一瞬

 

一瞬の出会い。

一瞬の言葉。

一瞬の感動。

人はこの一瞬を見逃してしまう。


それは普段から一瞬を引き寄せるエネルギーを蓄えていないからである。


エネルギーの無い人間はどれほど素晴らしい出会いでも気付かずに見過ごしてしまう。
そして、どれほど力のある言葉を聞いても聞き逃してしまう。
その上、どれほど素晴らしい感動でも、ありきたりの出来事で片付けてしまう。


神様は、今生きていることが「奇跡」だと信じている人間にだけ一瞬を与える。

その一瞬を捉えるアンテナが敏感という第六感である。


敏感とは、わずかな変化でも見過ごさず感じることである。
頭の中で光が、空気が、風が、雨が、動くのを認知することである。
自然と共存する人間に本能の素晴しさを教える力が敏感である。


また人間同士が共存する為にも、相手の心の変化を読み取る力が必要である。

やさしさや、おもいやり、こころづかいは目に見えるものではない。
必要な時にそっと手を差し伸べることができるのも敏感の力である。


未来に続く大切な一瞬を見逃してはならない。
知識だけで価値を判断するのではなく、感性で価値を判断するのだ。


自然に逆らわずに素直な気持ちで一瞬を抱きしめるのだ。

 

 

放下

 

誰にも心の中に悲しみのわだかまりが存在する。
それに囚われて不自由な人生を過ごすことになる。


忘れることのできない怒りや憎しみや劣等感などである。
無教養な親からの言葉による虐待、意味も無い友達からのいじめ、近所の冷たい視線、
無神経な大人達からの嘲笑で心に裂傷を受ける。


その傷はいつか無くなるものだと期待していてが消えさることは無い。
大人になり社会に出ても結婚して子供が出来てもイジイジと蠢くのである。


しかしその忌まわしい記憶を無理に溶かす必要があるのだろうか。
それは自分の黒い影のように逃れようのない一生の追跡者である。

何故それらを捨て去る努力等する必要があるのだろうか。

しっかりと抱きかかえて共に生き抜いても良いのではないだろうか。


何度も踏まれて強くなる麦のように痛みを味に変える事も可能ではないだろうか。
悲しみの鎖を引きずりながら前向きな人生を過ごす事も出来るはずである。


人はおだやかな波間に漂う木の葉ではない、人は嵐の中を漂う木の葉なのである。
全てに聞き耳を立てることは無い、見なくても良いものには目を塞いでも良いのである。


仏教で言う仏様の眼は「半眼」なのである。
それは内と外を両方見る目をお持ちだと言うことです。


カット見開くと外しか見えず、薄く見開いて「内を観る眼」内観が大切なのである。
さすればどんな時にも受け流す慈しみの眼が持てるからです。

もうひとつは「何があってもあなたが帰る所はここ」
という居場所を作って上げる事です。
鸞聖人はその居場所のことを「浄土」とおっしゃっていました。
死後の世界に限らず、「自分が自分でいられる場所」、「心から安心して帰れる場所」です。


あなたには心の中の居場所があるはずです。
それらは悲しい記憶が作った場所なのかもしれません。
溶かす事も無く逃げる事も無く戻る場所なのです。


だから全てを解き放す必要はないのです。

 

本音

 

本音という音がある。ありのままの心の音である。
脳の発育と共に生まれた感情が音になるのである。

 

好きや嫌い、心地良いか悪いか、嬉しいか悲しいか。
子供の時に作られた記憶が音になって現れるのである。

 

毎日人はどれほど本音で他人に語りかけているのだろうか。
何故、歳を重ねるごとに本音に色を付けなければならないのだろうか。

 

音色を付けなければ素直に伝えることが出来ないのだろうか。
お世辞を言ったり、心にも無い事を言ったりして、
自分の本音を駆け引きの道具にしていないだろうか。

 

本音は油断すると自分のエゴを曝け出すか、
自分の弱みを曝け出すかのどちらかになる。

 

だから、本音を言うと驚かれる。本音を言うと白い目で見られる。
本音を言うと評価が下される。本音を言うとつまらない人間関係が出来てしまう。

 

しかし本音を押し殺してまで付き合うのは正しいのだろうか。
本音は本根とも言い、自分の心の根っこの部分である。

 

