成り切る




憧れの人、憧れの職業、憧れの人物、憧れの生き方など様々な憧れが存在する。
それらの人に近づくには成りきるしかないのです。
ボーッとしている人生では、憧れは遠くて手に入れることは出来ないが、
憧れの人に成りきることで身近になりやがては憧れの人を追い抜くことにもなる。

子供は子供らしく、大人は大人らしく、男は男らしく、女性は女性らしく、父親は
父親らしく、母親は母親らしく、憧れの人を想定して、その人に成りきるしかない。
憧れの人と喜怒哀楽を共有すれば苦しみも辛さも乗り越えることが出来る。
生きるとは学ぶことではない、生きるとは真似ることなのだ。
先ずは「心と姿を真似よ」ということです。

例えば一流の料理人を目指す場合は目標とする料理人を探す。
出来る限りの情報から料理人の一挙手一投足までをデーター化する。
料理人の普段の生活から、食材の仕入れから、調味料の種類や適量を調べだす。
どのタイミングで調味料を加えるかも調べ上げ、使う調理器具から、
仕上がった料理を乗せる食器まで事細かく追及していく。
彼の繊細な性格は普段のくらしの中にも必ず反映しているはずである。
どのような暮らしをしているのか、どのような服装をしているのか、
どのような考えを持っているのか、ところから次の料理のレシピを考え
出しているのか事細かく調べ上げる。

勿論、彼の料理を何度も食べることは述べるまでもない。

例えば一流のカメラマンを目指すなら、目標とするカメラマンを探し出さなければなら
ない。
彼の作風の何に惹かれたのか、何が感動を作り出したのか、使っているカメラは
何処のメーカーの物か、フイルムは何処のメーカーの物か、現像は自分なのか、
それともお気に入りの現像所があるのか?
彼は写真で何を訴えようとしているのか?
彼がカメラに取りつかれたのは、どのようなきっかけだったのか、
いくつかの作品を見ながら答えを出していく。

沢山のカメラマンを目標とする必要はない。たった一人のカメラマンを追求すればよい。

私は一流のプロデューサーを目指すためにビートルズのプロデューサー、
ジョージ・マーティンやマイケルジャクソンの・クインシージョーンズを
少ない情報の中から調べ上げた。

プロデューサーが音楽を制作するのは当たり前だが、それらを売り込む手だてまで
考えていたのを知った。
そこには衣装からライブパフォーマンスまで、果てはステージの演出まで
アーティストを売り出すために彼らは多岐にわたる才能を発揮していた。
私がレコード会社に入った当時は、制作は作詞・作曲家と編曲者が作り、
売り込みは営業と代理店が行っていた。
全て分業と流れ作業による商品の販売だった。

私は日本で最初のプロデューサーとしての自負がある。
アーティストの発掘から、制作、宣伝、営業、地方への売り込みまで全部仕切ったのである。
愛情を持って育て上げたアーティストは、見つけた才能を見出した人間が、
担当するのは当たり前なのだが、日本のレコード会社のスタッフはそれが出来なかった。
一流の大学を出て音楽会社へ入ってきてもアーティストとのコミュニケーションが
苦手だった。
私は学生時代にバンドを組んで活動をしていたのと、ロンドンへ行って現地の
音楽シーンを生で目撃したのが功を奏したのだと思う。

先日の「老人と孫」のトークショーで主賓の煎茶道黄檗売茶流の先代中澤弘幸氏から
黄檗禅での「成り切る」について話がありました。

修行中の僧の見習いが幾らトイレ掃除をしても、先輩禅師から何度もまだきれいに
なっていないと言われて時の話です。お前は掃除をしているつもりでいるが、
一向に綺麗にならないのは、お前は見える汚れを取り除いいているだけだ。
「トイレ掃除はトイレの便器になりきれ」ということであったと伺い、
大変興味があり私なりに黄檗禅で検索をしたところ同じような記述見つけました。

「臨在禅・黄檗禅/公式サイト・臨黄ネット」より

拙寺に於きましては先住職の時代(昭和40年~60年頃)、高校生を中心にして、
30名程が毎月一度、金、土、日曜日の2泊3日、寺へ泊まり込み、
盛んに坐禅会が行なわれていました。
私はまだ小学生でしたが、坐禅会の日がくると一緒に坐っていた
というか、坐らされていたというのが正直なところで、大変苦痛でありました。
最終日の日曜日になると粥座後の作務で坐禅会が終了ということになるのですが、
今になって考えてみますとまだまだ16、17、18歳の高校生です

修行僧のように徹底して作務に集中することなどできません。
ただ箒を持って突っ立っている者、うろうろしている者、草を引いているのか
喋っているのかわからない者、
雑巾を濡らしているだけの者、さまざまであったように思います。
そういう時によく先住職が大声で学生に言っていた言葉が、”成り切れ”と
いうことでした。「箒を持てば箒に成り切れ、雑巾を持てば雑巾に成り切れ、成り切れんから喋るんじゃ、掃けんのじゃ、拭けんのじゃ」と、作務に成り切れということでした。

私もその頃少年ソフトボール部に入っており、先住職は少年ソフトボールの選手に向かい
「おまえさんバットで打とうと思うとるじゃろ。
バットを持ってこのバットで打とうと思うとるから打てんのじゃ、
おまえさん自身がバットにならにゃいかん、

自分とバットが別々だから打てんのじゃ。バットを持てば自分がバット、
バットが自分となって、ピタッと一つになったら打てる」と答えを出しました。 
その後この学生が打てるようになったかは知りませんが、
これも”成り切れ”ということであったと思います。 

“成り切る”とは、物と心が一つになるということです。
人馬一体などといわれますが、人と馬が一つになってこそ良い結果が生まれてきます。
車と一つになればこそ安全な運転ができるのです。
靴と一つになればこそ、脱いだ瞬間無意識に玄関の履物は揃っていることでしょう。
服を脱げばきちんと片付けられているでしょう。そういう日々を送っていきたいものです。

それが禅的な生活(くらし)ではないでしょうか。

私の「成り切る」の経験と禅の世界での「成り切る」が偶然一致した瞬間でした。
相手を思いやることも大切ですが、相手の気持ちに成り切ることがもっと重要です。

そして成功を計画するのなら、失敗も想定してください。
憧れの世界へ入っていくのですが、成功体験を目指し過ぎると思わぬ落とし穴に
陥ることにもなります。形では問題なくとも環境や時代性や物流のやり取りが
違うからです。
それでも憧れの世界へ入りたいのなら失敗も想定するべきです。
事前にうまくいって成功した場合と、うまくいかなくて失敗した時の状況を
作っておくのです。そうすることによって万が一の場合も慌てることは無くなります。

