「恩学」原稿300編達成!
いつもその日思いついた言葉をメモ書きします。
それを少し寝かせてから文章にします。
文章にしてしばらく熟成させます。
何度も気に入らない部分を削ぎ落としてから掲載します。
読者の皆様、拙い文章ですが長い間、愛読していただき有難う御座います。
プロデューサーの独り言にお付き合いしていただき心より感謝いたします。
毎月、資料用としてジャンルを問わず沢山の本を購入してきました。
その中ですぐに読む本と寝かしてしまう本があります。
それは全て「時宜に適って」最適なタイミング(読みたくなったら)で読みます。
これは物についても同じです。欲しい物を購入しても、直ぐに使う分と
タイミングが来たら使う分と分けています。
人間関係も、今お付き合いしたい人と、長くお付き合いしたい人と、
しばらく様子を見てお付き合いする人に分けています。
こうすることによって互いに傷つけあうことを避けてきました。
全ての出会いに全力投球すると疲れてしまうし、何か問題が起きた時に
精神的にダメージを受けることもあります。
ストレス障害やうつ病の人は真面目な人が罹りやすいと言われています。
それは全てに全力投球をしてしまうからです。
自分の受け入れられる「器の大きさ」が分かれば区分けもできたと思います。
必要な時に必要な人とお付き合いする。
決して衝動的にお付き合いすることを避けていれば人間関係も上手くいきます。
今回300編にあたりこの言葉を選びました。
「時宜に適って」少しでも皆様のお役に立つことができれば嬉しいです。
この文章は熟成する前に掲載します。
たまにはボジョレヌーボーも良いかと思いました。
「時宜にかなって語られる言葉は銀細工に付けられた金のりんご」といいます。
それは、入念に作られた美しく高価な宝物です。口を開く時を知っていることは、
それを語る人にとっても、また、聞く人にとっても有益です。
それが愛や励ましの言葉であっても、叱責の言葉であってもです。
しかし黙っているのがふさわしい時と場所もあります。
人は様々な人に巡り合い、そして金の言葉に出会う。
人は救われたいと思った時に救われる言葉を求めます。
死ぬかもしれない病にかかった時に「大丈夫治りますよ」という
医者の言葉は、何事にも変え難い金の言葉です。
私も子供の時に母親と別れた時、大阪まで付き添ってくれた母親の姉から
「大丈夫すぐにお母さんと会えるから」の一言で元気に暮らしていくことが出来ました。
僅か6歳の時です。
私の座右の言葉です。「恩学」でも度々紹介しました。
「愛語よく廻天の力あり」
これは、禅宗の名僧といわれる道元禅師の言葉です。
直訳すると
「愛語には、天をも動かす力がある」となりますが
「思いやりのある真心の言葉には、
世界を変える力があり、人の運命を好転させる力がある」
と訳すこともできるでしょう。
人と話す時には、
常に思いやりのある言葉を心がける。
その愛のある言葉は、
相手を幸せにすると共に、自分をも幸せにしてくれる。
人から優しい言葉を掛けられると
、自然と喜びがあふれ心が楽しくなる。
また、第三者を通じて優しい言葉を掛けられたと知ると、
その言葉が心に刻まれ、より感動することもある。
こんな経験を皆さまも一度や二度は、
されたことがあるのではないでしょうか?
一方で心無い言葉、つまりは憎語ともいうべき言葉は、
人を不幸にしてしまう力がある、
といっても過言ではないでしょう。
それだけ言葉と言うのは、人に大きな影響を与えるのです。
ただし、その言葉を受け取る側の受け止め方、
力量によっても、その言葉の真実が変わってしまうこともあります。
言葉とは、言葉をかける側も受け取る側も、
人としての価値、人間性が問われるといえますね。
皆さんが言葉の持つ力その意味を、
今一度真剣に考えていただく機会になれば幸いです。
辛い時に救われる言葉・心が楽になる金言
【マザー・テレサ】
「神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを
望んでいるだけよ。」
人は、何に挑戦しようとするとき、リスクを考えてためらってしまうことがあります。
この言葉は、成功するかしないかという結果よりも、まず挑戦することの大切さを
伝えています。
【ヘレン・ケラー】
「人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。」
彼女の言葉は、重い障害を乗り越えた上での言葉だけに、私たちの心を奮い立たせます。困難があっても、挑み、乗り越えることで道が開ける、
そのようなことを教えてくれる名言です。
【トーマス・エジソン】
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、上手くいかない方法を見つけただけだ。」
エジソンは、幼少期学校を退学になり、最初の発明が営業的に失敗するなど、
決して順風な人生ではありませんでした。しかし、どんなに失敗を重ねても
「上手くいかない方法を知っただけで、これは失敗ではない」というポジティブな
スタンスで努力を続けた結果、偉業を成し遂げています。
何かで躓いたときに後ろ向きな考えに陥ってしまった時に、ぜひ思い出してもらいたい
名言です。
禅語の世界では、
「梅花雪に和して香し」(ばいかゆきにわしてかんばし)
この禅語には、「一枝(いっし)」という語が付くことがあります。
繋げますと、『一枝の梅花雪に和して香し』となります。
一面の白雪の中に凛として咲く梅の花、互いに引き立てあい、
互いに和し(親しみ)、馥郁(ふくいく)たる香りを放つ梅花の風情を表した
語です。「馥郁(ふくいく)たる香り」とは、よい香りが漂っている様子や
匂い立つ繊細で美しい香りを意味した言葉です。
梅は、どの花よりも早く花を開き清香を放ちます。厳しい寒さに耐え、
雪や霜を被り、幾多の試練に耐えながら、そこに至ります。
その忍苦あってこその凛とした花の美しさと馥郁たる香りがあることを顕した
語です。
私たち人間にも当てはまることであります。
幾多の困難にも耐え忍び、自身の信念を貫き精進すれば、自ずとそれぞれの
花が開くのではないでしょうか。何か困難に直面した時、
この禅語をあなたの役に立ててください。
私の部屋には中国四川省の美術館で購入した「雪中梅」の水墨画の絵があります。
何度も裏切られ傷つけられたとしても、この絵を見るたびに勇気を頂きました。
厳しい雪の中で真っ赤な蕾をつけて咲く、香ある梅の花に「耐えてこそ人生」を
学びました。
これを眺めながら岐阜県白川町でいただいた高山煎茶を口に含むと、
身体中に至福の喜びが溢れます。これからもまだまだ「恩学」の原稿を書き続けます。
長い文章になりましたが最後までお読みいただきありがとうございました。
皆様との出会いも「時宜に適っている」と信じている次第です。
10月 27th,2023
恩学 |
時宜に適って はコメントを受け付けていません
フルトヴェングラーは「作品解釈について」という論文の中で、難解な表現ながら、
