日本人の根

 

アメリカの人類学者であるルーズ・ベネディクトが書いた
「菊と刀」の一説にこの様な文章がある。

「ある国民が従順であるという時、同時にまた彼らは
上からの統制になかなか従わない、と説明したりはしない。
彼らが忠実で寛容であるという時、
「しかしまた彼らは不忠実で意地悪である」とは言いはしない。

彼らが真に勇敢であるという時、その臆病さ加減を述べたてることはない。
彼らが他人の評判を気に掛けて行動するという時、
それにひき続いて、彼らは本当に恐ろしい良心をもっていると
言いはしない。
彼らの軍隊のロボットのような訓練ぶりを描写する時、
それに続けて、その軍隊の兵士たちがなかなか命令に服さず、
公然と反抗する場合さえあることを述べるようなことはない。

西欧の学問に熱中する国民について述べる時、
同時にまた彼らの熱烈な保守主義についてくわしく記することはない。

美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす
国民に関する本を書く時、同じ国民が刀を崇拝し
武士に最高の栄誉を帰する事実を述べた、もう一冊の本によって
それを補わなければならないというようなことは、
普通はないことである。

ところがこれらすべての矛盾が、
日本に関する書物の縦糸と横糸になるのである」(講談社学術文庫)

日本人の意識が二重構造であることを述べた名著である。

村上春樹の研究本に
「さらに、シンガポールのリー・クアンユー元首相によれば
戦争中、日本人は信じられないほど残虐だった。
でも戦争が終わり、捕虜になると良心的に働き、
シンガポールの街を綺麗に清掃していったという。
そして村上は「これは日本人の怖さを語っている」と話した。

従順と反抗、臆病と大胆、善と悪、優しさと残虐、
相反する二つの要素を併せ持つのが日本人である。

ここでも他国にはみられない、日本人独特の意識の二重構造がみられる。

筑紫哲也氏が若者達の婉曲話法について書いた文書の中で、
若者達が使うていねい語「ナースコールしてもらってよいですか」
「この錠剤を昼食前に飲んでもらってよいですか」
「以上何々でよしかったでしょうか」は、

昔からそれが当り前のように
使われる事は無かったのはたしかです。
心優しき若者達が自己保身のために間違った
丁寧語を使っているのだと仮説を立てています。

他者を傷つける事を恐れ、自分が傷つく事を恐れているからだと思う。
他者を傷つけない限り自分が安全だと錯覚しているのである。

無差別大量殺人犯たちが、犯行に及ぶ前の人物像が、
見るからに殺人者予備軍と思えるような凶暴さを
ちらつかせていたのなら、彼らは全体のなかで
特異な存在として除外して考えられるでしょう。

厄介なのは、もしかしたら彼等も日常の中では
「何々していただいてよろしいでしょうか」
「連絡させていただいてもよろしかったでしょうか」と
しゃべっていたかもしれないことです。

これも意識の二重構造です。

オウム真理教のサリン事件も同じです。
物静かな医者が、頭の良い学者が、優秀な技術者が、
スポーツを愛する少年少女が、無差別大量殺人事件を犯したのです。
いかなる教義があったとしても、
人を無差別に殺して良い真理など何処にもないのです。

彼等はそれを知りながら、洗脳と云う恐ろしい呪縛から
逃れることが出来なかったのです。
彼等が何故そのような大胆な犯行に及んだのは
未だ謎のままです。

しかし、日本人は古の時代から、この二重構造の意識の根を持つ国民なのです。

それ故に 近所で評判の優しい子供が
突然親殺しの犯罪に手を染めてしまうのです。

運命

 

モーリス・パンゲ「自死の日本史」より

「運命というものはただ単に人間にふりかかって来るものではない。
運命を愛し、運命にうち克つことを知らなければならない。
「運命への愛」 (amor fati」、それによって初めて心の平静は得られる」

人は幸福な時に「運命」という言葉を使うのだろうか。
自ら招いた失敗に 「運命」という言葉を多用している
だけではないだろうか。
逃れ切れない境遇に 対して悩み苦しんだ時にだけ
「運命」という重さが分かるのだろうか。

青年時代には、どのようなことにも
「運命」という言葉で、結論付けする 事は無かっただろう。
それは、未来はいつでも変えられるもので、
「運命」に打ち克つことは容易に出来るものと信じていたからである。

しかし、年齢を重ねてはじめて「運命」という言葉の重みが理解できる。
パンゲの言うように「運命を愛し、運命にうち克つことを
知らなければ ならない。それによって始めて心の平静は得られる」。

