錯覚と誤解

 

不用意な発言をした為に誤解を与えてしまった。
軽はずみな行動をした為に誤解を与えてしまった。
あいての意に反した態度を取った為に誤解を与えてしまった。

誰しもが経験をする不注意がうんだ誤解である。

誤解を受けた相手も傷付くのだが、与えてしまった本人も後悔の念と共に大いに傷付くのである。

友人との誤解は親しいからという錯覚から生じる事が多い。
親しい友人だからこそ気をつけなければならない領域がある。
その領域に足を踏み入れると誤解が生じるのである。

親しき仲の礼儀が欠けるから誤解が生まれる。
友人との関係は与えても、何も求めない距離の関係が一番である。

仕事相手との関係も互いの距離を狭める為に、「腹を割って」信頼関係を築こうという誘いがある。

一番警戒しなければならない言葉である。

酒食を共にする席では、普段より慎重に対応すべきである。
何処に人生の落とし穴があるかもしれない。
一瞬気を許した途端に間違った印象(誤解)を残す事になるからである。

この様に書くと「俺達の友情に錯覚は無い」
「腹を割った付きが出来ないのは可笑しい」とか批判する人も多いかと思う。

多くの歴史は錯覚と誤解から生れて来たのである。

「ブルータスお前もか」という事である。
信頼関係は一瞬にして裏切りに変わる。

錯覚は知覚が刺激の客観的性質と一致しない現象をいうのである。

いうなれば友情も仕事相手の信頼も、錯覚から期待を膨らませ過ぎた現象で、
真実とは違う事が多いという事である。

そこから誤解が生じるのである。

本当の友情関係とか信頼関係ならば、誤解が生じた時に相手を許す心があるかどうかである。
長い間築いてきた人間関係が、その誤解で崩れ去ったのを何度も見ている。

誤解を誘発するのは、イライラしている時や、お酒が入っている時、
感情のバランスが悪い時に起こりやすい。

冷静な時なら誤解が生じる前に相手の顔色や雰囲気で気付く事がある。
その時にはその場で訂正ができるので話の行き違いだけで済むものである。

「悪かった」の一言で誤解が解けて後には根が残らないものである。

問題は誤解が生じた時にどのようにして誤解を取り除くかである。
自然に誤解が解ける場合もあるが余り望めないことである。

シャレでは無いが、誤解(五階)を与えたのなら四階まで降りれば良いのである。
ひたすらに謝るしか方法はないのである。

そこで意地を張って六階まで行ってしまったら誤解は続いたままになる。
謝るという行為は、ひたすら謙虚にならないと相手には伝わらない。

自尊心が高くて謝るという行為が出来ない人は誤解を与えたままで、
その場(仕事や友人関係)から立ち去る場合が多い。

錯覚も誤解も当事者にとっては大きな問題なのだが、
第三者からみると結構たわいもない問題から始まっている事が多いのである。

相手に過剰に反応するから錯覚が生まれるのである。
相手の状況を冷静に判断して、自分の間尺(知識と感覚)で、自分を信じていれば、誤解は生まれないのである。

でも何故か私は誤解を与えてしまうタイプである。

 

親子の会話

 

親子の間じゃどれだけ会話をしても本質は言い尽くせない
親子の間じゃどれだけ声をかけても伝わり難い
親子の間じゃどれだけ心配しても満足いく安心は無い
親子の間じゃどれだけ愛情をかけても限度が無い
親子の間じゃどれだけ無理しても当たり前になる
親子の間じゃどれだけ口論しても許し合える
親子の間じゃどれだけ喧嘩しても親子は親子である

親が子に気を使う事に対して親は子に見返りを求めてはならない。
子は親の小言に対して納得できずとも理解をしなければならない。

親と子はこの世の中でもっとも強い絆で結ばれなければならない。
親と子の血の繋がりは永遠に水よりも濃いのである。

親父は死ぬまで、子供の前では強い父親であろうとして頑固になる。
母親はいつまでも、優しい母親でありたいと思いながら弱気になる。
お友達的な家族関係で仲良くすると逆に子供を駄目にする。

家庭内で教育しなければならない事は人間関係における恥と礼儀作法である。
その上に依存心を失くし自立心と責任感をしっかりと植え付けなければならない。

社会生活における人間関係の対処法を教えなければ子供は困るのである。

時として子供は他家の親と比較して自分の親に失望する事がある。
父親と母親の冷めた関係からも敏感に傷ついてしまう事もある。
兄弟でもその影響を受けて疎遠な関係になる。

