正論

 

この国では個人で正論を述べると袋叩きに合います。
特にマスコミの手のひら返しは見事です。
反論する人達の顔ぶれが酷すぎますね。
核心から逸れたレベルの低い言葉のやりとりにはうんざりです。
意味もなくヒステリックに騒ぎ立てている人たちをみるととても不愉快です。

このような人達の話し合いに巻き込まれないようにしたいものです。

 

現在、橋下徹大阪市長発言の反論で大騒ぎしている人達は、
何を理由にヒステリックになっているのかが分かりません。
戦後60年以上たっても土下座をしていなければならない日本を、
その方達はどのように思っているのでしょうか。
女性蔑視だとか男性も馬鹿にしているとか根拠も分かりません。

それらの騒ぎに追い打ちを掛けるマスコミの報道には呆れてものが言えません。
マスコミには正論がないのです。世論を煽りたてるだけなのです。

 

「女性は性の奴隷ではありません」
高級品を身にまとい厚化粧をしている女性議員達には、
底辺で暮らす女性の苦しみが分かる筈はありません。

水商売や風俗産業で働く女性は好んで働いているわけではありません。
已むに已まれぬ事情があって働いているわけです。
それを利用する男性側にも様々な事情があるのです。
一方的に性を否定する人こそが性を蔑視しているのです。

 

誰かが声を上げなければいつまでたっても解決の核心には近付きません。
橋下氏は敢えて火中の栗(従軍慰安婦)を掴んだのです。
ただ、歴史家と違って、そこに真実があったとしても、
政治家の場合は、是非論だけではなく、解決の糸口を述べなければなりません。

今回の件はそこに手落ちがあったことは確かです。

 

流れが速く波立つ川は水が清く澄んでいます。
一見穏やかに止まって見える川は水が濁って淀んでいるのです。

平和とはもの言わぬことではなく、もの言いながらつねに改正していくものです。
世界の中で温厚で怒らない日本人を演じるのはもう止めにしましょう。
自分達の国がこれほどまでに濁りきっているのが見えないのでしょうか。
子供達が誇りを持って生きていけるようにする為に正しくけじめの時なのです。

 

正論は理性で判断し主張しなければなりません。
正論を感情で表現するから問題が起きるのです。

 

激情型の石原氏と橋下氏は発言がストレートです。
いきなり棒で虫を叩き殺すタイプです。
そしてその後に自論を繰り返すのです。
母親から叱られた後に、この虫は害虫なのだと後付けの正論を言い放します。

 

正論だからいつ言っても正しいとは限りません。
正論だから発言の時期と聴き手の事情を考えなければならないのです。

 

「磁基ありといえども、時を待つに如かず」孟子
どれほど素晴らしい農機具があっても、季節外れの農作業をしたのでは、
良き収穫にはいたらないという教えです。
実力や方法が良くてもタイミングがあわなければ意味が無いと云う事です。

 

反対意見を恐れて正論を言う事はできません。
正論には異論がつきものです。
互いに主張し合うからその時代に残る正論になるのです。

 

正論にも消費期限があるのです。

 

規約&応変

 

船が沈没寸前の時に、船の安全性と規約を持ちだして来て、
約束が違う、守るべきだ、訴えるぞ、など馬鹿げたことを言う連中がいる。
緊急時の状況判断が出来ず形式通りの抗議を繰り返す連中である。

 

先般の川口順子元外相と中国要人の会談を真っ向から反対をして、
真意を確かめる事もなく辞任に追いやった民主党がまさにこれに当たる。
彼等は国益を損なう集団である。
それに同調した他党もおなじ穴のむじなである。
国会議員としての自覚もなく騒ぐだけの烏合の衆である。

 

外交には「臨機応変」が必須である。
その場の要求に相応しい判断を瞬時にしなければならないのである。
例え、今回の件が中国側から我が国に対して仕掛けた罠であろうと、

臨機に応じて変更するのは兵法の基本である。

 

敵が動いたらその狙いを察知し、接近してきたら備えを固くする。
敵が強力なら下手に出て油断をさそい、充実していたらあえて戦いを避ける。
敵が勢いに乗っていたら時間をかせぎ、嵩にかかって攻めてきたら疲れるのを待つ。
敵が無道であったらこちらは正義でこたえ、結束が固かったら策をこうじて離間をはかる。