次のように説明していたのである。
<作曲家の状況を考えてみるならば、彼の出発点とは無であり、
いわば混沌(カオス)であり、彼の終点とは形成された作品である>
そして混沌の「形象化」は、
彼にとって即興音楽(インプロピゼイション)の行為のうちに実現する。
作品とは、いわば心的事象の似姿だといえよう。
<あらゆる偉大な芸術作品は、その性質の心技を問わず、
ある特定の表現意欲から作り出されている>
つまり音楽とは、「作曲家が、ある時点における心の状態を、“音”という素材を用いて
聞き手に伝えようとする“メッセージ”である」とフルトヴェングラーは言っているのである。
小澤征爾は坂本龍一との対談で、「音楽は瞬間の芸術」であるとも言っている。
今、出た音はすでに過去の音になっている。二度と来ない一期一会の世界だと言っている。
指揮者がおこした譜面を元に決められた旋律と音階とテンポを再現するので、
フルトヴェングラーがいうような即興音楽(インプロビゼーション)には決してならない。
しかし、指揮者は作曲家の意図するメッセージを自分なりに解釈をしてオーケストラに
再現させる。だからオーケストラの指揮をしていると毎回違うあらたな感動が起こり、
指揮者は音を操りながら作曲家の意図したメッセージを伝えているのである。
デューク・エリントンは世の中には「素敵な音楽」と「それほど素敵じゃない音楽」
という二種類の音楽しかないのであって、ジャズであろうがクラッシック音楽
であろうが、そこのところは原理的には全く同じことだ。「素敵な音楽」を聴くことによって与えられる純粋な喜びは、ジャンルを超えたところに存在していると言っている。
あらゆる表現者は「他人に理解してもらいたい」という気持ちを持っている。
自分という「人間の存在」を認めてほしい、私が必要だと他人に思われたい。
そしてその実現が“生き甲斐”というものなのだろう。これは音楽だけでの話ではない。
画家も、アスリートも、実業家も、政治家もみな同じ思いであろう。
「私は今までプロデューサーとして何かをしたのだろうか?」
多くのヒット曲やアーティストと巡り合い、いっとき世間が私に注目をしたのだが、
プロデューサーとして私は一体何をしたのだろうか?
プロデューサーの仕事は、才能は見つけるものでなく、才能を引き出すことである。
能力のあるアーティストの隠れた才能を引き出すことに意義がある。
私のようなハウスプロデューサーは、極端なことを言えば専門的な音楽分野の知識や
経験が無くても才能を見極める力があれば良いのである。
ようするに時代が求める音楽を作れるアーティストを見つければよいのである。
路上でもライブハウスでもネット上でも、ヒット件数や評判だけを見るのではなく、
直接本人にあってライブを見て才能を見つけ出さなくてはならない。
その時に、私が必ず彼らに問う言葉がある「好きな音楽・良い音楽・売れる音楽」
私とどの音楽をやりたいかである。そしてこの答えで今後の道筋が決まる。
音楽に関わった時から将来の方向が見えている人は、
技術以上にスターの座を獲得する確率が高い。
山の頂上が見えない登山家が登頂することは難しいように、
一流のプロが目指すのは準備段階でどの山に登るかかが分かっている人間である。
ゴールからスタートを計画すれば必ずゴールへたどり着くのである。
ヒット曲は偶然から生まれるものではなく、目指す山頂が見えているから、
必然的に生まれるのである。
ハウスプロデューサーは音楽家ではない。ヒットに導く水先案内人である。
時代を読み取る力と協力者を募る才に長けていなければならない。
そして多方面の人付き合いに慣れている人が適任である。
作詞家・作曲家との付き合いから始まり、放送局や雑誌社へ有線放送から代理店へも
その上、各地のレコード店もヒットするまで通い続けなければならない。
プロデューサーは24時間365日働ける人が適任者である。
(ハウスプロデューサーとはレコード会社所属のプロデューサーです)
プロデューサーに必要な能力と言えば耳が良い方が成功する可能性があると思っている。
明確な音の聞き分けが出来る能力がなければプロデューサーには向いていない。
最終作業のトラックダウンで、楽器の配置、ボーカルのポジション、左右のバランスを
作り上げる能力である。聞き手の興奮度に合わせて微妙に変えていくのである。
これらの作業をスタジオのエンジニアに任せる人が多いのだが、
私はその作業を自分でやることによってヒットエネルギーを注ぐのである。
しかし今の時代はデジタル社会である。コンピューターで音楽を作る時代である。
誰が制作してもほぼ同じレベルまで持っていくことが可能になった。
その為に音楽&音質に個性が無くなってカラオケの音源レベルである。
このような時代に私のような音の職人は不要になったのが現実です。
アマチュアが自宅で作った音源をYou tubeで流して世界デビューも果たせる時代である。
「音楽とは何か、作曲家の仕事とは」を話し合う必要も無くなって来ている。
プロのアーティストの売り込みもメディアよりもインフルエンサーと繋がれば
ヒットを出せる可能性はある。話題性先行で実力が後に来る。
更に英語が使えればYou tubeを使い海外でもデビューできるチャンスは広がる。
K-POPのグループが海外で活躍できるのはこのシステムを上手に利用しているのである。
しかし、やはりその前に売れる楽曲を作るのはマーケティングに長けたプロデューサーと
手を組まなければならない。時代を呼び寄せる技術はアーティストには分からない。
というよりはアーティストには必要のない部分である。
最後のヒット「女子十二楽坊」から約20年が経った。
そろそろ最年長プロデューサーとしてギネスに挑戦でもしてみるか?笑い
10月 26th,2023
恩学 |
音楽とは何か、作曲家の仕事とは はコメントを受け付けていません
自由を求めるなら不自由を覚悟しなさい。
成功を求めるなら破滅を覚悟しなさい。
幸福を求めるなら不幸を覚悟しなさい。
親切を求めるなら偽善を覚悟しなさい。
正義を求めるなら悪を覚悟しなさい。
何事にも原因と結果が伴います。
理想だけで世の中は成り立っていません。
努力しても叶わないこととは山ほどあります。
良いことをしているのだから協力が得られると思うと
協力が得られなかったら近隣や友人や家族を恨みますか?
そういうわけにはいかないのです。
あなたの理想で世の中は動いていません。
教師や指導者がいう正しい行いと結果は信じないでください。
経験のない人は教育から理想を描き過ぎています。
新しい船には新しい船乗りが必要なように、古い教育のままでは未来に向けて
出航が出来ません。
過去の教育に頼りすぎて「神風の吹く日本は負けない」という考え方が、
日本を敗戦に導いたのです。
あなたも過去の理念を信じすぎて子供たちに教えていませんか?
「正直者の頭(こうべ)に神宿る」悪い人たちに染まらず正直に育ってね。
悪い人とはどういう人で、どうゆう考えを持っていて、どうゆうことをする人ですか?
