これだけ

 

「これだけ」

これだけ「あなたのために」だと辛くなる。

これだけ「あいしているのに」だと重くなる。

これだけ「やってあげたのに」だと怒りになる。

これだけ「がまんしたのに」だと愚痴が出る。

これだけ「きいてあげたのに」だと負担になる。

これだけ「つきあっているのに」だと煩わしくなる。

これだけ「ぎせいにしたのに」だと窮屈になる。

これだけ「まもってあげたのに」だと憂欝になる。

これだけ「おもっているのに」だと面倒になる。

これだけ「つくしているのに」だと逃げ出したくなる。

これだけの言葉が無ければ、どれほど感謝したか分からない。
これだけ、これだけ、これだけを言わなければ、「ありがとう」が言えたのに。

人は期待される事を一方的に要求されると反抗的になる。
人は自分の想いを相手の気持ちを考えずに伝えることがおおい。

やってあげたのだからこうしてほしいは逆に相手の気持ちを頑なにしてしまう。

自分の行為に見返りを求めると響く行為も響かなくなる。
あなたの純粋な想いが一つの音としたら潔癖で清廉でなければならない。

心が清くて私欲の無い音は頑な心を溶かす力とエネルギーを持っている。
素直になり無心の優しさがなければ相手の心は固いままである。

音は柔らかな壁には吸い込まれるが固い壁には跳ね返ってくる。

人の心も軟らかい時には素直に聞き入れられるが固い時には拒否される。
自分の行為に見返りを求めるとそこから信頼と愛は生まれて来ない。

あなたの気持ちを適量な音量と音質で包み込まなければ想いは伝わらないのである。

あなたのこれだけはただの我儘な要求である。

相手の中に幸福のイメージを作ることが出来なければ笑顔は生まれないのである。
相手を束縛と拘束で縛るのは人間関係においてやってはいけない行為である。

美しいメロディーには美しいポエムが必要であるように、
美しい行為には美しい心が必要である。

 

戦争と音楽

 

戦いの中で音楽は必要だろうか。

殺意が生まれた中で音楽は必要だろうか。

略奪と破壊行為の中で音楽は必要だろうか。

武器を捨て音楽で戦う事はできないのだろうか。

破壊行為の中で音楽は無力だが、創造行為の中では音楽は有力となる。

疲弊しきった精神には音楽が必要である。
悲しみで傷ついた心には音楽が必要である。
平和と自由を求める時には音楽が必要である。

水と空気と同じように取りこまなければならないのは音楽である。

国や民衆は追いつめられると必ず武器を取り戦う。
その中でいつも犠牲になるのが武器を取らない女性や子供と老人です。

自分達を守るための武器が身近な家族を犠牲にしてしまう。
同時に平和と自由を叫びながら相手国の家族も犠牲にしてしまうのです。

戦争は未来を作る子供たちから夢や希望を奪ってしまう。
戦争は子供達の心に深い影を落とし笑顔を奪ってしまうのです。

相手国の宗教や国家を非難すればそこには争いだけが残ってしまう。
両国に復讐心が芽生えれば民族間の争いは止めどもなく連鎖し続けるのです。

世界中の誰もが平和に生きる権利を与えられているのに権力者はそれを奪ってしまう。
国も権力者も生きる以上の富と欲を求めるから争いが始まるのだ。

一旦戦争がはじまると人々は信じあうことが疎かになり憎しみだけを増幅させる。

悲しみの中で際限なく相手国に略奪と強姦と殺戮を繰り返すことになる。
泣き叫ぶ女性や子供や老人の声が砲弾の音にかき消されてしまうのです。

いくら平和と自由の戦いであってもそこに音楽の入り込む余地は無い。

世界中で戦争が起こる度にジョン・レノンの「イマジン」が流れる。
人々は「イマジン」に本当の答えを求めるからである。

♪想像してごらん、国なんて無いんだと

♪そんなに難しくないでしょう?

