言霊

 

一般的に言葉は声を利用しての伝達手段だと言われています。
勿論、その通りですが一つ大切な事が忘れられています。

それはこちら側の意思が声を通して相手側に振動で伝わることです。
その振動を古の時代から「言霊」と呼んでいます。

現代人はその「言霊」の力を忘れ過ぎています。

 

「愛語良く回天の力あり」道元禅師

「面(むかい)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、
心を楽しくす。面わずして愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ず。
愛語よく回天の力あることを学すべきなり。」

 

良い言葉を面と向かって聞くと顔が自然とほころび心が楽しくなる。
また良い言葉を向かわずして聞けば身体と魂に染み込むものである。
相手を慈しみ思いやる言葉は、人生を変えるほどの大きな力があるということです。

禅の教えでは最も重要とする言葉です。

 

言霊「ことだま」とは、前述のように、「ことば」に込められた「珠」や「魂」の事。
本来、善良なものとして使用される。
邪悪な事象は、「ことかえ」にて、善良なるものへと転換・変換される。
正しい心で正確に使用する事によって、「ことだま」が自然発動的に存在する全てを活かし、
「ことかえ」が行われ、より善良で高度な精神性がもたらされる。

天孫降臨以来、受け継がれる日本古来の伝統である。

 

そして音(言葉)には色が存在します。
1931年、カール・ジーツの説によると音階による色聴は、
ドは赤を、レは菫色、ミは黄金食、ファはピンク、ソは空色(水色)、
ラは黄色、シは銅色(茶色)、そしてオクターブの異なる音階も同じ色調となっています。
また、それぞれの音にフラットが付くと暖色を、シャープが付くと寒色を連想させる傾向にあります。

 

人の声から発する音は喜怒哀楽の意思を伴い声色が変わるのです。
喜びの時の声色はピンク、怒りの時の声色は黄色、
哀しい時の声色は空色、楽しい時の声色は黄金色です。
聞く側の状態によってまちまちですが、確実に言葉が色を持って伝わるのです。

 

言葉の表現の豊かな母親からは発想力が生まれます。
子供は様々な言葉の色の中に夢を見ることが出来るからです。
物語を作る思考がうまれると想像力に繋がります。
感情豊かな子供は人を傷つけません。人から物を奪い取る事はしません。
自然に共存共栄の精神が身に付くのです。

 

「愛語よく回天の力あり」

良き言葉の振動は伝わります。

「言霊」の力を信じて下さい。

たった一言で人生を変えることができるのです。

 

芸術的挑戦

 

芸術における創造とは、子供のような好奇心と、研究家のような探究心と、
冒険家のような行動力です。

沈黙せざるを得なかったものを表象して形にするのが芸術家の努めです。

 

常に自然と対峙した中で生きる息吹を感じることが基本です。
自分の眼と耳を研ぎ澄まして、見えないものや聴こえない音を探し出すのです。
慈しみ悲しいほどの愛を感じとり、純粋な感情の発動を呼び醒ますのです。

 

他人の評価を気にせずに自己の鍛錬の中から作り出したものを信じることです。
本物の音楽やデザインは人の心を変える力を持っています。
創造は破壊です。それは模倣ではなく進化した形なのです。

 

「今日の私たちの生活は、無制限に送られてくる人工的な情報を
受け容れることに多忙で、それを咀嚼することにさえ倦んでいる。
私たちは、いま、個々の想像力が自発的に活動することが出来難いような
生活環境の中に置かれている。眼や耳は、生き生きと機能せず、
この儘、退化へ向かってしまうのではないか、という危惧すら感じる。

今日、文明先進国から、嘗てのようには、強い個性を持った芸術が
多く現れていないのは、見出したり、聴き出したりする能動的な行為を、
人間が、他の機械的手段(技術)に委ねてしまったことに由るからではないだろうか。
勿論、新しい技術は、有効に用いられれば、私たちの想像力を拡げるには違いない。
だが、だいじなのは、そこに人間の手を通すことだろう。」

(私たちの耳は聞こえているか)作曲家武満徹

 

便利に走ると感情が損なわれてしまいます。
不便の中に新しいことを見出そうとしなければ発想は生まれません。
たった一言の言葉からでも多くの詩や芸術が作られるのです。
激しい困難な時ほど輝きが増すのです。

