眼横鼻直
あたり前の事実を、ありのままに見て、
しかも、そのままである事実を頷き取る。
悟りに近いこの心境を道元禅師でさえ四年の歳月がかかったのである。
易しくて、難しい事実です。私達は果たしてすべてを、
あるがまま、見るがまま、聞くがままに受け取っているのでしょうか。
一休禅師(1394~1481)に面白い話があります。
ある日、一休さんは一本の曲がりくねった松の鉢植を、人の見える家の前に置いた。
「この松をまっすぐ見えた人には褒美をあげます」と、小さな立て札を鉢植に懸けたのである。
いつの間にか、その鉢植の前に人がきができた。
誰もが曲った松と立札を見て、まっすぐ見えないかと思案した。
だが誰一人として、松の木をまっすぐ見ることはできなかった。
暮れがた、一人の旅人が通りかかった。その鉢植を見て、
「この松は本当によく曲りくねっている」と、さらりと一言。
それを聞いた一休さん、家から飛び出てきて、その旅人に褒美をあげたという。
その旅人だけが松の木をありのままに見たのである。
他の人は一休さんの言葉に惑わされてしまった。
褒美に目が眩み、無理に松の木をまっすぐ見ようとしたのである。
(『大法輪』昭和六十三年二月号、藤原東演「臨済禅僧の名話」参照)
さあ、どうでしょうか。私達は「眼横鼻直」のように、あるがままに受け入れているのでしょうか。
他人の意見、自分の主義主張にとらわれて、本当の姿を見失っているのではないでしょうか。
眼は横に、鼻は直に、じっくり味わいたい句です。
子供の時にはあるがままの姿を見る事が出来たのに、
何故大人になるとあるがままの姿を見る事が出来なくなってしまうのでしょうか。
それは大人になると「邪」(よこしま」な心が生まれるからです。
その邪な心が見る物を自分の都合のよい物や形にしてしまうからです。
邪な心とは打算的です。見栄です。駆け引きです。傲慢です。
本来持っている素直な気持ちを押し殺して、その場の状況に応じて変化させるのです。
変化は浅薄な知識と強欲な心によって強調されます。
咄嗟の質問に対して見栄を張り、裏読みしすぎて答えに窮するのです。
もっと素直にあるがままの姿を、見たままに応えれば良いのですが曲解してしまいます。
それを成熟した大人と言って良いのでしょうか疑問です。
日本人は小さな村社会で全ての問題を合議制で決定して来たからでしょうか。
自分の意見よりも他人の意見を尊重する傾向にあります。
年配者や目上の者には暗黙のうちに了解する慣習があります。
丸く収める為には他人と違った意見は言わない事なのです。
村の長から「黒い」物を「白い」と言われても「黒い」と言ってはならないのです。
「眼横鼻直」はアンデルセンの童話「裸の王様」と同じです。
目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。
王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。
家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。
王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。
見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、
その中の小さな子供の一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだ。
正しく一休禅師の「松の鉢植え」と同じですね。
知識や経験が人間を成長させるとしても、その間に得た情報から打算が生れて来るからです。
善悪よりも損得が働くから、目で見て耳で聞いた事よりも、頭の中の計算が働いてしまうのです。
少しでも利益になるのなら曲解もありの話なのです。
「善」とは何か、「正義」とは何か。ハーバード大学マイケルサンデル教授では無いのですが、
資本主義の数の論理から、又自由主義の多数決から全てを判断しては成らないと思います。
政治的・経済的圧力を行使する人達から、真実の言葉を摘み取られない様にしなければなりません。
弱くて正直な大人達を邪魔者扱いにするような世の中はあっては成らないのです。