落ち着く

 

人には浮き沈みがある
大きく浮いた人ほど沈むときには深く沈む

少し浮いたら有頂天になり
少し沈んだら絶望的になる

中途半端に救いを求めりゃ
別な悩みで引っかかる

不幸に尺度は見つからない
不幸の大きさなんて計りようが無いから

幸福に尺度が見つからない
幸福の大きさなんて比べようが無いから

中途半端にもがいていると
なかなか底に落ちていかない

落ちるならとことん落ちる
落ちて底に着いたらそれが「落ち着く」さ

落ち着いたら冷静になる
冷静になるから智慧が湧く
智慧が湧くから勇気も起こる
勇気が起こりゃまた浮かび始める

恥をかけなきゃ半人前
保身に走ればみっともない
繕う人ほど浅ましい
虚勢を張れば最悪だ

落ちるならとことん落ちろ

落ちるならとことん落ちろ

 

佐賀県鍋島藩山本常朝

「葉隠」の中の曲者列伝にこのような事が書かれている
ある山中を座頭が十人ほど連れ立って通っていたとき崖にさしかかり、
全員が恐怖に足ふるえ肝が冷えてすくんでいた。

そのとき先頭の座頭が足を踏みはずし崖から落ちた。
残された者たちはこれで一歩も動けなくなった。

すると崖の下から先に落ちた座頭の声が聞こえてきた。
「気遣ひめさるな。落ちたれども、何の事もなし。中々心安きもの也。
落ちぬ間は大事と思ひ、落ちたらば何とすべきかと思ひしゆへ、
気遣ひ限りなかりしが、今は落着たり。
各(おのおの)も心安成度(こころやすくなりたく)ば早く落られよ。」

生死の関頭にあって死の選択が生を可能にし、
「死の覚悟」が「見事な生」につながる象徴的事例である。

現状の不安を取り除くには守るのではなく、
捨てさる方が解決の道があるのかもしれません。

一歩飛び込む勇気です。

そこからうまれる落ち着きに期待をしたいものです。

 

信頼

 

全ての人に信頼を求めるから失望するのです。
全ての人に期待をするから裏切られるのです。
全ての人と仲良くしようとするから嘘が増えるのです。

もっとしっかりと眼を見開いて、
自分に合う人だけを信頼するのです。
行き違いがあったとしても戻れる人。
戻りたいと思う人が自分に合う人なのです。

信頼には痛みが伴うのです。
それは自分を犠牲にしなければならないからです。
信頼は綺麗事だけでは築けません。
それは自分の恥を伝えなければならないからです。

人を信じることは命がけです。
裏切られる心配より裏切らない配慮が必要です。
信頼に打算があってはならないのです。
利益や愛情を目的としては成り立たないのです。

信頼を求めるならば、先ずは自分を知ることです。
信頼を求めるならば、先ずは自分を信じることです。
信頼を求めるならば、先ずは自分が力をつけることです。
信頼を求めるならば、先ずは自分が一人になることです。

信頼関係が築けないからといって、
投げやりになってはいけません。
諦めてはいけません。無感動になってはいけません。
それは自分が信頼の扉の鍵を閉めることになるからです。

全ての人に信頼を求めるから失望するのです。
全ての人に期待をするから裏切られるのです。
全ての人と仲良くしようとするから嘘が増えるのです。

そして最後に気付くことがあります。
一番「信頼」をしなくてはならないのが「自分」だということです。

あの人を信頼していたのに裏切られました。

この言葉は色々な記者会見の時に耳にする言葉です。
父親を恋人を学校の先生を会社を政治家を対象に使われます。
しかし本当に両者の間に信頼関係はあったのでしょうか。

打算的な意味での信頼は信頼では無いのです。
自分に都合の良い駆け引きだけの言葉なのです。

信頼には深さが必要です。
眼に見えない部分での心の交流が必要です。

不用意に信頼を乱発する人達がいます。
数回顔を合しただけでも平気で信頼を使います。

言葉だけの関係で信頼はうまれません。

成功や失敗を積み重ねて憎しみや裏切りも乗り越えて、
助け合う運命の領域に入って初めて信頼がうまれるのです。

信頼は順調な関係の時よりも挫折を味わった時に感じるのかもしれません。

美しく優しい言葉は心地が良いものです。
ついつい我々も無意識に使ってしまいます。

「巧言令色鮮なし仁」にならないように気を付けましょう。

 

