否定的よりも肯定的

 

人は最初に否定的な言葉を使うと最後まで否定的な態度になる。

「そんなことあるわけないよね。この情報可笑しいんじゃない。あの人嘘ついているよね。
この商品だって何処で作られたか分からない。この食材に食品添加物が一杯入っている。」

このような種類の言葉は、言っている方も聞いている方も疲れてしまいます。

否定的な言葉は、肉体も精神も瞬時にエネルギーをパワーダウンさせるからです。
否定的な言葉で作られたマイナスのイメージは伝染するのです。

人は最初に肯定的な言葉を使うと最後まで肯定的な態度になる。

「え!そうなんだ。知らなかった勉強になったわ。そういう考えもあるのね。
便利だからこの商品買っちゃった。みんなでワイワイ騒いで食べたから美味しかったよ。」

このような言葉は、言っている方も聞いている方も笑顔に成り楽しくなるのです。

肯定的な言葉は、肉体も精神も瞬時にエネルギーをパワーアップさせるからです。
肯定的な言葉で作られたプラスのイメージは伝達するのです。

否定的な態度を取る人は、自己顕示欲が強く、根拠なき反対意見を言って注目を集めようとする人です。

どんな話に対しても疑って掛り強い口調で反論してくるのです。
周りに賛同者を求めようとして強制的に同意を求めて来るタイプです。

肯定的な態度の人は、いかなる話題にも協調性があり、その場の雰囲気を大切にする人です。

どのような場合でも、個人的な主張よりも他人の気持ちを尊重して、明るい方向に話を向けるのです。
自分が中心になり場の流れを作り楽しい気分にさせてくれるタイプです。

言葉の持つエネルギーは人の心の温度を変える力があります。

たった一言でも和やかな雰囲気を一瞬に壊す事が出来るのです。
その反面重く暗い雰囲気を一瞬に明るくする事も出来るのです。

正に道元禅師の「愛語よく回天の力あり」です。
良き言葉が人生を変えることを忘れないで欲しいのです。

子供を叱る時にも「騒じゃいけない」「泣くのはだめ」「我慢しなさい」と
強制的な言葉を使う母親が多いと思います。

しかし、未だ完全に脳が発達していない子供達に自分の感情を抑圧することを
要求するのはとても難しいことです。

理性をコントロールする「前頭前野」が十分に発育していないからです。

それでも毎日それを強要されていれば、やがてその子の脳は、
自分でコントロールする術を身に付けていきます。

しかしそれは、その不快な状況から逃れる為に自己防衛本能が働いて、
自分に無理をして演じていることが多いのだそうです。

言葉の意味よりも叱る顔から逃れる為に動作を停止するだけで、悪い行為だと記憶に残さないのです。

子供を叱る時にはその場で具体的に言うことです。

電車の中で騒いでいる時には、「静かに本を読んでいる人もいるでしょう、
貴方が騒ぐと読めなくなるから、静かにしましょうね」。

そして静かになれば褒めてやるのです。
「お母さん凄くうれしい!あなたが素直にきいてくれて、お利口だから」

具体的に説明を受けるとストーリーが理解出来て覚えやすいということです。

母と子の会話だけじゃなくて同時に社会性も学んで行くのです。

躾は強制的な言葉で注意するよりも、具体的な言葉で褒めてやりながら育てることが大切です。
子供は親の行動を見て育つのです。親の真似をしてほめてほしいのです。

このような言葉があります。
「やってみせ・言って聞かせて・させてみせ・ほめてやらねば人は動かじ」山本五十六

子供の躾は親が見本を見せることが言葉より大切です。
子供には真似をさせて褒めてやり学ぶ楽しみを教えて下さい。

明るいお母さんには明るい子供が育つのです。

 

タイミング

 

同じことをやっても成功する人としない人がいる。

成功した人には、豊富な知識と経験があったからだとか、人脈があったからだとか、
運が良かったからだと云う人がいます。そうとは一概に言えません。

私はタイミングだと思います。

その時、その場にいてすぐに行動を起こす人と、あとで考えてから行動を起こす人とでは大きくタイミングに差が出ます。
かといって闇雲にすぐに行動を起こせば良いと云うだけの話ではではありません。

