである。
子供が何を求めているか何をしたいかを察知してやらなければならない。
俗に言う子供の感覚で行動を共にする事である。
春の季節には草花を子供の目線で見る、嗅ぐ、触る、を一緒にしてあげる。
夏には真っ赤に染まった夕焼けを眺めながら色彩のすごさを感じさせてあげる。
秋には木々の緑が紅葉に変わり、はかなく落ちる枯葉に自然界の輪廻転生をおしえる。
冬には冷たい空気、白い雪、川に張った氷などを眺めながら、春の到来の楽しみを一緒に話し合いながら待つ。
「つ」の教育で大切な事は、子供が素直に興味を持つ事に合わせて教育が出来るかという事である。
習い事(読み・書き・そろばん)、芸事、諸事全般の教育は他人と合わせるのでは無く、
その子供の興味を教育に合わせる事が一番番重要である。
職人の家では父親が教えて母親が育てる事を基本とし、それが理想の「教育」とした。
職人の技を一から教えるには根気と長い時間を要する。
我が子だから厳しさが増すのは仕方の無い事である。
父親が叱り母親がなだめる。
子供は学ぶべき事(忠・義・礼)はしっかりと学び、その中で自由を謳歌する事も知って行くのである。
明治時代に日本に訪れた多くの異国人は日本人の子供の笑顔に、
「この国では子供が親切に取り扱われ、そして子供のためにこれほど深い注意が払われる国はない。
ニコニコしている所から判断すると子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」事を知ったという。
礼儀と笑顔と自信が備わった子供がいる、この国の未来を明るく受け捉えたと記述にある。
これらの事が遠い過去の話になってしまっている事は非常に残念である。
「空気の研究」という一冊の名著がある。
山本七平氏の著作である。
太平洋戦争末期に、何故勝算の無い戦地に「戦艦大和」を出撃させたのか。
軍部は論理的な根拠をもって判断を行ったのでは無く、「空気」の決定を持って判断を下したのである。
敗戦の弁として連合艦隊司令長官は「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、
私は当時ああせざるを得なかったと答うる異常に弁疏しようと思わない」と述べている。
ああせざる「空気」いわゆる「空気の」妖怪に恐れをなしたのである。
日本には昔から物事を決定する時に寄り合いがあり、争いが無いように長老が場を仕切る。
理屈より情の「空気」を重んじるのである。
全てにおいて和合優先なのである。「抗空気罪」は村八分の刑になる。
我々の時代には空気が読めない人間は無骨者として嫌われた。
即ち思いやりが無い人間として囚われてしまうからである。
しかし現代の若者達でもこの空気が分からない人間を「KY」と言って馬鹿にする。
「KY」にならない為に自分の意見は極力差し控える。
その為に会話をすると同調語(そうそう、本当、わかるよね)の連発になる。
一般的な人間関係ならば構わないのかも知れないが、深くかかわる人間関係には通用しない。
「空気」はデリケートであり又サベージになる事を知らなければならない。
しかしその「空気」自体が曖昧だから本質は分からないのである。
自分の解釈と相手の発言の読み違いも起こるわけである。
その時にどうするかが重要になってくる。
最終的には空気に振り回される事も無く、自分の意見を言わなければならない。
しかしそのタイミングを見計らう。
それも「空気」を読むことの重要なポイントではないだろうか。
6月 19th,2011
恩学 |
空気を読む はコメントを受け付けていません
若い頃は自分の努力と才能でヒットを作っていたと思い込んでいた。
本当にうぬぼれが強く、他人の意見などまったく聞く耳を持たなかった。
勿論アーティストの才能を引き出しながら、
時代の要求に答えてヒットを作るわけですが、