 

砂漠の水

 

砂漠の真ん中に汚れた水たまりが有ります。
その水たまりの横にこんな看板が立っていました。

「3キロメートル先にきれいな水があります」。

多くの旅人達は喉が渇ききっているので悩みます。
この水を飲むべきか呑まざるべきか!

ここで質問です。「旅人と汚れた水の関係は!」

旅人Aは3キロ先にきれいな水があるのなら無理をしてでも歩き続けよう。
旅人Bは3キロ先までならこの汚れた水を少し飲んで歩き続けよう。
旅人Cは3キロ先に本当にきれいな水が有るかわからない、汚れた水でもたらふく飲んで、
のどの渇きを癒して歩き続けよう。
旅人Dは立て看板を隠して、汚れた水を売れば大もうけできると、水を旅人に売りつけたのです。

貴方はどのタイプですか。

旅人Aは努力すれば成功につながるという事を盲信するタイプです。
旅人Bは現状と予測を冷静に判断して行動するタイプです。
旅人Cは先の事よりも今が大切だと欲に溺れるタイプです。
旅人Dは何事も利益優先で人情よりも勘定を大切にするタイプです。

そして

旅人Aは3キロ手前で喉の渇きの為に息絶えて死んでしまいました。
旅人Bは喉を少しだけ潤したので3キロ先まで歩く事が出来ました。
旅人Cは1キロも歩く間もなく汚れた水のせいでお腹をこわして死にました。
旅人Dはお金をためる事に成功したのですが、砂漠の盗賊に襲われお金と命を失いました。

「臨機応変」という言葉があります。状況に応じて変更すると云う事です。

堅い信念と熱意だけで何事も計画通りに推し進めようとして判断を誤り失敗する経営者が多いのです。
計画変更を意志薄弱と取られるのではないか、思い付きの判断を優柔不断と取られるのではないかと心配するのです。

どのように会社を経営してどのような会社にしたいかは、社会の変化や顧客の嗜好に応じなければ成り立ちません。
誰も汚れた水など飲みたくはないのです。

しかし、突然解決しがたい問題が起こった時に、目的が明確にある経営者は汚れた水に躊躇することなく、
会社の延命になるのであればと少しだけ飲む事をします。

浅薄で思慮分別の無い経営者は会社よりも、自分自身の保身の為に汚れた水をガブ飲みしてしまいます。

人道的利他の心を持っていない経営者は、他人が困っている時に自分は飲まずに商売を考えます。
それぞれのタイプの経営者がいます。

「臨機応変」とは、正しい方向に向かう為に判断をするキーワードです。

その時の状況に合わせて正しい変化をする事です。
機に臨み変に応じて適宜な手段を施すことが「臨機応変」なのです。

経営者の方には、「水」と云う文字を「金」と云う文字に置き換えてみると良く分かると思います。

「砂漠の水」から学ぶ事は多いのです。

 

最後の晩餐

 

長い間の人生も一瞬の出来事で失う事が有ります。
突然の災難で生死をさ迷う事になりました。

その時に神様から最後の晩餐の招待を受けました。
さて貴方は何を食べたいと言いますか。

ここで質問です。「最後の晩餐のメニューは!」

回答者Aは最後だから世界の最高級料理を食べる。
回答者Bはせめて最後だから母親の手料理を食べる。
回答者Cはどうせ最後なら好きな料理を少しだけ食べる。
回答者Dは最後の食事は何も食べない。