動き出す時期の質(価値)とタイミングが重要だということです。

それではタイミングについて考えてみたいと思います。

タイミングの良い人は、普段からあらゆる状況を想定して事前に準備を整えている人です。
収集されたデーターを基に、どのような時にでもその場に応じて判断が出来る人です。

想像力の設計図を持ち歩き必要に応じて取りだす事が出来る人です。

タイミングの悪い人は行きあたりばったりの人生で計画性の無い人です。
想定外の状況では正しい価値の判断が出来ず見過ごしてしまう人です。

依存症が強く他人の意見に左右されやすい優柔不断な人です。

勿論、タイミングが作れない人を悪く言うつもりはありません。
自分なりのタイミングの取り方を学べば良いのです。

「ピンチはチャンス」という言葉があります。

ピンチの時こそチャンスが訪れると解釈されています。
チャンスは現れるのではなく追い詰められた時に生みだされた結果がチャンスなのです。
どのようなチャンスもタイミングを少しでも外せば成功はしないのです。

それではタイミングの見分け方と、タイミングの鍛え方を考えてみましょう。

タイミングの見分け方としては、常日頃から情報のアンテナを立てて、このような仕事がしたいなと計画を立てる事です。

そうすると常に第三者の言葉や情報に敏感になります。
自分にとって必要な情報が蓄積されれば判断能力も高まるのです。

突然、望んだ仕事が提案されても掴み取るタイミングが分かるのです。

又、別の方法としては自分のお手本に成る人を探すことを薦めます。
その人の選択方法・考え方・準備・進め方・実際の行動をウォッチングするのです。

そこでどのタイミングで判断や決断をしているかをリサーチするのです。
そこからタイミングの見分け方を学ぶこともできるのです。

見て真似ることが「学ぶ」の語源です。大いに学びましょう。

タイミングの鍛え方としては仮想ビジネスを作りだす事です。

先ずあらゆる情報から幾つかの情報を選択します。
選んだビジネスのプロジェクトに参加したつもりで推移を見守るのです。

自分の想定した判断の時期や交渉内容や計画と合わせて成功の確率を確かめるのです。
最初は上手くいかないケースの方が多いかと思います。
しかし、上手く行かなかった原因と結果を分析し今後の参考にするのです。

この蓄積されたデーターがタイミングを鍛えることになるのです。

私は若い頃にいつも一億円~三億円の企画書を数本持っていました。
チャンスが巡って来た時にタイミングを逃さない為にです。

チャンスは瞬間にやって来ます。あっと言う間に通り過ぎて行きます。

その為にも仮想ビジネスを作りだしタイミングを鍛えなければならないのです。

タイミングで一番危険なのは、市場の分析や将来性の検討もせずに、他人の意見やニュースを鵜呑みにする事です。

また専門家と言われている証券会社や経済評論家の分析を正しいと信じる事です。
自分の判断を狂わせる情報は絶対に取り入れない事です。

タイミングを遅らせる一番の原因は「迷い」です。

チャンスは座っていて手に入るものではありません。
飛びまわって走り回って捕まえなければ逃げて行ってしまうのです。

タイミングを見分けるのも、タイミングを鍛えるのも、あくなき探究心と好奇心と情熱がなければ無理なのです。

チャンスの神様は足り回っています。逃さない様にして下さい。

 

感・即・動

 

目の前の事象に対して何を見て、何を感じたか、そして何を想像したか、
すぐに書きとめて、独自のアーカイブにデーターアップしなければなりません。

そしてそれらのデーターをまとめてプランニングの作業に入ります。
それから即アクションする事をビジネスプロデューサーには求めます。

常に人の感性には旬があることを覚えておいて下さい。
脳が反応した事柄を、その時点で記憶に残さなければ、感覚が薄れてしまうのです。

同じように思考にも旬があるのです。
これぞと思った企画アイディアも時間が経てば経つほど別の情報が邪魔をして、
どうでもいいやという案件に成ってしまう事が多いからです。