これ等は「六韜三略」流の用兵の極意である。

 

川口元外相を問答無用で切り捨てるのは無頼の輩のすることである。
益々民主党が大嫌いになった。

国会中継において辞任に追いやった民主党の議員の発言を聴いた。
「以前、外務大臣時代の川口さんから勝手なことをするのなら、
一議員になってからしなさいと批判的な嫌みを言われた。
だからあなたも中国で好きな行動を取るのなら一議員になってからしなさい。」

これじゃ小学生のホームルームである。

 

所詮レベルの低い市民団体活動家の集まりである
言われたから言い返す。野党だからなんでも反対する。
与党議員の人格まで否定する。
このレベルの低さは騒音おばさんと何ら変わりが無い。
大音量で音を出して水を差す連中である。
国事における事の重大さが理解できない阿諛追従の輩である。
歴代党首の落ち着きの無さが全てを物語っている。

 

自民党政権を手放しで100%認める訳にはいかないが、
前政権の無能さの御蔭で安部総理が輝いて見える。

 

見えないものを見る・聞こえない音を聞く

 

この暗闇の空間にたくさんみえるものがある
この静寂の空間にたくさんきこえるおとがある

創造者は見えないものを見なければならない
また、聞こえない音を聞かなければならない

その感性を研ぎ澄ますことにより争いはなくなる

切り倒された森林 飢えで苦しむ子供達 もの言えぬ動物達
隠された世界のなかで 絶叫に近い叫び声が聞こえて来る
斧を取れ・鍬を取れ・網を張れ・筆を取れ・手をさしのべろ

今、出来ることがあるはずだ

見えない世界を切り開け 聞こえない世界を歓喜の音でうめろ
完璧なんて求めなくて良い 不完全でも参加することが大切だ

指先を汚していない奴は信じるな

目先の美しさばかり話題にする奴は本当の苦しみを知らない
口先から出る その言葉の裏を読め

共生する人々に取って一番大切な事は
相手のこころを読みとる力だ
 

好きな場所で 好きな音を聞く
青空の下で花を見ながら 小鳥たちの声を聞く
公園の様々な場所から 人々の笑い声が聞こえる
犬が吠える 転んだ子供の泣き声がする

心が健康だと 聞こえる音 すべてがエネルギーになる
そして少しだけ 昨日よりも優しくなれる

音は心の中で音楽になる

雨の日のバス停で 雨だれの音を聞く
女子高生たちの 元気な声が聞こえる
働く人達の 足早に過ぎ去る 足音が聞こえる
色とりどりの傘 水しぶきをあげる車

心が素敵だと 聞こえる音 すべてがアートになる
そして少しだけ 明日に夢を描く事ができる

音は心の中で音楽になる

 沈黙、声にならない感動は人を支え、人を動かす。
沈黙せざるを得なかったものを表現して、
形あるものにしたいという衝動は抑えるこができない。

想像から思考へ、思考から行動へ、行動から作品へ
人をより一層表現へと向かわせるものである。

沈黙せざるを得なかったものを、表現しようとするこの欲求、
この人の心にあるもの、これが人間の根源としてあるものだろう。

見えないものを見る、聞こえない音を聞く、
そして表現しなければならない衝動が芸術なのである。

 音は心の中で音楽になる。

 

惹きだしの間(ま)

 

好意を感じている人との会話で大切な事は惹きだしの間(ま)です

自分をアピールするのではなく相手の感性を惹きだす事です
早すぎる間(ま)は相手を追い込んでしまいま
遅すぎる間(ま)は相手に不信感がうまれます

丁度よい間(ま)は3秒~5秒です

和楽の奏者のやりとりに「こいあい」という言葉があります
お互いの間(ま)の取り方を表現したものです

恋と愛ではありません
漢字で書くと「乞い」と「合い」です

相手の音を乞うのです そして二つの音が合うのです
相手の間(ま)に合わせ過ぎると 自分の間(ま)の取り方が遅くなります

気持ちを引くのでは無く 気持ちを押すのです

自分の音を出して 相手と自分の微妙な間(ま)のやりとりをするのです
こいあいが熟達すると壁を挟んでも息が合うといわれます

離れた関係でも息が合うのは素晴しいですね

我々が通常使うSNSでは間(ま)を必要としません
表面上はコミュニケーションを取っているつもりでも
緊張感の無いコミュニケーションからは
信頼に対して逆効果になる場合が多いのです

