悲しみからの脱却

 

脱却とは脱ぎ捨てることである。自分を変える事では無く不要な部分を捨て去ることである。

人生さまざまなことで辛く悲しい事が起きる。
それは予測されたことであり突然だったりもする。
言いようのない悲しみであっても、いつか何処かに置き去りにするしかない。

出来るなら他人には知れずにして自分一人で解決を図りたいと思う。
苦しからといってすぐに誰かを頼りにするのは極力避けた方が良い。

苦しみも心の一部である。簡単に心の内を曝け出すようなことをすると未熟な大人に成る。
未熟な大人とは深みの無い大人である。深みが無いから浅瀬で解決を図ろうとする。
浅瀬とはすぐに人や物や金に頼る事である。

無駄な時間を過ごしたくないからといってすぐにリセットボタンを押してしまう。

一瞬悲しみを忘れることが出来るかもしれないが、大切な思い出も全て消え去ることになる。
人は悲しみを乗り越えて初めて喜びが見えるのである。

悲しみからいつも逃げ出してしまうと幸福からは遠ざかるのである。

すこし時間をかけても辛くとも自分で脱がなければ成長は無い。
そして強くもなれない。

ニュースで女子高生が「子供の私達が何故この様な苦しみを味わわなければならないのでしょうか」と発言をしていた。
私から言わせれば、子供だから苦しみを、悲しみを体験しなければならないのである。

子供は小さな完成品では無い大きな未完成品だから無限大の可能性がある。
肉体的にも精神的にも苦しみは味わう時期なのである。

かといって、教師の体罰を容認するわけではない。

過去には通用しても現在では通用しないことぐらいわかる。
我々の時代はあたりまえのように毎日教師から叩かれていたのである。
でこぴん、しりけり、びんたを、味わい、重いバケツを持って廊下に立たされたのである。

その行為を父兄は容認し感謝したのである。

物事の善悪や迷惑をしっかりと判断できない子供達には時には痛みも必要な事でもあった。
それが躾である。

それでも、私は何度か教師に飛びかかった事がある。
それは体罰の肉体的痛みでは無く、人格を傷つけられた心の痛みに耐えられなかったからである。

体罰の限界は人格まで傷つけてはならないことである。
その喫水線を越えているから悲惨な事件を起こしてしまうのである。

当時を思え返せば殴った教師も一緒になって悩み苦しんでくれた時代である。

現在の体罰のニュースからは指導における教師の生徒に対する思いやりが一切みえてこない。
自分の都合で体罰を与えているようにしかみえないのである。

悲しいことに彼等もただ殴られて指導されて来た世代だからそれを繰り返すのである。

聖職の立場ある人達は常に自己の人格形成の為の研鑽を怠らない事である。
教育ということは時代の変化に対応しなければならない。
教える基本は変わらなくても教える方法が変化するからである。

昭和29年に井上久雄先生が書かれた「大教育者のことば」(致知出版社)を推薦したい。
座右の書として一日一度は読むべきである。
私の友人、人間環境大学の川口雅昭先生が復刻版を出されている。

教育者でなくても読みごたえのある一冊である。

そして吉田松陰研究第一人者である川口先生の「吉田松陰」(致知出版社)も読まれてはどうだろうか。
教職者として時には魂を鼓舞する事も必要かと思います。

悲しみからの脱却は苦しみからの脱却でもある。万人が抱えている問題である。