「善・悪」の成り立ちと構造を教えないで正直への道と歩ましていませんか?
それはまるでハーメルンの笛吹き男の後をついていく子供のようなものです。
村人(政府)の裏切りにより一番大切な子供達(国民)を奪われたのです。
原因は村人、結果は子供達。ここから学ぶことは、自分たちの都合で上手くいくと
思ったことが、相手にとって裏切り行為になったということです。
裏切り行為には必ず報復が待っているのです。
世の中の戦争の原因は、それぞれの都合が引き起こした結果なのです。
原因が民族的とも宗教的ともいわれているが、力による制圧は
負の連鎖を続けることになります。
アラブ中東の国に多いパターンです。
人道支援が正しい行為だと世界中から救援物資を集める。
国境の道路で足止めを余儀なくされる。
義援金も一部の官僚の懐を暖めていることは知っているのに、
慈善団体は目くじらを立てて寄付を募る。
ここにも大きな嘘が隠されている。
正しいとされるマニュアルを鵜呑みにする人は、将来AIに従うことになります。
「仏教の因果論=縁起説」
仏教以前からの善因楽果・悪因苦果の因果応報の
考え方に基づいている古代インド哲学の諸説に対して、
仏教では、直接因である因が内在するとするが、それが直接的に
果をもたらすのではなく、外在的間接因である縁と合わさること
(因縁和合)を条件としてはじめて、果が生じるとし、果がもたらされるのは
縁によることを強調する。
それ故、因縁説、縁起説とも呼ばれる。この事物・事象のあり方を説明する
縁起の思想は時代とともに発展し、十二因縁、頼耶(らや)縁起など種々の
縁起が説かれた。
また仏教では、あらゆるものごとが因・縁の和合によって生ずるとし、
ものごとに固定的な実体としての我が存在せず(無我)、実体は種々の
可能性に満ちた空であると説くので、仏教が説く因果は決定論ではない。
これは、自らの心身の行為(業)によって、自己の存在のあり方を主体的に
形成する可能性を示している。
業についての因果・縁起の思想は、今世における行いとその果報としての
苦楽にとどまらず、永遠の生命観に則って三世にわたって展開され、
輪廻とそれからの解脱に関する因果論となった。
はなはだ専門的になりすぎないように付け加えると、
全ての原因は個人から引きおこるものではなく、他人を介して起こるということです。
その他人も縁を通じて知り合うので結果は自分に返って来ます。
その上に悪縁は親子三世につながると言われ、両親が離婚すると子供達も離婚する
運命になると言われています。
両親が貧乏で借金を重ねると、結局、子供達にまで影響するのです。
現代科学でも解明できないのが「因果応報」の謎です。
「因果応報」は仏教用語で、善悪の因縁に応じて吉凶禍福の果報を受けること
という意味です。
あなたの努力が吉に変わらないのは、時節や状況を無視して思いをぶつけるだけだからです。
その為に凶運が身にまとわりつく負の連鎖に縛られるのです。
もっとおおらかに健康で暮らせることを感謝して、より謙虚に「利他」の心で他の人と
接触すれば福が舞い込んでくるのです。
「因果応報」は自分で始まり、自分で終わることを知りましょう。
10月 25th,2023
恩学 |
因果応報(原因と結果) はコメントを受け付けていません
「知る」を問う。知るとは何か?
分からなかったことが分かること。
好奇心の解決。
人生の道標を見つける。
物事の本質に触れること。
など様々な答えがある。
我々は本当に「知る」を理解しているのだろうか?
頭の中には個人個人によって納得する知識の池がある。
池のキャパシティに合わせて「知る」を溜め込んでいく。
そこから溢れ出ることはすべて無関心になる。
無関心の先には知らなくて良いという結論に達する。
「知る」というのは、どういうことだと問われたらなんと答えるか?
ある修行僧は、「自分のものにすること」だと答えていた。
「見たり聞いたりすること」という答えもあった。
見たり聞いたりしただけで、知っていると言えるかどうか疑問である。
ものごとを「理解する」という答えもありました。
その中で「広がる」という答えもあってどういう意味かなと不思議に思いました。
その修行僧はこのように説明してくれた。
たとえば、花の名前を知ると、それだけ景色が広がるのだというのです。
立てば芍薬坐れば牡丹という言葉を聞いて、かつては芍薬も牡丹もよく
分からなかったのが、その名前を知り、どんな花かを知ることによって、
世界が一層広がったと解説してくれた。
囲碁の本因坊クラスの棋士と、将棋の名人クラスの棋士とが対談した話です。
碁と将棋の神様が百として、我々はどれだけ知っているかと紙に書いて見せあった。
囲碁棋士は「6」、将棋棋士は「4か5」と書きました。
囲碁将棋界きっての天才だが、これほどまでに謙虚な気持ちの持ち主で、
「5」や「6」の壁に苦しむ求道者でもあったというものです。
囲碁のプロが「我々プロも町家の素人も大して変わらない、
誰も囲碁の真髄はわからない」と述べていたのでした。
知らないことを問う時にどのような姿勢で聞いているのだろうか?
立ったままだと言葉は聞き流れていく。
座ってメモを取ると言葉の意味を理解せずに本質を聞き逃す。
モバイルで検索して答えが出てきても知ったことにはならない。
知ったことを知識が一つ増えたと知識の池にため込んでも仕方がない。
本来教えを乞うことは真剣勝負一発の気持ちで臨むべきである。
先ずは仙骨を立てることから始めるのです。
パルテノン神殿の柱は、一本の部材ではなく、いくつもの円筒形の巨石を
積み重ねたものだというのです。
垂直に積み重ねているからまっすぐの柱になっているのです。
そのように私たちも骨盤、仙骨、肋骨がまっすぐに積み重ねるように
立つことが大事だと教わったのです。
幼児~低学年の躾の教育で3つのルールを教えます。
①挨拶のできる子になる。
②履き物を揃えられる子になる。
③背筋を伸ばして話を聴くことのできる子になる。
この3つが出来ればまともな子に育ちます。
これは保護者にも言えることです。
一般の大人は子供たちの素直な問いかけに答えることが出来るのだろうか?
例えば「死ぬとは何ですか?」という問いかけに答えることは
出来るのだろうか?
それは仏教の言葉に「生老病死」というのがあります。
皆さんは今「生きて」いますよね。
お父さんとお母さんが結婚して、
お母さんのお腹から産まれて命を授かったのです。
そして毎年歳を取り70年も生きて「老いる」のです。
足腰が弱くなり目も歯も徐々に悪くなり「病」に掛かるのです。
80歳以上になり人としての役割が終える頃に「死」が近づいて来るのです。
これが人間に課せられた運命ですから「死」は怖くはないのです。
逆に「死」とは反対の「生きる」とは何でしょうか?