 

安易に利便性だけを求めてしまうと、それらを購入する経済活動が先に走り、
本来の目的が忘れられてしまうことが起こります。
芸術家は作品に対して理路整然と説明する必要はないのです。
その作品の迸るエネルギーの放出があれば良いのです。

 

その為に好奇心と探求心と挑戦する行動力が必要になり、
時と場合に応じて表現形態が変わるのです。
時代が変わり競争ではなく共創が必要になります。
個人の発想が集団の方向を決めて共に創り出さなければならないのです。

 

しかし、共創の基となるのは規律や技術力では無く、
一人の芸術家のマグマのような情熱が牽引するものです。
「挑戦とは、失敗と嘲笑を恐れずに行動するものである。」

芸術家が挑戦しなければならないのは、
機械の作った娯楽に負けてしまうことではなく、
常に自然界から生まれる想像力と機能美の発見なのである。

 

芸術家は時代の要求に応えなければならないのです。
民衆が求める新しい思想と目的に合わせて、
言葉や図式や形式を提示しなければならないのです。
音楽家と同じように魂のひと筆を振り落とさなければならないのです。

 

それが挑戦と引き換えの不協和音だとしても行動しなければならないのです。

 

音は心の中で音楽になる

 

音は心の中で音楽になる

好きな場所で 好きな音を聞く
青空の下で花を見ながら 小鳥たちの声を聞く
公園の様々な場所から 人々の笑い声が聞こえる
犬が吠える 転んだ子供の泣き声がする
心が健康だと 聞こえる音 すべてがエネルギーになる
そして少しだけ 昨日よりも優しくなれる

音は心の中で音楽になる

 

雨の日のバス停で 雨だれの音を聞く
女子高生たちの 元気な声が聞こえる
働く人達の 足早に過ぎ去る 足音が聞こえる
色とりどりの傘 水しぶきをあげる車
心が素敵だと 聞こえる音 すべてがアートになる
そして少しだけ 明日に夢を描く事ができる

音は心の中で音楽になる

 

音楽としての音がある。
さまざまな音楽を聞く事によって、楽しくなったり、悲しくなったり
嬉しくなったり、切なくなったり、心の中にそれぞれの表象が現れる。

音楽としての音がある。
美しい旋律と心地よいリズムと熱きメッセージは、
未来の願望であり、過去の記憶であり、現在の活力でもある。

音楽としての音がある。
忘れたエピソードが音楽によって目覚めさせられる、
叶えられない恋も叶う気がしてくる、見果てぬ夢も捕まえられる気がしてくる。

 

音楽にはそれぞれの景色がある。
視覚で捉えたイメージが記憶に残り、
その記憶は好みの音楽を聞く事によって蘇って来る。

 

音楽は絵画や彫刻とちがって時間芸術である。
演奏者と聴衆のあいだで常に交感をしなければ、
ただの音として消えて行くだけである。
一瞬のやり取りの中に鮮やかな景色が浮かび上がり、
その時に感じた心象風景と重なり合うのである。

 

音は心の中で音楽になる

大好きな人と 大好きな音楽を聞く
心を通わせながら ときめきの調べを聞く
星も月も太陽も 愛の賛歌に声を合わせる
悲しい出来事に涙して 勇気を与え
嬉しい出来事に微笑んで 笑顔を与える
心が穏やかだと 聞こえる音 すべてが優しくなる

 

そして 音は心の中で祈りになる

 

チャップリン

 

「人生は間近で見ると悲劇だが俯瞰で見ると喜劇である」
皆様はこの意味をどのように解釈するのでしょうか。
(俯瞰(ふかん)とは離れた上方から見ることです)

 

人間関係が絡んだ問題は多くの人を悩ます原因になります。
悩みを抱えた当人にとっては最大の悲劇でも、
俯瞰で見ると喜劇に見えるということです。

 

喜劇王チャップリンが言いたかったのは、
人生は悲劇と喜劇を合わせ持つドラマのようなもの、
どのような悲劇も角度を変えれば、
笑える喜劇として捉える事が出来るのではないかと言う事です。

