限界の先には




幸福の限界はあるのだろうか?
絶望の限界はあるのだろうか?
悩みの限界はあるのだろうか?

「うを(魚)水をいくに、ゆけども水のき(際)はなく、鳥そらをとぶに、
とぶといへどもそらのき(際」はなし、しかあれども、うをとり、
いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。
要小のときは使小なり。」
「正法眼蔵隋文記」道元

魚は泳げども、泳げども海はどこまでも続くが、海から離れない。
鳥は飛べども、飛べども空はどこまでも続くが、空から離れない。
いずれも究極まで行こうとするのでなく、その都度必要なだけ進むにすぎない。

要するに人間も人生の中で幸福の絶頂を望むが、四苦「生老病死」からは逃れられず、
絶対に「死」からは離れられないのである。
人生は生まれたときから一歩ずつ頂点の死へと進むにすぎない。

限界を目指して修行は行われるが、限界の先に到達した人はいない。
悟りを得た修行僧もその限界の先に何度も目指しているが到達した者はいない。

宇宙に限界が無いのと同じで、人間界のき(際)は無いのである。
その都度必要な分だけ前へ進めば良いのである。

千日回峰を何度か経験した僧は「大阿闍梨様」といわれて神のように扱われるが、
決して神になったわけでは無い。本人の満足は修行に必要な分だけ進んだか否かである。

理念に縛られて理想国家を作ろうとしても、国民の協力が得られずに
限界の先へ一人で暴走とすると国家存続の破滅が迫る。
「賢者は歴史で知り、愚者は経験で学ぶ」帝王学

どれほど高い地位にいても自分の「分」を知ることである。「小欲知足」
少なくても足りることを知れば戦争など起こらないのである。
奪い合えば足りず、譲り合えば余る。ワンサードの精神を学ぶべきである。

自分の能力を過信するなかれ、しかし小さくまとまる必要はない、
必要な時に必要な行動を起こせるかが大切である。

「君に忠、親に孝、自らを節することを厳しく、下位の者に仁慈を以てし、
敵には憐れみをかけ、私欲を忌み、構成を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」
武士は名誉を重んじて恥を嫌う。親に対する「恩」は一生かけても返済する。
武士道の基本を肝に銘じよ。

修行僧はあちらこちらの寺へ行き、名のある禅師に問答を仕掛ける。
いわゆる、「禅問答」で相手の器量を図ろうとする行為である。
しかし、多くの場合は禅師の一言で修行を一から始めなければならなくなる。

お釈迦様の説法された真義を理解するために「只管打坐」で何年も修行に耐える。
これは小乗仏教の考えで自分が悟りを得なければ人を救うことは出来ない。
大乗仏教は先ずは人を救え、救いながら修行に励み、そして悟りを得るのだと教える。

知識で考えることを当たり前のことだと思わず、
本当の答えは何かと自問自答を繰り返すのである。
感性を研ぎ澄まして真理の追究を限界まで追い求める。

その為に禅寺で寝泊まりをして、精進料理を食して、簡素な身なりで托鉢に出かける。
悩みに行き詰まったら、評判の良い禅師に教えを乞うために旅に出る。
決して禅僧に個人(プライベート)の時間は無いのである。

そして禅寺に着き開口一番「禅とはなんぞや」と問いかける。
禅師は微笑みながら何回訪ねてきたのかと聞く「初めてです」
そこで「喫茶去」と応える。
「喫茶去」と言われれば、今日のところは、俺の淹れたお茶でも飲んで
出直してこいという意味である。

そして、修行中のある日、鹿威しの音や、カケスの鳴き声や、満開の桜を見て
「悟り」に気づくのである。

般若心境に書かれている「色即是空・空即是色」そこにすべては無い、
しかしそこにすべてが存在する。
この「無」の境地を西洋人は理解が出来ない。

存在とは誤認識の中の錯覚であり、全てのもののミクロの細胞までたどり着けば、
目に見えないタンパク質で作られた二重らせん状のDNAがあるだけである。

そこには何もないのである。しかしそこにはすべてが存在する。
視覚で捉えた世界を在ると信じるのは間違いである。
視覚で見えない世界に神や仏が存在することを知るべきである。

幸福の限界はあるのだろうか?
絶望の限界はあるのだろうか?
悩みの限界はあるのだろうか?

