皆様はご存知ですか?ヨナ抜きとニロ抜きという音階を?
制作者が多くの楽曲を作曲家へ依頼する時に楽曲のイメージを伝えます。
イギリスのマージービート風、フランスのシャンソン風、イタリヤのカンツォーネ風、北欧の民謡風、
アメリカのゴスペル風などと具体的に曲調を依頼します。
そこで登場するのがキーとなる音階なのです。
これはターゲットを意識して新曲を作る場合に適応されます。
どちらかというとロック系、フォーク系、アイドル系、歌謡曲系向きです。
勿論、シンガーソングライター系のアーティストには具体的に伝えません。
アレンジする時にアドバイスをするぐらいです。
それでは具体的な説明をいたします。
日本の国家「君が代」も、「ヨナ抜き音階」が使われています。
私たちの生活にも馴染みのある「蛍の光」ですが、実は日本の曲ではなく、
スコットランドの民謡「オールド・ラング・サイン(Auld Lang Syne)」が
原曲になります。なぜ海外の曲にここまで親しみを覚えるのでしょうか?
それはスコットランドの伝統の音階が、
日本の音階と一致していたからと考えられます。
「ヨナ」とは、数字を昔風に「ひい、ふう、み……」と数えていった時、4が「よ」、
7が「な」になることに由来します。
C-dur(Cメジャー)では、第4音・第7音にあたるファ(F)とシ(B)が、
なくなりました。これがヨナ抜き音階のうち、「ヨナ抜き長音階」と呼ばれるものです。
♪物悲しい雰囲気の「ヨナ抜き短音階」。第4・第7音にあたる、
レ(D)・ソ(G)が抜けている。
伝統的とはいえ、ヨナ抜き音階は、現在でも演歌やロック・Popsにも使われる
現役の音階です。
2016年に発売され、社会現象にもなった星野源の「恋」。
ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主題歌です。
歌謡曲調の雰囲気に、ヨナ抜き音階を用いた特徴的なサビがマッチしています。
現代日本に生きる幅広い世代や様々な背景を持つ登場人物たち、
視聴者たちに直撃した曲となりました。
2017年公開のアニメ映画「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」
の主題歌、DAOKO × 米津玄師による「打ち上げ花火」。
作詞・作曲は米津玄師です。鮮やかなのにどこか懐かしい。
そんな日本の夏の雰囲気を感じるサビも、ヨナ抜き音階が使われています。
サビの間は第4音・第7音の使用をかなり抑えているのに、最後の最後のフレーズで、
拍の頭に使っています。打ち上げられた花火が消えていき、
現実に引き戻されるような感覚をイメージしてしまいますね。
次はヨナ抜き音階に比べて使われる頻度の少ない、ちょっと珍しい
「ニロ抜き音階」をご紹介します。「ニロ」とは「2」「6」に由来し、
その名の通り第2音と第6音を抜きます。
実はニロ抜き長音階は、沖縄の伝統音階「琉球音階」と同じなのです。
このニロ抜き長音階を用いた曲は、
「THE 沖縄」の雰囲気を感じられることでしょう。
琉球音階の本場、沖縄県出身の3人組アコースティックバンド・BEGINの
「島人ぬ宝(しまんちゅぬたから)」。伝統楽器・三線の音色と、
原風景を思わせる切ない旋律が心に響く名曲です。
CM「三太郎シリーズ」で話題になった浦島太郎(桐谷健太)が歌う「海の声」。
BEGINが楽曲提供しました。ニロ抜き長音階が使われたサビが心にしみますね。
『キリンジ』の名曲「エイリアンズ」のサビは見事なヨナ抜き音階
(ドレミソラしか使っていない)です。
短調の曲なのでニロ抜き音階(ラドレミソ)の曲になります。
どちらにしてもファとシは使われていないですね。
ユーミンの『春よ、来い』は、1994年に発表された26枚目になるシングルです。
同名のNHK連続テレビ小説の主題歌として使用されました。
「春よ、来い」はサビだけですが、見事なヨナ抜き音階です。
でも短調の曲なのでニロ抜き音階の曲となります。
「しゃぼん玉」は長渕剛の代表曲でもある「とんぼ」に近い世界観の曲です。
サビだけじゃなく、最初から最後まで見事なヨナ抜き音階の曲です。
強い男であっても、心の痛み、悩み、どうしようもないような感情を
抱えている…。それでもまた前を向いて生きようとする…。
そんな歌詞と共にフォークロック調のミドルテンポに合わせて歌う、
長渕剛の姿と彼ならではの歌声は、湾岸戦争、ソ連の崩壊や忍び寄る
日本の不景気など…当時のひとびとの心に染み渡ったのではないでしょうか。
資料提供はGuidoor Mediaより抜粋
まだまだ探していけば多くの楽曲にヨナとニロが使われています。
それぞれの国の音階はそれぞれの民族の歴史が刻まれています。
私は世界各国へ出向き現地で伝統的な音楽(音階)に触れてきました。
昨今ではデジタルで作られた音楽は、よりアナログで作られた音源に近づけます。
しかし、実際に現地で聞いた生音の感動や情感を表現することは出来ません。
皆様もなるべく時間の都合がつけばコンサートやライブハウスへ足を運び、
