美しく生きる

 

「美しく生きる」

与えられた人生の中で
「幸福」を他人と比較をするのでは無く
自分の尺度を知り毅然とした態度で過ごす事が美しく生きる事です。

着物の世界で「裏勝り」という言葉があります。
羽織の裏に秘められた美の世界。
表地よりも裏地に高価な生地を使い派手な絵柄を施すことを「裏勝り」といいます。

人生で例えればこの様になるのでしょうか。
普段の生活では目立たぬように過ごし、困難に際しては誰よりも情熱をもって物事に対処する。
外面を飾るよりも内面の強い人こそが人としての「裏勝り」になるのです。

又、真珠貝は砂や小石やサンゴの欠片を飲み込み、
吐き出さずにしているから 素晴しい真珠を作りだすのです。

人もすぐに喜怒哀楽を表現するのではなく、
苦しい感情を飲み込んで耐えることも重要かと思います。
耐え忍ぶ生き方も美しく生きることのひとつです。

「強く生きる」

人間は木と同じようなものだ、
高みへ、明るみへ、 いよいよ伸びて行こうとすればするほど、
その根はいよいよ強い力で向っていくー地へ、 暗黒へ、深みへー悪の中へ」
ニーチェの「ツアラトゥストラ」の「山上の木」に書かれた一説です。

成功は破滅へ、名声は堕落へ、 信頼は欺瞞へ、常に両極と対峙しながら生きて行くのです。

「果華同時」

蓮の花は池の水面で咲き、咲くと同時に実(み)は泥の中で生まれます。
大きな華であれば有るほど実は深く暗い部分で育つのです。

理想だけでは強くなれず現実の醜い部分も経験しなければ本当に強くなれないのです。
狂気の思想と鋼のような心臓と天使のような慈悲が必要です。
表裏一体を認識し経験できる人こそ強い人です。

「楽しく生きる」

頭の中から三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を取り除かなければなりません。

一つ目は「貪欲」(どんよく)の心です。
地位や名誉や財産そして出世欲や安定した生活を限りなく求める欲の心です。

二つ目は「瞋恚」(しんに)の心です。
他人と比較して自分の手に入らない部分(物や地位や財産)に 、
嫉妬の炎を燃やして怒りが収まらない妬みの心です。

三番目は「愚痴」(ぐち)です。
他人が所有していて自分が所有していない物、本当に必要なのかも分からずに
文句を言う蒙昧の心です。

周りに流されて生きていくと、欲しい物と必要な物の区別が出来なくなり、
常に愚痴を言うだけの人生です。

楽しく生きる事は必ずこの三毒を取り除かなければなりません。
終わりの無い欲を追い求めるよりも、「小欲知足」を学ぶ事です。

欲の無い人ほど楽しく生きる事ができるのです。

「気楽に生きる」

「知命楽天」とは、自分の運命を知り楽しく過ごす事である。

「日日是好日」とは、毎日が最高の一日だと信じて生きる事である。

「莫妄想」とは、あれこれ妄想を駆り立てて悩む事は無い事である。

「則天去私」とは、すべてを天に任せて私を捨て去る事である。

「無一物」とは、もともと生まれた時には何も無かった事である。

喜劇王チャップリンの言葉に
「人生は近くで見ると悲劇だが、 遠くから眺めると喜劇である」

天上界の人はいつも人間を見て笑っていると思います。
お気楽に行き(生き)ましょう。

「感謝して生きる」

毎日目を覚ます事に感謝、健康でいることに感謝、
仕事がある事に感謝、家族に感謝、
大きな声で笑ったり泣いたりできる事に感謝、
美味しい物を食べたり飲んだりできる事に感謝です。

晴れたら空に感謝、花が咲いたら大地に感謝、
共に暮らす木々や鳥や動物にも感謝、
世界に広がる自然万物全てに感謝です。
大宇宙の中で人間として生きていける事に感謝です。

「余命一ヶ月の花嫁」長島知恵さんの言葉。

「明日が来る事を奇跡と思って今日一日を輝く日にしたい」というのがありました。
これ程素晴らしい感謝の言葉は無いと思います。
当たり前の事に感謝できる気持が人にも地球にも優しくなれるのです。