毎年要求されるアベレージをクリアーするためには、
それこそ昼夜なく馬車馬の如く働かなければならなかった。
自然と苛立ちが表面に出て周りを困らしたものである
その内にストレスによる病気に掛かり顔に幾つものコブができるようになった。
作詞家の秋元康に「稲葉のライオン病」と名づけられて業界では笑いの種となった。
30代の半ばなのに体力的には限界を超していたのかも知れない。
当時は、東京のスタジオを二つほど掛け持ちして、
LAやNYに出張をして、挙句の果てにはブラジルまで撮影に出かけていたのである。
しかし、不思議な事に仕事が上手くいっている時には疲れない(コブも出ない)。
努力しても報われない時こそ(コブが出る)(笑い)。
振り返ってみれば、70年代80年代は良き時代だったと思う。
新しい事をするのに躊躇する必要が無かったからである。
音楽は若者文化と連動すれば、ほとんどがヒットした。CMも強い武器だった。
その頃は資生堂やカネボウとタイアップが取れればほぼ間違いなく売れていた。
矢沢永吉もハウンドドッグもメジャーになるキッカケはCMだった。
テレビも視聴率の高いベストテンや夜のヒットスタジオに出演できれば、
ほぼ間違いなく大ヒットに結びついた。
「異邦人」の久保田早紀は女子大生から一夜にしてスターとなった。
角川映画の主題歌を歌って南佳孝は本格派ボーカリストとして注目された。
ライブハウスからも尾崎豊や浜田省吾やX-JAPN等が登場した。
あの頃は大衆がヒット作品によって勇気付けられる時代だった。
自分達が支持したアーティストが売れるとファンとしては満足も得られた。
私は日本の音楽業界で始めてマーケティングという手法を取り入れて、
ヒット作品を生み出したと思っている。
市場をリサーチしながらデーターを分析して、
時代のニーズに合わせたアーティストや作品を作り出していったのである。
フォーク・ロック・アイドル・ブルース・R&B等のスターである。
しかし、会議で企画した作品がすべて認められたわけではなく、
誰にも相手されず発売を見合わせられた事も度々あった。
発売を反対するスタッフに向ってデモテープを投げつけた事や、
発売しないのなら会社を辞めるとまで言って騒ぎ立てるほどの傲慢な男でした。
しかし、私のような傲慢で思い込みの激しい人間を、
陰で支えてくれた人達が大勢いた事も忘れてはいません。
私の制作スタッフ、事務所の方々、編集者の方々、ラジオ局の方々、
有線放送の女性スタッフの方々、コンサート製作会社の方々やレコード店の方々、
勿論ファンの皆様からの協力も頂きました。
良い曲だから売れたのでは無く、良い曲を信じて応援してくれた情熱が
あったからこそ世の中が認めヒットしたのだと思います。
良き音楽を聴くと心が豊かになり自然に思いやりや優しさを学ぶ事ができます。
感情が豊かになると表情も豊かになります。
豊かな表情は周りの人達を心地よくさせることも出来ます。
そして豊かな表情と共に優しい言葉も生まれます。優し言葉は心の病を取り除く力を持っています。
「言葉」
言葉は病める心の医者である。
言葉は、しばしば人の心を傷つける。
そういう体験を重ねてくると
ある日、「言葉は」「病める心」にとって
癒しでもある。そういう時の「言葉」は、
やはり、相手のことを気づかう
やさしい心から発せられている。
(ギリシヤ作家・アイスキュロス)
言葉は生演奏のための楽譜です。音が出なければ感動は生まれません。
具体的な生活の中で実践してこそ生命が与えられるのです。
私が「音学」を「恩学」としたのは、音楽の仕事を通じて感謝する事を学んだからです。
これからも出来る限り出会った人達と共に、最高の恩学を広めていければ良いかなと思っています。
6月 19th,2011
恩学 |
恩学 はコメントを受け付けていません
普段の生活で何気なく見過ごしている事は無いだろうか?