正にその通りで運命を素直に受け入れてこそ、
日々の動向に対して心の平静が得られるという事である。

仏教用語に「知命楽天」という言葉がある。
「己の運命を知り、いつまでも欲の赴くままに生きるな。
与えられた環境の 中で日々を楽しく生きよ。」ということである。

不遇でも貧しくとも悩み多くてもそれが与えられた運命ならば、
それを甘受せよという事である。
そして夢を失わなければ
心の貧しさから遠ざかる事が出来るのだ。
利己の心を捨てて利他心で生きて行く事が
大切だということである。

運命を嫌うな!楽しめと言う事である。

サムエルウルマンの「青春」という詩がある。

青春とは人生のある期間を言うのではなく
心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、
怯懦を却ける勇猛心、 安易を振り捨てる冒険心,
こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。
理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、
こう言うものこそ 恰も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、
その胸中に抱き得るものは何か。
曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、
その輝きにも似たる事物や 思想に対する欽迎、
事に處する剛毅な挑戦、
小児の如く求めて止まぬ探求心、
人生への歓喜と興味。

人は信念と共に若く、
人は自信と共に若く、
希望ある限り若く、
疑惑と共に 老ゆる、
恐怖と共に老ゆる、

失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、
美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を 受ける限り
人の若さは失われない。

これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が
人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、
この時にこそ人は全くに老いて 神の憐れみを乞う他はなくなる。

サムエルウルマンが80歳代の時に書いた詩である。

夢があれば年齢(運命)に翻弄される事無く
青春を謳歌できるのである。
運命に打ち克つ事だけでは無く
情熱を持ち続ける事が重要なのである。

夢を持ち前向きに生きている人にとって
「老い」と「運命」は別物である。

それでは何故「運命」という言葉に
翻弄されてしまうのだろうか。
宗教家や哲学者が悩みの原因を
「運命」という言葉で言い切るからである。

人間は生まれた時から死ぬまで
決められたレールが引かれている。
そのレールを運命と定義付け、運命を変える為の
勝手な教義を人々の身体に 鎖のように巻きつけるからである。

その呪縛に囚われた人達が「運命」を
肯定して否定する力を失うからである。

ここに運命を変える方法がある。
中国の教育学の教えである。

「思想という種を播き、行動を刈る。
行動という種を播き、習慣を刈る。
習慣という種を播き、性格を刈る。
性格という種を撒き、それがやがては
運命を収穫することになる」

自分の努力によって運命は変えることが出来る。
自ら良き運命を収穫するのである。

対話

 

「どんな会話の中にも二つの対話が有る。
一つは言葉によるものである。
もう一つは口調など声そのものによるものだ。

両者が一致することもあるが、たいていはくい違う。

「お元気ですか」と尋ねて「元気です」
その言葉が返って来ても「元気」という言葉そのものを、
信じる人はあまりいないと思う。

むしろ声の調子などから相手が本当に元気なのか、
落ち込んでいるのか、不安なのか、
興奮しているのか等の感情を感じ取る。

口調、声の大きさ、早さなど声からわかる特徴から、
言葉では無い会話の流れもキャッチし、真実を掴み取るのだ。

悲しみ、不機嫌さ、不満等は分かりやすい。
不安や恐怖や困惑などはよほど注意しなければ聞き逃してしまう。」
ジョーエレン・ディミドリアス著「この人はなぜ、自分の話ばかりするのか」より

人と対面する仕事において一番大切な事は
相手の真意をいち早く察知する能力である。
しかし時には深読み過ぎて失敗する事もある。
相手のちょっとした仕草や言葉から真実を探りださなければ
ならないのだが勝手に脚色をして誤認をする。

我々が日常対面するアーティストは
一般的な人よりも言葉数が少ない。
その言葉の中から何を考えているのか、

何を大切にしているのか、
何に価値観を持っているのかを
探しださなければならないのです。

新人のオーディションの時に、
彼らがおどおどしていても、
俯き加減で心を隠していても、周りの物音に
敏感になっていても、アーティストとしての
彼らの才能を見つけ出さなければならないのである。

音楽の才能は通常見えない所に隠されていることが多いからである。

以前、友人から台湾出身の歌手を紹介された。
彼女は口数が少なくて目も合わせない。
自分の世界観を守る為なのか常に不機嫌な雰囲気を出していた。

歌は上手なのだが個性が強すぎて
プロデュースをするにはとても難しいタイプであった。

何度か話をしたのだが、
私の感性と彼女の感性は最後までかみ合わず採用はしなかった。

プロデューサーとしてアーティストの
心の「対話」が成立しなかったからである。

しかし、その2年後に私の別の友人が
彼女の才能を発掘して大ヒットを出した。
私の友人と彼女とは「対話」が成立したのでしょう。

アーティストにとっての「対話」は、
万人に伝わらなくても良いのです。
自分の求める運命の人(プロデューサー)と、
必要最低限のコミュニケーションが取れれば、
相手が自分の才能を見つけ出してくれからです。