人間界に限界という定義は無いのかもしれない。

自分の道




「自分の道を決めるところから始めよう」

子供の時から好きだったことや望んでいたことを書き出してみよう。
自信があるから、学びたいから、興味があるからで良い!
私は学生時代に将来何をするか考えていた時に海外へ出る決心をした。
音楽の勉強なら当時はアメリカか、イギリスが相場だった。
最終的には好きなアーティストが多くいるイギリスへ行くことにした。
それと同時に自分の経歴に海外留学が入れば音楽業界で優位に立てるかと思った。
海外でも活躍できるプロデューサーになることが夢だった。

「自分の道を準備しよう」

資金作りのために学校近くの工事現場で1年間アルバイトをした。
同級生や先生は見て見ぬふりをしてくれたのだがどうでも良かった。
1年後、パスポートを手に入れ下宿を引き払い横浜に向かった。
同じ時期にイギリスに行く仲間と横浜で会って決意を固めた。
我々が選んだルートは北回りで横浜から船でソ連、北欧経由
(シベリヤ鉄道、エアロフロスト、フェリー)でロンドンに入った。
入国審査で問題が発生したが自分の道なので乗り越えて入国を果たした。
その日に、それぞれの道を歩くためにロンドンの街で分かれた。

「自分の道を歩き始めよう」

どれぐらいの期間で、幾らぐらいの経費が掛かって、どのような成果が作れるか、
そして収入を得る方法は見つかるのか、心配事は山ほどあったが、
海外生活のワクワク感の方が大きかったので、何もかもが苦にはならなかった。
ロンドンに到着して不動産会社へ行ってアパートの契約をした。B&B
その後に英会話の学校へ行って入学手続きをした。学生ビザの取得が可能になる。
翌日にはロンドンの街を歩きながら、手当たり次第にレストランへ飛び込み
「Give me job」で掃除と皿洗いの仕事を始めた。
勿論、不法就労なので入管の立入検査のたびにレストランの裏口から逃げたのです。

「自分の道に未来はあるか考えよう」

漠然とやりたい仕事が音楽業界で働きたいと思っていた。
その為には英国のアーティストに会いたい気持ちで、
ジャズクラブやライブハウスへ通った。
ジェームズテーラー・エルビンジョン・バーニーケッセルなどと出会った。
音楽雑誌ローリングストーンで当時の音楽ビジネスの状況を調べつくした。
そして海外プロデューサーの存在を知った。
時折ロンドンの地下鉄の通路でボブディランを歌い小遣い稼ぎをしたのも懐かしいです。

日本に戻りCBSSONYに入社。電話一本で一流会社へ入社したと話題になりました。
その頃の日本のレコード会社は、作曲家の先生と作詞家の先生に曲を依頼して、
レコーディングも編曲者に頼んで、出来上がったマスターをレコード工場へ送る
作業をしていました。ディレクターもプロデューサーも不在の時代であった。
宣伝や営業も代理店に頼んであとは座ってレコード店から注文を待つのみでした。
私はここにメスを入れて独自のスタイルでヒット曲を量産したのです。

「自分の道は他人が歩ける道になったのだろうか?」

若い時からあらゆるものに興味を持ち挑戦して来ました。
自分で選んだ道なのでまったく後悔は無いのです。
少しの挑戦と、それに伴う行動と、マーケティングの手法を取り入れただけです。
人生において挫折を何度も味わいましたが後悔は一度もしていません。
どんなに時代が変わろうと基本的な仕事のやり方と、人としての生き方は変わりません。
これからは歩いてきた道を多くの人に使っていただくために、「恩学」を通じて
教えていきたいと思っています。

 正気の歌
世の中はよこしまな気風がみなぎり正しい事が通らない世相になっている。
しかし天地には正気がある。正しいと思う事を貫徹し正気を貫こうとの歌。
「天地に正気あり、雑然として流形を賦す。下は河獄(かがく)となり、
上は目星となる。人においては浩然の気となり、沛乎(はいこ)として
蒼冥(そうめい)にみつ」。
「天地には正しい気がある、混然としてはっきりしていないが、地上では河や山となり、天に上れば太陽や星になる。人においては浩然の気となり、広がり宇宙に満つ。」

「文天祥」
貧しさは強固な精神と肉体を生み、豊かさは精神を病め、
肉体を虚弱化させる。それはいつの世も変わらない事なのだけど、
南宋の最後の丞相文天祥。20歳にして科挙を状元(首席)で合格。
しかしすでに南宋は元との戦いに敗れつつあった。
元との戦いに転戦するも、捕らえられるが、脱獄し各地でゲリラ活動を行う、
再度捕らえられ元の都、大都(北京)に送られる。
モンゴルの皇帝フビライはその才能を惜しんで何度も臣下になるように進めたが、
断固として断り、獄中で「正気の歌」を詠む。享年47歳。処刑される。
フビライは「眞の男子」なりと評したという。

挑戦を恐れるな、信念を貫け、大義のために死をもいとわず。
自分の道を正々堂々と歩き続けよう。

心の時代




モノからコト、コトからサービス、サービスからココロ、物質世界から精神世界へと変わる。
啓蒙思想ルソーが定義したフランス革命「自由・平等・博愛」とは、
人間本来の理性の自立を促す。「尊厳」とは、原義はラテン語の「光で照らされること」です。

人々の心の中を光で照らすということは「夢と希望」が存在しなければなりません。
尊厳を必要とする18世紀西洋文明の時代がいかに暗くて陰湿であったかが
よく分かります。

人間の尊厳の再認識「人間らしさとは?」

人間とは二足歩行、道具を使う、言葉を話す、知識を使う動物である。

我々の学問は一般的に見えるものを対象に繰り広げられる。(唯物論)
疑問があっても目に見えないものは全て心の問題となる。(唯心論)