間を取る必要のないコミュニケーションは事務的な伝達のみです

間の緊張感から生まれる触れ合いが感情を作りだすのです
得意な人も苦手な人もいるからコミュニケーションが必要なのです

 男女のこいあいも

恋が始まり愛がうまれるのです
恋の先に愛を求めるから嫉妬がおこり問題がおこるのです
恋をするときに相手に合わせ過ぎるから誤解が生じるのです
恋の確認をしてから少しずつ愛を育むのです

大切な人だから間(ま)が必要なのです

素敵な調和を求める時には順番を変えてはいけません

基本は変わらないのです

 

人間のタイプ

 

昨日までの話ばかりをする人は 過去に生きている人です。
昨日と今日の話をする人は 反省をしながら生きている人です。
今日の話ばかりをする人は 今を生きているだけの人です。
今日と明日の話をする人は 未来に夢を持って生きている人です。
未来の話ばかりをする人は 地に足がつかずに生きている人です。

貴方はどのタイプですか。

私は研究会やセミナーや交流会に出席する機会が多くあります。

会釈だけで終わる人、名刺を交換する人、語りかける人、じっくり話をする人など様々です。
その一瞬の触れあいでも上記のようなタイプの違いが明確に分かります。

話しかけて来る人の中には、明らかに自慢話をする人、苦労話をする人、
世の中を悪く言う人、聞いてもいないのにプライベートの話までする人がいます。

一番苦手なのが周りの参加者の品定めをする人です。

そして相手の出所・経歴・仕事内容を事細かく述べて批判をする人です。
そのようなタイプは必ず同意を求めて来ます。
「ね!そうでしょう」「知っているでしょう」「酷いらしい」など、辛辣な噂話の共犯者にしょうとする人です。

たとえお酒が入っていても、そのような話に同意をしてはなりません。

以前、この恩学でフレネミーのことを書きました。
一番の友達が一番の敵だったという話です。
この言葉は、アメリカの学園ドラマから生まれた造語です。
友達(フレンド)と敵(エネミー)を合わせた言葉です。

心許した友達が違う友達の間で、自分の秘密を暴露して笑い者にするという事です。
安心して話してしまった、日常のたわいないことから、
友達・彼氏・金銭問題までを一気に学園中に広められてしまうのです。

自分が優位に立つ為に相手の弱みをさらけだす正にフレネミーな下劣な人間なのです。

一般社会の中にもこのフレネミーは多く存在します。

笑顔で気安く近づく人には簡単に同調しない方が無難です。

そしてもう一つの言葉にイネイブラー(支え手)というのがあります。
犯罪行為などに加担する仲間(支え手)の事です。

嘘つきの周囲にいて嘘に合わせてうなずいたり・おもしろがったりするタイプです。

集団で行動する連中は必ずこのイネイブラーが盛り上げているのです。
罪の意識が薄く弱いものを標的にして悪さをする連中です。
振込詐欺や暴力事件等に多く関与しているのです。

お酒が入って遊び感覚でおもしろがっていると、あなたも知らぬ間にイネイブラーになっているかもしれません。
KYと思われても悪戯に怪しげな話に参加しない事です。

私の理想のタイプは、過去の自慢話をせずに未来の話をする事です。
勿論、空想的な理想論を語るのではなく、現実に実現出来る事を伝える事です。

大切な事は今日と明日のスケジュールが、いつでも発表出来る事です。

サミエルウルマン「青春の詩」
「年齢を重ねただけで人は老いない、理想を失う時に初めて老いがくる。
20歳の青年がやる気を失えばただの老人である。
60歳の壮年が理想に生きている時は青春真っただ中である。」

自らの進むべき道は自分の意思で決める、いかなる誘惑にも負けずに、日々を大切に過ごすことが理想です。

 

笑顔に込められた力

 

