朝の目覚め、午前の学び、午後の労働、浅夜の団欒。
出会いのときめき、結婚の喜び、出産の感動、老後の楽しみ。
平穏な暮らし、波乱の人生、絶望と挑戦、自己の悟り。
一瞬目の前を通り過ぎる風のように幸せの神様が走り過ぎます。
若い時には無我夢中で幸せの神様を抱きかかえようとしました。
逃がしてなるものかと必死にすがったものです。
それでも幸せの神様は、スルリと体をかわして通り過ぎてしまうのです。
幸せの神様を手に入れないと、幸せにならないと思っていたからです。
これを何度も何度も繰り返しているうちに、気付いた事が有ったのです。
それは常に自分が幸せの神様を迎える準備をしていた事です。
実際には手に入らなくても準備している時が幸せだったのです。
調度お祭りや運動会の準備のように、
当日より準備の時間がとても楽しかった事と同じです。
当日の終わった思い出も大変貴重なのですが、
準備をしていた時の興奮も忘れられません。
あの時の興奮こそが幸せだったのかも知れません。
そして少し年を取ってくると、
若い時ほど幸せを無我夢中で追いかける事は無くなります。
幸せの神様が目の前に現れたら握手をすれば良いのだと思うのです。
奇跡のような幸せを望まなくなり、
安定した生活と社会的な責任を果たせれば良いと思うのです。
そして老年期になると、
もう幸せの神様に出会うだけでも良いやと思うようになるのです。
自分にとつての幸せよりも周りの幸せを考えるようになるからです。
家族が、社会が、この国が未来永劫に仕合わせであれば良いなと思うのです。
だから悲しい事件に老人はとても心を痛めます。
老人には「幸せと辛い」の文字がはっきり分かるからです。
たった一本の線で幸せにもなるし辛いにもなる事を知っているのです。
多くの犯罪を起こす人達は、この一本の線が見えないから、
不幸な道を歩き続けるのです。
一つでは満足できない心が罪を作る事になるのです。
人間はこの一本の線を求めて苦労します。
一本の線は何か分かりますか。
これは「正しい」という字の「正」の頭の一なのです。
正しく生きる事は、まさしく「一」で「止」めると、書くのです。
多くの物を望むのでは無くて一つの事をやり続ける事が正しくて、
幸せに繋がるのです。
周りの物に目移りや気移りをせずに、
生きる事がいかに大切かを考える時間も幸せなのです。
日本にはとても素晴らしい四季の季節があります。
春の目覚め、夏の勢い、秋の収穫、冬の休息。均等に季節がめぐり来る四合わせです。
10月 7th,2012
恩学 |
幸せ(四合わせ) はコメントを受け付けていません
今でも幼稚園ではこのお遊戯歌を歌っているのでしょうか。
「むすんで・ひらいて・てをうって・むすんで」
そしてこの意味を知っている人は何人いるのでしょうか。
世界の中でも東洋人、
特に日本人は子供を神様からの授かりものとしてとても大切にして来たのです。
英国の言語学者のチェンバレンは日本に来た時に
「この国では、金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。
実に、貧乏人は存在するが、貧困なる者は存在しない。
本物の平等精神が(われわれはみな同じ人間だと心底から信ずる心が)、
社会の隅々まで浸透しているのである。
そして日本は「赤ん坊の天国である」と言われて来た。
実際、赤ん坊は普通とても善良なので、
日本を天国にするために、大人を助けているほどである。
彼等は揺り籠の時代から行儀が良い。
特に少年達は内気なところがなく、全くのびのびとしている。
子供達が大切に扱われているのが良く分かる。」と
言わしめるほどの印象を与えていたのである。
通りを走り回る姿、路地で遊んでいる姿、
神社やお寺の庭で遊戯をしている様を見てそう感じたのである。
小さな女の子が背中に赤ん坊をくくり付けて遊んでいる姿や、
年下の子供がころべば少し年上の子供が助けてやり、
怪我をすれば周りでみている年寄りが介抱して、
大きな声をあげて遊ぶ姿は、まるで子供の天国ようだと表現をしています。
余談であるが西洋では子供は悪い者であるという考えから始まるので、
正しい道に導く為に神の信仰に取り入れるのである。
性善説と性悪説の違いなのでしょうね。