ありのままの心を伝えるのに恐れる必要があるのだろうか。
自分の心を曝け出す事に恥じることはあるのだろうか。
迷い悩む姿を笑われる不安があるのだろうか。

 

本音を閉じ込めて生きること、そこに幸福はあるのだろうか。
本音を聞いてくれる人、その人が人生にとって大切な人である。

 

 

 

辛(シン)は、肌身を刺す鋭いナイフを描いた象形文字である。

親(シン)の左側は、薪(シン)の原字で木をナイフで切ったなま木。

 

親(シン)は、それを音符とし、見(ミル)を加えた字で、

ナイフで身を切るように身近に接して見ていること。

じかに刺激を受ける近しい間がらの意味です。

 

親(おや)は、子供の傷つく姿を見なければならない

距離に存在するのです。

 

親切(しんせつ)は、刃物をじかに当てるように「身近である」と

「行き届く」という意味がある。

 

また思い入れが深く切実であるという意味では「深切」が用いられ、

古くはこの「深切」が常用されていた。

 

当て字であるが「心切」という文字もある。

その苦しむ心を切ることから生まれた文字です。

 

大切なことはすぐに解決策を労することでなく、

痛みを共にするということです。

 

痛みを共有するところから「絆」がうまれるのです。

 

水槽

 

父と母が作る家庭と言う水槽がある。

その水槽の中で子供達が自由に泳ぐ。

 

それぞれの水槽の大きさの中で暮らしの営みがなされる。

しかし誰もが求めていたのは水槽の大きさではなく心の大きさだった。

 

父が怒れば水が濁る。

母が癇癪起こせば波が立つ。

そして子供は委縮して藻の中に隠れる。

 

どんどん水槽の中の空気が少なくなり息がしづらくなる。

 

父は水槽を大きくしようと必死になる。

母は見栄えを良くしようとして無理をする。

誰の為に何の為に大きく美しくする必要があるのか。

 

小さな水槽でも充分家族には休息が有った。

父と母は家庭を作る為の過程を忘れた。

 

他人を意識してから見栄えばかりを必要とした。

 

子供を守ると言いながら閉じ込めていた。

見えない敵から守るためにルールが多くなった。

 

限界を感じた子供達は水槽の外の世界に憧れて飛び出して行く。

残されたのは汚れた水槽の中に疲れ果てた父と母だけだった。

 

この水槽が誰の為の水槽だったのかが分からなくなる。

 

 

 

塞翁が馬

新年明けましておめでとうございます。

本年は午年です。
皆様が天馬の如く飛躍する年になりますようお祈り申し上げます。

「人間万事塞翁が馬」(じんかん、ばんじ、さいおう、がうま)

城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、
また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。
まったく禍福というのは予測できないものである。

これを詳しく説明すると、

中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。
さらに北には胡という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。

ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。

この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は、
気の毒がって老人をなぐさめに行きました。

ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬を
たくさん連れて帰ってきました。

そこで近所の人達がお祝いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが災いにならないとも限らないよ。」

暫くすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。

近所の人達がかわいそうにと思って慰めに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

1年が経った頃胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。
城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。

そして、何とか胡人から城塞を守ることができましたが、
その多くはその戦争で死んでしまいました。

しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

この故事から「幸(福・吉)」と思える事が、後に「不幸(禍・凶)」となることもあり、
またその逆もあることのたとえとして「塞翁が馬」と言うようになった。

人間(にんげん)と解釈するのではなく、人間(じんかん)は「世間」のことと
解釈するのが正しい。

所謂、「世間の全て(禍福)は塞翁の馬のようである」という意味です。

私たちは常日頃から禍福に一喜一憂しがちですが、
泰然自若として「塞翁が馬」と笑い飛ばすことも大切かと思います。

幸福な時には心から満喫して、不幸が訪れた時には落胆せず、
この次はきっと幸福が訪れると思えば一生悩む事も無くなるかも知れません。

本年1年は塞翁の馬のように禍福の中を、
無事安全に駆け抜けて下さい。

 

揺れる

 

分かったんだ!

雲ひとつない青空よりも雲が浮かんでいる空が好きなことが!
波一つない穏やかな海よりも少し荒れている海が好きなことが!
陽射し一杯の草原よりも風に揺れている森が好きなことが!
喧嘩もしない人間関係よりも言い争いする人間関係が好きなことが!
挫折も無い人生よりも波乱万丈の人生が好きなことが!