一瞬のタイミングを逃すと凡庸な企画書しか書く事はできません。
その為に「感・即・動」思い付いたら即動くことを薦めます。

一瞬のひらめきが大きなビジネスを生む切掛けになることが多いからです。
それを見過ごさない様にして欲しいものです。

同じように人の出会いも「感・即・動」が大切です。

セミナーや講演会や各種勉強会で多くの人の出会いがあります。
感覚的に興味を持った人には、連絡先を交換し即コンタクトを取るべきです。

しかし初対面の場で熱く語ることは、先方に失礼にあたり印象を悪くします。
それよりも、一瞬間(ま)をおいて自分の印象が無くなる前に再会を果たすのです。

ここで注意しなければならない事は、相手の都合も分からない内に自分の売り込みをしない事です。

相手の話を聞きながら興味のポイントに針を引っ掛けるのです。
その針に相手が反応したら一気に引き上げるのです。
信頼関係が築けるまではそれを何回も繰り返す必要があります。

互いの興味の度合いが一致して高まった時点で本題に入るのがベストです。

他人は全て真剣な人と情熱を持った人には好印象を持つものです。

十年前に中国の友人から一本のビデオを見せられました。
そこには女性演奏家集団のコンサートの模様が写っていたのです。

私に感じたものがあり即会いたいとリクエストを入れました。
そして数日後には北京に行き事務所の代表と女子十二楽坊のメンバーと対面したのです。

そして私は彼らとの専属契約を取り付けて日本のレコード会社と交渉に入りました。

もし私が「感・即・動」で動かなければ、
彼らとの契約は直接レコード会社と交わされていたと思います。

そうなればこのビジネスに参加も出来なくなるのです。

ビジネスは先手必勝で取り組まなければ勝者には成りません。

そしてあれもこれもと気移りをせずに集中的にポイントを絞るのです。
感じたことをすぐに企画書にまとめて提案するのです。

相手の不足部分を見つけてそこを補う内容で書き上げなければなりません。

その為に日ごろから何を見て、何を感じ、何を想像したかの記録を、
独自のアーカイブにデーターアップしておかなければなりません。

一流と言われている人達はデーター収集の達人です。

それ以上に「感・即・動」の実践者達なのです。

 

消極的な抵抗勢力

 

消極的な抵抗勢力パッシブ・レジスタンス・フォースである。

それは裏・陰・否定・不安・無為・保守・受動・怠慢・自己欺瞞・堕落などが要因する。
自己変革を望む為に強い決心・進取・能動・前進・希望・自信・成功・夢などを持つと、
必ず行くな・するなと沸き起こるマイナスの感情である。

積極的にならなければ知る事も無かったマイナスの感情は、欲望や快楽を求めた途端に
恐怖や絶望・挫折として現れる。それは光が誕生して陰が生まれたことと同じである。
影は光が生んだ産物なのである。決して光のある場所から陰を取り除く事は出来ない。

思考の中に潜む光と陰、その両極とバランスよく共存する方法を知らなければ、
この抵抗勢力に屈服し続けなければならないのである。

あらゆるレジスタンスに対抗しなければ立ち直れなくなる。

マイナスの感情を作りだすレジスタンスに打ち勝つには、
プラスの感情を引き出すイメージを鍛えなければならないのである。
その為にも発想の原点インスピレーションと手を組むべきなのである。

インスピレーションとは直観力である。

歓喜・成功・喜び・達成・仲間・人々の笑顔、などを想像する発動の力である
論理的に判断するのではなく感覚的に沸き起こる思いつきである。

希望のインスピレーションは、反対勢力がいくら強い力で引っ張っても跳ね返す力を持っている。

人は困難を乗り越える知識や経験がないと消極的な抵抗勢力の不安が増大する。
マイナスのレジスタンスに取りこまれて、自分の心が逆に抵抗勢力に成ってしまうのである。

思考の中に消極的な抵抗勢力が存在する事を認めて、前向きに生きる行動の切掛けを作る必要がある。
その切掛けとなるのが万人に与えられた労働である。

人は生きて行く為に一生働かなければならない。

生活の糧を得る労働は、思考や感情とは別に人生に課せられた義務である。
子供は子供として、学生は学生として、男は男として、女は女として、
年寄りは年寄りとして、死ぬまで働き続けなければならない宿命がある。