親と子という甘えの中で非常識な言葉も容易に出て来てしまう。
親も子も外でストレスを抱えながら生きているからである。

親が威厳を失くして子供との距離を狭めた弊害であるかもしれない。

ある時、病院の婦長さんから親子の関係で助言を頂いた事がある。
「親子の争いはどのような場合でも親が先に謝りなさい」
「子供は上から目線で一方的に言われる事を一番嫌います」
「あれだけしてあげたのに!がある内は駄目です」

確かに、この考え方は親子の関係を修復するにはとても重要な事だと思います。

そしてまた、このような母と息子の話を聞いた。

小学校4年の男の子が友達に裏切られながらも約束を守る話です。
息子は来る事もない友達をグランドで待ち続けて夕暮れに成ってしまいます。

母親は子供を情けなく思い叱るのですが、子供は「いつもお母さんが約束は守りなさい」
と言っていることを守っているだけなのです。

子供は何故叱られるのかが理解できず黙ってしまいます。
母親は友達にからかわれた息子を労わるのではなく不甲斐なさから叱ってしまったのです。

そのことから母親はふと昔父親から厳しく叱られた事を思い出します。

あの日から娘と父親の関係が疎遠になって連絡が途絶えてしまっていたのです。
ふとそのことを思い出して父親に電話をし「父さんありがとう」の言葉を伝えます。

電話の向こうでは無言のまま嗚咽が漏れて返事がありません。
暫くしてから母親から電話があり「あんた父さんに何を言ったの」「父さん泣いていたよ」。
でも、母親は「良かった。良かった」と言いながら電話を切りました。

その言葉を聞いて娘も涙が止まりませんでした。

子供の時には親の言葉が伝わり難いものです。
子供はどのようなことも善悪で判断するので親の損得の感覚が理解できないからです。

親の良かれは時間が過ぎてから感じるものです。
親の愛情の真意が伝わるのは、子が成長して同じ親になり、
同じ苦労をして、初めて受け止める事が出来るのです。

どのような時にでも「親子の会話」は、途切れないようにすることが肝心ですね。

 

木のいのち

 

北側で育った木は柱になる

厳しい風を受けて寒さと日陰の中で育つから

芯があり輪が密集している

強い木なので建物の骨組みとなる部分で使用される

 

南側で育った木は板になる

光を受けて温かな風でのびのびと育つから

節が多く輪が幅広である

柔らかくて加工がしやすいので造作材に使われる

 

中腹以上やや峠で育った木は骨組みになる

光もあり風もあり嵐も経験するので

木質が強く梁や柱に向いている

 

谷間に育った木は

水分も多く養分も十分にあり

光も風もそれほど強くはないので

天井や化粧版に向いている
木は生育の方位のままに使え
「東西南北はその方位のままに、峠および中腹の木は構造材、谷の木は造作材」
山ごと買った木をどう生かすかということです。

その南に生えていた木は塔を建てるときに南側に使えというているんですな。
同じように北の木は北に、西の木は西に、東の木は東に、
育った木の方位のままに使えということですな。

このとおりに木を使うとどうなるかといいましたら、
南に育った木には枝がありますから、
たくさんの節ができますわ。

ですから南の柱には節の多いものが並ぶことになりますな。

山の中腹以上峠までの木は構造材に使えというのは、
ここらに育った木はたくさんの光を浴びて育っていますな。

日当たりはいいんですが、風も当たる。
嵐にもうたれる。

風にもたたかれる、中腹以上の木はこうした環境で育っているから木質が強く、
強い木は柱や桁、梁などの建物を支える
骨組みになる部分に使いなさいと教えているのです。

谷は水分も多く養分も十分にありますわ。

こうしたところでは光も風もそんなに強くにありませんから、
長押や天井、化粧版なぞの造作材に使えというんですな。

西岡常一「木のいのち木のこころ」より

「人も育った環境で木のようにそのまま使えという事です」

 

私は負けない

 

私は負けない

私の周りを取り囲む過酷な風に負けない

私は喜んで激しい風の中を歩き出す

だから目の前の風を塞がなくても良いのです

私はその風に負ける事は無いのです

あなたはその風を押し戻す強い力を与えてくれるだけで良いのです

そして少しだけ勇気を失わないようにしてくれるだけで良いのです

 