ぶつかり合いながらも調和のとれた世界が好きなことが!

そこからアクティブなエネルギーが生まれていることに気付いたんだ。

世界中にはいつも奇跡の光に溢れている。
だから辛い時にでも、ワクワクするのは、そのせいだ!

何も無い青空よりも雲がある景色がいいよね。
何故か真っ白な雲が形を変える度に心が踊りだす。

手で掴めそうな雲を目で追いかけるとホッとするよね。
綿菓子のような雲を見るといつも心が甘くなるのだ。

そして雲にはそれぞれの居場所があるよね。

夏空の真っ白な雲はもくもくと空の真ん中で、
秋空の薄い雲は遠くの空でさりげなく、
冬空の黒い雲は空から突然近くに現れる。

雲がまるで人間と鬼ごっこをしているみたいだ。

見ているだけで楽しくなるよね。
明日も大好きな雲が見えるかな。

波風の無い人生なんてつまらないと思わないか。
短い人生で嬉しいときも、悲しいときも、悔しいときも、挫折のときも、
健康な時も、病気のときも、色々な経験できて楽しいだろう。

苦労して手に入れた幸福は何物にも代えがたい喜びがある。
愛する人への片思いは心が切なくて張り裂けそうになる。
大好きな人達との別れは涙が枯れて生きる望みが無くなる。

人生劇場では、いつでも自分が主人公で人生を描くことが出来るんだ。

そう思えばワクワクしないか。

穏やかな人生よりも、少し揺れている方が、心が怠けなくていいんだよ。

 

他人の服

 

そんなに他人の服を着たがらないで!

他人が作った価値感と云う生地を、
他人が作った美意識と云うパターンを、
他人が作った幸福と云うボタンを、
他人が作った満足と云うポケットを、
そのまま着ても似合わないよ。

あなたにはあなたに似合う服があるはずだから、
不器用でもあなたが手造りで作った服が一番似合うはず。

そんなに背伸びをしないで、
そんなに見栄を張らないで、
そんなに無理をしないで、
そんなに我を張らないで、

自然のままが一番。

清潔で簡素で礼儀という素材で、
丹精込めて作った服をさりげなく着るのが一番。

少しぐらい時間を掛けても、
とっておきのオリジナルの服を作る事が大切。
あなたにはあなたに似合う服があるはずだから。

そんなに他人の服を着たがらないで!

日本人とアメリカ人のグループで判断に要する時間の調査をしていた。
先ず個人・個人で物を選ばせる。

日本人は個人だとさほど悩まずに選べることが出来た。
アメリカ人は個人だと結構悩んで選んでいた。

しかし、団体で物を選ばせると、
日本人は圧倒的に悩んで答えを出せなかった。

アメリカ人は自然にリーダーが生まれて、全員合意のもとに答えを出した。

昔から日本人は人の顔色を見て答えを出すように躾られたからである。

他人の意見を聞いてから当たり障りのない答えを出す。
それが「和」に代表される民族の証しなのである。

アメリカ人は多国籍国家だから主張しなければ存在が薄くなる。
その為にリベートという学習で個人の主張を学ぶ。

主張なき同意は個人の存在まで失う恐れがあるからである。

日本の伝統である粋と侘び寂びは目立たない様にする事だが、
逆に言葉無き事が一番主張しているように感じる。

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の中にその事が書かれている。

何もかも西洋から学ぶ時代は過ぎたのである。
日本人は日本人のやり方が一番似合うのである。

他人の服を着る時代は終わった。

あなたも、いつまでも他人の服に憧れるのを止めることにしませんか。

 

日日是好日

 

生きていれば知らないうちに恨みを買う事もある。
親切が仇になり傷つく事も度々ある。
逆にこちらの甘えが相手に大きな負担を強いてしまう事もある。

世の中は「智に働けば角が立つ。情に竿させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」(漱石)