感謝しましょう。

「返して生きる」

恩返しです。受けた恩を返さなければなりません。
親に恩師に上司に社会に国に返さなければなりません。

大きさの問題ではありません。気持ちの問題です。
歩いてきた道を少しだけ掃き掃除をするような事で十分です。

若いときには「恩」を理解することは難しいかも知れません。
しかしこの言葉だけは忘れないで下さい。

「受けた恩は石に刻み与えた恩は水に流す」

人から受けた恩は忘れないようにして、人に与えた恩はすぐに忘れましょう。

恩返しは人生の折り返し地点50歳を過ぎてから真剣に考えて欲しい事です。

「死ぬまで生きる」

「人間の寿命なんてそれぞれ違うから年齢だけでもうすぐお迎えの来る年だなんて言うものでは無い。」

作家の宇野千代さんは98歳になっても2~3年先のスケジュールを書き込んでいたと云う。

しかし病気に見舞われた時に気力が衰えるのは仕方が無いが、
それ以上に周りが「死」を意識して介護するのだけは、やめて欲しいものですと述べたという。

詩人のサムエルウルマンが
80歳の時に書いた詩に「青春」というのがある。
「人は年齢を重ねただけで老いない。人は夢を失ったとき初めて老いる。
20歳の若者が臆病であればそれは既に老人である。
しかし夢多い60歳がいるとすれば、正に青春真只中である。」

誕生日は年を増やしたことを祝うのでは無い。青春の喜びを祝う日である。

その昔、お年寄りがいる日本の家庭にはこんな張り紙があった。
「四十は鼻たれ小僧、五十六十花なら蕾、七十八十働き盛り、九十になって迎えが来たら
百まで待てと追い返せ」

みなさま笑いながら死ぬまで生きましょう。

若者論

 

若者よ、前を向いて生きろ。
足もとばかりを見るな。
もっと自由に生きろ。

傍若無人に破天荒に無軌道に生きろ。
枠に収まらず好き放題に生きろ。

若者よ、笑われろ。未熟さに泣き叫べ。怒れ。
悩みの渦に巻き込まれろ。
現状のつまらない囲いに囚われるな。
この場から逃げ出す努力をしないのは卑怯だ。

若者よ、人を傷つけるな、自分を傷つけろ。
人を批判するな、自分を批判しろ。

若者よ飛べ、この断崖から大空に向かって飛べ。
若者よ、学ぶことの意味を知れ。
学問の意味を知れ。知識の意味を知れ。

そして己の意味を知れ。動かずに文句を言うな。
全ての書を捨てて街に出ろ。

若者よ守るな。何もかも破壊しろ。
大きく生きろ。

若者よ、薔薇の花を手でつかめ。
血だらけになれ。

若者よ、古い船に乗って安堵するな。
古い船を壊すのが若者の特権だ。
縛られるな。解放されろ。

若者よ、純粋に生きることの道を選べ。
自由に成れ。老人の錆びた理屈に耳を傾けるな。
新しい水夫に成れ。嵐に立ち向かう水夫に成れ。
大海に船出しろ。

若者よ、何も気にするな、君達は修行僧ではない、
若者である。人生に一度しかない冒険の切符を、
破り捨てるようなことはするな。

柔軟な魂が自由を求めている時に過酷な旅に出ろ。
そして強靭な肉体と精神が切り崩された時に
新しい息吹が誕生するのだ。

若者よ、強かに成れ。
この国も大企業も乗っ取るぐらいの強かさを持て。
自分が何者かを知れ。それを試すのが青春だ。
そして成長して、体に付いた埃を払い、
夢をがっしり握り締めて、前に進んで行け。

