ジレンマ




ジレンマとは二つの相反する事柄の板挟みになること。
AとBどちらかを選択しなければならないのだが、どちらを選んでも不利益が出る。

英語表記「dilemma」と書きます。「di」は二つという意味を持ち、二重の問題や、
二つの仮設といった意味を持ちます。

「二方からの相容れない要求によって身動きが取れない」といった表現で言い表される
ような状態のこと、「抜き差しならない羽目」と言った翻訳もされる。

仏教的運命の解釈で述べると、

生きるとは死と隣り合わせである。
では死と隣り合わせなのに何故生きるのか?

4苦「生老病死」しょうろうびょうし
「生」まれて、「老」いて、「病」気になり、「死」が訪れる

8苦「四苦八苦」
「愛別離苦」(あいべつりく)大切な愛すべき人といつかは離れなければならない苦しみ
「怨憎会苦」(おんぞうえく)大嫌いな人と顔を見たくない人でも出会ってしまう苦しみ
「求不得苦」(ぐふとっく)求めているものごとが手に入らない苦しみ
「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)自分の身体や自分のこころすら思い通りにならない苦しみ

仏教では、この四苦八苦は人間が生きている上では避けては通れない、
根源的な(苦)として表します。

なぜ避けては通れない苦しみがあるのに人は生きることに悩むのだろうか?
知ってしまったから悩むのか、知らなければ悩まないのか、ジレンマに陥ります。

苦労して死に向かって生きるのであれば生きる喜びはどこにあるのだろうか?

学問を追求して真理に近づいたとしても「悟り」は得られるのだろうか?
個人の財産をいくら増やしても絶対的な「満足」は得られるのだろうか?

政府の言いなりになってワクチンを何度も打ったが「安全」は得られるのだろうか?
環境問題は気になるが生活スタイルは変えないで「責任」を果たせるのだろうか?

社会のゆがみ(常識)から判断するから目に映るものにしか意識が向かない。
自分の意識を内面(心)に合わせれば答えはおのずからと見えて来る。

Aだから良いという考えではなく、Bにも良いところがあると分かれば、
不利益が出たとしても、どちらかを選択すれば悩まないのである。

もしCという仮説を立てたときにはどうなるのだろうか。

帰納法的考えで行くと人は必ず死ぬ。死ぬから人なのだ。だから死を学ぶ必要がある。
演繹法なら死があるから生きる。生きるから死がある。だから生きていく。

そして自分の悩みの解決方法は自分の経験からしか見つかりません。
他人からいくらアドバイスを聞いたとしても経験がなければ理解が出来ません。

我々は普通の人間だから「喜怒哀楽」から「死」を追求するしかないのです。

デジタル社会の仮想体験はエンターテインメントでは通用しても現実では通用しません。
意識の中の感情で興奮を作れたとしても脳や身体には響かないのです。

仮想よりも実感する痛みや苦しみや涙の感情が大切です。体力と病気の関係も大切です。
悩みの根元は全て仏教の世界「四苦八苦」で表現されています。

頭の中=心の中いわゆる精神が病気の大本(おおもと)です。
人の一生にある運命を信じないからジレンマが起こるのです。

仕事と学び、学びと実践、実践と成果、成果と評価、身体と精神、成功と敗北、
その間に存在する思考の「原因」を突き詰めて考える必要があります。

人生は多くの人が同意する理屈・理論通りに動いてくれません。
心の中に秘めた自分自身の夢を描いてまっすぐ進むことが大切です。

ジレンマに陥っている場合はまだ時間の余裕がある証拠です。

帝王学では賢者は歴史から学べと言われています。
「賢者は歴史から学び愚者は経験から学ぶ」ビスマルク(独)
歴史から学ぶか経験から学ぶかジレンマに陥ります。

残念ですが我々のような凡人は経験から学ばなければなりません。

枝の多い木は少しの風にも揺れる




一瞬の出会いで感動して涙する。多くの人にそれを伝える。
一瞬の不信で絶望して攻撃する。多くの人にそれを伝える。
一瞬の別離で自分を正当化する。多くの人にそれを伝える。

SNS上には真実と嘘が混在する。妬み、中傷、批判、諍いなどが氾濫する。
しかし自分が正しいという思い込みから、他人を攻撃して良いのだろうか?
目の前にいない人に向かって勝手に毒をまき散らしても良いのだろうか?
ネットいじめは決して許されぬ行為である。

自分勝手な思い込みの正義感で執拗に追い込んでいくことに怒りを覚える。

「小人閑居して不善をなす」礼記・大学

働く意欲も働く場所もなく少年少女たちが犯罪に手を染めてしまう。
不当な収入でももらえれば嬉しくて大騒ぎをしてしまう。
振り込み詐欺や闇バイトの連中もこの手の類である。