人間における感情表出の一つである「笑い」。
笑いには様々な種類があります。

赤ちゃんが初めて見せる笑いには、生後に学習するものではなく、
生まれつき備わった能力によるものだということを御存知ですか。

新生児がミルクを飲んだあとや睡眠中に笑顔を見せることは、
昔から「神様がくすぐる」などとも言われています。

またその後の発育過程では、誰かが顔を近づけると笑ったり、
特定の人や物に対する笑顔が明瞭になってきます。

こうした赤ちゃんの笑いは単に発育の指標であるばかりでなく、
周囲の人に育児の苦労を癒す重要な行動なのです。

その場の雰囲気を和ませ、関心を維持させる機能を持った生理的行動といえます。

そして成長と共に見える世界は広がり、
その中で新しい笑いの感情や文化を知っていきます。

私達はまだ言葉を持たない頃から笑顔を表現し、周りの人達との関係を自ら作って行くのです。
そこには笑顔に込められた強い力を感じます。「東京江戸博物館」

また違った意味で笑顔の力を証明する出来事をNHKスペシャルが放映していました。

イラクの治安維持にあたっていたアメリカ軍兵士がイラクの住民に取り囲まれ時です。
イラクの住民は、アメリカ軍が自分達の宗教的指導者を捕えに来たのだと勘違いをして攻撃体制を取ったのです。

その一触即発の状況になったときに、アメリカ軍の指揮官は兵士に向かって「Smile!」と命令を下したのです。
アメリカ軍の兵士達が満面の笑顔を見せると、
住民はアメリカ兵に敵意の無い事を知り、最悪な危機を回避することが出来たのです。

その指揮官は世界のあるゆる紛争の地で、
同じような状況に遭遇した時に、最も有効な手段は笑顔であると言った。

武力で威圧するよりも笑顔のコミュニケーションがより効果があるということです。

アメリカのホテルに泊まって、エレベーターで他人と乗り合わせて無言でいるということはまずない。
「Hi」「How are you」とか、とりあえず何かを言う。言わないまでも目で微笑みあったりする。

さて翻って我が日本と日本人はどうだろうか?たいていの日本人は、
エレベーターに乗ると無言で行き先階数の表示を見上げる。

さて、では、エレベーターの中で見知らぬ人と挨拶をするアメリカ人は、
とてもコミュニケーション能力が高くて、私たち日本人はコミュニケーションのないダメな民族なのだろうか。

私は、どうも、そういう話ではないような気がしている。

アメリカはそうせざるえない社会なのではないか。
多民族国家の宿命で、自分が相手に対して悪意を持っていない(好意を持っているではなく)ということを、
早い段階でわざわざ声や形にして表わさないと人間関係の中で緊張感、ストレスがたまってしまうのだ。

私たち日本人はシマ国・ムラ社会で比較的のんびり暮らしてきたので、
そういうことを声や形にして表わすのは野暮だという文化で育ってきた。平田オリザ「わかりあえないことから」

笑顔は力の無い赤ちゃんを守り、戦地で敵からの攻撃を防ぎ、
多国籍社会で安全を保証することが出来るのです。

我々日本人は信頼と思いやりで暮らす事に慣れ、
笑顔の必要性が尊ばれて来ませんでした。

現在はグローバル社会になり人種や宗教や価値観の違う人達との接触が増えて来ました。

語学よりも笑顔のコミュニケーションがどれほど役立つか再認識する時代です。

しかし笑顔を悪用する人達も大勢いるので気を付けましょう。

 

位置と尺度

 

人生に取って大切なことは、「位置」と「尺度」です。
いまの自分はどの辺りに位置しているのか、
そしていまの自分はどれほどの大きさなのかを知っておく必要があります。

現在の位置が確認できるから人格形成の励みになり前に進むことができるのです。
そして現在の尺度を知ることにより幸不幸の目安が分かり人生のバランスをとることができるのです。

