余分な知識Ⅱ

 

車道に出て手を上げればタクシーは停まる。
フォークとナイフをもてば食事は出来る。
ポケットに小銭があればジュースは飲める。
携帯電話からでも音楽は聞ける。

それなのに、

乗るタクシーの運転手が良い人か悪い人なんか考える必要はない。
出されたフォークやナイフの素材が気になっても仕方ないことである。
買ったジュースの成分が人体に及ぼす害なんか考える必要はない。
最新の携帯の音が良いとか悪いとかどうでも良いことである。

具体的に必要なものを、必要な部分だけ利用すれば良いのである。

いつも不必要な情報に惑わされて不安にかられる必要がどこにあるのか。
今、何をするために、何が必要で、何があるか、だけを考えて動けば良いのである。

暇な学者が無駄な知識を振りかざして価値の無い正論を吐く。
暇な医者が健康な人に嘘の情報を流して不安をあおり惑わせる。
暇な都会人が安全な場所から平和や原発反対を叫ぶ。

それらをマスコミが取り上げて事件のように報道するから誤解が始まる。

時代の先を読むことは政治家よりも科学者や哲学者に任せれば良い。
病気になればなった時に医者に頼るしか無く、
犯罪が起こればその時は警察に頼めば良いのである。

わざわざ悩みの種を見つけ出して取り越し苦労をする必要はないのである。

それよりも我々は日々正しく「生きる」ことを考えなければならない。
正しく生きるとは欲に囚われずに自分の「使命」を全うする事である。

使命とはこの世の中で何が自分にできるかを熟慮して貫くことである。

たんに収入を得る為の労働は使命ではない。
労働で得た技術を世の中の役に立つように使う事が使命である。

貪欲・瞋恚・愚痴の三毒に犯されて地位や名誉や財産だけを手に入れようとせず、
今の自分の立ち位置を明確にして人としての「志」の道筋を作らなければならない。

その「志」を失わない為にも金言を胸に秘めなければならない。

坂村真民「鳥は飛ばねばならぬ」

鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ
怒とうの海を
飛びゆく鳥のように
人は混沌の世に
生きねばならぬ

鳥は本能的に
暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを
知っている
そのように人も
一寸先は
闇では無く
光であることを
知らねばならぬ

新しい年を迎えた日の朝
わたしに与えられた命題
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ

人間も鳥も厳しい現実を知りどの様な状況も乗り越えなければならない。
混乱の先には闇では無く光があることを知り希望を持たねばならぬ。

画一された社会の中で生きる原理原則を知っていれば動揺などする事はない。
生老病死の四苦を身にまとい一生過ごすのである。

余分な知識でじたばたしても何も始まらない。
他人の情報で惑わされても何も起こらない。
シンプルに人生を組み立てれば悩みなど起こらないのである。

原理原則を知っていれば少しの風にも揺れ動かないのである。

少しの風、それが貴方を惑わす余分な知識なのです。

 

余分な知識Ⅰ

 

音楽の勉強をする。

楽典に始まり、作曲の方法、楽器の練習、表現方法、録音技術まで学んで卒業をする。
しかし全て知識として音の事を学ぶのだが音を楽しむ方法は教えてもらえない。
技術を高める事だけに集中して、聞く側の心理を学ばないからである。

聞く側はその時々の感性で音を楽しんでいる事を知らねばならない。

音楽のプロになる。

演奏家として作曲家として歌手として学んだことが実践に役立たない。
正しいと言われた事を忠実に守っているのだが誰も振り向かない。
音の組み立て方が悪いのか音の質が悪いのか答えが見つからない。

自分の主張だけに意識が集中して他人の気持ちから外れるからである。

知識の使い方に囚われる。

一流の音楽家の書物を読み漁って勉強をするが成果がみられない。
どのような知識も無駄では無いが知識を盲信するから無駄になる。
一つの方向に進むべきことが決まったら不要な知識は捨てるべきなのだ。

感動させることが出来ないのは余分な知識が行く手を遮るからである。

音楽を紹介する。

表現する音楽は好きな音楽か・良い音楽か・売れる音楽かを知る事である。
選んだ音楽の方向性が決まったら、それに沿って修練しなければ成果は得られない。

好きな音楽は趣味で楽しめば良いのである。
良い音楽はひたすら技術の習得に励めば良いのである。
売れる音楽は聴衆の心を知り尽くせば良いのである。

しかし一度に三つのカテゴリーを手に入れる事は不可能である。

知識の使い方

いつも悩みを抱えている人は知識から必要な道具を取り出せない人である。
大きな道具箱を抱えていても必要な道具を取り出せなければ道具箱は無用の長物である。
目的に応じた決断と選択が必要である。