貴方はどのタイプですか。

回答者Aは最後まで贅沢を望む強欲の塊です。
回答者Bは母親思いの優しい人です。
回答者Cは後悔と反省と涙で苦しんでいる人です。
回答者Dは明日死ぬのなら生きている人が食べれば良いと云う考えです。

そして

回答者Aは全てを食べつくしても満足せぬ多財餓鬼の世界に落ちてしまいました。
回答者Bはごく僅かな飲食ができる少財餓鬼の世界に落ちてしまいました。
回答者Cは一切の飲食が出来ない無財餓鬼の世界に落ちてしまいました。
回答者Dは苦しみと楽しみのある人間道の世界に入って行きました。

アップル社の創立者スティーブジョブス氏が、
世界最高の経営者に返り咲いた時に不治の病「膵臓ガン」でこの世を去りました。

彼が最後に食べた食事は何だったのでしょうか。

窮地に追い込まれた時や、絶体絶命の時に笑って食事をする事が出来たのでしょうか。
この様な最期の時に現れる言動こそ、その人の人間性を一番表している状態だと思います。

回答者Dのように生きている人に食べ物を残す人は、慈愛の心と奉仕の心を持った人です。
そうありたいものです。マザーテレサもそのような人でした。

仏教用語に「小欲知足」という言葉があります。

少しでも十分足りると云う意味です。
欲を取り除き少しで足りる事を知れば幸福感を感じると言います。

大きなステーキを一人で食べると、お腹一杯になって苦しくて薬を飲まなければならないかもしれません。
しかし大きなステーキを二等分にすると、好きな人と楽しく食べる事が出来るかもしれません。
そして大きなステーキを四等分にして、家族全員が笑いながら食べる事が出来るかもしれません。

大切の事は何をお腹一杯に食べたかでは無く誰と一緒に食べたかです。

尊敬する人や愛する人との食事が一番美味しいのに間違いありません。

最後の食事と言われて未だ食べ物に執着するこころがあるのは悲しい事です。
どのように辛い人生でも最後には残された人達の事を考える事が出来ると良いですね。

 

助言

 

古いつり橋のたもとに老婆が一人座っていた。
今4人の旅人が老婆の前を通り過ぎようとしている。
無事につり橋の向こうに渡り付くのは誰でしょうか。

ここで質問です。「貴方はどのタイプですか!」

旅人A老婆を無視して自分の判断でつり橋を渡り始める。
旅人B老婆を少し意識したが携帯ナビを頼ってつり橋を渡り始める。
旅人C老婆に挨拶をしてつり橋の話を聞き慎重につり橋を渡り始める。
旅人D携帯ナビも老婆の話も手に入れたのだが決断に至らずつり橋を渡らない。

答えは。

旅人Aを選んだ人は、全てが自己判断で行動優先です。
旅人Bを選んだ人は、迷走しながらも確率の高いデーター優先です。
旅人Cを選んだ人は、独断とデーターに頼らず人の助言が優先です。
旅人Dを選んだ人は、「知先行後」(朱子学)を守る情報収集が優先です。

そして

旅人Aは織田信長の様な破滅型のヒーロータイプ
旅人Bは豊臣秀吉の様な戦略型の成りあがりタイプ
旅人Cは徳川家康の様な人情型の苦労人タイプ
旅人Dは伊達正宗の様な思索型のインテリタイプ

 

人生の長い道のりで重要な決断をしなければならない時に、どのような行動を取るかという事が大切です。

目の前の状況だけを見て自分一人で行動を起こしてしまうタイプ。
自分の判断よりも常に提供されたデーターに頼ってしまうタイプ。
目の前の状況を俯瞰で見ながらも地元の意見を取り入れるタイプ。
全ての知識や情報が手に入ったとしても行動に移さないタイプ。