♪殺す理由も死ぬ理由も無く

♪そして宗教も無い

♪さあ想像してごらん、

♪みんながただ平和に生きているって

皮肉にも平和主義であったジョン・レノンは1980年NYで銃弾に倒れる。
しかしこの歌が世界平和の象徴として永遠に受け継がれることは間違いない。

戦争前の不安と戦争中の狂気、ここに音楽が流れても無力です。

しかし戦争後の希望を創造するには音楽は絶対に必要です。

 

人生の扉

 

扉の向こうにはいくつもの新しい出会いがある。
夢と希望と輝きと笑顔と喜びに満ち溢れた世界がある。

臆病者はその扉を塞いで奇跡のような出会いに目を閉じる。
小心者は扉の向こうから聞こえる物音に不安を感じて鍵を掛ける。

勇気を持って扉を開け未知の世界に踏みこまなければ変化は訪れない。

扉の向こうにはさまざまな出来事が存在する。
恐れずに飛び込めば真実をそこで発見する事も出来る。

妄想に囚われて恐怖の鎧を身にまとい逃げ惑うのは意味が無い。

人間関係も出会いの入り口と信頼の扉がある。
出会いの入り口で大勢の人と知り合っても変化は訪れない。

その扉を開けて入らなければ相手の心の中など、
決して触れる事は出来ないからである。

出会いの入り口でいくら幸福を想像しても喜びは実感できないのである。
お互いの温もりの届く距離から声を掛けなければ反応は起こらない。

人の扉を開ける鍵は自分の経験や知識から生まれて来る。
自分の経験や知識と自分の好みが加わり初めて扉を開ける鍵となるのである。

経験とは成功の称賛や失敗の侮辱や敗北の孤独である。
しかし、経験少なき人たちは今ある知識に頼るしかない。

相手の学歴・職業・容姿・言動・趣味・人脈などで判断するのである。
そのうえ個人の好みの容姿で良し悪しを決めるしかない。

人のうわさや名刺の片書きだけで扉を開けてしまうと不幸な結末に終わる事が多い。
真実を調べずに見えない人格を片書きだけで判断しては成らないのである。

自分の扉は自分の価値観で責任を持って開けるべきである。
自分の価値観が希薄な場合は先人達の教えに従うしかない。

その為に哲学がある。哲学こそが正しい水先案内をしてくれる。
哲学を知れば扉を開けることに躊躇しなくなる。
哲学とは経験から生まれる人生観・世界観で、思考全体を貫く基本的な考えである。

ニーチェやサルトル、ハイデガーやヤスパース、孔子や孟子を読み、
見識者と言われる丸山真男・小林秀夫・山本七平・松岡正剛にも馴れ親しむのである。

彼等の知識を取りこむことによって扉の鍵となる勇気が湧いて来る。

人生の扉は自動扉では無い。勝手に開いてくれないのである。
自分の力で押し開けなければならない。

扉の向こうにいくつもの新しい出会いがある。
夢と希望と輝きと笑顔と喜びに満ち溢れた世界がある。

 

三つの眼

 

上空から見下ろす鷹の様な目を持て!

リーダーとなる人間は俯瞰で物を見る訓練をしなければならない。
常に全体の状況を上から判断して指示を出さなければならないからである。
上から見れば何が重要課題で何が最優先事項かが分かる。

森や林を見る人の眼を持て!

リーダーとなる人間は現実と経験と常識からくる分析を訓練しなければならない。
常に大衆は未来の予測に対して期待と不安を感じ迷うからである。
大衆が何を求めているかを大衆と同じ目線で考える必要がある。

地上に這う虫の様な目を持て!

常にリーダーとなる人間は底辺から情報を吸い取る訓練をしなければならない。
常に危険を予測して信頼よりも猜疑心と警戒心を持つべきである。
下からの情報は決断をする時の適切な時期を教えてくれる。

 

対坐する相手に対してその能力と人柄を瞬時に読むことができるか?
書面で交わされる内容を文字だけで判断して安心できるか?
相手の駆け引きよりも先に取引で優位に勧める事ができるか?