その時(Time)に合わせた、その場所(Place)を見て、その目的(Object)を理解しなければならない。
それが物事を考える上での基本であるTPOである。

完璧な譜面を書いたとしても熟練した演奏家がいなければ再現は出来ない。
演奏する会場のコンディションを知らなければ聴衆を感動させることが出来ない。
会場に優秀なスタッフがいなければ運営を任せることは出来ない。

演奏家はそのような無駄な道具を幾ら取り出しても意味がないことを知るべきである。
絶対に必要な事は自分の演奏力から生まれる自信と感動を作るテクニックである。

余分な知識は一切捨て去り演奏に集中する事が重要である。
常に自分が一番必要な道具であることを認識する必要がある。

あなたは人生の道具箱から必要な道具を見つけられるタイプですか。

繁雑に取り入れた知識を整理することが出来ますか。

余分な知識は捨て去るべきなのです。

 

陰翳礼讃

 

沈思黙考日陰から生まれ放蕩快楽は陽向から生まれる。

日本人は陰の文化を追求した世界でも稀なる唯一の民族である。

総じて東洋人は己の置かれた境遇の中に満足を求め、
現状に甘んじようとする風潮があるので、
暗いと云う事に不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、
光線が乏しいのなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、
その中に自からの美を発見する傾向がある。「陰翳礼讃」谷崎潤一郎より引用

日本人はその薄暗い暗闇から侘び寂びの精神文化を形成してきた。

徒然草の歌の中にも「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情け深し」というのがある。

満開よりも散り際の方が、晴天よりも雨雲に隠れた月の方が情緒があって素敵だという。

西洋人のようにはっきりと華やかに見えるものに価値を置くのではなく、
我々日本人はあえて見えない部分のぼんやりとした姿に風情を感じてしまう。

日本家屋において客を迎い入れる床の間の考えかたも一種独特である。

家屋の北側に面した書院の隣の陽の当らない部屋に床の間を設けて掛け軸や置物や飾り花を活ける。

しかしそれらの軸や花もそれ自体が装飾の役をしているよりも陰翳に深みを添える方が主になっている。

床の間の部屋には光を直接取り込むのではなく、
庇や障子であえて光を屈折させて取り込むのである。

その為に日本人の思考にこの様な考え方が存在する。

貧しい時の友情は長く続くが経済的に恵まれている時の友情は長く続かない。
不況の時に生まれた文化は長く続くが豊かな時に生まれた文化は長く続かない。
死を共にした仲間とは一生付き合えるが快楽だけを共にした仲間とは直ぐに縁が切れる。
貧しい時の思考は複雑に判断するが豊かな時の思考は単純に判断を下す。

全てにおいて陰翳を基準にして陰に重きを置いているかが分かる。

侘び寂び文化の第一人者は茶人千利休である。

彼はわざわざ掃き清めた庭に紅葉の木を揺らして葉を散らしてみたり、
満開に咲いた朝顔の花を全部切り取り一輪だけ床の間に活ける。
四畳半の茶室をさらに狭めて3畳・2畳にまでしてしまう。

利休は敢えて華やかさや贅沢を排除して質素簡素化に究極を求めたのである。

また茶の作法である一つの椀で飲みまわす行為は、もともと禅宗の儀式から始まった世界である。
そして茶室は禅修行者が会合して討論し黙想するための道場であった。

茶道の心髄は「美をみいださんがために美をかくす術であり、
現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である」茶の本岡倉天心より引用

現代のように長く不況が続いた時代は「陰の文化」が見直される時代でもある。
外面よりも内面、デザインより技術、集団より個人が見直され時代なのである。

この時代は陰翳と静寂を好む日本人が活躍する時代でもある。

しっかりと肝に銘じたい。

 

羊の歌

「羊年」

羊が大きいから「美」しい。
羊に我があるから「義」理である。
羊に心があるから「恙」が無い。
羊に取れたての魚で新「鮮」なもの。
羊を食べて栄「養」とする。
羊が水辺で遊ぶと「洋」行になる。
羊が言葉をつたえて「詳」細になる。
羊が祈れば吉「祥」となり福をもたらす。

