教えには三つの段階がある。
第一の心教は別段の方法手段をとらず師によって自然に教化することである。
第二の躬教は師の行為の跡を真似させる教えである。
第三の言教は師が言葉で説き諭して導く教えで、言葉を方法としている。
「言志四録」佐藤一斉著/川上正光全訳注
山本五十六元帥の言葉にも、
「やって見せ、言って聞かせて、させて見て、ほめてやらねば、人は動かじ」というのがあります。
師が行動を見せて自然に教化する。その後言葉を通じて導き真似をさせる。
最後に良き個所を見つけて褒めてやり自信を付けさせる。
リーダーたるべき人が必ず教化の方法として行わなければならない原則である。
奈良県、法隆寺金堂、法輪寺三十塔、薬師寺金堂などを手掛けた
最後の宮大工西岡常一は「徒弟制と教育」のなかで、
弟子の教育についてこのように言っている。
棟梁が弟子を育てるときにすることは、一緒に飯を食って一緒に生活をし、
見本を示すだけです。
道具を見てやり、砥ぎ方を教え、こないやるんやいうようなことは一切しませんのや。
「こないふうに削れるように研いでみなさい」とやってみせるだけですな。
弟子になるようなものには大工になろうという気持ちがありますのや。
ただその上に何か教えてもらおうという衣みたいなもので覆われていますが、
それが邪魔ですな。まず、生活しているうちに自分でこの衣を解かないけません。
これは私が解いてやるなやなくて、弟子が自分で解くんです。
また自分で解く心構えがないと、ものは伝わりませんな。
ですから弟子に来たからというて手取り足取りして教えることはありませんのや。
見本を見せた後はその人の能力です。いかにどんなにしたところで、
その人の能力以上のことはできまへんからな。
親方の背中を見て学ぶことを「暗黙知」と言います。
ハンガリー出身のマイケルポランニーも「暗黙知の次元」でこのように言っています。
観察者は、外部から行為者の諸動作の中へ内在化しようとして、
その諸動作を相互に関連づけようと努めることになる。
観察者は、行為者の動作を内面化することによって、その動作の中へ内在化するのだ。
こうした探索的な内在化を繰り返しながら、弟子は師匠の技術の感触を我がものとし、
その良きライバルとなるべく腕を磨いて行くのである。
始めから言葉で教えると頭では理解できても身体がついていかない。
動作を見せる事で観察力を高めさせて想像させることが重要である。
その後一定の水準に達した時に初めて理屈・理論を教える。
教育とは一方的に学問を教える事では無く、
その教育によって何が出来るかを教えるべきである。
しかし、そこに生徒たちの個性があることも忘れてはならない。
「夫(そ)れ学は通の為に非ざるなり。窮して苦しまず。
憂へて意(こころ)衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑はざるが為なり。」「荀子」
我々は物知りになるために学ぶのではない。窮地に陥っても苦しむことがなく、
不安におののいて意気消沈しないためである。こうすればああなると、
禍福の始まりや行く末を知って、心が迷わないためである。
「安岡正篤人生を変える言葉・古典の活学」神渡良平より
教える方も学ぶ方も心して記憶にとどめたい珠玉の言葉たちである。
11月 7th,2015
恩学 |
教えに三あり はコメントを受け付けていません
才能があるのに活かしきれない人がいる。
実力があるのに発揮できない人がいる。
経験を積んでいるのに失敗を繰り返す人がいる。
その原因は幼児期の精神的トラウマに起因する事が多い。
常日頃から執拗に両親から「頑張れ」と言われ続け、
上位に立たなければ許されないような環境で育つと、
肝心なところで才能も実力も発揮する事が出来なくなる。
ましてや失敗でもすると強く叱責されるので行動が臆病になり、