若者よ、ぬるま湯の蛙になるな。
ライ麦畑で人助けなんて考えるな。
今の環境に満足するな、飢餓感をおぼえろ。
世の中全てを疑ってかかれ。

若者よ、無能な政治家に国を任せるな。
国家権力が民衆の富を食い物にしている。
企業と官僚の癒着が労働者の力を奪っている。

若者よ、メディアの嘘に気を付けろ。
景気も不景気も一部の人間が作った罠だ。
安楽椅子の権力者を引きずり降ろせ。

若者よ、目を覚ませ。
自分達の国を自分達で守れ。
遠くからこの国を眺めてみろ。
どれほど絶望的かが良く分かる。

若者よ、恐れるな。経験が無い事に恐れるな、
金が無い事に恐れるな。主張が通らない事に恐れるな。

若者よ、死を間近にしても恐れるな。
光に向かって飛び上がれ。今出来ることから始めろ。

若者よ、常識に囚われるな。非常識に行動しろ。

若者よ。君達は熱き炎だ。熱き炎を燃やし続けろ。

感動を作る

 

以下の10項目の内、幾つかが該当すれば感動を作る事が出来ます。

①    邪心が無い(損得の利益を求めない)

②    喜怒哀楽が明確(感受性がわかりやすい)

③    常識がある(一定のルールとマナーを知っている)

④    憐みの情がある(悩んでいる人を見捨てる事ができない)

⑤    自然を愛している(万物の移り変わりに敏感)

⑥    健康である(身心ともに健康で有る)

⑦    読書が好き(文書からイメージを浮かべる事が出来る)

⑧    旅行が好き(名山大河を闊歩するのが好き)

⑨    音に敏感である(自然界の音にも反応できる)

⑩    無償の愛をもっている(与える愛を知っている人)

主人として感動を作るのであって、ゲストとして受けるのではありません。

与える感動を意識した事がありますか。世の中には頂く感動は多く存在します。
頂いた感動を人に伝えることも与えることになります。

大切な事は感動への恩返しです。あなたがこれから先幾つの感動を作れるかが楽しみです。

「初めての愛」

離婚したばかりの妙子(32歳)は、息子健一(10歳)と二人暮らしである。

親子二人の住むマンションはペットが飼う事が出来ない。
ある日ずぶ濡れの息子が子犬を拾って来た。

妙子はすぐに元の場所に戻すように健一に言う。

しかし、健一は頑なに拒み続けた。

子犬をみると後ろ足が引きずるように歩く障害が目についた。
多分生れた時にその障害が原因で捨てられたのだと思った。

妙子が、何度も健一に拾った場所に戻しなさいと言っても、健一は聞こうとしなかった。
仕方なしに妙子は、それじゃ同じような子犬を買ってあげますから、
それでいいでしょうと交換条件を出した。

勿論、このマンションではペットを飼う事が出来ないのだが、
隠れて小型犬や猫を飼っている住人が居ることを知っている。

どうせ育てるなら健常の犬の方が、気が楽だと考えての結論である。

しかし、健一はそれじゃ駄目なんだと泣きながら子犬を抱きしめた。

この犬は親と離れ離れになって可哀想なんだよ。
僕を見て泣きながら後をついて来たんだ。
だからこの犬を守ってあげたいんだ。

この犬は僕を必要としているんだ。
健一は子犬と自分の寂しさを重ね合わせたのかもしれない。

妙子もそれを感じて黙ってしまった。

分かったわ、それじゃ二人ともお風呂に入って体を乾かしなさい。
そしてこのチビ犬の食べ物も買いに行かなくっちゃね。

勿論、近所の人には見つからないようにね、と健一にウインクをした。

妙子は出かける用意をしながら、健一と子犬のはしゃぐ姿に思わず涙を浮かべてしまった。
健一は夫と離婚してから無口に成り、何も欲しがらない子供になった。
そんな健一が、自分以外のものを守りたいと、妙子に言ってくれた事に涙が浮かんだのである。

妙子が本当に守りたかったのは、子犬以上に健一との親子の強い絆だった。

その時、お風呂場から出て来た子犬が妙子の足をなめていた。
妙子はくすぐりを感じながら、これから親子二人と一匹の新しい暮らしが始まるのだと思った。

 些細な所にも目を行き届かせると「感動」は沢山存在します。

「感動」に気付く心も「感動を作る」ことになるのです。

 

錯覚と誤解

 