朝の天気、ニュース番組、街の空気、人の流れ、通勤電車の内部、会社の同僚たちの顔色、
気付こうと思わなければ何も感じる事はない。
しかし美しい物を見ようとする気持ちになれば、不思議な事に美しい物が目に飛び込んでくる。
空の光、雨の雫、木々の匂い、花の色づき、子供たちの笑顔などである。
それとは逆に不愉快な気分でいると、嫌なものばかりが目に飛び込んでくる。
戦争、飢餓、殺人のニュース、割り込み、無神経な同乗者、ビルの汚れ、同僚達の冷たい視線、
すれ違う怪しげな人達である。
「気付き」は人間の本来持っている動物的な感覚です。
心を落ち着かせて、目を大きく見開き、耳を研ぎ澄ませば自然に感じる感覚です。
外敵から自分を守る本能です。
そして情報は視覚から入るのが70%で、聴覚から入るのが30%と言われています。
その感覚を伸ばせば普段の何気ない景色から、四季おりおりの移ろい、人間の情緒、
子供達の感情、風の変化、空気の匂い等も敏感に捉える事が出来るのです。
そして気付くということは、表面だけではなく内面にまで及ぶのです。
徒然草137段「花はさかりに月はくまなきをのみをみるものかは、
雨に向いて月に恋ひ、たれこめて春のゆくへも知らぬも、なほあはれに情け深し」
満開の花や雲ひとつない満月を見るだけが素晴しいのではない、部屋の中で過ぎゆく春を感じるのも、
また雨の日の雲に掛った月をみるのも、情緒があってなお一層素晴しいと詠われています。
心の中を研ぎ澄まして、気付く心が無ければ、このような文章は生まれません。
音楽プロデューサーにとって大切な事は「気付き」です。
気付きがなければヒット曲は作れないのです。
そして見えない月が見えなければ仕事にならないのです。
クリエイティブ作業にとって想像は基本的な作業である。
音楽プロデュースは時間と云うキャンバスに音を描かなければならない。
その時の感覚と交わされた言葉等でメロディーを作り出す。
何度も訂正を加えながら一つの楽曲として完成させていく。
言葉のアイディアのポイントとして新聞や雑誌、街角の会話、ファミリーレストランでの雑談等を拾い集める。
勿論、アーティスト自身の実体験に基いて書かれる作品も多いが、
オーディエンスが親近感をもつ世界で無ければ決してヒットは生まれない。
他人の夢や希望や悩み等それら全てが気付きから感知されるのである。
気付く事の中には「顔色を伺う」というのもある。
「顔色を伺う」本来の持つ意味は人の顔色を伺うのは卑怯だという事に使います。
自分の意思が無く他人の意思に合わせる為に顔色を伺うのである。
しかし現代では親の顔色、先生の顔色、上司の顔色、隣近所の顔色を伺うというのは間違いでは無いと思う。
顔色を伺いながら(気付きながら)、場の雰囲気を読むのは当たり前の行為だと思う。
人の顔を見なくなった現代では、危険な顔(状況)さえ気付かなくて、近くを素通りしてしまいます。
音楽を聞きながら、携帯ゲームで遊びながら、メールをしながら、回りから完全に孤立した状態で日常を生きています。
誰の顔も気にしないのは、本当に怖い事です。
日本の政治家はこの「気付き」をあまり重要視しません。
外交上「気付き」がなくて良き結果が得られるのでしょうか。
理屈と数字と圧力では、圧倒的に日本が不利な立場に追い込まれると思うのですが、如何なものなのでしょうか。
何故日本には米国のCIAのような諜報機関が無いのでしょうか。
欧米諸国では徹底的に外交する国の歴史・文化・経済・国民意識などを調査します。
戦後アメリカが日本を統治する際に軍はアメリカの文化人類学者ルースベネディクトに日本国の意識調査を依頼します。
その結果「菊と刀」という名著がうまれたのです。
一部、偏った見方をしている部分もありますが、良くここまで日本人を調べたなと感心してしまいます。
その頃の日本は敵国の力を分析せずに闘い続けていたのです。
日出国、神の国だから負ける分けがないと間違った空気の元に敗戦を迎えたのです。
今思えば本当に残念です。多くの若い戦死者を出す必要の無かった戦争でした。
相手の気持を「気付けば」数字の駆引きではなく、心の駆引きで優位に持って行くことも可能になる。
とくにこれから日本は中国と頻繁に取引をしていかなければなりません。
日本の歴史学者、人類学者、政治学者、総動員で中国の調査分析をして欲しいものです。
そして少しでも相手の気持を理解しながら優位に立てる方法を、
皆で考えて行かなければならない時代ではないでしょうか。
私の経験から言えば中国人は想像以上に頭の良い国民です。
歴史から学び取った智慧があります。
そして根強く反日感情を持っています。
中国は表面上は豊になったとしても、根本は変わらないと思います。
一党独裁の共産主義国です。しかし親日派も多数いる事は事実です。
日本の古典文化の中には素晴らしいほどの「気付き」から生まれた作品があります。
万葉集、徒然草、古今和歌集、奥の細道等それらを読む事によって「気付き」の方法論が学び取れるかも知れません。
我々日本人のDNAに組み込まれた「気付き」の記憶を呼び覚まして欲しいと思います。
「気付き」は日本人の心の原点です。
6月 18th,2011
恩学 |
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明治期日本に滞在した英国の言語学者チェンバレンは「日本事物誌」を著した。
そこで日本人をこう語る。「金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。
実に貧乏は存在するが貧困なるものは存在しない。」
そして「ほんものの平等精神が社会の隅々まで浸透している」
「根が親切と真心は、日本の社会の下層階級全体の特徴である」
我々が知る落語や浪曲等の人情話などを思えばそう的外れではない指摘かもしれない。
和菓子職人一幸庵の水上力氏と「誇くらぶ」の対談の中で、
職人に対する一途な思い、伝統を守る気持ち、弟子としての心構え、
それ以上に「恥」を教えられたという言葉が強く印象に残っている。
親方から職人の技術を教わると同時に人としての礼儀も教えられたのである。
常に「職人はみっともない」ことはするなと言われたという。
和菓子職人として味もさることながら、人としての品格を高めることを努めるように要求されたのである。
この国では当たり前のように、人を思う気持、譲り合う心、謙虚さなどが、
貧富上下に関係なく一般庶民まで浸透していた。
しかし、その謙虚で礼儀正しい日本人は何処に消えたのだろうか?