精神的敗北者となってしまう。
その上「恥」という気持ちが行動に対して最大のブレーキとなり、
いくら練習を積んでも良きデーターとして身体に蓄積されない。
その為に同じ過ちを繰り返してしまう。
いつまでも自分の未熟さを嘆き、
他人を恨んだりしていると負の連鎖は止まらなくなる。
その負の連鎖を止める為には、先ず自分の性格を変えなければならない。
それは「五つのあせかきな」である。
勝負を焦らないようにする。
自分を責めないようにする。
情熱を隠さないようにする。
笑顔を消さないようにする。
結果を嘆かないようにする。
この「五つのあせかきな」を実行する事である。
成功なんて運が良ければ叶うと安易に思わないことです。
自分の努力を信じて全力を尽くすだけなのです。
その結果として望むのは順位では無くて実績なのです。
幼児期のトラウマをはねのけて実力を信じるのです。
今自分に何が必要か言葉に出してみて下さい。
自分の行動をサポートしてくれる人を探してみて下さい。
応援者は必ずいます。伴走してくれる人はいるのです。
あなた自身が自分の弱い所を一番知っているはずです。
その弱い所をおおい隠すのではなく強いところを伸ばすのです。
そうすると自然に・・・・・
太陽の光(勝のエネルギー)があなたに当たるようになります。
あなたが明るく輝けば人が集まってくるのです。
挫折は成功への階段だと思えば気持ちが楽になります。
努力には他人の評価等必要ないのです。
複雑に考えるのではなくシンプルに考えれば良いのです。
その結果、日々精進する事によって才能は開花するのです。
成功するイメージを強く持てば実力は発揮できるのです
失敗を繰り返す事によって経験は活かされるのです。
過去にとらわれることなく今に全力を費やすことです。
心の鎖を切り離すことです。
2月 1st,2015
恩学 |
何故この人は成功しないのだろう はコメントを受け付けていません
2007年スタンフォード大学卒業式記念講演
アップルCEOスティーブジョブス
あなたの時間は限られています。
無駄に他人の人生を生きないこと。
ドグマに囚われないで下さい。
それは他人の考えに付き合った結果に過ぎません。
他人の雑音で心の声が掻き消されない様にして下さい。
そしてもっとも大事なのは、
自分の直感に従う勇気を持つことです。
直感とはあなたの本当に求めることを分かっているのです。
それ以外は二の次です。
「Stay hungry・Stay foolish」
いつもハングリーでいることといつも馬鹿でいること。
笑い者になることを恐れていては、新しい時代を作ることが出来ないのです。
過去のドグマ(教義)や他人の人生に従っても何も変わりません。
自分が何をしたいのか、叶えたい夢は何かを知り、全うすることが重要です。
もっとも大切なことは自分の直感を信じて自分の道を探し出すことです。
自分の直感が一番自分のやるべきことを知っているのです。
自分のやるべきことを知らないという事は不幸だということです。
だから自分の人生や仕事を愛せないのは不幸なのです。
愛せない人生や仕事からはさっさと離れるべきです。
他人からレールをひかれた人生や仕事ほどつまらないものはないからです。
愛せないものを愛そうとするから愛せないのです。
愛は直感の中から生まれるのです。
そして無限大の想像力の中で愛は育まれるのです。
馬鹿の様でも貪欲に生きることが成功の引き金になるのです。
何事も無理だと思うから失敗が続き臆病になるのです。
自分を信じて挫折を恐れなければ失敗の中から奇跡が起こるのです。
その奇跡が現実を夢に変えるのです。
夢は見るものではなく叶えるものなのです。
だから馬鹿にされることを恐れる必要はないのです。
いつの時代でも多くの科学者や芸術家は変人だと笑われて来たのです。
