江戸の文化は中国明の文化




江戸のよもや話Vol1

明の禅宗開祖黄檗宗が徳川幕府から呼ばれて土木から上下水道などの知識を与えた。
漢字文化もお茶の文化も医療文化も数々の功績を残し日本の発展に尽くした。

孫文は京都大学で学び日本製の漢字2700ケを持ち帰った。
ちなみに我々が普段使っている明朝体の文字は書いて字の如し、
明から入って来た文字である。
原稿用紙も黄檗の経典を書き写すものとしてあのマス目が使われていた。

中国では明が滅び新しく漢が制定され漢字が生まれた。
日本へ入って来て今もよく使われる漢民族の文字「漢字」
「好漢、酔漢、悪漢、暴漢、巨漢、痴漢、無頼漢、冷血漢」など
漢という文字は男性を表す文字である。

また明治維新は「明が治める新しい時代」になるという革命である。

日本製の豆腐と納豆の漢字の誤解がそのまま中国へ伝わり今も使われている。
(一説では孫文が京都大学んでいる際に解釈を間違えて持って帰ったという)

天麩羅も然り、我々はポルトガルから入って来たと学んだが、
中国にも昔から野菜のかき揚げボールのような料理や、
里芋に衣をつけて揚げたものがある。中国から入ってきた可能性もある。

江戸の屋台といえば蕎麦と寿司と天麩羅の3つが主流で屋台の「暖簾が汚れている」
店は繁盛店として人気があった。
(元々暖簾は客が食事後に手を拭くために掛けてあった)

縁日の参道にずらっと並んだ風鈴売りや金魚売りはお祭りの人気店で繁盛していた。

そして江戸の金持ちが狂ったように手に入れたいと思ったのが、
朝顔の品種と種である。
自分たちの家・屋敷と交換しても手に入れたい代物だったらしい。

それらの種がオランダに渡りチューリップに改良されたのである。
投機としてのチューリップは瞬く間に世界中に広がって行った。

お茶の歴史は煎茶、抹茶、プーアール茶、ウーロン茶などがあるが、
もともとは漢方薬の医療品として重宝されたのである。

中国の古典「三国志」の戦いはお茶の葉を争奪する戦いであったともいう。

日本人の好きな抹茶は遠くにいる友人にお茶を固めて送り、
それを削って飲んでいた粉茶である。
プーアール茶のように発酵して固めたお茶は腐敗しにくいので重宝された。

9世紀になり仏教学者・最澄と空海が中国に訪れた際にお茶の葉と種を持ち帰ってきた。
これが日本で初めてのお茶の輸入であったと言われている。

紅茶は中国からヨーロッパへ船で輸送中に船底に詰めていたお茶が発酵してうまれた。
英国に着いた時に最初に港湾労働者が飲んだという。

まさしく紅茶の発祥やコーヒーの発祥も偶然から生まれた産物である。
ブランデーも修道院が火事になりワイン貯蔵庫の燃えた樽の中にあった
焦げたワインを飲んだら美味しかったので後にブランデーとして売られた。

13世紀に入って今のコーヒーの飲み方になったのは、偶然起きた何らかの火事で
豆が焼かれたときに出た芳香がきっかけとなって飲まれたと言われている。
それまでは生の赤い実を修道士たちが眠気覚ましとして服用していた

いずれの国でも昔の趣向品は修道院やお寺で管理するのが決まりであった。
秩序ある人たちが管理しなければ麻薬と同じように法外な値段で取引が行われ
犯罪の道具として使われる恐れがあるからである。

もう一つ日本のお寺には過去帳(戸籍)の管理もあった。
出生届、死亡届、転居届などの管理していた。現在の役所のような役割であった。
寺は病院として心と体の悩み事などの相談もうけていた。
その時にもお茶が薬として用いられた。鎮静剤として使われていたのではないだろうかか。

江戸のよもや話Vol2

先代の話は正倉院の話、大英帝国の話、日本の美術工芸品の話など話題は尽きない。
知れば知るほど歴史に興味がわく。

お茶関係の名品(茶器・掛け軸など)は茶の本家に集まる話も面白い。
名品は所有者が手放す時、礼状を添えて無料で本家へお返しする習わしがある。

大英博物館は泥棒の戦利品が集まっている場所、英国本来の歴史的な美術品は無い、
世界各地から奪ってきた金品、財宝、ミイラまでバイキングの展示会場である。
さしずめ王室は泥棒の親玉である。

祇園祭の時、町屋では「見せ間」と言って個人所有の名品を表に並べて、
見ていただいたという。その中でも礼儀を知っている人には触ることも許したという。
本物は触らなければ分からない。茶器は肘を膝につけて見るのが習わしである。

寺子屋はお寺が無料で運営していた施設である。
そのために賭場を開き場所代(ショバ代)を頂いていた。それを「寺銭」という。
そして戻し金と合わせて売り上げの2割~3割を徴収!する。
お金の管理は寺側が行なっていた。教育と共に医療行為も無料で行っていた。

江戸の火消しは放火犯だった。
疫病防止の策として患者が住んでいた場所を燃やすのが最良の方法として考えていた。
また飛び火による延焼を防ぐために火をつけていたともいう。
火消は火をつけて屋根に上がり纏いを振り回して風を起こしていた。

江戸時代は孤食の時代である。
いわゆる一人一人がそれぞれのお膳で食べる事を習わしとした。
主人の膳、次の間に長男の膳、奥方と娘の膳は台所で黙って食べることが普通であった。
風邪などのウイルス感染の予防も兼ねていたのかもしれない。
当時は現代のように一日三食ではなく二食が一般的であった。

天才浮世絵師若冲の作品は座敷に燭台を置いてみるのが良い。
少し閉じた襖に描かれた鶏の絵がローソクの明かりによって動いて見えるという。
風流の極みである。黄檗が若冲のパトロンであったという説もある。

南天(解毒作用)の木は何故厠(トイレ)の側に植えたのか?
要人は食事中に毒を盛られることが多いので、
咄嗟の場合に南天を口に含み厠で吐き出すためである。

金魚の出目金は何故目が頭についているかというと、
壺の中で飼われているので上を見るしかなかった。
それで目がドンドン頭に近づき今の状態になった。
頭部に目が付いている出目金ほど高値で取引されたらしい。

以上は煎茶道黄檗売茶流家元「中澤弘幸」氏の講話を聴き脚色しました。
このような雑談の話も知ることにより会話が楽しくなります。