生音を楽しんでください。
感謝の気持ち「有難う」の言葉もメールで送るより目の前で言ってあげてください。
生音は言葉も音楽もエネルギーの交換になります。
8月 6th,2023
恩学 |
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「怒らない人」
怒らない人=優しい人ではなく、
怒らない人=他人に期待してない人、
他人に期待していないから失望もなく怒りも発生しない。
多くの人は失望が期待から生まれることを知っている。
他人は信用できないので期待すれば高確率で失望することを知っている。
無意味な期待をやめればメンタルが安定する。
私はいつのころからか怒らない人になった。
それまではプロデューサーの役割として些細なことで怒っていた。
仕事が遅くてルーズなスタッフに、その上に平気で嘘をつくマネージャーに、
努力もなく夢見ているだけのタレントたちに、いつも怒り続けて来た。
そして何故怒るのかを調べてみた。
「怒りの起源」
怒りが起こるは明確な発生原因があります。それは無常ということです。
仏陀のもっとも根本的な発見が無常です。
そしてその無常こそが怒りの原因なのです。
日本人は情緒的、感傷的にとらえているのですが、無常の本当の定義は
「ものごとは瞬間、瞬間で変化し、生滅していく」ということです。
自分も世界も、決して一瞬たりとも同じではありません。
無常とは一切のものごとの真理です。
私であろうが、他人であろうが、環境であろうが、世界であろうが、
宇宙であろうが、すべて無常です。
つまり、変わり続けているのです。
そしてこの「変わり続けている」ということが、怒りを生む原因なのです。
一切のものごとは無常であり、「無常が怒りの起源だ」とすると、
一切が怒りに通じているように聞こえるかもしれません。しかしその通りなのです。
はっきり言ってしまえば、実は生命は基本的には怒りの衝動で生きています。
怒りの衝動で生きるということは、悪いとか良いとか言えることではなく、
我々の生命はそういう構成になっているのです。
アルボムッレ・スマナサーラ「怒らないこと」
この世に安定しているものは何もなく常に変化を続ける無常の世界があるのです。
人は守るものがあると(家庭、子供、仕事、友達関係)、それを手放したくないので、怒りが発生をする。
現状の状態を維持したくなるので、少しの変化にも怒りが生じる。自分の期待と相手の行動が違うと怒りが頂点に達して爆発するのです。
「怒り」の反対は「悦び」ではなく「希望」です。
しかし、現実には希望どおりにはいかないことばかりです。
今日一日は笑顔で楽しく過ごそうと思っても、同僚や上司からいきなり注意されると、途端に不機嫌になり笑顔は消えてしまいます。それが無常なのです。
悦びを望んでも人生は一生「苦」から逃れることは出来ません。
人間は怒りを避けるのではなく、怒りをコントロールすることで精いっぱいなのです。
「親切な人」
親切な人=思いやりがある人ではなく、
親切な人=面倒を避けたい人、
他人に反論をしないで合わしていれば波風は起こらないから妥協するのです。
自分の本音を言わずに相手に同調している方が問題も起きなくて過ごせると思っている。
日本人に一番多いタイプがこれである。
子供の時から「他人とは仲良くやりなさい」と教えられるので、
互いに摩擦をおこしたくないから自然と同調主義になってしまう。
日本人は根本的に性善説を信じているから悪い人はいないという発想である。
島国の中で家族の系図をたどれば、何らかの関係がみんなとつながるので、
簡単に悪いことは出来ないという考えが今も残るのです。
親が子供達を叱るのは期待した通りの人生を歩かそうとするからである。
そして何故子供には反抗期があるのかは独り立ちを認めてほしいからです。
好きにやらせれば良いのである。ただ人としての道を外している場合は別問題である。
強く怒るのではなく過ちを正して叱らなければなりません。
親は子供に無意味に優しい人になる必要はありません。
怒らないことと親切な人との違いは解決の道を「錯覚」しているだけです。
怒らない人は1人で対応して相手を「無視」する場合が多いのと、
親切な人は良かれと思って噂を周りに「伝達」してしまうことです。
時間の流れの中であるがままの姿で過ごしましょう。
ときには怒ってもよいのです。
それが人間です。
8月 5th,2023
恩学 |
怒りの起源 はコメントを受け付けていません
あれやこれや過去の些末なことを思い出して臆病になるな。
船出する時に嵐のことよりも大海原を望みながら異国の夢で帆を膨らませろ。
たかが80年ぐらいの人生で悔いは残すなよ。人生「無一物」もともと何も無い。
若者の冒険は身勝手な行動なので周りに迷惑をかけることは仕方がない。
それをやり切って達成すれば応援者の苦労は報われる。
小さくまとまるなよ、人間一人の手に入る幸福で世の中は何も変わらないのである。
大ボラ吹きだと笑われても世の中を変える「覚悟」はできたのか?