喜劇王チャップリンには、
貧困と束縛と人種差別の中で社会風刺を題材にした多くの作品があります。
彼は悲劇の題材を俯瞰で捉えて喜劇にする天才でした。

 

悲劇自体を不幸と定義するならば、あらゆる不幸は既にあらゆる人達が、
様々な経験をして乗り越えているという事実があるということです。

それらのことを学びもせずに、同じ過ちを何度も繰り返す愚かな人間を見て、
古の哲人はこのように言っています。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。

正しく賢者として歴史に学ぶか、愚者として経験に学ぶかはあなた次第なのです。

 

悲劇が抱える問題は、仕事の話、恋愛の話、家庭の話、金銭の問題、
健康の問題など、多岐にわたりそして悩みの深さも人それぞれ違います。

自分の生い立ち・家庭環境・学習環境・友人関係などからも、
問題の受け止め方や解決方法などで違いが出て来るのです。

 

悲劇の妄想に囚われて不幸の連鎖が止めどもなく続く恐れがあるのです。
ちょっとした問題でも妄想から恐怖心に至るとノイローゼになることもあります。

鎌倉時代の最高権力者北条時宗が蒙古軍の襲来に恐れて悩み苦しんでいた時に、
彼の師である無学祖元禅師から一言「莫妄想するなかれ」と言われました。
どうなるかも分からないことをあれこれ悩む必要は無い。心静かに動静を見守れ。
人事を尽くして天命を待てばよいのだということです。

 

悲劇を引き起こす原因があります。それは人にある欲と云う毒です。

 

人よりも多く手に入れたい(貪欲)。人が持っているのが許せない(瞋恚)。
人よりも劣ることに腹立たしい(愚痴)。これ等を「三毒」と言います。

 

他人より良き仕事がしたい。他人より報酬も多く貰いたい。他人より美しい妻が欲しい。
これらの気持ちが悩みの引き金となり苦しむのです。

そして自分が持たなくて他人が持っている事に愚痴がでて嫉妬心が芽生え、
あいて(他人)を追い詰める行為を繰り返すようになるのです。

 

多くの悩みを抱えている人達の特徴は、閉鎖的に悩みを閉じ込めてしまい、
発散する行動(信念に基づく行為と体力消耗)が無いと云う事です。

自己保身が強く被害妄想に陥り易いのは解決の方法を他に求めないからです。
自己の悲劇を他人から喜劇と一時的に笑われても構わないじゃないでしょうか。
相談すべきは相談すべきなのです。

 

行き詰った時に両親や先輩や書物の中に答えがあることを忘れてしまっているのです。
相談する事は恥ずかしい事ではありません。相談しなくて悩む方が恥ずかしいのです。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とも言います。

悲劇とは知らないことを聞くのが恥ずかしいから、小さな問題が徐々に大きく膨れ上がり抜き差しならぬ状態になること。
喜劇とは食事も睡眠も取れない最悪の状態から、問題が解決した時にこんなことに悩でいたのだと笑える事です。

 

貴方が抱えている悲劇は他人から喜劇に見えているかも知れません。

自分の姿を俯瞰で見る事もお勧めします。

 

虫の声

 

何故日本人には虫の声がのどかで風流に聞こえるのか。
何故欧米人には虫の声がうるさい雑音にしか聞こえないのか。

 

人間の脳には右脳と左脳の二つに区切られた場所があります。
右脳は好き嫌い美しい醜い怖い優しいなどの情緒的な部位です。
左脳は言語・理解・数値的な判断をする論理的な部位です。

欧米人は虫の声を、情緒を司る右脳で聞いているのです。
がしかし、日本人は虫の声を、論理的な左脳で聞いているのです。

日本人の場合は、音楽、西洋楽器音、機械音は右脳で感知され、
他のものは左脳に位置づけられる。邦楽器の音も虫の声も言語も、
私たち日本人は、左脳において一緒に感知している。

 

西洋人の脳が、論理性と情緒性を明確に分別しているのに比べて、
日本人はそれをきわめて曖昧に、区別することなく、感受している。

音楽に限らず、日本のあらゆる文化は、自然との同化を目差して来たのである。
そこに培われた私たちの感受性を、卑下したりすることは全くないので、
虫の音にも、私たちは鋭敏でありつづけたい。