この国が若者たちを無気力にしてしまう。
努力する者を評価しなくて、結果だけで判断するから、益々無気力になる。
メディアは世界中が大変だと言いながら、合間に流れるCMは浮かれ過ぎである。
だから危機感が薄れて短絡的な若者が増えるのである。

子供の時から情報操作の中で生きているから真実を見つけられない。
大人としての自立が遅いから即断力に欠けてしまう。
心の中に悩みの枝が多いから少しの風にも動揺してしまう。

将来の夢を描けないから木(本気)が育たず気移りの枝ばかりになる。
社会はそんな若者達に税金と称して少ない収入をむしり取る。
結婚も出来ない、家族も持てない、高齢者の面倒をみろでは負担が多すぎる。
若者たちはこの国に対して夢が持てなくて反発精神だけが育ってしまう。

枝の多い木(気)は少しの風にも揺れる。

お大人も子供も他人の考えを持ちだして説教じみた話にすり変える。
SNSの発信者のつぶやきに反応するだけでは何も結論は出ない。
現実に在る事実を無視して無駄な時間のシェアーをする。

見知らぬ人からの「いいね」で安心する。お返しに「いいね」を押し続ける。
不幸な出来事にも「いいね」で反応する。「いいね」が「どうでもいいね」に変化する。
愚痴には同意するが、成功には攻撃をする風潮がまん延する。

「少し波がある方が海はきれいに見える」

子供達は日々の出来事を母親に伝える。

子供が枝にとまるカブトムシを発見する。
夢にまで見たカブトムシが目の前にある。
生まれて初めての興奮の絶頂を味わう。

子供は両親に発見した時から捕獲するまでの状況を事細かく説明をする。
親が言葉で反応すれば子供は嬉しくて大騒ぎをする。

新しい友達、新しい遊び、新しい出来事、宿題や塾での報告なども同じである。
親は聞きながら頷き、少しの助言を与える。時には修正も加える。

子供は学校という社会の中で波風を受けて成長する。

友達の悪口やいじめの問題、学校の対応や先生の考えも、両親に話をする。
子供達は怒り涙して苦しみながら成長する。

両親として大切なことは全てを同調する事ではなく見守る事である。
子供の苦しみや悩みを側に居て聞いて感じてやることである。

「親」という文字はナイフの刃先が顔に当たるぐらいの距離という文字である。
「親」は子供の悩みを分かち合い痛みをじかに感じる距離に居なければならない。

時には子供の感情に同調するだけでは無く、秩序・法律・常識・恥・志を教え、
社会の決まりを通して大人として助言すべきである。
感情に左右されずに冷静に判断して助言すべきである。

自分の感情を表に出して自己説明に徹底してしまうと人は聞かないものである。
誰しもが悩み問題を抱えている。確固たる理由がなければ助言はすべきでない。

信念とはそんなに簡単に揺らいではならないのである。
少しの風で揺れる人はリーダーに向いていない。

韓国の友人が教えてくれた二つの教訓、
「枝の多い木は少しの風にも揺れる」
「少し波がある方が海はきれいに見える」。

人は人生の中でさまざまな問題を抱えて悩むのです。
心の中の木が育たず枝が多くなると少しの風にも反応してしまいます。
他人の言動にすぐに反応して左右に揺れ動くことのない人生を送ってください。
落ち着いて生きてくださいという意味だそうです。

そしてもう一つは、
誰しもが波乱の人生よりは穏やかな人生を望むのですが、何もない穏やかな海で
過ごすより、少し波がある方がきっと楽しい人生を送ることが出来ますよ。
という激励の意味だそうです。

感謝・合掌

迷い道くねくね




人生において度々進路が見えなくなります。

自分なりの強い意識を持って挑戦するのですが、
求める先が見えないのに答えを出さなければならないのです。

人生の長さを考えれば常に限界の先を目指して突き進むしかないのです。


「うを(魚)水をいくに、ゆけども水のき(際)はなく、
鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのき(際」はなし、
しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。」
「正法眼蔵隋文記」道元

魚は泳げども、泳げども海はどこまでも続くが、海から離れない。
鳥は飛べども、飛べども空はどこまでも続くが、空から離れない。
いずれも究極まで行こうとするのでなく、その都度必要なだけ進むにすぎない。

限界を目指して修行は行われるが、限界の先に到達した人は少ない。
悟りを得た修行僧も、その限界の先を何度も挑戦するが行きつくことは無い。
その都度己の必要な分だけ前へ進めば良いのである。

「百尺の竿頭にまだ一歩先を進めず」道元

人間はおろかである。究極の先には何もないことを知りながら前へ進もうとする。
しかし先に行くことを恐れる者には「悟り」は存在しない。

般若心境に書かれている「色即是空・空即是色」そこにすべては無い、
しかしそこに全てが存在する。存在とは誤認識の中の錯覚であり、
ミクロまでたどり着けばそこには何も存在しないのである。