小さな冒険ぐらいで何か特別なことを手掛けていると思うなよ。
仏道には様々な教えがあり、人としての道を踏み外さぬように導いてくれる。
仏教にはいろいろな宗派があるが、教義にそれほど違いは無い。
人民救済の経文に従えばよいのである。
人は仏さまに尽くす一生を生きるべきである。ただひたすら修行あるのみ。
信念を貫き通すときに大切なことは「真俗二諦」(しんぞくにたい)である。
真俗二諦とは自分の言説に捕らわれて生活をおろそかにするなよ、
国の法律に従い納税の義務を怠らず、隣近所に義理を果たして、
土地の色々な決まり事も守りなさい。
いわゆる俗人として普通の生活も大切にしなさいということである。
しかし、心の中では「阿弥陀一仏」という信仰を抱き続けて生きなさい。
どの宗派に属しても仏様・神様を信じる心を忘れずに生きよということである。
「志」を胸に秘めることと同じである。これはあくまでも浄土真宗の教義なのだが、
一般的にも通じる信条として応用ができる。
自分の発言したことによって賛同者が多く集まると、
ついつい言説を守ろうとして意固地になってしまう。
意志が濁れば「意地」となる、口が濁れば「愚痴」となる、徳が濁れば「毒」となる。
初心が善くても時が経てばさまざまな汚れが出てくるものである。
苦言を呈する人間よりも、従うだけの人間を周りにおくと、
正道が見えなくなり、自己顕示欲が表面に出てきて、
家族や社会から離れて閉じこもった環境を作ってしまうのだ。
独裁者的な偏った価値観を押し通すと世界が狭くなり、
反対意見に対して怒りが起こり暴力的になってしまう。
偏った宗教を信じるあまりに相手を傷つけても平気になって戦争の火種が起こる。
自分たちの教義が正道であり他の教義は燃やして踏みにじるような行為が起こる。
何事においても自分で判断して行動をおこしているなんて錯覚であって、
すべては運命に導かれていると思えばよい。
素直にそれが理解できないのは「業」(ごう)の存在に気付いて居ないからである。
「仏道無上誓願成」(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
必ずや一人残らず仏に成らしめるという成仏の保証である。
仏の道は、この上もなく尊いものであるゆえに、
なんとか成就したいと、この願いが、仏教を信ずる者の願いだ。
人のためになろう、自分も完全に満足した人になろう。
この心があると、自分を粗末にできない。自分を粗末にしない人は、
人を粗末にしない。自分を粗末にするというのは、とりもなおさず、拘りと
執着、余計なものをいっぱいくっつけている姿にほかならない。
人間、身軽にならなければだめだ。
禅の世界では「水は科(あな)に満ちて流る」
水が流れていくと地面にくぼみがある。水はそこにたまる。
やがて、くぼみがいっぱいになると、あふれて流れ出し、つぎのくぼみに注いでいく。
水は無心だから、ただ法則のままに動く。高きより低きに流れる。
人間もまた自由自在に自分をあやつっているように錯覚しているが、
人間の運命もまた、法則によって動いている。
また経に「大道は無師独悟に如かず」(だいどうはむしどくごにしかず)
自分の求めている道は、いまのところ誰もやったことがない、
だから自分でやろうというのが動機だった。
そのお釈迦さまを、釈尊として、地上の存在でありながら地上を超えた存在として
今日に在らしめたのは、なんといっても座禅だ。
禅が、仏教をはじめたお釈迦さまの一番の基本的な修行だった。
だから禅を正直にやって、仏教の根元が分かってこなけりゃ嘘だ。
毎日ことあることに「南無釈迦牟尼仏」(なむしゃかむにぶつ)と
七遍以上唱えるように勧めている。
こうして常に我々の仏心をもってお釈迦さまの仏心を念じていると、
仏心の徳が自然とにじみ出て、心の暗かった人も明るくなり、
狭かった人は広くなり、体も丈夫に、日々を朗らかに暮らすことが出来、
いざという時にもあわてることがない。
「覚悟はよいか」円覚寺官長朝比奈宗源より抜粋
8月 3rd,2023
恩学 |
覚悟はよいか はコメントを受け付けていません
ミルトン・エリクソンは父親として子供たちにレジリエンスを教えるとき、
学校から帰ってきた子供たちに「お帰り」を言ったあと、
今日は道のどちら側を歩いて帰ってきたのか、どんなふうに歩いてきたのか、
いつもとは違う道を試したのかどうかを尋ねている。
そしてたくさんの道が見つかることやいずれの道にもその良さがあることを
子供たちに知ってもらいたくて、それぞれの道に微妙な違いがあり、
楽しい道もあればそれほど楽しくない道もあり、
それぞれにその道だけの景色があることを語って聞かせている。