プロデューサーの仕事は
沢山のアーティストを担当する事では無いのです。
優秀なアーティストに巡り合いその才能を見つけ出す事です。

そして、その才能を育てる為には双方に
信頼関係が成立しなければならない。
新人アーティストは自分の才能の自信の無さから、
殻に閉じこもっている場合が多いのです。
その為に第三者とのコミュニケーションを苦手としている人が多い。

しかし、たとえ沈黙の中でもアーティストの
表現したい事が、言葉や仕草や服装に現れているので、
経験豊富なプロデューサーは、
それらと歌詞やメロディーから十分に彼等の言いたい事が理解出来るのです。

ジョーエレン・ディミドリアスの言う所の
「どんな会話の中にも二つの対話が有る。
一つは言葉によるものである。
もう一つは口調など、声そのものによるものだ。
両者が一致することもあるが、たいていはくい違う。」

口調と声を仕草と服装に置き換えても良いのではないか。
しかしくい違う事も考慮しておくべきである。

問題は言葉巧みさでは無くて主張の情熱である。

以前、大学の講演会で学生から
「アイデアは何処から生れるのですか」という質問をうけた。
黒板に「愛が出会う」と書き、
「アイデアは愛が出会うから生れるのです」という説明をした。

どんな事でも、自分がそのものを信じて好きにならなければ、
絶対にアイデア(発想)は生まれません。
全ての発想の元は愛から生れて来るのです。
愛することによって、あらゆる角度から
多くの情報を受け取る事が出来るのです。

愛があれば目の前の聞こえる部分(言葉)と
見える部分(表情・動作)、そして隠された部分(思考)まで
深く理解することが出来るのです。

嫌いなものからは嫌悪の情報しか受け取る事ができません。
皆様も愛する事に思いっ切り悩み苦しみ、
その先から新しいアイデアを見つけ出して欲しいものです。
強い愛が有れば、
人も宇宙も大自然も動物も万物全てが必ず反応をしてくれるのです。

「対話」を恐れずに立ち向かって下さい。
主人公はいつもあなたなのです。

人が

 

人が人を信じなければ争いが始まります。

人が人の物を奪えば戦争になります。

人が人に憎しみを与えれば孤立が始まります。

人が人と自然を愛すれば平和が訪れます。

人が人に労わる気持ちを持てば信頼が生まれます。

人が歴史を学び、国を愛するようになれば、誇りが持てるようになります。

 

悩みが無くても一日が過ぎて行きます。

悩みが有っても一日が過ぎて行きます。

悩みが起こるのを恐れても一日が過ぎて行きます。

世の中を見て見ぬ振りしても一日が過ぎていきます

人の心は分からない、人の心に気づかない、自分の心も分からない。

 

強い人がいれば共に力合わせれば怖くない。

弱い人がいても違う魅力を引き出せば強さになる。

運動の苦手な人でも、手先の器用な人でも、絵の下手な人でも、

機械を操るのが上手な人でも、共存共生して生きて行かなければならない。

人と違う部分を延ばし譲り合いながら、生きて行く事を学ばなければならない。

 

年上は年下を可愛がり、年下は年上を尊敬する精神を養わなければならない。

いじめの被害者にあったら、決して人を傷つけない大人になろうと思えば良い。

貧しかったら、豊かになり貧しい人達を助けようと思えば良い。

自信が無ければ、何か一つ得意な事を成し遂げれば良い。

感情を言葉で表わすのが苦手なら真心を態度で表わせば良い。

 

同じ道路を同じ方向に目指すから渋滞が起こり事故にも繋がる。

違う考え、違う方向、違う道を選べば問題はずっと少なくなるはず。

生きる価値観を一つの道にして競争させるから無理がある。

それぞれの能力を明確にしてあげる事がより良い人生を過ごせる道に成る。

人としての価値観は一つでは無い、人としての魅力も一つでは無い。

だから喜怒哀楽の発露も、人によってはそれぞれが異なるはずである。

 

人が人を信じなければ争いが始まります。

人が人の物を奪えば戦争になります。

人が人に憎しみを与えれば孤立が始まります。

若き日に薔薇を摘め

 