いくつになっても挑戦は楽しいものです。皆様も「成りきり」ながら
毎日を楽しく過ごしてください。

~下載清風~




倒れたら倒れたなりに咲かせる花がある ~下載清風~

禅の言葉に「下載清風」(あさいのせいふう)という教えがあります。
今にも沈みそうなほど荷物を載せた船は重々しく、
思うように前に進むことができません。
重荷を港に下ろして軽くなった船は、追い風を帆に受けて前に進みます。

夏が過ぎお彼岸が近づいてくると、彼岸花が土から芽を出し天に向かって
鮮やかな赤い花を咲かせます。鮮やかなその花の色だけではなく、
神秘的なその姿は「曼珠沙華」=「天界の花」として仏教でも親しまれてきました。
妖艶なその形姿に目を奪われた方も多いのではないでしょうか。 

臨済禅・黄檗禅公式サイトより

高校三年生の秋、ラグビーをしていた私は、
高校生活最後の大会に向け日々汗を流していました。
最後の大会が始まる二ヶ月前の九月のこと、
私は練習中に右の足を骨折してしまいました。
私は、「レギュラーとして最後の大会に出るために、これまで励んで
練習してきたのはなんだったのだろうか。」と、
まるで暗闇に突き落とされたかのように深く落ち込み、
ラグビーボールを見ることすら嫌になってしまいました。

何も考えられず呆然と数日過ごしている内に、やがて台風が来襲してきました。
強風が吹き荒れ、木の葉や枝があちこちに散乱し、
チラホラと咲き始めていた彼岸花も根元からなぎ倒されてしまいました。
その数日後のことです。松葉杖を突きながら境内を歩いていると、
台風で根元から折れた彼岸花が先端を再び天に向け、
倒れながらも燃えるように鮮やかな赤い花を咲かせていたのです。

私はその時、胸がぐっと熱くなったのと同時に「あーっ、これだ!」と心の中で
叫んだのです。そして、心が折れたまま何もできない自分を恥じたのです。
それまで「高校最後の大会までレギュラーでいたい」ということに
執着していましたが、倒れても尚、上を向いて一生懸命に花を咲かせる
彼岸花の姿をみてレギュラーでいるこだわりがスッと消えて
心が軽やかになったのです。

それからは、練習はできなくてもチームの為に練習前にボールに空気を
入れることができるのではないか、
練習中にチームメイトが飲むドリンクを準備することが
できるのではないかと気付き、
積極的に裏方の仕事ができるようになったのです。

すると、今まで当たり前のように蹴っていたボールも、
喉が渇いた時に当然のように飲んでいたドリンクも、
人並みに走ることができたこの脚も、
すべて有り難いことだったのだと気付くことができたのです。

高校生活最後の試合にグラウンドに立つことは叶いませんでしたが、
倒れたら倒れたなりに咲かせる花があることを、
あの彼岸花から学んだ気が致します。

わたしたちはついつい余計なこだわりや執着にしがみつき、
気付けば重たい荷物を背負ってしまいがちです。
その重たい荷物を下ろしてしまえば、心に清々しい風が吹き足取りも
軽やかになるのではないでしょうか。

現状の地位や名誉にこだわり縛られる人生を解放しませんか?
私たちは何のために生きて、何ために死んで行くのでしょうか?
どのような時にでも置かれた場所で花咲くことを忘れないようにしましょう。

私は帰国後CBSSONYで初めて仕事をした時に最初に考えたのは、
「人の嫌がる仕事」を率先して行うことでした。
英国帰りが気取るのは簡単ですが、そうでなくて新人は新人らしく、
仕事に没頭したのです。
スタジオの散らばったコードの片付け、コントロール・ルームの
汚れたテーブルの片付け、灰皿やゴミの片付けなど率先して行ったのです。
時にはお客様のお弁当の手配から送迎のタクシーの手配までしました。

今の自分は人並みの仕事をこなすことは出来ないから、
人の嫌がる仕事は全部引き受けようと思ったのです。
大切なことは指示されたから動くのではなく、指示されなくても、
スタッフの一員として出来ることを自ら探して行うことです。

その当時、同僚から笑われたり、馬鹿にされても気にはなりませんでした。
何故なら自分の生きる目標はこんな低いところには置いてなかったからです。

一日も早くいい仕事はしたいけれども未熟な自分は手伝うことしか出来ないからです。
何もしなくて手を挙げなければ誰もあなたに注目はしません。

英国で学んだことは常に自分の意思は、
自分で伝えなければ見過ごされてしまうことです。

今ある場所でどんな仕事でも一流になれば、必ず次のステージとつながります。
大切なことは何事においても真剣にベストを尽くさなければ成功にはつながりません。
逆境に花咲くことが最も大切です。風に押し倒されても立ち上がる精神が必要なのです。

下載清風(あさいのせいふう)
風に倒されても負けずに天を向くことが大切です。
この気持ちがあれば辛い人生も楽しく過ごせます。

曼珠沙華の花咲く季節にて

願いと祈り(立志編)




願いはこうありたいと思うことであり、祈りは手に届くことのない無限の世界です。
希望の学校へ入学する、望む会社へ就職する、
好きな人と結婚するは願えば叶うことである。
しかし、世界から戦争や貧困がなくなれば良いと思うのは祈りなのです。
環境問題にしても個人が、団体が、国家が努力しても解決できない問題である。
自分たちでは解決できないことは神や仏に祈るしかないのです。

しかし、あまりにも願いや祈りに囚われてしまうと、
心身ともに身動きのできない状態になる恐れがある。
解決の行動無くして意識だけを働かせるのは無意味である。
困った時の神頼みのように、その場限りの祈りでは何も叶わないのである。

無心になること。
目の前の欲に囚われてジタバタすることのないように無心になること。
日々解決しなければならない雑事に意識を向けるから、
幾ら目標や目的を設定しても叶うことは無い。
無心の願いの先には終わりのない願いがあるのである。

一番恐れなくてはならにないのは、いくら悩んで立ち止まっても、
大切な時間が過ぎるということである。
人生の貴重な時間が何もしないうちに消えていくことである。

世間の常識で生きているとつねに「見栄を張る」ことに時間が使われて、
本来の自分が求めることに時間が使えなくなる。
金銭に溺れて、愛情に溺れて、あらゆる欲望に溺れてしまわないように、
自己の確立を図るのである。