リーダーとなる人間は三つの眼を屈指して勝利へと導かなければならない。

武田信玄<我にわからざるもの三つあり>

一つは空を翔る鷲の道
一つは地を這う蛇の道
一つは男と女の出会う道

<人生にとって幸福な音が三つある>

一つは夫が家に居て静かに本を読んでページをめくる音
一つはその傍らに妻が居て何かを作っている音
一つはその夫婦の側で子供が元気に遊び戯れている音

<概(おおむね)戦というものは>

一つは五分をもって上とし(五分は励みを生じ)
一つは七分をもって中とし(七分は怠りが生じ)
一つは十分をもって下となす(十分は驕りが生ず)

戦国の知将と言われた武田信玄ですらあらゆる事に疑問を持ち続けた。
疑問を悩みとしない為にも冷静な分析が必要である。

危険が迫った時に悩むのではなく迫る前に悩むのは正しい。
しかし、実戦の場合は日々の訓練を持って行動を成す。

常に問題のポイントに照準を縛り三つの眼で見る事によって解決の糸口が分かる。

三つの眼は思考の黄金分割である。

好きになる

 

人を好きになる理由は一つしか無い。
その人に愛を感じるからである。
人が嫌いになる理由は百ほどある。
その人の言動が気になるからである。

男は一度嫌いになった女でも再び好きになる事が出来る。
女は一度嫌いになった男は二度と好きにはならない。

一般的には好きから始まり愛が芽生える。

愛は心がつまって足もそぞろに進まないことをいう。
もどかしい心が相手の世界に立ち入る時である。

また愛は束縛と謝罪の連続である。

人を好きになると言うことは相手の人生を破壊する恐れがある。
自分の価値観を押し付けて傷つけるからである。
愛をとおして未来を約束してもそこに保証は無い。
曖昧な「幸せ」というゴールを語り合うだけである。

男は種族を守る為に女を求めるが女は家族を守る為に男を選ぶ。
男の帰るところは女で女の帰るところは自分自身である。

男達は船で旅する時に舳先に女神を飾る。
また元の場所に無事帰ることを願う為である。

女達がひとりで旅をする時は全てを置き去りにする。
もう二度と同じ場所には帰らない決心である。

若者達は人生経験の少なきなかで愛に悩み苦しむ。
未熟な愛は見た目から始まり、言葉に移行して、仕草で確認し合う。
仕草から誠意と移る中で、互いの伴侶としての確認が行われ結婚に至る。

愛は生命の内部的なる熱と力と光の源泉たることを得るのである。

男も女も愛失くしては生きていけないのである。

しかし若者達は本能的な愛と真の愛を取り違えてしまう。
本能的な愛は一瞬にして燃えるが、そこに覚悟と努力が無いから、
様々な外的に対する抵抗力が乏しいのである。
真の愛は精神生活の根底を互いに努力して作る覚悟である。
精神生活とは生活の安定であり安心を共に作らなければならないのである。

恋愛はゲームでは無い。何度もやり直しができる感覚は捨てるべきである。

人を好きになる理由は一つしか無い。
その人に愛を感じるからである。
しかしその愛が受け入れられなくても、
失恋の中で得る悲しみも大切である。

苦労

 

苦労は自分を磨いてくれる砥ぎ石だ。
まさに人間を磨いてくれる砥ぎ石なのだ。
だから苦労すればするほど人は輝く人となる。

苦労から逃れてはならない。
苦労に押しつぶされてはならない。
苦労に負けてはならない。
苦労と笑いながら戦うのだ。

そして苦労のハードルを越える度にゴールが目の前に近づいて来る。

苦労には様々な抵抗勢力となる人達が登場する。
家族や同僚や先輩や上司や友人達である。

悪意なき助言のもとで人生を翻弄されることがある。
また意図的に妨害をされて神経をすり減らす事もある。

たとえ息もできぬほど追い込まれたとしても、
恨まずに砥ぎ石となる人達に感謝すべきなのだ。

彼等がいるから強く成れるのだ。

石は激流を選べず川上からいくつもの大岩にぶつかりながら川下に下る。
果てしなく続く荒々しい流れに身をまかせながら過ごすのである。
やがて河口に辿り着く頃には角張った石も丸い石となっている。

成功者の多くは書物よりも苦労から学ぶことが多いという。

苦労を立ち塞がる壁と考えるか乗り越えなければならない試練とするか、
人それぞれだが、成功者はいたずらに悩みや痛みを増幅させることはない。
全て流れに身をまかせながら良き経験として取りこむのである。

理不尽な世の中と人間関係の摩擦の中で人格は丸くなり、
やがて泰然自若として名刀のように光り輝くのである。

名刀とは石ころのような鋼(玉鋼)を何度も叩いてできあがる。

鋼の塊を熱しては冷まし冷ましては熱する作業を繰り返す。
何度も引き延ばしては叩き、叩いては引き延ばすのである。

叩かなければ鋼は決して名刀には成らず。
叩かれて名刀になるのであれば叩かれることに感謝しなければならない。
叩いてくれるハンマーを決して憎むのでは無く感謝するのである。

