音楽とは時間(一瞬)の芸術です。
今弾いた音が、今吹いた音が、今歌った声が、すぐに消えて行くのです。
譜面を追って周りの演奏家に合わして、あたふたしている間に終わってしまうのです。
そこで君は何をしていたのであろうか?
音楽が好きで音楽を始めたとしても、音楽の世界は必ず演奏者と聞き手に分かれる。
聞き手は何を聞きに来ているのだろうか?
音楽家の奏でる音を聴きに来ているのか、
音楽家の生きてきた過去を聴きに来ているのか、
音楽家の瞬間に出すエネルギーに酔いしれる為に来ているのかそれぞれです。
そして絶対忘れてならないのは音の気が抜ける恐れとの戦いである。
どんなに楽しく演奏をしても一瞬違う世界に引き込まれてしまうと、
「聴き合う」タイミングで音の気が抜けるのである。
メンバーと打ち合わせで決めたポジションで決められた音が出せない。
演奏家には常にこの恐怖が襲いかかる。
音は生き物である。先ほどの音は二度と戻らないのである。
演奏がたとえ上手になったとしても、褒められて有頂天になったとしても、
失敗を繰り返して何度も辞めたいと思ったとしても、すべては自分との戦いなのである。
初心者でもベテランでも音に対する情熱があれば常に苦悩するのである。
音楽とは何だろうか?音を楽しむとは何だろうか?
誰かの人生に「一瞬でもこの音楽を聴いてよかった」と思われるような
演奏は出来るのだろうか?と自問自答を繰り返す。
感動は演奏者自身が感動しなければならないのです。
会場全体の空気にまで演奏者の感動が伝わり、
共振するから聞き手にまで感動が行き渡るのです。
感動とは心が動くことを言います。
演奏する方と聞く方が、同時に魂が震えることを言います。
「啐啄同機」(さいたくどうき)
卵が孵化するときは、卵の中のヒナが殻を自分のくちばしで破ろうとし、
また親鳥も外からその殻を破ろうとする、
そのタイミングがピタッと一致するからからこそ、
ヒナ鳥はこの世に生を受けて外の世界に出ることが出来る。「禅語」
演奏家の奏でる音と聴衆の聞きたい音がピタッと一致した時に感動が生まれるのです。
つづく
7月 16th,2023
恩学 |
音楽家を目指す君たちへ はコメントを受け付けていません
慈悲の心を持つということは成功者や修行達成者だけの言葉ではない。
私たちの日常生活の中でも、慈悲の心を持つことは可能なのである。
慈悲の心は親切心とは違う。親切心は手助けをすることであり、慈悲心は愛をもつて支えることである。
無償の愛には「ありがとう」の言葉も必要ないのです。
マザーテレサの言葉に、
人は不合理、
非論理、利己的です。
気にすることなく、
人を愛しなさい。
あなたが善を行うと、
利己的な目的でそれをしたと
言われるでしょう。
気にすることなく、
善を行いなさい。
目的を達しようとするとき、
邪魔立てする人に、
出会うことでしょう。
気にすることなく、
やり遂げなさい。
善い行いをしても、
おそらく次の日には
忘れられるでしょう。
気にすることなく、
善い行いを続けなさい。
あなたの正直さと
誠実さとが、
あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく
正直で誠実であり続けなさい。
助けた相手から
恩知らずの仕打ちを
受けるでしょう。
気にすることなく、
助け続けなさい。
あなたの中の最良のものを
世に与え続けなさい。
けり返されるかもしれません。
気にすることなく、
最良のものを与え続けなさい。
気にすることなく、
最良のものを与え続けなさい。
泥池の中で咲く蓮の花のように人間世界の中でもがきながら苦しみながら時期が来れば華が開く。
すべての人を救おうとする無常の愛を持つことの大切さ。
苦しから辛いからすぐに幸福になろうと願うのではなく、
苦しみも辛さも受け入れながら耐えることが花開くことになる。
すべては忍の一字に表されている。
慈悲心とは全く見返りを求めない心のこと。
一方的であろうと評価の対象にならなくてもただひたすら奉仕すること。
私たちはラオスの子供たちに学校を作り、文房具やダウンベスト80枚を贈ることも、
今できることの最大限を感謝として心に刻めば喜びが自然にわいてくるのである。
泥の中で花開く蓮のように誠実に生きていきたいと思います。
7月 15th,2023
恩学 |
泥中の蓮&慈悲心 はコメントを受け付けていません
一本の川の流れにも清らかな部分と濁っている部分がある。