視覚で捉えた世界を在ると信じるのは間違いである。

目標をライバルにしてしまうと目的が見えなくなる。
同じポジションにいるから同等だと勘違いをして後れを取ることが多い。
ライバルが先を行くことになると目線の中では自分の方が先に行っている勘違いが起こる。

そして気のゆるみから大きく後れを取ってしまうことがある。
目的が明確でないと常に目標に気が取られてしまう。

「人、舟に乗りてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。
目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、
身心を乱想して万法を肯するには、自心自性常住なるかとあやまる。」

例えば船に乗っていて岸辺を見たら、岸が動いているように見える。
しかし船べりに視点を移せば、やはり船の方が進んでいることがわかる。
あれこれ頭を使いすぎると、さっきの岸辺なんてもうなくなったのに、
まだあるかと錯覚してしまう。

目に映るものがあっても、その実態はないのだ。
目に映る世界が正しいと勘違いしている人が多い。
それが常識だと教え込まれるからである。

真実でなくとも脳が記憶した常識で反応してしまうのである。

常識を妄信するとコントロールされやすい人間になる。
果たして自分の目に映る世界は、他の人と同じものを共有しているのだろうか。
自分は動いていないのに他の人が動いていれば、
勘違いのまま自分が動いていると信じてしまうのである。

SNSでいくらフォロワー数を上げて人気サイトになっても、
半年後には消えていく運命であることを知るべきである。
そこには実体がないのだ。

名もなく貧しく美しく




自分の身を正すには自分なりの覚悟が必要です。
凛とした純粋な気持ちの中でいきなり高みを望むのではなく、
人として最低限の決まりを持たなければなりません。

おかれた環境の中で名誉より大切なものは何か?
名前(肩書き)が無ければ人として認められないのか?
名がなくても万人を手助けする事が出来るのではないか。

穢れなく生きるために自問自答を繰り返してください。

優しくなりなさい。そうすれば勇敢になれる。
つつましくなりなさい。そうすれば広い心を持てる。
人の前を行かないようにしなさい。そうすれば人を導く者になれる。
老子

自分の夢を叶えるためにはお金が必要です。
有り余るお金でなくても挑戦が出来る多少のお金は必要です。
お金を溜め込むとお金に束縛されて身動きが出来なくなります。

貧しくとも世の中の役に立つことは出来るはずです。
必要最低限のお金は心まで奪われることはありません。

自分の身の丈にあった必要な金額を知るべきです。

貧しさはぼくにとって必ずしも憎むべきものではなかった。
なぜなら、太陽と海は決して金では買えなかったから。
アルベール・カミュ(フランスの作家)

どんなに辛くても胸を張って生きることが大切です。
悲しみに包まれた中で、笑顔で過ごすことで輝き始めるのです。
他人の苦しみを共有して励ます言葉を投げかけることが大切です。

泥の中のハスのように最後まで花を見せずに生きることも大切です。
姿・形の美しさより見えない心の中の美しさが尊いのです。

あなたの思考は全てのスタートになるのです。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか人格になるから。
人格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
マザー・テレサ(カトリック教会の聖人、修道女(ノーベル平和賞受賞))

私たちは望む世界で生きることは容易に出来るのです。
しかし、身体に障害を持っている人達はどうだろうか?
貧困で苦しむ人も、不治の病で苦しむ人も、災害で財産を失った人も、
望む世界で暮らしていけるのだろうか?

私たちは美しい言葉を自由に使える特権を持っているのです。
その美しい言葉を学ぶ必要があります。
美しい言葉で人を助けることも出来るのです。

『愛語よく廻天の力あり』というものがあります。
愛語とは、先に申し上げましたとおり、
《愛情に満ちた思いやりの言葉》ということです。
廻天とは、天を廻ると書いて、天地をひっくり返すと言うような意味です。
つまり、“愛情に満ちた言葉を掛け続けると、
人の気持ちはやがて変わっていく”と言うことです。
トゲトゲしい気持ちだった人が、穏やかな気持ちの人に変わっていったり、
暗く沈んでいた人が、徐々に明るさを取り戻していくなど、
愛語によって人の気持ちが最初とは反対の良き方向に変わっていくことを言います。
曹洞宗開祖 道元禅師

その昔同タイトルでヒットした映画があります。
「名もなく貧しく美しく」1961年1月15日公開
松山善三が自らの脚本を、初めて監督したもので、
聾唖者夫婦の物語。出演は小林桂樹と高峰秀子。