多くの方の悩みの原因が、社会の中で自分の立ち位置が分からず、
また幸福なのか不幸なのかも曖昧で、日々流されて生きることに疑問が生じるからです。

一般的に自分の立ち位置の確認方法として、
新聞、ニュース、ネット上から社会的な位置、上司や同僚との話から会社内での位置、
友人や家族から知る人的交流の位置です。

勿論、学生の場合なら学業以外の活動から知る立志の位置もあります。

自分の定まった位置が分かると、話し合いで納得するのも、納得しないのも、
同意するのも、反対するのも、好きか嫌いかも、すべてその位置から答えが出て来るはずです。

しかし、第三者からの情報を取り入れ過ぎて、位置が分からない人や、
位置がブレている人は、常に他人と比較しながら判断するから悩むのです。

気を付けなければならないのは、このようなタイプの人は世の中に踊らされてしまいます。
捏造された情報に一喜一憂して自分を見失いがちです。

つまらない情報で不用意に踊らされない為にも自分の基軸(位置)をしっかりと持つべきなのです。

それでは尺度はどのようにして確認をすればよいか、
自分の能力、知識、技術、経験等を職場で又対人関係で知る方法と、
各種専門情報と照らし合わせて知る方法があります。

そのうえ多くの見識者と話し合うことから理解する方法があります。

求めようとする知識と経験、必要とされる人格、立ち向かう方向、
それらの真ん中に立ち現状を把握する事が、尺度の確認方法としてはとても大切なことです。

また位置と尺度を同時に知る方法としては旅に出る事です。
それも大自然を相手にした一人旅です。

各地の名山大川を歩く事によって、今いる位置と尺度が確認できるのです。
川を渡り、森を抜け、野山を歩く事により、万物の霊的なエネルギーを感じ、
真の目的の自立と活力に目覚めるのです。

偉大なる大自然の恩恵を受ける生物の一員として、個人の欲を満たすだけの人生では無く、
個人が他(自然・生物・人間)に役立つ人生を発見することが出来るのです。

そして旅と共に薦めるのが文化芸術に触れあう事です。

人間のもつ想像力の素晴しさに親しんで欲しいのです。
ピカソやゴーギャンやゴッホ、ベート-ベンやモーツワルトやシューベルト、
みな我々と同じ人間なのです。

彼等の芸術を生み出した能力と技術に感動して欲しいのです。

そして同じ人間でありながら、その大きな違いは何だろうと考えるべきなのです。
単に特別な才能があったから、人並み以上に苦労をしたからだけではないのです。
自分の位置と尺度を理解したうえで、その才能以上の努力があったからこそ、
素晴しい作品を生み出す事が出来たのです。

多くの成功したアーティストは言います。自分の希望する方向での苦労は苦しみではありません。
目指す方向と自分の能力が分かっているから、楽しみながら努力を続けられたのだと。

「想像力と位置」、「才能と尺度」、
一つの事に集中して日々研鑽を積み重ねて作られた作品が
万人の魂を震わせる事に成るのです。

多くの文化芸術から究極の感動を味わうべきなのです。

本当に大切なことは自分の立ち位置と尺度を知ることです。
つねに社会や組織や人間関係などから抵抗の強い力で引っ張られます。
その力に耐え忍んでこそ、自分の立ち位置が明確になるのです。

未来に向けて地位や名誉や財産を照準に置くのではなく、
今出来る行為行動に照準を合わせれば尺度も判断できるのです。

豊かさへの上昇志向を諦める事ではありません。
他人の作った高みに照準を合わせなくとも、自分に照準を合わせれば、
力量にあった目標と目的が明確になるということです。

向上心を失くすのでは無く探究心を求めよという事です。

理想を描く前に現実を確認して、自分の位置と尺度を知ることが大切です。

 

花筐(はながたみ)

 

大迹皇子(オオアトベオウジ)は皇位継承の為に上洛することとなり、
寵愛している照日の前へ文と花筐を使者を遣って届ける。

照日の前は別れを悲しみつつ文と花筐を抱いて里へ帰る。

即位して継体天皇となった皇子は、紅葉の御幸に出かけた折、
そこへ物狂いとなって侍女とともに都へあとを慕って来た照日の前が行きあう。

官人が侍女の持つ花筐を打ち落とすと、照日の前は花筐の由緒を語って
官人を非難し別れの悲しさに泣き伏すが、
継体天皇はその花筐をみて確かに照日の前に与えた物だと分かり、再び召されて都へ伴われていく。