不用意な発言をした為に誤解を与えてしまった。

軽はずみな行動をした為に誤解を与えてしまった。

気持とは逆の態度を取った為に誤解を与えてしまった。

誰しもが経験をする誤解である。

誤解を与えてしまった相手も大いに傷付くのだが、
与えてしまった本人も後悔の念と共に大いに傷つくのである。

誤解は何故生まれるか、
自分の価値判断と好みと生理的な快・不快で起こる。

自分の価値判断はおもに経験から生まれてくる。

育った環境や付き合った友人達、両親や先生から受ける影響が大きい。
常識からでは判断できない人との交わりは、子供の頃からの経験が大切である。

自分を良く見せようとして教室で失敗をして恥を掻く事もある。

好きな人に思いを伝えようとして、チョットした意地悪が大きな間違いを招く事もある。

悪ふざけで先生に大きな誤解を与えてしまって、取り返しのつかない事を起こすこともある。
しかし誤解である。

自分の気持とは裏腹の気持や行為が、
相手に誤解を与えてしまっただけである。

解決方法は多いに泣いて後悔して落ち込めばいいのである。

そしてひとしきり泣きつかれたら、謝る方法を考えれば良いのである。

自然に誤解が解ける場合もあるが、余り望めないことである。
シャレでは無いが、誤解(五階)を与えたのなら四階まで降りれば良いのである。

遜って謝るしか方法はないのである。

そこで意地を張って六階まで行ってしまったら誤解は続いたままになる。

謝るという行為は慣れないと、とても自尊心が傷つくので難しい。
プライドの高い人は誤解を与えたままで、その場から立ち去る場合が多い。

誤解は相手が教養や価値が分からないから起こるのだと思う先人達も多かった。

千利休は自分の主人である秀吉に対して、侘び寂びの茶の真髄を教えようとするのだが、
秀吉には一向に伝わらない、その結果切腹を命ぜられる。

ロメオとジュリエットも同じ様に、ロメオが演技で死んだ真似をしようとしていたのに、
ジュリエットが誤解をして自害をして果ててしまう。

ドラマや映画のストーリー展開の大きな要素は誤解から始まるのである。

第三者の目にははっきりと分かる事柄でも誤解から大きく方向がそれていく。

はらはらドキドキの連続になる。

国交も時としては誤解から大きな誤りを生む事になる。
誤解を生まない方法は、相手の事を知らなければならない。

知り尽くして、何に価値観をおいているのか、
何が重要事項か、何が本意か調べ尽くさなければならない。

これを怠り自国の価値判断だけで交渉をすると、現在の日中関係のようになる。

 

女の一生

 

自然主義小説の傑作、モーパッサンの書いた同名の本がある。

貴族の娘ジャンヌと結婚相手の子爵ジュリアンとの話である。
ロマンスに憧れていたジャンヌが辿る不幸な人生が描かれている。

恋愛、結婚、出産、夫の不倫、夫の死、父親の死、凋落、放蕩息子、女中との再会、
勿論、誰でもが知っている著名な本なので説明は不要だと思います。

ふと、頭の中に「女の一生」って何なんだろうかと思い浮かんだのです。

ヘレナ・ルビンシュタインも「女の顔は三十までは神様が授けてくれた顔。
四十過ぎたら自分で稼いだ顔。」といっているが、そういわれてみれば、その通りで、
女性の顔は、三十までは若さでもつ。

四十すぎたなら本人の心がけということになる。

そして、その心がけとは、女の人の気働きとか気配りであり、
その積み重ねと内面の美しさがミックスされて滲み出たとき、
それはすばらしい女性の魅力となる。
(伊藤肇さんが帝王学ノートの中で語った言葉です。)

女性は恋をする度に顔が優しく変ります。

そして嫉妬や裏切りや憎しみを経験して、顔に凛とした深みが出て来ます。
その深みに輝きを齎すのが、自分の経験と美しさを保持する為の「心」が現れた時です。

化粧によって感情を違う「心」にすることも、円熟した女性の奥儀ではないでしょうか。

又、ホームドラマや映画の中でこの様な場面を度々目にします。

「お母さんは何もしないで良い」「炊事・洗濯・掃除など家事全般をするだけで良い」
「お母さんがお化粧をして出かけるのは嫌だ」「変なお洒落して出かけないで欲しい」
「旅行や展覧会などに出かけて家を開けないで欲しい」。