日本の神様は西洋の一信教の神様と違って、
空にも地上にも海にも山にもいる八百万の神々の事である。
自然信仰が基本なのである。
神々と人間を結ぶ神が高御産巣日(たかみむすび)の神である。
混沌の中に結ぶのです。
結んできつくなると解(ほど)くのです。
中国から渡って来た仏教も
日本で少し形を変えて煩悩を解放する為に広まったのです。
仏(ほとけ)という文字はほどけるから来た言葉です。
ほどけるから開くのです。
神様が結んで、仏様が開いて、その後の手を打って終わるのです。
その昔日本では、神様に柏手を打つ以外にも、
挨拶の時にも互いに柏手を打っていたそうです。
たまに関西などに行くと、年配の女性が道端で挨拶と共に、
柏手を打っている人を見かけます。その名残でしょうか。(笑い)
神様も仏様も人間様もみんなで一緒に楽しくやって行きましょう。
そして最後には空に住んでいる神様や仏様に感謝を込めて、
ご挨拶しましょうというのが、この「むすんでひらいて」なのです。
10月 7th,2012
恩学 |
むすんでひらいて はコメントを受け付けていません
村はずれの小高い丘に小さなお地蔵さんが置いてありました。
誰が何のためにそのお地蔵さんを置いたのか知る人はいません。
村のお爺さんお婆さんに聞いてもハッキリした事はわかりません。
昔からその場所に座って村を守っていてくれたそうです。
春には頭の上から桜の花が散り、
夏には月見の団子が置かれ、
秋には紅葉した葉っぱが肩に掛り、
冬には寒かろうと赤いチャンチャン子が着せられていました。
一年中村人と一緒に過ごして来たのです。
村で一番小さな女の子ミーちゃんも、小さい頃からお母さんに連れられて、
お地蔵さんの前を通る度に手を合していました。
お母さんから困った時には、
お地蔵さんが助けに来てくれるからしっかり拝むのだよと言われていたのです。
月日が過ぎてそんな小さな村にも大きな事件が起こりました。
村の川を堰き止めてダムを作る話が起きたのです。
下流の街の為に電気を作らなければならないから、
国からダムを作るんだと言われたのだそうです。
河を堰き止めたらミーちゃんの村はダムの底に沈んでしまうのです。
大人達はみんなで反対したのですが聞いてはくれませんでした。
大人達はみんな引越しの準備で大忙しです。
学校も役場も公民館も全部引越しです。
田んぼも畑も小川もみんなダムの底に沈んでしまうのです。
ミーちゃんもお父さんの運転する車に乗せられて、
隣町に引っ越しをして行きました。
そんなある日、大雨が降りだしミーちゃんのお母さんが、
ミーちゃんの長靴を出そうと探したのですがどこにも見当たりません。
おかしいな、買ったばかりの赤い長靴が見つからないのです。
雨はなかなかやみませんでした。
しばらくは、ミーちゃんはお外で遊ぶ事が出来ませんでした。
赤い長靴と一緒に買ったお揃いの赤い傘もとても寂しそうでした。
その頃、街からやって来たダム工事の人たちが大型の機械で村を壊し始めました。
そして村はずれの小高い丘に来た時に、
ふとお地蔵さんの前に、真新しい赤い長靴が置かれているのを見つけたのです。
工事の人達は赤い長靴をみて、
みんなでお地蔵さんをダムに沈まない高台まで運んだそうです。
そして、そっとお地蔵さんの小さな頭に手をやり、
この村の思い出までは壊さないようにするからねと約束をしたそうです。
ミーちゃんのやさしさがお地蔵さんを救ったのです。
2011年3月12日長野県大地震。長野県飯山市西大滝地区の県道沿いにある、
六地蔵のうち固定されていた一体を除く、五体のお地蔵さまが地震後に一斉に向きを変えた。
震源地の栄村方面の東向きに向きを変えてじっと睨みつけていたのです。
被害の無かった飯山市の村人はお地蔵さまに守って頂いたと大喜びをしたそうです。
10月 6th,2012
恩学 |
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薄暗い闇をほのかに照らすローソクの炎
観る者の心を映し出すかのように揺れ動くローソクの炎
賛美歌にあわせ歌うように舞うように踊るローソクの炎
天使の小さな息遣いが恥じらうように線を描くローソクの炎
自我を主張せずに何物にも姿形を合わせる安らかなるローソクの炎