このテストで大切な事は、何故その橋のたもとに不自然に座る老婆がいるかという事です。

貴方にはつり橋のたもとに座る老婆の存在が、偶然か必然か考える余裕がありますかということです。

重要な決断をする時に強い人や成功した人の話ばかりに耳を傾けてしまうタイプ。
重要な決断だからこそ失敗経験者の意見や弱い立場の部下の意見に耳を傾けるタイプ。
重要な決断だからこそあらゆる情報を収集して思考を繰り返すタイプ。

人それぞれですが、いつかは決断を下さなければなりません。

ポイントは何が本当に重要な助言になるかという事です。
冷静に判断して心の中で考え、見える物や聞こえる音に敏感に反応する事が老婆の「助言」に繋がるのです。

「助言」は確立の高い架空話です。
絶対に成功するという話ではありません。

過去の多くの出来事の中から予測される現象を伝えるだけです。
それを聞き入れるか聞き入れないかは貴方の判断なのです。

古今東西を問わず、どのような名将も99%の自信の中で、残りの1%は「助言」に頼って来たのです。

貴方は1%の自信で99%を「助言」に頼っていませんか。

 

人間の幅

 

人間の幅は一本の扇である。
その扇の開き方が重要である。

多くの人は いつも半分しか開いていない状態になっている。
好きなこと 得意なこと 嬉しいこと 心地よいことだけの、
楽しい片面しか開いていない。

もう一方の嫌いなこと 苦手なこと 悲しいこと 気分の悪いことなどの、
辛い片面が閉じたままになっている。

本来は二つの面が広がって、初めて人としての幅になる。

人生の喜びは楽しい片面が開いているから生まれる。
人生の悩みは辛い片面を閉じたままにしているから生まれる。

得意な事も苦手な事も、好きな人も嫌いな人も、喜びも悩みも、
全部受け入れて何事にも動じない泰然自若の人となる。

西郷隆盛は人として器量(幅)が大きいことで有名だった。
勝海舟から西郷隆盛を紹介された坂本竜馬は、
「大きく打てば大きく響く 小さく打てば小さく響く まるで梵鐘のようだ
全く掴みどころが無いほど 器の大きな人物」だと西郷隆盛を評している。
西郷隆盛は国政の話から女郎の話まで幅広く会話に応じたと云う事です。

まさしく扇が全開の人物であったということです。

対人関係で好き嫌いが起きても、好きな人だけを相手にするか、
苦手な人も相手にするかで人間の幅は変わります。

通常気の合う人だけと交際すると波風は立ちません。
好き嫌いの感度が同じで合ったりするからです。
言葉に出して確認をする必要が無い為に深い関係には成り難いのです。
そのためにほとんどの場合予測された穏やかな関係だけで終わってしまいます。
扇の片面だけだと微風ていどの風しか吹きません。

しかし苦手な人も含めた交際だとどうなるかです。
思考回路が違うために何事にも確認が必要になります。
これまで自分で判断して来た事に別の判断材料が加わるのです。
意見の食い違いが起きても、そこで得る予測されない結果は大きなものがあります。
扇の両面が開くと気分爽快な風が巻き起こります。

今迄閉じていた扇が開くと諦めていた人間関係が始まるかもしれません。

自分自身の意外な一面の発見にも繋がるかもしれません。
苦手な相手の気持ちも理解が出来るかもしれません。

スイスの「アミエルの日記」より

心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、人生が変わる

中国の「教育心理学」より

思想という種を蒔き、行動を刈る。
行動という種を蒔き、習慣を刈る。
習慣という種を蒔き、性格を刈る。
性格という種を蒔き、それがやがては運命を収穫することになる。

変化を加えなければ何も変わる事は有りません。
扇を開くのもあなた、扇を使いこなすのもあなたです。
人生の風を豪快に巻き起こして下さい。

あなたの変化に周りの人はすぐ気がつきますよ。

 

頼る

 