また、人の心の中にも美しい部分と汚れた部分がある。
そしてひとつの言葉の中にも真実の意味と虚偽の意味がある。
<意思が濁れば意地になる。口が濁れば愚痴になる。徳が濁れば毒になる>
福(ふく)に徳(とく)あり、河豚(ふぐ)に毒(どく)あり
「濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる」 道元禅師御製
○ お釈迦様は、ある時弟子たちに
「水面は、泡立っていたり、濁っていては、その姿を正しく映し出せない」
と浄なる心を説かれました。
○ 世の中は澄むと濁るとの違いにて
福(フク)に徳(トク)あり、河豚(フグ)に毒(ドク)あり、
意思(イシ)も濁れば、意地(イジ)となり、
口(クチ)も濁れば、愚痴(グチ)となる 。
呼吸を整え、身と心を整えると濁りは消えていきます。光真寺法話より
どのような大義名分があろうとも上辺だけの「意思」を貫き通すと
濁って「意地」となるのです。
「智に働けば角が立ち、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ。」草枕
教訓を「口」から出まかせに他人に伝えるといつしか濁って「愚痴」にもなるのです。
愚痴を重ねて年取れば手を差し伸べてくれる人がいなくなります。
「一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る」武田信玄
要らぬおせっかいで「徳」を重ねたと錯覚して、その親切がいつしか「毒」となる。
一回限りの寄付やボランティアの活動だと徳にはならず「毒」となります。
人間関係において様々な規制(きせい)が増え濁ると犠牲(ぎせい)が出ます。
お気を付けください。
7月 15th,2023
恩学 |
清濁 はコメントを受け付けていません
人生において道を失いかけたときに行く先の光を見つけ出さなければならない。光とは希望である。
希望とは希少な望みである。なかなか手に入れることは出来ない。
自分のおかれた運命の扉を開き「何をすべきか」を自問自答するしかない。
その運命の扉の鍵こそが「志」なのである。
何を考えて何を行動するかは志の問題である。志なき者は道に迷い、道を外すだけである。
いかに志を身につけるかは己の信念と日々の活動による結果でしか生まれない。
志とは一生の使命であり、人としての誇りである。
その難攻不落な「誇り」という壁に向かうのは「夢を持つ」以外に術はない。
夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。
吉田松陰
吉田松陰に「奇傑非常の士に交わる」という言葉がある。
志を作るときには普段出会えないような大人物に会え!
その人の言葉から志とは何かを受け取り先ずは思索しろ!
さすれば、おのずからと志へと続く一本の道筋が見えるようになる。
そして、名山大川を闊歩して大気のエネルギーを吸収しろ。
大自然の中でどう生きるかを熟慮しろ。
大自然に比べれば人間なんて取るに足らないほどの卑小な存在である。
身体の底から湧き上がる感情を心に刻み込め。
江戸の儒学者佐藤一斉は言志四録「立志の巧」の中で「立志の巧は恥を知る以って要と為す」と言っている。
志を立てて実績を上げるには恥を知ることが重要である。
気持ちの高ぶりと経験のなさによる失敗を何度も繰り返してはじめて志に近づく。
すなわち、志を手に入れるのは安全で確実な方法は無く、
険しさをかき分けて危険な道を行くことが大切であることを教えている。
挑戦する者は恥をかくことを恐れるな。自分の選んだ道を行くがよい。
そこには恥など無い。恥を感じる自分がいるだけである。
一生の内に思索しなければならない時がある。それを青春という。
青春に年齢はない。夢をあきらめなければ一生青春である。
情熱をもって思索する時に希望が生まれるのだ。
7月 15th,2023
恩学 |
思索の時 はコメントを受け付けていません
「智で計画し、理で行動を起し、情で判断する。」
智慧で計画して論理的に組み立て情緒的に判断する。骨組みは過去から学び行動は現実で動く。「温故知新」
しかし論理的だけの人は理屈が先行して行動が伴わない。そして情緒だけの人は人情におぼれて失敗をする可能性大である。
更に現代の人は「道理」を忘れている。
「道理」とは人として行う正しい道。善悪でいえば善と呼ばれることの行い、倫理的に人として正しいことを行うことを意味します。