子供の頃から習い事や塾通いに振り回されて
自分のやりたい事が分からなくなっている。
テレビや新聞や雑誌からの情報は別次元の事で自分達には現実感が無い。

親が言う事も教師が言う事も全て交通ルールのようで
分かり切った事を繰り返して言うだけである。

親は子供の考えを無視して進路を描き、
勝手に好き嫌いかを決めて、子供の争いごとまで処理をして満足する。

家族全員でバーチャルなテレビゲームで遊んで団欒を繕っている。
そして問題の発端はいつも「お金」から始まるのである。

子供が深夜にコンビニで物を買う。
カードで支払い、携帯電話で帰宅を連絡する。

茶髪にしてもタトーを入れても、仲間の家に寝泊りをしても、誰も文句は言わなくなった。
親はもっと過激になるのが怖くて注意が出来ない。

世の中全体が「ぬるま湯」になり、日本中が「ゆで蛙」状態になってしまっている。

見て見ぬ風潮がこの世の中を蝕んで行く。

この国の近代化は敗戦から始まった。

満足に食べる事を目指した40年代、安定した収入を得る為に奔走した50年代、
豊かさが家庭に入り込んだ60年代、政治に矛盾を感じ激しく戦った70年代、
愛と平和「ラブ&ピース」を追い求めた80年代、
怪しげな錬金術に惑わされてバブル崩壊した90年代、

アジア外交と経済の行方が見えなくなった2000年代。

そしてこの国は、世界から経済大国と評されながらも最も大切なものを失った。
それは「家族の絆」である。

社会が強く出ている時代と個人が強く出ている時代とでは心の置き所が違ってくる。

自分の立ち居地が明確にならないと常に迷いが生じる。
若者よ!何もする事が無かったら旅に出たらどうだろうか。
分別など構わずに旅に出る興奮を味わったらどうだろうか。

未知なる世界は恐怖も伴うが快感も生まれてくる。
10代後半から社会に出たばかりの10年間は、
ガムシャラに自意識を高めなければ人生の後半にバテてしまう。

吉田松陰の言葉に「奇傑非常の士に交わるに在り」というのがある。

熱く高い志を持つには普段会えないような人物と会え。
そして志気を高める為には、風光明媚な名山大川を跋渉しろ。

若い時には、静(知)で考えずに動(実践)で考えろ。
悩む時間があるのならば、先ずは行動に出ろ。

英国生物学者フランシスクリック
(DNAの螺旋状を発見してノーベル生理医学賞受賞)
の机の中に、こんなメモが残されていた。

「自分は今までにこれが起きたら困るなと思う事が数限りなくあった。
しかしそのどれもが実際には起こらなかった。」

悩みや問題を抱えて身動きが取れない時に、一人でこのメモを見て安心していたという。

偉大なる研究者でも不安を克服する、自分だけの術を知っていたのである。
誰もが悩みを抱えてそれらを乗り越えながら生きて来たのである。

22歳の時に五木寛之の本「青年は荒野をめざす」を読んで
北周りでイギリスに向った。

横浜から船に乗ってソ連に入り、シベリヤ鉄道と飛行機でモスクワ・レーニンググラードと回った。
そして船でノールウェーからオランダ経由でイギリスの港町ハリウッチに到着。

英国の入国管理局で長髪に髭と片道切符のために、
日本のテロリストと間違えられて長時間足止めされた。

苦肉の策で吹けもしない尺八を吹き、日本の古典楽器奏者だと言って
ようやく1か月だけビザが下りた。
すぐにロンドンの街に入り安アパートを探し、その後は仕事を見つける為に市内を歩き回った。

滞在期間中は何度も仕事が変わり、住むところが変わり、
友達も変わり、変化の激しい毎日であった。
語学学校の学生ビザを延長させながら、おおよそ1年7ヶ月ほど滞在した。
辛い事も山ほどあったが貴重な体験として、今では全て楽しい思い出になっている。

リュックサック一つで片道キップ、行き当たりばったりの旅ほど素晴らしいものは無い。
寝るところも食べるところも、自ら求めなければ誰も提供はしてくれない。

先ずは行動、先ずは探索、先ずは頭を下げなければ、暮らして行けない。

使い慣れない現地の言葉で、お願の連続であった。
その経験があったからこそ、怖いもの知らずと負けん気で、
憧れのCBSSONYのプロデューサーに成れたのである。

若者よ、失敗して当たり前、
挫折して当たり前、傷ついて当たり前の世界に飛び込め。

若者の特権はすぐに傷が癒やされることである。
恐れるものは何も無いのである。
真っ赤な薔薇の花(自分の夢)を鷲づかみにして、
挫折と屈辱という棘に刺されて血だらけに成れ。

他人が摘み取った果実に憧れるな。
自らの手で奪い取れ。
それが出来るのは人生の中において青春という一瞬である。

どんな迷いがあっても、
「若き日に薔薇を摘め」を忘れないことである。

美しく生きる

 