方法がひとつしかなかったら、その方法に生じた支障は、
どんなものであれ大変な問題になりうる。
対照的に、方法がいくつもあれば、慌てずに方針を変え、
別角度から問題に取り組むことができる。
子供は寄り道で好奇心が芽生える。そして花や虫や草花と友達になれる。
幼き子供の時に前頭葉の発達を促すのが両親の役目である。
特に母親は幼少の時に子供と同じ目線で人間も自然の中の一員であることを
教えることが重要である。
外山滋比古「思考の整理学」に書かれているように、
現代の子供たちは一貫した教育の中で、
正しいと言われた方程式を記憶するだけの制度にはめ込まれているので、
卒業と同時に学校から見放されるのです。
まるでグライダーで空まで引き上げられ、ここまで連れてきたので、
これからは1人で、頑張ってねと手を離されるようなものだ。
社会という空の中で飛び方を教えてもらっていないので、
手探り状態で迷走飛行を繰り返していると嘆いている。
近年では企業が新卒の学生を採用しないのは、
大人として社会経験がなく常識もなく、挨拶のできない学生ばかりだからだという。
そして仕事を覚えて3~4年もすれば、自分のやりたい仕事へと簡単に転職することになる。
いきなり20代中盤からあらたに自分探しの旅を始めるのです。
16年間の教育期間はまったく役に立たず無駄な時間にお金をかけていたことになる。
幸福度No1のデンマークでは、日本のような「就学義務」はなく、
代わりに「教育義務」が保護者に課せられますが、教育選択の自由が保障され、
ホームエデュケーションも認められています。登校拒否という概念すらありません。
学校へ行く場合は公立学校と、さまざまな理念とスタイルで設立・運営されている
私立学校を選ぶ、もしくは、親が集まって学校を設立することもできます。
また、立ち止まって人生を考えるための機会が保証をされているのも特徴です。
試験もない宿題もない教室もない、学びを選ぶのは子供と親です。
海外へ出て自由に見聞を広げるのも、教育ポイントになるのです。
まさにQOL(生きることの質)とWell-being(幸福)を兼ね備えた学びを、
子供の時から受けるのです。
子供には道を発見する悦び、道を説明する悦び、道を開拓する悦びを教えてください。
好奇心への刺激は常に「リフレーミング」しながら、自由に行動することです。
そしてそこから「自立心」が生まれるのです。
本当のグローバル化を望むのなら、
子供達は早くから世界に出て海外の子供達と仲良くすることです。
8月 3rd,2023
恩学 |
新たな方向付けリフレーミング はコメントを受け付けていません
1969年1月30日、ザ・ビートルズはロンドンのサヴィル・ロウにある
アップル・コア本社の屋上 (ルーフトップ) で最後のライヴを行った。
全世界同時配信。当時はアナログの時代でTVケーブルを通じて配信された。
世界初の試みは狭い屋上でジョンレノンは毛皮を着ての演奏だった。
日本では早朝の配信でビートルズと同じ時間を共有出来たことに興奮した覚えがある。
その時の日本への配信は「Get Back」1曲のみだった気がする。(記憶が曖昧)
2023年7月30日、伊丹谷良介と苫小牧のバンドda-saが携帯電話を使ってライブ配信をした。携帯でのやり取りは同時に演奏が出来ないので、(電波の遅れの為にズレて聞こえる)送り出す伊丹谷さんは受け手のda-saの音を切り、1人セッションで音源を発信した。
正にアナログとデジタルの融合でノリの良い状況を作った。
音楽の映像配信は画像が良いから、音質が良いから、良いのではなくて、
配信側(演奏者)と受け手側(視聴者)が同じ空間で楽しめることが重要です。
演奏曲は「HELLO Mr ASIAN」途中からコーラスも加わり、
エンディングの掛け合いも呼吸感ぴったりで大変盛り上がりました。
演奏途中の場面から見た人には何の違和感も無く通常の配信と思ったに違いない。
「無理から始まる限界」
頭の中に無理という「単語」をインプットすると脳が硬直して、
全てがネガティブな発想になる。その状態からはアイデアも出てこなくなり、
すぐに限界を感じてしまう。
「僕は無理」「私は無理」と言えば、その場から逃れられるという甘えの構造は、
やめにしたほうが良い。
無理と思わずに何か方法があるかも知れないと発想を変えれば、必ず解決の方法が
見つかるのです。限界を超えたところに新しい発見は必ずあるのです。
デジタル社会では何でも手軽で便利になったが、そこには大きな危険が隠されている。
もし停電になって電気が通じなくなれば使えなくなるのである。
そんな時に無理と発想しても誰も助けてはくれない。
自分一人で解決の方法を考えて乗り越えなければならないのです。