その為に禅という世界があり、禅は悩みの相談口なのである。
人間の頭では解決できないことを、
一心に修行を積み重ねた禅僧の言葉にこそ解決の糸口がある。

臨在禅・黄檗禅公式サイトより

俗世間的な願いには時間的な制限がある。つまり、その願いが叶ってしまえば、
その願いはそこで終わりであり、また次の別の願いが生まれる。
その瞬間、前の願いは過去のものとなり、そこに捨て置かれるというのです。 

一方、永遠の願いには、文字どおり終わりがありません。
叶うことのない願いなど意味がないように思えますが、逆に言うと、
これは叶う叶わないことを超越しているということです。 

願いは当然、叶えることが目的にあるのですから、
そこに向かって進んでゆくことになりますが、
その願いが一旦成就されると、
その歩みはそこで止まってしまいます。

目的地を設定している以上は、目的地に到達してしまうと、
当然、その旅路はそこで終わりとなります。願いがあったということは、
もともとそこには何かしらの理由や思いというものがあったはずです。

しかし、目的地に到達することしか意識しないようになると、目的地に到達した瞬間、
その出発点や道中にあったものは、どうしても忘れ去られてしまいます。 
無心の願いとは、それを嫌っているのです。

ゆえに禅では目的地を設定しません。目的地に到達することよりも、
その歩みそのものが重要なのであって、且つ願いとその道程は不可分であるという
のです。

山登りをして頂上に到達したとしても、その道中がなかったことには
なりませんし、帰りの下山がないことにはなりません。 
無心の願いは、たとえ願いが成就してもその歩みを止めることはありません。
成就してなお、その願いは自分の中に生き続けます。

願いの叶う叶わないを超越するとは、その成就に固執してしまい、
人生の本質を見失ってしまうことを忌避することを意味しています。

これを鈴木大拙は「成就することのない永遠の願い」と言うのです。 

私たちの人生を鑑みてみると、子供から大人になる過程で、高校受験や大学受験を
目標に勉強することもあるでしょう。では、晴れて受験に合格して入学できたら
それで終わりかというと、もちろん違います。
入学のあとの卒業や就職が最終目標かというと、これももちろん違います。 

人生とは、終わりのない道のりです。限定的な目的や低い目標は、
自分の限界を決めてしまいます。

自分の限界を決めるとそこで成長は止まってしまいます。
大拙は続けます。どうしても手の届かぬところのあるものが祈りなのです。
いくらやっても駄目だから、よそうというような祈りでは、限りある世界でこそ
意味あるかもしれぬが、駄目なものをくり返し、くり返しやる心、
その心は実に、弥陀の本願の世界に生きているものでないと分からぬのである。
(鈴木大拙『無心ということ』

北海道の高校生2人がギターとベースを抱えてやって来た。
勿論、LCCの格安チケットを手に入れてやって来たのだから、
眠る場所も漫画喫茶のような深夜営業の店で眠るしかない。
(実際には当日先輩アーティストが自宅に留めて観光案内もしていた)

しかし、彼らはもう何か月前から計画をして、友達といろいろ話し合いながら、
興奮して銀座のライブハウスに辿り着いたのである。
彼らにとっては東京が目的地であった。それを叶えたのである。

田舎育ちの少年たちにとって東京は別世界であったに違いない。
先輩アーティストの声かけに応じて東京お客様の前で演奏できるのは、
まさに天国に登る気持ちであったに違いない。
そしてそこからまた新たな目標が始まったのである。

彼らの願いが叶った瞬間に立ち会えたことに感動を覚えた。
純粋な少年たちはこれからが人生の旅の始まりである。

創造力と思いやりと愛




人間関係は全て「想像力」に基づいて行われています。
何事にも想像力を働かせなければならないということです。
言葉が伝達のツールだと教えられて、言葉の持つ力を過信してしまうと、
おもわぬ誤解を生むことがあります。
なぜならなら他人(ひと)は自分の聞いた言葉を自分なりに解釈するからです。
そしてその言葉の意味に捕らわれて行動すると、発信者の意図してないことをする恐れがあります。

東北震災の時に流された家屋の手立てとして仮設住宅を大量に作り被災者を住まわせることにしました。

一見するととても大切な行為なのですが、それ以上に心のケアの方が先にしなければならなかったのです。

一瞬にして家族や思い出を奪われた人たちにとっては住むところも大切ですが、プレハブハウスに送り込んでしまった結果、たくさんの人が自殺で亡くなりました。生きるためには衣食住は大切ですが、生きる希望が無ければ頑張る理由が消えてしまうということです。世界中から多くの義援金や物資が届きましたが、

心の支援ももっと届けば良いなと感じていました。
ここでの「想像力」は人助けのために何が必要かの順番を間違わないことです。

日本の「思いやり」の精神も想像力から生まれてくるのです。
相手のことに関して自分も同じような経験をしていれば少しは理解出るのですが、

海外のお客様となればまったく未経験の白紙状態です。
その国の習慣や価値観、および宗教上の規律も視野に入れなければなりません。
少なからずとも学びと想像力は鍛えることが出来るのです。

思いやりというのは結局「想像力」なのです。想像力で相手の辛さを理解して、
想像力で相手を助けようとする。つまり、「想像力イコール思いやりイコール愛」だと思うのです。

そして、もともと想像力というのは、みんな生まれてきた時に同じように持っているのです。

そういう能力を神様からもらってきているのですよ。
だけどそれは、生きている間に、どんどん育つ人と、だんだん失われていく人が
いるのですね。で、どうやったら想像力が育つかと言えば、一番いいのは本を読むこと。とにかくどんな本でもいいから読みましょうねと言っているのです。
そうすると、想像力ができて、自分以外の人がどう思っているかとか、何かに悩んでいるらしいとか、わかってくるでしょう。そうすると、あの人は何だか嫌な顔しているけど、どこか痛いんじゃないとか、そういうことがわかるじゃないですか。
それが「思いやり」ということですよね。思いやりは愛です。
失恋した人の悲しみは、失恋しないとわからないでしょう?貧乏したことのない人には、貧乏人のつらさはわからない。飢えたことのない人は、飢えた人の悲しさなんて理解できません。

でも、簡単にわからないからこそ、もっともっと「想像力」を使って、相手を思いやろうとしないといけないのです。
「相手のつらさを全部、想像力で理解することなんてできない」と自戒しながら、それでも、ちょっとずつ、そのつらさを理解しようと思うことが大事なのです。
瀬戸内寂聴の言葉より