強制的な法律の解釈ではなく人としてのつながりの掟である。
良いか悪いかではなく人間関係のバランスの問題なのである。それぞれの事情に応じて解決を図り秘密を守ることが基本である。
強いものには厳しく弱い者には手を差し伸べる「弱者救済」の考えである。
道理は「自分勝手では道理が通らないよ」というように使います。
大勢の人が住む町の中では自分よりも他人を意識して「親切」が基本でした。他人を意識した親切「江戸しぐさ」の由来を紹介します。
江戸時代は参勤交代などで武士以外にも大勢の商売人や職工や家具職人や料理人などが入り込んで町は拡大されて、一気に人口が増加されました。
大阪、京都、伊勢、近江、河内、上信越や関東各地より多くの商人が来ましたが、商いの習慣や生活文化の違いから争いごとが多く起こりました。
そこで町名主や町衆たちが、平和で住みやすく、町が発展し栄えるための「手だて」を講じました。当時これを「繁盛しぐさ」と呼び、それぞれのしぐさに名前を付けて、子供や孫に教え伝えました。
これが後々「江戸しぐさ」と名称が変わり江戸から明治・大正・昭和へと伝承されました。
「七三歩きのしぐさ」、「傘かしげ」、「こぶし浮かせ」、「韋駄天しぐさ」などの往来しぐさを「お目見えしぐさ」といって身に付けさせたのです。
更に「耳順しぐさ」「年寄りしぐさ」「失せ物しぐさ」などお年寄りの接し方の心得についても教えたのです。周りの人に言ってはいけない言葉や、生活面や子育ての仕方など、ご近所のお付き合いなどにも配慮した「しぐさ」も豊富にあります。
「道理」は倫理的「しぐさ」は情緒的に使い分けると人間関係が円滑になります。
海外の大都会、ロンドンやパリ、ニューヨークなどにもマナーとしてルールはありますが、「江戸しぐさ」のように多国籍対応の「おもいやり」的な教えはありません。
世界の人たちが争いごとから抜け出して平和に暮らしていくためには宗教的な価値観だけではなく、人間としての「おもいやり」を取り入れることが大切です。
日本には「しぐさ」以外に「互助」という互いに助け合う精神があります。また、「合力」という暗黙の制度があります。力を合わせて助け合う精神です。
7月 13th,2023
恩学 |
対人関係 はコメントを受け付けていません
百尺(ひゃくしゃく)の竿頭(かんとう)に坐(ざ)する底(てい)の人、
然(しか)も得入(とくにゅう)すと雖(いえど)も、未だ真を為さず、
百尺の竿頭に須(すべか)く歩みを進め、十方世界に全身を現ずべし。「無門関」
石霜和尚と長沙景岑禅師の百尺の竿頭についての問答。
石霜和尚の「百尺の竿頭如何が歩を進めん」という問いに、
長沙禅師は「百尺の竿頭にすべからく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」と応じた。
竿頭とは物干し竿のことですが、竿頭を崖っぷちとすれば、
さらにその先に一歩を進めれば、踏み外して落ちて死んでしまいます。
高い竿をのぼりつめたところで、そこからさらに一歩をのぼり進めれば、
もうつかまるものはなく、まっさかさまに転落して命を失ってしまう。
いったいこれはどういうことを意味しているのでしょうか。
百尺の竿の先端に坐すことはできないでしょうが、
たとえばということで、坐しているとしましょう、
ところが坐している人は、まだ本当に悟った人ということができないのです。
百尺の竿の先端よりさらに一歩をすすめて、
十方世界に自在に自己の全身を実現できる人が悟った人だからです。
それは、きびしい修行を経て到達できる仏の境地です。
修行のすえに悟りを開いたとしても、修行の道に終わりはないから
「さらに一歩を進めよ」ということです。
たとえば不幸な境遇に生まれても、不幸から逃れようとするのではなく、
不幸を重ねて、不幸の行きつく先の、もっとその先まで歩みを進めよということです。
究極の不幸を知ることによって、自在に自己の全身(幸福)を実現出来るということです。
無欲の欲が生まれてから初めて知る幸福があるということです。
「悟り」とは神と人の交わる交差点にいることをいい、
人としての欲が離れて無欲の世界に到達することである。
仏教徒は人や社会のために無心で祈ることに専念する。
あらゆる問題に対しても祈ることしかなく、
原因が分かったとしても直接手を下すことなく祈るのみである。
そこには時間も距離も無く無限の精神性の世界があるだけです。