あなたの頭の中から「無理」という言葉を削除してください。
「可能から始まる無限」
貧乏学生が英国に憧れて1年間工事現場でアルバイトをして片道の旅費を稼いだ。
行けばなんとかなると無謀な計画を実行した。そして英国の入管で入国を拒否された。
そして諦めずに係官と掛け合って1ヶ月の観光ビザを手に入れた。
到着した、その日にアパートを探して英会話の学校の登録をした。
次の日にアルバイト先を探して、それから1年半滞在したのです。
あの日入管で諦めて帰国していたら、負けの人生が始まったに違いない。
全ては可能だと発想して計画を書き出し、それを常に見ていれば限界を感じずに、
無限の発想が浮かんでくる。
無理と発想してしまえば帰国後CBSSONYに飛び込んで、
音楽プロデューサーになってはいなかっただろう。
無限の可能性を信じて楽しい人生をお送りください。
全てのクリエイティブは「可能」という挑戦から始まります。
8月 3rd,2023
恩学 |
無理から始まる限界!可能から始まる無限! はコメントを受け付けていません
現代人は見えるものだけを見ている。見えないものを見ようとはしない。
見えないところの余白こそが美の極致なのに、それを知らない。
「美」は対極の「醜」と一対だから泥沼から蓮の花が咲く調和の意味を知らない。
古代人は太陽の日差しの中から希望を見つけ満天の星から夢を描いたことを知らない。
大自然の中の洞穴へ文字の代わりに絵を描き続け、人間の存在と意識を
神に向かって奉納し、後世に伝えるために残したことを知らない。
例えば仏像や彫刻を見て技巧の良し悪しを見て彫り師のノミの音を聞こうとはしない。
その時代の彫り師はどこから来てどんな暮らしをしていたのだろうかを知らない。
奈良の彫り師の大半が渡来人であったことを知ろうとしない。
例えば生花やお茶の所作を見て感動しても自然を見ようとはしない。
春先の菖蒲緑の葉を見て剣先を思い浮かべることはしない。
男の子が戦いに勝つために5月5日節句の日に祝う花だということも知らない。
茶の葉の争奪戦で世界が動き戦いの元になったことを知らない。
三国志の戦いも(魏・呉・蜀)裏には茶の争奪戦があったことを知らない。
茶の葉の栽培と管理していたのが修道院やお寺であったことを知らない。
茶の飲用は楽しむための趣向品でなく薬として用いられたことを知らない。
例えば絵画や浮世絵を見て絵師の心を見ようとはしない。
パトロンからのリクエストに応えて豪華絢爛な絵を描くとする。
色が多過ぎると飽きてしまうから逆に色を抜くことで満足することを知った。
ロダンの筋肉質の彫像は筋肉を乗せるのではなく内側から押し出すことを知らない。
襖に書かれた若冲の鶏の絵は、燭台を立て、襖を少し閉じて見ることを知らない。
軽く目を閉じた薄眼の先の鶏が羽ばたくことを知らない。
雅楽の楽曲構成に「序・破・急」の三区構成があるのを知らない。
「序」は最初の部分で拍子にはまらない、
「破」は中間部分で拍子にはまるがゆるやかな速度、
「急」は最後の部分で「序」や「破」よりも少し急テンポあることを知らない。
この三区の流れで「舞」の流れと表現を構成しているのです。
文化を知ればどの国の渡来人かが分かるのに知ろうとしない。
江戸幕府から要請を受けて中国の黄檗禅師が江戸の街づくりを手掛けたのを知らない。
そして「明治」は中国の明の時代を日本で治めるから、その名になったことを知らない。
明治維新とは「明が治めて新しく改革」をすることを云ったとは誰も知らない。
映画や舞台を見て演出家の意図を理解しなければ内容の真意は分からない。
与えられた環境の中で台詞を織り込むのだが、役者は演技を知らない。
動きに込められたメッセージを読む為には背景を見なければ分からない。
スポットライトの当たる位置の空気感(ドラマ)を誰も知ろうとしない。
見えるところばかり追いかけるのではなく見えないところに目をやると、
知らない何かの発見がある。常にリフレーミングを心掛けるようにしてください。
小さな気づきから始まる大きな納得です。
8月 2nd,2023
恩学 |
観察と気づき はコメントを受け付けていません
心ある大人たちにも読んでいただきたいと思います。
「あとからくる者のために」坂村真民
あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ
あとからくる者のために
しんみんよお前は
詩を書いておくのだ
あとからくる者のために
山を川を海を
きれいにしておくのだ
あああとからくる者のために
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々(それぞれ)自分で出来る何かをしてゆくのだ