「小善は大悪に似たり」
「小さな善行」が、結果的にはかえって「大きな悪」に転じてしまうという意味です。
一緒になって悲しむ事は、もちろん「善」なのですが、

私にはそれが「悪」になることがあるかもしれないと思うのです。
「大善は非情に似たり」被災者にいつまでもめそめそしないで、などと言えば、
なんと非情な言いかたか、お前はそんなに冷たい人間なのかと言われるかもしれませんが、

今はその冷たいことをあえて言ってでも、生きていく気力を奮い起こさせることが、真の愛ではないかと思うのです。
稲盛和夫の言葉より

想像力の無い親切は「悪魔の笑みを持つ善行」になります。被災地の人を助ける気持ちで、家庭にある使わなくなった衣料や、賞味期限切れまじかの食料や、履き古した靴などを送る人がいます。それを運ぶお金は、それらを仕分けする人は、それらを求める人はと考えなければ、ゴミを被災地に送ることになります。

ありがた迷惑な話になります。
このように中途半端な善意はかえって被災地の人に迷惑をかけることになるのです。
相手の気持ちを考えて受け入れ先の体制も十分なのか確認をしてから行動してください。

例えば「暗黙知」という教えがあります。親方の背中を見て弟子が学ぶことを言います。
親方は言葉で教えると言葉通りに従って自由な発想の妨げになるから何も教えません。
弟子は親方の道具箱の中を見て、親方の背中の動きを見て、一連の流れを覚えていくのです。

そこには好奇心と逞しい想像力が無ければ十分に理解する事は出来ません。
親方の作った完成品を手に取り、何を伝えたかったのかをじっくりと考えるのです。
それも創造力のなせる業です。そこが理解できなければ一流の職人にはなれないのです。

「想像力イコール思いやりイコール愛」は別々ではなく関連しているのです。
思いやりと愛を感じるのは創造力があるからこそ感じることです。
勘違いをして思いやりをサービスと捉えてしまうと、愛も勘違いをして押し付けになる恐れがあります。

やさしさならなんでも受け入れてくれると思わないでください。
時にはきつくたしなめて突き放すことも「思いやり」には必要です。

忘己利他




忘己利他(もうこりた)と読みます。
己を忘れて他人の利を考えることです。

私が発表した5つの仕事というのがあります。
20代では「仕事」を覚えなさい。30代では「支事」を出来るようになりなさい。
40代では「私事」で家族を守りなさい。50代では「志事」に徹しなさい。
60代以降は己を捨てて「死事」で周りの事を面倒みながら、
迷惑のかからないように生きなさい。

20代30代では私利私欲に溺れても仕方が無い。
そこで人生を学ぶ事は貴重な経験として後に役立つことになる。

しかし40代からは社会の一員として国を守ることも考えなさい。
それはいつしか家族も守ることになるからです。

50代では今一度学び直して人としての志に気づくようにしなさい。
もうここからは私利私欲ではなく利他の心を持って他人の喜びを
求めるように成りなさい。

60代以降は「欲の欲するところ矩を超えず」の通り、身の回りを清潔に保ち
心身ともに健康でいるようにしなさい。そして隣人を愛しなさい。

新しく求めるものは物ではなくて知識以外には必要ないのです。

忘己利他の精神を生活の中に取り入れると、争いごとはなくなり、
ありがとうと感謝の言葉が増える。最後には死ぬことにドタバタせずに
寿命を受け入れるということです。

天台宗の開祖である最澄(さいちょう)さんの言葉に『己(おのれ)を
忘(わす)れて他(た)を利(り)するは慈悲(じひ)の極(きわ)みなり』
という言葉があり、そこからきているようです。
忘己利他とは、自分を忘れて他人のためにつくすことを言います。

「己を忘れて他を利するは、慈悲の究極なり」と最澄は述べているが、
世界宗教といわれるもののなかで、この精神を否定するものはない。
ヨーロッパのノブレス・オブリージュも同じ精神である。 

人間同士がうまくやってゆくための秘訣は相手を尊敬し、
相手を第一に考えることである。
すなわち、忘己利他の精神である。しかし、実はそれが一番難しい。
自分がかわいいからどうしても、自分を第一に考え、自分が得をしよう、
自分が楽をしようという気持ちが先に立つ。相手を気づかう気持ちは二の次
三の次になる。

しかし、考えてみれば自分一人がうれしいというのは、そこで完結してお終いである。
それに対して、相手が喜ぶのを見てこちらがうれしくなるというのは
大人の喜びであるともいえる。

桶に水を張り、ぽちゃんと小石を投げ込むと波紋が同心円状に広がる。
その輪はやがて縁にあたり、また真ん中に戻ってくる。
相手を喜ばせてあげると、やがて自分のもとに喜びが戻ってくる。

ただし、他人に利益を与えるからといって、見返りを期待する気持ちは持っては
ならない。「情けは人のためならず」という言葉もあるが、これには(密かに)
見返りを期待する心情が感じられ、忘己利他ほどには精神が高尚ではない気がする。

忘己利他はあくまでも見返りを期待しないのだ。根本のところで忘己利他の心があるか、ないか。そのことが、その人の品格を決めるといってよい

長きにわたって縄文時代が平和だったのは、自然に忘己利他で暮らしていたからである。
狩猟・採集・漁労で得た獲物は村人の全員と分け合っていたので争うことが無かった。
奪うことが無ければ戦いは起こらず、分かち合えば平和になる。
その平和を天空の神々や地上の神々に感謝として祈りを捧げてきたからである。

その後、おおくの渡来人により稲作が持ち込まれ、弥生時代から争いごとが
多くなったのは、収穫を己の財産として保存したからである。

その為の交渉のために言葉が生まれて貨幣も生まれた。移動しながら暮らしていた縄文人が土地を耕して定着するようになり、争いも増えたという。

アイヌの教えに「ワンサード」というのがあります。
狩猟・採集・漁労したものを、1/3は自分のために、1/3は自然のために、
1/3は未来を受け継ぐ子供達のためにという教えです。

奪い合えば足りなくなり争いが増える、分け合えば有り余って平和になる。
忘己利他の精神こそが平和を維持できるのです。

もののあはれ




音楽プロデューサーとして生きてきた中で、常に人の心を見つめながら、
感情の発露を気に留めてきました。
時代によって移り変わる人としての価値観、その価値観によって変わる感情。
自分から作り出す精神的な強さや脆さ、他人から影響を受ける感情の起伏。
喜怒哀楽は個人の中にあり、それぞれが喜怒哀楽のガラスの針を持っているのです。
些細な事で喜んだり悲しんだりするのは、そのガラスの針が左右に振れるからです。
感情の発露とは「人間の心の動きを感じる、知る」ということです。

若い時には理性が足りなくて感情だけで行動してしまいます。
好きになるときも別れる時も、花が咲くときも枯れる時も、心に「あはれ」と感じるものがあります。

ここで生まれる「あはれ」とは何でしょうか?