夫や子供は、自立した母親より便利な母親を望むから、
このような言葉が出てくるのである。

母親は、家の中の暖炉のような存在で、十分に温めて欲しいのだが、
動き回っては困るのである。

女性が母親になると娘時代に好きだった、お洒落も外出も旅行もスポーツも、
全部アルバムの向こうに封印しなければならないのである。

一人の女性としての恋愛経験も鋼鉄製の鍵を掛けなければならない。

ホームドラマの最後は「お母さんも一人の女なのよ」と泣き叫ぶシーンで終わる事が多い。

アイオワ州の片田舎で出会ったカメラマンと農家の主婦の4日間の恋を描いた
「マジソン郡の橋」と言う映画が16年前に上映された。

母親の葬儀に帰って来た息子と娘が、遺品整理の中から隠れた恋を発見する。
母親の不倫に当惑するのだが、一人の女性としての「純愛」に感動をしながら物語が進んで行く。

たった4日間で永遠の愛を見つけたフランチェスカ、その彼女を死ぬまで愛し続けたキンケイド、
事実を知った子供達は母の遺灰を、母親が愛したキンケイドと同じマジソン郡の橋の上から撒いたのである。

母として家族と一生過ごす人。妻として夫に先立たれた人。
夫婦が離婚して一人になった人。それぞれの立場とそれぞれの女の物語が存在します。

どのような状況で有っても「真実の愛」を記憶に残せる女性は幸福です。

女性という立場を武器にして頑張っている人も多く知っています。
目の前にある輝きにしか興味を持っていません。

数年すれば年を取ることを忘れてしまっているかのようです。

「儚い愛」を追い求める女性は不幸です。
「女性は死ぬまで恋をした方が良い」なんて、瀬戸内寂聴さんでは無いので、言う事は出来ません。

しかし、良き男友達を持つ事は薦めます。

同性との会話も良いのですが、
異性との会話の方が、女としては気づかない事を、言ってもらえる時があるからです。

そしてささやかでも女を意識する時間が持てるからです。

女の一番悲しい姿は「忘れられた女」なのです。

 

 

幸せ(四合わせ)

 