不幸の連続の中で慎ましく生き抜く物語です。

機会があればご覧になってください。

自己賛美「生きる」




カナダのエスキモーは火傷や大怪我では死ぬことは無いと信じている。
病院へ行っても2~3日で何事もなかったかのように帰っていくという。
エスキモーはこれぐらいの症状で絶対に死なないと信じ込んでいるので回復も早い。

また白人はやけどやケガの治療は病院で治ると信じている。
しかしエスキモーと違って重症な場合は50%の確率で死んでしまう。

さらにヘアーインディアンはチョットした火傷や怪我で簡単に死ぬことが多い。
大地の神々が何らかの罰を与えたのだという恐怖が死に追い立ててしまい、
急に亡くなるケースが多いという。

白人は医者に頼りきりで薬や手術に依存するだけで成り行きを見守る。
ヘアーインディアンは火傷も傷もなにか「悪霊」に取りつかれたのかと心配して
「私は一週間以内に死ぬ」と宣言してその通り一週間後に亡くなっていくという。

日本には昔から「病は気から」という言葉がある。心配事が多いと病気になる。
まさに様々な思い込みこそが病気の原因を作るのです。
いかにストレスが身体に悪い影響を与えるかということです。

ストレスの多くは、食生活から始まり、睡眠や運動に影響を与え、
全身の免疫力が低下して、最終的には気力を奪ってしまうということです。

その上に人間関係や社会的プレッシャーがかかり脳に悪影響を与えてしまう。

勿論、個人的な悩みは千差万別ですが安易に「死」を選択してほしくは無い。
もし、死をイメージするのなら「生」もイメージしてほしい。

心理療法士の世界的権威ミルトンエリクソンは、

レジリエンスのみなぎる問題状況への対応は、
持って生まれた自己の良いところを信じる気持ちから発生する。

健全な自己賛美がないと、エネルギーを自己に対して否定的に位置づけたり
(拒食症で身体を飢餓状態にするなど)、
最低でも、自分のリソースを呼び起こすことができなくなったりすると言う。

エリクソンははっきりと、自分の目的は患者の良好で健全な部分と
コミュニケーションを取ることだとしている。

エリクソンによれば、患者は自分自身の身体のなかに安心感を持つ必要がある。
精神であれ、心であれ、消化器系であれ、他のいかなる身体的部分であれ、
心理学的に権利を剥奪されたままになっている部分の良さを確信できれば、
新たな自己効力感が生み出される。

健全な自己賛美、自分を否定するのではなく全面的に肯定するのです。
レジリエンスを呼び起こすためにも「生きる」という意識を持ちましょう。

安易に死を前面に押し出すのではなく生きるためのレジリエンスを鍛えましょう。

主人公




「私」ばかりで会話を始めると相手は聞くだけになる。
「あなた」と問い掛ければ相手は話しやすくなる。

自分本位で暮らしていると周りの人が無関心になる。
他人本位で生きていると周りの人の笑顔が集まる。

短くてささやかな人生でも自分1人の人生である。
そして誰しもがその物語の中では主人公なのです。

私とあなたが出会えば悦びが始まるが同時に悲しみも共有する。
あなたはあなたで生きてきた人生がある。

あなたが望むことを誰にも伝えられずに我慢してきたことも、
時が移れば楽しい思い出となる。

社会に出て一人暮らしが始まり、人恋しくなり、会話の相手を探す。
学校や会社で知り合った人との交際が始まる。

二人の間に好きという感情が芽生えて物語はいつか静かに終わりを迎える。

会話の中に「私」が増えるとわがままな要求が増えて「あなた」が遠ざかる。
「あなた」を入れず自分中心の物語に、他人は関心がないことを知るべきです。

プロ野球選手の田尾安志さんが引退後に記念CDを出したいと依頼があった。
歌自慢の彼がカラオケで得意な曲がさだまさしの「主人公」だった。
さだまさしさんも快く「良いですよ」と返事をいただいたのでレコーディングをした。

主人公

「或いは」「もしも」だなんて
あなたは嫌ったけど

時を遡る切符があれば
欲しくなる時がある

あそこの別れ道で選びなおせるならって
勿論 今の私を悲しむつもりはない

確かに自分で選んだ以上精一杯生きる
そうでなきゃあなたにとても
とてもはずかしいから

あなたは教えてくれた 小さな物語でも
自分の人生の中では誰もがみな主人公

時折思い出の中で
あなたは支えてください

私の人生の中では
私が主人公だと

この録音の時にさだまさしさんと一緒に青森へ行きました。
高木恭造さん(日本の方言詩人(津軽弁))へナレーションのお願いです。
さだまさしさんのリクエストだったのですが、
「主人公」のCDにナレーションを入れたかは記憶が定かでない。笑い
B面かもしれない。(昔は代表曲がA面で補助曲がB面で表示しました)