労働は人生における原動力であり富と希望と発展への階段である。
意思とは関係なく生きる歯車を回し続けなければならない。

この歯車が止まった時が死の訪れである。

人は積み重ねる建設的作業を繰り返すのだが、
その反面全てを破壊して無の状態を作りだそうとする本能がある。

それはフロイトが言う死の望みと同じである。

労働を望んでいなくても、それを行わなければレジスタンスに取りつかれてしまう。
精神力の弱さを克服する為には肉体を酷使する以外に方法がないのである。

創造者達は常に消極的な抵抗勢力に脅かされている。

肉体を酷使することが無い想像の世界で過ごしているからである。
常に第三者の目を気にしながらも、独自の世界に定着しなければならないからである。

消極的な抵抗勢力に追い込まれながら限りなき精神的苦痛を強いられるのである。
その苦痛を乗り越えた者だけが創造者として評価される。

万人、全てにでも起こり得るレジスタンス。そのレジスタンスに勝つ方法は、
ポジティブに生きる方法を見つけ出さなければならない。

それは希望的インスピレーションと肉体的トレーニングに頼るしかない。

そしてマイナスの感情に打ち勝つ為には同じ目的を持つ仲間を作る事である。
同じ目的を持つ仲間がいることによって消極的な抵抗勢力は軽減される。

夢を語り、励まし合う言葉が、前向きに生きる牽引力となるからである。

我々は常に消極的な抵抗勢力と戦わなければならない運命を持っている。

 

クリエイティブ

 

クリエイターは見えない物を見るところから仕事を始める。特に難しい事は何も無い。

科学者や発明家と違って専門的な知識は一切必要とされない。想像力が少しあれば良い。
勿論、科学者や発明家も想像力の中から未知の世界へと飛び込んで行くわけだから、

クリエイターと同じと言えば同じである。

クリエイターは数多く成功しなければ認められない。
実績がなければただの夢想家に成ってしまう。子供の夢物語である。

クリエイターは変わり者が多い。傲慢で意固地で小心者である。
クリエイターは嫌われる。一方的で性格が悪いと思われる。

他人の評価を気にせずに自己判断で全てを押し通すからである。

私は若い時成功したから性格が悪くなったのか、
性格が悪かったから成功したのかが分からない。

しかし、周囲の悪口と反対に年々業績は上がって行った。

クリエイターは見えない空に絵を描く人種である。理解されなくて当然である。
人とは違うことに興味を持つからである。

単純な発想には同意せず不可解な提案が大好きなのである。

クリエイターは予想屋である。
時代の先を行く為には他人と同じことをしていても勝算は無い。
情報を集めて分析をして匂いを嗅ぎだし色を選別しなければならない。

クリエイターは一旦大衆に迎合すれば大衆からは無視される。
クリエイターは人が見落とす部分を掘り下げるのが仕事である。

そして一番大切な事は幸福感を作りだす事である。

クリエイターは組み合わせの名人である。

愛と憎しみを組み合わせて、
幸福と不幸を組み合わせて、
冒険と遊びを組み合わせて、
笑顔と涙を組み合わせて、
夢と憧れと希望を作りだすのである。

クリエイターは形なき物を形にして行くのが仕事である。

クリエイターは変換器である。

人生の悲劇を喜劇に変える力を持っている。
マイナスを集めてプラスに変換する能力がある。

クリエイターの成功の方程式。

科学者は世の中の偉大な発明は99%の運と1%の才能だと言っている。
アスリートは偉大なる記録は99%の努力と1%の運だとも言っている。
AKB48のプロデューサー秋元康は98%の運と1%の汗と1%の才能だと言っている。