「美しく生きる」

与えられた人生の中で
「幸福」を他人と比較をするのでは無く
自分の尺度を知り毅然とした態度で過ごす事が美しく生きる事です。

着物の世界で「裏勝り」という言葉があります。
羽織の裏に秘められた美の世界。
表地よりも裏地に高価な生地を使い派手な絵柄を施すことを「裏勝り」といいます。

人生で例えればこの様になるのでしょうか。
普段の生活では目立たぬように過ごし、困難に際しては誰よりも情熱をもって物事に対処する。
外面を飾るよりも内面の強い人こそが人としての「裏勝り」になるのです。

又、真珠貝は砂や小石やサンゴの欠片を飲み込み、
吐き出さずにしているから 素晴しい真珠を作りだすのです。

人もすぐに喜怒哀楽を表現するのではなく、
苦しい感情を飲み込んで耐えることも重要かと思います。
耐え忍ぶ生き方も美しく生きることのひとつです。

「強く生きる」

人間は木と同じようなものだ、
高みへ、明るみへ、 いよいよ伸びて行こうとすればするほど、
その根はいよいよ強い力で向っていくー地へ、 暗黒へ、深みへー悪の中へ」
ニーチェの「ツアラトゥストラ」の「山上の木」に書かれた一説です。

成功は破滅へ、名声は堕落へ、 信頼は欺瞞へ、常に両極と対峙しながら生きて行くのです。

「果華同時」

蓮の花は池の水面で咲き、咲くと同時に実(み)は泥の中で生まれます。
大きな華であれば有るほど実は深く暗い部分で育つのです。

理想だけでは強くなれず現実の醜い部分も経験しなければ本当に強くなれないのです。
狂気の思想と鋼のような心臓と天使のような慈悲が必要です。
表裏一体を認識し経験できる人こそ強い人です。

「楽しく生きる」

頭の中から三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を取り除かなければなりません。

一つ目は「貪欲」(どんよく)の心です。
地位や名誉や財産そして出世欲や安定した生活を限りなく求める欲の心です。

二つ目は「瞋恚」(しんに)の心です。
他人と比較して自分の手に入らない部分(物や地位や財産)に 、
嫉妬の炎を燃やして怒りが収まらない妬みの心です。

三番目は「愚痴」(ぐち)です。
他人が所有していて自分が所有していない物、本当に必要なのかも分からずに
文句を言う蒙昧の心です。

周りに流されて生きていくと、欲しい物と必要な物の区別が出来なくなり、
常に愚痴を言うだけの人生です。

楽しく生きる事は必ずこの三毒を取り除かなければなりません。
終わりの無い欲を追い求めるよりも、「小欲知足」を学ぶ事です。

欲の無い人ほど楽しく生きる事ができるのです。

「気楽に生きる」

「知命楽天」とは、自分の運命を知り楽しく過ごす事である。

「日日是好日」とは、毎日が最高の一日だと信じて生きる事である。

「莫妄想」とは、あれこれ妄想を駆り立てて悩む事は無い事である。

「則天去私」とは、すべてを天に任せて私を捨て去る事である。

「無一物」とは、もともと生まれた時には何も無かった事である。

喜劇王チャップリンの言葉に
「人生は近くで見ると悲劇だが、 遠くから眺めると喜劇である」

天上界の人はいつも人間を見て笑っていると思います。
お気楽に行き(生き)ましょう。

「感謝して生きる」

毎日目を覚ます事に感謝、健康でいることに感謝、
仕事がある事に感謝、家族に感謝、
大きな声で笑ったり泣いたりできる事に感謝、
美味しい物を食べたり飲んだりできる事に感謝です。

晴れたら空に感謝、花が咲いたら大地に感謝、
共に暮らす木々や鳥や動物にも感謝、
世界に広がる自然万物全てに感謝です。
大宇宙の中で人間として生きていける事に感謝です。

「余命一ヶ月の花嫁」長島知恵さんの言葉。

「明日が来る事を奇跡と思って今日一日を輝く日にしたい」というのがありました。
これ程素晴らしい感謝の言葉は無いと思います。
当たり前の事に感謝できる気持が人にも地球にも優しくなれるのです。