本居宣長はこのように伝えています。
「もののあはれを知る」とは何でしょうか。人は嬉しいときや悲しいときに、
心が揺れ動きます。その心が感極まったときには、「あぁ」というため息が漏れます。

この「あぁ」が「あはれ」です。本居宣長は、こう述べています。
「『あはれ』といふは、もと、見るもの聞くもの触るる事に、心の感じて出づる歎息(なげき)の声にて、

今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」

つまり、「もののあはれを知る」とは「人間の心の動きを感じる、知る」という意味になります。

なお、現代では「哀れ」という漢字のイメージから哀しみに対する心の動きだと誤解されることがありますが、

嬉しいときの「あぁ!良かった!」という心の動きも「あはれ」です。

宣長は、人が物語を読む目的も、和歌を詠む目的も、この「もののあはれを知る」つまり「人のこころを知る」ためだといっているのです。そしてこの「こころ」という言葉には、「情」という漢字があてられています。

「情」という字を使った熟語には、感情・情熱・風情(ふぜい)などがありますね。

人間は生きていくうえで、そういったものを大事にして生きていこうよと宣長はいっている気がします。

物書きも音楽プロデューサーも「もののあはれ」を知らなければ成り立ちません。
何故なら作品のテーマは喜怒哀楽が元になるからです。

ものの成り立ちの瞬間は人間の誕生および自然界の花開く時に感じる喜びの心です。
そして叛逆と改革の変化を求める精神です。いわゆる怒りの心です。
そして「あはれ」へとつながります。いわゆる「あはれ」「哀れ」の心です。
最後には「生老病死」の病や悩みから解放され気持ちが落ち着くことです。
いわゆる死を意識した楽の心です。

仏様は目に見えなくなったものの、この世界に溶け込んでおられるのは間違いないのです。

問題はその事実に気づく事ができるかどうかなのです。

仏は常にいませども
現(うつつ)ならぬどあはれなる
人の音せぬ暁に
ほのかに夢に見え給ふ
(梁塵秘抄)

目に見えないものと有りもしないものは、似ているようで全く違います。
仏さまは常にお傍にいらっしゃるのに、目に見えないのが残念ですが、目に見えないからこそ尊いのです。

見方を変えれば、彼岸というのは遠く離れた特別な世界ではありません。既に私達は彼岸にいるのに、気付いていないだけなのです。

感情の発露とは「人間の心の動きを感じる、知る」ということです。
目に見えないものは第六感で受け止めるしかないのです。
これらを音に乗せ言葉に乗せてよき音楽が成り立ちます。
勿論、これらの文字に感情を乗せれば名著と言われるよき本になるのです。

愛と恩




「恩学」の恩とは、さまざまな人生を歩んだものが、最後にたどり着くところに
生まれるものです。今まで人生に関わってくれた人に対して、素直に感謝の気持ちを伝えるものです。

全ては「愛」から始まり、恩返しの「返恩」で終わります。
多くの「愛」で関係が始まり、終わりは悔いを残さぬように「恩」で締めくくるのです。
日本語のア行の最初の言葉「あ」から始まりワ行の最後の言葉「ん」で終わるのです。

「与えし恩は水に流し、受けた恩は石に刻む」ことが日本人の美徳の現れです。

「恩返し」も「恩送り」も感謝の気持ちがなければただの儀礼でおわります。
我々日本人は言葉を大切にする民族です。そして、その言葉の流れも美しくなければなりません。

「恩学」はそれら「恩学び」のお手伝いをさせていただくのです。

仏教の言葉に「代受苦」(だいじゅく)というのがあります。
ほかの人に代わって私が苦しみを引き受けますという意味です。
菩薩様やお地蔵様の慈悲を指しますが、人間にもそういう貴い人がいるのです。
キリストやガンジーやマザーテレサなどがそうですね。
ある意味「代受苦」は「恩」を返す以上の、究極の返礼かも知れません。

主君が受けた屈辱は、我々が引き受けますと、立ち上がったのが赤穂浪士なのです。家族・一族に災難が降りかかると知りながら「武士の誇り」を捨てられなかったのです。家臣たちは、罪はすべて我々が引き受けますからと「代受苦」を受け入れたのです。

「愛」も「思いやり」も創造力から生まれます。この二つの言葉に定義はありません。
相手の環境や現状を創造しながら、求めていることはこうなのではないかと、思いつくことが大事です。

見た目のイメージで、こうしてあげれば喜ぶのではないかという行動は、ただのお節介となります。

正しい創造力を鍛えるためには学習が必要です。

そのポイントの一つはたくさんの良書に親しむことです。
全ての物語は愛と憎しみと非情と慈しみが描かれています。
そしてあらゆるものに恩を感じることによって読者が恩を習得するのです。
あらゆる艱難辛苦を乗り越えて幸福にたどり着く人、同じ運命でも不幸のままで終わる人。

またどん底の人生から再起を図る人など千差万別ですが参考にはなります。

例えば倉田百三の「愛と認識の出発」を読むことを薦めます。
旧制の第一高等学校(現代の東京大学)の学生たちが、最も愛読した書物は何か?
同校で行われた調査で連続第一位となったのが「愛と認識の出発」なのです。
倉田は「国民」ではなく「人間」としての自己を見出すのですが、それと同時に
「他人は本当に存在するのか」という唯我論に陥ってしまう。
「愛と認識の出発」はそのような状態から出発し、唯我論を克服し、他者との
かかわりの持ち方を学ぶ過程が描かれているわけです。思想的自伝というのでしょう。

「異性の内に自己を見出さんとする心」
例えば大野の黎明に真白い花のパッと目覚めて咲いたように、私らが初めて因襲と伝説とから脱してまことのいのちに目醒めた時、私らの周囲には明るい光がかがやきこぼれていた。……

しかしながら私らがひとたび四辺を見まわすとき、私らはわたしらと同じく日光に浴し、空気を吸うて生きつつある草と木と虫と獣との存在に驚かされた。
さらにわたしらと共に悩ましき生を営みつつある同胞(Mitmensch)の存在に驚かずにはいられなかった。