朝の目覚め、午前の学び、午後の労働、浅夜の団欒。

出会いのときめき、結婚の喜び、出産の感動、老後の楽しみ。

平穏な暮らし、波乱の人生、絶望と挑戦、自己の悟り。

一瞬目の前を通り過ぎる風のように幸せの神様が走り過ぎます。

若い時には無我夢中で幸せの神様を抱きかかえようとしました。

逃がしてなるものかと必死にすがったものです。
それでも幸せの神様は、スルリと体をかわして通り過ぎてしまうのです。

幸せの神様を手に入れないと、幸せにならないと思っていたからです。

これを何度も何度も繰り返しているうちに、気付いた事が有ったのです。

それは常に自分が幸せの神様を迎える準備をしていた事です。
実際には手に入らなくても準備している時が幸せだったのです。

調度お祭りや運動会の準備のように、
当日より準備の時間がとても楽しかった事と同じです。

当日の終わった思い出も大変貴重なのですが、
準備をしていた時の興奮も忘れられません。

あの時の興奮こそが幸せだったのかも知れません。

そして少し年を取ってくると、
若い時ほど幸せを無我夢中で追いかける事は無くなります。

幸せの神様が目の前に現れたら握手をすれば良いのだと思うのです。

奇跡のような幸せを望まなくなり、
安定した生活と社会的な責任を果たせれば良いと思うのです。

そして老年期になると、
もう幸せの神様に出会うだけでも良いやと思うようになるのです。

自分にとつての幸せよりも周りの幸せを考えるようになるからです。
家族が、社会が、この国が未来永劫に仕合わせであれば良いなと思うのです。

だから悲しい事件に老人はとても心を痛めます。

老人には「幸せと辛い」の文字がはっきり分かるからです。

たった一本の線で幸せにもなるし辛いにもなる事を知っているのです。
多くの犯罪を起こす人達は、この一本の線が見えないから、
不幸な道を歩き続けるのです。

一つでは満足できない心が罪を作る事になるのです。

人間はこの一本の線を求めて苦労します。
一本の線は何か分かりますか。

これは「正しい」という字の「正」の頭の一なのです。

正しく生きる事は、まさしく「一」で「止」めると、書くのです。
多くの物を望むのでは無くて一つの事をやり続ける事が正しくて、
幸せに繋がるのです。

周りの物に目移りや気移りをせずに、
生きる事がいかに大切かを考える時間も幸せなのです。

日本にはとても素晴らしい四季の季節があります。

春の目覚め、夏の勢い、秋の収穫、冬の休息。均等に季節がめぐり来る四合わせです。

 

 

むすんでひらいて

 

今でも幼稚園ではこのお遊戯歌を歌っているのでしょうか。

「むすんで・ひらいて・てをうって・むすんで」
そしてこの意味を知っている人は何人いるのでしょうか。

世界の中でも東洋人、
特に日本人は子供を神様からの授かりものとしてとても大切にして来たのです。

英国の言語学者のチェンバレンは日本に来た時に

「この国では、金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。
実に、貧乏人は存在するが、貧困なる者は存在しない。
本物の平等精神が(われわれはみな同じ人間だと心底から信ずる心が)、
社会の隅々まで浸透しているのである。

そして日本は「赤ん坊の天国である」と言われて来た。

実際、赤ん坊は普通とても善良なので、
日本を天国にするために、大人を助けているほどである。

彼等は揺り籠の時代から行儀が良い。
特に少年達は内気なところがなく、全くのびのびとしている。
子供達が大切に扱われているのが良く分かる。」と
言わしめるほどの印象を与えていたのである。

通りを走り回る姿、路地で遊んでいる姿、
神社やお寺の庭で遊戯をしている様を見てそう感じたのである。

小さな女の子が背中に赤ん坊をくくり付けて遊んでいる姿や、
年下の子供がころべば少し年上の子供が助けてやり、
怪我をすれば周りでみている年寄りが介抱して、
大きな声をあげて遊ぶ姿は、まるで子供の天国ようだと表現をしています。

余談であるが西洋では子供は悪い者であるという考えから始まるので、
正しい道に導く為に神の信仰に取り入れるのである。

性善説と性悪説の違いなのでしょうね。

日本の神様は西洋の一信教の神様と違って、
空にも地上にも海にも山にもいる八百万の神々の事である。

自然信仰が基本なのである。

神々と人間を結ぶ神が高御産巣日(たかみむすび)の神である。

混沌の中に結ぶのです。
結んできつくなると解(ほど)くのです。

中国から渡って来た仏教も
日本で少し形を変えて煩悩を解放する為に広まったのです。

仏(ほとけ)という文字はほどけるから来た言葉です。

ほどけるから開くのです。
神様が結んで、仏様が開いて、その後の手を打って終わるのです。

その昔日本では、神様に柏手を打つ以外にも、
挨拶の時にも互いに柏手を打っていたそうです。

たまに関西などに行くと、年配の女性が道端で挨拶と共に、
柏手を打っている人を見かけます。その名残でしょうか。(笑い)

神様も仏様も人間様もみんなで一緒に楽しくやって行きましょう。

そして最後には空に住んでいる神様や仏様に感謝を込めて、
ご挨拶しましょうというのが、この「むすんでひらいて」なのです。

 

お地蔵さんと赤い長靴

 