誰も頼らない 頼るから弱さが出る
甘えも出る 愚痴も出る
結果 人が嫌いになり 卑屈で頑固になってしまう

軽はずみに 頼みごとをしても
期待しない 高望もしない 良き知らせを待たない
それでも 憎まない 裏切らない 嘘はつかない

こつこつ・もくもく・とんとんと
自分の出来ることを 地道に積み重ねるしか無い

誰も頼らない ひたすら信じる
己の信念と 熱き魂を
結果 笑われても 一途のままの方が良い

無口で傷つくよりも 笑顔で耐える方が良い
当たり前の毎日でも 流れるような毎日でも
無事生きて行けることに感謝する

現実を遠ざけて 理想を掲げる必要は無い
今日が一日 昨日よりも前へ進んでいれば良い

人生は重き荷物を担ぎ 坂道を登るようなものである
なにも心配しなくてもよい お天道様だけは見ていてくれる
疲れた表情よりも 笑顔で乗り切るしかない

そう誰にも知られずに頑張れば良い

 

「人生のロープ」

人生には与えられた救いのロープがあります。
それは貴方が人生のつり橋を渡っている時に天空から降りて来るロープです。
そのロープを上手に使っていかに無事安全に渡りきるかが重要です。

小心者はそのロープを掴んで離しません。
だから一向に前に進む事が出来ないのです。

有識者は何の為のロープか分析を始めます。
だから論理的に分析するために身動きが取れなくなります。

強欲者は便利そうなので他人のロープまで掴み取ります。
だから争いが絶えなく周りの人まで渡る事が出来なくなるのです。

聖職者はロープの数とつり橋の長さを説明します。
だからつり橋の前で人生の意義と幸福について祈るのです。

貧しき善行者は必要な時にしかロープを使いません。
だからあれこれ考えずに無心で渡り切ってしまうのです。

人生には与えられた救いのロープがあります。
誰かに頼らなくてもギリギリ渡り切るだけの数があります。

チャンスはロープの数に比例します。
無駄の無いように大切に使って下さい。

救いのロープの追加注文はできません。

 

ヒット論

 

音楽業界に入ったキッカケはプロデューサーとして活躍することでした。

その頃の日本には正式にプロデューサーという名称は無く、勝手に名刺にプロデューサーと書いて名乗っていました。
プロデューサーの仕事は個人商店の社長と同じです。
売れる商品を探して、それを購入する資金を用意して、宣伝を考え、営業で全国を回るのです。

私はその為に独学でマーケティングを学びました。
当時マーケティングという言葉も特殊だったので、参考になる資料は有りませんでした。

放送局や出版社や広告代理店から情報を集めて、自分なりに分析をして表にしたりグラフにしたりしていたのです。
それを見ながら未来予想図を描き、流行の予測を立てて作品作りをしていたのです。

大ヒット商品は短命ですが、その時代の経済を引っ張る牽引力になることがあります。
そしてその時代を移す鏡にもなります。

プロデューサーとしては、現存している市場の動向を見る事と同時に新しい市場を作り出す事も大切なのです。
今、人々は何を欲しがっているのか、その形や・色や・匂いや・音はどのような物なのか、
それらを見つけ出す必要が有るわけです。

様々な分野からヒット作りに係わっている人達の意見を聞きました。
今でいう異業種交流会を独自に開催しました。
参加者は主に代理店関係者、ファッション関係者、映画監督、評論家、雑誌社編集長などです。

その結果一つの答えが出たのです。「ヒットは作れる」、時代に合う作品と世の中がかみ合えば必ず売れる。
人が欲しがるものを作れば確実に売れると確信したのです。

最初に係わったのはバンバンが歌った「いちご白書」をもう一度」(1975年)でした。

CBSSONY(現在のSME)ディレクターの前田仁さんが荒井由美さんと作った作品です。
その頃の私は、アルバイトでレコーディングエンジニのアシスタントをしていました。

初めてスタジオでこの曲を聴いた時に身震いがした事を覚えています。
正に今の時代にピッタリ合っている、これは宣伝が良ければ必ず売れる。
自分のプロデューサーとして考えを実践するにはこの曲しかない。