そして三者に共通する事は、思い込みの強さと運を味方にする楽天家である。

クリエイターは挫折を恐れない。
クリエイターは後ろを振り返らずに前向きに歩いている。
クリエイターは成功者を妬まない。

大切な事は他者の才能と比べずに自分の才能と比べることである。
その為に自分の成功を手本にするよりも、自分の失敗から学ぶ事が多い。

失敗に負けない強い精神力で幾つもの壁を乗り越えて行くのである。

ここにクリエイターが好きな言葉がある。

「フランシスクリック」英国ノーベル生物学者の言葉。

「自分は今までこれが起きたら困ると思うことが数限りなくあった。しかしそのどれも実際には起きなかった」
悩みは想像の中にあって実際にはその何十分の一も起こらない。

クリエイターは夢を紡ぐ仕事である。

 

 

人生の舞台

 

ステージの中央で一人の役者がリア王を演じている。
彼は一心不乱に役を演じている。

傲慢なリア王から落ちぶれたリア王まで迫真の演技で見事に役をこなす。

彼が手を上げれば照明が付き、足踏みすれば音楽が流れ、振りかえれば場面展開が始まる。
まるで本物のリア王のように振る舞う姿に客席では万雷の拍手が鳴り響いている。

憎まれ、騙され、罵られ、蔑まれて絶望の淵をさまよう演技は感動の渦を巻き起こす。
彼は公演回数と共に徹底的にリア王に成りきって行った。

そこから人生の過酷な試練に引き寄せられて不幸が始まる。

彼はステージ以外の場所でもリア王を演じてしまったのである。
傲慢な言動、横柄な態度、命令口調、凶暴性と最悪な人間性を剥き出しにしたのである。

そして人間不信となり金と力だけしか信じない非情な人間となってしまった。

その為に、仲間の役者が一人二人と辞めて行き、スタッフも十人二十人と出て行ってしまった。
もう、彼の周りには誰も彼をサポートする人間がいなくなったのである。

まるで身内から追放されて嵐の中をさ迷うリア王そのものに成ってしまった。

芝居の筋書きが現実の筋書きに書き換えられてしまったのである。

それから月日が流れ歳を取り収入も無くなり、彼は路頭にさ迷う人生を送っていた。
ある日街の小さな劇場で張り紙を目にした。
そこには年齢問わずスタッフ募集と書かれていた。彼は面接を受け採用されて裏方として働き始めた。

そして彼は働き始めてすぐに気付いた事がある。

今迄は、劇場の中心は舞台の中央だと思っていたのが、そうでは無い事である。
脇役には脇役の中心があり、照明には照明の中心があり、音響には音響の中心がある。
オーケストラはオーケストラの中心があり、裏方には裏方の中心があることを知った。

劇場があるから、舞台があるから、観客がいたから、
全て揃って一編の芝居が成立したことを初めて思い知らされたのである。

あの頃は自分が舞台の中央で最高の演技をしたから大成功したのだと勘違いしていた。
血の滲むような努力の結果主役が取れたことに有頂天に成っていたのである。
公演が成功するごとにライバルも頭を下げるようになり傲慢になってしまった。

「傲慢で無ければ一流の役者になれぬ、しかし傲慢になると人を駄目にする。」

舞台の中央の位置を守る為に、いつしか周りが見えなくなっていた。

彼は照明の落ちた劇場の、残された薄明かりの中で舞台の中央に歩み出た。
涙を流しながら膝まずいて「我はリア王なり」と叫んでみた。

見えない役者やスタッフや観客に向かって何度も頭を下げた。ごめんなさい・ありがとう。

聞こえない拍手と歓声に手を振りながら、大切なことに気付くのが遅かったことを心から詫びながら舞台を降りた。

そして次の日から二度と劇場に彼が顔を出す事は無かった。

人は努力している時には感謝の気持ちがあっても、何故か成功すると傲慢になり感謝の気持ちが失われます。
頭を下げる方から頭を下げられる方に成ると人間性が変わってしまうのです。