女性は一生のうちに何回も呼び名が変わると言います。
結婚前の名前、結婚後の名前、何々ちゃんのお母さん、夫からのお前です。
親から頂いた名前は子供が生まれると同時に消えてしまいます。
そして独身の時に描いた物語はクローゼットの奥深くへしまい込んで忘れてしまいます。

その分、叶わなかったロマンスを韓流ドラマやジャニーズに求めるのでしょうか。

いつまでもあなたが「主人公」のままで良いのですよ。
年齢を重ねても「夢見る少女」のままでいてください。
全ての出会いに「恩」を感じてお過ごしください。

気づきと目覚め




教育から受ける知識と経験から学ぶ智慧がある。
知識は生きていくうえで不可欠なものであり学問に励まなければ得られない。
智慧は個人が何らかの影響を受けて問題を解決した時に得られるものである。

社会に出て仕事を覚えていくにも知識がなければ上司の指示の意味が理解できない。
大人の常識と言われるマナーから専門的な分野まで実行できる者が出世していく。
中には勘違いをして一流大学出身とか親の七光りで偉そうにする人もいる。

しかし知識は過去の学問であり未来に対応できるかは別問題である。
様々な経験や苦労を重ねて成功した時に初めて知識が自分のものとなる。
知識を得る方法は年齢に関係は無く好奇心があれば死ぬまで学び続けることが出来る。

智慧は「おばあちゃんの知恵」など代々受け継がれるものが多い。
農家には農家の知恵があり、漁師には漁師の知恵があり、林業には林業の知恵がある。
食物や家具・食器・着物まで無駄をなくしてエコとリサイクルで活用してきた。

明治に入り始めて女性が教育を受けることが許可された。
それまでは嫁いだ先の姑から口伝で女性の学ぶべきことを教えてもらった。
武士の家にまつわる仕きたり、裁縫、料理、子育て、中には和論語や薙刀の訓練もした。
勿論、専門のお師匠さんから習ったものを、その家なりの家風として伝えていくのである。

「当時の女にとって、家庭は教室でもあり、職場でもあり、哺育所でも、養老院でもあり、
いっさいを意味していました。女たちはそこで子供を育て、年寄りをいたわり技能を習得し
鍛錬もされました」山川菊枝「武家の女性」より

ユダヤの聖典タルムードも先人たちが経験した事柄や、人間関係、取引での問題解決の
方法など、民族が受け継がなければならない大切な教えが書かれている。

タルムードは、ユダヤ教の口伝律法と学者たちの議論を書きとどめた議論集で、
古代ヘブライ語で「学習」「研究」を意味する。

*「最悪なことが最良のことだと、信じなければならない」
(悪いことが重なっているように見えても、人知の及ばないところで、
もっと悪い事態から救われているかもしれない)
*「金がありすぎると人間は、獣のように警戒心が強くなるが、
金がまったくないとなりふり構わない本当の獣になる」
(ユダヤ人が経済的に成功するのは、何世代も知恵を伝承してきたからである)
*「今日あなたは、穀物倉庫を見て、穀物の量を数えようとした」
 その瞬間からあなたは神から見放される。
(ユダヤ教では、お金や物など、「数えられるもの」には幸せは宿らない、
「これだけ儲かった」と考えた瞬間に、神の庇護がなくなるとし、
「お金儲けに一喜一憂すること」を明確に戒めているのだ)
タルムードより

AIが知識を担当する時代に入った。
単語を検索する時代から文章を検索する時代に入ったのである。
今、はやりのChatGPTやGoogle Bardを使えば卒論から企画書、提案書まで、
誰でもが瞬時に作成できるのである。

智慧の役割はデーターには無い情報の裏読みと判断である。

アメリカの大統領室が会議で取り入れているのが、OODA(ウーダー)という
戦略的会議の進行スタイルである。
ObserveのO、情報収集をして、OrientのO、状況判断をして、
DecideのD、意思決定をして、ActのA、実行に移る。

それまではPDCAが主流だった。
PlanのP、計画をして、DoのD、実行をして、CheckのC、測定・評価をして
ActionのA、対策・改善をする。検証型プロセスを循環させ、
マネジメントの品質を高めようという概念。

時代が変わり、これまでのようなやり方で企業なりの理想を描いても、
顧客も市場も受け入れることは無い。
企業の一方的な生産性を高めるための方程式は通用しなくなったのです。

昔CIAの友人からCIAの意味を知っているかと尋ねられた。
セントラル・インテリジェンス・エージェンシーと返答したところ、
セントラル・インフォメーション・エージェンシーだと教えてもらった。
インテリジェンス(知識)は調べれば誰でも手に入ることであり、
インフォメーション(情報)は集め方と使う人によって価値が変わる。

大切なことは知識ではなく新鮮な情報だということです。
新鮮な情報は智慧と組み合わせれば最強だということです。

気づきによる目覚めが大切になる時代です。
今日あなたはいくつの気づきがあるでしょうか?