理解者が少なくても夢をハッキリと見るから未来を作ることが出来るのです。
そして自分を信じている者は孤独に耐え抜いて行かなければならないのです。
誹謗中傷を恐れずに自分の意思を貫き通さなければならないからです。
スティーブジョブスはそれらを乗り越えて世界に奇跡を起こしたのです。
彼失くしては現在の「通信革命」は起こらなかったでしょう。
「Stay hungry Stay foolish」だからできた偉業です。
2月 1st,2015
恩学 |
Stay Hungry ・Stay Foolish はコメントを受け付けていません
人には大切にしなければならない心の持ち方があります。
心の持ち方ひとつで自分の生き方を成功に導くことが出来るのです。
心の持ち方とは誰もが持っていて大人になると失うものです。
それは何事に対しても自分を信じることのできる「自信」です。
子供は知識も経験が無くても溌剌としているのは「失敗」ということを知らないからです。
人は恐れを知らなければどの様な物事も前向きにとらえることが出来るのです。
成功する人は子供のような「自信」の塊をたくさん持っているのです。
失敗する人は「自信」じゃなくて「過信」を余分に持っているのです。
知識から来る「過信」はとても挫折に弱いのです。
「自信」は他人と比べる必要はありません。
自分の心と向き合って正直に生きれば自然に「自信」は付くのです。
「自信」を持っている人の特徴はこのようなものがあります。
遠くを見つめる目、歩き方、しゃべるテンポ、語り口調、
夢に対する情熱、真っすぐなこころ、礼儀正しさ、
感謝の気持ち、前向きで明るいこと等が表現や言動に現れているのです。
「自信」にあふれ上昇志向を持っている人は困難と失敗を恐れません。
逆に自信がない人は依存度が高く現状に甘んじてしまうのです。
自信は前向きに生きる為に必要なエネルギーなのです。
その「自信」とは「自愛」と「自覚」と「自立」のから生まれます。
「自愛」とは、自らその身を大切にすること。品行を慎むことです。
「自覚」とは、自己の位置、能力、価値、義務、使命などを知ることです。
「自立」とは、自分の力で身を立てることです。他人の援助や支配をうけないことです。
音楽プロデューサーを長年務めていると人を見分ける術が付きます。
例えばオーディションの時にドアを開けた時点でスターになる人が分かるのです。
1)立ち振る舞いが謙虚な人
2)どのような服装でも清潔にしている人
3)言葉が少なくても礼儀を知っている人
4)能力や経験を自慢しない謙虚な人
5)自分の立場を知り周りの人に気遣いが出来る人
6)目標と目的が明確に理解できている人
オーディションを受ける人は最初の登場で判断されます。
その一瞬で審査員の心を虜にしなければなりません。
その上に音楽的技術が高くなければなりません。
アーティストの「自信」は有名な学校を出たり、コンテストでグランプリを取ったり、
才能や容姿が端麗だけで、生まれるものではありません。
日頃から学習や鍛錬を怠らず、礼儀や身だしなみを整いておくことです。
当たり前の事が当たり前に出来る事が重要なのです。
また「自信」を持っている人は堂々として強い人だと限りません。
逆に繊細で臆病な人ほど「自信」を持っている場合もあります。
「自信」を継続的に維持する為には自分に厳しく甘えの心を失くすことです。
その「自信」を地位や名声や報酬の為に使うのではなく、
世の中に貢献する目的で使える人がスターになるのです。
そして「自信」とともに絶対的に必要なのが「情熱」なのです。
おおくの人を熱くする能力が無ければなりません。
成功する人はこの二つを兼ね備えている人なのです。
2月 1st,2015
恩学 |
一瞬でわかる成功する人 はコメントを受け付けていません
たった一日でも自分自身の時間を作る事は出来ますか?