そして答えの無いものは全て「神の領域」だと教えてここから逃げの学問が始まる。

科学が追求する領域にも限界を感じる。宇宙無限の解明がなされないまま現在に至る。
近代哲学分野の「国家と民衆」人間が中心に国家を作り上げる。(過去は神を中心に国が成立とした)ホップス・ルソー・ロックが中心人物で、この考え方を提案した。

そしてあらゆる問題は目に見えない「絶望の壁」である。
人間が理解できないことは全て「絶望の壁」が立ちはだかるからである。
一体「壁」とは何か?自分の心を持たずして神に仕える奴隷の時代の名残である。

人間として恐怖心から生まれた心と恥を知る脳(無知蒙昧)が見えない「壁」を作る。

元々そこに問題がなかったとしたら知識がいつも邪魔をしていたことに気づく。
我々はいつも頭で考えるから答えが見つからず、心で捉えなければ解決の糸口は無い。

空回りするのは「心」というアクセルと「脳」というブレーキを同時に踏み続けているからである。心の原点に立ち戻らなければ闇夜の世界をたださまよい続けるだけである。

縄文時代に「壁」は存在しなかった。
自然の中で人間という生き物が単純に存在したからである。
自然と共に生きることが「壁」を取り払う要因かを研究する時代に入った。

縄文時代の豊富な食料と文化の存在が重要なカギになる。
文化とはすべて神に繋がっていて、古代宗教アニミズムによる万物に存在する、
全てのものに畏敬の念を持ち、神が存在するという概念を知るところから
始めなければならない。

縄文時代を語るにはアニミズムと山岳信仰は切り離せないのである。
万物の神々と一緒に暮らしていたから争うことも奪い合うこともなかった。
ここに心の時代の糸口が見つかるはずである。

都市化が進み、自然は「ない」ことにされた
木や草が生えていても、建物のない空間を見ると、
都会の人は「空き地がある」というでしょう。
人間が利用しない限り、それは空き地だという感覚です。
空地って「空いている」ということです。ところがそこには木が生えて、鳥がいて、虫がいて、モグラもいるかもしれない。
生き物がいるのだから、空っぽなんてことはありません。
それでも都会の人にとっては、そこは「空き地」でしかないのです。
養老孟子「ものがわかるということ」より

心の時代だと知りながら心をコンクリートで固めてしまうのはどうかと思うのです。

ロゴス思考とレンマ思想




ロゴスとレンマという言葉がある。論理的思考と練磨(れんま)的思想である。
西洋的な論理思考と東洋的な練磨思想の違いは何か?

砂漠から生まれた「西洋的思考」と森林から生まれた「東洋的思想」は、
宗教も世界観も全く異なる。

西洋的思考では二者択一で物事を判断する。
神か悪魔か、有か無か、正か悪か、右か左か、男か女か、勝利か敗北か、優秀か無能か、
どちらかを選ばなければならない。

そして西洋哲学は「驚き」から始まる。
そこに物がある、見事な花がある、世界はこのようにある、それらを存在させるものは何かを問い詰めるのが西洋思考「有の思想」である。

東洋的思想の世界では生命は不変であるという意識で物事を見る。
万物はすべて空(くう)なのである。ゆえにそこに存在しないが、存在するのである。

存在を存在ともたらしているのは、何か絶対者のような究極存在ではなく、
いっさいは、ただ「無」から出てまた「無」へと帰っていくだけなのです。

二者択一で選別するのではなく、環(サークル)で結論するのが「無の思想」である。

土に種が落ちて芽が出る、芽はやがて大きくなり大木となる、大木は切られて建物になる、建物はやがて朽ちて土にかえる。「無」から出てまた「無」へと帰っていく。

「輪廻転生」の世界では一つのものごとに完全な答えはないから、
二者択一で考える必要は無いのである。循環の世の中ではすべてが平等である。
万物は永遠に流転する「円環的世界観」が成立したのです。
これが大乗仏教「廻向と空」の思想なのです。

現在のロゴス思考とレンマ思想で避けることが出来ないのがデジタルの応用です。
デジタルは悩む時間を大幅に短縮できて容易に答えを導き出すのです。
そして地球の果てにいてもコミュニケーションが取れるのです。

これは思考(考えや思いを巡らせる)ではなく、思行(思いを巡らせて行動に移る)
(思即行)なのです。

自立しようとした覚醒の中でも孤独にはなれない。
哲学者は孤独の中でもがき苦しみ心理の追求に徹したのだが、
現代では孤独になる難しさがある。

勇気をもって孤独になる必要もあるのです。
デジタル機器のスイッチを切ることが人間性を取り戻せる機会なのです。

縄文遺跡の古代人と、あるいは無人島で星たちと、無言の会話をすることが大切です。

ロゴス的思想とは、ロゴス(論理)・パトス(情熱)・エトス(信頼)の組み合わせである。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人心誘導の術として、
この3つの要素が重要だと言いました。

