タッチパネル

 

三歳の孫がI-PADで遊んでいるという。

年配の方にはI-PADとはどういう物かを説明をしなくてはならないのかと思います。
アップルコンピューター社から発売されている携帯型のコンピューターです。

様々なアプリケーション(辞書・書籍・天気予報・地図・ゲーム等)を見る為のデバイス(装置)です。

それを大きな画面で楽しむのがI-PADです。

以前、テレビの番組で幼稚園児と年配の方々がそれぞれ別の部屋に入り、
机の上にあるI-PAD(その頃は見慣れない商品でした)をどうするかの実験がありました。

幼稚園児は暫くすると画面を開きゲームをやり始めました。

年配者の方々はいくらたっても画面を開く事も出来ませんでした。

番組司会者も会場に居るモニターも大笑いをしていたのですが、
これは決して笑いごとでは有りません。

我々団塊の世代はギリギリのところで、コンピューターを使い、
この情報通信化時代を生きる事が出来ます。

しかし、それ以上の年配の方々には、
頭も体もコンピューターに反応が出来ないのが現実です。

タッチパネル音痴なのです。

私も恥ずかしいのですが、どうしてもまだタッチパネルが好きになれない一人です。

銀行の引き下ろしのタッチパネル、病院の支払いのタッチパネル、
飛行機や新幹線のチケットのタッチパネル、様々なタッチパネルの前で動揺してしまいます。

誰も居ない機械の前で、大切な物を指先一本で購入する事が、不安で仕方ないのです。
すこし考えてもたもたすると場面が変わる事が有ります。

そして間違えれば、無機質な女性の声で「もう一度はじめから」と言うのも気に入りません。

人との応対のテンポが機械に握られているのです。
人が機械に合わせて、動かなければならないことに苛立ちを感じてしまうのです。

このようなタッチパネルの時代が進むと(必ず進むのです)、
全てが立体的(形)ではなくなり平面的(数値)になるという事です。

大切な人間関係も平面的になると、
画面に記載されているデーターだけで判断する事になります。

相手の表情や声や人柄が不要になってしまうのです。

人の心も自然も立体的です。
触ったり、嗅いだり、手に取ったりして、自分との相性を調べる事が出来るのです。

好きか嫌いかの感情もその中から生れて来るのです。

世界的に有名な彫刻家ロダンが、裸体像の彫刻を彫る時に一番大切な事は
「人体のいろいろな部分を大なり小なりの平たい表面だと思う事にしないで、
内面の容積の出っ張りだとしてそれを現したのです。

胴や手足の隆起ごとに、
深く皮膚の下に蔓っている筋肉や骨の圧出を感じさせるように努力したのです。

それだから私の人体彫刻の真実は皮相ではなくて、
中から外に咲き開いて来るのです。」と言っています。
「ロダンの言葉抄」(岩波文庫)より。

内面を見る力が想像力です。
その想像力があるから芸術や文化を楽しむ事が出来るのです。

冷たいタッチパネルには一方的な情報しか入っていません。
人が問い掛けして答える内容は入っていないのです。

全ての老若男女が、YESかNOかGOかSTOPで応えなければならないのです。

個別の対応がなされない世界です。
便利さを求めて進化があるのですが、
果たして人間の感情を無視した便利さは必要なのでしょうか。

小さな子供の指先から立体が消える事には耐えられません。