そこに人生最大の落とし穴があるのです。

試練は神様から成功する為に与えられるテストです。
しかし成功した後の人格テストもあることを忘れないで欲しいのです。
この二つのテストに合格してはじめて完成された人間となるのです。

自分を中心に考えている人は、一度舞台を降りて客席から自分の位置を確かめるべきです。
自分の舞台が自分だけで成り立っていないことに気付く筈です。

「人生は一冊の書物に似ている。馬鹿者たちはそれをペラペラめくっていくが、
賢い人間は念入りにそれを読む。
なぜなら、彼はただ一度しかそれを読むことができないことを知っているから。」
ジャン・ポール

 

一瞬の判断

 

人生の航海で突然大波が来る時があります。
前から来るのか横から来るのか分かりません。
そのような時に大切なことが一瞬の判断です。
そして判断と共に大切なのが決断力です。

決断力とは何事にも動じず迷わないことです。

 

一瞬の判断は先天的(動物的本能)と後天的(学習経験)があります。
本来人は瞬時に判断することは得意としている筈なのですが、
文明の発達と共に人間の本能が劣化していることも事実です。
直感よりも経験とデーターに頼ってしまうからです。

 

飼われた動物と同じで一度安全と安心を与えられると、
危険には鈍感になることが多いのです。
他人には起こっても自分には起こらないだろうと云う、
おかしな過信がうまれて実際の被害にあってしまうのです。

 

人々が問題に対して判断を誤るのは、
過去に刷り込まれた記憶に頼る事が多いからです。
自力で脱出をするよりも作られた逃げ道を探すからです。
世間に氾濫している常識という暗示に従うからです。

それが権力者の作った安全神話なのです。
恐怖を作り安全を約束する、飢餓を作り食料を与え安心を約束する、
他国からの暴力に戦っても守ると架空の平和の約束をする。
純真な民衆は幾度となく騙され続けてきたのです。

 

現代に生きている我々もあらゆるシステムに騙されているのです。
常に不安や混乱を煽られて逃げ道を一方的に押し付けられているのです。
新しいシステムが一つのルールとなり囲いの中へと追い込まれ、
限りない消費型の罠にどんどん引き込まれてしまうのです。

それを避ける為には正しい情報と一瞬の判断が重要になります。
状況に応じてどのように判断するかが危険から逃れる唯一の方法なのです。

一瞬の判断は逃避の為の本能と言っても良いかもしれません。

更に五感による胸騒ぎというシグナルも感度を良くしておくべきです。
不安を感じたり嫌な予感がする時には注意が必要です。
現在は何が起こっても不思議の無い時代ですから。

自分の体内から起こるレジスタンスを呼び覚ます時です。
抵抗勢力こそ判断を磨く切っ掛けに成るのです。

人生の航路を安心と安全に頼るのではなく、
不意の災難に立ち向かえる強い決断力も準備しておくべきです。

何事にも動じず迷わずに生きて行きましょう。

 

すなおなままに

「すなおなままに1」

天気が良ければ天気を喜び
雨が降れば雨を喜ぶ
親切を受ければ親切を喜び
愛を感じれば愛を受け取る

美味しければ素直に美味しいと言い
可笑しければ腹いっぱい抱えて笑えば良い
飾らずにすなおなままが一番いいんだ

あれこれ後先を考えて生きていても仕方が無い
その瞬間に心で感じたことを表現しなければ
折角の神様の贈り物に気付かないことになる

あーもったいない・もったいない

 

「すなおなままに2」

いちいち考えることではない感じる事だ
子供も大人もおじいちゃんもおばあちゃんも
無邪気な心が邪気を払うことになる

邪気とは病気になってしまう気持ちのこと
子供の心を無邪気というのは病気を心配しないで
天真爛漫に生きているからなのだ
天真爛漫とは自然のままで偽りや飾り気のない様子で
欄漫は花の咲き乱れた様子

自然の中で感じたままに生きるのが一番なのだ
考え過ぎるから病気に成ってしまうのだ
考え過ぎるから争いが起きるのだ
考え過ぎるから悩みが増えるのだ

先ずは感じることが大切なんだよ!