「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、
天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
マタイ福音書5章
厳粛なる教会の中で揺れ動くローソクの炎は、観る人によって明るくも・暖くも、
寂しくも感じられる。それは、それぞれの心の波が炎に伝わり、
自分自身の意識が形になって表れるからです。
優しさに包まれたメロディーが心の糸を解くように、
またローソクの炎も苦悩の姿を導き出してくれるのです。
「大聖堂の窓から漏れる、淡いステンドグラスの光に包まれ、
天使は地上から天空へと優しく飛び立って行く。
それぞれの祈りに導かれるよう、それぞれの魂が癒される楽園へ、
天使は微笑みながら小さな手を差し伸べて戯れる。」
海外に行くとふと足を止めて教会に入る事があります。
私は教会の信者でも無いのですが、
歴史ある大聖堂の中で聞く讃美歌にとても心を惹かれます。
木製の長椅子に座りこみ、身動きもせずに瞑想にふけると、
祈りの声がすべてを包み込んで体(Body)と魂(Soul)を癒してくれます。
悩み多き人々は、教会の中で懺悔を繰り返し、
罪深き心の穴を埋めて来たのだと,勝手に想像してしまいます。
自分の抱えている問題が、
今ここで解決するのなら祈り続けたいと思う事もあります。
しかし神は人の欲の為の悩みには手を貸してくれません。
人としてあるべき姿を守る為にのみ、慈愛に満ちた答えを出してくれるのです。
大聖堂の中で揺れるローソクの炎を見詰めていると不思議な気持になります。
同じ時間に、同じローソクの炎を、同じ状況で見詰めていても、
それぞれの受ける印象が違うのだと考えてしまいます。
激しく怒りのある人には熱き炎に見え、
優しき人には仄かな温もりの炎に見え、
永遠の誓いを立てる人には、厳粛に満ちたおごそかな炎に見えるのでしょう。
同じローソクの炎でも、見る人によって、
まったく異なる姿形になる事が奇跡のようです。
人は小さなローソクの炎となって、
謙虚に生きて行く事が出来たらどれほど素晴らしいかなと考えてしまいます。
相手に合わせて揺れ動く、
静かなるローソクの炎を見詰めながら、悠久の時を超えて静寂に浸ります。
10月 6th,2012
恩学 |
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ロスアンジェルスに住んでいる友人の話です。
離婚したイギリス人の奥さんから、
経済的な事情で子供を手放すという連絡が入りました。
親権争いで奪い取った子供を施設に預けると言う事です。
友人は急遽、離婚した妻と子供が住む英国に行かなければなりません。
しかしその頃の友人は、新しい奥さんとの約束で、
お金の管理を全て弁護士に任せていました。
その為に自由に使えるお金が無くチケットを買う事も出来ません。
急いで自分の友達や身内から借りたのですが英国までの旅費にもなりませんでした。
仕方なく友人は街頭で絵を描いて売る事にしました。
彼は画家です。
大きなエージェントとの契約があり、
自分の契約した絵を勝手に売る事は出来ないのです。
友人は名前を伏せて街頭で数枚の絵を描いて売りました。
そうしてどうにか、旅費と手続き費用の用意が出来たので
英国に向かう事にしました。
無事に英国に着いたのですが、
もう子供は既に養護施設に預けられていたのです。
弁護士と相談をして元妻の親権放棄の手続きをしなければなりません。
少ない時間の中で全てを終了させなければならなかったのです。
所持金もほとんどありません。
航空券は格安チケットなので指定された日には帰国しなければなりません。
毎日が時間との戦いだったそうです。
ようやく無事に子供を取り戻す事が出来て米国大使館に行き、
この子が自分の子供だという証明を取らなければなりません。
それから大使館との手続きが済んで、パスポートを手にして飛行場に向かったのです。
しかし最終便の米国ロスアンジェルス行きは満席で席がありません。
この便で帰国しなければチケットが無駄になってしまうのです。
彼は搭乗手続き中の乗客に「どなたか席を譲っていただけませんか」と