多くの哲学者及び学識者や政治家に究極の演説法だと提言したのです。

レンマ的思想は錬磨(練磨)=物事の真意を深く掘り下げる・追求する。
インド式論理、インド古来の思考様式。
技芸・学問などを鍛え磨く、心身を練磨すると使われる。

小乗仏教は仏僧本人の修養で大乗仏教は民衆のための修養である。
鍛え磨かれた状態の先には必ず民衆の幸福があるのです。
結果、人々が幸福になってこそ宗教は存在するのです。

ロゴスのような知識に頼るのではなく、
自然から沸き起こるようなレンマ的発想が重要だと言います。

古代仏教の答えのない真理の追求から自身の欲を捨て無の境地から「空」を知るのである。禅でいう「無分別即分別」の意識を育てることである。対極から求める答えに悩むのです。

例えばこの言葉「驢覗井」ロバが井戸を覗く、井戸がロバを覗いている、
という「禅」の発想がある。

見た目ではロバが井戸を覗いているように見えるが、
本当は井戸がロバを見ているのかも知れない。

人間が考えている意識は本人の見た目の視覚(分別)から判断するが、
禅の世界では思考の対極(無分別)から見て知恵を出すのです。

禅の研究家鈴木大拙曰く、「禅」はもろもろの具体的・現実的な問題を処理するものではなく、それらを処理する「理論・思想・指導方針」などの、
「分別の思想を働かす原理」なのだという。

所謂、般若心境「色即是空・空即是色」そこには何もないが、何もないところに全てがある。「無」の境地に立つとすることです。

これは現代の教育ではとても必要なことです。
答えにたどり着く西洋的教育から、想像にたどり着く東洋的教育が重要です。
まさしく和教の精神です。「和をもって貴しとなす」すべてを全方位から眺めることです。

西洋的に多数決ですぐに答えを求めるのではなく、日本古来の話し合いを深めて、
反対意見も取り入れながら結論にみちびくのです。

若者達の悩み




大人から若者達の悩みは軽いという発言は甚だ憤慨である。
社会の営みを少し経験したからと言って頭ごなしに批判するのは許せない。
どんなに豊かな暮らしをしようと、どんなに貧しく暮らしていても、将来に対する夢は、
若者達共通の悩みであって然るべきである。
若者は大いに悩んで苦しんで新時代を築いてほしいものである。

悩みにかける時間や大きさや重さは一定ではないのに、
本人が受けるダメージを数値で表すのは如何なものかと思う。
将来のことや、仕事のことや、キャリアを積むことをグラフで表しても意味は無い。
悩みは成長の階段であり、悩みの解決こそ人生の指標と為すのである。

私は10代の頃は貧困に苦しんだが、それを癒してくれたのが初恋である。
初めて人を好きになった感動は今でも忘れない。

「初恋」

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畠の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

島崎藤村「初恋」

初恋は地方に住んでいても都会に住んでいても誰・彼くべつなく訪れる心情である。
どのような環境どのような状況であれ思春期には普通に訪れるのである。
初めて異性を意識して「好き」という感情が芽生えたトキメキは今でも忘れない。

「若き日に薔薇を摘め」美しいバラを握りしめて、たとえ傷ついたとしても、
若者はすぐに癒されて回復する。だから好きな薔薇を思い切り握りしめるのだ。恩学

そして若者はその時から偉大なる詩人になる。
稚拙なラブレターもたどたどしいメールも新鮮な言葉であふれている。
ゲーテやハイネや若山牧水を読んで胸の高まりを文字で書き記す。

その心境が様々な楽器に触れるキッカケとなり、また絵筆を握らせキッカケともなる。
真白きキャンバスに「夢」を書き殴ることにつながるのである。
もし音楽に素養があれば大作曲家にもなれるチャンスが広がるのである。

若者よ、今この時の無限大の可能性を楽しんでほしい。

「現代の若者達の悩み」
年齢別でみると、18歳では「今後の未来のこと」(44.5%)、
19歳と20歳では「仕事・就職のこと」(どちらも51.0%)が最多となった。
20歳の悩み1位を過去の調査結果と比べてみると、2016年から2018年は
「今後の未来のこと」、2019年では「お金のこと」だったが、2021年は
「仕事・就職のこと」がはじめて1位となっている。

2021年に積極的に取り組みたい・チャレンジしたいことを尋ねた質問
(複数回答)では、「学問」(55.2%)がもっとも多く、
「趣味」(46.7%)、「アルバイト」(43.7%)、「資格取得」(35.8%)、「恋愛」(31.8%)がそれに続いた。
将来やりたいことを探したり、考えたりする際に、
誰またはどんな情報媒体を参考しているかを尋ねた質問(複数回答)では、
「インターネット(SNS以外)」(46.3%)、「両親・家族」(35.3%)、
「友人・知人」(31.5%)、「学校や職場の先輩」(28.0%)、「本」(24.0%)が上位となった。