名刀になれば美しさのなかに威圧感がうまれる。

名刀が完成されたとしても叩くハンマーを決して名ハンマーとは言わない。

苦労の中に登場する人達はあなたを叩くハンマーなのである。
貴方が輝く人となり評価されてもハンマー達は評価されない。

貴方の人生の前に立ち塞がる、
多くの抵抗勢力を恐れずに進んでほしい。

心身ともに叩かれても怯まないで欲しい。

希望を失わずに前向きに生きて欲しい。

苦労は自分を磨いてくれる砥ぎ石だ。
苦労すればするほど光り輝く人となる。

苦労と言われる環境では叩いてくれるハンマーには感謝しなければならない。
そこに確固たる人格が形成されるからである。

 

一途

 

きょろきょろするな
ひたすら一本の道を歩け
辛くても立ち止まるな
人の作った道を羨むじゃない
自分の道を進めばいい

 

無理に親切や優しさをする必要はない
手を差し出すだけでも十分だ
だれからも褒められなくてもいい
無能と思われてもそれでいいのだ
自分の道があるじゃないか

 

人の聞いた話を自分の話にするな
人の知識を自分の知識にするな
人の友だちを勝手に自分の友だちにするな
自分の知っている事だけで十分だ
自分の道だけでいいじゃないか

 

うまい話に耳を傾けるな
笑顔の裏の罠に嵌るな
近道の誘惑にのるな
失敗を恐れず歩めばいい
遠くても自分の道を進めばいい

 

笑って泣いて悔しんで蔑まれても
自分の道があるじゃないか
目立たず貧しく孤独でも
自分の道があるじゃないか

 

ここに先達の金言がある。

九十九人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、
自分一人はスタスタとわが志したこちら側の川岸を、
わき眼もふらず川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい。

森信三

 

自分の道があるじゃないか
ひたすら一本の道を歩け
辛くても立ち止まるな
他人の作った道を羨むじゃない
自分の道を進めばいい

 

そこに必ず真理がうまれる
壮大な夢と志があらわれて来る
使命に満ち溢れた勇気がおこり
確固たる信念のもとに
ゆるぎない世界へと導いてくれる

自分の道を進めばいい

看却下

 

足下を観ろ。


中国唐の時代に五祖法演禅師が弟子三人を連れて歩いておりました。

夜なので行燈(あんどん)を持っておりました。
すると突然風が吹いてきて行燈の中のローソクが消えてしまいました。
辺りは真っ暗です。一番頼りとなるべき明かりが消えてしまったのです。


そのときに、五祖法演禅師は弟子達に聞きました。

「この暗闇で一句(ひとこと)言ってみろ」
真っ暗になったとき、今おまえは何をしなければならないのかを五祖法演禅師が聞いているのです。


それぞれが応えたのですが、その中の一人仏果(ぶっか)という弟子の応えた一言、
「看却下」という言葉が禅師の思いに適していた。


暗闇の中ではあわてず騒がず、先ずは足下を見ろと云う事です。
冷静になり対処を考えれば解決の道は開かれる。

それが「看却下」という言葉です。

突然予期せぬ出来事が起こった時にどのように対処するかが問題です。
常日頃から心の準備があれば、冷静に足下を見ることができる筈です。
足下を見ることが出来れば、問題に動じることも無く落ち着いて解決を図れるのです。


剣術では丹田に力を入れることをおしえます。

試合で相手の動きにばかり気を取られていては勝つ事が出来ません。
先ずは腹の下で呼吸をして気を静めるのです。

対戦相手に激しく動き回るのではなく相手の微妙な変化を見つけるのです。
そしてその動きの先を読みながら踏みこんで行くのです。


どの様な場合でも冷静になりやるべきことをやらなければならないのです。


仕事先でこの様なことがありました。

取引先の社長が突然亡くなり生産がストップすると社員一同大騒ぎをしていました。
会社にとって生産が止まると大きな損出を被る事になるからです。


そこに自社の社長が現れて事情を聞きました。
そうすると社長は「先ず我々がする事はお悔やみを申し上げる事だ」と言ったのです。
会社にとっての一大時でも人としてやらなければならないことを先にしなさい。