自分の人生を考えるだけの時間です。
おおいなる大自然の中で哲学書を読み「使命」だけを考える。
森や山や湖や川を巡って湧きあがるエネルギーを身体に吸収する。
満点の星が輝く大宇宙から自分を見つめる。
与えられた70年の人生をどのように使いきることが出来るか。
恐れることは無い、不安等一切無い、孤独に耐えながら運命を甘受する。
先人の言葉を学びながら何が実行できるかを考えてみる。
古書に親しみ日本人であることの「一片の独立心」を確認する。
宮沢賢二「雨ニモマケズ」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
宮沢賢二の作品にはこの詩のように自己完成を求め自分に納得をもたらす笑いが多い。
それは悟りに通じる深い意味を含んだ笑いである。笑い声にならない笑いである。
賢二の描く笑いは汚れたこの世界を生きなければならない衆生が、
心を救われたと感じたときにこぼれる表情なのかもしれない。
賢二は人間も生きとし生ける命のほんの一部であり、
自然界の一存在としてか捉えていない。人間だけの世界に閉じこもったのではない。
人間はこの世界を、すべての動物と、すべての植物と共有していると信じた。
あらゆるものが共生しているとことを疑わなかった。「謝謝宮沢賢二」王敏より
他者から与えられた事を素直に応じるだけでは無く考える事が大切である。
社会の通念に従い問題を起こさないことが正しいなんて成長の役には立たない。
自分の直感を信じて素直に行動を起こすことが最も重要である。
それらを求める心が哲学の道になるのである。
丸山眞男・小林秀雄・加藤周一・西田幾多郎を座右の書として楽しみ、
人生の始まりから人生の終わりまでを思索して欲しい。
たった一日でも自分自身の時間を作る事は出来ますか?
自分の人生を考えるだけの時間です。
1月 10th,2015
恩学 |
哲学の一日 はコメントを受け付けていません
車道に出て手を上げればタクシーは停まる。
フォークとナイフをもてば食事は出来る。
ポケットに小銭があればジュースは飲める。
携帯電話からでも音楽は聞ける。
それなのに、
乗るタクシーの運転手が良い人か悪い人なんか考える必要はない。
出されたフォークやナイフの素材が気になっても仕方ないことである。
買ったジュースの成分が人体に及ぼす害なんか考える必要はない。
最新の携帯の音が良いとか悪いとかどうでも良いことである。
具体的に必要なものを、必要な部分だけ利用すれば良いのである。
いつも不必要な情報に惑わされて不安にかられる必要がどこにあるのか。
今、何をするために、何が必要で、何があるか、だけを考えて動けば良いのである。
暇な学者が無駄な知識を振りかざして価値の無い正論を吐く。
暇な医者が健康な人に嘘の情報を流して不安をあおり惑わせる。
暇な都会人が安全な場所から平和や原発反対を叫ぶ。
それらをマスコミが取り上げて事件のように報道するから誤解が始まる。
時代の先を読むことは政治家よりも科学者や哲学者に任せれば良い。
病気になればなった時に医者に頼るしか無く、
犯罪が起こればその時は警察に頼めば良いのである。
わざわざ悩みの種を見つけ出して取り越し苦労をする必要はないのである。
それよりも我々は日々正しく「生きる」ことを考えなければならない。
正しく生きるとは欲に囚われずに自分の「使命」を全うする事である。
使命とはこの世の中で何が自分にできるかを熟慮して貫くことである。
たんに収入を得る為の労働は使命ではない。
労働で得た技術を世の中の役に立つように使う事が使命である。
貪欲・瞋恚・愚痴の三毒に犯されて地位や名誉や財産だけを手に入れようとせず、
今の自分の立ち位置を明確にして人としての「志」の道筋を作らなければならない。
その「志」を失わない為にも金言を胸に秘めなければならない。
坂村真民「鳥は飛ばねばならぬ」
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ
怒とうの海を
飛びゆく鳥のように
人は混沌の世に