アメリカの偉い学者さんが「マズローの五代欲求」というのを発表しています。
生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求です。
これが生きていく為の目標になります。
自分や家族の幸せが大切ですが、それ以上に地域社会の発展や、国の平和と安寧が
保障されなければ「生きる」が辛いものになります。
「生きるとは長い坂道を重い荷物を担いで登りゆくようなものである」
この言葉は徳川家康が残した言葉です。「生きる」とはそれほど厳しいのである。
知るとは人生の哲学的な道標を見つけることです。
人それぞれ違う人生を歩むのですが、それぞれの人生が、豊かさや貧しさの中で
どれだけ他人に貢献したかが、心の満足として得られれば「知る」が完結します。
未熟な私もまだ「知る」を追求中です。
日本女性の平均寿命が86歳で男性は83歳です。
もう少し知識の池に「知る」を溜め込められるよう頑張ります。
10月 25th,2023
恩学 |
知るということ はコメントを受け付けていません
「知る」ということを会得する為には「読む、書く、話す、繰り返す」が必要です。
噂を耳にして知っているというのは、聞いたというだけで知ってはいません。
インターネットやテレビなどで流れて来る情報は、
聴いた!見た!というだけで記憶には残りません。騒音と同じです。
目標や目的も実行が伴わなければ「願う」ということだけです。
予定を組んだとしても行動が無ければ「無いものねだりの神頼み」です。
自身の経験や達成が積み重なることにより「叶う」になっていくのです。
「叶う」という文字は希望を一つ「吐く」ことによって「叶う」のです。
「感即動」
興味があり感知した時には行動が伴わなければ「知る」機会を失います。
陽明学の「知行合一」と同じで知識と行動が伴わなければ理解したとは
言わないのである。
そして「知る」を会得したら「気づき」が起こるのです。
外部からの情報が無くても、自分自身の予知が出来るということです。
気づきは知り尽くして創造力が無ければ気づくことは出来ません。
世間でいうところの「人寄せ」は出会ったときに縁があると感じることです。
それに反応して「声掛け」をしなければ運命の人は通り過ぎます。
人の出会いは一瞬早からず 又 一瞬遅からず
出会うべき人には必ず出会う
しかし、求める気持ちが無ければ運命の人も
目の前を通り過ぎる
哲学者森信三
私は何度も若い時に偶然の出会いに恵まれました。
ジャズの伝説的な巨匠であるドラマーのエルビンジョン、
ギターリストのバーニーケッセル、シンガーのジェームステーラー&アルスティワート
など。レストランで紹介され、ジャズクラブで声かけられ、
百貨店で買い物途中に出会い、音楽キャンプで目の前に座っていた人たちです。
私が会いたいと思ったら会えたのです。
勿論、英国に行かなければ、そんな偶然も起こりません。
憧れの人に会いたければ、その人の近くへたどり着かなければなりません。
会おうとする行動があれば、会えなくても気持ちの上では、出会ったと同じような
満足感が生まれるのです。
禅門には「冷暖自知(れいだんじち)」という言葉があります。
自身が直接的に冷たい、暖かいということを体験し、実感する。
また、その体験した実のところは他者に伝えることができない」
という意味です。
例えば、ここに冷蔵庫で冷やされた水と40℃のお湯をお湯のみに入れて
二人の方の前に出したと致します。
それを眺めながら、「こっちがお湯で、あっちが冷水」
いや「こっちが冷水で、あっちがお湯だ」と互いが互いに検証し合ったところで
無駄に時間が過ぎてしまうだけでしょう。
理屈で証明できないことはありませんが、明確でしかも早いのは
それぞれのお湯のみの中身を飲んでしまうことではないでしょうか。
一口飲めば、冷水かお湯かは人から面倒な理屈で説明されるまでもなく、
どのくらい冷たい水なのか、どのくらい温かいお湯なのかを、
私自身が実感を伴って知り得るのです。
人からどんなに事細かにお茶の温度を教えられたとしても、
実感を伴って私自身が知り得ることはありません。
この実感を伴って知り得ることが大切なのであります。
また、「冷暖自知」だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、
そのとき一所懸命に実感を伴って知り得ようとする姿勢であり続ける
ことが大切なのであります。
気安く知り得ていると思い込まない。謙虚に知り得ようとする姿勢で
あり続けることで、より様々な体験・経験を積み重ね、気づき、
当たり前のことが実は有ることが難しいこと、すなわち有り難いことに気づいていく。
そうなりますと、今まで見えていた風景も違ってくるのではないでしょうか。
ある寺の禅僧が毎月お参りに伺うご高齢のお檀家さんがいらっしゃいました。
そのお檀家さんとの何気ない会話の中で「80歳は80歳なりの、
90歳は90歳にならなければ知り得ないところがある」といわれました。
若かったときの様々な苦労や楽しかったことを積み重ね、
そして今、身体の老いや親しい友人がいなくなるといった様々な苦しみや
寂しさを味わっている中だからこそ、あのときは見えなかったものが、
今では少し見えてくるようになり、目に見える風景も随分と変化するものだと
教えて下さいました。実際にその通りなのです。
自らが自らの体験・経験によって実感として知り、気づき、会得することが
「禅」では大切であります。
だからこそ、安易に知り得ていると思い込まず、
私自身が知り得ようとする姿勢であり続けることが肝要であります。
それが「知るということ」ではないでしょうか。
「知る」を邪魔するのは好奇心の欠如です。
そんなこと知ってもこの年じゃ時間の無駄だし何の役にも立たないと言っては
駄目ですよ。あなた自身の心から興味を消しては生きる張り合いが無くなります。
好奇心はあなたの自らの気持ちから生まれて来るもので、
悦びの興奮は他人から薦められるものではありません。
「知る」の意味は皆さまもよくご存じのとおりで、触ってみなければ熱さ冷たさも
分かりませんよ。実感が伴わなければ「知った」とは言わないのです。
「恩学」は私の実体験をもとに書き続けています。
様々な人生を歩いてきた中で「恩に始まり恩に終わる」を実感したからです。
今更ながら、私自身、知識としてだけでなく、体得し、活かすことが「知る」
ことの大切なところだと気づく次第です。
現代は新聞や雑誌、テレビにインターネット等、様々なメディアによって、
自分が知りたいことを数多の情報より簡単に素早く知り得ることができますが、
私たち自身は果たしてどれだけ実感を持って知り得ているといえるのでしょうか?
