恩送り

 

恩を受けた人に直接返すのは「恩返し」。

受けた恩を直接相手に返すのではなく周りの似た誰かに送るということが「恩送り」。
その送った恩は巡り巡って恩を授けてくれた人や家族や友人に届いていく。

素晴らしい日本の風習「恩送り」の巡り合わせがたくさんの人を幸せにする。

人は誰しも心に深く刻み込まれた出来事がある。
苦しいとき、悩んでいるとき、悲しいときに、他人のさりげない言葉や行動に
救われることがある。それを「恩」と呼ぶ。
恩を感じていながら、自分に心のゆとりがなければ、その時になかなか返すことができない。

学問や芸事や職人の世界では、師匠が弟子に教え、
また弟子が後輩に教えるという暗黙知の伝承の関係があった。

そして弟子が成長して師匠になったとき、自分の師匠がすでに他界していることがある。
その時に恩返しはできない。どうするか?

今度は自分が師匠と同じように弟子を育てるのである。

それは弟子から恩返しを期待するためではなく、師匠や先輩に「恩送り」をするためだ。
そういう関係が成り立っていたから、誰しもお金がなくても強い意志と向学心さえあれば、
師匠や先輩からきわめて少ない費用で育ててもらうことができた。

もし、師匠や先輩から教えてもらい育ててもらう「教育」という環境があれば、
いやでも謙虚に学ぶという感覚が育っていくはずだ。

それが現代では希薄になっている。
これは若い世代が悪いのではない。

もうこの世にはいない大人たちが、そしていまの大人たちが、
こういう社会をつくったのだから責任はそこにある。

戦前戦後を通して「恩」について書かれた著書は多い。

江戸時代の儒者佐藤一斉「言志四録」の中に「施恩は忘れよ、受恵は忘れるな」、
与えた恩は忘れて受けた恩は忘れるなと書かれている文章がある。

私の「恩学」でも書いた「与えた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め」と同じである。

また戦後ルーズベネディクトが書いた「菊と刀」は日本人を分析した報告書である。
その中の「万分の一の恩返し」という章で、
日本人にとって恩は負債であって返済しなければならないと書かれている。

子育ては親の義務では無く子の負債として親に恩を返さなければならないのである。
子は親に一生かけて孝行することが「万分の一の恩返し」となる。
教育の中に「忠・孝・義」が存在していた時代の話である。

私のブログ「恩学」は「恩返し」を学びながら「恩送り」を実行する為に書き始めた。

病弱でいつも療養所に入り若くして亡くなった母へ。
定年退職を迎えてすぐに胃がんで亡くなった父へ。
遠足のお弁当を内緒で作ってくれた小学校の恩師へ。
イギリスへ行く旅費の足しにと給料を上乗せしてくれた親方へ。
生意気な私に仕事を教えてくれた諸先輩方々へ。

「恩送り」は私自身が数多くの人達に返せなかった恩への鎮魂歌である。
出来る時に、出来る場所で、出来る人に恩を返すことが重要だと感じている。

「恩送り」を実行すると決心してから、

お年寄りを慈しみながら見守ることが出来るようになった。
他人の幼き子を我が子のように接する事も出来るようになった。
多くの若者や母親に自分の経験や知識を無償で提供する事も出来るようになった。
困った人へ惜しみなく仲介の労も出来るようになった。

どの様な場合にでも、求めてくれる人に、求められる以上に尽くすことが、
両親に恩師に親方に諸先輩に果たせなかった「恩」に報いることだと信じている。

これからの人生において一つでも多く「恩送り」をしながら生きて行く覚悟である。

2015年元旦

 

自分の色

 

自分の色とは人格であり能力であり魅力である。

自分の色は自分が見ても分からない。
人は他人の色には優劣はつけたがるが、
自分の色にはあれこれ言い訳をして寛容すぎる。

自分の色は自分より友達を見ればすぐにわかる。

友達が善(よ)き人であれば、あなたも善き人かもしれない
友達が悪(あし)き人なら、あなたも悪き人かもしれない
友達が光り輝いていれば、あなたも光輝いているはず
友達が優しい人ならば、あなたもきっと優しいはず。