 

例えば万葉集の表現様式として、
寄物陳思(恋の感情を自然のものに例えて表現)
詠物歌(季節の風物を詠む)というのがあります。
この二つの様式によって虫の声は多くの歌に取り入れられているのです。

 

「草深み 蟋蟀多(さは)に鳴く 屋前(やど)の 萩見に君は何時か来まさむ」

草深い我が家の庭に、沢山の蟋蟀(こおろぎ)が鳴いています、
萩も見ごろになりました。あなたはいつ見に来てくださるのでしょう。

 

日本語の環境で育った人は、人種や民族に関わらず川のせせらぎや虫の音などの
自然界の音を言語と同じ左脳で処理するようになるが、
そうでない人は言語以外の雑音と同じ右脳で処理するのだそうです。
何故そうなるかは未だ発表されていない。

日本人は太古から自然の恩恵を受けながら自然と共に暮らしてきました。
そこに存在するすべての音も景色も「美」として捉えていたのだと思います。
もしくは「美」として論理的に捉えようとしていたのかもしれません。
それを表現するのに日本語と言う言語が生まれたのだと思います。

 

春には花が咲き散る、夏には緑の葉が生い茂り秋に枯れる、
「栄枯盛衰」の場面から沢山の文化が生まれて来ました。
日本独特の「わび・さび」も情緒では無く論理的に判断をしているのです。
この感受性は世界に誇れる感性なのです。

 

そしてとても興味を引くのは日本の楽器です。
インドや中国から入って来た琵琶や尺八や三味線が原形を残しつつ日本流に変化をした事です。
その大きな特徴は決められた楽音を鳴らすのではなく、
音と音の間を濁らす事です。所謂、ビーンという「うなり」を付け加えた事です。

それを専門用語で「さわり」と言います。

義太夫の三味線は蝉の鳴くように弾きなさいという表現もあるぐらいです。
「さわり」とは 楽器を演奏する時に楽器自体に障害装置を意図的に設けて濁りを出すのです。

また、別の表現で「さわり」とは主要な部分のみとか最初の部分とか、
切り取りの言葉としてもとして使われます。
「ちょっとさわりだけ聞かしてくれ」とか、
「ちょっとさわりの部分だけ演ってくれ」とか的に使うのです。

音楽は綺麗な単音を順番に出す事により成立します。
そして、その単音を重ねることによって和音が生まれ心地よい音楽となるのです。

しかし日本人の好みは、音と音の間の空間にこそ美しさを求めるのです。
その濁った音にこそ日本人は「わび・さび」を感じるのです。

 

それには日本人の宗教観も大きく影響していると思います。
わが国には八百万の神が存在する。八百万の神には八百万の声がある。
その声を楽器で表現する事を雅楽の楽しみとした。

そして尺八の極意は「一音成仏」一つの音で仏になるとも言われます。
読経の声や木魚や鐘にも仏様は存在するのだと思います。

我々の遺伝子の中に組み込まれた濁りの感性が左脳に反応するということです。

 

いずれにしても 世界広しと言えど虫の声を風流と感じるのは日本人だけなのです。

 

憧れ

「憧れなんて無い1」

何故 本を読むのか
何故 映画を見るのか
何故 音楽を聞くのか

そして答える
私は作家や俳優やアーティストの人生を知りたいのでは無い
彼らの作品の中に自分の居場所を探しているだけだ

模倣なんてしない 参考にするだけだ
彼らに憧れなんてない 師として受け入れるだけだ
感情の発露における 感性の実態を知るのだ

現実における判断は 自分自身の知識と視覚と聴覚に頼る
想像は 完成されたものを 壊すところから始まる
昨日までの 歴史を超えるところから 現代が生まれるのだ

気に入った作品から 新たな自分を発見する
世の中で評判であろうと 巨匠であろうと関係ない
常に価値の判断は自分がするだけだ
傲慢では無い 謙虚である
頭を下げて 技術の教えを請うだけだ