 

「すなおなままに3」

頭の中で親切にすると間違うよ
こうすればきっと感謝される
こうすればきっと喜ばれる
こうすればきっと助かる

親切と手助けを間違わないで!
親切は親しさを切る
すなわちとことん配慮があり思いやることだ

手助けは困っている部分の手を貸してやるだけ
本人のがんばりを基に手伝うことだ

みんな勝手に親切している
あいてのことを考えないで

歩き始めた子供を抱きしめたら駄目だね
転んでも・転んでも側で見ていてやる
それが親切!

高いところに上がろうとしているとき
お尻を少し押すのが手助け!

おとなの世界でも同じだよ

 

「すなおなままに4」

あいての良いところをみてごらん
あいての良いところを好きになってごらん
あいての良いところを他人に自慢してごらん
ほら、あいての良いところがもっと輝き始めるから

人は

あいての嫌いなところを見てしまう
あいての嫌いなところを直そうとする
あいての嫌いなところを馬鹿にするよね
ほら、どんどんあいての嫌いなところが膨らみ始めるから

そんなときは

前に座るのじゃなくて
横に座って話をするのさ
互いにおなじ方向をみるから良いも嫌いも気にならないね
あいての話じゃなくて自分の話がしやすいね

好きも嫌いも見える部分はほんの一部だけ
本当は見えない部分の方が大きいんだ
自分も見える部分ばかり気にするよね
だけど何も気にしないですなおに話をすればいいんだ

きっと嘘でつきあうより楽になるから

 

剣の長さ

「剣の長さ」

スパルタのある軍事専門家は、
自分の子供が自分の剣が短いと嘆いているのを見て、こう言いました。

「お前が一歩前に踏み出すことで、その剣を長くせよ」。すごい言葉です。

相手より劣っている事に悲観しても始まりません。
一歩踏み出す勇気があれば欠点という問題は解決すると言う事です。

不安の中で傷つくことを承知で一歩踏み込む勇気です。
その一歩を踏み出す毎に多くの学びがあるのです。

勇者は一歩踏み出す勇気を持っている人のことを言うのです。

「百尺の竿頭」

禅語である。「百尺の竿頭さらに一歩をすすめよ」

迷いの多い修行僧に百尺(30m)の竿の先よりもっと先に出ろ、
死ぬか生きるかを考えるようではまだまだ修行が足りない、
仏の教えに間違いはないのだから更に一歩進めよと云うことです。

努力なしで手に入る知識などはまったく役に立ちません。

百万語の仏教書を読んだところで意味などないのです。
自らの体験を持って手に入れた知識は万人の手助けとなるのです。

勇者は恐怖に打ち克って他人を守る人のことを言うのです。

「欠点が長所」

歌の下手な歌手が一曲だけヒットを出しました。
出身地の訛りがひどくおまけに胴長短足で見た目も悪い。
その彼がある日役者に転向をしたのです。

歌手が役者へ転向して成功の例が無い時代でした。
彼の個性を見出した脚本家が彼を絶賛したと聞いています。

「あなたの欠点がすべて長所なのよ」

その一言で彼は日本でも有名な役者となったのです。
本人の持っていたコンプレックスは役者として必要だったのです。
彼はスパルタの剣を使ったのです。

勇者は剣の長さではなく剣の使い方を知っている人のことを言うのです。

「溺れる藁」

諺に「溺れる者は藁をもつかむ」というのがあります。
困った時には小さな希望も大きく感じてしまう事があります。
しかし藁は、藁なんだ!何の役にも立たないと云う事です。

貧すれば善人も邪悪な気持ちになり、
生きるためには悪行も仕方が無いと言い訳をします。
小さな悪から大きな悪に変わるのにはさほど時間が掛りません。

もがけばもがくほど悪い流れの方向に引っ張られるのです。

自力で助かる方法は流れに身を任すしかないのです。
「流れる石は激流を選べず」どのような流れにも適応するしかないのです。
小さな救いで抵抗するよりは、流れに身を任している方が運は開くのです。