早速デイレクターの前田さんにお願いをして「独自に売り込む」許可を得ました。

その日から宣伝の為に、沢山の雑誌社、ラジオ局、有線放送など歩き回り、
少しでも時間が有る時には、近くのレコード店に行き面だし(レコードを一番前に置く)をして回りました。
土日の休みの日には自前のチラシをコンサート会場で配りました。

そして放送回数が徐々に増えだして
(特に文化放送セイヤングでは谷村新司さんがヘビーローテーションを組んでくれました)
リクエストチャートも一気に上がり、その結果売上チャートも右肩上がりで伸びて行きました。

あっという間に業界でも注目されるヒット曲と成ったのです。

更に次の話題づくりの為に、映画配給会社ヘラルドへ「いちご白書をもう一度」の再映依頼に行ったのでした。
全国で見たいと言う支持者が多ければ16ミリなら再映をしても良いとの許可を頂き、
早速各大学の映画研究会に手紙を出して「いちご白書再映推進委員会」を立ち上げました。
勿論委員長は私です。

これら全てアルバイト時代の私が独自に考えて行動したのです。
宣伝マンの経験の無い人間がヒット作りに係わったわけです。
ポジションがあったから考えるのではなく、考えがあったからポジションを手に入れることが出来たのです。
「いちご白書」の大ヒットは、少しのアイデァと多くの努力によって得た結果だと思います。

正に上杉鷹山の言葉「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは、人の為さぬなりけり」です。

それからも常に時間があれば若い人たちが集まる場所に行き、
流行っている店の商品が何故売れるかをリサーチして回りました。
そして雑誌社の友人からは、次にどんな話題が特集として掲載されるかも聞きました。
ファッション関係者が集まる原宿のバーで彼らの話題に耳を澄ませました。
皆が、今、何に興味を持っているかをつねにリサーチして歩いて回ったのです。

ヒットとは良質な音楽と世の中のニーズが無ければ成り立ちません。
そして情報力と分析力と行動力が伴わなければ生まれません。
その商品が時代のステージに似合わなければヒットにならないのです。

その後植山周一郎さんが書かれた「女王陛下が微笑むまで」が座右の書となり、
多くの方にセールスの極意書として伝えてまわったのです。二人の営業マンの話です。

サンダル会社の営業マンの二人が社命を受けてアフリカにやって来ました。
勿論アフリカ人にサンダルを売るためにです。
本社では二人の営業マンからの返事を今か今かと待っていました。
その時に同時に二人の営業マンからファックスが届いたのです。

A君は残念です。この国ではみんな裸足でいるので、サンダルを売るのは無理です。
明日日本に戻ります。
B君は最高です。この国ではみんな裸足でいるのでどれだけ売れるか分かりません。
このままこの国にいて営業を続けます。

貴方はどちらを指示しますか。この本によって物事の捉え方には両極が有る事を知ったのです。

勿論、私はB君のタイプの人間です。現代で言うポジティブシンキングの発想です。
ピンチをチャンスに変える考え方です。それ以前に何事もピンチと思わないタイプです。

そして2008年に中国で出版されたビジネス書に、同じ内容の例文を見つけました。
「水煮三国志」成君憶著・呉常春・泉京鹿訳。お坊さんに櫛を売りに行く三人の話です。

「甲君は、私は三ヶ所のお寺を回りました。どのお寺でもお坊さんたちから怒鳴られたうえに追いかけられ、
そのうえ殴られもしました。それでもあきらめなかったので、最後には一人のお坊さんが私の努力を認めてくれて、
一本だけ買ってくれました。」

「乙君は、住職に言ってぐしゃぐしゃに乱れた髪で仏様を拝むのは、不敬になるのではないでしょうか?
香炉を置く祭壇の前に櫛を置き、善男善女たちに髪を梳かせるようにしたらいかでしょうか?
住職は納得し、十本の櫛を買ってくれました」