友達との会話や動作に色が付いて現れる。
互いに素敵な色を付けあって成長するのが理想である。

出会いの印象は色で判断されてしまうことが多い。
目の輝き・服装の色・言葉の選び方で判断されてしまう。

理想は自然の色だ。

自然の色とは季節や環境や目的に応じて変化する色である。

素敵な色は夢や望みが明確な時にはパステルカラーで現れる。
恋人や仕事が順調な時にはスパンコールカラーで星のように光り輝く。
体力や精神力が充実している時にはビビットカラーで情熱的である。

反対に作為的な美の色は万人から嫌われる。

若さや美しさを誇示するような色はハリウッドカラーで敬遠される。
疲れや悩みを隠す為の濃い色はトリックカラーで不自然に写る。
欲望を満たす為の虚飾の色はネオンカラーで不愉快である。

自分の色とは人格であり能力であり魅力である。
自分の色は自分が見ても分からない。
人は他人の色には優劣はつけたがるが、

自分の色にはあれこれ言い訳をして寛容すぎる。

自分の色は自分より友達を見ればすぐにわかる。
それは、その時の心の色が一番素直に色で現れるからである。

大切なことは愛と礼儀と感謝の色を忘れないことである。
利他心のおもいやりは、気品ある色の中に温かさを添えてくれる。

また茶道・華道・俳句等の教養も色に現れる。
更に言葉に出さずに凛として困難に耐え忍ぶ姿には真珠色の輝きが生まれる。

人生には様々な色合いがあるのである。

いつまでも年齢・性別・経験による色が現れると嬉しいですね。

素敵な色を身に付けましょう

変化

 

他人に変化を求めるのは簡単だが自分が変化するのは難しい。
自分は動かずに他人の変化を見ていると相手の変化に自分が変化していると錯覚する。
これは何も変わらない位置から川の流れを見つめていると起こる同じ現象である。

正法眼蔵隋問記にこう記されている。

「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。」

舟から岸を眺めていると、まるで岸が動いているように見える。
本当は舟が動いているのだが動かぬ岸が後ろへと動いていると感じてしまうのである。

岸を「世間」に、舟を「自分の位置」に例えて、世間(岸)はめまぐるしく変化し、
あたかもそれがすべて「真実」であるかの(動いている)ごとく見えるのだ。

しかし、自分の乗った舟の中に「真実」があり、万人はそれを気付かない。

「大宇宙にまたがって(乗って)生きれば、世間で受けた悩みや苦しみは、
あっという間に消え去る。」ことに気付くことなのである。

だから「世間に向けている目を、自分に向けなさい」、
「苦しんだならば、見方を変えなさい」と言っている。

世の中はめまぐるしく変化し、その変化から取り残されたくないという
敗北者の強迫観念にかられて自己を失う。

そんな人に、「生命体としての自己を見つめ直して、自己を取り戻せ」と言っている。

自分の真実に気付けば周りに影響される事も無く立ち位置が安定するのである。
それを怠るから同じ過ちを繰り返すのである。

少し知識や情報を得れば自分は賢く成ったような気がする。
その誤解の位置から判断するから周りの動きに錯覚を起こす。

尊敬できる人の側にいれば自分も尊敬に値する人間だと錯覚してしまい。
名のある会社に勤めただけで自分はエリートだと信じてしまう。

成功した友人を持つだけで自分も成功したような錯覚を起こしてしまい。
努力も無しに運命で選ばれた人間だと勘違いをしてしまう。

自分の真実を取り戻せない限り、同じことを繰り返してしまうのである。

日々家族も社会も国家も大きく変化しているのだが、
立ち止まっている自分も大きく変化しているのだと勘違いをおこす。

錯覚から目を覚まし現実に立ち位置を置くのならば身体を使わなければならない。

弱い精神力に打ち勝つには先ず身体を酷使するべきである。
自分の身体の限界を知ればやれこととやれないことが分かってくる。

やれることが分かれば周りの動きに囚われずに、
自分の立ち位置を明確に知ることが出来るのだ。

自分の変化は自分の足で一歩を踏み出す事である。

痛みの中から真実を見る目を養うべきである。

そこにしか「変化」の答えは無い。

 