又、疑うことなく、整理することなく、一方的に送られてくる情報を
信じる必要はありません。
メディアは知りたくないことまでも伝えてきます。
必要でない情報はただの騒音と同じです。
早くその場を通り過ぎてください。
思考の先回りは価値観を早く見極めることが重要です。
嘘を見破るのも思考の先回りで気づいてください。
10月 21st,2023
恩学 |
思考の先回り はコメントを受け付けていません
6歳の時父親に引き取られてから一時お寺に預けられました。
ある日の夜に住職と奥様が話されているのを聞いてしまいました。
住職「あの子の親はいつ引き取りに来るのだ」「早く出て行ってもらってくれ」
奥様「可哀そうな家の子だから親が引き取りに来るまで預かりましょうよ」
そこに娘たちも加わり「汚いから嫌いだ」と言われました。
子供心に肩身の狭い思いなのかで自ら率先して本堂の掃除や廊下の拭き掃除、
庭の掃き掃除もしていたのですが、これが自分に課せられた運命なのだと思うことで
悲しくありませんでした。
辛かったのは寝泊りする部屋がお墓の近くで、外の物音も、部屋の掛け軸も、
恐ろしくて、毎夜、早く夜が明けるのを待ち続けたことです。
傍目にはかわいそうな子だと映るのかもしれませんが、
当人にすれば仕方ないと諦めているのでつらくも悲しくもありません。
赤ん坊は母親の子宮から狭い産道を通り生まれて来る。
その時に分娩室の照明や看護師さんの声や、それまで母親と栄養を分け合っていた
臍の緒をいきなり切られる地獄を味わうのです。
だから怖い幼児体験が5~6歳まで続くので、苛酷な状況でも、
子供は気にせず生きられるのだと本で読んだ記憶があります。
私の負けず嫌いと闘争心はこのような環境があったからこそ作られたのです。
たまたま同じような内容をサイトで見つけました。
参考にして読んでみてください。
年末に近隣のお寺に手伝いに行った時のことです。そのお寺の住職は高齢ですが
お元気で、今でも庭木の手入れをご自分でされています。
作業をしていると、ひょっこりと小学生らしき男の子がやって来ました。
近くに住んでいるそうで、以前にも来たことがあり、その時に住職から
「また来て、庭の手入れの手伝いをしてくれ」と誘われていたそうです。
住職は喜んでいる様子でした。少し手伝ってもらってから、休憩時間になったので
軒下のベンチに三人で座り、しばらく雑談をしました。
すると話をしていく中で、男の子が二歳の時に父親を亡くしていること、
住宅メーカーに勤める母親との二人暮らしであることが分かりました。
私はその話を聞いて、男の子は寂しい思いを抱えているのでないか、生活する上で
色々な不都合があるのではないだろうか、と深刻に受け止めてしまい、
どう接していいか分からなくなってしまいました。
しかし住職はそれまでと全く変わらない様子で、和やかにこのような
お話をされました。「手伝いに来て偉い。言われたことを一生懸命にやっているのも
すばらしい。お母さんが頑張って働く姿を見ているからだろうな。
あなたはお父さんがいる友達を羨ましく感じることもあるかもしれないが、
この庭を見てごらん。木や草は種類が違うと姿が違う。同じ肥料を与えても、
真っ直ぐ育つやつもいれば、横に育つやつもいる。
あなたは身体が大きいけれど、身体が小さい友達もいる。
足が速い人や、勉強が苦手な人もいる。
違いがあるのが自然で、同じであるのが不自然なんだよ。
他の人と比べることは大切ではないんだ。自分を大切にして、自分がこれだと
決めたことを頑張ることが大事なんだよ。」 男の子は真剣に話を聴き終えると、
嬉しそうにうなずいていました。住職と男の子の交流を見ながら私は、
自分の未熟さを感じていました。自分は比較ばかりしていることに気付かされました。
男の子の家庭環境に対しても、他の子供と比較し、どちらが良いのかという
視点からしか捉えていませんでした。たとえ平等に恵みを受けたとしても、
草木は種類が違えば姿かたちは変わってきます。
鈴木大拙が説く「松は松なりに竹は竹なりに生きていく。松は竹にならず、
竹は松にならずに、自分が主人となって働くのである。」の
真意はここにあるのでしょう。
私は、男の子にとってお父さんがいないことがマイナスだと捉えてしまいました。
しかしそういった環境で過ごすからこそ、お母さんが頑張っている姿を目にし、
見習って一生懸命頑張ることができる。
こう考えることができれば、とても気持ちが前向きで、明るくなるように思えます。
大拙と同じ時代を生きた詩人の金子みすゞさんの作品に、
『私と小鳥と鈴と』という詩があります。
私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のようにたくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。
自分の尊さを噛み締め、そのままの自分を生きていきたいものです
如何だったでしょうか?
そのままを生きるとはつまらない見栄を張って嘘をつくから辛いのであって
そのままを受け入れればストレスも無く快適に暮らしていけるのです。
他人と比べるのでは無く、自分と比べるのです。
あの時の約束は守られているか?昨日より今日は元気に過ごせたか?
明日からも自分の成長のために生きることが出来るのか?
偽りのないそのままの自分を貫き通すことが出来るのか?です。
決して他人の不幸を自分の尺度や常識で判断しないことです。
大切なことは相手がどのような環境であっても不幸だと決めつけないことです。
そのためにも分け隔てなく自然にお付き合いすることが幸福につながります。
そのままを生きていきましょう。それが一番なのです。
10月 21st,2023
恩学 |
そのままを生きる はコメントを受け付けていません
新しい事業を始める時大切なことがあります。
基本的には5つの決めごとです。
①目的を明確にする。
②時間計画をする。
③世の中の為になるか。
④後続にバトンを渡せるか。
⑤自己満足が得られるか。
①目的を明確にする。
市場規模、競合他社、独自性をスタッフと話し合う。
組織が小さくても「M・V・V」を作ることが大切である。
②時間計画をする。
1年後、3年後、5年後の状態を書き出す。
ゴールが分かれば進みやすくなる。
③世の中の為になるか。
「三方良し」の定義に合うか?