それでも自分の道を歩かなければならない。

不器用でも、躓いても・傷ついても・もがき苦しみながら生きねばならぬ。
自分で決めたことの失敗で恨みが生じても受け入れるしかない。

今日が最後の日だと思えば何が起きても動じる事は無い。

一日一日が最高の日だと思えばすべての悩みも消える。
来る日も来る日も一日一笑・笑顔で合掌です。

対人関係においては、自分の意識よりも相手の意識が強く出る事があります。
そこに損得勘定が働くと一方的に受け身の対象になってしまうのです。

誰かより、目立とうとか、偉く成るつもりがなくても、立ち塞がる人達がいます。
自分よりも相手に光が当たると悪い噂を流すフレネミー達です。

友達のように近づき根掘り葉掘り個人情報を聞き出すのです。
笑顔の後ろに悪意が込められていて気を許すと思わぬ怪我をします。

解決方法は一つしかありません。無視をする事です。

韓国の諺に「枝の多い木は少しの風にも揺れる」というのがあります。
その通りです。枝の多い木は少しの風でも揺れてしまうのです。

我々が悩みに翻弄されるのは、心の中に無駄な枝が多いからです。
心の中の枝を切り落とさない限り、悩みと云う風に振り回されるのです。

悩みを理屈で解決を図ったり、感情で説得しようとしたり、自分の意地を通したりすると、
益々問題がこじれて混乱するだけです。

自分の人生を器用に生きようとする必要は無いのです。
不器用なままでカッコが悪くても素直なままで生きるのが自然なのです。

自分に必要な物だけを必要な分だけ取り入れることです。

それでも生きている内には知らぬ間に罪を作る事があるのです。

自分の進む道で起こる様々な出来事は、良くても悪くても受け入れるしかないのです。
毎日、毎日が人生に対して感謝と謝罪の連続です。

いつも、今日が人生最良の日だと思いながら生きるのです。

毎日を楽しく過ごすには無駄な枝を切り落とすしかないのです。
自分の価値観を人に押し付けたりせず、他人の価値観を羨む事も無く、自分なりの人生を作るのです。

すっきりすれば自然と笑顔も出て来るのです。

「日日是好日」
今日が最高の一日と思いながら過ごすのです。

 

 

「与えた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め」

人に与えた恩は水に流し与えた恩を忘れろ。
見返りを期待するような恩は偽物だ。

他人から受けた恩は石に刻み一生忘れるな。
謝罪の気持ちを持ち続けることが本物の恩なのだ。

ここまでで十分と云う恩返しは無い。
恩を返すならば死ぬまで返し続けなければならない。

言葉だけではない行為の中から生まれた結果が恩である。

その昔、言葉が無かった時代には、恩で十分にコミュニケーションが取れた。
恩は万国・万人に通ずる人の道の基本である。

忘れるべからず。

いつからか我々は恩を返す事に不器用になってしまった。

亡き父は毎年年末になると沢山の葉書に年賀のあいさつを書きこんでいた。
子供心に「誰に出すの」と尋ねたところ「お世話になった人へ」と返事が返ってきた。

そういえば、お中元やお歳暮も「お世話になった人へ」と言っていた事を思い出した。

当時一般家庭にも電話が普及し始めた頃ではあったが、
電話では失礼になるからと丹念にあて名書きをしていた。

両親や親類、先生や友人、お世話になった上司や隣近所の人達へ、
元気に暮らせることへの、感謝の気持ちを時折々に伝えることであった。

そして返事が来ると笑顔で読みながら「あちらも元気に暮らしている」と喜んでいた。

伝達手段が少なかった時代だから、日常の出来事から冠婚葬祭の連絡までが、
手紙や葉書でやりとりする事が多かった。

大切な人(恩人)との縁が切れない様に、時候の挨拶や健康への気遣い、
おめでたい事から、悲しい出来事まで、短い文章の中に細心の注意を払ったものである。

今はどうでしょうか。

簡単な挨拶は携帯メールで済ませることが多くなりました。
重要な連絡も相手の顔を見ながら話す事も出来るようになりました。

でもそれで良いのでしょうか。

通信機器の便利さが人間関係を希薄にしてしまったのではないでしょうか。
その為に日常の生活の中から美しい言葉や文字を使う機会が少なくなり、
単なる形式的に「ありがとう」だけを言う関係となっています。

両親や恩人に深々と頭を下げて挨拶する習慣が無くなりつつあります。
硯を出して墨を磨り毛筆で書き出す瞬間の緊張感も失われてしまいました。
家族そろって伝統的な正月料理を食べる事も少なくなり始めています。

このような古き良き礼儀作法が無くなる事は、日本人としての誇りが曖昧となり
神仏に対して敬う気持ちが薄れて行きます。

「国に忠、親に考、友に仁」の三つの教えが日本文化の基本です。

今一度「与えた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め」を思い起こすべきではないでしょうか。