羊の漢字は百以上に及びます。

羊は財産としてとても貴重な動物なのです。
そして神のお供え物としても重要な役割があったのです。

その為に漢字の語源に多く使われたのだと思います。

中国には「貝の文化」と「羊の文化」というのがあります。

伝説の王朝「殷」は都市の遺跡が発掘されたことから実在したことが確認された。
東方系の農耕民族で高度な文明を誇っていた。「殷」は山西省・河南・河北省の辺りです。

農耕民族は大地の恵みを受ける自然環境に住んでいる為に多神教になりやすい。
彼等は目に見える財貨を重んじる民でした。

まだ金属貨幣が存在しなかった当時、貨幣として「子安貝」を使用していたのです。

そこから生まれた漢字が、

賽・財・貢・貨・貧・販・貴・賃・買・資・質・賞・賭などがあります。

殷の宗教は多神教で、神々は人間的だった。酒やごちそうなど、物資的な供え物を好んだ。
殷人は自分達の王朝を「商」と呼び、自分たちのことを「商人」と自称していた。

殷王朝が周によって滅ぼされると殷人は土地を奪われ流浪の民となったのです。
いわば古代中国版ユダヤ人となったのである。

いっぽう周人の先祖は、中国西北部の遊牧民族と縁が深く、
血も気質も、遊牧民的なところがあった。「周」は現在の陝西省・西安を取り巻く周辺です。

遊牧民は荒漠たる大草原や沙漠地帯を移動して暮らす為に一神教をもちやすい。

彼等は「天」を祀る儀礼として「羊」を犠牲にして供えたのです。

そこから生まれた漢字が、

義・美・善・祥・養・儀・羨・洋・佯・姜・羔・羞・躾などがあります。

殷の神々は、酒や肉のごちそうで機嫌をとり「買収」することができたが、
周の「天」は羊を捧げるだけでは不十分だった。

善行や儀礼など、無形の「よいこと」をともなわねば「天」は嘉納してくれなかったのです。

現代中国人は太古の二つの先祖から「ホンネ」としての貝文化と、
「タテマエ」としての羊文化の両方を受け継いでいるのです。「貝と羊の中国人」加藤徹より引用

その国その土地にまつわる歴史と文化を学ぶ事により、
民族の成り立ち、思考の原理、価値基準等が分かるのではないでしょうか。

2015年が皆様に取って吉祥の年になりますよう祈ります。

 

 

精出して凍る間もなく水車

 

成熟するには長い年月と、不断の努力が必要わけである。

禅僧が桃の花咲くのを見て悟りを開いたり、
竹にあたった石の音を聞いて見性悟道するのも、
その縁に至るまでの不断の修練があったからである。

人間の精神も肉体も不断の修練によって
無限に育成され成熟するものであることを知るべきである。

人間は自分の背たけ分しかものが見えないものであるが、
精神は不断の修練によって常に人が見えない世界も見えてくるのである。

「観える」ということが宗教には必要かくべからざることである。

「精出して凍る間もなく水車」という歌は、
怠情、無気力に対しての精進の必要を歌ったものである。

怠情は精神の栄養失調である。「観音経講和」鎌田茂雄

どの様なことでも一つのものを極めるにはそれ相当の時間を要します。

暗闇の中で何度も悩みながら挫折と失敗を繰り返し精根尽き果てるのです。
諦めようとした瞬間かすかに見える光に一縷の望みを託し、
雑念を振り払い不断の努力に戻るのです。

他人と同じ価値観で生きることは世相の浮き沈みに影響されてしまいます。
人は人、己は己の強い意識で無ければ修行など出来ません。

目的達成は容易に出来なくて当たり前のことだと割り切る事も大切です。
立ち止まり自問自答をするよりも精進を積み重ねることが重要なのです。

困難だと思った時点で怠情の悪魔が努力などは無駄だとささやき、
克服できると思った時点で救いの天使が笑顔で舞い降り激励してくれるのです。

毎日毎日の少しずつの修練の積み重ねが大切です。

また努力は見せるのではありません。
隠れてやる努力こそ目的達成の成就に繋がるのです。
あらゆる煩悩の欲を取り除き一心不乱に修練に励むのです。

心の解放こそが異なったものの見方と考え方と生き方を味得できるからです。

何事においても視覚的に見えているものは全体の一部でしかありません。
その奥に潜む真実を見ようとする心掛けが大切です。

表面的な文字や図式や映像のみで理解したと思うのは間違いなのです。
その表現の意図したことは何かを追求しなければなりません。

「見る」ことではなく「観る」ことを常に念頭におかなければ極める事は出来ません。

少し奥に入りそのもの自体のメッセージを聞き出すのです。
その為にも怠けずに精神と肉体の不断の努力が必要なのです。
同じことを同じように繰り返す根気も大切なのです。