人間関係も遠慮の先の一歩を進めることによって本質に触れることができる。
争って初めて得られる信頼は「絆」となり繋がりがより一層深まるのである。
たとえ相手から痛みを伴う言葉発言されても、目を逸らさずに受け止めるべきである。
まだまだその歩みを止めることなく、さらに一歩を進める覚悟で生きなければならない。
偉大なる成功者達は生と死を意識せずに乗り越えて来た人達である。
限界のポジションを決めて立ち止まるよりは、
限界の先に在る未来を見つめ行動することが、世の中に役立つ事になるのではないか。
我々は百尺の竿頭を更に一歩を歩み出すことに勇気を持つべきである。
4月 3rd,2016
恩学 |
百尺の竿頭 はコメントを受け付けていません
「人の出会いは一瞬速からずまた一瞬遅からず。出逢うべき人には必ず会う。
しかし求める気持ちが無ければたとえ運命の人でも目の前を通り過ぎる。」哲学者森信三
多くの人に出会い、そして多くの人と別れる。
去っていく人を無理に止める事もなく自然の流れに任せる。
この人とは運命の出会いかと思っても数年で別れることもある。
「喜怒哀楽」を分かち合った友でも一瞬にして離れることもある。
かといって無理に流れを止めたり、流れを変えたりする必要はない。
人の生涯は生れた時から「生老病死」という四つの苦しみを与えられているからである。
「生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死の苦しみ」の四つである。
その上、
「愛別離苦」(あいべつりく)愛する人と別れる苦しみ、
「怨憎会苦」(おんぞうえく)恨み憎む人と出会う苦しみ、
「求不得苦」(ぐふとくく)求めるものが得られない苦しみ、
「五陰盛苦」(ごおんじょうく)存在を構成する物質的精神的五つの要素に執着する苦しみ。
これら四苦が加わり、先程の四苦とあわせ四苦八苦(しくはっく)という。
誰しもが短い人生の中でその都度四苦八苦の世界を過ごすのである。
だからどのような出会いでも無理に留める必要はなく忘れる必要もないのである。
どのような出会いでも無理に執着する必要はなく継続を重んじる必要もないのである。
それぞれ自分の人生軸を大地に打ち込んで揺るぎないものにしなければならない。
その為には出会うべき運命の人に出逢わなければならないのである。
貴方にとっての運命の人とはどのような人を言うのだろうか。
人の道を教えてくれる先輩、志を同じくする仲間、共に冒険が出来る友達、
夢を語れる伴侶、様々な人との出会いに運命を感じることがあるのではないだろうか。
運命の人と接する時は素直に実直に接することが大切である。
本音で語りあい過去の恥も失敗も曝け出す事である。
その中で、ともに笑い、泣き、励ましあえる人こそ運命の人ではないだろうか。
四苦八苦の世界である。見えない暗闇に光を照らしてくれる人が運命の人である。
その為には今を大切に純粋に一途に生きなければならない。
「因果応報」という言葉がある。
過去における善悪の業に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、
現在の業に応じて未来の果報を生ずることを「因果応報」という。
すなわち、現在の姿は前世の行いの表れであり、現在の行為は未来への果報なのである。
現在、なに不自由なく幸福な人は、前世で善の貯金が一杯残っていた人である。
その反対に何をやっても駄目な人は、前世での不善の借金がたくさん残っていた人である。
しかしどのような人生でも「四苦八苦」からは逃れようがない。
その苦しみに耐えなければならないのである。
煩悩からうまれた悩みや苦しみからの脱却は自分一人では出来ない。
運命の人との出会いが自分自身の宿命を大きく変える力になるのである。
人の出会いは一瞬速からずまた一瞬遅からず。
人生の流れに素直に準じていなければ運命の人には出会えない。
人の一生も、野に咲く草花のように、四季の移り変わりの中で、
自然のままに、生まれ、育ち、朽ちて、また咲けば良いのである。
辛くても咲き、悲しくても散り、苦しみの中から芽が出て、また花開けば良いのである。
求める気持ちを失わずに運命の人に出会うべきなのです。
4月 3rd,2016
恩学 |
人の出会い はコメントを受け付けていません
子供にボールを投げるにはどれぐらいの距離が必要だろうか。
少年や青年に投げる距離は、女性に投げる距離は、野球好きな人にはどうだろうか。