「花筐」はお能の曲名。四番目物。狂女物。世阿弥作です。

親子の別れ、恋しい人との別れを扱った狂女物は中世の巷話が主になっているが、
本曲は古代王権の即位を扱った曲であって、他の狂女物とは趣を異にしている。

越前の味真野(あじまの)という所に男大迹皇子(オオトオウジ)と称して住んでいた時、
突然大和へ迎えられ、帝位についた。

ここに照日の前(テルヒノマエ)といって、寵愛の女性がいたが、
あわただしい出立に別れを惜しむひまもなく、日頃手なれた花筐と文を残して、
皇子は大和へと旅立った。

残された女は、哀しみのあまり狂気となり、
花筐を抱いて、侍女と二人、皇子の後を追って都へ上って行く。

ふる里は桜の盛りだったが、都へついたのは秋も半ばの頃で、
紅葉狩りに行く天皇の一行と、ある日奇しくもめぐり会う。

それというのも、花筐のえにしによるもので、
「恋しき人の手はなれしものを、形見と名づけそめしこと、この時よりぞ、はじまりける」と、
女はめでたく都に迎えられて終わる。白洲正子「古典の細道」より

ハイレゾサウンドでモーツワルトの曲をプロデュースすることになった。

何故か、モーツワルトの曲を毎日聞いていると「花にまつわる話」がとても気になり始めた。

モーツワルトの弾むような長調の曲は小鳥の声をイメージしてつくられたものが多いと聞く。
モーツワルト自身がその弾むようなピアノの音色に癒されて落ち着きを取り戻したという。

その影響か春の日の到来を待ちわびると共に川のせせらぎや鳥の鳴き声に心惹かれるものが芽生えた。

先日音楽プロデューサーの「発想力」講座を終えたばかりである。
発想力は決して学びから生まれるものでは無い。

ふとした思いつきの中からそのイメージの源流をさがすところに大きなポイントがある。
皆様は感性が大切と繰り返して言うが、感性を思いつきで止めた場合は、ただの思いつきで終わる。

思いつきを追求するから、そこにオリジナルの発想が生まれるのである。
その発想を形作る力こそが発想力なのである。

知識としてデータが豊富にあるから発想が生まれるのではなく、
発想が生まれるから知識が必要なのである。

この辺りを多くのビジネスプロデューサーとして称している方々が間違って伝えている。

真夜中に目をさまして突然花にまつわる書物をむさぼり読む。
花がいかに人間に取って大切だったかが改めて知る。

楽しくて仕方が無い。

特にお能の世界に造詣が深いかというと全くない。
「花筐」の文章を読んでいると理解より興味の方が先立つのである。

難しい見慣れない文章の先にある創造の世界がありありと浮かんでくるのである。

ここに世阿弥とシェークスピアに共通したなにかを感じる。
世阿弥は1363年~1443年に活躍をして、シェークスピアは1564年~1616年に活躍をした。

日本と英国を結ぶ接点は無かった(というよりは取れなかった時代)と思うのだが、
どちらも劇作家として人の哀しみや憎しみや嫉妬を描いて一世を風靡している。

彼らを受けいれた大衆は豊かな文化を享受していたに違いない。

暫くはモーツワルトと世阿弥とシェークスピアに嵌りそうである。

花を愛でる

 

6万年ほど昔、ネアンデルタール人が住んでいた
シャニダール(イラク)の洞窟には
花を捧げていた跡があったという。

1951年~1965年にかけて、
R・ソレッキーらはイラク北部のシャニダール洞窟で調査をしたが、
ネアンデルタール人の化石とともに8種類の花粉が発見された。

発見された花粉が現代当地において薬草として扱われていることから、
「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があった」と考えられる。