子供の知能マルセル・ジーバー




以前この投稿を見て感動したのでそのまま文章を掲載します。
長文ですがお読みください。

ウガンダの子供たちは出生48時間後には、腕を支えるだけでまっすぐに座り、
首はすわり、背中はピンと伸ばしていました。
赤ちゃんは母親をまっすぐに見て焦点が定まり、にこにこと笑って、
顔は知性に輝いていました。

生まれる前の赤ちゃんは母親の子宮います。
羊水の中は静かで体温と同じ温かさで安全で栄養と酸素が与えられて
なんの心配もいらない天国の状態です。

この世に生まれるということは、子宮という天国と極楽から追い出さられることを
意味しています。病院での出産は赤ちゃんには強いストレスを与えます。

眩しい手術用の照明は赤ちゃんの目にはまぶしく、焼けるように感じます。
騒がしい声が飛び交う分娩室は耳をつんざく轟音に聞こえます。
そしてすぐに切断されるへその緒は脳にダメージを与えてしまうのです。

同じように猿で人間と同じスタイルで生まれた新生児は呼吸困難に陥りました。
自然界の猿は生まれてすぐに母親にしがみつき、数時間後には歩けるようになります。
自分の足で立ち、辺りを飛び跳ねます。
ところが現代医療をほどこした猿は母親にしがみつくことも出来ず、
自分の足で立つこともできませんでした。
母親は麻酔でぼうとなっていて赤ちゃん猿を助けることも出来なかったのです。

近代文明の病院ではよく赤ちゃんに蘇生手術をほどこします。
麻酔でぐったりとした新生児の足をつかみ逆さまにして
叩いて呼吸を回復させようとします。
20%の子供に目立たない脳の損傷がみられ、
それが原因で学習と行動に問題をきたしていました。

シドニー大学の2017年の調査では出産後すぐにへその緒を切らないと、
2歳になるまでの死亡率が30%減少し脳性麻痺・視力喪失・難聴・発話障害などが
17%減少していました。

未熟児は早急に医療処置が受けられるようするために、
出産後すぐにへその緒が切られるのが一般的です。

けれど乳幼児は胎盤からへその緒を通じて母親からの血液に含まれる赤血球・免疫細胞・
幹細胞などを受け取って病気への感染抑制をしているのです。
臍の緒は抱かれて丁度お乳を飲めるくらいの長さになっています。

自然出産とテクノロジー出産の赤ちゃんは対照的です。
テクノロジー出産の赤ちゃんは臍の緒を切られて母親から離されます。
感覚遮断された保育器の中で孤独にされます。

人生最初で最大の出生経験で疲れ果てているのに
保育器の中で泣いても誰も答えてくれません。
泣いても誰も答えてくれないと赤ちゃんは刺激に反応しなくなります。
泣いても無駄なことをすばやく学習してしまうのです。

天国は失われて二度とあのような状態は望めないというメッセージを
赤ちゃんは受け取ります。生まれてきたこの地上界は好意的ではないのです。
そして無意識の中に敗北感・困難に対する自信の喪失感が刷り込まれます。

ウガンダの母親は、赤ちゃんが生まれる5分ほど前まで日常の仕事をしています。
出産間際になると一人になってしゃがみ込み赤ちゃんを産んだのです。

母親は、裸の胸にぶら下げた吊り帯の中におしめもつけずに赤ちゃんを入れました。
母親はたえず、さすり撫で、唄い絶対に赤ちゃんと離れることはありませんでした。
母親は胸に抱っこして、いつも、つれて歩くので、
赤ちゃんは絶えず裸で母親と接触して皮膚の刺激を受けていました。
常に赤ちゃんは母親のマッサージを受けていたのです。

そしてスキンシップが低い赤ちゃんは大人になった時にパートナーに対して不人情で、
自己中心的で、やさしさに欠け、他人に対しては、
社交性に欠ける傾向があるということでした。