素直

 

素直の「素」は模様や染色を加えない生地のままの様子。そのしろい布である。
素直の「直」は一(まっすぐ)+目で、まっすぐに一つの方向に目を向けることを示す。

自分の思い描いた目標・目的をしっかりと見据える状態である。
その素直さを持ちながら使命感を全うする心が「志」である。

素直なままの心を遮る一番の原因は「恥」である。
恥という文字は耳の軟らかさに心が寄り添っている事が表現されている。

すなわち、心が軟らかいとすぐに動揺して気持ちが折れてしまうことである。
その気持ちを強くする為にも「志」が必要なのである。

学生から社会に出て最初に感じる事は理不尽である。

上下関係だけで押しつけられる様々な要求は理屈に合わない事が多い。
その理不尽に打ち勝つ為に自分自身の高い志を持たなければならないである。

志とは使命感である。使命感とは生きている理由を知ることである。
自分の欲で生きるのではなく、他人の幸福を願って生きることである。

決して世の中に裏切られても傷つくことを恐れるな。
苦しさから逃れるために安易に妥協などするな。
つねに社会の裏切りを予測しながら逞しくつき進むのである。

「恥」に負けない為にも「誇り」を持たなければならない。

「誇り」という字は大きく足を広げて立ち、おおげさに物言うことである。
出来るか出来ないかじゃなくてやってやるという気概を持つことである。

どのような環境でも素直なままで歩き続けていて欲しい。
どのような境遇でも素直なままに受け入れて欲しい。
どのような運命でも素直なまま貫き通して欲しい。

他人と比べる価値観ではなく自分の作り出す価値観を大切にして欲しい。

純粋な思いが心なき言葉によって傷つけられても負けないで欲しい。
見えないところで泣き叫び、人前では笑顔を取り戻して平然としていてほしい。
弱い自分を守りながら歩みを止めずに前向きに歩き続けていて欲しい。

他人の誘惑や甘言に惑わされることなく心の素直なままに生きて欲しい。

「富貴はたとえば則ち春夏なり。人の心をして蕩せしむ。貧賤はたとえば即ち秋冬なり。

人の心をして粛ならすむ。故に人富貴に於いては即ち其の志を溺らし、貧賤に於いては則

ち其の志を堅うす。」佐藤一斉言志四録より

富貴よりも貧しくて辛く厳しい環境の方が志を強固にするのである。
安っぽい教義・教養で自分の求める直感を失わないで欲しい。

どんなことがあっても己の生き方を失うなよ。
真っ白な生地のままに生きろよ。

たとえそれが儚い望みであろうと心の中は「素直」で純粋であれ。

 

これだけ

 

「これだけ」

これだけ「あなたのために」だと辛くなる。

これだけ「あいしているのに」だと重くなる。

これだけ「やってあげたのに」だと怒りになる。

これだけ「がまんしたのに」だと愚痴が出る。

これだけ「きいてあげたのに」だと負担になる。

これだけ「つきあっているのに」だと煩わしくなる。

これだけ「ぎせいにしたのに」だと窮屈になる。

これだけ「まもってあげたのに」だと憂欝になる。

これだけ「おもっているのに」だと面倒になる。

これだけ「つくしているのに」だと逃げ出したくなる。

これだけの言葉が無ければ、どれほど感謝したか分からない。
これだけ、これだけ、これだけを言わなければ、「ありがとう」が言えたのに。

人は期待される事を一方的に要求されると反抗的になる。
人は自分の想いを相手の気持ちを考えずに伝えることがおおい。

やってあげたのだからこうしてほしいは逆に相手の気持ちを頑なにしてしまう。

自分の行為に見返りを求めると響く行為も響かなくなる。
あなたの純粋な想いが一つの音としたら潔癖で清廉でなければならない。

心が清くて私欲の無い音は頑な心を溶かす力とエネルギーを持っている。
素直になり無心の優しさがなければ相手の心は固いままである。

音は柔らかな壁には吸い込まれるが固い壁には跳ね返ってくる。

人の心も軟らかい時には素直に聞き入れられるが固い時には拒否される。
自分の行為に見返りを求めるとそこから信頼と愛は生まれて来ない。

あなたの気持ちを適量な音量と音質で包み込まなければ想いは伝わらないのである。

あなたのこれだけはただの我儘な要求である。

相手の中に幸福のイメージを作ることが出来なければ笑顔は生まれないのである。
相手を束縛と拘束で縛るのは人間関係においてやってはいけない行為である。

美しいメロディーには美しいポエムが必要であるように、
美しい行為には美しい心が必要である。

 