実に生命の底に侵徹して「自己」に目ざめたるものにとっては自己以外のものの生命的存在を発見することは、ゆゆしき驚きであり、大事であったに相違ない。

ああ私は恋をしているんだ。これだけ書いた時涙が出て仕方なかった。
私は恋のためには死んでも構わない。私は初めから死を覚悟して恋したのだ。
私はこれから書き方を変えなければならぬような気がする。
何故ならば私が女性に対して用意していた芸術と哲学との理論は、
一度私が恋をしてから何だか役に立たなくなったように思われるからである。

私は実に哲学も芸術も放擲して恋愛に盲進する。私に恋愛を暗示したものは
私の哲学と芸術であったに相違ない。しかしながら私の恋愛はその哲学と芸術に
支えられて初めて価値と権威とを保ち得るのではない。
今の私にとって恋愛は独立自全にしてそれ自ら直ちに価値の本体である。
倉田百三「愛と認識との出発」

『女の一生』(おんなのいっしょう、原題・Une vie)は、主人公の少女ジャンヌが
成長するにつれて人生における様々な不幸を経験していく様を描いた
著者ギ・ド・モーパッサンの代表作である。

修道院を出て両親と共にレ・プープルの屋敷で暮らし始めた17歳の少女ジャンヌは、美しく素晴らしい人生が自分の前にあると心躍らせ、美青年ジュリアン子爵と結婚する。だが結婚すると夫はジャンヌに対する愛情を無くし、金に執着するようになる。
夫はジャンヌの乳姉妹のロザリや、友人のフルヴィル伯爵の妻とも関係を持ち、
さらにジャンヌの母もかつて父の友人と不倫関係にあったことを知り、ジャンヌは人生に対する希望を失っていく。妻の不倫を知ったフルヴィル伯爵は、ジュリアンと伯爵夫人が逢瀬している移動小屋を斜面から突き落とし、二人は死ぬ。

未亡人になったジャンヌは息子ポールを溺愛するが、ポールは外国で女と暮らし、金の無心にしか手紙をよこさなくなる。両親も死に、ひとりきりになったジャンヌの元に、屋敷を追い出されたロザリが戻ってくる。ロザリの助力でジャンヌは財産を整理し、屋敷を売って小さい家に移り住む。やがて、ポールから、恋人が子供を産んで死にそうだと手紙が来る。
ロザリはポールの元に行き、女の子の赤ん坊を連れて戻り、明日ポールも帰ってくるとジャンヌに告げる。

これら二冊の本が何を述べたかというと、自分を見失いながら愛の苦悩に溺れる青年と、

幸福を夢見た少女が恵まれながらも悲惨な人生を歩む姿です。
今の世の中は、短絡的に成功して、短絡的に結婚して、短絡的に人生を過ごすのです。
今の時代に比べると不自由な時代だったかもしれないが、思索の時間が十分にあったということです。

悩み苦しみ葛藤して倒れては起き上がり、人間とは、愛とは、人生とは、と答えを求めて生きていたのです。我々が普段使わなくなった言葉の表現方法が、感情の学びには必要です。

多くの書物の中から「愛」を見つけ、「恩」を学ぶ事が大切です。
そして創造力を鍛えてください。


名言&恩学




The planet does not need more successful people.
The planet desperately needs more peacemakers,
healers, restorers, story tellers and lovers of all kinds.
Dalai Lama
地球はこれ以上成功した人々を必要としません。
地球はこれからも多くの平和主義者、ヒーラー、修復者、
あらゆる愛に基づいた人々を切実に必要としています。
ダライラマ

人々にとって一方的な科学の発展や経済活動の進化は本当に必要でしょうか?
一部の富裕者たちの策略に乗り民衆は奴隷のような暮らしを続けています。
現代人たちにとっての便利で豊かな暮らしの為に自然環境も破壊されています。
我々に必要なリーダーとは「奪うことを目的」として生きている人ではなく、
愛を「分かち合う」理想のもとに生きている人です。
昔からアイヌ民族に伝わるワンサード・スピリット「3/1は自分の為に、3/1は自然の為に、3/1は未来の子供たちの為に」が理解できるリーダーが必要な時代です。
奪い合えば足りなくなり戦争になる、分け合えば余るから平和になる。
ALL YOU NEED IS LOVE愛こそ全てです。

Continuous effort-not strength or intelligence-is the key to unlocking our potential.
Winston Churchill
力や知性ではなく、地道な努力こそが能力を解き放すカギである
ウインストン・チャーチル

西洋の思考から生まれる判断は、正しいか間違っているか、正義か悪か、
豊かか貧しいか、右か左かなどの、二項対立のシンプルな判断でしか答えはない。
その反対に力や知性とは別に、感情から生まれる判断もある。
感情に基づいて行動を起こす時に、自分が目指す方向へ、多くの批判が集まろうと、
地道に前へと進む勇気が自己の能力を最大限に解き放す。
意見を同じにする同調主義が安全だと勘違いしてはいけない。
世の中の大きな流れの中に飲み込まれて自己を失う危険を知るべきである。
個人の判断と勇気がイノベーションを作るのだ。
そして新しい道を進むのはいつも孤独である。孤独との戦いなのです。

「たとえ九十九人が向こう岸で騒いでいても、自分一人はスタスタとわが志した
こちら側の岸を、わき目もふらず川上に向かって歩きとおす底の覚悟がなくてはなるまい。」
森信三

Success is to repeat failure that succeed in failure without losing motivation.
Winston Churchill
成功とは意欲を失わずに失敗につぐ失敗を繰り返すことである。
ウインストン・チャーチル

レジリエンスとは失敗の連続でも乗り越える勇気があることである。
それはおのずから失敗の次に来るのは成功だと知っているからだ。
一度の失敗でくじけるのは日本人、一度の失敗は成功の道筋と喜ぶ米国人。

チャレンジ精神のある人ほど多くの失敗を重ねます。
そして失敗という経験をネガティブに捉えない人はダメージを受けることはありません。
トーマスエジソンの言葉に「私は今まで一度も失敗をしたことがない。
電球が光らないという発見を今まで二万回しただけだ」
大きな成功体験をしている人ほどその数倍も失敗を経験しているのです。
私も何度も人生のどん底を味わいながらチャレンジ精神を失わなかった。
そのお陰で常に新しい市場で成功を収めてきたのです。