生きねばならぬ
鳥は本能的に
暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを
知っている
そのように人も
一寸先は
闇では無く
光であることを
知らねばならぬ
新しい年を迎えた日の朝
わたしに与えられた命題
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ
人間も鳥も厳しい現実を知りどの様な状況も乗り越えなければならない。
混乱の先には闇では無く光があることを知り希望を持たねばならぬ。
画一された社会の中で生きる原理原則を知っていれば動揺などする事はない。
生老病死の四苦を身にまとい一生過ごすのである。
余分な知識でじたばたしても何も始まらない。
他人の情報で惑わされても何も起こらない。
シンプルに人生を組み立てれば悩みなど起こらないのである。
原理原則を知っていれば少しの風にも揺れ動かないのである。
少しの風、それが貴方を惑わす余分な知識なのです。
1月 8th,2015
恩学 |
余分な知識Ⅱ はコメントを受け付けていません
音楽の勉強をする。
楽典に始まり、作曲の方法、楽器の練習、表現方法、録音技術まで学んで卒業をする。
しかし全て知識として音の事を学ぶのだが音を楽しむ方法は教えてもらえない。
技術を高める事だけに集中して、聞く側の心理を学ばないからである。
聞く側はその時々の感性で音を楽しんでいる事を知らねばならない。
音楽のプロになる。
演奏家として作曲家として歌手として学んだことが実践に役立たない。
正しいと言われた事を忠実に守っているのだが誰も振り向かない。
音の組み立て方が悪いのか音の質が悪いのか答えが見つからない。
自分の主張だけに意識が集中して他人の気持ちから外れるからである。
知識の使い方に囚われる。
一流の音楽家の書物を読み漁って勉強をするが成果がみられない。
どのような知識も無駄では無いが知識を盲信するから無駄になる。
一つの方向に進むべきことが決まったら不要な知識は捨てるべきなのだ。
感動させることが出来ないのは余分な知識が行く手を遮るからである。
音楽を紹介する。
表現する音楽は好きな音楽か・良い音楽か・売れる音楽かを知る事である。
選んだ音楽の方向性が決まったら、それに沿って修練しなければ成果は得られない。
好きな音楽は趣味で楽しめば良いのである。
良い音楽はひたすら技術の習得に励めば良いのである。
売れる音楽は聴衆の心を知り尽くせば良いのである。
しかし一度に三つのカテゴリーを手に入れる事は不可能である。
知識の使い方
いつも悩みを抱えている人は知識から必要な道具を取り出せない人である。
大きな道具箱を抱えていても必要な道具を取り出せなければ道具箱は無用の長物である。
目的に応じた決断と選択が必要である。
その時(Time)に合わせた、その場所(Place)を見て、その目的(Object)を理解しなければならない。
それが物事を考える上での基本であるTPOである。
完璧な譜面を書いたとしても熟練した演奏家がいなければ再現は出来ない。
演奏する会場のコンディションを知らなければ聴衆を感動させることが出来ない。
会場に優秀なスタッフがいなければ運営を任せることは出来ない。
演奏家はそのような無駄な道具を幾ら取り出しても意味がないことを知るべきである。
絶対に必要な事は自分の演奏力から生まれる自信と感動を作るテクニックである。
余分な知識は一切捨て去り演奏に集中する事が重要である。
常に自分が一番必要な道具であることを認識する必要がある。
あなたは人生の道具箱から必要な道具を見つけられるタイプですか。
繁雑に取り入れた知識を整理することが出来ますか。
余分な知識は捨て去るべきなのです。
1月 5th,2015
恩学 |
余分な知識Ⅰ はコメントを受け付けていません
沈思黙考日陰から生まれ放蕩快楽は陽向から生まれる。
日本人は陰の文化を追求した世界でも稀なる唯一の民族である。
総じて東洋人は己の置かれた境遇の中に満足を求め、
現状に甘んじようとする風潮があるので、