私は負けない

暗闇の中でほほを濡らしても

絶望の中で立ち止まっても

私の選んだ道を歩くだけなのです

だから慰めの言葉は要らないのです

私は私に与えられた試練に感謝するだけです

あなたはその試練を乗り越える情熱だけを与えてくれるだけで良いのです

そして少しだけ今日よりも明日が明るい事を教えてくれるだけで良いのです

 

私は負けない

瓦礫の山の中から希望を見つける事が出来なくても

思い出の一ページも取り戻せなくても

故郷の山や川や海がほほ笑みを取り戻してくれるだけで良いのです

だからいつまでも涙なんか流す事はないのです

一本の線を引きながら道を作り

一つのレンガを積み上げながら家を作るだけです

あなたは私の記憶から人が信じあえる事を消さないで欲しいだけです

そしてこの世界には愛が満ち溢れている事を伝えてくれるだけで良いのです

 

私は負けない

天地の怒りにも

人間の裏切りにも

私は負けない

求めてくれる人がいる限り

信じてくれる人がいる限り

私は負けない

 

雪中梅

「雪中梅」

私の大好きな水墨画に「雪中梅」があります。ずっと長く事務所の部屋に掲げておりました。中国西安の美術館で購入した作品です。その水墨画は私の励みでした。

どんな辛い冬でも咲き誇る小さな赤い花が好きでした。

真冬の雪で 寒かろう

肩寄せ合って 寒かろう

目立たぬように 息をして

赤い花弁 誰のため

 

吹雪の夜明けも 辛かろう

変わらぬ想いも 辛かろう

春を目指して 咲き誇る

赤い笑顔は 誰のため

 

月夜の影が うっすらと

枝先のぞいて うっすらと

冷たく白い 粉雪が

可憐な花を 一人占め

 

誰も気づかず 雪の中

無口なままで 雪の中

ぽとりと落ちた 花弁が

雪のお庭を 一人占め

 

孤独な夜は 寒かろう

恋するおもいも 寒かろう

ひそひそ話で なに語る

赤いかおりは 誰のため

 

東北の女の子達の笑顔は日本一だ!
あなた達の笑顔が明日を作る!

優しいお母さんには優しい花弁が、
強いお母さんには強い花弁が、

元気なお母さんには元気な花弁が付いているのだ。

あなた達の笑顔が未来を作る。

 

合掌

 

合掌とは両手をそろえてあわすすがたであるが、
人間の姿のなかではもっとも尊いすがたである。

合掌すると宗教的な信念が湧き出るばかりでなく、精神が統一されてくる。

大自然の理法にかなった身心合一のすがたである。

鎌田茂雄「観音経講話」38ページより

私は宗教家でも哲学者でもない。

そのような人間が何を偉そうなことを言っているのかと
叱責を受ける覚悟で文章にしている。

何もしないよりは、何かをした方が良い。
何も言えなくても、何かを言った方が良い。

勇気づける事も、一緒に泣く事も、必要なときには、しなくてはならない。
ただ両手を合して祈ることしか出来なくても祈るべきなのである。

そして、大切なのは目の前の悲しみを共にする事と、
悲しみをのりこえて立ち上がる時に、両手を差しのべることである。

話題になる期間は一瞬である。
それ以降の人生の方がずっと長いのである。

被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

合掌

 

一灯照隅

 

自然界の破壊力の前ではいかに人間の力が微力であるか。
東北地方太平洋沖地震であらためて思い知らされた。

何百年も歴史ある漁村が、街並みが一瞬にして消え去った。
地震の影響も大きいのだが津波はそれ以上である。

あまりの悲惨な状況に声を失った人は多くいたと思う。

全ての報道が地震速報になり、連日、
日本国中が悲しみの現場に触れている。

目の前に広島や長崎の過去の映像がよみがえる。
一面が瓦礫の山である。

その中には未だ何体ものご遺体が埋もれている。

ご冥福を祈るとともに、ご家族ご友人にはお見舞いを申し述べたい。

離れた場所から、見ず知らずの人間に言われても、
有り難さは無いかも知れないが、悲しみを共にしている日本人は多いと思う。

私の元に海外の友人から沢山のお見舞いのメールが届いた。

被災者の皆様と同じように、感謝の気持ちには変わりがない。
国境を越えた慈愛に涙があふれた。

すべての心が一つになっている事を伝えたい。

東北人は強い、過去の歴史をひも解いても分かるように、
何度も戦争や災害の悲惨な状況から復興を果たしている。

東北は耐える歴史がある。
東北人は過ぎ去った事は悔やまずに、来る事(未来)を期待する。

世界最大級の地震を経験しても泣き崩れる人がいない。

淡々と悲惨な状況を語る人達を見ると、日本人の誇りを感じる。

我々が今出来る事は、共助の気持ちを忘れないで、
それぞれの人が光を「一灯照隅」灯す事によって、
国中が明るく「万灯照国」になることを信じる事です。

今は一人一人の灯りが大切です。

 