今後、どのような生活スタイルを望んでいるのかを尋ねたところ、
「自分の好きなことや興味のあることに囲まれた豊かで楽な生活スタイル」(26.8%)が最多だった。
以下「自分の好きなことややりたいことに、
時間と手間を集中させる生活スタイル」(16.3%)、
「のんびり気ままな自然志向の生活スタイル」(15.7%)が上位を占めている。

買い物に対する意識を尋ねた質問(複数回答)では、「買物は楽しい」(51.0%)、「流行の商品でも自分の趣味に合わなければ買わない」(41.5%)、「買い物にはコストパフォーマンスを求める」(38.3%)、
「自分に必要な物だけを買う」(36.2%)「買い物をするとストレス発散になる」(28.3%)が上位を占めている。CCCマーケティング調査より

若者の特権は時間が豊富にあることです。
どんな状況であっても「夢・志」を忘れずに過ごしましょう。
夢は必ず叶います。Dreams come true.

君たちはどう生きるか



1937年11月16日発行吉野源三郎著作「君たちはどう生きるか」(日中戦争勃発)
著者(おじさん)がコペルくんの精神的成長に託して、語り伝えようとしたものは何か?
それは人生いかに生くべきかと問うとき、常にその問いが社会科学的認識では
何かという問題と切り離すことなく、問わねばならぬというメッセージであった。

今回、映画の「君たちはどう生きるか」はファンタジー世界での冒険を通して世界の仕組みを概念として知っていくストーリーになっている。

1944年敗戦間近、東京が焼夷弾で焼かれている場面から始まり、
母親(久子)を失った少年(真人まひと)が主人公である。
父親(正一)の再婚相手、夏子(久子の妹)のもとへ疎開した。
そこから異次元の世界へと導かれる。

この作品は単なる娯楽作品ではなく、あくまでも哲学的見地から見た少年(真人)の
好奇心と正義感と真実を求める姿を描いた作品であることは確かである。

しかし、宮崎駿(原作・脚本・監督)の制作意図を裏読みしようと苦労した。
10年ぶりの発表でこの作品が最後の作品になるのではないかと噂されている。

有から無、生から死、輪廻転生、神隠し、死後の世界、など
仏教的思考から日本的情緒に溢れていた作品である。

創造から破壊、破壊から創造、生きるとは、死の危険を間近に見る事により、
そこに親と子の、世代を超えた仲間との結びつきにより信頼関係が存在する。

世界の構造は覇権争いの結果、武力で侵略を繰り返している。
現在のウクライナとロシアの戦争を彷彿させようとしたのだろうか。

真人君の「真の友達探し」をさらっと流したのは、
現代の少年少女達への共感を得る為のものだったのか?

創造主、大叔父が本当に伝えたかったことは何、
その後ろの茶色の物体(空から降って来た隕石を囲う塔)は何、
理想的な社会とは何、映画鑑賞後に数多くの疑問は残った。

大叔父から言われた悪意を持っている人間には、理想の世界は作れないという言葉に、
真人は自分も悪意のある人間だからその権利は無いと断った。
(何故転校した先の地元の少年たちと喧嘩後に、
石を拾って自分の頭部を血が出るまで殴ったのかここにも疑問が残る)

最後、現実世界へ戻る時に真人とアオサギのドアが、
お手伝いのヒミ(若き日の久子)ときりこのドアと違ったのは、
現実(現在)と過去(昔)を分ける為に作られたタイムトンネルだったのか。
この「最後のメッセージ」が分からない。

個人的に、ペリカンの親父(アメリカ)とインコの王様(ロシア)は苦手だ。
(鳥は生理的に苦手) 
勝手にアメリカとロシアの国名を書き込んだのは、
世界はこの二大大国が揺り動かしていることを伝えたかっただけである。

勿論、中国やGAFATが追随していることは紛れもない事実である。

全体的に製作者宮崎駿との感性の交流が難しい作品であった。
多分、全ての人から共感が得られない話題性先行の作品になるに違いない。

バンクシーの絵と同じで正体不明のアーティストのゲリラ展示がSNSを通じて、
世界へ広がった現象と似通るのではないかと思います。
勿論、NYの地下鉄の落書きペイントをしたキースヘリングも同じです。
すべての人が認め、何もかも理解して受け入れることはないと思う。
プロデューサーの鈴木敏夫はそこを意図してあらゆるPRを排除したと言っている。

音楽もアートも話題性や人気だから受け入れるのではなく自分の感性に合うかが大切です。
あらゆるものが溢れている時代には受け入れない決断も必要です。
高価なものであっても、有名シェフが作った美味な食事も、世界をめぐる航空券も、自分に必要がなければ「無価値」なのです。

昔NYで話題のジャズバンドのライブへ行った時の感覚と似ています。
音楽雑誌での評価も高く、現地のプレイヤーからも、お誘いがあったので行ってみました。
日本人の私には大したプレイでないところで盛り上がっている感覚が分かりませんでした。
一瞬、私はジャズのセンスがないのかと疑ったほどです。

不思議なことに「君たちはどう生きるか」を鑑賞後にあの時のことが蘇りました。

映画や音楽や芸術は生き物です。突然襲い掛かります。・・・・・・

次回の鑑賞後にはどのように心理的変化が起こるか楽しみです。
そう!1回で判断するには宮崎駿監督に失礼に当たります。

ご覧になった皆様はどのように感じたことでしょうか?