戦争と音楽

 

戦いの中で音楽は必要だろうか。

殺意が生まれた中で音楽は必要だろうか。

略奪と破壊行為の中で音楽は必要だろうか。

武器を捨て音楽で戦う事はできないのだろうか。

破壊行為の中で音楽は無力だが、創造行為の中では音楽は有力となる。

疲弊しきった精神には音楽が必要である。
悲しみで傷ついた心には音楽が必要である。
平和と自由を求める時には音楽が必要である。

水と空気と同じように取りこまなければならないのは音楽である。

国や民衆は追いつめられると必ず武器を取り戦う。
その中でいつも犠牲になるのが武器を取らない女性や子供と老人です。

自分達を守るための武器が身近な家族を犠牲にしてしまう。
同時に平和と自由を叫びながら相手国の家族も犠牲にしてしまうのです。

戦争は未来を作る子供たちから夢や希望を奪ってしまう。
戦争は子供達の心に深い影を落とし笑顔を奪ってしまうのです。

相手国の宗教や国家を非難すればそこには争いだけが残ってしまう。
両国に復讐心が芽生えれば民族間の争いは止めどもなく連鎖し続けるのです。

世界中の誰もが平和に生きる権利を与えられているのに権力者はそれを奪ってしまう。
国も権力者も生きる以上の富と欲を求めるから争いが始まるのだ。

一旦戦争がはじまると人々は信じあうことが疎かになり憎しみだけを増幅させる。

悲しみの中で際限なく相手国に略奪と強姦と殺戮を繰り返すことになる。
泣き叫ぶ女性や子供や老人の声が砲弾の音にかき消されてしまうのです。

いくら平和と自由の戦いであってもそこに音楽の入り込む余地は無い。

世界中で戦争が起こる度にジョン・レノンの「イマジン」が流れる。
人々は「イマジン」に本当の答えを求めるからである。

♪想像してごらん、国なんて無いんだと

♪そんなに難しくないでしょう?

♪殺す理由も死ぬ理由も無く

♪そして宗教も無い

♪さあ想像してごらん、

♪みんながただ平和に生きているって

皮肉にも平和主義であったジョン・レノンは1980年NYで銃弾に倒れる。
しかしこの歌が世界平和の象徴として永遠に受け継がれることは間違いない。

戦争前の不安と戦争中の狂気、ここに音楽が流れても無力です。

しかし戦争後の希望を創造するには音楽は絶対に必要です。

 

人生の扉

 