感謝しましょう。

「返して生きる」

恩返しです。受けた恩を返さなければなりません。
親に恩師に上司に社会に国に返さなければなりません。

大きさの問題ではありません。気持ちの問題です。
歩いてきた道を少しだけ掃き掃除をするような事で十分です。

若いときには「恩」を理解することは難しいかも知れません。
しかしこの言葉だけは忘れないで下さい。

「受けた恩は石に刻み与えた恩は水に流す」

人から受けた恩は忘れないようにして、人に与えた恩はすぐに忘れましょう。

恩返しは人生の折り返し地点50歳を過ぎてから真剣に考えて欲しい事です。

「死ぬまで生きる」

「人間の寿命なんてそれぞれ違うから年齢だけでもうすぐお迎えの来る年だなんて言うものでは無い。」

作家の宇野千代さんは98歳になっても2~3年先のスケジュールを書き込んでいたと云う。

しかし病気に見舞われた時に気力が衰えるのは仕方が無いが、
それ以上に周りが「死」を意識して介護するのだけは、やめて欲しいものですと述べたという。

詩人のサムエルウルマンが
80歳の時に書いた詩に「青春」というのがある。
「人は年齢を重ねただけで老いない。人は夢を失ったとき初めて老いる。
20歳の若者が臆病であればそれは既に老人である。
しかし夢多い60歳がいるとすれば、正に青春真只中である。」

誕生日は年を増やしたことを祝うのでは無い。青春の喜びを祝う日である。

その昔、お年寄りがいる日本の家庭にはこんな張り紙があった。
「四十は鼻たれ小僧、五十六十花なら蕾、七十八十働き盛り、九十になって迎えが来たら
百まで待てと追い返せ」

みなさま笑いながら死ぬまで生きましょう。

若者論

 

若者よ、前を向いて生きろ。
足もとばかりを見るな。
もっと自由に生きろ。

傍若無人に破天荒に無軌道に生きろ。
枠に収まらず好き放題に生きろ。

若者よ、笑われろ。未熟さに泣き叫べ。怒れ。
悩みの渦に巻き込まれろ。
現状のつまらない囲いに囚われるな。
この場から逃げ出す努力をしないのは卑怯だ。

若者よ、人を傷つけるな、自分を傷つけろ。
人を批判するな、自分を批判しろ。

若者よ飛べ、この断崖から大空に向かって飛べ。
若者よ、学ぶことの意味を知れ。
学問の意味を知れ。知識の意味を知れ。

そして己の意味を知れ。動かずに文句を言うな。
全ての書を捨てて街に出ろ。

若者よ守るな。何もかも破壊しろ。
大きく生きろ。

若者よ、薔薇の花を手でつかめ。
血だらけになれ。

若者よ、古い船に乗って安堵するな。
古い船を壊すのが若者の特権だ。
縛られるな。解放されろ。

若者よ、純粋に生きることの道を選べ。
自由に成れ。老人の錆びた理屈に耳を傾けるな。
新しい水夫に成れ。嵐に立ち向かう水夫に成れ。
大海に船出しろ。

若者よ、何も気にするな、君達は修行僧ではない、
若者である。人生に一度しかない冒険の切符を、
破り捨てるようなことはするな。

柔軟な魂が自由を求めている時に過酷な旅に出ろ。
そして強靭な肉体と精神が切り崩された時に
新しい息吹が誕生するのだ。

若者よ、強かに成れ。
この国も大企業も乗っ取るぐらいの強かさを持て。
自分が何者かを知れ。それを試すのが青春だ。
そして成長して、体に付いた埃を払い、
夢をがっしり握り締めて、前に進んで行け。

若者よ、ぬるま湯の蛙になるな。
ライ麦畑で人助けなんて考えるな。
今の環境に満足するな、飢餓感をおぼえろ。
世の中全てを疑ってかかれ。

若者よ、無能な政治家に国を任せるな。
国家権力が民衆の富を食い物にしている。
企業と官僚の癒着が労働者の力を奪っている。

若者よ、メディアの嘘に気を付けろ。
景気も不景気も一部の人間が作った罠だ。
安楽椅子の権力者を引きずり降ろせ。

若者よ、目を覚ませ。
自分達の国を自分達で守れ。
遠くからこの国を眺めてみろ。
どれほど絶望的かが良く分かる。

若者よ、恐れるな。経験が無い事に恐れるな、
金が無い事に恐れるな。主張が通らない事に恐れるな。

若者よ、死を間近にしても恐れるな。
光に向かって飛び上がれ。今出来ることから始めろ。

若者よ、常識に囚われるな。非常識に行動しろ。

若者よ。君達は熱き炎だ。熱き炎を燃やし続けろ。

感動を作る

 

以下の10項目の内、幾つかが該当すれば感動を作る事が出来ます。

①    邪心が無い(損得の利益を求めない)

②    喜怒哀楽が明確(感受性がわかりやすい)

③    常識がある(一定のルールとマナーを知っている)

④    憐みの情がある(悩んでいる人を見捨てる事ができない)

⑤    自然を愛している(万物の移り変わりに敏感)

⑥    健康である(身心ともに健康で有る)