村はずれの小高い丘に小さなお地蔵さんが置いてありました。

誰が何のためにそのお地蔵さんを置いたのか知る人はいません。
村のお爺さんお婆さんに聞いてもハッキリした事はわかりません。

昔からその場所に座って村を守っていてくれたそうです。

春には頭の上から桜の花が散り、
夏には月見の団子が置かれ、
秋には紅葉した葉っぱが肩に掛り、
冬には寒かろうと赤いチャンチャン子が着せられていました。

一年中村人と一緒に過ごして来たのです。

村で一番小さな女の子ミーちゃんも、小さい頃からお母さんに連れられて、
お地蔵さんの前を通る度に手を合していました。

お母さんから困った時には、
お地蔵さんが助けに来てくれるからしっかり拝むのだよと言われていたのです。

月日が過ぎてそんな小さな村にも大きな事件が起こりました。

村の川を堰き止めてダムを作る話が起きたのです。
下流の街の為に電気を作らなければならないから、
国からダムを作るんだと言われたのだそうです。

河を堰き止めたらミーちゃんの村はダムの底に沈んでしまうのです。

大人達はみんなで反対したのですが聞いてはくれませんでした。

大人達はみんな引越しの準備で大忙しです。
学校も役場も公民館も全部引越しです。

田んぼも畑も小川もみんなダムの底に沈んでしまうのです。

ミーちゃんもお父さんの運転する車に乗せられて、
隣町に引っ越しをして行きました。

そんなある日、大雨が降りだしミーちゃんのお母さんが、
ミーちゃんの長靴を出そうと探したのですがどこにも見当たりません。

おかしいな、買ったばかりの赤い長靴が見つからないのです。

雨はなかなかやみませんでした。
しばらくは、ミーちゃんはお外で遊ぶ事が出来ませんでした。

赤い長靴と一緒に買ったお揃いの赤い傘もとても寂しそうでした。

その頃、街からやって来たダム工事の人たちが大型の機械で村を壊し始めました。

そして村はずれの小高い丘に来た時に、
ふとお地蔵さんの前に、真新しい赤い長靴が置かれているのを見つけたのです。

工事の人達は赤い長靴をみて、
みんなでお地蔵さんをダムに沈まない高台まで運んだそうです。

そして、そっとお地蔵さんの小さな頭に手をやり、
この村の思い出までは壊さないようにするからねと約束をしたそうです。

ミーちゃんのやさしさがお地蔵さんを救ったのです。

2011年3月12日長野県大地震。長野県飯山市西大滝地区の県道沿いにある、
六地蔵のうち固定されていた一体を除く、五体のお地蔵さまが地震後に一斉に向きを変えた。

震源地の栄村方面の東向きに向きを変えてじっと睨みつけていたのです。

被害の無かった飯山市の村人はお地蔵さまに守って頂いたと大喜びをしたそうです。

 

ローソクの炎

薄暗い闇をほのかに照らすローソクの炎

観る者の心を映し出すかのように揺れ動くローソクの炎

賛美歌にあわせ歌うように舞うように踊るローソクの炎

天使の小さな息遣いが恥じらうように線を描くローソクの炎

自我を主張せずに何物にも姿形を合わせる安らかなるローソクの炎

「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、

天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

マタイ福音書5章

厳粛なる教会の中で揺れ動くローソクの炎は、観る人によって明るくも・暖くも、
寂しくも感じられる。それは、それぞれの心の波が炎に伝わり、

自分自身の意識が形になって表れるからです。

優しさに包まれたメロディーが心の糸を解くように、
またローソクの炎も苦悩の姿を導き出してくれるのです。

「大聖堂の窓から漏れる、淡いステンドグラスの光に包まれ、
天使は地上から天空へと優しく飛び立って行く。

それぞれの祈りに導かれるよう、それぞれの魂が癒される楽園へ、
天使は微笑みながら小さな手を差し伸べて戯れる。」

海外に行くとふと足を止めて教会に入る事があります。

私は教会の信者でも無いのですが、
歴史ある大聖堂の中で聞く讃美歌にとても心を惹かれます。

木製の長椅子に座りこみ、身動きもせずに瞑想にふけると、
祈りの声がすべてを包み込んで体(Body)と魂(Soul)を癒してくれます。

悩み多き人々は、教会の中で懺悔を繰り返し、
罪深き心の穴を埋めて来たのだと,勝手に想像してしまいます。

自分の抱えている問題が、
今ここで解決するのなら祈り続けたいと思う事もあります。

しかし神は人の欲の為の悩みには手を貸してくれません。

人としてあるべき姿を守る為にのみ、慈愛に満ちた答えを出してくれるのです。

大聖堂の中で揺れるローソクの炎を見詰めていると不思議な気持になります。
同じ時間に、同じローソクの炎を、同じ状況で見詰めていても、
それぞれの受ける印象が違うのだと考えてしまいます。