大きな声で何度も御願いしました。
航空会社のスタッフも事情を理解して、
一緒に声を掛けてくれたのですが、誰も譲ってくれる人は現れません。
彼は最後の望みを託して「アメリカにはヒーローが居ると聞いています」
「誰か助けてくれませんか」と叫んだのです。
その時、一人の少年が「僕のチケットを譲ってあげるよ」と差し出してくれたそうです。
「僕は明日帰っても大丈夫だから」構わないよ。
そのやり取りを見ていた周囲の大人達も、それに感動して
「私達夫婦のチケットを譲ってあげるよ」「私も急ぎじゃないから良いですよ」と
次々に申し出てくれたのです。
その中の親切な老夫婦のチケットを譲り受けて、
私の友人は子供を抱きかかえ、泣きながら搭乗口へと向ったそうです。
友人は愛する子供を取り戻す事に必死でした。
そして最悪の状況の中で、最後まで諦めずに、最善を尽くしたのです。
そして奇跡を手に入れたのです。
その後友人から直接この話を聞く機会があり、
彼から素晴らしい言葉を聞く事が出来ました。
それは今回の件で「お金の貧しさより心の貧しさが一番貧乏だ」と言う事を学んだ。
アメリカではお金が一番大切です。
外国から来た我々を守ってくれるのはお金しかないのです。
それでも「心が貧しくならないように」生きて行く自信を持ちました。
そう語る友人の目にも、私の目にも、大粒の涙があふれていました。
改めて人として大切な「思いやり」を感じる事が出来たからです。
本当の豊かさは「心が貧しくない人」にしか与えられないものです。
10月 5th,2012
恩学 |
本当の貧しさ はコメントを受け付けていません
人に出会ったら大きな声で挨拶をしよう。
「おはよう」「ありがとう」「さようなら」
それでお互いが一日幸福になれるのです。
相手から返事が無くても、
「おはよう」「ありがとう」「さようなら」を繰り返して言いましよう。
陽明学者・思想家である、安岡正篤先生の挨拶という教えの言葉があります。
「「挨」という字も「拶」という字も、なかなか難しい字です。
この挨とか拶とかの意味は、物がぶつかる、すれあうという文字で、
物事がピッタリする事を「挨拶」といいます。
相手の思っていることに、ぴたりと的中するような言葉が出なければならない。」
(イースト・プレス)
「おはよう」「ありがとう」「さようなら」の発するタイミングが大切です。
相手との眼があった瞬間に挨拶をすることが基本です。
「ありがとう」の一言と席を譲る動作が繋がれば親切の挨拶になるのです。
「どうぞ」の一言とお料理がでれば一期一会の挨拶になるのです。
「さよなら」の一言と流す涙が伴えば別れの挨拶になるのです。
人として、傘が無い人をみれば、自分の傘をあげましょう。
濡れて困っている姿を見て通り過ぎてはいけません。
感謝を求めてはなりません。
自分にある余裕を少しだけでも人の為に使いましょう。
人として、重い荷物を辛そうに運んでいる人がいれば、持ってあげましょう。
ひとつ役に立つ事をすれば、ひとつ心が豊かになれるのです。
自分が身心ともに健康で有る事が実証できるのです。
相手の感謝じゃなくて、自分の感謝なのです。
人として、道に迷っている人がいれば、一緒にさがしてあげましよう。
地図を検索して役に立てましょう。
迷わないように手助けをしましょう。
そして手を引いて目的地の側まで案内してあげましょう。
自分の迷いもひとつ解決する事にも成るのです。
人として、友達の相談にはなるべく乗るようにしましょう。
その話が少し危険でも友達を信じて上げましょう。
助言をして逃げ出すような事は、相談に乗っているとは言わないのです。
親身になるということはリスクを受ける事です。
打算的にはならないように気をつけましょう。
出来る以上の行為をする事が友達への礼儀です。
人として、価値観の違う人との話し合いは、
口論になっても無理に押し通すような事は、やめましょう。
そのような考えもあるのだなと思えば、
相手もこちらの価値観を認める事になるのです。
押して引くからバランスが取れるのです。
一歩引き下がる事を覚えれば、笑顔が自然にこぼれるのです。
「人として」挨拶が正しく使えるようになりましょう。
「人として」他人に気遣う心を持ちましょう。