⑦    読書が好き(文書からイメージを浮かべる事が出来る)

⑧    旅行が好き(名山大河を闊歩するのが好き)

⑨    音に敏感である(自然界の音にも反応できる)

⑩    無償の愛をもっている(与える愛を知っている人)

主人として感動を作るのであって、ゲストとして受けるのではありません。

与える感動を意識した事がありますか。世の中には頂く感動は多く存在します。
頂いた感動を人に伝えることも与えることになります。

大切な事は感動への恩返しです。あなたがこれから先幾つの感動を作れるかが楽しみです。

「初めての愛」

離婚したばかりの妙子(32歳)は、息子健一(10歳)と二人暮らしである。

親子二人の住むマンションはペットが飼う事が出来ない。
ある日ずぶ濡れの息子が子犬を拾って来た。

妙子はすぐに元の場所に戻すように健一に言う。

しかし、健一は頑なに拒み続けた。

子犬をみると後ろ足が引きずるように歩く障害が目についた。
多分生れた時にその障害が原因で捨てられたのだと思った。

妙子が、何度も健一に拾った場所に戻しなさいと言っても、健一は聞こうとしなかった。
仕方なしに妙子は、それじゃ同じような子犬を買ってあげますから、
それでいいでしょうと交換条件を出した。

勿論、このマンションではペットを飼う事が出来ないのだが、
隠れて小型犬や猫を飼っている住人が居ることを知っている。

どうせ育てるなら健常の犬の方が、気が楽だと考えての結論である。

しかし、健一はそれじゃ駄目なんだと泣きながら子犬を抱きしめた。

この犬は親と離れ離れになって可哀想なんだよ。
僕を見て泣きながら後をついて来たんだ。
だからこの犬を守ってあげたいんだ。

この犬は僕を必要としているんだ。
健一は子犬と自分の寂しさを重ね合わせたのかもしれない。

妙子もそれを感じて黙ってしまった。

分かったわ、それじゃ二人ともお風呂に入って体を乾かしなさい。
そしてこのチビ犬の食べ物も買いに行かなくっちゃね。

勿論、近所の人には見つからないようにね、と健一にウインクをした。

妙子は出かける用意をしながら、健一と子犬のはしゃぐ姿に思わず涙を浮かべてしまった。
健一は夫と離婚してから無口に成り、何も欲しがらない子供になった。
そんな健一が、自分以外のものを守りたいと、妙子に言ってくれた事に涙が浮かんだのである。

妙子が本当に守りたかったのは、子犬以上に健一との親子の強い絆だった。

その時、お風呂場から出て来た子犬が妙子の足をなめていた。
妙子はくすぐりを感じながら、これから親子二人と一匹の新しい暮らしが始まるのだと思った。

 些細な所にも目を行き届かせると「感動」は沢山存在します。

「感動」に気付く心も「感動を作る」ことになるのです。

 

錯覚と誤解

 