激しく怒りのある人には熱き炎に見え、
優しき人には仄かな温もりの炎に見え、
永遠の誓いを立てる人には、厳粛に満ちたおごそかな炎に見えるのでしょう。

同じローソクの炎でも、見る人によって、
まったく異なる姿形になる事が奇跡のようです。

人は小さなローソクの炎となって、
謙虚に生きて行く事が出来たらどれほど素晴らしいかなと考えてしまいます。

相手に合わせて揺れ動く、

静かなるローソクの炎を見詰めながら、悠久の時を超えて静寂に浸ります。

本当の貧しさ

 

ロスアンジェルスに住んでいる友人の話です。

離婚したイギリス人の奥さんから、
経済的な事情で子供を手放すという連絡が入りました。

親権争いで奪い取った子供を施設に預けると言う事です。

友人は急遽、離婚した妻と子供が住む英国に行かなければなりません。
しかしその頃の友人は、新しい奥さんとの約束で、
お金の管理を全て弁護士に任せていました。

その為に自由に使えるお金が無くチケットを買う事も出来ません。

急いで自分の友達や身内から借りたのですが英国までの旅費にもなりませんでした。

仕方なく友人は街頭で絵を描いて売る事にしました。
彼は画家です。

大きなエージェントとの契約があり、
自分の契約した絵を勝手に売る事は出来ないのです。

友人は名前を伏せて街頭で数枚の絵を描いて売りました。

そうしてどうにか、旅費と手続き費用の用意が出来たので
英国に向かう事にしました。

無事に英国に着いたのですが、
もう子供は既に養護施設に預けられていたのです。

弁護士と相談をして元妻の親権放棄の手続きをしなければなりません。

少ない時間の中で全てを終了させなければならなかったのです。
所持金もほとんどありません。

航空券は格安チケットなので指定された日には帰国しなければなりません。

毎日が時間との戦いだったそうです。

ようやく無事に子供を取り戻す事が出来て米国大使館に行き、
この子が自分の子供だという証明を取らなければなりません。

それから大使館との手続きが済んで、パスポートを手にして飛行場に向かったのです。

しかし最終便の米国ロスアンジェルス行きは満席で席がありません。

この便で帰国しなければチケットが無駄になってしまうのです。

彼は搭乗手続き中の乗客に「どなたか席を譲っていただけませんか」と
大きな声で何度も御願いしました。

航空会社のスタッフも事情を理解して、
一緒に声を掛けてくれたのですが、誰も譲ってくれる人は現れません。

彼は最後の望みを託して「アメリカにはヒーローが居ると聞いています」
「誰か助けてくれませんか」と叫んだのです。

その時、一人の少年が「僕のチケットを譲ってあげるよ」と差し出してくれたそうです。

「僕は明日帰っても大丈夫だから」構わないよ。

そのやり取りを見ていた周囲の大人達も、それに感動して
「私達夫婦のチケットを譲ってあげるよ」「私も急ぎじゃないから良いですよ」と
次々に申し出てくれたのです。

その中の親切な老夫婦のチケットを譲り受けて、
私の友人は子供を抱きかかえ、泣きながら搭乗口へと向ったそうです。

友人は愛する子供を取り戻す事に必死でした。

そして最悪の状況の中で、最後まで諦めずに、最善を尽くしたのです。
そして奇跡を手に入れたのです。

その後友人から直接この話を聞く機会があり、
彼から素晴らしい言葉を聞く事が出来ました。

それは今回の件で「お金の貧しさより心の貧しさが一番貧乏だ」と言う事を学んだ。
アメリカではお金が一番大切です。

外国から来た我々を守ってくれるのはお金しかないのです。

それでも「心が貧しくならないように」生きて行く自信を持ちました。

そう語る友人の目にも、私の目にも、大粒の涙があふれていました。

改めて人として大切な「思いやり」を感じる事が出来たからです。

本当の豊かさは「心が貧しくない人」にしか与えられないものです。