Life is really simple but we insist on making it complicated.
Confucius
人生は単純なものなのに、我々が複雑にしようとしているのです。
孔子

世の中に悩みなどは無い。悩みを抱えている人間がいるだけである。ソクラテス
悩みを抱えている人間は近くで見ると悲劇だが遠くから見ると喜劇である。チャップリン
成功するためには悩みという種は必要だがその種に惑わされることは無い。恩学

「悩みのリフレーミング」悩みの元を中心に置いてあらゆる方角から見つめてみる。
例えば、「仕事のことで悩んでいる」
先ずは前方から見て「経験」がないから悩んでいる。
そして後方から見ると「専門技術」が足りなくて悩んでいる。
頭上から見ると誰も気にしていないのに「被害妄想」で悩んでいる。
右横から見ると「人間関係」がうまくいっていないから悩んでいる。
左方向から見ると「収入」が少ないから悩んでいる。
色々と悩みの分析をしてみるべきです。感情的にはならずに冷静な判断ができます。
それ以外に健康に問題ないのか、悩みを打ち明けられる友達はいないのか、
身体は鍛えているのか、息抜きは出来ているのか?などと、
生活全般に問題が無いのかを調べる。心が健康だと悩みに負けることはありません。
DNA研究でノーベル医学賞受賞したフランシスクリックの机の前に貼りだしている
メモには、「今まで自分が悩んだ98%は現実には起こらなかった」と書いてある。
皆様も起こらない悩みで悩むのは止めましょう。

Being honest may not get you many friends but it’ll always get you the right ones.
John Lennon
正直であることは、多くの友人を得ることはできないかもしれないが、
常に正しい友人を得ることが出来る。
ジョンレノン

平和活動や奉仕活動を行うと偽善だと笑う人がいます。
彼らは正しい道を歩く人を嫌うのです。批判する友達を数で自慢するのではなく、
生きる情熱を持っている小人数の友達を誇りにしましょう。
昔の親たちの言葉に「お天道様が見ているよ」というのがあります。
たとえ人が見ていなくても、悪いことをすればお天道様だけは見ているから、
やっては駄目ですよという意味です。
一生涯の内に誰にも評価されなくても、自分の選んだ道をまっすぐ歩くようにしましょう。
正しい友達を見つけることが大切です。それは自分に正直であるということです。

今後も「名言&恩学」はシリーズでお届けします。



感情的にならない




感情的になって良いことはない。
振り返ると後悔するだけ。
なるべく怒らないように、
その人から離れて、時間を置くこと。
本当に怒るべきなのか、自分に問いかけること。
自分にとって大きなことでも、
まわりからすれば、そうでないこともある
問題と相手を分けてとらえて、
解決するためにはどうすればよいか考えるようにする。
Pinterestより

若いときには何度も感情的になり失敗を繰り返した。
振り返ってみればとても些細なことでも気に留めて相手を困らせた。
自分の望むことを中心に置くと相手の行為に苛立ちを覚える。
こだわりや価値観が認められないと絶交にまで発展してしまう。

しかし感情的になって損したことは多々あるが得したことは一度もない。

芸術家にありがちな、心理学的でいうところの<攻撃性>、<易怒性>、<被害妄想>
的な面が、アーティストやプロデューサーにも多く見られた。
自分の価値観やこだわりを面前で笑われてしまうと、その怒りを止めることは出来ない。
私を含む感情の起伏の激しさや直情径行は、創造制作を生業としている人たちには
必要だから一切咎めることはしませんでした。

人は何故言葉に強く影響されてしまうのでしょうか?

人は言葉に強く影響される理由に・・
言葉が情報や感情を伝える強力なコミュニケーションツールであるためです。
言葉は以下のような要因によって影響力を持っています:

1. 情報伝達:言葉は情報を伝えるための主要な手段であり、知識や考えを共有し、
学び、理解するのに役立ちます。
2. 感情表現:言葉は感情を表現し、共感を生み出すのに使われます。人々は
他人の感情を理解し、共感することができるため、言葉は感情に強い影響を与えます
3. 説得力:言葉は説得力を持つ力を持ち、他人の意見や行動を変えるために
使用されます。説得力のある言葉は人々に影響を与え、行動を誘導することができます。
4. 文化と社会的影響:言葉は文化や社会的な価値観を伝え、形成するのに重要な役割を
果たします。特定の言葉やフレーズは社会的な規範や自己同一性に影響を与えます。
5. コミュニケーションの基盤:人間関係の形成と維持において言葉は不可欠であり、
コミュニケーションの基盤を提供します。言葉を使って他人とつながり、協力し、
共感することができます。

したがって、言葉は人々の思考、感情、行動に強い影響を与えるため、
注意深く使うことが大切です。
ChatGPTより

私の考えとしては生まれ育った環境による影響が大きいと思います。
幼児期に親から発せられた言葉で思考が形成されます。
いわゆる親の価値観が子供の脳に刷り込まれてしまうのです。
そして、子供は自我が目覚めて自分の感情も徐々に表現できるようになり、
大人の社会へ参加するようになります。

温かい家庭で成長した子は、人の意見を聞ける大人へと育ち、
問題の多い家庭で成長した子は、人の意見を批判する大人へと成長します。
もちろん、一概にそうではないと言う方も多いかと思いますが、
その傾向はあると思います。

言葉には人格が宿ります。どのような言葉も発せられた人の気持ちが加わります。
「言霊」は発する方も、受け取る方も、理解が均一のものではありません。
ちょっとした言葉で誤解を生んだり、さりげない言葉で感動したり、
思いやりのある言葉が人を惹きつけたり、引き離してしまうのです。

権力者(親、上司、各種リーダー、先輩)の言葉は絶対的に従わなければならないという、無言の圧力が感じられます。そのために自分が同等の立場になった時に、同じことを下のものに強制してしまいます。人の世は同じことの繰り返しかと思います。同じ言葉でも使う立場によって意味が変わることをご注意ください。

人生経験を多くした人ほど感情的にならないのは、経験から生まれた判断で物事を
対処するからです。教科書の文言(常識)をそのまま信じるのではなく、
自分の経験を加えるので結論を急がないのです。相手の言い分の本音は何なのか、
要求は何なのか、何故感情的になっているのかを、相手に気づかれないタイミングで
分析して対応をします。そして傾聴することを心がけします。

韓国の友人から「海は少し波風がある方が美しい」という言葉を頂き、
人間関係において少しもめ事はあった方が良いのかと思いました。
何もかも自分の思い通りになる人生は逆につまらないかも知れませんね。