8種類の花はどのような状態で咲いていたのか興味は尽きない。

人間が定住して農耕を始めると人間の周囲に花が多く現れるようになる、
しかし原始林には花が無く、花は人類が農耕を始めてからうまれたのである。

古代の文明において、花は豊穣の概念と共に、現実を超えた、
なにか神聖で霊的なものへの「懸け橋」として広く受け止められていた。

そして男達は山や岩や大木に畏敬の念と共に超越的な力が存在すると信じて来た。

その力で守ってもらおうとする一方では、
その驚異の力をわがものに振る舞われないようにも祈って来た。

その超自然との楳介の役目を祈り人と花に託して来たのもうかがえる。

花は呪文とともに巫女的な役割も兼ねていたにちがいない。

古代人は花が自分達の気持ちを伝えてくれるような気がしていた。
つまり山や岩や大木で感じないものを、
古代人は花に感じそれゆえに花を愛でるようになったという。

大自然の中で原子の花の可憐さに魅了されていたのだろう。

日本人においてはとくに昔から歌を詠む時に「花鳥風月」をテーマにした作品が多い。

寄物陳思は恋の感情を自然のものに例えて詠うことである。

万葉集では花を愛でた歌が1500首もあることからも、
万葉の歌人たちが花をこよなく愛したのが良く分かる。

大伴坂上朗女(おおともさかうえのいらめ)の歌にこのような一首がある。
「夏の野の 繁みに咲ける姫百合の 知らぬ恋は 苦しきものそ」せつない片想いの句である。

そして昔から人は花の色香に狂うようになった。
人はなぜ花を愛でるのかは花が人に色香を教えたからである。

花の登場が農耕以後のことであるとすれば、
人が色香に狂うようになったのは農耕以後である。

色香のような、人のこころの最も奥底にある感情の琴線に触れたからこそ、
人は花を愛でるようになったのである。

花を愛でる心の在り方は、感性なのか行為なのか、
慣行なのか、花の観賞や儀礼祭典での使用は、どれも個別の文化が規定されている。

花の色や型の美しさ、かぐわしい匂い、開花してもほどなくして散る一過性、
花が人間の感性や、美意識、情念、さらには超自然的な世界との関わり方に影響を与えてきたのである。

人間が花を媒介として観念や思いを具現化し、
人と自然、人と人、人と超自然へのコミュニケーションを実現する。

花は視覚を通して言葉以上の伝達力を備えているからである。

又、花は人物を褒め称える時にも比喩として多く使われて来た。

幕末の志士、坂本竜馬を語る時にも、
「竜馬は大きな志があり、高い人間力と行動力を併せ持っていた。

その上つねに学んで自分を磨くという心構えがあった。

強いリーダーシップを持ち、理解力や説明力にも秀でていた。
いわゆる大きな志と花を愛でるやさしい心を持っていたのである。」

実際の竜馬は決してかっこ良い男ではなかった。
どちらかというと土佐弁で話し、せかせかとした醜男であった。

しかし竜馬が立ちよる場所には必ず才色兼備の女たちがいた。

その頃の竜馬は大義のために東奔西走を繰り返し身なりもかなり酷かったという。

それが女たちには一輪の凛々しい花として写ったに違いない。

竜馬は女性から愛でられていたのである。

武士の家紋にも多くの花が取り入れられている。
代表的なのは葵・菊・桐・桜・牡丹・水仙・山吹等がある。

佐賀県鍋島藩の山本常朝が書いた「葉隠」、
「武士道と云は死ぬ事と見付たり」にあるように
死の潔さが桜の花の散り際に似ているところから、
武士はこよなく桜を愛したのだと思う。

強さだけでは解決できない、心の憂いを花に託して癒されていたのであろうか。

つまり山や岩や大木で感じないものを、
人間は花に感じそれゆえに花を愛でるようになったのである。

余談であるが、はなむけの言葉というのは「馬の鼻向け」が語源で、
旅立つ人の馬の鼻が向いている方向を言う。

送る側が飾り立てて宴を催し、生と死、衆生と仏、
残る者と送る者などの立場や次元を異にする間で
贈答が行われる。

卒業のはなむけのことば、結婚式でのはなむけのことば、
転勤でのはなむけのことば、数多く花向けの言葉が使われる。

歌舞伎での「花道」はここを渡って客が贔屓の役者に花を贈ったところから来ている。
まさしく花を贈る道なのである。

芸人や力士への心掛けも「花」という表現をする。
見物の時には造花を渡して後日現金に換えて応援をしていたのである。

芸者や遊女の料金も「花代」である。

桜が満開で、闇夜の中でもそのあたりがうっすら明るいことを「花明り」という。

また色々な花を持ちよって歌を詠み合うことを「花合わせ」ともいう。

花言葉に囲まれた日本は本当に素晴しいのである。

愚痴や文句を言わずにせめて花咲く頃には「花を愛でて」のんびりしたいものである。

(今回は原稿を書くにあたり沢山の資料を引用させて頂きました。書かれた方の名前は失礼ながら割愛しております。)