10月 4th,2012
恩学 |
人として はコメントを受け付けていません
三歳の孫がI-PADで遊んでいるという。
年配の方にはI-PADとはどういう物かを説明をしなくてはならないのかと思います。
アップルコンピューター社から発売されている携帯型のコンピューターです。
様々なアプリケーション(辞書・書籍・天気予報・地図・ゲーム等)を見る為のデバイス(装置)です。
それを大きな画面で楽しむのがI-PADです。
以前、テレビの番組で幼稚園児と年配の方々がそれぞれ別の部屋に入り、
机の上にあるI-PAD(その頃は見慣れない商品でした)をどうするかの実験がありました。
幼稚園児は暫くすると画面を開きゲームをやり始めました。
年配者の方々はいくらたっても画面を開く事も出来ませんでした。
番組司会者も会場に居るモニターも大笑いをしていたのですが、
これは決して笑いごとでは有りません。
我々団塊の世代はギリギリのところで、コンピューターを使い、
この情報通信化時代を生きる事が出来ます。
しかし、それ以上の年配の方々には、
頭も体もコンピューターに反応が出来ないのが現実です。
タッチパネル音痴なのです。
私も恥ずかしいのですが、どうしてもまだタッチパネルが好きになれない一人です。
銀行の引き下ろしのタッチパネル、病院の支払いのタッチパネル、
飛行機や新幹線のチケットのタッチパネル、様々なタッチパネルの前で動揺してしまいます。
誰も居ない機械の前で、大切な物を指先一本で購入する事が、不安で仕方ないのです。
すこし考えてもたもたすると場面が変わる事が有ります。
そして間違えれば、無機質な女性の声で「もう一度はじめから」と言うのも気に入りません。
人との応対のテンポが機械に握られているのです。
人が機械に合わせて、動かなければならないことに苛立ちを感じてしまうのです。
このようなタッチパネルの時代が進むと(必ず進むのです)、
全てが立体的(形)ではなくなり平面的(数値)になるという事です。
大切な人間関係も平面的になると、
画面に記載されているデーターだけで判断する事になります。
相手の表情や声や人柄が不要になってしまうのです。
人の心も自然も立体的です。
触ったり、嗅いだり、手に取ったりして、自分との相性を調べる事が出来るのです。
好きか嫌いかの感情もその中から生れて来るのです。
世界的に有名な彫刻家ロダンが、裸体像の彫刻を彫る時に一番大切な事は
「人体のいろいろな部分を大なり小なりの平たい表面だと思う事にしないで、
内面の容積の出っ張りだとしてそれを現したのです。
胴や手足の隆起ごとに、
深く皮膚の下に蔓っている筋肉や骨の圧出を感じさせるように努力したのです。
それだから私の人体彫刻の真実は皮相ではなくて、
中から外に咲き開いて来るのです。」と言っています。
「ロダンの言葉抄」(岩波文庫)より。
内面を見る力が想像力です。
その想像力があるから芸術や文化を楽しむ事が出来るのです。
冷たいタッチパネルには一方的な情報しか入っていません。
人が問い掛けして答える内容は入っていないのです。
全ての老若男女が、YESかNOかGOかSTOPで応えなければならないのです。
個別の対応がなされない世界です。
便利さを求めて進化があるのですが、
果たして人間の感情を無視した便利さは必要なのでしょうか。
小さな子供の指先から立体が消える事には耐えられません。
10月 4th,2012
恩学 |
タッチパネル はコメントを受け付けていません
この様な投稿文に目が止まりました。
日常生活では、電車で席を譲ります。
困ってる人には声をかけます。
素敵なお嬢さん、と思われたいから。
学校では、人が嫌がる役割を引き受けます。
皆にありがとうと感謝されたいから。
偉いと思われたいから。
彼氏さんの前では、彼にこうしてもらいたい…という思いを抱くと、
彼がそうするように仕向けるため、様々な言動をします。
キスなんてまさにその良い例です。
明らかに私は彼にキスさせようとしています。
自分からは出来ないから。
高校2年の女子学生の投稿文です。
私は偽善者ですかということです。
本文はもう少し長い文章なのですが、
疑問の部分を読みやすくまとめています。