古きを学んで新しいことを知る事では無い
古き作品の中に残った文化の燃えカスを広い集め
死に絶えた魂を蘇らせるだけだ

文化は常に その生きた時代にしか活力が無い
その生きた時代にしか香りが無い

だから憧れなんて無い

「憧れなんて無い2」

成功者は講演で本音を漏らさない
主宰者は集めた成功話を撒き散らす
出版社は成功論よりも利益の事しか考えない
一般読者はそれらを読んで毒に冒される

他人の功績に憧れなんてない

近道はしない 元気なうちは自分の足で歩く
そして歳を取り若者達から同じことを聞かれたら

一番大切な事は 成功者のコピーをするのではなく
失敗を繰り返しながら絶望の淵から抜け出す事なのだ

二番目に大切なのは 名誉や財産ばかりを望む事では無く
宗教や芸術から心の豊かさを学ぶことなのだ

三番目に大切な事は 尊敬されたいと思うのであれば
痛みや悲しみを知る人間になることなのだ

そして最も大切な事は どのような状況でも
自分を裏切らないことなのだと教える

憧れなんて持たなくて良い
心を打ち明ける友達が側にいれば十分である

それはもう一人の自分なのかもしれない

 

野心

 

野心とは野にある心を言います。
自然を愛する人達のことではありません。
どのような状況でも心は野にあるということです。
野とは生い立ちの本(心の置かれた場所)です。

 

野心の意味は豺狼(さいろう)の子は、
人に飼われても山野を忘れずに、
馴れ親しまないで、飼い主をも害しようとする。
荒々しい心を持つというところから)
人に慣れ服さないで、ともすれば害しようとする心です。
(豺狼とはやまいぬとオオカミのことです)

 

貧困の為に家族と離れて他人と暮らさなければならない。
大人達の理不尽な扱いにも一人で耐えなければならない。
早く手に職を付けてこの地を離れたいと願う。
そこに成功者になってやるという「野心」が芽生える。

 

裕福の家庭で何不自由なく過ごす。
学校を卒業すればしかるべきポストが待っている。
両親が用意してくれた人生のレールを外さない限り苦労はない。
そこに尊敬される職種につきたいという「野心」が芽生える。

 

野心は大きな飛躍を望んで、大胆なことを取り組もうとする気持ちです。
現状からは考えられない分不相応な行為にでることです。
意志強固に困難に耐えながら黙々とチャンスをねらうのです。
集団や組織に甘んじることも服することなく孤立した人生に耐えるのです。

 

貧困で育った若者も、裕福な環境で育った若者も、
「野心」を持っていることに変わりはありません。
一方は豊かさを目指し、もう一方は地位を目指したのです。
貧しい暮らしから大企業のトップになった人。
豊かな暮らしから政治家になった人。それぞれがあります。

どちらも不屈の精神で挑戦を繰り返して来たことには変わりません。

哲学者森信三先生の言葉にこのようなものがあります。
「たとえ99人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、
自分は一人スタスタとわが志したこちら側の川岸を、
わき目もふらず川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい」

 

野心家は生意気で反抗的だと決めつけられる。
野心家は善人を求めている社会からは異端児とみなされる。
野心家は穏やかな人生を望む人からは嫌われる。

 

国は良い人ばかりでは作る事も守る事もできません。
豊かさを確立させるために現状を打破する気概を持たなければならない。
国の歴史と文化は野心を持った不良達が生み出したのです。

 

大義を持たずして社会に出ても人生の長さは同じです。
このようなものかと諦めて過ごせる人は問題ないのですが、
何かおかしいと気付いた時点で挑戦が始まるのです。
いつか自分に力が付いた時に主張を認めさせたいと思うのです。

「ひっくり返してやる」という気持ちが野心です。

 

男たちよこの言葉を噛みしめろ。
男は強く無ければ生きていけない、
しかし優しくなければ生きていく資格が無い。
(ハードボイルド作家レイモンド・チャンドラー)

 

大志を持つ時には理性では無く野心を持て!
てっぺんを目指す気持ちが無ければ野心は生まれない。

悔しさを野心に変えろ!