「雨にも負けず」宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
「啓発録」橋本左内
一、「稚心を去る」:自分とその運命を変えようと思うなら、結局、自分の手で
何とかする以外に方法はない。その第一歩は「稚心」、つまり「子供っぽい
心」を捨て去ることである。
ふる
二、「気を振う」:負けてたまるか、くじけてなるものかという負けじ魂こそが
人を変えるエネルギーになる。常にそうした心を持ち、緊張をゆるめず油断
のないようにしなければいけない。
三、「志を立てる」:夢や目標を持て。自分の心の向かうところをしっかりと決
め、一度決心したからには、その方向を目指して絶えず努力するべきである。
つと
四、「学を勉める」:学問を学ぶことは大切である。そして、それを世の中のた
めに正しく生かすこともまた大切である。
えら
五、「交友を択ぶ」:互いに切磋琢磨できる良き友を選ぶこと。自分を高めてく
れ、心から尊敬でき、何かあった時に、真剣に心配してくれる友達こそ、何
よりも大切にするべきである。
左内は、十五歳という人生の節目に立てたこの誓いを守り、短い人生ながらも
素晴らしい人材として、教育や政治に大きな成果を残しました。
そして安政の大獄において二十五歳の若さで死罪となった。
教える立場の大人たちよ!
いつの時代も人の道、王道(基本)は変わりません。
お手本となる偉人たちの言葉を子供たちに伝えてください。
そして言葉の意味を話し合う機会を作ってあげてください。
子供たちよ!偉人たちの行いを学ぶのです。
同じような年齢の時に何をしていたか、何を考えていたか、何を行っていたか、
学ぶのです。
子供達へ贈る「基本の教え」
履き物を揃える、元気に挨拶をする、姿勢を良くする。この三つを守りなさい。
そして、正しい行いに努めなさい。基礎は学びなさい。友達と仲良くしなさい。
そのうえに興味のあることは二倍の時間を割きなさい。
いつも周りの人に笑顔を提供できる人になりなさい。
未来は君たちが作るのです。
7月 31st,2023
恩学 |
子供たちに贈る言葉 はコメントを受け付けていません
日本家屋の中に見る影の美しさを讃える。
「西洋人が日本の座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで
何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼らとしてはいかさま尤もであるけれど、
それは陰翳の謎を解しないからである。
われわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、
土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。
そして室内には、庭からの反射が障子を透かしてほの明るく忍び込むようにする。
われわれの座敷の美の要素は、この関節の鈍い光線に外ならない。
われわれは、この力ない、わびしい、果敢ない光線が、しんみりと落ち着いて
座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。」
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」
海外であれば窓を大きく取り家の奥にまで光が注ぐような建物が理想とされる。
西洋は「有の思想」存在する全てのものを受け入れる。
家具も置物も観葉植物もそこに有ることを意識する。
日本であれば、庭石を配置して、風を取り込み、影を愛でる建物が理想とされる。
日本は「無の思想」形なきものの形を見る。
光や影が醸し出す空気感を楽しむのである。
見栄えを気にする海外の人と「わびさび」を重んじる、
日本人の感覚には大きな隔たりがある。
木造建築の過ごし方と石造建築の過ごし方では大きな違いが当然ある。
無駄を無駄としてとらえるか、無駄を無駄ではなく有用としてとらえるかが、
その人のセンスとなり人格を表すことになる。
「情的文化は形なき形、声なき声である」
我が国の文化の特徴として「情的」なものがある。
「知的」なものへ傾く西洋とも、「行的」なものへ傾く中国とも違っている。
老荘思想にも見られるが、「時」は無より来て無へ帰る。
時は「絶対の無の自己限定」である。そこでは、常に「無」が根底にあるので、
「形」をもって今ここにあるもの、その背後に「無」が透かし見られる。
日本文化では、ものの「形」を通して「形なきもの」を見る。ものに出会って、
その新鮮さに驚くと同時に、そこにある「無常」も透かし見るのです。