そこに初めて精神的に「観える」ものが生まれて来るのです。

「精出して凍る間もなく水車」これこそが真理なのです。

 

恩送り

 

恩を受けた人に直接返すのは「恩返し」。

受けた恩を直接相手に返すのではなく周りの似た誰かに送るということが「恩送り」。
その送った恩は巡り巡って恩を授けてくれた人や家族や友人に届いていく。

素晴らしい日本の風習「恩送り」の巡り合わせがたくさんの人を幸せにする。

人は誰しも心に深く刻み込まれた出来事がある。
苦しいとき、悩んでいるとき、悲しいときに、他人のさりげない言葉や行動に
救われることがある。それを「恩」と呼ぶ。
恩を感じていながら、自分に心のゆとりがなければ、その時になかなか返すことができない。

学問や芸事や職人の世界では、師匠が弟子に教え、
また弟子が後輩に教えるという暗黙知の伝承の関係があった。

そして弟子が成長して師匠になったとき、自分の師匠がすでに他界していることがある。
その時に恩返しはできない。どうするか?

今度は自分が師匠と同じように弟子を育てるのである。

それは弟子から恩返しを期待するためではなく、師匠や先輩に「恩送り」をするためだ。
そういう関係が成り立っていたから、誰しもお金がなくても強い意志と向学心さえあれば、
師匠や先輩からきわめて少ない費用で育ててもらうことができた。

もし、師匠や先輩から教えてもらい育ててもらう「教育」という環境があれば、
いやでも謙虚に学ぶという感覚が育っていくはずだ。

それが現代では希薄になっている。
これは若い世代が悪いのではない。

もうこの世にはいない大人たちが、そしていまの大人たちが、
こういう社会をつくったのだから責任はそこにある。

戦前戦後を通して「恩」について書かれた著書は多い。

江戸時代の儒者佐藤一斉「言志四録」の中に「施恩は忘れよ、受恵は忘れるな」、
与えた恩は忘れて受けた恩は忘れるなと書かれている文章がある。

私の「恩学」でも書いた「与えた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め」と同じである。

また戦後ルーズベネディクトが書いた「菊と刀」は日本人を分析した報告書である。
その中の「万分の一の恩返し」という章で、
日本人にとって恩は負債であって返済しなければならないと書かれている。

子育ては親の義務では無く子の負債として親に恩を返さなければならないのである。
子は親に一生かけて孝行することが「万分の一の恩返し」となる。
教育の中に「忠・孝・義」が存在していた時代の話である。

私のブログ「恩学」は「恩返し」を学びながら「恩送り」を実行する為に書き始めた。

病弱でいつも療養所に入り若くして亡くなった母へ。
定年退職を迎えてすぐに胃がんで亡くなった父へ。
遠足のお弁当を内緒で作ってくれた小学校の恩師へ。
イギリスへ行く旅費の足しにと給料を上乗せしてくれた親方へ。
生意気な私に仕事を教えてくれた諸先輩方々へ。

「恩送り」は私自身が数多くの人達に返せなかった恩への鎮魂歌である。
出来る時に、出来る場所で、出来る人に恩を返すことが重要だと感じている。

「恩送り」を実行すると決心してから、

お年寄りを慈しみながら見守ることが出来るようになった。
他人の幼き子を我が子のように接する事も出来るようになった。
多くの若者や母親に自分の経験や知識を無償で提供する事も出来るようになった。
困った人へ惜しみなく仲介の労も出来るようになった。

どの様な場合にでも、求めてくれる人に、求められる以上に尽くすことが、
両親に恩師に親方に諸先輩に果たせなかった「恩」に報いることだと信じている。

これからの人生において一つでも多く「恩送り」をしながら生きて行く覚悟である。

2015年元旦

 

自分の色

 

自分の色とは人格であり能力であり魅力である。

自分の色は自分が見ても分からない。
人は他人の色には優劣はつけたがるが、
自分の色にはあれこれ言い訳をして寛容すぎる。

自分の色は自分より友達を見ればすぐにわかる。

友達が善(よ)き人であれば、あなたも善き人かもしれない
友達が悪(あし)き人なら、あなたも悪き人かもしれない
友達が光り輝いていれば、あなたも光輝いているはず
友達が優しい人ならば、あなたもきっと優しいはず。