自社もお客様も地域も良くなるか検討する。
④後続にバトンを渡せるか。
ビジネスモデルとして確立して誰でも使えるようにする。
ビジネス先願権や使用権で縛る必要はない。
⑤自己満足が得られるか。
それぞれの承認欲求と自己実現が両立するするのか。
基本は「利他心」の気持ちを持ち続けることが出来るかが大切です。
中小企業の中には事業計画も無いところが多々あります。
今の状況で頑張っていればいつかは利益が出ると信じているからです。
絶対に「信じること」と「目標達成の願い」ははっきりと区分けすべきです。
中国の諺に「計画なくして成功なし。水槽より大きく魚はなれない。」
事業計画は水槽です。そこで働く従業員が魚です。
従業員を大きくするのも小さいままにするのも事業計画ですよ。
ビジネスを1枚の紙で表現する時に、この4つの枠組みに落とし込むことが重要です。
Rリソース(自社の持っている魅力は何か)
Sスポンサー(応援者は誰か)
CRSカスタマーリ・レーション・シップ(お客様とのリレーションをどう取るか)
Vバリュー(社会的に有意義な事か)
その事業計画を会社としてのスローガンとして壁に貼りだすのです。
仕事はすべて「S・S・L」スピード・シンプル・ロジカルで組み立てるのです。
スピードを持って取り組む。シンプルに考える。論理的に説明する。
小さな会社だからこそスローガンが活きて来るのです。
個人的な願いは当然、叶えることが目的にあるのですから、そこに向かって進んで
ゆくことになりますが、その願いが一旦成就されると、その歩みはそこで止まって
しまいます。
目的地を設定している以上は、目的地に到達してしまうと、
当然、その旅路はそこで終わりとなります。
禅門にこのようなことが書かれています。願いがあったということは、
もともとそこには何かしらの理由や思いというものがあったはずです。
しかし、目的地に到達することしか意識しないようになると、目的地に到達した瞬間、
その出発点や道中にあったものは、どうしても忘れ去られてしまいます。
無心の願いとは、それを嫌っているのです。
ゆえに禅では目的地を設定しません。目的地に到達することよりも、
その歩みそのものが重要なのであって、且つ願いとその道程は
不可分であるというのです。
山登りをして頂上に到達したとしても、その道中がなかったことにはなりませんし、
帰りの下山がないことにはなりません。
無心の願いは、たとえ願いが成就してもその歩みを止めることはありません。
成就してなお、その願いは自分の中に生き続けます。
願いの叶う叶わないを超越するとは、その成就に固執してしまい、
人生の本質を見失ってしまうことを忌避することを意味しています。
これを鈴木大拙は「成就することのない永遠の願い」と言うのです。
私たちの人生を鑑みてみると、子供から大人になる過程で、高校受験や
大学受験を目標に勉強することもあるでしょう。では、晴れて受験に合格して
入学できたらそれで終わりかというと、もちろん違います。
入学のあとの卒業や就職が最終目標かというと、これももちろん違います。
人生とは、終わりのない道のりです。限定的な目的や低い目標は自分の限界を
決めてしまいます。自分の限界を決めるとそこで成長は止まってしまいます。
鈴木大拙は続けます。
どうしても手の届かぬところのあるものが「祈り」なのです。
(中略)いくらやっても駄目だから、よそうというような祈りでは、
限りある世界でこそ意味あるかもしれぬが、駄目なものをくり返し、
くり返しやる心、その心は実に、弥陀の本願の世界に生きているものでないとわからぬ。
(鈴木大拙『無心ということ』)
ここでは、阿弥陀如来の本願になぞらえて、その「祈り」の世界を説明しています。
「祈り」の世界とは、他でもない私たちが住むこの世界のことです。
永遠の願いを持つことができたのなら、この世界はそのままで極楽浄土となるのです。
この極楽浄土とは人の生き方そのものを表しています。
終わりのない願いこそが本当の「願い」。マグロやカツオは常に泳いでいないと、
酸欠によって死んでしまいます。馬は常に走っていないと、血流が止まって
死んでしまいます。私たちの人生における願いというものも、
それと同じなのかもしれません
ビジネスは「願いと祈り」だけでは成立しません。
しかし、多くの困難な中で「願いと祈り」があるから救われるのです。
しっかりとした事業計画があるからこそ、常に願いを取り込んで、
働く人たちと気持ちを一つにして前に進んで行くのです。
ふと時間のある時に「自分の願い」は何だろうかと考えるのも大切ですよ。
人生が見えやすくなります。
10月 21st,2023
恩学 |
願いと祈り(事業編) はコメントを受け付けていません
一般的に使われる「見せる」は商品の見本や説明書などを紹介する時に、
「何何をお見せしましょうか」と差し出す時に使われる言葉です。
「見る」はあまり何も意識せずに視点を移すだけです。
ブランド商品を扱う店のショーウィンドウは華やかな中に、コンセプトメッセージが
込められています。今年のトレンドはこれです。乗り遅れる前にお買い上げください。
ご存知ですか?ファッション業界のトレンドは2年前に作られるのです。
イタリアのプッティーオモやパリコレ、ニューヨークコレクションで発表された作品は、
2年後に市場に出されるのです。
今年の新商品と言いながら実は新鮮な商品ではないということです。
音楽プロデューサーはアーティストを紹介する時に「魅せる」を意識します。
ただ紹介をするのではなく内面の魅力を全面に出して引き寄せることを意識します。
新人の場合は内面の才能を表に出すことが出来ないので、プロデューサーがフォローして
取材する方々をその気にさせます。
今は原石の石ころに見えるが将来光輝くダイヤモンドになるから、応援するのは
今ですよと誘い込みます。
私は音楽紹介の誌面を独占している時期があり、多くの同業者から妬みに近い
批判がありました。アーティストを「魅せる」紹介が得意だったのです。
『魅せる』を知る
言葉の意味だけで言うと、見せる=分かるように示す、魅せる=好ましい印象を
抱かせるこのようになりますが、もっとビジネス寄りに解釈すると、見せる = 情報の
提供魅せる = 感動の提供になります。
これらを念頭に、ご自分でビジネスをされている人に考えてもらいたいのは、
ご自分が売っている商品やサービスをお客様に対して『見せて』いたのか、
『魅せて』いたのかということです。
歌舞伎では「見得を切る」という表現があります。
感情の高まりなどを表現するために、演技の途中で一瞬ポーズをつくって静止する
演技をさし、その人物をクローズアップさせる効果があります。
多くの場合、「見得」の瞬間には「ツケ」が打たれます。
「立役」を中心に行なわれますが、役柄や作品の内容によって表現は異なります。
荒事(あらごと)の役では、より効果的に見せるために、直前に大きく首を振ったり、
足を大きく踏み出したり、手を大きく広げたりする動作を伴います。
また若衆役(わかしゅやく)や「世話物(せわもの)」の役では、
あごを引く程度の小さな動きで表現します。
慣用句として使用される「大見得(おおみえ)を切る」[自信たっぷりに装い、
大げさな言動をとる]という言葉は、歌舞伎からきています。
この他にも名称のついた「見得」は、いくつか存在します。
「魅せる」(みせる)とは、他人に対して何かを見せる行為、またはその結果を指す
言葉である。他人の注意を引き、感動や興奮を引き起こすことを目的としている。
例えば、芸術家が作品を展示する行為、料理人が料理の技術を披露する行為、
企業が新製品を公開する行為などがこれに該当する。
また、自身の能力や魅力を他人に認識させるために行う行為も「魅せる」と
表現されることがある。現代では、SNSなどのインターネット上で自己表現を行い、
他人に自身の生活や価値観を「魅せる」ことも一般的である。
「花看半開 酒飲微醺」 (菜根譚)
花は半開を看(み) 酒は微醺(びくん)を飲む
大いに佳趣あり。若し爛漫・(もうとう)に至らば、
便ち悪境を成す。盈満(えいまん)を履(ふ)む者、宜しく、之を思うべし。・・
世間の人は一般に花は満開が一番見ごろで美しいものだと思われがちである。
まさに満開の花の美しさは感動を覚えることさえあるから美しいと思い込む
のは当然である。だが、その満開の花より半開こそ見ごろであり、
本当に生き生きとした美しさを感じさせるし、奥ゆかしさがあり、
却(かえ)って趣きを感じさせるものだ。
ここに「花は半開を看る」の語を味わいたいものである。
そしてまた、酒も十二分に飲む勿(なかれ)であり、ほんのりほろ酔い加減がいいのである。
あまり飲みすぎ、酔いつぶれてしまうのは
邪道であり、風流も解せない人であると言えよう。
酒は味わい深く飲みたいものだ。ここに「酒は微醺(びくん)を飲む」の消息がある。
このように何事においても斯(か)くのごとくで、すべてが満点、十分であるより、
ほどほどのところで満足し、分を知ることでもある。
徒然草の吉田兼好は「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは・・
すべて何もみなことのととのほりたるあしきことなり」といっている。
つまり、花と云うのは何も満開の盛りだけ鑑賞するものではなく、月も雲もなく
皓々として照り輝いている夜だけを眺めるものではない。
むしろ雨の降る夜に隠れている月を思い、満開の花より、まだこれから咲こうという
梢を見上げたり、或いはすっかり散ってしまった庭をしみじみ眺めるのも
味わい深いものである。
「よろずのことははじめ終わりこそおかしけれ」と云い、そのような見方が出来る人こそ
真の教養人、つまり奥ゆかしい品性の持ち主なんだといっているのだ。
満開の花は誰が見ても美しいと感じられることだろう。しかし、これから咲く花、
あるいは散ってしまった花を想像力で心の中に美しい花を咲かせ、
趣を感じ得るのはそれなりの教養が必要なんだと兼好は言っているのである。
これがさらにわび寂びの美意識につながるのだ
如何だったでしょうか?