 

花枯れ

 

中里恒子の「時雨の記」を読んだ。

以前から特に読みたかったのだが、
読む機会を逸した本である。

書籍紹介で内容の一文を読み、
心魅かれたのだが手に取る事は無かった。

きっと読みたくなる時期に巡り合うだろうと、
自然の成り行きに任せていたのだ。

それが満を持してやって来たのである。

読みたくなって本屋を捜し歩いた。
やっと見つけて徹夜で一通り読んだ。

気になる文章は全てポストイットをべたべたと張り付けた。

次回はポストイットの張った所を重点的に読み返す。

そして、少し時間をあけてから、読む環境を整えて
映画のように読み返す。

勿論、吉永小百合と渡鉄也で映画化された事は知っている。

しかし読書の醍醐味を味わう為に映画は決して見ない。
文字から浮かんでくる印象が、映像と違ったら、
折角の良書もお蔵入りになる事になるからである。

又、秋の夜長の読書の楽しみがひとつ増えた。

「時雨」とは過る(すぐる)ということで、突然降りだした雨の事を言う。
秋から初冬の初め頃に降ったりやんだりする雨のことだ。

万葉集の「時待ちてふりし時雨の雨止みぬ」や、
新古今和歌集の「下紅葉かつ散る山の夕時雨」がある。

女性の流す涙「袖の時雨」や「片時雨」「小夜時雨」等、
時雨には情緒ある言葉が多くある。

「時雨の記」は人生の時雨である。

男と女の時雨である。
粋な侘び寂びの恋である。

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」ではないが、
「東洋人は己れの置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、
暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方ないものとあきらめてしまい、
光線が乏しいのなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、そのなかに自らなる美を発見する。」

男女の色恋沙汰も陰影礼讃に通じるものがある。

「時雨の記」

毛氈の上に出してある茶碗や、香合や、茶入れをひと通り見て、
二つ三つ脇にどけました。

それから壬生は、「こんなもの、捨ててしまいなさいよ、」
「どうして、」「あんたがもっているには、ふさわしくない、
高いの、安いの、ということではありませんよ、僕がいやなんだ、」

「あなたのものでもあるまいし、」
「……そんなことは万万ないけれど、もしもだね、
あなたの亡(な)いあとに、誰かが、この道具を見るとしよう……
そうすると、あなたの持っているいい品まで、下(さが)る……」

多江はどきりとしました。稽古用にと、
たしかに下(くだ)らないものも幾つか数を揃え、
多江自身、気に入らないものでも、数として、ひと通りは揃えてあるのでした。

たしかに、身一つの自分が、そういう立場になったとき、
ただ数だけ揃えてあったところで、どこに執心が残ろうか。

好きなものを、二つでも、三つでも、多江らしいと言われるものを残したほうが、
どんなにか、すっきりするであろう、すぐ、それは、多江の心を波立たせました。

「ずいぶん、容赦のないことを仰言る……でも、それは、あたしも考えていました」

壬生は、笑い出して、
「そんな深刻がるには、及ばないよ、
あなたの始末は、僕が、必ずする、
僕は、あなたを残しては死なないから」
多江は、胸を突かれました。

壬生の遠慮の無い言葉に、
これが色恋沙汰というものではなかろうかというほどの、
一つの証明のような気がしました。

私の好きな道元の正法眼蔵隋文記に
「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」
花は惜しんでも散ってしまい、草は放っておいても、嫌っていても生い茂って来る。

それが「生」というものである。という言葉がある。

恋も人生も惜しまれている時が潮時なのかもしれません。

花枯れを逃して執着し過ぎると醜悪を曝す事にもなりかねません。
中里恒子さんの「時雨の記」期待通りの内容でした。

夕暮れに時雨を受けながら、人生の儚さと美しさに、乾杯で有る。