友達との会話や動作に色が付いて現れる。
互いに素敵な色を付けあって成長するのが理想である。

出会いの印象は色で判断されてしまうことが多い。
目の輝き・服装の色・言葉の選び方で判断されてしまう。

理想は自然の色だ。

自然の色とは季節や環境や目的に応じて変化する色である。

素敵な色は夢や望みが明確な時にはパステルカラーで現れる。
恋人や仕事が順調な時にはスパンコールカラーで星のように光り輝く。
体力や精神力が充実している時にはビビットカラーで情熱的である。

反対に作為的な美の色は万人から嫌われる。

若さや美しさを誇示するような色はハリウッドカラーで敬遠される。
疲れや悩みを隠す為の濃い色はトリックカラーで不自然に写る。
欲望を満たす為の虚飾の色はネオンカラーで不愉快である。

自分の色とは人格であり能力であり魅力である。
自分の色は自分が見ても分からない。
人は他人の色には優劣はつけたがるが、

自分の色にはあれこれ言い訳をして寛容すぎる。

自分の色は自分より友達を見ればすぐにわかる。
それは、その時の心の色が一番素直に色で現れるからである。

大切なことは愛と礼儀と感謝の色を忘れないことである。
利他心のおもいやりは、気品ある色の中に温かさを添えてくれる。

また茶道・華道・俳句等の教養も色に現れる。
更に言葉に出さずに凛として困難に耐え忍ぶ姿には真珠色の輝きが生まれる。

人生には様々な色合いがあるのである。

いつまでも年齢・性別・経験による色が現れると嬉しいですね。

素敵な色を身に付けましょう

変化

 

他人に変化を求めるのは簡単だが自分が変化するのは難しい。
自分は動かずに他人の変化を見ていると相手の変化に自分が変化していると錯覚する。
これは何も変わらない位置から川の流れを見つめていると起こる同じ現象である。

正法眼蔵隋問記にこう記されている。

「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。」

舟から岸を眺めていると、まるで岸が動いているように見える。
本当は舟が動いているのだが動かぬ岸が後ろへと動いていると感じてしまうのである。

岸を「世間」に、舟を「自分の位置」に例えて、世間(岸)はめまぐるしく変化し、
あたかもそれがすべて「真実」であるかの(動いている)ごとく見えるのだ。

しかし、自分の乗った舟の中に「真実」があり、万人はそれを気付かない。

「大宇宙にまたがって(乗って)生きれば、世間で受けた悩みや苦しみは、
あっという間に消え去る。」ことに気付くことなのである。

だから「世間に向けている目を、自分に向けなさい」、
「苦しんだならば、見方を変えなさい」と言っている。

世の中はめまぐるしく変化し、その変化から取り残されたくないという
敗北者の強迫観念にかられて自己を失う。

そんな人に、「生命体としての自己を見つめ直して、自己を取り戻せ」と言っている。

自分の真実に気付けば周りに影響される事も無く立ち位置が安定するのである。
それを怠るから同じ過ちを繰り返すのである。

少し知識や情報を得れば自分は賢く成ったような気がする。
その誤解の位置から判断するから周りの動きに錯覚を起こす。

尊敬できる人の側にいれば自分も尊敬に値する人間だと錯覚してしまい。
名のある会社に勤めただけで自分はエリートだと信じてしまう。

成功した友人を持つだけで自分も成功したような錯覚を起こしてしまい。
努力も無しに運命で選ばれた人間だと勘違いをしてしまう。

自分の真実を取り戻せない限り、同じことを繰り返してしまうのである。

日々家族も社会も国家も大きく変化しているのだが、
立ち止まっている自分も大きく変化しているのだと勘違いをおこす。

錯覚から目を覚まし現実に立ち位置を置くのならば身体を使わなければならない。

弱い精神力に打ち勝つには先ず身体を酷使するべきである。
自分の身体の限界を知ればやれこととやれないことが分かってくる。

やれることが分かれば周りの動きに囚われずに、
自分の立ち位置を明確に知ることが出来るのだ。

自分の変化は自分の足で一歩を踏み出す事である。

痛みの中から真実を見る目を養うべきである。

そこにしか「変化」の答えは無い。

 

素直

 