あるいは「形なきものの形」を見ることになるのです。
「情的文化は形なき形、声なき声である」
西田幾多郎「永遠の今」より
「人皆知有用之用。而莫知無用之用也」荘子
人はみな有用の用を知るが、無用の用を知るものはない。
使い手の便利や利用価値を重視するあまり、
役に立たないところに価値があることを見つけることが出来ない。
それは粘土でつぼを作るときに空間があるから用が足りるのであって、
空間を無駄だと定義したら「壺」の役目は立たなくなる。
枠から外れた人間を「落ちこぼれ」と差別して、「無用」というレッテルが張られてしまうと、普通の暮らしでは成り立たなくなるので社会の底辺で暮らしていくしかなくなる。
しかし社会には知識人は無用で、健康で体力を重視する有用な仕事は幾らでもある。
この世には無用な人間など存在しないのである。
「陰陽不至の処、一片の好風光」
一片とは、切れ間なく広々とした様子のこと。風光とはすばらしい景色のこと。
陰と陽を相比べることなく、どちらにも偏ることがなければ、
すばらしい景色になるということです。禅語
何かを選択して生きていく。右か左か。選択しなければ進まない、そう生きて行けない。
でも選択しなければ楽なんだろうと思う。
形あるものを見つめて形ないものを不要とすれば、世界のバランスが崩れてしまう。
今の世の中は形あるものを奪おうとして、
国を、地位を、財産を、守るために頻繁に不正が行われる時代である。
心が貧しくて欲に執着すると人間もバランスを崩して倒れてしまうのです。
積み木のバランスを崩さずに併せ持つ心を養いましょう。
我々の国日本は調和と尊重を大切にする国です。
7月 31st,2023
恩学 |
陰翳のバランス はコメントを受け付けていません
英語は26個のアルファベットと数字の組み合わせで文章が成立する2表記が基本である。フランス語も、ドイツ語もロシア語もほとんどの国が2表記です。
日本語だけは5表記です。漢字・ひらがな・カタカナ・数字・ローマ字です。
多くの2表記の国では言語によって左脳の発達を促し、
それと別に右脳を刺激発達させるために、哲学・政治・芸術・体育・芸能など、
リベラルアーツの教育を大切にするのです。
日本語表記にはもう1つ特徴があります。
縦書きと横書きを無意識のうちに使い分けているのです。
とくに縦書きによる表現は、恐らく右脳に多くの刺激を与え、
縦書きの文字を読むことによって、内容が右脳で映像化されていくのでしょう。
更に文章において左から右に読む横書きの表現は、
例えば国語以外の教科書や学術論文等、理論書に解釈するものが多いように思います。
眼球が上下に動くのは恐らく右脳への刺激が強く、
眼球が左右に動くのは左脳への刺激に繋がっていると考えられています。
最近日本では絵文字も加わり世界でも類を見ない6表記になっています。
(参考文献「我思GAON」中澤弘幸)
日本の技術が、日本の伝統文化が、日本のあらゆる所作が、
繊細で美しいのはこのような脳の訓練があるからだと思います。
欧米人の二項対立の考えはマーシャルアーツ(戦闘)の考え方です。
勝つか負けるか、前進するか後退するか、はたまた勝者か敗者か、
常に答えを即求めることが大切だと教え込まれてきたのです。
これは2次元の発想方法です。文字に膨らみがありません。
そしてよく言われるように外国人は虫の音を騒音(ノイズ)としてとらえ、
日本人は虫の音を風流と受け止めるのは、
虫の音を左脳で聞く外国人と虫の音を右脳で聞く日本人の違いからです。
ロゴス的理屈の左脳で聞くか、エートス的情緒の右脳で聞くかに分かれます。
日本の親は子供に秋の風情(月見・お団子・すすきなど)を教える時、
虫の音と一緒に教えるので、情景が立体化されて美しい鳴き声に聞こえるのです。
これが3次元の発想方法です。現象と情緒を組み合わせて映像化するのです。
そしてもうひとつ日本の特徴は何気ないところに美をもとめる心です。
それは言葉や文章の立体化を図るときにとても重要な要素になります。
例えば、建築のなかで日差しよりも日陰を好のむのは世界では日本だけかもしれません。
谷崎潤一郎が書いた「陰翳礼讃」に日本人の磨ぎ澄まれた感性がちりばめられています。
「そして室内には、庭からの反射が障子を透かしてほの明るく忍び込むようにする。
われわれの座敷の美の要素は、この関節の鈍い光線に外ならない。
われわれは、この力ない、わびしい、果敢ない光線が、しんみりと落ち着いて
座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。」
「陰影礼賛」より一部抜粋
しかしこれに反論しているのが編集工学研究所所長松岡正剛である。
