ルサンチマン(ニーチェ)




弱者が敵わない強者に対して内面に抱く「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情。そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」のこと。

ニーチェはキリスト教の起源をユダヤ人の支配者ローマ人に対するルサンチマンで
あるとし、キリスト教の本質はルサンチマンから生まれたゆがんだ価値評価にあるとした。

「貧しきものこそ幸いなり」
「現生では苦しめられている弱者こそ来世では天国に行き、
現生での強者は地獄に落ちる」といった弱いことを肯定して、欲望を否定しながら
現実の生を楽しまないことを「善い」とする、キリスト教の原罪の価値観・考え方、
禁欲主義、現生否定主義につながっていった。

キリスト的道徳はルサンチマンの産物と主張した。実際に憎悪やねたみが、
キリスト教を作り上げてしまう程の創造的な力に変換された歴史がある。

哲学史では「ペシミズム」(厭世主義)「オプティミズム」(楽観主義)と二極に分けて
考え方を発表することが多い。

ニーチェはプロテスタントの牧師の息子として生まれた。
ニーチェアはロマン主義的ペシミズムを揚棄することに始まる。

「人間が復讐から解放されること、これが私にとって最高の希望の橋であり、
長かった悪天候ののちにかかる虹である」

ニーチェは神を、道徳を、正義を次々に打倒して、ニヒリズムの奥に隠れていたものを
晒していく。それが「ツァラトストラ」の物語である。

人は生きるために目的を明確にして突き進むしかない。
民主主義や自由経済では地位や名声や財産が人生の目的になることがほとんどである。

上司を恨んで経営者に嫉妬して、優秀な同僚を敵にまわして、
弱者が「善」とする考えには同意が出来ない。

文明は自然を守り文化は自然を破壊する。
科学の進歩に合わせる形で世の中の歴史は作られてきた。

それらの枠組みを取り外して頂点に立つことが武士道であるという。
このような飛躍した考えにも同意はできない。

武士の社会にも出世欲にまみれていた武士もおり、金に執着した武士もいた、
藩主は領土を拡大しようとする侵略行為も平気で行なっていた。

男性社会の武士の世界では男色に走る武士も大勢いた。
そのうえ安全確保のために子供を人質として敵に送りことも平気で行われていた。

戦いは勝った方が「善」で、負けた方は「悪」になるのは世の中の定説である。

山本常朝「葉隠」を拡大解釈して美化することには反対である。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」武士の確立した自立の頂点は「刹那」である。
その「刹那」から「現生」(うつせみ)を見て貧しき領民を救うために生きるなど
きれいごとに過ぎない。うわべを美化して内面を腐らせる精神論である。

しかし(戦国武士の開放性と溌剌生が歪められて陰にこもった
色調に蔽われているとはいえ)その強調する主君への純粋無雑な「忠誠」と
「献身」が決して権威への消極的な恭順ではなくて、
むしろ「諸人這い廻りおじ畏れ、御尤(ゆう)ともばかり申す」
卑屈な役人根性や「出る日の方へ」向く大勢順応主義に対して、
吐き気をもようすばかりの嫌悪感に、うらうちされ、学問と教養のスタテックな
享受にたえず抵抗する行動的エネルギーを内包し、
中庸でなくて「過度」謙遜でなくて「大高慢」―要するに「気力も器量も入らず候。
一口に申さば、御家を一人して荷ひ申す志出来申す迄に候」というような、
非合理主体性ともいうべきエートスに貫かれていることを看過してはならないだろう。

お家の「安泰」は既成の「和」の維持ではなくて、行動の目標となる。
こうした側面は集団の危機感に触発された際に奔騰する。

忠誠が真摯で熱烈であるほど、かえって「分限」をそれぞれ守る形で静態的な忠誠と、
緊急の非常事態に際して分をこえて「お家」のために奮闘するダイナミックな
忠誠とが、生身を引き裂くような相剋をひとりの魂の中に巻き起こすのである。

武士道の価値の転換である。

多くの宗教はキリストと同じルサンチマンである。貧しき人たちもルサンチマンである。
世界四大聖人たちもルサンチマンである。人間は生きる理由を見つけなければ
生きてはいけない。だから「死ぬこと」とは「生きること」なのである。

人民から起こる革命はルサンチマン的発想のもとに起こるのである。
貧しきものが、必ずしも「善」である発想は悪を容認することであり、
地位や富を持っている者たちを「悪」と標的にして、
いたずらに攻撃することにつながりかねない。

尊王攘夷を掲げた勤王の武士は全て正しい人間だと定義付けるのも危険である。
武士道を美化するあまり本質を忘れて脇道にそれることの可能性もある。

「草莽崛起」を掲げた吉田松陰も一部の情熱を持った、
地方の下級武士と豪商が結束しなければ何も起こらないことを伝えていた。

必ず正しい行いの裏側には悪意に満ちた欺瞞が渦巻いていることは事実なのである。
それはバラを見てアブラムシを見ないことと同じで、
バラの美しさだけを表現するのは片手落ちなのである。

王道の哲学は表面的よりも全体を見て知識を高めなければならない。
そして自分の意見を明確にして立ち位置を定めなければただの「言葉遊び」に過ぎなくなる。

「恩学」も言葉遊びに捕らわれるが、あくまでも私個人の、
その都度の感性に触れた事柄を表現している文章に過ぎない。

音楽プロデューサーの独り言に何かを感じていただければ、それで良いのです。