確固たる個性の形成




奇跡の人HJ LIM(リム・ヒョンジュン)
韓国出身のピアニスト「ベートーヴェン・ピアノソナタ全集」
故郷の母親に聴かせるために、個人的にインターネットにアップした動画が
世界中で大ブレークとなった。

12歳でパリに音楽留学。
韓国在住の母親に自分の演奏を聴かせようとユーチューブにアップしたところ、
それが大手レコード会社であるEMIのプロデューサーの目にとまり、
いきなりベートーヴェンの全集レコーディングに至ったという。

通常ならば、世界中で行われている各種コンテストに出場、上位入賞を果たして
何とかレコード会社と契約にこぎつけるというケースとは全く違っています。

果たして彼女は超絶技巧のピアニストなのだろうか?

テンポは微妙に揺れ動き、強弱、間の取り方、表情、
すべてがいわばやりたい放題なのですが、
それでも何かベートーヴェンそのものになっているのです。
他の演奏家と張り合うのではなく自分の感じたベートーヴェンを弾いているだけなのである。

一体個性とは何だろうか?
一般的には、「その人らしさ」とか、その人特有の性質・性格であり、
自然とにじみ出てくるものとあります。
周りの人と違っている部分が個性であり調和がとれるのです。
芸術家も、音楽家も、研究家も、経営者も個性が尊重されるのです。

ここで「個性」とは何だろうかを考える。
何故、日本の子供達から「個性」が消えたのだろうか?

個性消滅の諸悪の根源は「義務教育」である。
子供たちの個性が一番伸びる時期に均一の授業を行い、
画一化した子供たちを大量生産している。
受験のための教育に価値など何もない。
ましてやAIの時代が来れば単なる記憶は不要の長物である。

子供達の才能を引き延ばせば日本はあらゆる面で世界の頂点に立つことは出来る。
細かい手作業も、漫画やアニメに代表される物語性も、アスリートとしても、
研究家としても日本は素晴らしい環境が整っているのです。

日本では個性的な子は概して「落ちこぼれ」として扱い、
海外では「ディファレント」(違い)と言って個性があることは高く評価されるのです。

私は「個性」あるプロデューサーとして「音の職人」と言われていました。
全ての判断は自分の感性に準じています。

最初に提供された曲をアレンジャーと話し合って構成を決めます。
その後、テンポ、ビート感、抑揚(サビ)の持っていき方などを話し合います。

当日の全楽器の音色もチェックします。音の配置によってグルーブが変わるからです。
ボーカリストの声質とメロディーラインも一番良いポジションを探します。

重要なのは1~2回リハーサルを繰り返し、言葉(歌詞)の乗っかり方を確認します。
乗っかりが悪い場合はその場で歌詞を変えてしまいます。
特にボーカルの「ゆらぎ」を作り出すことに専念しました。
喉から出ている声、腹から出ている声、骨から出ている声を聞き分けるのです。
これはとても重要な作業ですが他のプロデューサーは取り入れていません。

そして出来上がったサンプルをカーラジオ、カセットデッキ、家庭用ステレオなど
音楽ファンの方々が通常CDの再生をする機材で仕上がりをチェックします。
昔の話ですから今では通用しませんが、良質なスタジオの音よりも、
一般オーディエンスが聞いている環境で再現することも必要でした。
再生機によって音の配置がガラッと変わってしまうので感動が薄れることもあります。

音楽にこれが正しいというのはありません。
プロデューサーの個性と感性で作ればよいのです。他人と比べる必要はありません。

クラッシックでは指揮者によって同じベートーヴェンの曲でも、
違う世界を作り出すことが出来ます。指揮者の個性が発揮される部分です。

ポップスやロックの世界でも「個性」ある人の方が長く活動が出来ます。

「個性」(こせい)の言葉で思い出したのが「悟性」(ごせい)です。
「悟性」は対象を直観的に把握・理解する能力、思考力、知性を言い表す哲学用語です。
その人らしさ、性格・性質に「悟性」が加わると最強だと思いませんか?