「丙君は、参拝に来るのは敬虔で誠実な人たちです。こちらのお寺でも無病息災のご加護と、
善行を激励するようなお返しの品を用意するべきではないでしょうか?
この櫛にご住職の達筆を用いて“積善櫛”の三文字を刻み、贈り物としてはいかがでしょうか?
それを聞くやいなや住職は破顔一笑し、たちまち千本の櫛を注文してくれた」

如何でしょうか。何事も難しく考えるか、それとも自分で道を探し出すか、色々な方法があると思います。
営業成績の良い者が常に正しい方法を言っている訳ではありません。
発想という独自の考えを持ちながらお手本として参考にすれば良いかと思います。

最後にもうひとつ、1980年代後半から1990年代前半頃に、ニッチビジネスという言葉が流行りました。

ニッチとは隙間です。お城などの廊下の壁に壺や花瓶等を置く小さなスペースをニッチと言うのです。
多くの人が見過ごしてしまいそうな所に、大きなビジネスチャンスがあるということです。

私のファッション業界の友人はその手法で大成功を収めました。
彼の持論はA点からB点に移動する中間地点のC点のファッションを売り出すことが大成功に繋がると云うものでした。

一例をあげれば都会からリゾート地へ移動する時のファッションです。
その洋服の素材や色や形を説明するだけではなく、着こなしのスタイルに物語を織り込んだのです。
デザインや価格だけで選んでいた消費者に、遊び心のドラマを洋服と共に提供したのです。

このアイデァが見事に当たり、その後のファッション業界にも大きな影響を与えました。

アイデアは「愛が出会う」です。
愛が無ければ出会い(企画力)は無いのです。

私もそのことを学び多くのヒットを作る事が出来たのです。

その時代から生まれた新しい言葉には熱があります。
その熱を企画力に活かしてアイデァを出した人達が生き残るのです。

ヒットは世の中を動かす推進力になります。

音楽だけの世界の話ではありません。
ファッションでも本でもスポーツでも通常のビジネスでも、ヒットは心を動かす原動力となります。
ヒットを出した人達が次の言葉を生み出す事によって、次の世代にバトンが渡るのです。

今は亡きアップル社のスティ-ブ・ジョブスは数々の熱き言葉をのこしています。
彼の言葉によって世界中が興奮して新しい夢を見ることになったのです。

さあ次は誰からバトンを受け取りましょうか。

 

むすんでひらいて

 

讃美歌・唱歌・軍歌をへて現在の童謡「むすんでひらいて」があります。

「むすんでいひらいて」

作詞者不明・作曲ルソー

むすんでひらいて・手をうって・むすんで
またひらいて・手をうって・その手を上に

むすんでひらいて・手をうって・むすんで
またひらいて・手をうって・その手を下に

むすんでひらいて・手をうって・むすんで
またひらいて・手をうって・その手を頭に

むすんでひらいて・手をうって・むすんで
またひらいて・手をうって・その手をひざに

むすんで・ひらいて・手をうって・むすんで

 

神仏習合

神々の信仰は本来土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。
その信仰は極めて閉鎖的だった。
普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な「神」観念に大きな影響を与えた。
天皇を神と崇める中で鎮護国家の思想と共に仏教を採用した。

ウイキペディアより

 

「むすんで」は高皇産霊尊(たかむすびのみこと)が、
神々の世界と人間界を「むすであげましょう」という意味で。
「ひらいて」は仏からほどけ、ほどけるから、ひらくとなったという説です。

「手をうって」は二礼二拍手でいう柏手の事です。

神様とむすんであげましょう。そしてむすばれたものをまたほどいてあげましょう。
手を打ちながらその手を「上」に「下」に「頭」に「ひざ」に祈りましょう。

天に祈り、地上に祈り、人間の一番大切な頭に祈り、
そして人間としての機能「あるく」に必要なひざに祈りましょう。

天と地と人すべてに感謝しましょうということかと思います。

 

昔は神仏習合によって神社とお寺は同じ場所にあったのです。
明治維新後に廃仏毀釈によって寺と神社が分離され、
仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われました。

祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像仏具の破壊、
仏事の禁止などが急激に行われ大きな混乱を巻き起こしたのです。

このような宗教への弾圧は世界中の歴史に残されています。悲しい事です。

政府からの一方的な弾圧は戦争まで引き起こす事があります。
幸福を求める宗教によって不幸が起こるのは納得がいかないですね。

 

付録

「むすんでひらいて」を聞くと思いだすのがこの言葉です。
中国の諺に「雑乱紛糾のときには控捲せず」があります。
もめごとが起きた時には互いに引っ張り合うのではなく
互いにゆるめなさいという意味です。

引っ張って緩めて、引っ張って緩めての繰り返しですね。
これもある意味では「むすんでひらいて」と同じかと思います。

こちらは人間関係の中で共に主張を言いあうのではなく、
互いの主張を認めあわなければ解決は出来ないですよということです。
一方的に自分の利益を引き寄せようとするから争いが起こるのです。
少し自分の取り分を減らして相手側に押し戻せば感謝が生まれるのです。

利他の心です。

むすんでひらいて・手をうって・むすんで
またひらいて・手をうって・その手を上に

 

子供の無邪気な声と動作にあわせて歌ってみて下さい。

幸せな気持ちになり心が解放されますよ。

 

真実と言葉

 

自分のミスから多くの人に迷惑を掛けてしまった。
あまりにも単純なミスのため茫然自失の状態である。
参考資料として提出したものが第三者に渡った。
そしてそこで初めてミスを指摘された。
全ての責任は文章を書いた人間に属する。
仕事上の良好な関係が一瞬にして消えたかも知れない。
そしてその関係から逃げ出すか留まるかが重要である。

 

最近政治家の発言が物議をかもしだしている。
本人には悪意が無くても言葉は独り歩きして問題を大きく広げる。
公人は一般人と違って発言すれば、必ず答えを出さなければならない。
個人の都合でいくら謝罪を繰り返しても後の祭りである。
地位と名誉と財産を手に入れれば三日で堕落するという言葉がある。
ほとんどの政治家がこれに当たる。

 

障害者タレントのレストラン予約のトラブルも、
味方を多くつけている障害者タレントが不利である。
何故なら予約をする時に障害者であることを告げなかった事である。
自分の名前で予約したのだから、当然店側は配慮するだろうという驕りが反感を買うことになる。
バリヤフリーや親切が当たり前だと特権意識が働いたのだろう。
次からはどの店も予約を受け付けない可能性もある。

 

人気シェフが自分の店では年収の低い人間は食べる必要は無いという発言も、
庶民派アイドルシェフとしてはあり得ない事である。
人気店だから店側に合わせろと云う考えがあるのならばとんでもない話である。
客は高いお金を払っても食べたいのは料理だけでは無い、
その場所での思い出も食べたいのである。
人気シェフは自ら店の信用に泥を塗った感じがする。

 

すべては驕りと気の緩みから引き起こされた問題である。
誰にでも起こり得る危険な罠なのである。

 

「真実は毒」

理解を求める言葉は言い訳にしか聞こえない
真実は時として毒になる

必要のない答えを探そうとしても無意味なことである
探せば探すほど批判しか見えて来ない

争いの会話は常に過ぎ去った出来事である
巻き戻せない時間を相手に戦えるわけなどない

失敗を追及されるほど返答に困るものはない
無能を曝け出し威厳を失うからである

事実を話しても解決にはならない
真実は時として毒になる

ただひたすら前向きに生きて行くだけである
それを否定されても仕方が無い

同じ過ちを繰り返すのではないかと問い詰められて
度重なる不毛な質問に癖癖させられる

言葉を重ねても挑戦は終わらない

挫折の隅をほじくりまわす行為は
互いに不幸を繰り返す事になる

真実は時として毒になる

 

失敗した人の謝罪は誠意ある態度で償わなければならない。

言葉はたんなる過ちの弁明である。謝罪には成らない。