愛と思いやりを充分に受けて育った世界中の子供たちは、人生に対して肯定的で聡明、幸福、社交的、多才、柔軟、健康で適応性に富んでいました。

修己知人




権力を行使する人が学ばなければならない学問が「帝王学」である。
帝王学の基本は「正しく己を修めて人を治める」である。

身を正して人民の手本となればおのずからと国は収まるのです。
あらゆる経営者にも通じる人間学が書かれています。

今までに、柱がまっすぐで影が曲がり、
上に立つ者が治まって下民が乱れたことがあったためしはない。

私はいつもこういうことを考えている。
人がその身を破壊するのは、その原因が外部から来るのではなくして、すべて、
その人自身の欲望のために破壊禍をまねくのである。

もし、おいしいご馳走ばかりを食べ、音楽や女色を楽しみ好めば、

欲望は限りなく多く、それに要する費用もまた莫大である。
それは政事の妨げとなる上に、また、人民の生活を乱すものである。

その上にまた、君主が一つでも道理にはずれた言葉を出だせば、万民は、
そのために統一が乱れ、君主を恨みそしる声が湧き起こり、
離反や謀反をするものも起こる。

決して自己の欲望のままに勝手気ままな行為はしないのである。
「貞観政要」より

自民党の女性議員が研修と称して税金を使いパリに行った。

一部の者はファーストクラスに家族と乗り、その他の者は全員ビジネスクラスで
豪遊をしたのである。当初、自費(30万円)で行って一部を党費で賄ったと言っていたが、

相場ならファーストクラス(120万円〜140万円)、ビジネスクラス(60万円〜70万円)、
一流ホテルに泊まり(1泊5万円〜6万円)、一流レストランで食事をして(1人3万円)、
チャーターバスで観光を楽しんで、この個人負担の金額で収まるとは誰も信じない。

タレント議員の今井絵理子は仕方ない(諦めている)としても、
東大法学部を出て外務省出身の松川ルイ氏は「大変有意義だった」と振り返っている。

一方で「パリの街の美しいこと!」と書き込み、エッフェル塔前で「女性局」の
横断幕を掲げた多人数の写真や、松川氏らが塔を模したポーズを取る写真を投稿した。
費用については「党費と各参加者の自腹」と釈明したが、
「議員の収入は税金だ」とさらに批判を招いた。

呆れたのと情けないので納税するのが馬鹿らしくなる。

本来「恩学」では政治的、宗教的、一部の団体に向けての批判記事などを
一切書かないのですが、今回は特別に書いてみました。
政治家は国民の惨状から目を背けて議員特権の恩恵に溺れてしまっています。

帝王学に「地位と名誉と財産を与えるとどのような人間も堕落してしまう」
「権力を握れば三年でバカになる」と書かれています。

いつの世も特権階層には勘違いしている大バカ者がいるのです。
間違ってもこのような輩へ投票しないでください。

今ここに覚醒をする




何も言わないことと何もしないことは若者であっても老人である。
例えば70歳を過ぎた老人が情熱をもって行動する時はまさしく青春真っただ中である。
その逆に20歳の若者が情熱もなく行動を起こさない時にはまさに老人なのである。

然るに年齢を重ねたから年を取るのではなく情熱を失った時に老人になる。
肉体は衰えても精神は衰えず志を持てばつねに前進することが出来る。

参考:米国詩人サミュエルウルマン「青春の詩」

自分が出来ないことを「無理だ」とあきらめるのでは無く、
あえて無理に挑戦する気持ちが限界を超える最良の方法である。
そして無理の先には必ずチャンスが潜んでいる。
「チャンス」とは無理だと思う挑戦の先に生まれてくる言葉である。

参考:道元「百尺の竿頭一歩を進む」

他人が描いた人生の地図ではなく自分の人生の地図を作ることが最も重要である。
毎日の時間軸を中心に克服すべきことを書き記し壁に貼る。視覚から自分を洗脳する。
自分の約束を守れないことが大きな挫折の第一歩である。
目標は通過点(マイルストーン)で目的は到達点(ゴール)です。
目指した目的に向かうために目標を明確に書き記すべきです。

参考:ナポレオンヒルズ「思考は現実化する」

そして自分を覚醒させる手短な術(すべ)がある。
それはどこでもよいから見知らぬ国へ出かけることである。
今までの常識や価値観がまったく通じない世界で自分を試すのです。
そして母国日本を外から眺めるのです。そこに新しい目覚めが生まれるのです。

参考:新渡戸稲造「武士道」、岡倉天心「茶の本」

空港へ到着した時から自分の中にある無限大の可能性を解放するのです。

22歳の時にシベリヤ鉄道と飛行機を乗り継いでロシアから北欧デンマークを船で巡り、

イギリスの小さな港町ハリウッチへ着いた。そこから列車でロンドンへ向かい、

その日の内にアパートを探し、学校の手続きを済ませて、職探しをした。怖いもの知らずの青春一直線だった。
情熱は失敗や恐怖を取り除いてくれる。

参考:五木寛之「青年は荒野をめざす」

今は僅か15~16時間程度で自分の住んでいる街から一番遠い所へ移動できる時代です。
パスポートを取り、ビザ申請をして、現地通貨を両替すれば準備オーケーです。
しかし各国の入国管理局の審査で担当官からNOと言われればその国には入れないのです。

