もののあはれ




音楽プロデューサーとして生きてきた中で、常に人の心を見つめながら、
感情の発露を気に留めてきました。
時代によって移り変わる人としての価値観、その価値観によって変わる感情。
自分から作り出す精神的な強さや脆さ、他人から影響を受ける感情の起伏。
喜怒哀楽は個人の中にあり、それぞれが喜怒哀楽のガラスの針を持っているのです。
些細な事で喜んだり悲しんだりするのは、そのガラスの針が左右に振れるからです。
感情の発露とは「人間の心の動きを感じる、知る」ということです。

若い時には理性が足りなくて感情だけで行動してしまいます。
好きになるときも別れる時も、花が咲くときも枯れる時も、心に「あはれ」と感じるものがあります。

ここで生まれる「あはれ」とは何でしょうか?

本居宣長はこのように伝えています。
「もののあはれを知る」とは何でしょうか。人は嬉しいときや悲しいときに、
心が揺れ動きます。その心が感極まったときには、「あぁ」というため息が漏れます。

この「あぁ」が「あはれ」です。本居宣長は、こう述べています。
「『あはれ』といふは、もと、見るもの聞くもの触るる事に、心の感じて出づる歎息(なげき)の声にて、

今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」

つまり、「もののあはれを知る」とは「人間の心の動きを感じる、知る」という意味になります。

なお、現代では「哀れ」という漢字のイメージから哀しみに対する心の動きだと誤解されることがありますが、

嬉しいときの「あぁ!良かった!」という心の動きも「あはれ」です。

宣長は、人が物語を読む目的も、和歌を詠む目的も、この「もののあはれを知る」つまり「人のこころを知る」ためだといっているのです。そしてこの「こころ」という言葉には、「情」という漢字があてられています。

「情」という字を使った熟語には、感情・情熱・風情(ふぜい)などがありますね。

人間は生きていくうえで、そういったものを大事にして生きていこうよと宣長はいっている気がします。

物書きも音楽プロデューサーも「もののあはれ」を知らなければ成り立ちません。
何故なら作品のテーマは喜怒哀楽が元になるからです。

ものの成り立ちの瞬間は人間の誕生および自然界の花開く時に感じる喜びの心です。
そして叛逆と改革の変化を求める精神です。いわゆる怒りの心です。
そして「あはれ」へとつながります。いわゆる「あはれ」「哀れ」の心です。
最後には「生老病死」の病や悩みから解放され気持ちが落ち着くことです。
いわゆる死を意識した楽の心です。

仏様は目に見えなくなったものの、この世界に溶け込んでおられるのは間違いないのです。

問題はその事実に気づく事ができるかどうかなのです。

仏は常にいませども
現(うつつ)ならぬどあはれなる
人の音せぬ暁に
ほのかに夢に見え給ふ
(梁塵秘抄)

目に見えないものと有りもしないものは、似ているようで全く違います。
仏さまは常にお傍にいらっしゃるのに、目に見えないのが残念ですが、目に見えないからこそ尊いのです。

見方を変えれば、彼岸というのは遠く離れた特別な世界ではありません。既に私達は彼岸にいるのに、気付いていないだけなのです。

感情の発露とは「人間の心の動きを感じる、知る」ということです。
目に見えないものは第六感で受け止めるしかないのです。
これらを音に乗せ言葉に乗せてよき音楽が成り立ちます。
勿論、これらの文字に感情を乗せれば名著と言われるよき本になるのです。