 

文字の膨らみ・声の筋肉

 

文字を伝達の手段として使うのであれば平淡でも構わない。

文字を意思の手段で使うのであれば濃度が無ければならない。

文字を感情の手段として使うのであれば膨らみがなければならない。

万葉集の表現様式は、
寄物陳思(恋の感情を自然の物に例えて表現)
正述心緒(感情を直接表現)
詠物歌(季節の風物を詠む)
譬喩歌(自分の思いをものに託して表現)
などに分けられ、これ等を使いこなして初めて文章が成立する。
一つの事象に様々な表現様式を加えて感情と共に文章が膨らむのである。

声を伝達の手段として使うのであれば抑揚は無くても構わない。

声を意思の手段として使うのであれば知識が無ければならない。

声を感情の手段として使うのであれば音に起伏がなければならない。

言葉は発すれば良いと云うものではなく声の筋肉が必要である。
「言葉が言葉自身の肉体をもちえない、あるいはわれわれが言葉を肉化していない、
肉体にしていないといったほうが正しいように思います。言葉はその生成において、
最も根源的であるのに、何故か事物の皮相な部分をしか捉えようとしていない、のです」
言葉の海へ武満徹(作曲家)

文字が脆弱であれば言葉もひ弱なものである。
ひ弱な声からは感動は生れないものである。

古代の琵琶や笛は音を出しにくくして音を出す「さわり」という手法を使います。
「さわり」とは障害です。障害を与えることによって生まれる音があるのです。
「音」に重みと深み、影と光、清音と響きを付ける方法は日本独特のものです。
感情の赴くままに言葉を使うのではなく、
感情を少し押さえたところから言葉を発するのである。

そこに説得力のある繊細で筋肉質な言葉が生まれ感動が起こる。

男性の言葉が単調なのは獲物を狙う時に短く低い声で話し合うからである。
女性の言葉が変化に富むのは生きて行く上で演技を必要とするからである。

文字の膨らみと言葉の筋肉を鍛え直す必要がある。
伝えあう手段が美しく精悍でなければ本当の心音は伝わらない。

近未来ではコミュニケーションが均一化されて、
人は文字も声も不要になるのかもしれない。
それまでは抵抗して戦うべきである。
文字や言葉を生き物として扱うべきである

 

過度な親切と優しさ

 

相手を思いやる心は大切です。
それは相手が本当に困っている時にだけ有効です。
自分勝手な親切心から過度に思いやる事は、
相手の自立心の妨げにもなります。 

相手が本当に求めている事は何かを見極めなければなりません。
目の前の現象だけで対応すると誤解を生む時があります。
ときには相手に構わない心も大切です。

それは冷酷では無く温情を持って距離をおくことです。

 劣悪な環境でも美しい花が咲きます。
厳しい状況でも花がその環境と戦うからです。
耐える事から強い精神力が育ち豊かな人間性を創り上げるのです。

手助けだけではなく強く生きる方法を共に学ぶことが大切です。

 手を差し伸べられることに甘えてしまう人も多くいます。
親切が当たり前だと勘違いする人も多くいます。
しかし親切を受ける側にも理性が働けばけじめもうまれます。
日本人の思いやりの距離はお辞儀をしてぶつからない距離です。

その距離感がお互いのけじめなのです。

 これ以上踏み込んではいけない距離、
これ以上踏み込まれたくない距離があります。
離れ過ぎても近すぎてもいけない微妙な距離です。

それを無視する行為は過度な親切と優しさになってしまうのです。 

しかし親切に臆病に成る必要はありません。
人にはそれぞれ親切の貯金箱があります。
今生きている世の中で一杯親切を溜めこむと、
今度生れて来る時にはその親切の返済が待っているのです。

 親切は言葉や行動だけではなく、
すこし目を合わせるだけでも伝わるのです。
優しさもさりげなくテンポよくフォローするだけで、
お互いの心の中が温かくなるのです。

どちらも小さなことの積み重ねが重要です。

 そして決して親切に対価を求めてはなりません。
自分の気持ちが良いから親切にする。相手が素直に反応しないから怒る。
こんなにしてあげたのに感謝が無い。してあげたのに・してあげたのに・・・

何故人間はこんなにも身勝手なのでしょうか。

それは心のどこかで善意の対価を求めているからです。

 純粋な気持ちで親切や優しさをするのは難しいものです。
「大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、
どれだけ心をこめたかです。」マザーテレサ
自分の出来る範囲の中で行うのが一番です