感情的にならないのが大人としてのマナーです。

脳は鍛えられる



さまざまな経験をすると「心」が強くなると思っていたが、
それは間違いで「脳」が鍛えられて強くなるのだと知った。

感情をつかさどる右脳と視覚で情報を取り込む前頭葉が経験をデーター化して、
この出来事は以前にも経験したことがあると処理をする。
同じ経験を2度、3度繰り返すと脳のデーター処理が早くなり迷うことが少なくなる。

例えば、恋愛において死ぬほどつらい経験をしていれば、

それが次の経験に活かされて、喜びも悲しみも失恋の痛みも調整されるのである。
それは恋愛の興奮まで奪い去るのではなく、いつでも感情のアクセルとブレーキを
踏みながらコントロールが出来るようになることである。

人間関係や仕事においても同じようなことが言える。
良い経営者ほど辛い経験を明るく語るのは、成長期には何度も辛い経験をする方が
必要だと考えているからである。仕事での失敗や取引先でのもめ事もすべて糧となり、
将来に活かされると信じているからこそ暗くなる必要はないのである。

そして鍛えられた「脳」が自信と明るさを表面に出して人間性を伝えられるようになる。

人生の目的は現状に一喜一憂することではなく、将来の目的を達成することなので
目の前の壁の高さは気にならなくなる。もっと脳を鍛えましょう。

年齢を重ねると頼まれる事が多くなりました。
最近若い人達とのやり取りで「それは違うだろう」という思いがありました。
しかし、すぐに怒り、諌めるのではなく「自分も若い時には同じだった」のかと
流れに合わせます。いずれ相手の機嫌の良い時に注意をすればそれで良いのです。

自分の思い通りの内容でなくても、若者たちが一緒に時を過ごしてくれるのですから、
ありがとうと常に感謝の気持ちを忘れてはならないと思います。

目の前の本棚の中に、今の私の心境を語っている本がありました。
「おかれた場所で咲きなさい」ノートルダム清心学園理事長渡辺和子著
とても心が清らかな気持ちになります。また素直にもなります。

私なりの解釈で加筆もしております。ご了承ください。

「自分の思い通りにならなかったらすぐに腹を立ててしまうのはやめなさい」

自分のルールを相手に求めてもそれが違ったらそれで良いのです。
流れるままに生きることは周りを見ないのではなく、
自分本位ではなく相手も取り入れた形で行うことです。

つまり自分が清らかで勢いのある人生なら相手は自然に巻き込まれて来るのです。
暇は別字で「日間」と言います。日間は日の当たる間ができたということです。
忙しいのは心が亡くなると書きます。太陽の日が当たらなければ草木も育ちません。

心が亡くなるような仕事に追われて自分を見失うほど悲しいことはありません。
自分なりの光を見つけて周りを照らすことに心がけましょう。

「一燈照隅万燈照国」最澄
一人の人のテラス光は隅にしか届きませんが、大勢の人の光は国をも照らすのです。

「清く優しくいきるには」

主は問われる。
「何を望むか」
「謙遜を」
「次に何を」
「親切を」
「さらに何を」
「無名を」
「よかろう」
岡山県玉島にいる牧師「河野進」先生作

地位や名誉を求める為にどれほど多くの人を傷つけたか、
そしてそれを自慢げに話す愚かさが人間です。

尊大な私を取り除き「謙遜」に関係を保つ。
強欲な私を取り除き「親切」を忘れずに応対する。
傲慢な私を取り除き「無名」名もなき一人の人間として対応する。

素敵な教えも守らなければいみがありません。

「NHKスペシャルで取り上げたアメリカの非行少年の改心の物語」

崩壊家庭に生まれ育ち、友達はワルばかりでした。自らも非行に走り刑に服したのです。
刑務所を出所した少年が働く作業場に、ホームレスの男が来てのべた言葉。

お前は、何かにぶつかった時、
「反射的に行動し」、「それから感じ」、「それから考える」という順序で
生きてきたのか。それともその逆の順序だったのかい。
少年は「言われた通りの順序だった」と答えると、だからお前はここにいるのさ。
これからは逆の順序でやってみな。

「考えてから」、「感じてから」、「行動する」
この時から少年の自分自身との戦いが始まりました。

「心が変われば、行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。」座右の銘です。

「親の価値観が子供の価値観を作る」

3歳ぐらいの子供を連れた母親が水道工事のそばを通り過ぎる時に、
「おじさんたちが、こうして働いてくださるおかげで、坊やは美味しい水が飲めるのよ」
ありがとうと言って通りましょうね。

同じ水道工事のところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。
子供に向かって言いました。
「坊やも勉強をしないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ」

価値観はこのようにして、親から子供に伝えられることがあるのです。
最初の母親は、「人間はお互い同士、支えあって生きていること」、
労働への感謝の念を子供の心に植え付けたのに対し、2番目の母親は、
「職業に対する偏見と、人間を学歴などで差別する」価値観を植え付けたのです。

母親から出た言葉は幼き子供の脳に焼き付きます。良き言葉を使うようにしてください。

「私は木を切るのに忙しくて、斧を見る暇がなかった」

寸暇を惜しんで、他人より良い木を、より速く、より多く切ることに専念したこの人が、

仕事をしなくてよくなった時に見出したのは、刃がボロボロにかけた斧でした。
木を切る手を時に休めて、なぜ、斧を労ってやれなかったのを悔やんだことばでした。

死の間際に残す言葉の一つに「もっと仕事より自分を見つめる時間を作れば良かった」

「家族ともっと話し合う時間を作れば良かった」というのがあります。
どれほど偉くなり地位や名誉や財産を残したとしても、子供達や友達と
楽しい時間を作れなかったのが悔やみ後悔すると残しています。

そして「自分の趣味をもっと楽しめれば良かったのに」
子供の時にあれほど好きだった趣味が受験によりできなくなり、
社会へ出て出世競争に明け暮れてそのうち忘れてしまう。
お金が少し残せたとしても趣味に時間が取れなかったことが悔やまれるというのです。

多くの団塊の世代は働くことに専念して楽しむことが出来なかったのです。

「堪忍のなる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍、するが堪忍」

どうしても我慢できないようなことを許すのを堪忍というのであって、
普通に簡単に許せるようなときには堪忍とは言わない。

自分が寛容であると考えている人は、許すということの心構えが欲しいものです。

良き言葉を学ぶことは人生を変えるほどの力が備わります。
「愛語よく回天の力あり」より