「見せる」と「魅せる」の違いが分かりましたか?
漢字の意味は深いですよね。また日本人の感性の素晴らしさも理解できましたか?
10月 20th,2023
恩学 |
見せると魅せる はコメントを受け付けていません
以前、演劇集団の役者さんから感動とは何ですかという質問がありました。
個々の感性が揺れ動くことを「感動」と言います。
相手が送る演技や音に自分が反応してドキッとすることです。
それは無意識に心の中で求めていた感情が目の前に現れた時に高揚する感覚です。
本居宣長が感動は「もののあはれを知る」と言っています。
人は嬉しいときや悲しいときに、心が揺れ動きます。その心が感極まった時には、
「あぁ」というため息が漏れます。この「あぁ」が「あはれ」です。
「あはれ」というのは、もと、見るもの聞くもの触る事に、心が感じて出る
歎息(なげき)の声にて、今の俗言で(ゆおのことば)にも、「ああ」といひ、
「はれ」といふ、これなり」つまり「人間の心の動きを感じる、知る」という
意味になります。と書かれていました。
また「啐啄同時」(そったくどうじ)という言葉があります。
親鳥が卵の中の雛鳥にもうそろそろ出ておいでの合図で殻の一部を叩きます。
雛鳥もそれに合わせて内側から同じ箇所を口ばしで突きます。
2匹の呼吸と求める気持ちが合わなければ産まれることはないのです。
それと同じように送り手と受け手が同じ呼吸になる時に感動が起こるのです。
「とんとんとんとん」と送り手が殻をたたけば、受け手の人たちも
「とんとんとんとん」と返して大きな感動を味わっていくのです。
あなたはどのような場面で感動しますか?
①素晴らしい音楽を聴いた時
➁素晴らしいお芝居を見た時
③素晴らしい景色を見た時
④生き別れた家族が出会う場面を見た時
⑤小さな動物が車に撥ねられそれを助けた人を見た時
⑥爆撃後の瓦礫の中でピアノを弾いているアーティストを見た時
人それぞれですがきっとあなたの前世の記憶が反応したのだと思います。
舞台の上で感性を鍛える方法があります。
それは送り手も受けても同じです。
<イメージの世界をより具体的に想像することが出来るか?>
①空気をつかむ(周りの気持ちを理解する)
➁状況を把握する(今の反応を見る)
③方向性を決める(やり方の決断)
④直感が出せるか(先を予測する)
そして<歓喜の場面が見えるか>のイメージトレーニングが必要になる。
これらを具体的にメモに残して自分流の感性を作るのです。
直感を鍛えるにはどうすれば良いのか?
私は他のプロデューサーより圧倒的に情報量があった。
どんな時にも時間を見つけては必ず行くところがある。
本屋と映画館とレストランである。
①本屋で山積みの本を手当たり次第に購入して読んだ。
➁話題になっている映画は必ず見た。
③現在活躍している人には出来る限り会った。
④トレンドスポットになっているレストランへ通った。
⑤大事な情報を確かめるために国内外を問わず出かけて目で確かめた。
直感は情報の中から生まれることを誰も知らない。
直感は思いつきではないのに感性を頼りにしてしまう。
感性は育った環境で育まれることが多く、好き嫌いに起因している場合が多い。
その為に、真逆の人たちからは敬遠される。
ヒットプロデューサーになるためには直観を鍛えなければならない。
その為には真実の情報量を貯めこまなければなりません。
バランス感覚を鍛える。
陰陽、清濁、正悪などの二面性がある方がダイナミックに表現することが出来る。
欠点は悪いものだと決めつけて、欠点を取り除こうとして「常識」という除草剤を使う。
欠点も長所を補う必要があるために取り除く必要はないのである。
世の中の間違いは欠点を全て取り除くことを「進化」と勘違いしていることである。
人間の感情を狭めることは人間性の「退化」であり進化とは言わない。
歌舞伎や能楽や雅楽などの演奏に使われる手法「序破急」があります。
スタートは、ばらばらに始まり、徐々に音が合い、勢いが出てきて最後に音がまとまる。
この流れコンピューターには絶対作れない演奏家同士のバランス感覚と呼吸感である。
世界中の民族音楽を現地で聴くとほとんどが「序破急」の流れになっている。
おおむね演奏は、伴奏楽器から始まり、打楽器が加わり、弦楽器も加わり、
声が(奇声)加わり、神がかり的な恍惚感で絶頂を迎えます。
好きを整理する。
アーティストを好きになるけれど盲目の恋では意味がない。
欠点をとらえて長所を伸ばすには冷めていた方が良いからである。
舞台も理想(好き)の舞台を描くが予算の都合で叶わなかった場合には、
次のためにデーターにして心に留め置いておく。
いつでも悔しさは次の好きをやるバネとして捉えれば良いのである。
惚れた人の前では周りが見えなくなると言われます。
プロデューサーはどのような場合にも周りを見る必要があるのです。
惚れることを客観的に判断できなければ一流にはなれないのです。
感動を作るには、「情報量」と「経験」と「察知力」と瞬時の「表現力」が必要です。
それ以上に日ごろから「人間力」を鍛えて感情の機微を捉える力が必要です。
雨の日は雨の表現が、晴れの日には晴れの表現が、悲しい時には悲しい表現が
嬉しい時には嬉しい表現が、苛立つときには苛立つ表現が出せるかです。
そして良い意味での「裏切り」がプロの仕事です。
これだからこうだろうと思っている予定調和のときに、まったく違う表現を
出すことにより大きな感動が生まれることを知るべきです。
『感じる心が正常に機能していれば、人間は人として誤った方向には傾かない』
『ピカソのように、歳をとってもどんどんスタイルを変えながら生涯現役であることは、
作家としての一つの理想』ワクワクドキドキしながら生き抜くことです。
先ずは日常の生活から感動を見つけてください。
そして感動を作るタイミングを図ってください。