力無いものが溺れている人を助けることはしてはならないのです。 

時には助けを必要としている人がいても、
見て見ぬふりをすることも必要です。
それは卑怯ではありません。
出来ないことを偽善ですることの方が卑怯に成る事もあるのです。

自分に正直で恥じないように親切と優しさが行えれば良いのです。

 

評価

 

悩みの多くは他者からの評価を過敏に反応するところにある。
良き評価によって向上心がうまれることは確かであるが、
その反面、悪い評価によって劣等感を植え付けられることも確かである。

地位や学識や容姿などの評価に揺れ動かされることなく、
高い志を持ち続けることがもっとも重要である。

いち早く自分の目指すところ 心の向かうところを確立すべきである。

 
「評価」

他人の評価なんて気にしないで良い
自分の評価だけで十分
善か悪か 美か醜か 良か不良か 快か不快か
自分だけで評価をすれば良い

自分は自分の道だけを歩めばよい
他人から評価されて一喜一憂する事は無い
知か愚か 才か鈍か 明か暗か 富か貧か
自分で答えを出せば良い

 大自然は評価を望まない
山も川も 森も平野も 谷も丘も 滝も海も
存在するだけで 要求などしない
生きる物と共に穏やかな調和を望んでいる
天地自然は決して誇らない 

歴史も評価を望んでいない
過去の事実として判断をすれば良い
利の為に歪曲した歴史を受け入れず
己の私感を挟み込む必要も無い 

貴方に思想と情熱と行動力があれば
貧しくても清潔で理性があれば
貴方自身が周りに迷惑をかけなければ
それだけで良い 

他人の評価に惑わされずに
自分の評価を信じれば良い
決して他人を評価せず

求められても答える必要は無い 

「漫述」

謗(そし)る者は 汝(なんじ)の謗るに任す
嗤(わら)う者は 汝の嗤うに任す
天公 本 我を知る
他人の知るを 覓(もと)めず

(佐久間象山)

江戸末期に大儒と言われた佐藤一斉がいた。
佐久間象山は佐藤一斉に学び、吉田松陰・勝海舟・坂本竜馬は佐久間象山に学んだ。

毀誉褒貶は他人の主張、
行藏は我に存す。
我に関せず、我に関わらず。

(勝海舟)

私はみずからの正しいと思う信念を貫く。
自分の出処進退は自分が決める。

他人からの毀誉褒貶(きよほうへん)があろうとも、
それらには一切左右されない。

それは、それぞれの人の勝手な言い分に過ぎないからである。
批判したくば、どうぞ、ご自由にして下さい。私には関係ない。
と勝海舟は述べている。

又、孟子とならべ比べられる筍子は、自身の箚記の中でこう述べている。

(荀子箚記)
人を貴ぶことはできても、
自分を貴ぶように人を強制は出来ない。

人を信じることはできても、
自分を信じるように人を強制することは出来ない。

人をうまく使うことは出来ても、
自分をうまく使うように人を強制することは出来ない。

君子は、自分が善良でないこと、誠実でないこと、
有能でないことを恥づかしく思う。

しかし、人からどう思われようが、
そのようなことは恥とは思わない。

そう、この世の中で、唯一、
自分の力だけで改善できるものは自分自身である。

(荀子)とは、

孟子が性善説ならば筍子は性悪説として対比される。
筍子は人間の本性とは欲望的存在であるが、学問や礼儀という「偽」(こしらえるもの、人為の意)を
後天的に身に付けることによって公共善に向かう事ができると主張する。

孟子が人間の主体的な努力によって、社会全体まで統治できるという楽観的な
人間中心主義に終始したのに対して、筍子は君主がまず社会に制度を制定して、
型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。

孟子の考えが後世に朱子学として伝わり、筍子の考えが法家思想として伝わった。
 

誰しもが強靭な精神力を持つ必要は無いが、
他人に影響されない自分自身を作る必要はある。

世間一般の強制された価値観に翻弄されることもなく、
ただひたすら自分に恥じない自分を確立することである。 

評価を捨て去る事は自己確立のために必要である。