どう生きる

 

地位や名誉があるから

お金や財産があるから

立派な家に住んでいるから

それで人が輝く訳ではない

 

一生懸命勉強して

一生懸命信仰して

一生懸命働いて

そんな人が必ず幸福を手に入れる訳ではない

 

生まれつき病弱で

欠点が多くて

災難に巻き込まれる

そんな人が必ず不幸な人生という訳ではない

 

愛に縁がなくて

守るべき家族もいなくて

誇れる仕事もない

それで人の価値が決まる訳でもない

 

一番大切なのはどんな境遇でも、どう生きたかが重要である。

どんな人生でも輝く方法が有る。どんな人生でも幸福になれる方法がある。

それはつねに自分を見失わないで、一生懸命生き抜く事である。

多くの困難を乗り越えた後に、他人(ひと)に対していかに優しくなれるか。

そこから輝きが生まれて、そこから幸福を手に入れる事が出来るのだ。

 

一番大切なのはどんな物でも どう価値を持ったかが重要である。

目新しく便利な物にばかり目を向けるのではなく、

自然の中にある創造物に目を向けるべきである。

人も草木も動物も生きているのではなく、生かされていることを知り、

全てに対して「ありがとう」の感謝の気持ちをわすれない事だ。

 

 

三人賢者

 

風で押しつぶされた村に三人の賢者が辿り着いた

一人の賢者は「復興には少なくとも10年~20年はかかる」

一人の賢者は「この国が目覚める時だ」

一人の賢者は「そんなことより出来る事からはじめようよ」

 

雨で押し流された村に三人の賢者が辿り着いた

一人の賢者は「農作物も魚介類も取れなくなった」

一人の賢者は「安全・安心・安価の神話が崩れる」

一人の賢者は「そんなことより道をつなぎ橋を掛けようよ」

 

原子力で汚染された村に三人の賢者が辿り着いた

一人の賢者は「早く隠さないと大変だ」

一人の賢者は「ベクトル・シーベルト安全だ」

一人の賢者は「そんなことより専門家に助けを求めようよ」

 

泥ででこぼこになった村に三人の賢者が辿り着いた

一人の賢者は「ここが沼地だったと知っていたはずだ」

一人の賢者は「お役所は責任取らないよ」

一人の賢者は「そんなことより傾きをなおそうよ」

 

震災でつぶれかかった国に三人の賢者が辿り着いた

一人の賢者は「過去は終わった未来に期待するしかない」

一人の賢者は「経済的破綻をする恐れはないのか」

一人の賢者は「そんなことより今すぐ法律を変えたら」

 

三人賢者に質問をした「この災難を乗り越える為にはどうすればよいのか」

一人の賢者は「山ほどのお金を使えばそれで解決する」

一人の賢者は「この国の技術を使えばそれで解決する」

一人の賢者は「そんなことより誰もが自分達のことだと思えば解決するよ」

 

 

もっている

 

野菜を作った人が

八百屋に野菜を持って行く

野菜はいっぱいあるから感謝されない

 

魚を獲った人が

魚屋に魚を持って行く

魚はいっぱいあるから感謝されない

 

お米を収穫した人が

お水を採取した人が

お金を貯めた人が

 

不思議です

何故 持っているところに持って行くの

みんなの欲しいものがそれぞれ違うのに

誰かが高く買ってくれるから

 

何故 持っていないところに持って行かないの

みんなが興味をもってくれないから

誰もなにも買ってくれないから

 

何故怒るの 価値がわからないから

何故怒鳴るの 理解してくれないから

 

持っていない人からは喜ばれて感謝されるのに

持っている人にばかり提供するのは自慢したいから

人は強欲で一つ持つと二つ欲しくなるのです

おなじものをたくさん持ちたくなるのです

 

世界からいつも何かが不足するのは

持っている人が少ない物をうばいとるからである