素直の「素」は模様や染色を加えない生地のままの様子。そのしろい布である。
素直の「直」は一(まっすぐ)+目で、まっすぐに一つの方向に目を向けることを示す。

自分の思い描いた目標・目的をしっかりと見据える状態である。
その素直さを持ちながら使命感を全うする心が「志」である。

素直なままの心を遮る一番の原因は「恥」である。
恥という文字は耳の軟らかさに心が寄り添っている事が表現されている。

すなわち、心が軟らかいとすぐに動揺して気持ちが折れてしまうことである。
その気持ちを強くする為にも「志」が必要なのである。

学生から社会に出て最初に感じる事は理不尽である。

上下関係だけで押しつけられる様々な要求は理屈に合わない事が多い。
その理不尽に打ち勝つ為に自分自身の高い志を持たなければならないである。

志とは使命感である。使命感とは生きている理由を知ることである。
自分の欲で生きるのではなく、他人の幸福を願って生きることである。

決して世の中に裏切られても傷つくことを恐れるな。
苦しさから逃れるために安易に妥協などするな。
つねに社会の裏切りを予測しながら逞しくつき進むのである。

「恥」に負けない為にも「誇り」を持たなければならない。

「誇り」という字は大きく足を広げて立ち、おおげさに物言うことである。
出来るか出来ないかじゃなくてやってやるという気概を持つことである。

どのような環境でも素直なままで歩き続けていて欲しい。
どのような境遇でも素直なままに受け入れて欲しい。
どのような運命でも素直なまま貫き通して欲しい。

他人と比べる価値観ではなく自分の作り出す価値観を大切にして欲しい。

純粋な思いが心なき言葉によって傷つけられても負けないで欲しい。
見えないところで泣き叫び、人前では笑顔を取り戻して平然としていてほしい。
弱い自分を守りながら歩みを止めずに前向きに歩き続けていて欲しい。

他人の誘惑や甘言に惑わされることなく心の素直なままに生きて欲しい。

「富貴はたとえば則ち春夏なり。人の心をして蕩せしむ。貧賤はたとえば即ち秋冬なり。

人の心をして粛ならすむ。故に人富貴に於いては即ち其の志を溺らし、貧賤に於いては則

ち其の志を堅うす。」佐藤一斉言志四録より

富貴よりも貧しくて辛く厳しい環境の方が志を強固にするのである。
安っぽい教義・教養で自分の求める直感を失わないで欲しい。

どんなことがあっても己の生き方を失うなよ。
真っ白な生地のままに生きろよ。

たとえそれが儚い望みであろうと心の中は「素直」で純粋であれ。

 

これだけ

 

「これだけ」

これだけ「あなたのために」だと辛くなる。

これだけ「あいしているのに」だと重くなる。

これだけ「やってあげたのに」だと怒りになる。

これだけ「がまんしたのに」だと愚痴が出る。

これだけ「きいてあげたのに」だと負担になる。

これだけ「つきあっているのに」だと煩わしくなる。

これだけ「ぎせいにしたのに」だと窮屈になる。

これだけ「まもってあげたのに」だと憂欝になる。

これだけ「おもっているのに」だと面倒になる。

これだけ「つくしているのに」だと逃げ出したくなる。

これだけの言葉が無ければ、どれほど感謝したか分からない。
これだけ、これだけ、これだけを言わなければ、「ありがとう」が言えたのに。

人は期待される事を一方的に要求されると反抗的になる。
人は自分の想いを相手の気持ちを考えずに伝えることがおおい。

やってあげたのだからこうしてほしいは逆に相手の気持ちを頑なにしてしまう。

自分の行為に見返りを求めると響く行為も響かなくなる。
あなたの純粋な想いが一つの音としたら潔癖で清廉でなければならない。

心が清くて私欲の無い音は頑な心を溶かす力とエネルギーを持っている。
素直になり無心の優しさがなければ相手の心は固いままである。

音は柔らかな壁には吸い込まれるが固い壁には跳ね返ってくる。

人の心も軟らかい時には素直に聞き入れられるが固い時には拒否される。
自分の行為に見返りを求めるとそこから信頼と愛は生まれて来ない。

あなたの気持ちを適量な音量と音質で包み込まなければ想いは伝わらないのである。

あなたのこれだけはただの我儘な要求である。

相手の中に幸福のイメージを作ることが出来なければ笑顔は生まれないのである。
相手を束縛と拘束で縛るのは人間関係においてやってはいけない行為である。

美しいメロディーには美しいポエムが必要であるように、
美しい行為には美しい心が必要である。