芸術家

 

本来芸術家は大自然を崇拝して何も無い空間に音や映像を描き出すのである。
その表現方法は色彩を通して旋律を通して形状を通して行うのが常である。

隠された景色の中に、隠された動作の中に、隠された物象の中に、見えないものを見て、
聞こえない音を聴いて、一般的法則で表現されている真意の裏側を読みとるのが芸術家である。

モーツワルトは父親にあてた手紙の中で
「自分は音楽家だから、思想や感情を、音を使ってしか表現できない」と伝えている。

モーツワルトは幼児期の頃より多動性症候群とてんかんの病で苦しんでいた。
彼は言葉や文字を使って意志の伝達をするよりは、ピアノを弾き音色を通じての方が
コミュニケーションを図り易かったのかもしれない。

ロダンはゴシック建築を見て「真の芸術家は創造の原始的原理に透徹しなければならぬ。

美しきものを会得する事によってのみ彼等は霊感を得る。
決して彼等の感受性の出し抜けな目覚めからではなく、のろくさい洞察と理解とにより
辛抱強い愛によって得るのである。心は敏捷であるに及ばぬ。
なぜといえばのろい進歩はあるゆる方面に念を押す事になるからである。」

また若き芸術家たちに「芸術は感情に外ならない。しかし量と、比例と、色彩との知識なく、
手の巧みなしには、きわめて鋭い感情も麻痺されます。

そして最も偉大な詩人でも言葉を知らない外国ではどうなるでしょう。

新時代の芸術家の中には、不幸にも、言語を学ぶ事を拒絶する多くの詩人があります。
やはり彼等も口ごもるより外にはありません。芸術家の資格はただ智慧と、注意と、誠実と、意志だけです。

芸術は内の真実があってこそ始まります。
すべての君たちの形、すべての君たちの色彩をして感情を訳出せしめよ」と言っている。

小林秀雄の文章の中にも「ニイチェはワグネルを、「微小なるものの巨匠」と呼んでいる。
彼に言わせればワグネルという人は、非常に苦しんだ音楽家だ、おし黙って悲惨に言葉を与え、
苛まれた魂の奥に音調を見出す自在な力を持っていた。

「隠された苦痛、慰めのない理解、打ち明けぬ告別のおどおどしたまなざし、
そんな音楽にもならぬものまで音楽にする才を持っていた。」

「実な微細な顕微鏡的なもの、言わばその両棲動物的天性の鱗屑」を表現した巨匠であると言っている。

又小林秀雄は、詩人に対して「人間を、事物を正確に観察し、それをそのまま写し出す。
対象の世界はいくらでも拡がります。観察している当人の主観と言えば、これ又心理学の発達により、
心理的世界と云う対象に変じます。

観察の赴くところ、すべてのものが外的事物と変ずる、
作者は圧し潰して中味を出そうにも、中味が見当たらなくなる。
極端に言えば、自己は観察力の中心となり、言葉は観察したものを伝達する記号となる。
こういう傾向が非常に強くなった文学が、ナチュラリズムの小説とかレアリズムの小説とかだと考えると、
そこで言葉というものの扱われ方が、詩人の場合とはまるで異なっている事に気付く筈です。

詩人は、ワグネルが音楽を音の行為、混然とした音の塊Tatと感じたように、
言葉を感覚的実体と感じ、その調整された運動が即ち詩というものだと感じている。」

芸術家にも様々な分野と形がある。

理屈なしの才能と才能があるから偏る才能がある。
真の芸術家は表現が卓越しているだけでは無く独特の個性があるから評価されるのである。

一般的法則で表現されている真意の裏側を読みとるのが芸術家である。

私は「私の幼児期の体験により脳内に眠る記憶がよみがえり、
その力を通じて他人とは違う創造物を創り出す事が出来た。
自らの苦悩を取り除くために、また依頼者の虚栄と満足を叶える為に、
絵や音楽や芝居が必要であった。」

それが私と云う人間の存在の証でもあった。

プロデューサーや演出家は芸術家と違って個人の記憶と体験で想像力を働かせる仕事である。

「私は、ある体験をした。私は、あるものを見た。私は、あることに耐えて生き延びた。
そして、その事が私にとって重大だったように、あなたに、とっても重大なことかどうか知りたい。」
ぞれの芸術作品をとうして、これを観客に問うているもの。

「芸術家の使命は人間の心の奥底に光明を与えることである」 シューマン