勿論、子供には4メートルから6メートルぐらいが安全であり、
少年や青年には10メートル以上でも十分補獲出来るだろう。
女性には5メートルから8メートルぐらいが安全で、
野球好きなら16メートル以上ぐらいなくては練習にはならない。
意思を伝える言葉も「キャッチボール」と同じように距離が重要である。
子供に伝える言葉は優しくて分かり易く説明する事が大切で、
少年や青年には真理を厳しく伝えなければならない。
女性には女性としての立場と役割を理解した上で伝えなければ納得されない。
言葉を使うプロ(士業)の人には、質問者側の考えを明確に伝え、
異論・反論する材料も持ちあわさなければならない。
言葉もボールと同じように緩急と強弱を付けて話をしなければ理解されない。
しかし言葉の距離感がみえない便利なツール、インターネットやメールからは様々な誤解がうまれる。
画一された文字からは受け取る側の理解が違うので危険である。
ビジネス上の連絡事項であれば問題は無いが、人間関係の感情のやり取りでは注意した方が良い。
必ず肉声でやりとりをした後でのメールにすべきである。
またデジタルパネルからのニュースや情報は一方的でそのうえ無機質である。
身近な事件も事故も災害も現実感が無く、何故か他人事のようになってしまう。
悲惨な戦争や貧困や暴動も電源を切れば終わりになるから、
見たくない、受け入れたくない「拒否」が簡単に済んでしまう。
来年消費税が上がれば経済的危機が来ると言われても実感を掴み難い。
街に出れば、着飾った人が溢れ、車も溢れ、店には物が溢れている。
そこかしこにコンビニもあり、ファミレスがあるので食べるには困らない。
自分達がいくら貧困になってもこの国で暮らす限り安全だと錯覚してしまう。
身に迫る危険を知らずに安全を確保するのは無理だと言うことから目を逸らす。
全ては情報の距離感が消えてしまうから現実感が亡くなってしまうのである。
怖いのは人の感情も距離感が大切だということすら忘れてしまっていることである。
出会いの距離感も礼儀にかなった距離がある。
それは、日本人はお辞儀の距離、中国や韓国では握手の距離、中東の国では鼻をこすり合わせる距離、
アメリカ人は抱きしめ合あう距離で信頼を確かめる。
その距離感も知らずにサービスすることが美徳のように報じられる。
日本人が大好きな言葉「おもいやり」のサービスである。
この言葉は一期一会の礼をもって他人に尽くす作法の意味を持つ。
しかし初対面の外国人に対して「おもいやり」を無理強いするのはどうなのだろうか。
相手との正しい距離感を保ちながらの「おもいやり」でなければ意味を為さないのではないか。
いたずらに「おもいやり」を待ちあげる政府やメディアにも疑問を感じる。
親切を強要することに迷惑と感じる人も多いことを知るべきである。
程良い距離感が無ければ「言葉のキャッチボール」もうまくいかないことを知るべきである。
言葉を投げて言葉を受け取る距離感を訓練をしなければならない。
更にその距離感に感情が乗らなければ意味を為さないのである。
4月 3rd,2016
恩学 |
キャッチボール はコメントを受け付けていません
江戸時代の儒学者石田梅岩の言葉によれば、
「たとえば形とは、ボウフラは水の中では人を刺さず、成長して蚊になってから、人を刺す。
蛙は自然に蛇のことを怖れる。これは蛙の親が、「蛇はおまえを食べる、恐ろしいものだ」と
教えたからではない。こういったボウフラや蚊、蛙の行為や反応からは、
外形がそのまま心の在り方を決めていることがわかるだろう。
人が自身の心を知り、それを本源である性に至らしめるためには、
形に従って生きる必要がある。その形とは何かと問われればまずは職分であると答えよう。
職分とは、「その職務にある者がしなければならないこと」であり、
もっとも簡単な言葉に言い換えるならば、仕事としても良いだろう。
つまり、今ある仕事に励むことは、心を性へと近づける修養となる。」
石田梅岩は貧農の農家から11歳で丁稚奉公に出され、独学で儒学、仏教、神道を学び、
人として心の在り方を説いた人物である。
後に弟子たちによって「石門心学」と名付けられる思想を創始した人物でもある。
「学問とは、ものを覚えることではなく、考える力を身につけること」
学問とは知ることに専念することではなく、実践を以って学ばなければならない、
即ち、知と行いが同時になさなければ意味を為さないと教える。