暗いと云う事に不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、
光線が乏しいのなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、
その中に自からの美を発見する傾向がある。「陰翳礼讃」谷崎潤一郎より引用
日本人はその薄暗い暗闇から侘び寂びの精神文化を形成してきた。
徒然草の歌の中にも「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情け深し」というのがある。
満開よりも散り際の方が、晴天よりも雨雲に隠れた月の方が情緒があって素敵だという。
西洋人のようにはっきりと華やかに見えるものに価値を置くのではなく、
我々日本人はあえて見えない部分のぼんやりとした姿に風情を感じてしまう。
日本家屋において客を迎い入れる床の間の考えかたも一種独特である。
家屋の北側に面した書院の隣の陽の当らない部屋に床の間を設けて掛け軸や置物や飾り花を活ける。
しかしそれらの軸や花もそれ自体が装飾の役をしているよりも陰翳に深みを添える方が主になっている。
床の間の部屋には光を直接取り込むのではなく、
庇や障子であえて光を屈折させて取り込むのである。
その為に日本人の思考にこの様な考え方が存在する。
貧しい時の友情は長く続くが経済的に恵まれている時の友情は長く続かない。
不況の時に生まれた文化は長く続くが豊かな時に生まれた文化は長く続かない。
死を共にした仲間とは一生付き合えるが快楽だけを共にした仲間とは直ぐに縁が切れる。
貧しい時の思考は複雑に判断するが豊かな時の思考は単純に判断を下す。
全てにおいて陰翳を基準にして陰に重きを置いているかが分かる。
侘び寂び文化の第一人者は茶人千利休である。
彼はわざわざ掃き清めた庭に紅葉の木を揺らして葉を散らしてみたり、
満開に咲いた朝顔の花を全部切り取り一輪だけ床の間に活ける。
四畳半の茶室をさらに狭めて3畳・2畳にまでしてしまう。
利休は敢えて華やかさや贅沢を排除して質素簡素化に究極を求めたのである。
また茶の作法である一つの椀で飲みまわす行為は、もともと禅宗の儀式から始まった世界である。
そして茶室は禅修行者が会合して討論し黙想するための道場であった。
茶道の心髄は「美をみいださんがために美をかくす術であり、
現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である」茶の本岡倉天心より引用
現代のように長く不況が続いた時代は「陰の文化」が見直される時代でもある。
外面よりも内面、デザインより技術、集団より個人が見直され時代なのである。
この時代は陰翳と静寂を好む日本人が活躍する時代でもある。
しっかりと肝に銘じたい。
1月 4th,2015
恩学 |
陰翳礼讃 はコメントを受け付けていません
「羊年」
羊が大きいから「美」しい。
羊に我があるから「義」理である。
羊に心があるから「恙」が無い。
羊に取れたての魚で新「鮮」なもの。
羊を食べて栄「養」とする。
羊が水辺で遊ぶと「洋」行になる。
羊が言葉をつたえて「詳」細になる。
羊が祈れば吉「祥」となり福をもたらす。
羊の漢字は百以上に及びます。
羊は財産としてとても貴重な動物なのです。
そして神のお供え物としても重要な役割があったのです。
その為に漢字の語源に多く使われたのだと思います。
中国には「貝の文化」と「羊の文化」というのがあります。
伝説の王朝「殷」は都市の遺跡が発掘されたことから実在したことが確認された。
東方系の農耕民族で高度な文明を誇っていた。「殷」は山西省・河南・河北省の辺りです。
農耕民族は大地の恵みを受ける自然環境に住んでいる為に多神教になりやすい。
彼等は目に見える財貨を重んじる民でした。
まだ金属貨幣が存在しなかった当時、貨幣として「子安貝」を使用していたのです。
そこから生まれた漢字が、
賽・財・貢・貨・貧・販・貴・賃・買・資・質・賞・賭などがあります。