この原稿を書き上げている間、部屋のBGMとして流れていたのは、
HJ LIM(リム・ヒョンジュン)ベートーヴェン・ピアノソナタ「確固たる個性の形成」でした。

新鮮な言葉



今あなたが話している言葉はあなたの言葉だろうか?
本を読んだだけの言葉で話しかけても誰も振り向きはしません。

他人の情報を鵜呑みにして話しかけても誰も感動はしません。
自分の経験から生まれた言葉ならどんな些細なことでも伝わります。

そんな無機質な言葉を有機質に変えるのは言霊(ことだま)の力です。
古代の日本人は言葉に宿る霊力が、言語表現の内容を確実に実現することが
出来ると信じていたのです。

心からの話しかけは「祈り」と同じような祈願力を発揮するものです。

でも、話しかけるときに「わたし」を強調して話しかけると、
相手の人を突き放してしまう恐れがあります。
必ず「あなた」を優先的に話しかけると、
そこから「新鮮な言葉」が生まれてきます。

おざなりの使い古した言葉で会話をしても信頼関係は生まれません。

子供達は生後1才半~2才までに単一単語を覚えられるようになります。
「ママ」「パパ」「シッコ」「モグモグ」「ワンワン」などです。

お母さんから話かけられた言葉は全てが新鮮で自分だけの単語になります。
単一から単二なり「ママ大好き」とか「いぬ怖い」とか「これ嫌い」とか、
互いのコミュニケーションが出来るようになります。
双方の意識が通じて親は子供の成長を喜びます。

その上に3才~4才頃から絵本を読んでもらい簡単な文章が理解できるようになります。
単一単語から複数の単語の組み合わせが出来るようになるのです。
この頃の会話は子供にとっても親にとってもすべてが「新鮮な言葉」なのです。

保育園でお絵描きも出来るようになると同時に簡単な物語を作り出します。
子供は偉大なる「画家」であり卓越した「詩人」なのです。

そして小学校へ行くようになり教師から「これはダメです」「言うとおりにしなさい」「間違っています」などの威圧的な言葉を聞くたびに、言葉への興味を失っていきます。

大人は感情を抑えて現状を簡潔に伝えようとして「いいよね」「そうすれば」「まかせるよ」と相槌を打つだけです。
相手の発した言葉の意味を理解せずに「相槌言葉」は親子関係を悪くしてしまいます。
勿論、上司と部下の会話にも意思伝達の「指示言葉」だけだと信頼関係は生まれません。
若者たちが多用するSNSモバイルの「デジタル言葉」だと心が通じません。

子供時代は世界中の子供達が詩人になる。それは「新鮮な言葉」で夢を描くからです。

タイの友人が創作大学で最初の授業の時に「グーグルで検索できない言葉」の作成を
出題します。これからモノづくりをする人たちは使い古された「文言」で、
モノづくりを行ってはならないということです。
自分なりの言葉を作ることによって創造力が刺激されて個性が発揮されるということです。

「新鮮な言葉」は情熱と感動を元に作られます。
私たちが普段使っている言葉は使い古した言葉なのです。
新しい言葉を見つけて新しい言葉を使うと人間関係が楽しくなります。

中村天風の名言

「絶対に消極的な言葉は使わないこと。否定的な言葉は口から出さないこと。
悲観的な言葉なんか、断然もう自分の中にはないのだと考えるぐらいの厳格さを、持っていなければだめなのですよ。」

「常に善良な言葉、人を勇気づける言葉、人の喜びを与える言葉っていうような、言葉のみを使っている人、そういう人は心がけなくても、人に幸福を分け与えている人だよ。」

「言葉には人生を左右する力があるのです。
この自覚こそが人生を勝利にみちびく、最良の武器なのですよ。」

LET’S IT BE{あるがままに}




ビートルズが歌った世界的な大ヒット曲である。

When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be

僕が苦難の時
聖母マリアが現れ
知恵を授けてくれる
「あるがままを受け入れなさい」

Let it be, Let it be,
Let it be, Let it be
Yeah, there will be an answer
Let it be

あるがままを
あるがままに
全てを受け容れるのです
そうさ 答えはそこにあるだろう
「あるがままを受け入れなさい」

マッカトニーが1968年におこなわれたアルバム「ザ・ビートルズ」のための
セッションの最中で、ビートルズが分裂しつつあるのを悲観している頃に、
母メアリー・マッカートニーが夢枕に現れた際に述べた、
「あるがままを、あるがままに(全てを)、受け容れるのです」
との囁きを元に書いたと語っている。

メアリーは、マッカトニーが14歳のころにガンで死去した。
亡き母が枕元に現れたことについて、マッカトニーは、
「母に再会できたのは本当に良かった。夢で祝福された気分だった。
だから僕は母の囁きの元に「レット・イット・ビー」を書いた」と語っている。

SNSを当たり前に使うようになってから本心が心の奥に隠されてしまった。
ありのままに本音を言うと冷やかされるか馬鹿にされるので沈黙を守るようになる。
誰でもがアニメ化(擬人化)されて、当たり障りのない言葉を羅列して、
挙句の果てには経験のない素人が他人にお説教まで言えるようになってしまった。

自分は何も経験していないのに、まるで人生を分かり切ったように話をする。
学校で仕事場でも架空の自分が存在するだけ、
自分のことが理解できないから、上辺だけで他人の不幸に同情的になる。
自分の現状と重ねて涙を流すような物語を好きになる女性が多くなった。
その為か若い女性の自殺が増えてきた。

戦いのある国では女性は家族を守ることに命懸けになる。
平和な国では男性は弱くなり女性が社会の表面に出てくる。
命がけで家庭を守ろうとする男性が少なくなった。
それ以上に無気力な男性が増えてしまった。