梅岩は朱子学の「知先行後」を学んだが、この教えの部分は陽明学の「知行合一」である。
従来の学者のようにただ知識を蓄えるだけでは理屈理論に走る「文字芸者」になってしまう、
現状の仕事に専念しながら知識を研鑽することの方がもっとも正しいと説く。
「形あるものは」とは、今ある現状の中でベストをつくせば、
自然に現れて来る姿の事を言っているのである。姿とは「心性」の事である。
学ぶことを私利私欲の為に使うことは愚の骨頂である。
商人出身の梅岩は「利潤は追求すべきだが、公共性を失わない範囲にとどめるべきものだ」
と言っている。近江商人の三方の教え「自分良し、他人良し、社会良し」と同じである。
江戸時代と言えば士農工商の時代である。
武士が偉くて商人は最下位に属し金儲けは卑しいとされた時代である。
しかし裏では多くの武士が商人から金を借りていた時代でもあった。
その為にさまざまな宗教家たちや学者が梅岩に難癖の質問をした。
武士に雇用されていた彼らにとって梅岩は目障りそのものであったに違いない。
一番の批判の原因は、高尚に崇めるべきものである学問を、「心の磨種(とぎぐさ)」として、
平易に誰でもが理解できる教えにしてしまったからである。
「心の磨種」とは心を成長させる為に学問が必要だと言っている。
返して言えば学問をしたから自然に心が成長するのでは無いとも言っているのである。
梅岩自身「人の人たる道」を求め勉学に勤しんだ。
11歳の時口減らしの為に丁稚奉公に出されてから終生自分の家族を持たず勉学に励んだ。
苦労を重ねても私利私欲に走らず、誰でもが学ぶ権利があると無料の私塾を開いたのである。
元々生まれてきた姿に本来の心を見出すことが正しいと信じて疑わなかった。
全ての人の外形がそのまま心の在り方を決めていることを教え説いたのである。
4月 3rd,2016
恩学 |
形あるものは、形がそのまま心である はコメントを受け付けていません
会ったこともない人の本を読み
会ったこともない人の成功話を聞き
会ったこともない人の幸福を真似ようとする
行ったこともない所の写真を見て
行ったこともない所の景色に憧れ
行ったこともない所の知ったか振りをする
やったこともない仕事を始め
やったこともない技術を学び
やったこともない社長の肩書を持つ
そこから目に見えるものは何だろうか。憧れと満足と自慢だろうか。
ただ情報の世界にいることを経験したことと勘違いしていないだろうか。
成功者のまねをしても自ら挑戦しなければ自信と誇りは生れて来るものではない。
自分の姿、自分の喜び、自分の夢の実態を見つけるためにはどうすれば良いのか。
それは知識を重ねて、尊敬する人に出逢い、経験を積み、感動する景色に接することである。
正に吉田松陰の「奇傑非常の士に交わる」の一説である。
しかし尊敬する人の型は真似が出来ても真意まではなかなか真似が出来ない。
それは歴史と時代背景が違う為に当時の真意が当てはまらない為である。
真意の意味は真実の意義、本当の気持ちである。それは時期に応じた志にもつながる。
真意は、その時代・その瞬間だからこそ価値があり重要なのである。
大人達は多くの若者に向けて「夢」を持てと言う。
おおいなる「夢」を持たなければ何事も達成しないという言葉が必ず付いて来る。
夢を持つことは大切だが行動の末に辿り着く願望が夢であることを知るべきである。
漠然とした夢を見つめ過ぎると、近くのものが霞んで見えなくなってしまう。
元来「夢」という文字は夕暮れ時に薄眼を空けて遠くを見ている状態を現わす文字である。
ハッキリと見えない状態を「夢」というのである。
だから知識や経験のない時に「夢」など見るべきでない。
現在のようにネット社会で生活するということは仮想の社会で生きることなのです。
大切なことはリアルな社会を毛嫌いせずにネット社会と両立させることです。
沢山のデーターからシュミレーションして自分の生き方に応用することが大切なのです。
その為には絶対に直感を信じて会いたい人に必ず会うようにして下さい。
スケールの大きな大自然の中でじっくりと身を委ねて下さい。
成功者の上辺だけの真似ばかりせずに地道に活動する事も行って下さい。
何もしないで悩んでいるよりは、何かをして失敗をする方が良いのです。
現実の世界で生きている我々にとって一番大切なものは真実なのです。
貴方の目の前の世界だけに真実があるのです。
4月 3rd,2016
恩学 |
目に見えるもの はコメントを受け付けていません