高校生にしては(失礼)、とてもしっかりとした文章能力をもっています。
人に好かれたい為にする行為が、計算無くしてすることは、
不可能ではないのでしょうか。
あいての求めている事に気が付き、それを行動で応える。
当然、感謝の言葉が返って来ます。
素敵なお嬢さんと思われたいから、席を譲り、声を掛ける。
そこで生まれる「ありがとう」の一言は、
周りの人達にも幸福を与えるのです。
眠ったふりをする人や、無視をする人よりも、
数百倍素晴しいと思います。
小さな子供は、ほめられる言葉を計算して、お手伝いをするのです。
その行為は偽善でも何でもありません。
人から信頼を得たい為にする行為も、計算無くしてすることは、
不可能ではないでしょうか。
みんなが嫌がる役割を喜んで引き受ける。
本当はしたくないのだが、好感を得る為には仕方がない。
しかし、それでも、その嫌な役割は終える事が出来るのです。
例えば、道端に大きな石が有るとして、それを邪魔にならないように動かすとします。
自分がやらなくても、誰かが気づけば動かしてくれるだろうという考えだと、
その間に老人や子供や身障者にとっては、とても迷惑な石だと思います。
それを、偉いと思われたいからという考えで動かしたとしても、実際に石は道の邪魔にはならなくなるのです。
異性に対してする行為も計算の中から生れて来ます。
計算なしで付き合いは出来ないものです。
転んだふりをして手を握る。
ゴミが入ったふりをして顔を近づける。
好みが同じと思われたいから、あいての好きな歌をさりげなく覚える。
偶然出会ったふりをして通学路で待ち伏せをする。
抱きしめられたいから夜の公園に行く。
すべて、計算して行うから恋は楽しいのです。
陽明学に「知行合一」という言葉があります。
知識と行動が一致しなければならないという意味です。
勿論、この言葉は学者や政治家に伝えた言葉です。
日本においても幕末から明治の若者達に受け入れられた考え方でした。
素敵なお嬢さんとか、偉いと思われたいからとか、
自分から出来ないからとかに使う言葉では無いのですが、
好かれる為の計算された知識を使って、行動が伴えばおなじです。
自分の悩みの正当性を、行動する前に考えるか。
行動した後に考えるか。
行動しながら考えるか。
それに気づく事が大切です。
私は常に行動しながら考えるタイプです。
勿論、常に強かな計算をしています。
偽善者という言葉は、善を偽って人を陥れたり、
組織を苦境に立たせるような行為をする人の事です。
現在ではフレネミーがそれに該当するのではないでしょうか。
相手には親密な友人を装い、他人には敵にまわり悪口を言う。
この様なタイプは平気で善人を装う事が出来るのです。
しかし結果は悲惨です。
誰からにも嫌われて、信頼を失くして、孤独になるのです。
投稿者の女子学生さんは、計算高い女ではないし、偽善者でも無いですよ。
可愛い思春期のお嬢さんです。
10月 3rd,2012
恩学 |
計算高い女 はコメントを受け付けていません
さすが名人ですね。
さすが名物ですね。
さすが本物は違いますね。
「流石」は、自分が予想した以上に評価が高く納得した時に使う言葉です。
しかし、何故「流石」が流れて行く石なのでしょうか。
考えた事がありますか。中国の昔話から語源が来ています。
その昔、中国に孫楚(そんそ)という人がいました。
孫楚は、世の中を嫌って山にこもりたいと思い、友達の王済(おうさい)に次のように言いました。
「私は、これから石を枕に寝て、川の流れで口をすすぐような生活をしたい」と言いたかったのですが、
間違えて「石で口をすすぎ、川の流れを枕にして寝たい」と言ってしまいました。
これを聞いた王済が「なにを間違っている。石で口をすすいだり、
川の流れを枕にするようなことが出来るのかい?」と言い返しました。
負けず嫌いの孫楚は、屁理屈をこねました。
「流れに枕するのは、耳を洗うためであって、石ですすぐのは、歯を磨くためなのだ」と言ってこじつけた。
これを聞いた王済は「とんでもない屁理屈を言う奴だが、なかなかうまいことを言うな。」と大変感心しました。
ここから、感心するときの「さすが」という言葉を「流石」と書くようになったそうです。
夏目漱石の名前の由来が、この話から来ている事を知っている人は少ないと思います。