扉の向こうにはいくつもの新しい出会いがある。
夢と希望と輝きと笑顔と喜びに満ち溢れた世界がある。

臆病者はその扉を塞いで奇跡のような出会いに目を閉じる。
小心者は扉の向こうから聞こえる物音に不安を感じて鍵を掛ける。

勇気を持って扉を開け未知の世界に踏みこまなければ変化は訪れない。

扉の向こうにはさまざまな出来事が存在する。
恐れずに飛び込めば真実をそこで発見する事も出来る。

妄想に囚われて恐怖の鎧を身にまとい逃げ惑うのは意味が無い。

人間関係も出会いの入り口と信頼の扉がある。
出会いの入り口で大勢の人と知り合っても変化は訪れない。

その扉を開けて入らなければ相手の心の中など、
決して触れる事は出来ないからである。

出会いの入り口でいくら幸福を想像しても喜びは実感できないのである。
お互いの温もりの届く距離から声を掛けなければ反応は起こらない。

人の扉を開ける鍵は自分の経験や知識から生まれて来る。
自分の経験や知識と自分の好みが加わり初めて扉を開ける鍵となるのである。

経験とは成功の称賛や失敗の侮辱や敗北の孤独である。
しかし、経験少なき人たちは今ある知識に頼るしかない。

相手の学歴・職業・容姿・言動・趣味・人脈などで判断するのである。
そのうえ個人の好みの容姿で良し悪しを決めるしかない。

人のうわさや名刺の片書きだけで扉を開けてしまうと不幸な結末に終わる事が多い。
真実を調べずに見えない人格を片書きだけで判断しては成らないのである。

自分の扉は自分の価値観で責任を持って開けるべきである。
自分の価値観が希薄な場合は先人達の教えに従うしかない。

その為に哲学がある。哲学こそが正しい水先案内をしてくれる。
哲学を知れば扉を開けることに躊躇しなくなる。
哲学とは経験から生まれる人生観・世界観で、思考全体を貫く基本的な考えである。

ニーチェやサルトル、ハイデガーやヤスパース、孔子や孟子を読み、
見識者と言われる丸山真男・小林秀夫・山本七平・松岡正剛にも馴れ親しむのである。

彼等の知識を取りこむことによって扉の鍵となる勇気が湧いて来る。

人生の扉は自動扉では無い。勝手に開いてくれないのである。
自分の力で押し開けなければならない。

扉の向こうにいくつもの新しい出会いがある。
夢と希望と輝きと笑顔と喜びに満ち溢れた世界がある。

 

三つの眼

 

上空から見下ろす鷹の様な目を持て!

リーダーとなる人間は俯瞰で物を見る訓練をしなければならない。
常に全体の状況を上から判断して指示を出さなければならないからである。
上から見れば何が重要課題で何が最優先事項かが分かる。

森や林を見る人の眼を持て!

リーダーとなる人間は現実と経験と常識からくる分析を訓練しなければならない。
常に大衆は未来の予測に対して期待と不安を感じ迷うからである。
大衆が何を求めているかを大衆と同じ目線で考える必要がある。

地上に這う虫の様な目を持て!

常にリーダーとなる人間は底辺から情報を吸い取る訓練をしなければならない。
常に危険を予測して信頼よりも猜疑心と警戒心を持つべきである。
下からの情報は決断をする時の適切な時期を教えてくれる。

 

対坐する相手に対してその能力と人柄を瞬時に読むことができるか?
書面で交わされる内容を文字だけで判断して安心できるか?
相手の駆け引きよりも先に取引で優位に勧める事ができるか?

リーダーとなる人間は三つの眼を屈指して勝利へと導かなければならない。

武田信玄<我にわからざるもの三つあり>

一つは空を翔る鷲の道
一つは地を這う蛇の道
一つは男と女の出会う道

<人生にとって幸福な音が三つある>

一つは夫が家に居て静かに本を読んでページをめくる音
一つはその傍らに妻が居て何かを作っている音
一つはその夫婦の側で子供が元気に遊び戯れている音

<概(おおむね)戦というものは>

一つは五分をもって上とし(五分は励みを生じ)
一つは七分をもって中とし(七分は怠りが生じ)
一つは十分をもって下となす(十分は驕りが生ず)

戦国の知将と言われた武田信玄ですらあらゆる事に疑問を持ち続けた。
疑問を悩みとしない為にも冷静な分析が必要である。

危険が迫った時に悩むのではなく迫る前に悩むのは正しい。
しかし、実戦の場合は日々の訓練を持って行動を成す。

常に問題のポイントに照準を縛り三つの眼で見る事によって解決の糸口が分かる。

三つの眼は思考の黄金分割である。

好きになる

 

人を好きになる理由は一つしか無い。
その人に愛を感じるからである。
人が嫌いになる理由は百ほどある。
その人の言動が気になるからである。

男は一度嫌いになった女でも再び好きになる事が出来る。
女は一度嫌いになった男は二度と好きにはならない。

一般的には好きから始まり愛が芽生える。

愛は心がつまって足もそぞろに進まないことをいう。
もどかしい心が相手の世界に立ち入る時である。

また愛は束縛と謝罪の連続である。

人を好きになると言うことは相手の人生を破壊する恐れがある。
自分の価値観を押し付けて傷つけるからである。
愛をとおして未来を約束してもそこに保証は無い。
曖昧な「幸せ」というゴールを語り合うだけである。