男女平等雇用制度は本当に女性を幸福にするのだろうか?
男性と対等に収入が得られれば、男の世話にならずとも子育ては自分一人でできる。
いやな思いをしてまでわがままで幼児性のある男と暮らしたくない。
挙句の果てには結婚しない女性も増えてしまった。

もっとぎこちなくて良いのに。
もっとかわいいままで良いのに。
もっと単純で良いのに。
もっと弱さを出しても良いのに。
柔らかいままで夢見る少女のままでも良いのに。

Let it be, Let it be,
Let it be, Let it be
Yeah, there will be an answer
Let it be

あるがままを
あるがままに
全てを受け容れるのです
そうさ 答えはそこにあるだろう
「あるがままを受け入れなさい」

音楽家を目指す君たちへ(つづき)



才能の開花はどのようにして起こるのか?
オーディションへ来るアーティストやバンドマン達。
圧倒的にヒット曲のコピーを演奏する人たちが多い。
大好きなアーティストのコピーなので見た目も雰囲気も似せて来る。
それなりに評価はされるが演奏が悪いと笑い者になる。

オーディションの最初に審査員からインタビューがある。
私の場合(審査員によってそれぞれ質問内容が違う)

最初の質問は、
「好きな音楽・良い音楽・売れる音楽」のどれを望みますか?
次の質問は、
音楽をやる「目標・目的」は何ですか?
最後の質問は、
「オリジナルの楽曲」は何曲ありますか?

そして、上記の質問が終わってから演奏が開始です。
通常1曲の長さの5~6分で運命が決まります。

終了後にレコード会社のスタッフから追加の質問があり将来が決められてしまいます。
当然メジャーなレコード会社からデビューが出来れば売れる可能性は大です。
TVやCM・アニメの主題歌などのタイアップが決まれば一躍人気者になるのです。

時代が変わり現代ではレコード会社主催のオーディションは殆ど無くなりました。
路上ライブとYoutubeでデビューしてくるアーティストが多くなったからです。

ある程度のファンが出来て手売りでCDを売れば生活するには困らない人もいます。
自由に音楽活動をして自由に創作活動ができればそれで満足する人も多いのです。
音楽仲間とワイワイ騒ぎながらライブハウスで演奏が出来れば、
最高だと思っている人もいます。
しかし、アーティスト活動から営業まで大変な努力が必要とされます。

彼らはプロと言われるスタッフからあれこれ制約されるのが気に入らないのです。
自分たちの仲間か音楽事務所から紹介された一般のプロデューサーと手を組んで、
気軽に作品作りに励むほうが楽だと無難な方向へと進むのです。

そして、自主製作でCDを作り、そのCDを買い取る条件でメーカーと契約を結び、
レコード会社のインディーズなどのレーベルからデビューをしてくるケースもあります。

私はプロデューサーとして質問されれば答えることがあります。
「好きな音楽・良い音楽・売れる音楽」の違いについて。

① 好きな音楽はアマチュアで自由に活動をしなさい。
➁ 良い音楽は楽典を学び譜面で演奏が出来るようにしなさい。
③ 売れる音楽は時代を読む力を付けなさい。

そして、売れる音楽を作りたいのなら私に依頼しなさい。

プロデューサーは様々です。
三流のプロデューサーは礼儀作法を教えます。
二流のプロデューサーは悪い部分を指摘します。
一流のプロデューサーは良い部分を引き出して磨きをかけます。

才能の開花は個人でもできます。

自分の作品やライブでの反応をコマメにチェックして、
次回の作品やライブに活かせる人です。

薄暗いライブハウスの隅々までに気を配り、
歌詞のメッセージが全員に届いているか確認が取れる人です。

自分を中心に置いて演奏技術を高めても聴衆へは伝わりにくいのです。
見た目やパフォーマンス、ファンへのサービスなどに気を使える人です。

そして最も大切なことは自分の拘りを追求できる人です。
好きなジャンルの好きなアーティストを徹底的に研究して分析することです。
その作品作りの基本を活かして、自分の作品にも取り入れることが出来る人です。

才能の開花はあらゆることに挑戦して初めて花開くのです。

音楽家を目指す君たちへ
最近デジタルで手軽に音楽が作ることが可能になりました。
そして作品をSNSで流して聴いてもらえるようにもなりました。
時代の流れに乗ることも悪くはありませんが、何かが物足りなく感じませんか?

それは「人間性」です。
人として何の目標・目的をもって何を考えているかを聴衆が求めている時代です。
一過性のファッションで音楽をやっても長くは続きません。
アーティストの「人間性」を高めることが、才能を開花させ時代を作り出すのです。
作品を好きになる前に、
そのアーティストの人間性を好きになってもらう方が長く続きます。

人として音楽以外の歴史や文化や社会情勢にも興味を持ち、
果敢に異国へも出向き見識を深めることで「人間性」が出来上がります。


自分なりのサクセスストーリーを完成させてください。