つまらない文章で日本人の美を歪曲した文章であると言い切っている。
私はこのような専門家による反論が大好きである。
文章の立体化をする時に必要なのは反対意見も必ず取り入れることです。
主軸をぶらさずに脇を打つことでより立体的になる。
特に気になった作品に関しては、多くの人の意見を取り入れながら、
自分の解釈も加えて、どこまで立体的になったか検証をします。
更に、同じ作家の違う作品を何冊か読むことによっても主体が見えてくる。
その時代の背景や文化や経済状態も文章の中には隠されているからです。
作家の意図するところが分かれば、より鮮明に文章が立ち上がります。
文章に酔うのではない、作家の本音に迫ることが「文章の立体化」に
つながるのです。
そして言葉もそれらに影響を受けて立体的になるのです。
これからのAIの時代には物語を立体化することによって、あらゆる世界と共存できる可能性が増えていきます。
7月 30th,2023
恩学 |
文章の組み立て はコメントを受け付けていません
文字や言葉にできない間(ま)という現象を受け止めましょう。
間の感覚を鍛えてください。
間は日本人に与えられた能力です。
日本は文化芸能全般に「間」の力を配分してきたのです。
音と音の間(あいだ)に空間(時間)があることを知るべきです。
言葉と言葉の間に聞こえない声を聞くべきです。
雨の音にも風の音にも雪の音にも間があるのです。
浮世絵にも日本料理にも歌舞伎にもお能にも間があります。
この間(ま)の発見をする為に頭の中に空白なスペースを作るのです。
あなたの頭の中に沢山の不要な情報が詰め込まれていませんか?
残すべき情報と捨てるべき情報を振り分けるのです。
記憶の断捨離をするのです。
知識で間(ま)を見るのではなく感性で見なければ間(ま)を見ることが出来ません。
隙間を開けるとは、物と物との間のわずかに空いている所を広げることを言います。
視覚の物を完全なる実態と捉えるのではなく、物と心に隙間を開けてみることが大切です。
一番早い間(ま)の習得方法は風光明媚な自然界へ飛び込むことです。
目を閉じたまま大気に触れ、自然界の音を聞き、宇宙に抱かれるのです。
川の流れや、鳥の囀りや、季節の草花にも動的な間があります。
その中で自分を動物に近い状態において、間から来るメッセージを聞き、心を整えるのです。
この方法は脳内のセロトニンを高める効果(音域によって発生)があるので、
最近では音楽療法としても取り入れられています。
ジャズのライブもインプロビゼーション(即興音楽)で間の演奏をします。
聴衆はこの絶妙な間の中で自分の感情と反応して興奮するのです。
演奏者は与えられた小節の中で自由に音を作り上げていきます。
まるで言葉を楽器に変換して語りかけるようにまた叫ぶように演奏します。
お気に入りのアーティストの演奏が予想通りの展開だと立ち上がって拍手を送ります。
また華道の展示会へ行きバランスの良い作品を見つめてください。
花を見て葉を見て色合いを見てください。絶妙な間があることが分かると思います。
そして生け花では「数少なきは心深し」花を入れ過ぎないことが重要です。
花を入れ過ぎて間を詰め込まないということです。
「間に合った」や「間が悪い」は時間の観念です。
相撲の「はっけよい」は発気(はっき)良いか、間の準備が出来たかという意味です。
四股を踏んで間を取りながら息を吐く用意が出来ましたかという意味です。
相撲は一瞬で勝敗が決まります。呼吸1つで気合が変わるのです。
相撲は、地の邪気を祓い、清める四股を踏む行為によって、神事と関ってきたのです。
そして武士は肉体を鍛えるために積極的に取り入れた競技です。
武道の「間」は生きるか死ぬかの間です。間が悪いと確実にどちらかは死にます。
踏み込むタイミングや引き寄せるタイミングを脳ではなくて身体で覚えるのです。
刀の刃先を見るのではなく相手の身体全体を見て動作の予測をするのです。
頭で考えると一瞬の間が遅れます。心眼で捉えると次の展開の流れが見えると言います。
そして間は「魔と真」と解釈するのです。魔力・邪魔のまや真剣・正真のまとして使われます。
基本的に武術は攻撃ではなくて守りなのです。
人間関係にも時節はあります。相手の気持ちを無視して一方的にことを推し進めると、
お互いに気まずい思いをします。
言葉や顔の表情で間(ま)を読むことが出来れば時節に叶うことが出来ます。
お気を付けください。
「間」Improve your sense
あなたの感覚を向上させるためにも「間」を意識してください。
7月 29th,2023
恩学 |
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