私は22歳の時に英国の入管でNOと言われました。しかしある秘策で入国したのです。

参考:日本の伝統奏者とは?「バンブーフルート」に救われた。

入国審査は常に緊張と共に興奮が味わえる。そこで脳内覚醒が起こるのです。
入国後は言葉が通じるか、仕事が見つかるか、眠る場所が見つかるか、
すべてが挑戦なのです。歩かなければ道は見つからず、言葉を出さなければ意志は伝わりません。

そして懇願しなければ人は動いてくれないのです。
旅は人間を成長させる絶好の機会なのです。

参考:沢木耕太郎「旅する力」

いつも誰かに守られていた祖国ではない、厳しい未知の世界を味わうのです。
私は1か月しかもらえなかったVISAで英国に1年半滞在したのです。
少しだけ人生の飛び方が分かり始め、自分流の飛び方を工夫して、もっと高く飛んでやると決心したのです。

帰国後に日本で最初のプロデューサーを名乗ったのです。

参考:リチャードバック「カモメのジョナサン」飛び方の工夫

大切なことは他人とディファレント(違い=個性=能力)な自分を作り出すことです。
自分たちの常識を信じて幸福は得られません。自分なりの挑戦をすることです。
違いが何かを探して挑戦しなければディファレントは生まれません。
おざなりの現実から飛び出さなければ自由にはなれないのです。
自分だけが認めている自分の長所をのばせばそれで良いのです。
人生を逆算すればわずか80歳~90歳はあっという間に過ぎ去るのです。
明日から始めようという人は24時間を無駄にして過ごしてしまうのです

参考:市原勝人「個性を伸ばす技術」

私は6歳の時に家庭の事情で一時和歌山県の寺に預けられた。
その時に寺の住職からお前の人生はわずか70年と言われました。
子供心に大人の事情で親兄弟と一緒に暮らせない絶望感を味わったばかりです。
寺の住職は付け加えて「泣いて生きるか、笑って生きるか」決めろと迫ったのです。
勿論、6歳の私は「笑って生きる」と応えました。

「思想という種を播き、行動を刈る。行動という種を播き、習慣を刈る。
習慣という種を播き、性格を刈る。性格という種を播き、
それはやがては運命を収穫することになる。」

参考:運命の変え方「水煮三国志」

そして悲しくて諦めるのではなく、そこから10年毎の人生計画を作ったのです。
毎年の行動計画と成功物語を書き上げて、自分の境遇を乗り越えてきたのです。
叶わない夢を自由に描き世界で活躍する姿を想像するだけで涙は止まりました。
現実と空想の世界を行き来したことで悲しみをすべて忘れることが出来たのです。
子供の時に書き込んだマンダラチャートの通りに生きてきたのです。

参考:今泉浩晃「マンダラート作成法」大谷翔平のマンダラチャート

例えば自分の満足と幸福は自国では見つからなくても他国では簡単に見つかるのです。 

当たり前の生活から当たり前の生活でないところに身を置くのです。
これは人間関係にも当てはまります。
自分の身を置く場所を変えることにより、新しい世界を切り開くことが出来るのです。
当然苦労して悩みます。そこに悩みを解決させるために哲学があり、悩みから抜け出すために宗教がある。

悩みと共に歩くところには使命(志)があるのです。

参考:吉野源三郎「君たちはどう生きるのか」

「志」とは自分の人生の役割を知るところから始まるのです。
そして生きる情熱の源である。
人として誰かの役に立たなければ生きている証にはならないのです。
外面に捕らわれずに内面の成長に注力するのです。
先人たちの教えを学び忠実に再現することが重要です。

参考:佐藤一斎「言志四録」・山本常朝「葉隠」・橋本佐内「啓発録」

自分探しは多くの本を読み、自分が傾倒できる人物像を明確にして、会いに行くことです。


私は英国から戻った次の日に宿泊先からCBSSONYへ電話をして、
当時注目されていたディレクターに会いに行きました。
「私の才能をこの会社で使ってください」とお願したのです。
そして、気に入った作品を持って自費で北海道から沖縄まで渡り歩き、
「プロモーション・マップ」を作り、新人の曲を大ヒットへと導いたのです。

私の最初のプロモーション楽曲は荒井由実作詞作曲「イチゴ白書をもう一度」でした。
バンバンが歌うこの曲を聴いて「喜んでくれる人がいる」という使命感が大切です。
自分で自分の殻を破らなければ運命は変わることがないのです。

参考:吉田松陰「奇傑非常の士に交わる」・鈴木正三「万民特用」・石田梅岩「都鄙問答」

多くの学びを得て知識を増やすだけではなく行動が伴わなければ意味のないことです。
まさに王陽明が提唱した「知行合一」なのです。
勤王の志士も特攻隊の若者も「葉隠」や「陽明学」に心酔して自死を乗り越えて、
残された家族や国家への安寧と幸福を願ったのです。

学びは一生続きます。
どうか良書に親しんで素敵な自分の運命を全うしてください。