男は種族を守る為に女を求めるが女は家族を守る為に男を選ぶ。
男の帰るところは女で女の帰るところは自分自身である。

男達は船で旅する時に舳先に女神を飾る。
また元の場所に無事帰ることを願う為である。

女達がひとりで旅をする時は全てを置き去りにする。
もう二度と同じ場所には帰らない決心である。

若者達は人生経験の少なきなかで愛に悩み苦しむ。
未熟な愛は見た目から始まり、言葉に移行して、仕草で確認し合う。
仕草から誠意と移る中で、互いの伴侶としての確認が行われ結婚に至る。

愛は生命の内部的なる熱と力と光の源泉たることを得るのである。

男も女も愛失くしては生きていけないのである。

しかし若者達は本能的な愛と真の愛を取り違えてしまう。
本能的な愛は一瞬にして燃えるが、そこに覚悟と努力が無いから、
様々な外的に対する抵抗力が乏しいのである。
真の愛は精神生活の根底を互いに努力して作る覚悟である。
精神生活とは生活の安定であり安心を共に作らなければならないのである。

恋愛はゲームでは無い。何度もやり直しができる感覚は捨てるべきである。

人を好きになる理由は一つしか無い。
その人に愛を感じるからである。
しかしその愛が受け入れられなくても、
失恋の中で得る悲しみも大切である。

苦労

 

苦労は自分を磨いてくれる砥ぎ石だ。
まさに人間を磨いてくれる砥ぎ石なのだ。
だから苦労すればするほど人は輝く人となる。

苦労から逃れてはならない。
苦労に押しつぶされてはならない。
苦労に負けてはならない。
苦労と笑いながら戦うのだ。

そして苦労のハードルを越える度にゴールが目の前に近づいて来る。

苦労には様々な抵抗勢力となる人達が登場する。
家族や同僚や先輩や上司や友人達である。

悪意なき助言のもとで人生を翻弄されることがある。
また意図的に妨害をされて神経をすり減らす事もある。

たとえ息もできぬほど追い込まれたとしても、
恨まずに砥ぎ石となる人達に感謝すべきなのだ。

彼等がいるから強く成れるのだ。

石は激流を選べず川上からいくつもの大岩にぶつかりながら川下に下る。
果てしなく続く荒々しい流れに身をまかせながら過ごすのである。
やがて河口に辿り着く頃には角張った石も丸い石となっている。

成功者の多くは書物よりも苦労から学ぶことが多いという。

苦労を立ち塞がる壁と考えるか乗り越えなければならない試練とするか、
人それぞれだが、成功者はいたずらに悩みや痛みを増幅させることはない。
全て流れに身をまかせながら良き経験として取りこむのである。

理不尽な世の中と人間関係の摩擦の中で人格は丸くなり、
やがて泰然自若として名刀のように光り輝くのである。

名刀とは石ころのような鋼(玉鋼)を何度も叩いてできあがる。

鋼の塊を熱しては冷まし冷ましては熱する作業を繰り返す。
何度も引き延ばしては叩き、叩いては引き延ばすのである。

叩かなければ鋼は決して名刀には成らず。
叩かれて名刀になるのであれば叩かれることに感謝しなければならない。
叩いてくれるハンマーを決して憎むのでは無く感謝するのである。

名刀になれば美しさのなかに威圧感がうまれる。

名刀が完成されたとしても叩くハンマーを決して名ハンマーとは言わない。

苦労の中に登場する人達はあなたを叩くハンマーなのである。
貴方が輝く人となり評価されてもハンマー達は評価されない。

貴方の人生の前に立ち塞がる、
多くの抵抗勢力を恐れずに進んでほしい。

心身ともに叩かれても怯まないで欲しい。

希望を失わずに前向きに生きて欲しい。

苦労は自分を磨いてくれる砥ぎ石だ。
苦労すればするほど光り輝く人となる。

苦労と言われる環境では叩いてくれるハンマーには感謝しなければならない。
そこに確固たる人格が形成されるからである。