君たちはどう生きるか



1937年11月16日発行吉野源三郎著作「君たちはどう生きるか」(日中戦争勃発)
著者(おじさん)がコペルくんの精神的成長に託して、語り伝えようとしたものは何か?
それは人生いかに生くべきかと問うとき、常にその問いが社会科学的認識では
何かという問題と切り離すことなく、問わねばならぬというメッセージであった。

今回、映画の「君たちはどう生きるか」はファンタジー世界での冒険を通して世界の仕組みを概念として知っていくストーリーになっている。

1944年敗戦間近、東京が焼夷弾で焼かれている場面から始まり、
母親(久子)を失った少年(真人まひと)が主人公である。
父親(正一)の再婚相手、夏子(久子の妹)のもとへ疎開した。
そこから異次元の世界へと導かれる。

この作品は単なる娯楽作品ではなく、あくまでも哲学的見地から見た少年(真人)の
好奇心と正義感と真実を求める姿を描いた作品であることは確かである。

しかし、宮崎駿(原作・脚本・監督)の制作意図を裏読みしようと苦労した。
10年ぶりの発表でこの作品が最後の作品になるのではないかと噂されている。

有から無、生から死、輪廻転生、神隠し、死後の世界、など
仏教的思考から日本的情緒に溢れていた作品である。

創造から破壊、破壊から創造、生きるとは、死の危険を間近に見る事により、
そこに親と子の、世代を超えた仲間との結びつきにより信頼関係が存在する。

世界の構造は覇権争いの結果、武力で侵略を繰り返している。
現在のウクライナとロシアの戦争を彷彿させようとしたのだろうか。

真人君の「真の友達探し」をさらっと流したのは、
現代の少年少女達への共感を得る為のものだったのか?

創造主、大叔父が本当に伝えたかったことは何、
その後ろの茶色の物体(空から降って来た隕石を囲う塔)は何、
理想的な社会とは何、映画鑑賞後に数多くの疑問は残った。

大叔父から言われた悪意を持っている人間には、理想の世界は作れないという言葉に、
真人は自分も悪意のある人間だからその権利は無いと断った。
(何故転校した先の地元の少年たちと喧嘩後に、
石を拾って自分の頭部を血が出るまで殴ったのかここにも疑問が残る)

最後、現実世界へ戻る時に真人とアオサギのドアが、
お手伝いのヒミ(若き日の久子)ときりこのドアと違ったのは、
現実(現在)と過去(昔)を分ける為に作られたタイムトンネルだったのか。
この「最後のメッセージ」が分からない。

個人的に、ペリカンの親父(アメリカ)とインコの王様(ロシア)は苦手だ。
(鳥は生理的に苦手) 
勝手にアメリカとロシアの国名を書き込んだのは、
世界はこの二大大国が揺り動かしていることを伝えたかっただけである。

勿論、中国やGAFATが追随していることは紛れもない事実である。

全体的に製作者宮崎駿との感性の交流が難しい作品であった。
多分、全ての人から共感が得られない話題性先行の作品になるに違いない。

バンクシーの絵と同じで正体不明のアーティストのゲリラ展示がSNSを通じて、
世界へ広がった現象と似通るのではないかと思います。
勿論、NYの地下鉄の落書きペイントをしたキースヘリングも同じです。
すべての人が認め、何もかも理解して受け入れることはないと思う。
プロデューサーの鈴木敏夫はそこを意図してあらゆるPRを排除したと言っている。

音楽もアートも話題性や人気だから受け入れるのではなく自分の感性に合うかが大切です。
あらゆるものが溢れている時代には受け入れない決断も必要です。
高価なものであっても、有名シェフが作った美味な食事も、世界をめぐる航空券も、自分に必要がなければ「無価値」なのです。

昔NYで話題のジャズバンドのライブへ行った時の感覚と似ています。
音楽雑誌での評価も高く、現地のプレイヤーからも、お誘いがあったので行ってみました。
日本人の私には大したプレイでないところで盛り上がっている感覚が分かりませんでした。
一瞬、私はジャズのセンスがないのかと疑ったほどです。

不思議なことに「君たちはどう生きるか」を鑑賞後にあの時のことが蘇りました。

映画や音楽や芸術は生き物です。突然襲い掛かります。・・・・・・

次回の鑑賞後にはどのように心理的変化が起こるか楽しみです。
そう!1回で判断するには宮崎駿監督に失礼に当たります。

ご覧になった皆様はどのように感じたことでしょうか?