不用意な発言をした為に誤解を与えてしまった。

軽はずみな行動をした為に誤解を与えてしまった。

気持とは逆の態度を取った為に誤解を与えてしまった。

誰しもが経験をする誤解である。

誤解を与えてしまった相手も大いに傷付くのだが、
与えてしまった本人も後悔の念と共に大いに傷つくのである。

誤解は何故生まれるか、
自分の価値判断と好みと生理的な快・不快で起こる。

自分の価値判断はおもに経験から生まれてくる。

育った環境や付き合った友人達、両親や先生から受ける影響が大きい。
常識からでは判断できない人との交わりは、子供の頃からの経験が大切である。

自分を良く見せようとして教室で失敗をして恥を掻く事もある。

好きな人に思いを伝えようとして、チョットした意地悪が大きな間違いを招く事もある。

悪ふざけで先生に大きな誤解を与えてしまって、取り返しのつかない事を起こすこともある。
しかし誤解である。

自分の気持とは裏腹の気持や行為が、
相手に誤解を与えてしまっただけである。

解決方法は多いに泣いて後悔して落ち込めばいいのである。

そしてひとしきり泣きつかれたら、謝る方法を考えれば良いのである。

自然に誤解が解ける場合もあるが、余り望めないことである。
シャレでは無いが、誤解(五階)を与えたのなら四階まで降りれば良いのである。

遜って謝るしか方法はないのである。

そこで意地を張って六階まで行ってしまったら誤解は続いたままになる。

謝るという行為は慣れないと、とても自尊心が傷つくので難しい。
プライドの高い人は誤解を与えたままで、その場から立ち去る場合が多い。

誤解は相手が教養や価値が分からないから起こるのだと思う先人達も多かった。

千利休は自分の主人である秀吉に対して、侘び寂びの茶の真髄を教えようとするのだが、
秀吉には一向に伝わらない、その結果切腹を命ぜられる。

ロメオとジュリエットも同じ様に、ロメオが演技で死んだ真似をしようとしていたのに、
ジュリエットが誤解をして自害をして果ててしまう。

ドラマや映画のストーリー展開の大きな要素は誤解から始まるのである。

第三者の目にははっきりと分かる事柄でも誤解から大きく方向がそれていく。

はらはらドキドキの連続になる。

国交も時としては誤解から大きな誤りを生む事になる。
誤解を生まない方法は、相手の事を知らなければならない。

知り尽くして、何に価値観をおいているのか、
何が重要事項か、何が本意か調べ尽くさなければならない。

これを怠り自国の価値判断だけで交渉をすると、現在の日中関係のようになる。

 

女の一生

 

自然主義小説の傑作、モーパッサンの書いた同名の本がある。

貴族の娘ジャンヌと結婚相手の子爵ジュリアンとの話である。
ロマンスに憧れていたジャンヌが辿る不幸な人生が描かれている。

恋愛、結婚、出産、夫の不倫、夫の死、父親の死、凋落、放蕩息子、女中との再会、
勿論、誰でもが知っている著名な本なので説明は不要だと思います。

ふと、頭の中に「女の一生」って何なんだろうかと思い浮かんだのです。

ヘレナ・ルビンシュタインも「女の顔は三十までは神様が授けてくれた顔。
四十過ぎたら自分で稼いだ顔。」といっているが、そういわれてみれば、その通りで、
女性の顔は、三十までは若さでもつ。

四十すぎたなら本人の心がけということになる。

そして、その心がけとは、女の人の気働きとか気配りであり、
その積み重ねと内面の美しさがミックスされて滲み出たとき、
それはすばらしい女性の魅力となる。
(伊藤肇さんが帝王学ノートの中で語った言葉です。)

女性は恋をする度に顔が優しく変ります。

そして嫉妬や裏切りや憎しみを経験して、顔に凛とした深みが出て来ます。
その深みに輝きを齎すのが、自分の経験と美しさを保持する為の「心」が現れた時です。

化粧によって感情を違う「心」にすることも、円熟した女性の奥儀ではないでしょうか。

又、ホームドラマや映画の中でこの様な場面を度々目にします。

「お母さんは何もしないで良い」「炊事・洗濯・掃除など家事全般をするだけで良い」
「お母さんがお化粧をして出かけるのは嫌だ」「変なお洒落して出かけないで欲しい」
「旅行や展覧会などに出かけて家を開けないで欲しい」。

夫や子供は、自立した母親より便利な母親を望むから、
このような言葉が出てくるのである。

母親は、家の中の暖炉のような存在で、十分に温めて欲しいのだが、
動き回っては困るのである。

女性が母親になると娘時代に好きだった、お洒落も外出も旅行もスポーツも、
全部アルバムの向こうに封印しなければならないのである。

一人の女性としての恋愛経験も鋼鉄製の鍵を掛けなければならない。

ホームドラマの最後は「お母さんも一人の女なのよ」と泣き叫ぶシーンで終わる事が多い。

アイオワ州の片田舎で出会ったカメラマンと農家の主婦の4日間の恋を描いた
「マジソン郡の橋」と言う映画が16年前に上映された。

母親の葬儀に帰って来た息子と娘が、遺品整理の中から隠れた恋を発見する。
母親の不倫に当惑するのだが、一人の女性としての「純愛」に感動をしながら物語が進んで行く。

たった4日間で永遠の愛を見つけたフランチェスカ、その彼女を死ぬまで愛し続けたキンケイド、
事実を知った子供達は母の遺灰を、母親が愛したキンケイドと同じマジソン郡の橋の上から撒いたのである。

母として家族と一生過ごす人。妻として夫に先立たれた人。
夫婦が離婚して一人になった人。それぞれの立場とそれぞれの女の物語が存在します。

どのような状況で有っても「真実の愛」を記憶に残せる女性は幸福です。

女性という立場を武器にして頑張っている人も多く知っています。
目の前にある輝きにしか興味を持っていません。

数年すれば年を取ることを忘れてしまっているかのようです。

「儚い愛」を追い求める女性は不幸です。
「女性は死ぬまで恋をした方が良い」なんて、瀬戸内寂聴さんでは無いので、言う事は出来ません。

しかし、良き男友達を持つ事は薦めます。

同性との会話も良いのですが、
異性との会話の方が、女としては気づかない事を、言ってもらえる時があるからです。

そしてささやかでも女を意識する時間が持てるからです。

女の一番悲しい姿は「忘れられた女」なのです。