勇者は自ら激流に飛び込む事が出来る人のことを言うのです。

「それでも」

マザーテレサの言葉です。

あなたがした、いい行いは、明日には忘れられます。
それでも、いい行いをしなさい

誠実さと親しみやすさは、あなたを容易に傷つけます。
それでも、誠実で親しみやすくありなさい。

本当に助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら、彼らに襲われるかもしれません。
それでも彼らを助けなさい。

持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。
それでも一番いいものを分け与えなさい

勇者は自分の損得では無く純粋に困っている人を助けることができる人を言うのです。

すべてはスパルタの剣と同じ内容です。

一歩踏み出した勇気が成功への道を開かせるのです。

 

ポジション

 

今、自分が何処にいるかわかりますか。

人生というグランドでどのポジションにいるかわかりますか。
どのようなゲームをするにしても一人でゲームをすることは出来ません。
多くの仲間達と共に生きて行く為のゲームをしなければならないのです。

そして自分のポジションが分かれば、何をしなければならないかが容易に判断できるはずです。

常に自分のポジションが見えている人は、自分で自分を守る事が出来ます。
それはポジションでやるべき事を理解して集中するからです。

ポジションに集中すれば悩みも少なくストレスも溜まる事はないのです。
ポジションでミスを犯さなければ得点も得られるのです。

一流のプレイヤーは自分のポジションで集中力を途切れさせない人です。

しかし、自分のポジションが見つからない人は、
自分のポジションよりも他人のポジションばかりが気に掛かってしまいます。

自分のポジションが見えないから何をして良いのかまったく分かりません。
その為に愚痴や文句が多くなるのです。そして戦力から外されてしまうのです。

ポジションを見つける事は自分の能力を見つける事と同じです。
そこにおいて自分の能力を過大に評価しても何等意味のない事です。
誰もがスタープレイヤーになれるわけではありません。

一流のプレイヤーになれなくてもサポートする道をさがさなければなりません。

ポジションは人生における立ち位置です。

たとえ自分に与えられたグランドの環境が悪くとも、
チームメイトとのコミュニケーションが悪くとも、
周りの観客の態度が悪くとも、
自分のポジションから離れるわけには行かないのです。

しかしひとつのゲームが終われば次のグランドに移る事は可能です。
それまでは責任を持ってポジションを守り続けなければならないのです。

ポジシヨンの指名は自分で選べないのです。
どのようなポジションでも運命から与えられた背番号を付けて闘うしかないのです。

自分自身が守れる範囲が分かっていれば無理をしなくてもすみます。

しかし、自信のない時には他人のポジションがどうしても気になってしまいます。
常に他人との比較の中で自分の立ち位置を相手側に置いてしまうのです。
だからその人が動くとそれにあわせて自分も動いてしまいます。

その内に相手が動いているのか自分が動いているのかが分からなくなってくるのです。
自分が動かない分だけ周りが動いているように錯覚をしてしまうからです。
動いている自覚があれば、今のポジションの存在価値や重要性が見えてくるはずです。

「正法眼蔵隋聞記」第一現成公按の中にこの様なことが書かれています。

「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。
目をしたしく舟につくれば、舟のすすむをしるがごとく、
心身を乱想して万法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。
もし行李をしたくしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。」

舟に乗って河を渡るとき、岸のほうを見ると、あたかも岸が動いているように見える。
今度は目を舟のほうに向けると、舟が動いているのが分かる。
これと同様に身心が乱れた状態で世の中を見ると、世間が異常で自分が正しいかのように思い誤る。
悪いのはすべて世間であって自分ではないと思う錯覚である。
自己の行動を正して本来の自己に返れば、あらゆるものは無我であるという道理が分かる。

自分のポジションの中でやるべきことを正しく行い、
他人のすることに気を取られなければ、あらゆるものはその法則に則っているのが分かる。

他人のポジションに気を取られずに、
宿命から与えられた運命のポジションをいち早く見つけることが大切です。