漱(すす)ぐ石で漱石です。
又、流石を英語で書くとローリングストーンと表記します。
あのミックジャガー率いる有名な英国のロックバンドも同じ名前ですね。
今ではメンバーの平均年齢が60代後半の、世界最高齢のロックバンドです。流石ですね。
私の好きな言葉に「流れる石は激流を選べず」という言葉があります。
人は運命に逆らわず、決められた人生を、流れに任せて生きろという意味です。
若い時には、この意味が理解できず、流れに逆らってばかりして、多くの苦労をしました。
あちらこちらの石に、ぶっかることが、エネルギーの源だと勘違いをしていたのです。
子供の頃に親しい住職から「人生僅か70年」と言われ、
僅か、70年しか生きていくことが出来ないのだと思い、
少し慌てたのかも知れません。
年を取り沢山の失敗を重ねてから、この意味を理解する事が出来るようになりました。
最近では流れに逆らわず、生きる事が出来るようになり、
石(性格)の角も取れて丸くなったと言われます。
流石に先人は上手く言葉と文字を考えたものです。
10月 2nd,2012
恩学 |
流石 はコメントを受け付けていません
宮大工が古い伽藍の屋根裏に入った時に発見する物が有ります。
それは先人の宮大工が残したメモです。
屋根の支柱にお守りの札と共に括り付けられているか、その近くに置かれているそうです。
屋根裏に入ってくる、同じ宮大工の為に、工法詳細をメモとして残しておくのです。
「俺達はこのようなやり方で建てました」。
多くの人の目に留まる物ではないのですが、職人の落書きは後世の職人達に大いに役に立つのでしょう。
勿論、古い伽藍の中には古代洞窟で発見されるような絵も見つかると言う事です。
動物の絵や男女の交わりの絵や、生活の様式が黒ずみで書かれているのだというのです。
すごい事ですよね。何千年も前の職人の考えていた事が、落書きとして残っている訳ですから。
私の文章も、職人の落書きと同じです。ふと目にとまった時に、これは助かったなとか、笑えるなとか、
成る程と思ってもらえればうれしいですね。
徒然なるままに書き連ねた文章ですから、
解釈が間違ってたり、勝手な思い込みや、誤字や誤文で迷惑を掛けるかも知れません。
それでも一文字一文字書き連ねて行く事によって、人生の大きな岩を砕く事は出来るのかと思っている次第です。
そんな事を考えている時に、ふと禅海和尚「青の洞門」の話を思い浮かべました。
大分県にある耶馬渓を代表する絶景の一つ、中津市の競秀峰(きょうしゅうほう)。
まるで競っているかのような巨大な岩がそそり立っています。
一枚の大きな岩が断崖絶壁をなしていて、当時は人々は「鎖渡し」と呼ばれる難所を命がけで歩いていました。
足を踏み外して転落する人が後を絶たなかったといいます。
そこへたまたまやって来た禅海和尚。多くの人が命を落とす様を見てショックを受け、
何とか助けられないかと思い、トンネルを掘ることを決意しました。
機械や技術も無い時代、手で掘るしか方法はありません。
岩に向かって一人で掘り始めた時、町の人たちは最初誰も馬鹿にして手を貸そうとはしませんでした。
しかし、黙々と掘り続ける姿に心打たれた人々が手伝うようになり、徐々に作業は大掛かりなものになったのです。
そしてついに、30年の時をかけて、青の洞門は完成したのです。
「不撓不屈」の精神そのものです。
一旦志を決めたら、その目的に到達するまでは諦めずにやり続けるという事です。
他人から見れば無謀な事に思えても、掛る年月を意識するのではなく、
村民救済の強い一念があればこそ出来た偉業です。
恐れを知らぬ祈願の一念です。
禅海和尚と同じ曹洞宗の開祖、道元禅師がいうところの「愛語良く回天の力あり」と同じかと思います。
この場合は「愛語」ではなく、「愛行」でしょうか。
「無一物・無償の愛」同じ意識を持つ人が共有する状態です。
自分達の為に他人が無償で行う行為こそ感動を生みだすのです。
感動は作る物ではなく、生れ出る物なのです。
濡れた所に水は滲み込まず。乾いた所に水は滲み込むのです。
こつこつと、もくもくが、感動と共に奇跡を生みだしたのです。
9月 21st,2012
恩学 |
鑿の一撃 はコメントを受け付けていません