殷の宗教は多神教で、神々は人間的だった。酒やごちそうなど、物資的な供え物を好んだ。
殷人は自分達の王朝を「商」と呼び、自分たちのことを「商人」と自称していた。
殷王朝が周によって滅ぼされると殷人は土地を奪われ流浪の民となったのです。
いわば古代中国版ユダヤ人となったのである。
いっぽう周人の先祖は、中国西北部の遊牧民族と縁が深く、
血も気質も、遊牧民的なところがあった。「周」は現在の陝西省・西安を取り巻く周辺です。
遊牧民は荒漠たる大草原や沙漠地帯を移動して暮らす為に一神教をもちやすい。
彼等は「天」を祀る儀礼として「羊」を犠牲にして供えたのです。
そこから生まれた漢字が、
義・美・善・祥・養・儀・羨・洋・佯・姜・羔・羞・躾などがあります。
殷の神々は、酒や肉のごちそうで機嫌をとり「買収」することができたが、
周の「天」は羊を捧げるだけでは不十分だった。
善行や儀礼など、無形の「よいこと」をともなわねば「天」は嘉納してくれなかったのです。
現代中国人は太古の二つの先祖から「ホンネ」としての貝文化と、
「タテマエ」としての羊文化の両方を受け継いでいるのです。「貝と羊の中国人」加藤徹より引用
その国その土地にまつわる歴史と文化を学ぶ事により、
民族の成り立ち、思考の原理、価値基準等が分かるのではないでしょうか。
2015年が皆様に取って吉祥の年になりますよう祈ります。
1月 3rd,2015
恩学 |
羊の歌 はコメントを受け付けていません
成熟するには長い年月と、不断の努力が必要わけである。
禅僧が桃の花咲くのを見て悟りを開いたり、
竹にあたった石の音を聞いて見性悟道するのも、
その縁に至るまでの不断の修練があったからである。
人間の精神も肉体も不断の修練によって
無限に育成され成熟するものであることを知るべきである。
人間は自分の背たけ分しかものが見えないものであるが、
精神は不断の修練によって常に人が見えない世界も見えてくるのである。
「観える」ということが宗教には必要かくべからざることである。
「精出して凍る間もなく水車」という歌は、
怠情、無気力に対しての精進の必要を歌ったものである。
怠情は精神の栄養失調である。「観音経講和」鎌田茂雄
どの様なことでも一つのものを極めるにはそれ相当の時間を要します。
暗闇の中で何度も悩みながら挫折と失敗を繰り返し精根尽き果てるのです。
諦めようとした瞬間かすかに見える光に一縷の望みを託し、
雑念を振り払い不断の努力に戻るのです。
他人と同じ価値観で生きることは世相の浮き沈みに影響されてしまいます。
人は人、己は己の強い意識で無ければ修行など出来ません。
目的達成は容易に出来なくて当たり前のことだと割り切る事も大切です。
立ち止まり自問自答をするよりも精進を積み重ねることが重要なのです。
困難だと思った時点で怠情の悪魔が努力などは無駄だとささやき、
克服できると思った時点で救いの天使が笑顔で舞い降り激励してくれるのです。
毎日毎日の少しずつの修練の積み重ねが大切です。
また努力は見せるのではありません。
隠れてやる努力こそ目的達成の成就に繋がるのです。
あらゆる煩悩の欲を取り除き一心不乱に修練に励むのです。
心の解放こそが異なったものの見方と考え方と生き方を味得できるからです。
何事においても視覚的に見えているものは全体の一部でしかありません。
その奥に潜む真実を見ようとする心掛けが大切です。
表面的な文字や図式や映像のみで理解したと思うのは間違いなのです。
その表現の意図したことは何かを追求しなければなりません。
「見る」ことではなく「観る」ことを常に念頭におかなければ極める事は出来ません。
少し奥に入りそのもの自体のメッセージを聞き出すのです。
その為にも怠けずに精神と肉体の不断の努力が必要なのです。
同じことを同じように繰り返す根気も大切なのです。
そこに初めて精神的に「観える」ものが生まれて来るのです。
「精出して凍る間もなく水車」これこそが真理なのです。
1月 2nd,2015
恩学 |
精出して凍る間もなく水車 はコメントを受け付けていません