感動を出し惜しみしないで他人に伝えてください。
感動に敏感になると世界が違って見えます。
10月 20th,2023
恩学 |
感動を作る はコメントを受け付けていません
友人から京都の老舗料理屋「菊乃井」のご主人村田吉弘さんの
インタビュー画像「味道」が送られて来たので観ることが出来ました。
村田さんは、開口一番に料理は作り手側の「人間力」と言われたのが印象に残りました。
日本料理を世界に広めたいという目的に向かうためには人間力が必要と力説している。
私もこの「人間力」という言葉をよく使うのですが、
エンタテインメントの世界にいる人は必要不可欠な力だと思っています。
人間力のない人の作る作品は絶対に感動が生まれません。
一)基本は「利他心」の心を持って他人を思いやることができるか
二)その人の望んでいる喜びは何かという「想像力」があるか
三)自分の音楽や、絵画や、言葉にどれほどの「影響力」があるか
四)自分の悩みを見せずに相手を笑顔にさせる「包容力」はあるのか
五)現状に満足せずに次なる挑戦の為の「学習力」を持っているか
六)同じ夢を語れる友達と「使命感」を持つことができるか
通常「人間力」という言葉を使う時にはビジネスでのシーンが多いように思います。
「人間力」が何を意味するのかは、内閣府の人間力戦略研究所によって明確に
定義されています。「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として
力強く生きていくための総合的な力」であると明確に定義されていて、
「知的能力的要素」「社会・対人関係力的要素」「自己制御的要素」の
3つで構成されるものとされています。
目標を達成するために周りに働きかけ、巻き込みながら物事を先に進める力のこと。
文字通り、人に対して何らかのプラスの影響を発揮し、
周囲に「あの人の言うことならば聞こう」と思わせられる人を、
「人間力がある」と評するケースが多いようです。
ただ、対人影響力は単一のものではなく、さまざまなスキルで構成されています。
例えば、熱意をもって相手を説得する力、論理的に筋道を立てて物事を説明する力、
明確な目的を示し巻き込む力など。
周りに影響力を与えるには「相手を知る」ことも必要なので、豊かな感受性や観察力、
洞察力なども構成スキルの一つです。
目的を達成しようとする信念があり、困難な環境でも揺らぐことなく
突き進める力のこと。
「あの人に任せておけば安心」「あの人は肝が据わっていて揺るがないから
付いていきたい」と周りに思わせられる人も、「人間力がある」と言われることが
多いようです。
こちらも対人影響力と同様、さまざまなスキルで構成されています。
高いストレス耐性、ポジティブシンキングのほか、困難時にストレスをやり過ごせる
鈍感力、目的を持って臨み続ける意味づけ力、目的をぶらさず遂行する力なども
当てはまります。
また、禅の世界では「悟りの4つの型」として紹介されています。
臨済禅師の語録である『臨済録』には、「四料揀」と呼ばれる独自の教えがある。
師、晩参、衆に示して曰く、「有る時は奪人不奪境、有る時は奪境不奪人、
有る時は人境倶奪、有る時は人境倶不奪」。
と原文には簡潔に臨済禅師の言葉が記されている。
4つの料揀だが、料ははかること、揀は選ぶこと、4つの悟りの型といっていい。
臨済禅師の教えの一つに、「随処に主と作る」というのがある。
どんなところでも自らの主体性を持てという意である。
主体性を実際にどうはたらかせてゆくか、そこに四通りの型を臨済禅師は
説かれたのだと受け止めている。
教学的には難しい問題である。そもそもこの「四料揀」自体が、
臨済禅師が直接説かれたものでなく、後世に付けられたという説もある。
しかしながら、ここでは、あまり難しく詮索するよりも、
お互いの人生を歩んで行く道において、そのよすがになるものとして学んでみたい。
あえて人間学的に学んでみようと試みる。
要は人と境との関わり合いに4通りがあるということだ。
人とは主観であり、境とは客観である。人は自分であり、境は外の世界だ。
お互いの生活はこの人と境との入り組みにすぎない。
自分と外の世界との関わり合いしか、ありはしない。
その自分と外の世界との関係を臨済禅師は4つに分けられたのだ。
第一の「奪人不奪境」とは主体を奪い、客体を奪わないという。
自分が無くなって外の世界だけになり切ることだ。
第二の「奪境不奪人」とは客体を奪い、主体を奪わない、
外の世界が無くなり自分だけになることだ。この時、自分だけの天下になる。
第三の「人境倶奪」とは主体も客体もともに奪う。
自分も外の世界もともに無くなるのである。
第四の「人境倶不奪」とは、主体と客体ともに奪わない、
自分も外の世界もそれぞれが思うがまま自由に振る舞うのである。
臨済宗円覚寺派管長・横田南嶺老師による「禅語に学ぶ」より
政治の世界でも人間力は尊ばれる。
第68代目内閣総理大臣大平正芳氏の言葉に「任怨分謗」というのがある。
「任怨」とは「何か思い切った新しい仕事をやる時には、
きまってだれかの怨みをかう。だが、そうした怨をいちいち気にしていたのでは、
とても新規事業はやりとげられない。敢えてその怨を受けよ。
誹謗中傷の火の粉を恐れるな。」の意味です。
「分謗」とは、「いったん志をともにした以上は、一心同体となって
その怨を分けて受ける気概がなければならない。」という意味だとか。
この言葉、今の政治家の皆さん胸に刻んでいただきたい。政治家が口にする信条に
『責任と覚悟と威厳』があった時代の名残。
昔の政治家は人間力が無ければ選ばれなかったのです。
「人間力」とは内と外の精神のバランスを言うのかもしれない。
そしてそこに重要なのは「決断力」があるということです。
10月 16th,2023
恩学 |
人間力 はコメントを受け付けていません