切掛け

 

物事を始める時に何か切掛けが無いと弾みがつかない。

いわゆる背中を押してくれるものが無いと進めないのである。
頭の中では行動を興したいのに身体が動かない。

周りからは怠惰な人間だと思われてしまうのだが、どうしてもいま一歩が踏み出せない時がある。

キッカケという言葉を辞書でひいたら、カタカナ表記の場合は、
歌舞伎で次の舞台進行に際しての合図となる動作やせりふのことをいうと書かれていた。

これを漢字表記で切掛けと書くと、気勢、意地、物事を始めるはずみとなる機会や手がかりと書かれている。
進行に際しての合図、物事を始めるはずみ、行動を起こす時の機会や手がかりとは、
瞬間に起こる発動、いわゆる精神的意志の決定である。

何事にも切掛けがあってそこから新しい物事が始まり変化が起こるのである。

歴史が動く時の切掛けは、国政の決断の切掛けは、経営の重要な採択の切掛けは、
そして個々の人生を選択する時の切掛けはと考えなければならない。
その上に切掛けの決断とは時間を掛けずに、一瞬にして行われなければならないということである。

切掛けが起こる主な要因は、宗教観から来る場合、哲学観から来る場合、国富論から来る場合、
幸福論からくる場合、経済的損得から来る場合とそれぞれである。

幕末の草莽崛起の切掛けは「尊王攘夷」である。
この尊王攘夷の言葉で徳川幕府が終焉を迎え、そして江戸城明け渡しに伴い
「大政奉還」という歴史的事実も作られたのである。

太平洋戦争の切掛けは真珠湾攻撃である。
海軍大将山本五十六の「対米戦においては開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべき
奇襲こそ勝利の道」と決断したからである。

第二次世界大戦終戦の切掛けは広島と長崎に投下された原爆によるものである。
1945年8月15日正午天皇陛下の玉音放送によって全面降伏が国民に伝えられたのである。

いずれにしても平穏無事な場合は、個人も国家も変化の切掛けを作る必要はないと考えるのが妥当である。

しかし求めざるとも時代は変わるものである。その流れと共に政治や経済も変動するのである。
人々は平和と安心の言葉を切掛けにして、あらゆる煩悩の欲を表面化して動き始めるのである。

それでは平和と安心はどのようなものでるかを考えなければならない。
ピーター・ノスコ著「江戸社会と国学」の中に、
「まず第一に、それはおのずから調和の保たれた社会である。そこに住む人間同士の調和だけでなく、
自然界における人間と他の動物との間の調和をも意味する。

第二に、そこには裏切りや不誠実な行為はそれが実行不可能であるかのように、全く存在しない。
そして社会生活は全世界を裨益する規範に自ずから従っている。
また、人々のあるゆる身体的な欲求は満たされている。

すなわち飢えも渇きもなく、あらゆることが足りている。また自然も人間の営為と同様に、
人間の最も根本的欲求を生み出すような環境を自ら生み出しているのである。

もちろん死は人間をある日突然襲う未知のものである。
しかしここでは人々の寿命は一般的に長く、死がもたらす苦痛は存在しない。
時は流れ、昨日も明日もなく、永遠に変化のない今が続くだけである。
したがって、このような理想的な状態においては変化は起こり得ないのである。」

本来の平和が確立されていれば変化を望む者はいないのである。
江戸時代の国学者の考えが現代でも通用するのではないだろうか。

これを切掛けに今一度正しい調和を考えるのも良いのではないだろうか。