そして此処から「何故」が始まる。
戦後アメリカの占領地政策で日本の教育から「歴史・地理・修身」が削除された。
そのことによって日本人の美徳とされた「忠義・忠節・忠孝」と「愛国精神」と
「恥の心」が、全て奪われてしまったと言えるのだろうか。
例え、アメリカが打ち出した経済システムに合わせ、
品質よりも生産高を増やす事に専念しなければならなかったとしても、
日本人の心を何処かに置き去りにしてしまう必要はなかったのではなかろうか。
アメリカから持ちこまれた幸福観念に惑わされて自分達の価値意識が希薄になった。
その頃から日本人は自分達の意識で良し悪しを判断せずに、
外国からの情報に疑問を持つ事もなく受動的に適応するところが多くなった。
欧米流の豊かな暮らしを知ると、我々もそうすべきだと流されていくパターンである。
これは丸山真男が言う「日本人はキョロキョロとして文化を探す」に当てはまる。
本質は変わらないとしても、外からの「いきほい」に飲まれてしまい、
伝統や文化芸能まで変化を余儀なくされてしまうことである。
丸山は表層部分が変化を遂げても低位に在る音は変わってはいないと主張する。
そのことを「執拗低音」という表現で言いきっている。
多くの進歩が大切な物を消し去り、多くの便利が逆に不便さを生み出した。
その上に借金してまでも物欲を押さえられなくなり、
男女関係も軽薄な感じがして大人としての精神性の欠片もみられない。
日本人は不執拗な物を所有する事を極力避けてきた感覚から、
物を持たなければ不幸だと云う感覚に変えさせられてしまったのである。
日本人が美徳とする感覚の中に「少欲知足」というのがある。
自分の分に応じた量だけで足りると思う心です。余った分は全て他人の分です。
この精神があればこそ貧しい者でも卑下する事もなく堂々と生きていたのです。
昔の日本人は誰もが自然にその謙虚さを身につけていた。礼儀として知っていた。
何故それを失ったのか疑問である。
学生時代に京都にある大谷祖廊の参道で歌っていたところドイツテレビの取材を受けた。
何故日本が戦後一早く復興を遂げる事が出来たのかという質問に「誇りです」と答えた。
復興という目的のために国民全員が力を合わせ、過去(敗戦)に囚われなかった事。
労わりながら、励まし合いながら、誰もが礼儀を重んじて暮らしていた事。
日本人の伝統的な「誇り」の精神が社会全体に浸透していた事。
これら全てが日本ですと答えた。
そしてその頃に流行っていた「清く、貧しく、美しく」という言葉があります。
なんと美しい言葉でしょうか、私はこの言葉が大好きです。
私は音楽を生業として35年ほど過ごしているわけですが、
常に歌言葉を意識している中で日本語はリズムに合わせ難く、
その為により遊び感覚の新語を使わざる得なくなり、
日本人の心(琴線)に触れる言葉づかいが少なくなってしまったのも事実です。
新しいイコール伝統を壊す事ではなく、新しい中にも伝統を残す方法として、
「和魂洋才」という感覚が生まれました。その後「和洋折衷」がうまれました。
日本語は世界に誇れる素晴しい言語です。
その言語があったからこそ日本独自の素晴しい文化が生まれたのです
その日本語を今一度取り戻す為に正しい日本語を使うようにしたいものです。
今日本人が一番忘れているのは日本人です。
「日本人の心」探しに出かけるのも、時代が必要としている事ではないでしょうか。
6月 17th,2011
恩学 |
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