その後に出来る限りの事をしなさい。


決して、今回の取引先に負担を強いるようなことをするのではなく、
一時的にでも他の取引先にお願をして心配を掛けない様にしなさい。

まさしく「看却下」とはこの事なのです。

突然の出来事に対して最初に何をするべきかが大切です。

 

 

一本の棒きれ

 

林のすぐそばの脇道に一本の棒きれが落ちていた。

村の子供達がそれを見つけた。
「こんなところに汚れた棒きれが落ちている」
子供達はそれを拾いチャンバラ遊びをする。
その遊びに飽きたらまた道端にポイと捨てる。


そこに年老いた旅人が通りかかる。

「おう丁度良い棒きれがある。」
杖代わりに使えば便利だと坂道の上まで持って行く。
ありがとうと感謝をしながら道端の木に立て懸ける。


またそこに村の主婦が通りかかり拾い上げる

「燃えやすそうな棒きれじゃ。」
釜土のマキに使おうと背中の籠に放り込む。
家に帰り庭先に棒きれを広げた時に主人が現れる。

「おう彫り物をするのに手ごろな木だ」と奥に持って入る。

数日が過ぎて立派な龍の彫り物が施された棒きれが現れた。
主人は町の展覧会にその棒きれを出展した。


審査員の中の一人の長老が棒きれを見つける。

何処かで見たことのある棒きれだが「なかなかの良き作品じゃ」と褒める。
「この彫物を今回の優秀作品にしよう」満場一致で最優秀作品となった。
そしてそこに居合わせた美術商がその棒切れを高価な値段で買い取った。


村の脇道にあったただの棒きれが高価な美術品になったのである。


一般的に誰もが道端の棒きれには関心をよせない。
その時の自分の都合に合わせて便利に使うだけである。


この棒きれを学問と云う言葉にしてみたらどうだろうか。
同じ知識を得ても使い方によって結果は大きく変わる。


おおよそのことは知っていることと知らないことに大差が無い。
どの様に使うか使わないかの肝心なのである。


貴方は一本の棒きれをどのように使うのだろうか。

目の前に高く積まれたビジネス書をどのように役立てるのだろうか。
眺めているだけだとただの棒きれと同じです。

棒きれに創造力を加えて実行する事が成功に繋がるのです。

 

平然

 

貧しくとも凛として生きろ。
辛くとも毅然とした態度で過ごせ。
悲しくても泰然として惨めになるな。
艱難辛苦あれど平然と受け入れよ。
悩みがあっても美しい所作に心掛けろ。
口を汚さず、苦労を出さず、静かに応じろ。


一度や二度の失敗で臆病になるな。
信念を曲げずにまっすぐ進めよ。
自分の心掛け次第で運命は変わるのだ。

ここに運命を変える方程式がある。

思考という種をまき、行動を刈る。
 行動という種をまき、習慣を刈る。
 習慣という種をまき、性格を刈る。
 性格という種をまけば、おのずから運命が変わる。

自らの運命を待つのではなく、自らの運命を変えるのだ。


目立たず、はしゃがず、騒がずに、何事にも動じない生き方をしろ。
平然とした態度で日々を過ごすのだ。

 

他人から言われる戯言に耳をかさず。
他人から受ける誹謗中傷に心うばわれず。
他人から誘われる欲と快楽に身をかさず。
自立独歩の信念を貫き通せ。

そこに運命の扉が開くのだ。 

苦労をすれば人間は丸くなるといわれる。
それは世間から非難を浴びるほどの苦労である。
深い反省と謝罪を繰り返しても犯したあやまちは許されるものではない。
心は傷つき身体は痛み意識は朦朧となる。

 

その上自分の失敗に対して協力者が批判する側に回り、人間不信になり、
自分を正当化する為に他人を逆恨みして開き直りする人も多い。

人としての「誇り」が消え失われるのである。

「誇り」があれば深い挫折を味わっても再起の道を自ら発見することが出来る。
自分の軸を立てなおし目指した道を真っすぐに歩んでいるからである。 

 

「誇り」とは使命感である。何をなすべきかを全うする精神である。
失敗を恐れる必要はない。「誇り」を失わなければ平気である。


泰然自若、凛として、動じない精神力を持ち、礼儀を忘れずに過ごす事である。